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◆◆地上戦関連
◆米軍侵攻
<アフ【ガ】ーニスタンFAQ目次

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【質問】
マスードはどのように殺害されたのか?
【回答】
2人の自爆テロリストによって命を落とした.
殆ど即死.2つの金属片が,彼の心臓に入っていたという.
犯人の内,一人は死亡,一人は生き残っていて監禁されたが,逃亡しようとして射殺されたという.
以下引用.
マスードは9月9日の午前3時まで,数人の同僚と起きていて,ペルシアの詩を朗読した.
彼が寝入って数分後,彼の秘書――ジャムシドという若者で,彼の甥であり,義弟――は北部同盟の司令官,ビスミラ・ハーンから,タリバンがシャマリ前線を攻撃したとの電話を受けた.
ジャムシドはマスードを起こし,マスードとビスミラ・ハーンは夜明けまで電話で話した.
それからマスードはベッドに戻った.
7時半頃,ジャムシドはタリバンが退却しているのを知り,伯父を9時まで寝かせておいた.
朝食後,マスードは偵察に行こうとしていたとき,9日前にパンジシール渓谷からホジャ・バウディンへやってきて,彼にインタビューするのを待っている2人のアラブ人ジャーナリストと会うことにした.
彼らはその日,ホジャ・バウディンを離れなければならないと通告していた.
アラブ人達は,ロンドンのイスラム監視センターという組織の指導者からの紹介状を持ってきた.
ジャムシドによれば,アフガン・イスラム運動創始者の一人で,現在は千人余の反タリバン戦士をパンジシールの拠点から指揮するアブドゥル・ラスル・サヤフのもとにいる男から連絡を受けたという.
ジャムシドは,アラブ人はサヤフの友達だと言われた.
私はジャムシドに,そのアラブ人達に何か異常なところはなかったかと尋ねた.当時,アフガニスタンにいるアラブ人が,アルカイダと結び付いていたからだ.
「それはなかった」と彼は言った.
そして,彼の伯父は彼らが役に立つと思った.「伯父は彼らを通して,イスラム社会に
『我々は異教徒ではない.イスラム教徒だし,ここでロシア人やイラン人を戦わせない』
と言いたかったのだ」
〔略〕
現在カブールで多言語新聞の編集者をしている痩身の若者,ファヒム・ダシュティも9月9日,ホジャ・バウディンにいた.
ダシュティは子供の頃からマスードを知っていた.
〔略〕
彼は2人のアラブ人と同じゲストハウスに滞在した.
彼の記憶では,北部同盟領でアラブ人を見るのは奇妙だったが,その2人は怪しく見えなかった.
「彼らは難民キャンプへ行き,捕虜を訪ねた.どれもジャーナリストがすることだ」
と彼は言った.
一人は片言のフランス語と英語を話し,もう一人はアラビア語だけだった.
数週間前,私はアリアナ〔映画会社〕の,マスードに関する最新の未編集フィルムを見せられた.
2人のアラブ人は幾つかのシーンに映っている.
8月に撮影したフィルムでは,彼らはブルハヌディン・ラバニにインタビューしている.
噂の記者は白い肌で,筋骨逞しく,30代半ばに見える.綺麗に髭を剃って,クルーカット.西側の服――茶色いシャツとスラックス――に眼鏡.額には丸い傷痕のような,奇妙な茶色っぽい痣が2つある.
カメラマンはこのシーンには映っていないが,後半のフィルムの中に,ゲストハウスの戸口に立つ彼の静止場面がある.
彼は背が高くて,浅黒い肌.黒いシャツを着て,憎悪と恐怖の両方が容易に想像できる表情で,カメラを睨みつけている.
アリアナ・チームはいつもマスードのインタビューを撮影していて,9月9日の正午頃,ファヒム・ダシュティと2人のアラブ人と通訳は,車でマスードの司令部にやってきた.
マスードとジャムシドは警備隊長と一緒にいて,警備隊長のオフィスがインタビューに使われていたし,北部同盟のインド駐米大使,マスード・アリリも同席した.
アハマド・シャー・マスードはソファに座り,背中の慢性の痛みを和らげてくれる整形外科用のクッションを使っていた.
彼はアラブ人達に挨拶した.
「彼は出身地を尋ねた」とダシュティは言った.「一人は,2人ともベルギー人だが,生まれはモロッコで,パキスタンからカブールへ来て,そこからホジャ・バウディンへ来た,と言った」
ハリリ大使の記憶では,マスードが,インタビューを行うアラブ人に,先に質問のリストを聞きたいと言い,男が英語でそれを読み上げたという.
ハリリがマスードのためにペルシア語に訳した.
彼は,質問が殆どオサマ・ビンラディンについてであることにかなり驚いたと言った.
例えば,
「もし権力を握ったら,オサマ・ビンラディンをどうするつもりか?」
とか,
「なぜ彼を原理主義者と呼ぶのか?」
とか.
大使は質問が偏っているのに気付いて,何と言う新聞に書くのかアラブ人に尋ねた.
「私はジャーナリストではない」と男は答えた.「イスラム監視センターから来た.
ロンドンやパリなど全世界にオフィスを持っている」
ハリリはマスードのほうを向いて囁いた.
「司令官,彼らはあの連中の手先です」
アルカイダのことだ.
マスードは頷いてそっけなく言った.
「とにかく片付けてしまおう」
アラブ人達は,マスードと自分達のカメラの間にあったテーブルと,数脚の椅子を動かした.
そのカメラは三脚の一番低い高さに設置されていた.
彼らのカメラの後ろに自分のカメラを据えていたダシュティが,逆光を調整していたとき,部屋が爆発した.
ハリリ大使は,自分のほうへ向かってくる太く青い炎を見たと言った.
「私は自分が燃えているのを感じた」
とダシュティは言った.
外へ出ると,警備隊長と共に2,3分早く部屋を出ていたジャムシドに会った.
「私を病院へ連れていってくれと頼んだら,彼がマスード氏はどこだと訊くので,中へ戻って彼を見た.
彼は全身を,顔や両手,両脚も酷くやられていた」
アフガン情報部員が最近,私に語ったところによると,マスードは30秒以内に亡くなっていたに違いない.2つの金属片が,彼の心臓に入っていた.右手の指は殆ど吹き飛ばされていた.
私は彼の遺体を見せられた.
彼の皮膚は,2,3pおきに傷口が開いていた.白いガーゼが眼窩に詰めてあった.
カメラマンのバッテリー・ベルトには爆薬が詰まっていた.
マスードが座っていたソファは丸焦げで,背もたれに穴が一つ空いていた.
アリアナのフィルムには,ストれっチャーに乗せられたカメラマンの遺体が映し出されている.両脚は焦げて血まみれ,上半身はバラバラに吹き飛ばされているようだ.
アフガンの通訳も死んだ.
〔略〕
インタビューを行ったアラブ人は爆発を生き延びて,マスードの遺体がタジキスタンへ運ばれている間,爆発が起きた近くの部屋に監禁されていた.
彼は小窓から金網を破ってくぐり抜けると,走って墓場を超え,2,300メートル先の土手へ逃げた.
地元の軍司令官の下にいた男が,後を追って殺害した.
〔略〕
マスードの暗殺者達はチュニジア人で,彼らが言っていたようなモロッコ人ではなかった.
彼らはベルギーにいて,ベルギーのパスポートとイスラム監視センター指導者,ヤシル・アル=シリの署名入り紹介状を持参していた.
パスポートのスタンプは,アラブ人達が7月25日にパキスタンのイスラマバードに到着し,そこでタリバンの大使館でヴィザを取得し,そこからカブールへ向かったことを示していた.
しかし,パスポートとヴィザは偽造だった.
暗殺者は2人とも,ジャララバードに近いアルカイダ訓練キャンプで数ヶ月暮らした.
暗殺者達は北部同盟の指導者,アブドゥル・ラスル・サラフの支援でパンジシール渓谷に入った.
8月中旬に,ソビエト軍との聖戦で共に戦ったあるエジプト人から連絡を受けた,と彼は言う.その男はボスニアから電話していると言った(アフガンの情報部員は,実はその電話はカンダハルからだと語ったけれども).
その男はサヤフに,彼やマスードやラバニ大統領にインタビューを希望している2人のアラブ人ジャーナリストへの援助を依頼した.
エンジニア・ムハンマド・アレフ(「エンジニア」とは,工学技術を研究した教養ある人を示す,アフガンのごく普通の尊称である)は,現在アフガン情報機関の責任者で,かつてはマスードの警備責任者だった.
暗殺が行われたのは彼のオフィスである.
アレフによれば,サヤフの許可があったので,アラブ人達は通常の警備手続きを免れた.
「彼らはジャーナリストとしてではなく,客としてやってきた」とアレフは言った.
「サヤフとビスミラ・ハーン」――シャマリ前線の司令官――「が部下達と彼らを乗せる車を送った.
みんなに助けられて,彼らは多くの人に会った」
〔略〕
2001年10月,イスラム監視センターのヤシル・アル=シリが,2人のアラブ人暗殺者に紹介状を用意した容疑で,ロンドンで逮捕された.
2002年4月,ニューヨークで,スタテン島在住のアメリカ郵政公社職員,アハマド・アブデル・サッタルが逮捕され,シャイフ・オマル・アブデル=ラハマンの「代理」であるとして告発された.
サッタルは90年代半ば,ニューヨークで謀議審理の間,弁護士補助員としてシャイフの下で働いた.
起訴状によると,サッタルはシャイフのために通信機器」の役目をしていた.つまり,刑務所から命令を伝えていた.
サッタルの電話は長期間傍受されていて,綿密に調べた通話の中には,彼とロンドンのヤシル・アル=シリとのやりとりが数回あった.
5月,イギリスの判事はアル=シリに対する告訴を却下した.
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.207-211 & 215-217
【質問】
北部同盟内部に,マスード暗殺を手引きした裏切り者はいたのか?
【回答】
賛否両論あり,ことにサヤフ裏切り説は比較的広く流布されているが,それを裏づける証拠はない.サヤフは灰色といったところ.
以下に賛否両論を引用する.
私はダシュティに,マスードは裏切られたと思うかと尋ねた.
「そう思う」と彼は言った.「そうでなければ不可能だった.どういうわけか,アルカイダと我々の仲間の間につながりがあるらしい」
〔略〕
ワリ〔マスードの弟〕をはじめ,私が話したアフガン人は,パキスタンもまたマスード殺害に関与していると主張した.
〔略〕
マスードと親しかった情報部員は,9月9日の夜,パキスタンの大統領ペルヴェズ・ムシャラフが暗殺を祝うパーティを開いた,と語った.彼はこの情報の出所が,ハミド・カルザイ率いるアフガニスタン暫定政府の現国防相ファヒム将軍だと言った.
私がファヒムに,そのようなパーティがあったのかと尋ねたところ,彼ははぐらかそうとした.
「たぶん」
と彼は言った.
しかし彼は,ムシャラフがその夜,ISI本部にいて,アフガニスタン北部から戻ったばかりの元ISI長官,ハミド・グルと会っていたことを確認した.
私はファヒムに,カブールで最近ムシャラフに会った時,何を感じたかと尋ねた.
彼は手を振った.
「ときにはより大きな利益のために」とファヒムは言った.「毒を一杯飲まねばならない」
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.211
「論理的に見れば」と彼〔マスードの弟,ワリ〕は言う.「彼らは11日に好きなようにやりたかったが,マスードがいないということが条件だった」
マスードを殺害した者達は,彼の死が北部同盟を崩壊させ,もし米軍がワールド・トレード・センター攻撃に報復するとしても,地上にアフガンの支持者はいない,と思った.
晩夏から初秋にかけて,前線に軍を増強したのは,つまり,マスード暗殺の準備だったのだ.
「彼らは何かを待っていた」とアフガン情報部の幹部は言った.士気を挫かれた北部同盟を壊滅させようと準備をしていた外国の軍隊が,中央アジアに侵攻してきたようだ.
その後に続く混乱の中で,オサマ・ビンラディンとタリバンに対する報復は困難だろう.
しかし公式発表は当初,マスードだけが負傷したが,北部同盟は領土を死守しているというものだった.
そしてもちろん,ムラー・オマルの電話の会話から分かるように,アメリカに対する攻撃があれほど劇的になるとは予期していなかった.
「彼らは報復を予測していた」と情報部の幹部は言った.「しかし,クリントンのような反応だと思った.ここで起きたような報復は予想しなかった」
〔略〕
暗殺者達は北部同盟の指導者,アブドゥル・ラスル・サヤフの支援でパンジシール渓谷に入った.
8月中旬に,ソビエト軍との聖戦で共に戦ったあるエジプト人から連絡を受けた,と彼は言う.その男はボスニアから電話していると言った(アフガンの情報部員は,実はその電話はカンダハルからだと語ったけれども).
その男はサヤフに,彼やマスードやラバニ大統領にインタビューを希望している2人のアラブ人ジャーナリストへの援助を依頼した.
エンジニア・ムハンマド・アレフ(「エンジニア」とは,工学技術を研究した教養ある人を示す,アフガンのごく普通の尊称である)は,現在アフガン情報機関の責任者で,かつてはマスードの警備責任者だった.
暗殺が行われたのは彼のオフィスである.
アレフによれば,サヤフの許可があったので,アラブ人達は通常の警備手続きを免れた.
「彼らはジャーナリストとしてではなく,客としてやってきた」とアレフは言った.
「サヤフとビスミラ・ハーン」――シャマリ前線の司令官――「が部下達と彼らを乗せる車を送った.
みんなに助けられて,彼らは多くの人に会った」
カルザイ暫定政府の副大臣,マウラナ・アター・ラハマン・サリムは人々から尊敬を集めるムスリム学者であり聖職者である.
彼は昨秋,ホジャ・バウディンにオフィスを持ち,暗殺の1週間前にマスードと共にパンジシール渓谷へ行った.
ラハマンは,マスードが殺されると直ちに報復の声が聞かれたという.
「誰もが言い出した.
『なぜテロリストをもっと徹底的に捜さないのか? なぜもっとよく任務を果たさないのか?』
非難は誰よりもサヤフに集まり,イランの新聞はその幾つかの疑惑を活字にした」
サヤフはイスラム原理主義者で,80年代のアフガンの聖戦の間に養成された世界のテロリスト達と親密に結びついている.
彼とラバニはカイロのアル=アズハル大学で学び,そこでムスリム同胞団の影響を受け,ともに70年代初頭にカブール大学でイスラム学科を教えた.
〔略〕
オサマ・ビンラディンは財政的にサヤフを援助し,アフガニスタンのサヤフの拠点を使用したアラブ戦士団を指揮した.
〔略〕
「ご存じの通り」と,私はサヤフに言った.「マスードの暗殺者のあなた方との関係について疑いを表明した人達がいる.彼らがあなた方を通して初めて北部同盟領に入ったからだ」
サヤフの目が細くなり,厳しく私を見つめた.
彼は私が言ったことを,英語を話さないビスミラ・ハーンに通訳し,それから私に向かって,先に会った時よりも口篭もりがちの英語で,アラブ人達が善良なイスラム教徒に見えたので彼らを入れたし,彼らの軍隊は欧米人達に汚されていないと言った.
ビスミラ・ハーンがペルシア語で話し始めて,サヤフが通訳した.
ハーンが言うには,振り返ってみると,2人のアラブ人の言動には不審なところがあったが,あの時は気付かなかった.
「今考えてみると,彼らは顎鬚を生やしていたが,最近剃ってしまったのだ.顎鬚の痕がまだ残っていた」
彼は話の意味が分かるように,両手で顎の線をなぞって見せた.
サヤフはくすくす笑って,アラブ人達は車に乗ると,いつも酷く緊張していたと言った.
「彼らが私の部下達と塹壕へ行くとすると」――シャマリ前線で――「彼らは言うのだった.
『もっとゆっくり走ってください,カメラがあるので.壊したくない』
車が走り出す前に,彼らはいつもカメラを膝に置いて,運転手に,気をつけるように言った」
私はサヤフに,そもそも2人のアラブ人はどうしてあなたのところへ来たのかと尋ねた.
彼は元聖戦士――「エジプトのアラブ人,アブ・ハニ」――からの電話について語った.
彼はボスニアにいて,サヤフにマスードにインタビューする2人のジャーナリストに手を貸して欲しいと言ってきた.
サヤフはまた,アラブ人達が来ている間に,北部同盟指導者達の会議がパンジシール渓谷で開かれたことも語った.
サヤフによれば,アラブ人達は会議室へ入ろうとしたが,警備兵に止められたと言った.
「彼らはそこで計画を遂行したかった」と彼は言った.「抵抗運動の指導者達全員を排除したかったのだ」
ビスミラ・ハーンがペルシア語で何か言うと,それをサヤフが通訳した.
サヤフがマスードとビスミラ・ハーンに,自分はアラブ人達を疑っていると言い,マスードに彼らと会わないほうがいいと警告したとのコメントである.
サヤフは,自分にできることは全てやったと両手を挙げた.
〔略〕
サヤフは興奮していた.ソファの縁に座って前屈みになった.
彼は,カブールでは,西側を訪れて見識の高いアフガン人の間でも珍しくない陰謀説を表明していた.
アメリカは侵攻を正当化して,この国を支配できるように,パキスタンと協力してタリバンやオサマ・ビンラディンを支援した.
「外国人の支援を受けた過激派は,我々を攻撃できた」とサヤフは言った.「我々は被害者だった」
彼の側近達や,パクティアから来た将軍が,頷いて同意した.
「オサマとタリバンが暗殺したのを私は知っている」とサヤフは言った.「しかし,彼らの後ろにいたのは誰だ? タリバンを助けようとしていた者全員が,暗殺の背後にいた」
〔略〕
アフガニスタンの外相アブドゥラ・アブドゥラは,大変魅力ある世慣れた男で,タリバンを敗北に導いた米軍空爆の間,北部同盟のスポークスマンとして西側のテレビでお馴染みの人物だ.
〔略〕
アブドゥラは,マスード暗殺計画にサヤフが関与していることにも懐疑的だ.
「私個人としては信じていない」と彼は言った.
サヤフは,アラブ人達がマスードに会えるようにしてやったが,これはもし彼らが間違いのない人物であれば,正当と認められるはずだ.
「彼らはジャーナリストのように振舞った」とアブドゥラは言った.「もっとも,私が会いに行ったとき,彼らは酷く無礼だったが」
これは暗殺者達がサヤフの客人だったとき,パンジシールで開かれた北部同盟指導者達の会議でのことだ.
「自己紹介すると,彼らは私に憎悪の一瞥をくれた.
そのことに気付かなかったのが悔やまれる」
マスード暗殺の企ては他にもあって,結局これが成功したのはマスードの人柄のせいだ.
彼は人に便宜を図ろうと心がけていた.
「マスード司令官は無頓着な人だった」とアブドゥラは言った.「彼はある程度の警備対策をとったが,インタビューは単独で受けるのを好んだ.
そして,彼には決して100%の安全はなかった.
私達は,あの男達が我々の領域内に滞在した3週間に,危険を見極めることができたはずだ.
でも,そうしなかった」
〔略〕
数日後,カブールで私は,ワジル・アクバル・ハーンの家に近いマスード家の邸で,ヤヒヤに会うと,彼は,アハマド・シャー・マスードの最も古く忠実なムジャヒディン幹部,アジズ・マジュロウ司令官を紹介してくれた.
〔略〕
私はアジズに,誰がマスードを殺したと思うかと尋ねた.
「テロリストであることは間違いない」と,彼は言った.タリバンとパキスタンのことだ.
「だが不幸なことに,パンジシールの州司令官達は,彼が直面していた危険に充分な注意を払わなかった.彼の護衛は万全には組織されていなかった.
我々は彼に,気をつけるよう警告していた」
暗殺者達は将校達の不注意があったから,マスードを殺すことができたのかと私はアジズに尋ねた.それとも北部同盟の内に裏切りがあったのか?
「サヤフはもちろん,酷く怪しい」と,アジズは答えた.「おそらく彼は計画を知っていた.
あるいはテロリストが何を狙っているのかを知らず,彼らに利用されたのかもしれない」
〔略〕
後刻,ビスミラ・ハーンのオフィスで,私は彼に,マスード暗殺事件で自分の役割をサヤフが釈明した,ある重要な事柄について尋ねた.
サヤフは,私や他の人達に,ビスミラ・ハーンとマスードに対して,アラブ人達は危険かもしれないし,自分は信用していないと警告したと言っている.
ビスミラ・ハーンは,サヤフはマスードに,アラブ人は「奇妙」に見えると話したにすぎないと言った.
こちらがもう一押しすると,彼は機嫌を損ね,サヤフと話すべきだと言った.
「誰が前線からカブールへ彼らを連れてきたのですか?」
と私は尋ねた.
「知らない」とビスミラ・ハーンは言った.「たぶんタリバンだろう」
アラブ人暗殺者はサヤフの家に連れていかれて,お茶を出され,カジ・カラマトゥラ・シディクという男を紹介された.
シディクはアラビア語を話し,アラブ人達がパンジシールにいる間,彼らに同行するように言われていた.
彼はムスリム学者で,ペシャワル近郊のサヤフの大学,ダワア・アル=ジハードのイスラム法学部卒業生だった.
現在は暫定政府の内閣で働いていて,私はアラブ人について彼と話した.
シディクはサヤフの忠実な部下だが,サヤフの記憶を幾つか,特に暗殺者達がパンジシールで北部同盟指導者の会議に,おそらく彼等全員を殺すため出ようとしたことについては否定した.
これは,サヤフが,彼自身も殺されていたかもしれないので,マスード殺害計画に関与していなかった証拠として,私が何度も聞いた話である.
しかしシディクに言わせると,アラブ人達は決して会議に近づかなかったという.なぜなら,サヤフが前もって彼らに許可しなかったからだ.
サヤフはそれで,アラブ人達がホジャ・バウディンでマスードにインタビューする御膳立てをしたという.
シディクはまた,サヤフがアラブ人達に対する疑いを暗殺の後まで口にしなかったとも言ったが,これがサヤフを巻き込むとは思っていなかったようだ.
「サヤフ教授とアハマド・シャー・マスードは兄弟みたいだった」とシディクは私に断言した.「マスードが亡くなったとき,サヤフ教授以上に悲しんだ人はいなかった」
陰謀説がアフガニスタンで信用されるのは,歴史的に数多くの陰謀があったからだ.
支配的な政治風土は適者生存で会って,同盟は流動的だ.
アフガンは地理的に孤立し,外国人嫌いで,長年の戦争から人を信用しない.
サヤフは暗殺に手を貸し,私が話をした,マスードに近い親戚・情報部員・軍司令官といった人達の殆どは,彼が暗殺者達の計画をはっきりとは知らないまでも,感づいていたに違いないと信じている.
しかしサヤフは,2人のアラブ人が高性能の爆発物を持って,巧妙な演出による自爆計画の下にホジャ・バウディンにやってくるのを可能にした人達の中で唯一の,おそらく最後の要となる人物であった.
例えば,暗殺後,アラブ人達の所有物から見つかったCDやノートやコーランの詩に混じって,アフガン赤新月社の社長が書いた推薦状があった(各NGOとタリバンとの間に生まれた,共謀と譲歩の文化の驚くべき文書).
マスードの暗殺者はオサマ・ビンラディンとアルカイダ,そして推論すればワールド・トレード・センター爆撃に繋がっている.
「これらの繋がりは極めて強い力だ」と,マスードの死亡捜査に近いアフガン情報部員が私に言った.「2つの事件に関係があることは,テロ組織やアフガニスタンの情報を持つ情報部の誰も疑っていない」
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.212-215 & 235-241
【質問】
アフ【ガ】ーニスタンで米特殊部隊はどんな活動をしたのか?
【回答】
元グリーン・ベレーのマーク・Wによれば以下の通り.
・FOB(前方展開作戦)を徹底し,同国の内々に入り込んだ.
FOBとは,現地に溶け込み,住民と密なコミュニケーションを取りながら,物心両面で彼らを支援して信頼を勝ち取るものであり,グリーン・ベレーが最も得意とするもの.
・ビン・ラーディン追跡とアル・カーイダ殲滅は,グリーン・ベレーがCIAと連携して行っている.現在は,グリーン・ベレーがUW(不正規戦)訓練を施した,アフガーン陸軍精鋭部隊が協力して任務に当たっている.
・デルタ・フォースやSEALsのような対テロ特殊部隊は,FOBが不得手なため,担当していない.
・バクティア州トラボラ地区での作戦は,反ターリバーン勢力を信頼しすぎたため,敵に情報が漏洩してビン・ラーディンや多数のアル・カーイダ兵の逃亡を許してしまった.
・その反省を活かし,同州ガルデス地区では少数精鋭のアフガーン人を起用し,300人以上のアル・カーイダ兵を掃討する事に成功した.その際DA(直接戦闘)を行ったのはデルタとSEALsだった.
以上,ソースは「世界の特殊部隊」(宝島社,2005/3/1),p.52-53.
ただし,迂闊に信用していいソースではなさそうなので,複数文献と比較検討されたし.
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【珍説】
ブッシュの対アフガン・テロ戦争はチグハグ.
その証拠に,ブッシュがアフガンに送り込んだ地上部隊は、NYの警官の数(約9000人)よりも少なかった。
(マイケル・ムーア「華氏911」,2004年)
【事実】
軍事に無知な人ならコロッと騙されてしまいそうなセリフですが、アフ【ガ】ーニスタン国内には大規模な軍事拠点も無ければ、クウェートやサウジアラビアの様な大兵力の展開に応じてくれる隣国もありませんでした。
こんな状況で短期間に万単位の米軍地上部隊をアフ【ガ】ーン国内に送り込むのは、兵站的に極めて困難です。
仮に無理をして兵員だけ多めにアフガンに送り込んでも、大規模な陸上・海上輸送ルートが無ければ,せっかくの大軍も補給不足で戦力を発揮できません。
それどころか,充分な後方支援や補給を受けられないまま、対テロ戦争に米軍を向かわせていれば、米兵の損害を無意味に増やす結果にしかならなかったでしょう。
「NYの警官より少ない云々」と言うのは,軍事的には全く意味の無いスリカエでしか無いのです。
【珍説】
アフ【ガ】ーニスタンではアメリカはゲリラ戦に遭い,第2のヴェトナムと化す.
【事実】
世界中のゲリラ達からゲリラ戦のバイブルとして読まれているチェ=ゲバラの『ゲリラ戦争』 (今は亡き北部同盟の英雄マスード将軍も愛読していた)の内容に照らせば,2001年10月からの米軍・北部同盟軍の攻撃に,ターリバーンが敗北した理由がよく分かる.
1.地元住民の積極的な支持と献身的協力.
2.逃亡,休養,訓練,再編成などを安全に行う後背地(聖域).
3.兵器や物資の安定供給を約束してくれる支援国家.
1980年代にソ連軍と戦ったムジャヒディン達は,航空戦力など皆無だったが,上記3原則を完全に満たした結果,見事勝利した.
21世紀にアメリカ軍と対決したターリバーンは僅かながらも航空戦力を保有していたが,上記3原則
を一つも満たせなかった結果,無様に敗北した.
今回よく引き合いに出されたベトナム戦も全く同様.
「第二のベトナム」などと安易に口にする輩を,もしボー・グエン・ザップが見たら失笑することだろう.
「我々がアメリカやフランスに勝利するためにどれだけの努力と根回しをしたか知らないのか」と.
そして現状であるが,
1 ターリバーンはパキスタンからの越境攻撃に殆ど頼っており,また,最もターリバーン支持者の多い南部パシュトゥン人地域においても,基本的にはカルザイ政権支持であることから,2003年現在,積極的支持や献身的協力をターリバーンが受けられる可能性は低い.
アフ【ガ】ーニスタン人の多くは,ターリバーンを外国人(パキスタン)勢力と見なしているという.
2においては,パキスタン過激原理主義勢力支配地域に一応の確保ができているようである.
3においては,パキスタン過激原理主義勢力のみの援助にターリバーンは頼っている.
結論として,パキスタン次第ということが言える.
また,ターリバーンが息を吹き返しているという情報もある.
しかし,アル・カーイダが主戦場をイラクに移したことで,ターリバーンにとっては痛手となっている模様だ.
息を吹き返したタリバンには,この1年で何百人もの元兵士が戻ってきているという.一度は故郷の村に帰ったものの,米軍とカルザイ政権に協力的な地方軍閥からひどく迫害されたからだと,タリバン筋は言う.
アメリカの情報当局筋も同じ見方だ.
「抑圧的で親米派の軍閥は,戦士調達の最高の機関だ」
と言うのは,かつてタリバン政権に勤めていたラフマン・ホタキ.今はワジリスタンで活動するホタキによれば
「軍閥のおかげで,故郷でぬくぬくしていた元兵士たちが,一緒に戦うために戻ってきている」.
アルカイダがイラクに行くのはタリバンにとって痛手だと,ホタキは認める.
「アルカイダの専門家,とくに爆発物や軍事技術に詳しい人間が必要だ.外国からの資金援助なしでは戦えない」
だがタリバン側の情報を信じていいなら,もはやビンラディンは彼らへの同情を失っているようだ.
宿敵ブッシュと同様,ビンラディンもまた,イラクを主戦場に選んだのだろうか.
サミ・ユサフザイ,ロン・モロー & マイケル・ハーシュ
ニューズウィーク日本版 2003年12月17日号 P.14
残党掃討戦は2005年現在も続いており,司令官クラスの戦死も伝えられている.
また,ターリバーンはアル・カーイダのように過激化して自爆テロに走っている.
以下引用.
28 Suspected Rebels Killed in Afghanistan
アフガニスタン南部の各地で戦闘があり,タリバンと思われる28人が死亡した.
来月の重要な議会選挙を前に暴力が激しくなっている.
国防省の声明によるとザブール州で14日,アフガン軍が過激派と思われるグループを攻撃し16人を殺害,1人を拘束した.
死者には地元のタリバン指揮官Mullah Nasirが含まれる.
これとは別に,多国籍軍・アフガン軍を狙った地雷を過激派が誤って起爆,過激派1人が死亡,1人が負傷した.
同日,隣接するウルズガン州Dehrawud地区では,アフガン兵と過激派の銃撃戦で過激派5人が死亡した.
州知事によると,隣りの地区TirinKotでは,警察が高速道路の検問所を攻撃したゲリラと思われる6人を追跡し殺害した.
また,同地域の掃討で,過激派とされる9人が拘束された.
何れの戦闘でも治安部隊に被害はなかった.(以下略)
【質問】
タロカンはなぜ陥落したのか?
【回答】
タロカンのターリバーン側司令官が空爆後,北部同盟側に寝返ったためという.
以下引用.
「私はパキスタンのマドラサで学んでいた」
と,疲れたような甲高い声だった.
「そして,タリバンが結成されると,それに加わり,彼らと一緒に,溢れんばかりの純粋なイスラム精神でアフガニスタンにやってきた.
当初,私達が抱いたこの精神は素晴らしいものだったが,最近になって,タリバン司令官の中には,私が疑問を感じ始めた者もいる」――彼は暗にビンラディンの外国人部隊のことを言っていた.――
「それから,アハマド・シャー・マスードが巡視し,外部からの干渉やテロリストがこの動きに関わっているのに私達は気付いた.
だから,祖国のために北部同盟につくことを決めた」
彼と部下の2人の指揮官――2人は同席していて,彼がそう言ったとき,私に頷いてみせた――と5,600人の戦士がタロカンに残り,ダウド〔北部同盟側司令官.タロカン再占拠を指揮〕に寝返った.
タリバン残党はクンドゥズに退却した.
シャビル・アハマドの話では,彼は町の安全を確保するために残留,自らダウドを訪ねて,タロカンに入る道は安全だと彼に告げた.
それが北部同盟のタロカン奪回の顛末であった.
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.99-100
【珍説】
カーブルで大規模な市街戦が起こらなかったのは,市民に被害が及ばないようにと,ターリバーンが自主的に撤退したもの.
【事実】
ターリバーンの潰走であったことは,カーブルで取材していたジャーナリストが証言している.http://www.mvision-italy.com/report/afghan/afghan7.htm
それは何故か?
マスード暗殺直後,ターリバーンの部隊が北部同盟支配地に侵攻している.
普通に考えれば主力部隊を最前線に出すのが普通.最前線以外には予備兵を置く.
では最前線はどこか?
最近のターリバーン側の攻勢はクンドゥス方面からの攻撃が多かった.
故にクンドゥスとその後方のマザリシャリフに主力部隊を揃えていたと見る.
米軍の空爆と,それに先立つ北部同盟の攻勢が始まってからは,わざわざ兵をいれかえる余裕は無かっただろう.道路を移動すれば,いい標的となって,それだけで壊滅する危険性が高いからである.
故にターリバーンの主力部隊はこの北部部隊だったと推測される.
そのため,主力部隊はマザリシャリフ陥落により孤立.
カーブルには義勇兵や錬度の低い兵隊しか居なかったから,あっさり敗走した,ということであろう.
要するに,ターリバーンの完全な戦略ミス.
【珍説】
「ウズベキスタン側国境の町テルメズの西側政府関係者はマザリシャリフで10日夕,同市に進攻した北部同盟によって,ターリバーン側の600人以上の少年兵が処刑された,との情報を明らかにした.
少年兵の多くは17〜18歳とみられるが,処刑の詳細は明らかでない.『兵士は若く,戦闘中ではなかった』という」
このニュースから見ても,北部同盟の本性は明らか.
【事実】
少年兵という日本語訳が,まずおかしい.17〜18歳は,兵士としても適齢.実際,原報告じゃ「若い兵士」程度の意味だ.
また,北部同盟側の発表および続報では,「戦闘による死亡」とされている.
http://www.sankei.co.jp/html/1115side057.html
【ニューヨーク14日=共同】十四日付の米週刊誌タイム(電子版)の十四日付の電子版によると,北部同盟がマザリシャリフに進攻した際,五日間にわたって抵抗したのはパキスタン人やウズベク人,チェチェン人のグループだけで,ターリバーン勢力の幹部はいち早く逃走,同勢力の兵士は寝返ったという.
マザリシャリフに入った同誌記者が,北部同盟の複数の司令官のインタビューをもとに伝えた.
特に,パキスタンからの義勇兵九百人は同市内の学校に立てこもり,三日間にわたる降伏説得に応じなかった.最終的に七百人余りが戦死したとみられ,捕虜となったのは百七十五人だけだった.
北部同盟の司令官達は,外国からターリバーンに参加した兵士を「旅行者」と呼んでおり,司令官は「ターリバーンは消滅した.“旅行者”だけが残っている」と,同誌に述べている.
結論:パキスタン義勇兵が降伏勧告にも応じずに戦い続けた結果の戦死だった.
上の記事の元記事(タイム)はこれです.
http://www.time.com/time/nation/article/0,8599,184498,00.html
これによると,ドスタム,アタ,モハキクの3司令官が,3日間説得したが,彼らは投降しなかったと述べたされています.(この3人が,この間マザリシャリフにいて説得を自分で行ったかどうかは,ちょっとはっきりしない)
バザールは開いており,路傍の串焼き屋から羊肉を焼く煙が立ち上り,黄色いタクシーが往復しているとのこと.
産経の記事で「ターリバーンは消滅した」と語った司令官はアタ・モハメドで,驚いたことに彼がマザリシャリフの非公式市長になっていて,各地から集まる部族長や使者の応対に追われているそうです.
ということは,今のところドスタム領にはなってないようですね(笑).
補足.このタイムの記事によると,捕虜処刑に関しては,アタはまだ行われていないと述べています.
「ターリバーンの囚人は裁判にかけられ,追放されるだろうと彼は述べたが,しかし処刑の可能性も排除しなかった.(略)「おそらく我々は数人は処刑しなければならないだろう.民衆はこれらの旅行者を殺すことを求めている」とアタは述べた」(HN
"533")
Eyewitness: The Taliban Undone
TIME.com Exclusive: TIME's Alex Perry was the first journalist into Mazar-i-Sharif. Its Northern Alliance commander told him how the city fell
Wednesday, Nov. 14, 2001
When the Taliban lost this capital of northern
Afghanistan, they set the pattern for the
war. After days of relentless pounding by
American bombers, the Islamic militia simply
had no stomach for a fight.
The Northern Alliance attacked in earnest on Friday night, and the Afghan Taliban soldiers immediately switched sides, while their commanders jumped into pickup trucks and sped south. Only the "tourists" ? the term Alliance soldiers use for the foreign zealots who make up the most committed of their enemy's ranks ? chose to make a stand. Pockets of Uzbeks, Chechens and Pakistanis held out for up to five days before they were overcome or picked off by snipers.
Around 900 Pakistanis were surrounded in a girls' school, Sultan Razinya, in the southeast of the city. Over three days, the Alliance commanders ? Ustad Mohammed Atta, General Rashid Dostum and Haji Mohammed Mohaqiq ? say they tried to persuade the Pakistanis to surrender. The Pakistanis refused. By Tuesday afternoon, the commanders had exhausted their patience, and warned civilians living in the area to move away. Then they attacked, and the fighting lasted four hours. The Alliance took just 175 prisoners.
Tonight, the occasional burst of gunfire still rings out in the city, but order is fast returning. Alliance soldiers patrol the streets and monitor traffic at checkpoints. AK-47s slung over their shoulders and sacks of RPG rockets in the back of their high-powered pickup trucks. But in a country that has been at war for more than two decades, armed fighters are merely part of the scenery.
The bazaar is open. Streetside shashlik stores send plumes of the thick smoke of lamb fat into the air, and yellow taxis ply their trade. The Alliance leader Ustad Mohammed Atta has become the unofficial mayor of Mazar, sitting cross-legged on the floor of his new home, receiving a stream of visits from town elders, tribal leaders and messengers from the frontlines.
The frontlines get further away by the day as local commanders defect from the Taliban in a domino procession. To the southwest, Herat has fallen due to a spontaneous uprising by the Shiite Muslim population against their Sunni Taliban rulers. To the south, Kabul and Jalalabad have gone. And now the fight is for Kandahar, where the Taliban was born and which has remained its administrative center.
"The Taliban is finished," says Atta over a meal of flat bread, apples and qabeli, the traditional mound of rice, mutton, carrots, onions and raisins that is a staple of Afghan cooking. "Only the tourists remain."
Talk is already turning to the future government, even elections. The plan is to call a Loyat Jirga, a national gathering of all Afghanistan's tribal chiefs to debate the shape of the country's new order. Atta says all the commanders are anxious to avoid a repeat of 1992 when, after defeating the Soviets, rival commanders turned on each other and fought pitched battles on the streets of the capital. "This time we want to have democracy," he says. "We have to keep the people with us."
The Taliban prisoners, he claims, will be tried and eventually expelled, although he does not rule out the possibility of executions. In this desolate battle-scarred landscape of dust and desert, barren mountain peaks and rusted, blown out Soviet tanks, killing is given little thought. "Maybe we will have to execute a few people," says Atta. "The people want to kill these tourists."
【反論】
北部同盟の一方的な発表なんて全く信じられない.
交戦の末の殺害だとすると,北部同盟にも同程度の被害があるのが普通ではないのか?
【再反論】
ランチェスターの二次法則というのがある.
兵数に差のある時の戦力差は,√{(A軍の二乗)−(B軍の二乗)}
という式.
報道では,2000人で攻撃をかけている.
だとすると,√(2000×2000−100×100)=1997.5
ですので,北部同盟側の推定死者数は約3名と計算されます.
相手が新兵で練度が低いであろう事を考慮すると,戦闘であったとしても, 殆ど虐殺状態だったでしょうね.
投降するタイミングを間違えれば,全滅は当然でしょう.
【珍説】
「金で裏切れ!
金で魂を売り渡せ!
それが資本主義の『原理』だ!
信仰を踏みにじって金で良心を売るんだよ!
それがおれたちアメリカの原理主義だ!」(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言11 テロリアンナイト』
p.22)
【事実】
他項で述べられているように,買収して寝返らせる戦術は,ターリバーンや,それ以前の時代にもよく行われていたことで,「アメリカ原理主義」(笑)とは関係ありません.
例えば,マザリシャリフをターリバーンが陥落させたのは,守備側ドスタム派司令官の一人を買収して寝返らせたからであり,カブールを同じくターリバーンが陥落させたのは,守備側マスード派司令官の一人を買収して寝返らせたからです.(A.
ラシッド「タリバン」他)
マザリシャリフの例の詳細を,以下に引用しましょう.
「国際社会からの任地を目指すターリバーンは,1997年5月に,最後に残った都市マザリシャリフ占領に向けた攻勢を開始した.
この裏には,ドストムの側近マリク・パルワーンのターリバーンへの裏切りがあった.
マリクは,専制君主のように振舞うドストムが,自分を殺害するのではないかと恐れており,その心の隙にターリバーンによる買収の手が伸びた.
マリクの裏切りで,イランから再びアフガニスタンに戻って反ターリバーン活動を続けていたイスマイル・ハーンが捕らえられ,ターリバーン側に引き渡された.
このマリク反乱には,当然ながらパキスタンが深く関与していたと見られている.
それを裏付けるかのように,マザリシャリフで戦闘が発生する前日の5月23日に,パキスタン領事館の職員が突然パキスタンに帰国していった.
その翌日,ターリバーンがマザリシャリフを占領してドストムがウズベキスタン経由でトルコに亡命したのを確認してから戻ってきた.
そして手際のいいことに,5月25日にはパキスタンがターリバーン政権を承認し,それに続いてサウディアラビアとUAEも承認した」
(柴田和重=アフガン・ネットワーク幹事 from
「ポスト・タリバン」,
中公新書,2001/12/20,P.44-45,抜粋要約)
また例えば,1989年2月に,反共ムジャヒッディーンの間で「暫定政権」を選出するためのシューラが召集されましたが,ISI(パキスタン軍情報部)の手が露骨に動き,その上ふんだんに投入されたサウジ資金で買収が行われ,総額2600万ドル,代議員1人当たり2万5千ドル,あるいはそれ以上が動いたと言われています.
ナジブラ政府もまた,ソ連から供与された資金の多くを用いて,政府や部族やゲリラのリーダーを味方につけ,あるいは少なくとも静観の約束を取り付けた,とされていますし,カルマル時代には,KGBを模して〔共産政権時代に〕組織されたKhADが,ムジャヒディン集団に侵入し,部族や個人を買収することに長けていったとされています.買収された人々の多くは親政府系民兵を結成しました.
さらに歴史を遡れば,1920年代,アマーヌラーは国境地帯の部族を煽動し続け,デュランド・ラインのインド側の不満を抱く部族長達に金銭を与え,煽り立てたりしています.
(以上の例は,M. Ewans著「アフガニスタンの歴史」,明石書店より,該当箇所を抜粋要約)
▼ 同じことは英国もやっています.
――――――
従来の〔英国インド政庁は,〕国境地帯の主部族に対して部族給与 Tribal Allowance と呼んで定期的に給与を与えていた.
これは政庁からも部族からも明かに買収費と見なされていた.
〔1899年に着任したカーゾン提督は,〕これを改めて,対部族機密連絡費と名称を変更して,ペシャワール市にこれらの部族の有力者を招いて,
「インド政庁が諸君ら関係部族に支給している給与は,諸君が住んでいる地方の道路や峠をいつも開放し,各自の地方の安寧を保つことに対する代償である」
と説明している.
この趣旨に反する者には支給せず,従来,給与による収入に慣れていた彼らを脅かし,彼らが抱いていた「部族給与」に対する考え方を一新させた.
――――――木村郁夫 in 『ヒンズー・クシュ,カラコルム研究誌』(高木泰夫編,日本ヒンズー・クシュ,カラコルム会議,1980/12/10),p.123-124
▲
[quote]
ソビエトおよびカブール政府は,レジスタンスのリーダーを買収して特定の地域への攻撃を中止させたり,地域的な休戦を決めたりすることのほうに,より多くの成功を収めていた.
[/quote]
―――デビッド・イスビー著『アフガニスタン戦争』(大日本絵画,1993/9),p.91
なお,アフ【ガ】ーン人がすぐに寝返る理由としては,次のような説明があります.
私は彼に,私達が最近目の当たりにしてきた,あらゆる寝返りについて説明して欲しいと言った.なぜアフガニスタン人はいとも簡単に変節するのか?
「アメリカや他の国々では」と,シャハムラト〔タロカンの地主の息子.村の長老で村長〕はためらいがちに言った.「国民が祖国は大切なものだという考えを持っている.
しかしアフガニスタンでは,兵士はそんな考え方は持っていないし,貧困のせいで,権力者であれば誰にでも与する」
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.118
小林のアフ【ガ】ーン関連著述は,ペシャワール会の中村医師の引き写しが殆どのよう――独自の部分が全く見られない――ですが,
「カネ社会の浸透」
「エロ写真氾濫」
は,内戦の頃にも「そうだった」と中村が主張していたことです.
以下に引用します.
アフ【ガ】ーニスタン国内では1992年4月に共産政権が倒れ,戦場は農村部から都市部に移った.
前後して農村部難民200万人が独力で帰り,郷土復興が自力で開始されたが,地域によっては「食べる作物」よりも「売れる作物」に熱が入った.
「共に食べる農業」を支えてきた伝統的相互扶助意識が色あせ,村落共同体そのものが分解し始めるという悪循環を生み出した.
主に農業に依拠してきた鍛冶屋・石工などの職人達は失業し,「復興援助」によって膨れ上がったトラック台数は,駱駝や驢馬による中小運送業を駆逐した.
これらが人々の心に微妙な変化をもたらした.
自動車輸送網の及ぶところでは,人々はよそ者に対してだけでなく,互いに猜疑心を向けて,牧歌的な共同体が崩れ始めている.
カネ社会の浸透が,これを揺るがしたのである.
(ペシャワール会・中村哲医師 from 「学び・未来・NGO」,
新評論,2001/4/1, p.148,抜粋要約)
アフガニスタンの内乱に伴って,ゲリラ本部はペシャワールに置かれ,ヤクザの抗争紛いの激しい争いが日常化した.犠牲者は数知れない.
〔略〕
日本製のビデオも一部の階層の間には普及し始めており,いかがわしいフィルムも密かに出回りつつあるという.
(中村哲 from 「アフガニスタンの診療所から」,筑摩書房,1993/2/10,抜粋要約)
偶然にしては,あまりにできすぎている気がしますが…….
【質問】
マザリシャリフでの捕虜暴動は何故起こったか?
【回答】
英ガーディアン紙によれば,米軍の一連の誤りが暴動を引き起こす環境を作ったという。
(前略)
ガーディアンは今週の出来事に関する細部の証言を組み合わせた。その結果は、ターリバーン兵士がクンドゥズ陥落後に北部同盟の手に落ちたそもそもの最初から、破局的な一連の誤りが重なったことを示唆している。
昨日ガーディアンは降伏交渉にあたった反ターリバーン勢力の司令官にインタビューしたが、彼は主としてアメリカの誤算のために物事が悪い方へと転がっていったと述べた。
今年初めに反ターリバーン勢力に寝返ったパシュトゥン人司令官のアミル・ジャンは、クンドゥズで投降した主としてアラブ人、
パキスタン人、そしてウズベキスタン人などの外国人兵士は、正式な投降の段階ではアフガニスタン北部の主要都市マザリシャリフに行くことを決して想定されていなかったと述べた。
外国人はクンドゥズの12マイル西の山がちな前線地域であるエルガナクで捕虜となる予定だった。
しかしその代わりに彼らは夜間砂漠を横切り、マザル郊外の砂漠と電柱しかない荒地に着いた。土曜の午前3時のことだった。
クンドゥズのターリバーン司令官であるファイザル師は外国人兵士に武器を捨てるよう告げたが、
しかし,彼らが拘束されるだろうということを告げるのを怠ったことが、アミル・ジャンの発言から明らかになった。
「外国人たちは北部同盟に投降したあとは自由の身になると思っていた。彼らは投獄さ
れるとは考えていなかった」
と彼は述べた。
デザート・カーキの服を着た米軍兵士が衛星電話のセットアップをしている間、北部同盟の軍閥ラシッド・ドスタム配下の兵士たちは攻撃態勢を取っていた。
3、4時間の交渉の後、ターリバーン兵士は再度降伏に同意した。しかしそれはただアミル・ジャンへのみ降伏するというものだった。彼らはアミル・ジャンがパシュトゥン人であることとターリバーンにいたことで信頼していた。
ドスタム将軍の兵士はそこでターリバーン兵士の武装解除を始め、武器を緑色のトラックの荷台に積み上げた。
ドスタム将軍は捕虜をマザリシャリフにあるソ連が作った大きな空港に連行するよう手配したが、米軍の特殊部隊がこれを拒否し、滑走路は軍事作戦に必要になるかもしれないと述べたことをアミル・ジャンは明らかにした。
その代わりにドスタム将軍は捕虜をマザル郊外の泥土の広がる場所にある私的な要塞カライジャンギに連行した。
これに先立つ2週間、米当局者がこの構内に秘密裏に長時間滞在していた。彼らはそこが重火器でいっぱいであることを知っていた。
それにもかかわらず,彼らはドスタムの即席の計画に賛成した。
午後半ばまでに捕虜たちは5台のトラックに分乗させられた。
ドスタム将軍の保安局長サイド・カマルは,最初の3台のトラックにいる捕虜の身体検査は行った。
しかし黄昏が近づいてきたので、残り2台については検査を行わないまま隊列は出発した。
これは破滅的な結果をもたらすことになった。
ドスタム将軍が軍の大部分とともにクンドゥズ方面に発ったため、護送車列は別の道を通ってカライジャンギに向かった。
そこには比較的少人数の護衛兵が残されていた。
ドスタム将軍の警察局長ナデル・アリは午後遅くに捕虜が到着した後、再度武器を検査しようとした。
所持品検査をされそうになった1人のターリバーン兵士が隠し持っていた手投げ弾を爆発させ、自分とアリ、それにもう1人のドスタムの幕僚を殺した。
死にかかったアリが運び出される間、兵士たちはターリバーン兵士を構内の北方にある馬小屋区域に連行した。武器検査は取りやめになった。
その夜、ターリバーン兵士の8人が捕虜収容所の貯蔵室で自爆したとアミル・ジャンは言った。
それによってターリバーンの少なからぬ数がまだ手投げ弾で武装していることが判明した。
「これが起きたあと、私は彼らが強硬派で危険であると判断した。我々は彼らの手を縛って地下室に放り込むのがよいだろうと意見が一致した」
と彼は付け加えた。
翌朝護衛兵はこの新しい命令を実行する準備にかかった。
そのころ、北部アフガニスタンの国際赤十字委員会の委員長であるサイモン・ブルックスは,白い赤十字の車でカライジャンギに入っていった。
彼はドスタムの保安局長サイド・カマルから、捕虜たちは人間的に扱われているという保証を得たいと思っていた。赤十字はまた捕虜の名前を記録し、家族への伝言を言付かりたいと考えていた。
しかしブルックス氏がアラブ人、パキスタン人、チェチェン人の抑留者に関心を持つ唯一の人間ではなかった。
2人のCIAエージェント、ジョニー“マイク”スパンと“デイヴ”も、オサマ・ビンラディンのアルカイダ・ネットワークと関係がありうるターリバーン兵士を選抜するよう命令されていた。
デイヴは遠くからアフガンを見ていた。彼はドスタムの兵士がしゃべるウズベク語を話すことさえでき、長いコートの下にシャルワー・カミーズを着ていた。
しかし角刈りの髪のために,正体がアメリカ人であることがわかってしまった。
ロイターと独ARDの2つのテレビクルーも要塞にやってきた。彼らは捕虜収容所でデイヴやマイクといっしょの場所にいた。
デイヴたちは被疑者の尋問を始めていた。
午前11時25分、ターリバーン兵士たちは城の中央にある草の生えた区画に進ませられた。
護衛兵は最初の8人の捕虜を縛ったとアミル・ジャンは言った。
「捕虜たちは銃で撃たれるのだと思った。彼らは護衛の1人を攻撃して銃をつかんだ」
外国人兵士はテレビジャーナリストも米軍兵士で、処刑を撮影に来たのだと思った。
他の捕虜がマイクをつかまえ、手投げ弾で彼を吹き飛ばした。これは彼が銃で撃たれたというCIAによる死亡の発表と食い違っている。
(後略)
Fatal errors that led to massacre
Guardian reveals blunders by US
Luke Harding in Mazar-i-Sharif, Simon Tisdall
in Washington, Nicholas Watt and Richard
Norton-Taylor
Saturday December 1, 2001
The Guardian
A single, horrific, atrocity can provide
the defining moment in a war. America is
still facing demands to apologise for the
1968 My Lai massacre in Vietnam, and the
remains of charred Iraqi soldiers on the
Mutla ridge outside Kuwait were a chilling
illustration of Washington's overwhelming
firepower in the Gulf war.
As the net tightened around the Taliban leadership yesterday, questions were being asked about whether the bloody end to this week's prison siege at the 19th-century Qala-i-Jhangi fort outside the northern Afghan city of Mazar-i-Sharif will be the defining moment of the Afghan war. Pictures of aid workers picking their way through the corpses of Taliban prisoners killed by a combination of Northern Alliance fighters and American bombings, have caused revulsion around the world. At least 175 prisoners were killed; that is the number of bodies recovered so far by the Red Cross.
As pressure grows on Britain and the US to hold an inquiry into the killings, the Guardian has pieced together a detailed account of this week's events. This suggests that from the very first, when Taliban soldiers fell into the hands of the alliance after the fall of Kunduz, a series of catastrophic errors were made.
In an interview with the Guardian yesterday, the anti-Taliban commander who negotiated the surrender said that things had gone wrong largely because of American miscalculation. Amir Jan, a Pashtun commander who defected to the anti-Taliban forces earlier this year, said that the foreign Taliban fighters from Kunduz - mainly Arabs, Pakistanis and men from Uzbekistan - were never supposed to go for their formal surrender to Mazar-i-Sharif, Afghanistan's main northern city.
The foreigners were meant to surrender at Erganak, a mountainous frontline position 12 miles west of Kunduz. Instead, they travelled across the desert through the night and arrived on the outskirts of Mazar, in a wilderness of desert and telegraph poles, at 3am last Saturday.
Mullah Faizal, the Taliban's commander at Kunduz, had told the foreign fighters to give up their weapons - but failed to tell them that they would then be taken into custody, it emerged from Amir Jan's account: "The foreigners thought that after surrendering to the Northern Alliance they would be free," he said. "They didn't think they would be put in jail."
While US soldiers dressed in desert khaki set up satellite links, soldiers loyal to the alliance warlord Rashid Dostam took up attack positions. After three to four hours' negotiation, the Taliban fighters agreed to surrender again - but only to Amir Jan, whom they trusted because of his Pashtun roots and Taliban history. General Dostam's militia then began disarming the Taliban fighters and piling their weapons into a green lorry.
Gen Dostam had arranged to take the prisoners to Mazar-i-Sharif's large Soviet-built airfield, but American special forces vetoed the plan, saying that the runway could be needed for military operations, Amir Jan revealed.
Heavy weaponry
Instead, Gen Dostam would take the prisoners to his personal fortress on the muddy outskirts of Mazar - the Qala-i-Jhangi. Over the previous two weeks several American officers had secretly spent many hours in the compound. They knew it was full of heavy weaponry.
Nonetheless, they agreed with the impromptu Dostam scheme. By mid-afternoon, the prisoners had been piled into five trucks. Said Kamal, Gen Dostam's head of security, arranged for prisoners in the first three trucks to be body searched. But with dusk approaching, the convoy set off with the last two trucks not searched. This proved to be disastrous.
While Gen Dostam left with the bulk of his army towards Kunduz, the convoy rolled the other way into the Qala-i-Jhangi, where a comparatively small number of guards had been left behind. Nader Ali, Gen Dostam's chief of police, tried again tosearch the prisoners soon after they arrived in late afternoon. One Taliban fighter about to be frisked detonated a hidden grenade killing himself, Ali and another Dostam aide.
While the dying Ali was carried away, soldiers then bundled the Taliban fighters into the stable area to the north of the compound. The search was abandoned.
That night eight of the fighters blew themselves up in a storage room in the prisoners' compound, Amir Jan said. It soon became clear that a large minority of the Taliban were still armed with grenades. "After that I decided they were hardliners, that they were dangerous," the Pashtun commander added. "We agreed it would be better to tie up their hands and put them in the basement."
Next morning the guards prepared to implement this new order. At the same time Simon Brooks, head of the International Committee for the Red Cross in northern Afghanistan, swept into the Qala-i-Jhangi in his white Red Cross vehicle. He was looking for assurances from Said Kamal, the Dostam security chief, that the prisoners would be treated humanely. The Red Cross also wanted to register the prisoners' names and get messages for their families. Mr Brooks was not the only person interested in the Arab, Pakistani and Chechen detainees.
Two CIA agents, Johnny "Mike" Spann and "Dave", had also been instructed to screen the Taliban fighters for possible links with Osama bin Laden's al-Qaida organisation. From a distance Dave looked Afghan. He even spoke Uzbek, the language of Gen Dostam's soldiers, and wore a salwar kameez beneath a long coat. But his square-cropped haircut gave the game away, indicating he was American.
Two television crews - from Reuters and the German station ARD - had also turned up at the fort. They were in the prisoners' compound, together with Dave and Mike, who had begun interviewing suspects.
At 11.25am the Taliban fighters were marched to the central grassy compound of their mini-citadel. The guards tied up the first eight prisoners, Amir Jan said. "The prisoners suspected they were about to be shot. They attacked one of the guards and grabbed his gun," he added. The foreign fighters also assumed that the television journalists were American soldiers who had come to film their execution.
Another prisoner grabbed Mike and set off a grenade, blowing him up. This conflicts with the CIA account of his death which says that he was shot.
Escape
All hell then broke loose: the prisoners shot dead five guards and grabbed their weapons, while the journalists ran for cover. Dave managed to escape only by shooting dead at least one Taliban prisoner with his pistol. A firefight blew up between the prisoners, now in charge of their own fortified area, and soldiers sitting in Gen Dostam's headquarters building 300 metres away, down a line of trees.
"Dave managed to reach the rooftop [of Dostam's HQ] about 15 minutes after fighting broke out," Simon Brooks of the Red Cross said yesterday. "One of the Taliban who had obviously been wired with explosives simply grabbed the other American and the bomb detonated."
"I met Dave in the building. He was absolutely completely shocked and really quite scared. I can now understand why: he witnessed his friend being blown up. He had managed to shoot his way out and run 150 metres out of the building."
Soon the firefight had developed into a battle, as the Taliban prisoners broke into the arms depot and helped themselves to mortars and rocket launchers. From the rooftop, Dave borrowed a satellite phone from the German TV crew and phoned the American embassy in Uzbekistan.
"We have lost control of the situation. Send in helicopters and troops," he said.
The call appeared to work. As the Red Cross vehicle blazed in the car park, and Mr Brooks slithered down the mud battlements to safety, the Pentagon prepared to send in the air force. Most of the eight prisoners who had been tied up when the battle broke out were shot dead in the early minutes; the others were able to take cover.
At 3.30pm the jets sent by the Pentagon fired nine or 10 missiles directly into the Taliban's positions. All of them hit their target - apart from the last one, which sank into a field more than 1km away. In the confusion, a small group of at least 10 prisoners escaped.
The following day the remaining Taliban, some armed with rocket launchers, held out as B-52 bombers flew repeatedly overhead. Alarmed by the resilience of the Taliban fighters, further special forces arrived at the base on Tuesday. They reportedly advised the alliance to flush out the remaining Taliban by pouring oil into the basement and setting fire to it. It took a tank and an intensification of bombings from the air to finish them off.
Confident that the way was clear, the alliance regained control of the fortress on Wednesday. But on Thursday it emerged that a lone Talib was still holed up in a basement, surviving on horse meat.
High above the lone survivor, the imposing figure of Gen Dostam toured the fortress where the full horror of the siege was on display. An Associated Press photographer saw the bodies of up to 50 Taliban fighters whose hands had been bound by scarves, laid out in a field in the southern part of the fort. The photographer watched as alliance fighters cut the scarves from the hands of some of the corpses; at least one picked gold fillings from a corpse.
As Washington tried to wash its hands of the episode, saying that the alliance was responsible for the prisoners, human rights lawyers warned that the Geneva convention may have been breached on two counts: the degrading treatment of the Taliban, when they were tied up, and the huge firepower directed at them by US warplanes.
On the first count, article 13 of the convention says: "Prisoners of war must at all times be humanely treated." On the second count, the convention permits the use of force against prisoners. But it says that this must be proportionate.
Christopher Greenwood, professor of international relations at the London School of Economics and joint editor of International Law Reports, said that killing people with hands tied behind their backs was illegal. "If it was heavy-handed overreaction, it was illegal", he said.
There were also questions about the conduct of the two CIA officers. Adam Roberts, professor of international relations at Oxford University and an authority on the laws of war, described their conduct as "incredibly stupid and unprofessional".
Angered by the death of Spann - the first American known to have died in the conflict - the director of the CIA, George Tenet, accused the Taliban of premeditated murder.
"Their prison uprising - which had murder as its goal - claimed many lives, among them that of a very brave American," he said of Spann, who worked in the directorate of operations, which analysts says is involved in "paramilitary" activities.
As the final bodies are cleared, the battle has now moved to Britain and America, whose governments have rejected calls by Amnesty International for an inquiry. Amnesty said yesterday that this raised questions about their commitment to the rule of law.
A head of steam is unlikely to build up around
this issue, however. At his weekly appearance
in the Commons this week, Tony Blair faced
only one question about Afghanistan and that
was about Marjan, the one-eyed lion at Kabul
zoo.
Why? Amnesty's 10 questions
・ Why were the Taliban not properly disarmed?
・ Was the response of the detaining powers proportionate? Was only minimum force used, as required by the Geneva convention?
・ Who ordered planes in and why?
・ Could this situation have been contained without such use of force?
・ Were those who were killed still bound?
・ Did summary executions take place?
・ Were people deliberately left in harm's way?
・ Are those who desecrated bodies to be held responsible?
・ Are summary executions still taking place in Afghanistan?
・ Are there serious shortcomings in the holding of prisoners in Afghanistan? Is the alliance able to perform this role?
http://www.guardian.co.uk/afghanistan/story/0,1284,610058,00.html
#この記事はアミル・ジャンという寝返り司令官の発言がベースになっているようですが、どのくらい真実を言っているものかちょっと判断が難しい。
ただ、カライジャンギへの連行が当初の予定ではなかったというのが事実なら、あらゆる武器で充満したドスタム城に捕虜を運んだのは何故か?という疑問は説明されます。
捕虜が拘束されるということを言わなかったファイザル師という人は、ドスタムと並んで記者会見し、クンドゥズの外国人兵士が投降すると請け合った人ですが、この発言が本当に実現できるかどうかは疑問がもたれていました。
捕虜には真実を告げず、自由になると言って投降させたというのも、そうでも言わなければ投降しない兵士が多かっただろうと考えると、ありうることと思います。
捕虜反乱が起きたカライジャンギの図解(flash)。城の位置や鳥瞰図も出ています。
http://www.guardian.co.uk/flash/0,5860,607924,00.html
【質問】
カンダハルはどのように陥落したのか?
【回答】
ムラー・ナキブの言葉を信じるなら,オマルから統治権譲渡の電話が彼にあった後,ターリバーンは一斉に退去.
ところが,そこをすかさずグル・アガが,空城となったカンダハルを占領したのだという.
以下引用.
ナキブはパキスタンから帰国後,2年ほどカンダハルで暮らしたと言った.
「しかし,それから9.11が起こり,米軍が空爆を開始したあと,私は〔チャルクルバ〕村のこの家に移り,ハミド・カルザイと連絡をとっていた.彼は私に衛星電話をくれた」
ナキブが言うには,12月始め,カルザイがアフガニスタン暫定行政機構の議長に選ばれると,
「ムラー・オマルはタリバンのカンダハル明け渡しに同意し,カルザイはタリバンがカンダハルの統治権を私に譲渡することに同意した.
ところが,BBCが夜に統治権譲渡を発表した翌朝には,タリバンは一斉に退去していた.
グル・アガがカンダハルに入城し,カルザイは彼を州知事に,私を軍司令官に任命した.
私は健康上,深刻な問題を抱えていたので,その職を辞退し,私の代理のハーン・ムハンマドに譲った」
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.185
【質問】
ビン・ラーディン追跡作戦はどのように行われたのか?
【回答】
米軍は空爆を行い,アメリカ他の特殊部隊が追い詰めたが,パキスタン側への逃亡を許した.
米軍は後方に控えて,統制が取れず,訓練も受けていない,装備も不十分なアフガン兵を前線で戦わせた点で問題があったという.
以下引用.
確かにオサマ・ビンラディンと彼の率いる部隊は,タリバン政権時代に絶頂を極めたが,タリバン政権が崩壊すると,もともと彼らの軍事基地があったジャララバード近くの山中に退却するしかなかった.
彼らはトラボラ山中の洞窟や窪地に潜伏し,2週間以上もの間,数回に渡る地元ムジャヒディンの地上攻撃を撃退した.
米軍の空爆を受け,アメリカ,オーストラリア,カナダ,イギリスの特殊部隊に追い詰められた.
それから突然,アルカイダは反撃を止めて姿を消した.おそらく険しい山岳地帯を経てパキスタンに逃亡したのだろう.
米軍による空爆は一時停止され,米軍特殊部隊がムジャヒディン連合軍と共に,敵の残党を追って,雪に覆われたトラボラ山中の地上捜索を開始した.
〔略〕
彼はジャララバード郊外の丘陵地帯を活動拠点とする反タリバン・ゲリラ隊の司令官で,11月半ばにタリバンとアルカイダが町から逃走すると,兵を率いてジャララバードに入城した.
その後,政治利権を巡る内部分裂が起こり,北部同盟に加わるハズラト・アリは,カブールのカルザイ暫定政権と緩やかな協力関係を保ちながら,ナンガルハル州を統制する東部シューラの防衛隊長になった.
ハズラト・アリは,トラボラ戦で米軍特殊部隊軍事顧問の信を得て,地元兵の指揮を一任された戦士だった.
私が指揮官アリに会ったのは,彼がホテルの宴会場で緊急記者会見をした日である.
彼は,グレーの裏地が羊毛の狩猟用のワックスを塗ったジャケットを着て,武装兵達に囲まれていた.
こけおどしの虚勢を張って,アルカイダは「もはや問題ではなくなった」と断言した後,予防線を張るように,自分の部隊にテロリストが潜入する可能性があることを認めた.
「これは我々が警戒しなければならない脅威だ」
ハズラト・アリは,彼の部隊の中に何百人ものアルカイダのテロリストを,トラボラからパキスタンへ逃がす手助けをした者がいるという,既に流布し始めている噂を先取りしたのだろう.
「オサマ・ビンラディンが今どこにいるか,誰にも分からない」
と,彼は苦しい言い訳をした.
〔略〕
その夜,私はハズラト・アリの長男,サミュラーに会った.
端正な顔立ちの冷静沈着な22歳,200人の戦士と護衛団を率いる,生まれながらの軍司令官である.
「オサマと彼の部隊は巧妙に山中に潜伏していて,探し出すのは一筋縄ではいかなかった.
我々は地上戦を行ったが,彼らが潜伏する洞窟は奥が深くて,戦いは困難を極めた.
米軍の上空掩護には非常に助けられた」
サミュラーは,米軍部隊が洞窟での実戦は行わなかったと主張した.
「米軍の特殊部隊は戦士としてではなく,標的監視人としてここにいるだけだから,アルカイダの攻撃でやられた人数よりもムジャヒディンを爆撃して,多数の死傷者を出した」
サミュラーも父親と同じように,米軍のそれ以上表だった地上戦への介入はなかったと言った.
「私の部隊の兵士達は,外国人に対して過敏に反応する.
もし大勢のアメリカ人がここに来たら,彼らは抵抗するだろう」
ジャック〔仮名.元グリーン・ベレー.現,アフ【ガ】ーン政府民間顧問〕は,トラボラの戦闘を指揮した米軍のやり方に極めて批判的だった.
米軍は後方に控えて,統制が取れず,訓練も受けていない,装備も不十分なアフガン兵を前線で戦わせた.
「早くここにアメリカの軍事顧問団を送り込まないと,すぐに5年前の状態に戻ってしまうだろう」
Jon Lee Anderson著「獅子と呼ばれた男」(清流出版,2005/6/13),p.151-164
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