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◆総記
欧州方面・目次
<第2次世界大戦


 【質問】
 第二次世界大戦当時,世界には60数カ国が存在していたようですが,参加国の一覧ありますか?

 【回答】
http://encyclopedia.lockergnome.com/s/b/Participants_in_World_War_II(リンク切れ)
によれば,第二次世界大戦で参加した,もしくは大きな影響を受けた国は61カ国です.
 国の数自体は61より多いですよ.リンク先の国の数を見てみると(番号が降ってあるので数える手間はありません)すぐ分かります.
 たとえばこの一覧表ではタイはありませんし.タイは植民地になったことがありませんしね.

 61ヶ国の内,枢軸国は,日本,ドイツ,イタリア,アルバニア,タイ,ハンガリー,フィンランド,ブルガリア,リトアニア,ルーマニアの11ヶ国.
 それ以外が連合国側です.

(「はてな」)


 【質問】
 第二次大戦中の北アフリカ以外のアフリカはどうなっていたのですか? フランス領やベルギー領などあったと思いますが.

 【回答】
・南アフリカ連邦(含.ナミビア)
 第二次大戦参戦に当たっては,ボーア人との確執が有るも,結局対独宣戦を行う.
 空軍は,第二次大戦参戦後は,英国空軍に協力し,東アフリカ戦線,北アフリカ,中東,地中海,バルカン半島の各戦線で主に戦闘を行う.
 また,空軍要員の育成の拠点となり,1944年2月までに操縦士5,000名,観測員5,000名,航法士2,000名,爆撃手2,000名,機銃手2,000名を養成.
 海軍は,南大西洋地区,インド洋地区の対潜警備を実施.
 陸軍も,空軍と同様に東アフリカ,北アフリカ,イタリア各戦線で戦闘を繰り広げる.

南アフリカ軍のSexton対戦車自走砲

・南ローデシア
 南アフリカと同じく,空軍兵士の養成拠点として機能.
 なお,此処では,英国だけでなく,英国のアフリカ植民地,ベルギー領コンゴ,中東,連合国各国から初等教育を受けに,この地にやってきている.
 空軍は,西部戦線に2個スコードロン(爆撃機,戦闘爆撃機),中東戦線に1個スコードロン(戦闘機)を展開.

・英国領ケニア
 1940年のイタリア参戦時に,アビシニアのイタリア軍の侵攻を受けるが,これを撃退.
 その後,アビシニア侵攻の拠点の一つとして,南アフリカ軍が展開.
 アビシニア解放後は英国の空軍要員養成拠点として機能.

・英国領西アフリカ
 ナイジェリア,ゴールド・コーストに連隊,シエラ・レオネ,ガンビアに中隊規模の兵力を展開.
 1941年のエチオピア解放に従軍し,帰国後,ナイジェリアに3個旅団,ゴールド・コーストに1個旅団,シエラ・レオネ,ガンビアに各1個大隊に増強され,自国防衛に当たる.
 なお,これらの都市はセネガル侵攻の拠点ともなっているし,南大西洋ルートの中継地点ともなっている.

・英領(半分エジプト領)スーダン
 エジプト軍,英国軍が駐屯し,1941年のエチオピア解放の拠点となった.

・フランス領西アフリカ
 拠点はダカールで,此処には1940年のフランス崩壊時に遁走した戦艦Richelieu,軽巡2隻,駆逐艦3隻,通報艦6隻,潜水艦3隻などが在泊していたが,戦艦は,英空母Hermesの雷撃機の攻撃を受け,行動不能となる.
 9月に英国海軍の指揮の下,自由フランス海軍による上陸作戦が行われたが,3日間の海戦で,潜水艦2隻,大型駆逐艦1隻と引き替えに,Richelieuの砲撃,Martin167攻撃機の爆撃も含めて,英戦艦Resolusion,英巡洋艦Cumberlandに損傷を与え,上陸作戦を阻止した.
 なお,この際,英国海軍はSwordfish8機,Squa2機,Wallus1機を失っている.
 11月上旬には,自由フランス海軍はガボンを攻略し,同型艦同士が戦闘を行った.
 最終的に,1943年までにアフリカの仏植民地が自由フランス側になる.

・フランス領ソマリア
 1940年にイタリアによって占領されていたが,1941年に自由フランス軍が英国の支援を得て解放し,後に,ジブチの封鎖を実施.

・フランス領マダガスカル
 1942年5月5日,英国軍が上陸し,占領.
 この時,補助巡洋艦1隻,潜水艦3隻,通報艦1隻撃沈される.
 なお,この間,マダガスカルの港に停泊中の英戦艦Ramilliesが日本の特殊潜航艇の攻撃を受け,大破着底すると言う出来事もあった.

・イタリア領東アフリカ(アビシニアまたはエチオピア)
 参戦時に,東アフリカの各国植民地に侵攻するが,英仏領ソマリアを除いて撃退される.
 エリトリアのマッサワに拠点を置いて,空軍機323機(うち飛行不能81機),海軍兵力は駆逐艦7隻,水雷艇2隻,潜水艦8隻,スループ2隻,砲艦2隻,魚雷艇2隻を保有していたが,大型艦は,1941年7月までに全て撃沈され,空軍機は1941年4月末の時点で,S.79が4機,Ca.113が4機,C.R.42が5機,C.R.32が1機のみ残存.
 連合軍は,1941年1月19日からスーダンより2個インド師団と亡命アビシニア愛国軍が,24日に南アフリカ軍3個師団と西アフリカ国境部隊からなる兵力がケニアからそれぞれ侵攻し,総勢7万人で3ヶ月の戦闘の後,最終的に5月19日に降伏.
 連合国側損害は500名で,イタリア兵5万名を捕虜とし,全土を占領(実際には散発的抵抗は11月まで続いているが).
 これにより,亡命政権は帰還.
 なお,エリトリアは1952年まで英国が管理している.

・ポルトガル領アンゴラ
 中立を保つ.

・ポルトガル領モザンビーク
 中立を保つ.
 特にロレンソ・マルケソ港は,日米,日英などの交換船が両国の国民を交換するための港として使用されている.
 日本の外交官は此処から欧州に赴任したケースもあり.

\・リベリア
 長らく中立を保っていたが,末期に宣戦布告.

・ベルギー領コンゴ
 本国占領後は亡命政権の影響下に置かれる.
 なお,この地域で産出されたウラン鉱石1,250t以上が1940年10〜11月に掛けて,ポルトガル領アンゴラのカビンダ港から米国に向けて輸出され,これらのウラン鉱石が,広島,長崎の原爆製造の原材料となった.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 第二次世界大戦を前後して建国された国の一覧が見られるページをお教え下さい.

 【回答】
「古い国,新しい国」
というサイトに,世界各国の独立年が掲載されていますので,その中から,1940年から1950年くらいまでの国を,独自で抜き出してください.

(「はてな」)


 【質問】
 大戦直前の中東欧の軍備概況は?

 【回答】
 1937年版の児童百科事典の中から,東欧関係の記述引用.

1.ポーランド

(1)兵役制度
 ポーランドは東を不倶戴天の仇敵関係で世界赤化を国是とするソ連に,西にはVersailles条約に不服,
 国境改訂を強調し,再軍備宣言を行ったドイツに挟まれているため,国を保つには一切を犠牲にして国防に努力せねばならず,3,000万の人口に対し,27万の常備軍を有し,その陸軍費は国家予算の半ば近くを占める.
 兵役制度は徴兵制度を採用し,壮丁年齢は20歳,予備役は40歳,後備役は50歳とし,兵役期間は一般兵 2年,騎兵,騎砲兵2年1ヶ月.

 (2)兵力と編制
 上述の通り,総兵力27万人で,このほか,準軍隊の(装備は寧ろ国軍に勝る)国境警備隊が約3万,警察隊 は32,000,税関監視隊が約5,600ある.
 陸軍の編制は,軍団管区司令部が10,歩兵師団30個,3個旅団で編制された騎兵師団1個,独立騎兵旅団が12個,野砲兵連隊が30個,特殊砲兵連隊が20個,飛行旅団3個,飛行連隊6個,戦車連隊1個.

 (3)化学戦
 化学戦については,小規模ながら完備し,研究,教育,特に国民に対する瓦斯防禦教育は注目に値する.
 軍部の施設としては,陸軍省兵器局内化学戦課の下に軍用化学研究所があり,その下に化学戦学校と,瓦斯教導学校がある.
 民間施設としては,航空化学戦防護協会があり,会員数40万,国民瓦斯防護教育車輌(鉄道車輌)が約10両と,同自動車約数十両で,毎年瓦斯防護週間を設け,民衆教育の普及徹底に努めている.

2. オーストリア
 平和条約によって,その軍備を将校以下3万人に規制されていたが,その後密かに禁を破り,これを38,000に増加した.
 1935年,ドイツの再軍備宣言に刺激されて,従来の6個混成旅団を,7個師団,機械化師団1個と航空機300機に編制を変え,なおかつ,総兵力も7万人にすべく拡大中.

3. ハンガリー
 この国も,平和条約によって軍備の制限を受けているが,7個混成旅団,2個騎兵旅団を有し,総兵力は約35,000である.

4. ブルガリア
 この国も同様に平和条約による軍備制限国で,全兵力上限が2万である.

5. その他の諸国

 ルーマニア:総兵力17万人

 ユーゴスラヴィア:総兵力12万人

 ギリシャ:総兵力6.5万人

 トルコ:総兵力14万人

 チェコスロヴァキア:総兵力17万人

 リトアニア:総兵力1,9000人

 ラトヴィア:総兵力25,000人

 エストニア:総兵力15,000人

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 第2次大戦後期の日本軍・ドイツ軍にも軍楽隊はまだ存続していたのでしょうか?
 同様に大戦前期のイギリス軍やソ連軍でも音楽隊は活動していたのでしょうか?
 名目だけ軍楽隊があって実際には警備とか他の任務をやっていたのか,それとも苦しい戦局の中でも音楽の練習を続けていたのでしょうか?

 【回答】
 世界中どこの軍隊でも,軍楽隊専業の兵士はいないと思うぞ.
 みんな実戦部隊の一部一員で,楽器の練習以上に戦闘訓練に明け暮れている.
 マジ戦争だったら,まず楽器より銃を持つだろうな.
 極東某国の軍楽隊員に,楽器歴を尋ねたことがあるが,軍楽隊に配属されるまでギターですら触ったことがなかったそうだ.
 他の隊員も同じで,配属と音楽経験,才能は無関係らしい.

 昔読んだ日本海軍軍楽隊員の記録では,普段は主計とか通信に配属されていたそうだ.
 で,楽隊が必要になった時点(儀式とか慰問とか)で臨時に編成されるらしい.
 なお,昭和十六年の勅令による金属供出令が出たとき,海軍では楽器は武器であるとし,供出しなかったとか.

 また,ドイツ軍に関して言えば,1944年5月にOKHから廃止命令がでるまでは,各連隊毎に連隊軍楽隊があり,階級も一般将兵とは異なった軍楽隊独自の階級がありました.
 歩兵連隊に関していえば,38名の軍楽隊員がおり,前線においても銃をとることはなく,連隊の医療部隊での医療補助に従事していました.

 【余談】
 朝鮮戦争でのエピソード・・・
 マッカーサー元帥が前線部隊を視察した.
 元帥の取り巻きの一人が前線の師団長に
「出迎え時に軍楽隊の演奏をして欲しいのだが・・・」
と要請したが,
「我が師団の軍楽隊は解散して全員が戦闘部隊に編入されているので無理です」
と,一言で拒否される場面があったそうな・・・


 【質問】
 万歳突撃とウラー突撃,政治目的の達成のための「一億玉砕」など,旧日本軍にはソ連軍と似たような部分が多々あるように思うのですが.
 何か参考にしたとか…?

 【回答】
 まったく類似点はありませんよ.
 軍の編成も違うし,戦術戦略も違いますね.兵の資質や性向も違います.

 ソ連軍はロシアの伝統を引いて,守りに強く,攻めるのはちょっと苦手で,兵力,火力で圧倒しないと攻勢に出ません.
 ウラー突撃はドイツ軍に攻め込まれて,敵の進撃を食い止めるためのの苦肉の防御策です.

 ソ連軍では玉砕なんてないです.都市防御戦では粘りますが,野戦で包囲されればすぐ降伏してます.

 日本軍は攻めるのが得意で,中国戦線などでは劣勢の兵力でもどんどん攻勢に出ます.
 守勢に回ると粘り強くないですね.せいぜいが硫黄島程度です.

 ソ連軍があっさり負けた防衛戦
7月11日〜9月19日 キエフ防衛戦.
8月5日〜10月16日 オデッサ防衛戦.

 ソ連軍が粘った防衛戦
2年間 レニングラード防衛戦
5か月 スターリングラード防衛戦

 日本軍が粘ったとされる防衛戦
2月16日〜3月26日 硫黄島戦
3月26日〜6月19日(7月2日) 沖縄戦(通常は90日とされる)

世界史板


 【質問】
 映像ドキュメンタリー等で第二次世界大戦の記録を見ると,ひょいひょい新型の戦車や航空機といった新兵器が開発されているような気になります.
 ガンダムのモビルスーツじゃあるまいし,そんなに簡単に新兵器は開発できるのでしょうか?

 【回答】
 戦争が始まってから新型の兵器を開発してるわけじゃありません.それ以前からの努力の結晶が,新型兵器なので.
 また,戦時中は数ラインの新兵器開発を同時に行う上,新型兵器の採用基準が甘くなる傾向があります.負けている方は,試験的に作った兵器や珍兵器までありったけ投入しがちになります.

当時の雑誌に載った「新兵器」


 【質問】
 WW2当時の携帯食料について教えてください.
 カロリーメイトのような料理せずに高カロリーを得られるような食料を配布していた国はあるのでしょうか?

 【回答】
 米軍では大戦当時,Dレーションと呼ばれるチョコレートバー風の個人携帯用非常食を支給してました.
 美味しくない上に本来非常用であるものが一般食として支給されたので,評判は最悪だったとか.
 その他にKレーションと呼ばれる缶詰肉料理や,ビスケットなどで構成される戦闘用レーションも支給されています.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板

 また,日本陸軍の航空糧食については,カルピス・ドリコノのような飲料,チョコレート(固形・絞り出しの2種),羊羹,ガム,ドロップなんかが戦時中も配給されていました(もちろん場所によるけど).

軍事板


 【質問】
 よく戦場で「軍法会議ものだ!」と言うシーンがありますが,軍法会議は自分の国に帰ってから開かれるものなんですか?

 【回答】
 前線で発生した事件は一応戦線後方で行われます.
 ドイツ軍の場合は憲兵少佐二名が軍規(軍法)に照らして軍規違反の罪状を問います.
 最高刑を死刑として,軍刑務所での禁固刑,階級剥奪,不名誉除隊など様々な刑罰があるようです.
 状況によっては本国送還で行われました.これは高位の軍人だね.

(一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)


 【質問】
 イタリア軍に捕まったイギリス兵の扱いはどうだったのでしょうか??

 【回答】
 イタリア軍に捕まった英国兵は,概ね捕虜条約に則った待遇をされています.
 それが行き過ぎて,以下の話があったりするのですが.

 英国空軍のボーフォート搭乗員が撃墜され捕虜になったのですが,彼は士官だったので,色々と便宜を,特に食べ物などに対して図ってくれたそうです.
 しかし本国への護送中に,その搭乗機,Z.506をハイジャックし,監視中の枢軸国軍用機を騙し,味方のスピットファイアの攻撃から命からがら逃れ,マルタ島に帰還して,搭乗員が逆に英国の捕虜となりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 第二次世界大戦中,各国が使ってたガソリンのオクタン価ってどのくらいなんでしょう?
 某所の議論によると,当時のガソリンのオクタン価からして,
「ディーゼルよりガソリンエンジンの方が排気量あたりの最高出力が高い」
とは言えないとのことですが.

 【回答】
 アメリカ=80.ドイツ=74.ソ連=70.

 アメリカ・ソ連は実際に使用していた値としてザロガ氏の書籍で日本でも流布している.
 ドイツはエンジンのカタログデータから判る数値.
 ドイツの場合現場ではこれより低質なガソリンを使っている可能性がある.
 アメリカ・ドイツはエンジン開発で目安とすべきオクタン価として指定されている数値でもあり,仮にこれより上質なガソリンを使っても性能は上がらないと思われる.
 このようなガソリンでは高回転型エンジンも過給も実現困難.
 例えばマーリンをミーティアに改造する際,自然吸気・低圧縮比にして低回転仕様のエンジンに改めている.
 逆に戦車用ディーゼルでは過給していた例が見られ,熱効率の良さからネットとグロスの差も小さくなる傾向がある.

 ただし日本やイタリア,米国でR975の代用に作られたGM6046等は本当に高性能を狙っているかと言うと突き詰め切れていない感もあり,それら未発達なディーゼルと比較すればガソリンエンジンが圧倒的に不利とも言えなくなる.

軍事板


 【質問】
 第二次大戦中にジブラルタルでは,スペイン絡みでいろいろごだごだがあったと聞きました.
 どなたか詳細を教えてください.

 【回答】
 英国が不利になって,ドイツの勢いが日の出の勢いだった時,ドイツの求めに応じてGibraltar占領作戦を計画し,実行しようとしますが,程なく戦況はドイツ不利となり,結果的にその計画は破棄され,スペインは中立を標榜するようになります.

 また,イタリアによるGibraltar空爆の際,誘導目標を準備して,英国から抗議されていますし,ちょっと資料が出てこないのであれですが,Gibraltar海峡周辺でのイタリアの小型潜水艦による通商破壊に際して,廃船となった船を改造して,潜水艦基地にしたものからの出撃を黙認していたりしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


◆◆通史


 【質問】
 国際連盟が上手く機能することはあったのか?

 【回答】
 一応,1924年〜1930年までは機能していた.
 以下,ナイ教授の文章を引用.

「ドイツが支払わなければならない賠償を減額する計画ができた1924年には,各国政府は相違点を調停し,紛争を平和的に解決する議定書に調印した[ジュネーヴ議定書].
 おそらく最も重要なことに,1925年に結ばれた結ばれたロカルノ条約は,ドイツに国際連盟の加盟を認め,理事国の椅子を与えたのである」

 ちなみにロカルノ条約は,ドイツと周辺国に対する領土の取り決めなどを定めた条約.

 ただ,問題点があって,東部方面(ポーランド・チェコスロバキア)には,問題が残っていた.
 以下ナイ教授の文章を引用

「東部方面では,ドイツはポーランド,チェコスロバキアとの東部国境の変更をはかる前に,調停に応じると約束した.
 しかし,この第2の条約は警鐘となるべきであった.というのも,いまやドイツには2種類の国境があり,一方は西部で不可侵であり,他方は東部で交渉次第だったからである.
 だが,当時はこうした取り決めは進歩活動の拠点であった.
 加盟国ではなかったものの,アメリカとソ連はジュネーヴでの国際連盟の会合にオブザーバーを派遣し始めた」

 ただ,ソ連はロカルノ条約に関しては,「西側陣営によるソ連の封じ込めである」として強硬に反対した」けど.それでも,上手く機能はしていた.
 もっとも,これは満州・エチオピアという1930年代の二つの危機のために霧散するのだが・・・.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 国際連盟体制の瓦解原因は?

 【回答】
 1930年代の満州・エチオピアという,二つの危機によって,この体制は崩壊したと言っていい.

 まず,満州だが,細かい話は,色々なところで語られているだろうから割愛するが,このときの国連の対応は非常に緩慢であったとナイ教授は指摘する.
以下,ナイ教授の文章を引用.

「全体として,満州を巡る事例は,国際連盟の手順が緩慢かつ慎重で,総じて効果がなかったことを示している.
 満州のできごとは国際連盟にとって試金石であり,そして,それは失敗に終わったのである」

 個人的には,リットン調査団の共同統治案は受け入れたほうが良かったと思う.

 次にエチオピアだが,この時,国連は,イタリアに対して制裁を課したが,それが中途半端だったと言える.
 国連はイタリアに対して
・イタリアへの全ての軍事物資の禁輸
・イタリアへの借款禁止
・天然ゴム・鈴などの物資販売禁止
等の措置をとったが,実は,イタリアは,鉄や,石炭・石油を輸入することができ,さらに,スエズ運河をイギリスが閉鎖しなかったため,イタリアからエリトリアへの物資輸送も可能であった.
 これは国際連盟が,イタリアはこの制裁でエチオピアから撤退すると言う楽観論から来ている.

 以下,ナイ教授の文章を引用.

「制裁はイタリア経済にある種の打撃を与えた.
 この一年でイタリアの輸入は3分の1に低下したし,イタリア通貨リラの価値は下がり,イタリアの保有する金は9ヶ月で払底すると見られていた,
 だが,制裁は苦痛をもたらしたものの,ムッソリーニのエチオピアに対する政策に変更を強いることはできなかった」

 また,ヨーロッパのリアリストは,遠く離れたアフリカのことなど,ヨーロッパの安全保障に脅威ではないとみなした.
 英仏は,エチオピアを二つに分け,1つをイタリアに,もう一つを国際連盟の統括区にすること計画を練った.
 これに対して,イギリスでは
「集団安全保障を売り渡した」
と言う批判があったが,3ヵ月後にヒトラーがロカルノ条約を破棄し,ラインラントへ進駐したため,エチオピアどころではなくなり,英仏両国はイタリアと会同し,ヨーロッパのバランスオブパワー回復について協議した.

 結果として,イタリアはエチオピアに対して軍事的勝利を収め,1936年7月までに制裁は解除された.
 以下ナイ教授の文章を引用.

「この悲劇に関しては,国際連盟のハイチ代表が,最も明瞭に語っている.
『大国か小国か,強国か弱国か,近隣の国か遠方の国か,また白人の国か,非白人の国かを問わず,いつの日にかわれわれも誰かにエチオピアにされるかもしれないということを,決して忘れないようにしよう』
と.
 そして,数年のうちにほとんどのヨーロッパ諸国が第二次世界大戦でヒトラーの侵略を被ったのである.
 集団安全保障に関する世界で最初の試みは,陰鬱な失敗に終わった」

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 なんでベルサイユ体制はあっけなく崩壊し,ヒトラーの進撃が始まったのですか?

 【回答】
 A,フランス一国で,どうやってヒトラーの野心を抑止しろっちゅーねん.
 アメリカは孤立主義で関わってこない.
 イギリスはWW1の再来を恐れて宥和主義に走る.
 東欧には列強オーストリア帝国がもう存在しない.代わって生まれたのは,クソの役にも立たない小国ばかり.
 同盟国だったロシア帝国は滅亡してソ連になり,英仏と対立する.
 もうダメぽ.

 以下,ドミニク先生『帝国の興亡』上巻,p144より引用.

【東欧とアメリカの場合】
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 ヒトラーの一撃で,ヨーロッパのベルサイユ体制はあえなく崩壊した.
 東・中央ヨーロッパの各民族が領土を巡って互いに調整できないほど対立していたことを考えれば,一九一九年の解決がもともと多くの敵を生み出すのは当然だった.
 この地域における戦後の解決の勝者――ポーランド,チェコスロバキア,ルーマニア――はあまりに弱く,しかもばらばらだったため,ドイツに立ち向かえなかった.
 以前はロマノフ,ハプスブルグの両王朝とオスマン帝国に支配されていた東・中央ヨーロッパには,ドイツが簡単に進撃できる力の真空があった.

 こうしたプロセスを食い止めることができたのは,ベルサイユ体制を支配し,戦後のヨーロッパ秩序を打ち立てた旧連合国だけだったが,もはやその意思も能力もなかった.
 この秩序はもともと,アメリカのヨーロッパ介入が無ければ存在すらせず,アメリカが一九一九年以降,孤立主義に向かうと,戦後の解決は大きな砦をひとつ失ってしまった.
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【イギリスの場合】
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 イギリスは(自治領を数に入れなくても)フランスより強かった.
 しかし,一九三〇年代のイギリスは――仮想敵国と比べた場合――半世紀前よりはるかに少ない資源で世界各地に広がる帝国を防衛しなければならないという課題に直面していた.
 イギリスがたとえフランスと同盟を組んでも,三大陸で日本,イタリア,ドイツからの挑戦を同時に耐えねばならない状態に追い詰められていたのである.
 いずれにしても,イギリスは常に,ヨーロッパ大陸への大規模な軍事介入を避けてきた.
 一九一四年から十八年には,この伝統を断ち切って大陸に軍事介入したわけだが,その代償は膨大で,二度とこんな経験は繰り返すまいと考えた.
 このため,イギリスは東・中央ヨーロッパの領土問題の解決に深い思い入れもなければ,ドイツの挑戦に対して武力を行使してまで防衛しようとも思わなかったのである.
 イギリスはドイツの承諾を得ようとして,現地の人々に犠牲を強いて数多くの譲歩を進んで重ねていった.
 要するにイギリスは,「ベルサイユ体制」の道義性に疑問を抱き,再びソンム川〔フランス北部イギリス海峡に流れる川で,第一次大戦の激戦地だった〕へと戻らねばならない恐怖感にも駆られていたのであり,イギリスにとってはヨーロッパよりも,むしろ帝国の優先順位や関係のほうが大事だったのである.
 その結果,一九三九年九月,ついにヒトラーの挑戦に直面すると,イギリスが西部戦線に派兵したのは,あまり見栄えのしない二個師団というちっぽけなものでしかなかった.
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【仏とロシアの場合】
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 一方,フランスは厄介な役目を背負い込んでいた.基本的な点は,フランスが一国だけでベルサイユ体制を支える手段をまったく持っていなかったことだ.
 一九二〇年代,ドイツの人口はフランスの人口の倍もあり,ドイツの産業もフランスのそれよりはるかに優っていた.
 一九一四年以前でもフランスは,ドイツ・オーストリアはいうまでもなく,ドイツ一国に対しても,独力で立ち向かえなかった.
 これこそ,一八九四年に露仏同盟が結ばれた理由にほかならない.
 それゆえ,一九一七年のロシア革命と帝政ロシアの崩壊は,フランスにとって,さらにヨーロッパのバランス・オブ・パワーにとっても破滅的だった.
 実際,一九三〇年代にドイツの脅威が再び頭をもたげてくると,不十分ではあるがロシアとの同盟再構築に向けた努力が費やされた.
 しかし,一九一九年に東ヨーロッパにきわめて反共的な国家の緩衝地帯がつくられていたため,ソ連が直接ドイツに干渉するのは困難だった.
 それより重要だったのは,ソ連の共産主義と英仏の自由主義的資本主義のイデオロギー対立である.
 英仏両国の世論はほとんど,共産主義ロシアとの同盟を毛嫌いしていた.
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使徒むーちゃ in mixi


 【質問】
 ベルサイユ体制において,ソ連は対ドイツ包囲網の一角として計算されていなかったのですか?
 英仏ソの三国で独を封じ込める,というのは悪くないと思いますが.

 【回答】
 英仏がソ連を敵視したうえ,ソ連の側も西側を信用していなかった.
 もしもドイツがソ連に進撃したら,自国だけで対抗する羽目になると思っていた.

 以下,『帝国の興亡』上巻,p147より

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 スターリンによる粛清が明るみに出ると,スターリン政権への反感は高まり,西側の政府も,国内の軍事的,政治的エリートを虐殺するような国家は戦争で活躍できないとの確信を強めた.
 ソ連指導部のほうも,英仏への嫌悪や不信を鸚鵡(おうむ)返しにした.
 ソ連側はミュンヘン協定〔一九三八年九月にミュンヘンで開かれたヒトラー独総統,チェンバレン英主張,ダラディエ仏首相,ムッソリーニ伊首相の四大国首脳会談で結ばれた.チェコスロバキアのズデーデン地方をドイツに割譲するとの内容で,宥和政策の典型例.ソ連は交渉から一貫して排除された〕を,ソ連の犠牲の下でドイツが東方へ拡大することを英仏が認めたものと見なした.
 ドイツと戦争になった場合,ソ連が戦闘のほとんどを引き受けなければならないと信ずるに足る理由がソ連政府にはあったのだ.
 フランスはマジノ線〔第二次対戦前にフランスがドイツとの国境につくった要塞〕を築き,その背後に身を潜めようとしているのは明らかだった.
(略)
 他方,イギリス陸軍の状態を考えれば,ヨーロッパの戦争が決して長続きしなくても,イギリスが地上戦で役に立たないのは,もはや自明だった.
 こうした要因が重なって,フランス,イギリス,ソ連はドイツに対する強固な共同戦線を構築できなかった.
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使徒むーちゃ in mixi


 【質問】
 ドイツはロカルノ条約を破ってラインラントへ兵を進めたり等,条約を破りまくりなんですが,それらについて,当時の国際機関であった国際連盟は具体的なことは出来なかった,ととらえてよいのでしょうか?

 【回答】
 何もできませんでした.
 まあ,ラインラントはドイツの領土――ロカルノ条約により,非武装地帯にされていただけ――ですし,国民は進駐を熱狂的に支持しましたから….
 ラインラント住民にとっても,いつフランスやイギリスから占領されるか分かりませんでしたからね.

 加えて言うなら,英国の世論は概してドイツに同情的でしたし,フランスは政情不安でとても出兵できる状態でなかったということを考えれば,じゃあどこの国が制裁するのよ?ということになりますわね.
 それを見越してヒトラーも進駐に踏み切ったんですが.

 ただ,いざ実行するに際しては,ドイツ側もおっかなびっくりだったようで,(
ロカルノ条約では違反時に武力制裁が認められていましたから)英仏軍が攻撃してきた場合には,すぐに撤退できるよう準備をしていたそうです.
 当時の独軍には実戦を耐え得るだけの実力はありませんでしたので.

(世界史板)


 【質問】
 もしチェコがドイツに抗戦していたら,防衛可能だったでしょうか?

 【回答】
 その可能性は比較的高かったと思われます.

 『第三帝国の興亡』(ウィリアム・シャイラー著,東京創元社,1977)によれば,割譲されたズデーテンランドにはボヘミアの山稜の背全の防衛線と,チェコの「マジノ線」要塞がありました.
 それはこれまで,おそらくフランスのマジノ線を除いてはヨーロッパでもっとも大規模な防衛線を形成しているものでした.
 また,ドイツが兵隊を集めだすと部分動員をかけています.

 カイテル将軍はニュルンベルグの証言台で
「私たちは最初から,チェコスロヴァキアの国境要塞を攻撃するには,わが方の準備が不十分だという意見でした.
 純粋に軍事的見地からすると,わが方は,国境要塞を突破するに必要とする攻撃手段を欠いていました.」
 マンシュタインも
「チェコスロヴァキアが防戦しましたならば,わが方は,その要塞によって食い止められたことにはいささかも疑いありません.わが方は,突破するだけの手段を持たなかったからであります.」
 ヒトラーさえも,チェコ要塞線を検分したあと,少なくとも部分的にはこれを認めた.
 彼はあとでダンチヒの国際連盟弁務官カールブクルハルトに語って
「ミュンヘンのあと,チェコの軍事力を内側から検討する機会を得たとき,われわれが見たものは,ひどく,われわれを驚かせました.
 われわれは重大な危険をおかした次第だったのです.
 チェコの将軍たちが用意した計画は恐るべきものでした.
 私は今になると,わが方の将軍連が抑制を主張した理由がよくわかります」
 チェコ軍三十五師団が要塞線に拠って防戦した時,西部側には12個の師団,しかも正規師団は五個しかいないドイツにとって,百のフランス師団を止める術はありはしない.と結論付けています.
 その事をドイツ軍の将軍たちは理解し,チェコへの攻撃に反対し,反ヒトラーへの最初の謀議をしています.

笹山 in FAQ BBS

 ただし不安要素としては,国力でドイツに劣っていた点がある.
 確かに,チェコは中東欧の中では先進的な工業を持ち,人口も1千万程度でかなりの国力を持っていたが,それはあくまで中欧・東欧の小国の中での話.

 もうひとつ,当時のチェコスロバキアは国内に数百万のドイツ人を抱えていたので,総力で戦える体制もとれなかった.
 ナチス政権下でドイツ国民が団結していたのに対して,当時のチェコの人口の30%を占めていたドイツ系住民は,チェコではなくドイツに対する忠誠心を持ち,ドイツへの併合を求める活発な政治運動も存在した.

世界史板・改

スコダの38cm砲


 【質問】
 WW2の直接原因は?

 【回答】
 戦争がはじまった直接の原因は,ドイツがポーランドに,ダンツィヒ割譲とその周辺のポーランド回廊に交通網の施設と使用を要求して拒否されたんで,攻め込んだことかね.
 中止しないと戦争するぞと英仏が警告したが,ドイツは何とかなると思って警告を無視した.
 WW2の開始は,中止の期限が切れた瞬間とみなされる.

世界史板

 えー・・・キッシンたんの『外交』を読んでるわけですが,まぁ,迫害を受けた経緯があるキッシンたんの「対ドイツ」を鵜呑みにするのは危険としても,ワイマール体制から飛ばしています>ドイツ

 何せ首相が以下の発言をしとります.

[quote]

 ドイツのヴィルト首相はモスクワ駐在大使ウルリッヒ・フォン・グロックドルフ・ランツァウに次のように言った .
「私が率直に言うべきことが一つある.
 すなわち,ポーランドは抹殺されなければならないのである.
 私はポーランドを強化する可能性のあるいかなる条約も締結しない」

ヘンリー・キッシンジャー『外交』上巻(日経新聞社,1996.6) 397ページより引用

[/quote]

 まぁ,ポーランドはポーランドで,革命が起きたばかりのソ連に戦争吹っかけて,領土を掠め取ってるんですけどね.
 ポーランド分割案ってのは,独ソ共にポーランドへの反発の下地があったんでしょうなぁ.

 ちなみにキッシンたんの主張では,シュトレーゼマンが生きていれば,戦争に訴えることなく,ヨーロッパでの主導権を握れていて,ヒトラーはむしろそれを邪魔したっつー感じですな.

 同書では,その前の,WW1時のドイツの突っ走りっぷりもかなり面白いです.
 でも,さすがにヴィル三世閣下を弁護する方はいませんなぁ(笑)

ますたーあじあ in mixi,2007年06月20日19:18


 【質問】
 第二次世界大戦は回避可能だったか?

 【回答】
 恐らく回避不可能であったとは思うが,規模を小さくすることは可能ではあったと思う.

 1926年のロカルノ条約で,戦争の可能性はかなり低くなったが,1929年の世界大恐慌とフランスのルール地方占領・それを背景とした,1933年のヒトラー政権獲得のあと,戦争の蓋然性は高まり,1941年に地球規模の戦争となってしまった.

 以下,ナイ教授の文章を引用.

 第一次世界大戦でドイツ問題を解決するのに失敗したことで,既に1918年に第二次世界大戦の蓋然性はあった.
 もし西洋民主主義諸国が1920年代にドイツに宥和し,より懲罰的でない対応をしていれば,ワイマール共和国の民主主義的政府は生き残ったかもしれない.
 あるいは,もしアメリカがヴェルサイユ条約を批准し,(1945年以降そうしたように)ヨーロッパのバランス・オブ・パワーの維持に関与し続けていれば,ヒトラーの台頭はなかったかもしれない.
 ヨーロッパで何らかの戦争は起きたかもしれないが,それは必ずしも地球規模での第二次世界対戦ではなかったであろう.
 1930年代に,経済恐慌の衝撃が侵略を美化するイデオロギーの高まりに力を貸し,戦争をより現実的なものにしてしまったのである.

 その後も,例えば,1930年代の初頭に英仏とソ連が同盟を組んでドイツに対抗するとか,アメリカが国際連盟に参加するとかのifも考えとしては面白いだろうが,状況からすると難しいだろう.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 第二次世界大戦での宥和政策は害悪だったのか?

 【回答】
 必ずしもそうは言えない.

 そもそも,宥和政策は,古くからある手法の一つである.
 宥和政策とは,敵の侵略を抑制したり,封じ込めるよりも,敵に穏当な利益を認める方が,こちらにとって,望ましい結果を得られる時に実行する政策である.

 以下,ナイ教授の文章を引用.

 1815年に戦勝国が敗れたとはいえ,未だに強大なフランスに宥和した時,宥和政策は成功裏に用いられた.
 1890年代にイギリスは,台頭しつつあるアメリカに宥和した.さらに,1920年代に西洋諸国がドイツに宥和政策を取った方が良かったとさえ言えよう.
 戦間期の大いなる皮肉の1つは,1920年代に西洋諸国が宥和すべき時に対決姿勢をとり,1930年代にドイツと対立すべきときに宥和政策をとったことである.
 宥和はヒトラーに対しては誤ったアプローチであったが,イギリスのネヴィル・チェンバレン首相は,ミュンヘン会談の敬虔から言われているほど臆病な人物ではなかった.
 彼は新しい世界大戦を回避したかったのである.
 1938年7月に彼は次のように述べている.
『この恐ろしい(第一次世界大戦の4年間,人生の盛りに命を落とした700万の若者,不具になった1300万人の人々,父母や子供たちが味わった悲惨と不幸を思うとき,戦争に勝者はなくすべてが敗者である,と言わなければならない.
 こうした思いから,ヨーロッパでの大戦争の再現を何としても避けることが,私の主要な義務だと感じるのである』」

 外交上の失敗が戦争の原因という見本の1つとして,留意すべき事ではないだろうか?

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi

 【質問】
 では,チェンバレンの失敗は何だったのか?

 【回答】
 状況把握ができていなかったことだろう.
 彼は,ヒトラーが計画的な侵略に対して,無知であり,この点は「無知の傲慢」と言えるかもしれない.

 だが,その過ちを犯したのはチェンバレンだけではなかった.
 第一次世界大戦は,意図しない敵意の連鎖反応であって,これは「ドイツとの宥和」という形で回避可能だったかもしれない.
(シュリーフェン・プランは結構致命的な気はするし,オーストリアに対する対応は褒められたものではないが)
 政治学者,デビット・ガリレオが言うように,「成り上がり者(ドイツ)との理に適った協調を拒否したことの破壊的結果である」かもしれない.

 だが,第二次世界大戦は,ヒトラーの計画的な侵略に対する抑止の失敗である.

 以下,ナイ教授の文章を引用.
 この意味で,2つの世界大戦を阻止するための適切な政策は,ほとんど正反対であった.
 ドイツとの協調は第一次世界大戦を阻止するのに有益だったかもしれないし,ドイツに対する抑止は第二次世界大戦を防いだかもしれない.
 だが,実際の政策は逆であった.
 第一次世界大戦の再現を避けようとして,1930年代のイギリスの指導者たちは第二次世界大戦の引き金の手助けをしてしまったのである.
 同じ時期に,日本を抑止しようというアメリカの指導者たちの努力は太平洋戦争をもたらした.
 抑止は破綻した.というのも平和という選択肢が戦争に敗れるよりもひどい状況になる,と日本の指導者たちは不安を感じていたからである.
 もちろん,これは単純な見方であって,第一世界大戦は完全に偶発的な戦争ではないし,第二次世界大戦は,単にヒトラーの計画的な侵略とも言えないので,過度に単純化するのには,慎重にならなければならない.

これらのモデルが,歴史の事実に照らして事実かどうか,それが現在の事態に適合しているかどうか,常に問い続ける必要があるだろう.

 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.

ますたーあじあ in mixi


 【質問】
 チェンバレンの宥和政策はいろいろと批判が多いですが,アレは時間稼ぎでミュンヘン会談後,イギリスは軍備を大拡張しているという話を聞きました.
 これって真実ですか?

 【回答】
 軍備の拡張ならば,海軍を除いて,陸軍と空軍は1934年から開始しています.
 軍縮条約に束縛されていた海軍も1936年から拡張を開始しており,防空用RDFの設置も1935年から開始されています.

 そもそも,軍備の拡充などは一朝一夕に出来ませんので,それよりも早い時期に準備を行わなければ成りませんから….

 また,操縦士の養成については,1936年から開始されています.

 遅れたのは陸軍兵士の動員だけです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 テイラー論争とは何よ?

 【回答】
 1960年代,第2次大戦の起源に関して,A.J.P.テイラーの発表した所説をめぐって起こった論争.
「ヒトラーの下でナチスが計画的に展開した対外侵略に戦争勃発の根本因を求め,チェンバレンの宥和政策がその侵略を拡大させた」
とする1950年代までの一般的見解に対して,テイラーは,大戦が
「交戦陣営双方の外交的失敗によるもの」
としてドイツの侵略計画の一貫性を否定し,宥和政策についてもヨーロッパの全般的和解を目指した合理的政策であったと再評価した.
 テイラー説はナチスの戦争責任を完全に免責するものではないにせよ,従来の通説を大幅に修正するものであり,『我が闘争』をはじめとする各種史料にヒトラーの対外膨張計画の一貫性をみるトレヴァ=ローパーから
「史料の取捨選択を行っている」
と,社会経済状況から開戦状況の解明を試みるティム・メイソンからは
「ドイツ外交の背景にある国内的要因を軽視している」
と批判を受けた.
 テイラー論は通説の修正を急ぐあまり,説得的な論証とはなりえなかったが,同時期のドイツで起こったフィッシャー論争同様,世界戦争についての歴史研究と歴史意識のあり方を検証させる契機となり,ナチス外交研究や宥和政策研究の深化に大きく寄与した.

 詳しく知りたきゃ,テイラー著『第二次世界大戦の起源』(中央公論社,1977年)や斉藤孝著『第二次世界大戦前史研究』(東大出版会,1980年)でも読め.

世界史板


 【質問】
 「いかさま戦争(ファニーウォー)」とは?

 【回答】
 ドイツに対して英仏が宣戦布告したものの,実際には翌年まで戦火を交えようとはしなかったことによる,その間の奇妙な平穏のあった時期を指す.

 一例としては,フランス国内にはドイツの発電所から電気をもらっている村があるのだが,宣戦後のあるとき,ドイツが無通達で電気の配電をやめた.
 そこで,フランスは脅かしの大砲(空砲だったかな?)を撃ったりした.
 やがてドイツの発電所から「配電をとめたのは発電所の点検のためであります」とかいう連絡がきて,電気の供給が再開された.

 また,ドイツがフランス国の橋を戦略的に破壊するときに,その前に爆撃機で橋を爆破するから気をつけてくれっていうビラをまいてから破壊したとか.

 ポーランドそっちのけで遊んでいたわけですな.

(世界史板)


 【質問】
 第二次世界大戦が始まった直後,フォニーウォー Phony War といわれてるけど,その時,敵軍を訪問して記念写真まで撮ったというのは本当ですか?

 【回答】
 記念写真云々というのは最近映画になった第一次大戦のエピソードだと思うが.

 そこまでいかなくとも,川の向こうに敵がいるのに撃たなかったり,宣伝放送代わりに音楽を流したりと,双方やる気のあるところを見せなかったのは確か.
 当時のフランス軍は動員が進まなかったので,積極的な攻勢をかけようとはしなかった.
(開戦冒頭にドイツ側にちょっとだけ侵攻したがすぐに引き揚げている)
 ドイツ側もポーランド戦の直後で休養再編成や動員・訓練の必要があったし,何度か計画した西欧への侵攻が気象条件で中止になったり,侵攻計画が煮え切らないものでヒトラーがダメ出ししたりで伸び伸びになった.
 そんなこんなで,表面的には双方ダレダレで国境線で対峙する状態が40年の5月まで続いた.
 これを"Phony War","Twilight War"(米記者の表現),"Sitzkrieg"(ドイツ語で座り込み戦争)という.


 【質問】
 ポーランド侵攻を口実としてドイツに宣戦布告したイギリス・フランスですが,半分占領したソ連にはなぜ布告しなかったのでしょう?
 また両国国内では,ソ連にも布告しようといった世論はなかったのでしょうか?

 【回答】
 フランスはソ連侵攻作戦を計画しています.当時の仏政府はガチガチの反共でしたから.
 しかし,その計画たるや,フランス中近東軍がカフカスへ侵攻し,モスクワを突き,北方から来たフィンランド軍と握手しようという,壮大を通り越して妄想に近いものでした.
 これを聞いた英国は,呆れてまともに相手にせず,計画は立ち消えになっております.

(世界史板)

 また,準備も不足していました.

 そもそも,英国,フランスとも,対独宣戦したのは,米国国務省外交文書集によると,
「もし,自国領土の防衛にポーランドが専念している最中に,英仏がポーランドを見捨てることがあるのなら, 中東欧でドイツの侵略に抗する国はなくなる(当時はルーマニア,ユーゴ,ギリシャ,それにハンガリーは,連合国とドイツとの間で辛うじてバランスを取っていた).
 そして,ドイツはこれらの国々を組織した上で,英仏を攻撃する絶好のチャンスを与えられることになる」
と言う判断から行われたものです.

 しかしながら,両国とも具体的行動,すなわち軍備強化は上手くいかず,例えば,フランス派遣英国軍は1939年11月時点で,フランスに上陸していたのは8万人,フランスが持ちかけた英国空軍と共同でのドイツ本土爆撃も,空軍力劣勢とドイツの報復爆撃の懸念から具体的に至っていません.

 しかも,Chamberlainは,戦局の予想が付かず,内部崩壊,経済封鎖のジリ貧化に望みを繋いだりしています.
 国民はまだ長期戦に対する覚悟は定まっていない,と.
 そして,フランスはと言うと,これがより酷かった訳で.

 そう言うことで,戦争準備がとても整わず,ソ連の軍事行動に対する掣肘など,とてもじゃないけど出来かねる 状況でした.
 ソ連の側も,疑心暗鬼で,英仏がドイツの矛先をソ連に向ける機会を窺いながら,馴れ合いでやっている戦争 ではないか,と思っていたようです.

 しかし,冬戦争時点では反ソ,反共感情が国民の間に湧き上がり,英仏はフィンランド援助軍を派遣しようとしています.
 Churchillの旦那的には,ドイツの鋭鋒をスカンジナビアに向けることが主目的と言っていますが,フランスは, バクー油田空爆,カフカズ地方の回教徒を扇動して,反ソ暴動を起こさせ,ソヴィエト政権を転覆させる計画まで 持っていました.
 幸い,と言うか,なんというか,冬戦争が早く片づいたので,対ソ宣戦は見送られた訳ですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 もしバトル・オブ・ブリテンに勝利したら,ドイツ軍は英本土上陸作戦をやる気でいたんですか?

 【回答】
 というか,バトルオブブリテン自体がイギリス上陸作戦実施のために,イギリスの航空戦力を削る(というか叩き潰す)ことが目的だった.
 本土上陸やる気じゃなかったら,そもそもあの戦いが発生していない.

 海軍戦力でイギリスにかなり劣るドイツは,航空優勢を完全に確保した上で,ドーバーの両出口を機雷で封鎖して,ドイツの上陸船団が安全に通れる「海の道」を作ることを考えていた.

 結局はバトル・オブ・ブリテンが長引き,その間に海が荒れるわ,東部戦線がおっぱじまるわで,作戦は延期と言う名の事実上中止へ.

軍事板


(引用元:朝目新聞)


 【質問】
 なぜドイツは対米宣戦布告したのか?

 【回答】
 『西部戦線全史』(山崎雅弘著,学研M文庫,2008.3),P.315〜318によれば,対米宣戦の真意をめぐる論争は明確な結論は出されていない,としながらも,41年の段階で米は
・英へのレンドリースや兵器,軍艦の供与
・(独の占領下にあった)デンマーク領のグリーンランド,アイスランド(当時)への軍隊の進駐
・米英による大西洋憲章発表
などにより独を敵とみなしていた.

 そして大西洋では既に米独の海軍が交戦状態にある中での真珠湾攻撃.
 独海軍としては米海軍の戦力を東西に二分できると歓迎.

 しかし日本を「独の敵の敵」という立場に拘束し続けるには,日本の単独講和の可能性を摘み取らなければならない.
 そこで独外務省は単独講和を禁止する条約を作成して日本側へ送付.
 12/11に独の対米宣戦,日独伊がこの条約に調印.
…という考察をしています.

グンジ in mixi,2008年05月04日16:55


 【質問】
 第2次大戦で一番死者が多かった国は?

 【回答】
 たしか,ソ連は民間人込みで1千万人以上やられてます.
 数年前に出てた,ダニガンのWW2の余話集(文庫本で翻訳にけっこう誤りのあったやつ)に,各国の人的被害について軍人・民間人別でまとめられています.

 うろ覚えだけど被害の多かったのは中国,ソ連,ポーランドあたりだった覚えがあります.
 1913年(この数字信頼性ゼロや)生まれのソ連人全男性の80%以上が戦死したとか.
 死傷者数を見るよりも,恐ろしさを実感した覚えがある.
 その前後の世代も似たような戦死率で,50年代になって,未亡人や結婚適齢期を逃した女性の為の政策に政府が悩んだと覚えてます.

 あと,ポーランド人300万人も絶滅収容所で死んでますね.
 まさに,「世界は地獄を見た」ですな.

軍事板


 【質問】
 第2次大戦中最も多くの人が死んだ場所ってどこでしょう?
 ベルリン? 南京? ドレスデン? スターリングラード? 東京?

 【回答】
 レニングラード包囲戦で,市民を含めて67万人(ソ連政府発表),一説によると100万人以上が死亡したと言われる

 レニングラード攻囲戦についてはハリソン・ソールズベリの『攻防900日』がおすすめ.
 大都市が包囲されると,どれだけ悲惨なことになるか,読んでると背筋が寒くなってくるよ.
 けっこう重要なポストの役人の奥さんが,友達から譲ってもらった皮のバッグでゼリーを作ってたり,家族をボール紙の棺おけに入れて運んできた人が,そのまま墓地で行き倒れたりとか.
 町の往来で「解体」された人間の生首だけが転がっていたとか,行きずりの人に頼まれてアパートに行った少女がドアを開けたら,血抜きされた人体がぶら下がっていたとか.

 攻囲がようやくとけて郵便配達が始まっても,住民が全員餓死していて受取人がいないアパートがあったとか.

軍事板


 【質問】
 第二次世界大戦最後の戦闘ってどこで行われたものですか?

 【回答】
 敗残兵のゲリラ的戦闘を別にすれば,ソ連軍の満州侵攻作戦ということになると思います.
 侵攻が始まったのが八月九日,
 大陸命により停戦命令が出たのが八月十八日.
 しかし戦闘はまだ各所で続いており,虎頭要塞の陥落は八月二十六日,
 興安嶺で戦闘中だった第百七師団が停戦に同意したのは実に八月二十九日です.
 その後も九月になるまで小規模な戦闘が満州各所であったはず.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板


 【質問】
 国連の敵国条項には,どんな国の名が挙げられているのですか?

 【回答】
 ん? 一般に「敵国条項」というものは国連憲章上には存在しませんよ.
 それと解釈されている国連憲章第107条には,以下のように規定されていて,どの国がと言うのは記述されていません.

第107条〔敵国に関する行動〕
 この憲章のいかなる規定も,第二次世界大戦中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動で,その行動について責任を有する政府が,この戦争の結果としてとり,又は許可したものを無効にし,又は排除するものではない.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 「スターリングラード」がパリ郊外の街の名前になっているそうですが,どーいう経緯でこんなことに??

 【回答】
 フランス語wikipediaによれば,パリのスターリングラードは町ではなく地下鉄の駅名.
 1946年にスターリングラードの戦いにちなんで改名されたとある.
 友好の証として外国の地名を土地や建物につけるのは,欧米では珍しいことではない.
 戦後すぐは,まだ東西間は冷戦に突入してなかったからね.

軍事板


 【質問】
 鉄のカーテン演説とは?

 【回答】
 チャーチルがウェストミンスター・カレッジを訪問した際に行った演説.
 彼は
「バルト海のステッテンからアドリア海のトリエステまで,鉄のカーテンが大陸を横切って降りてしまった」
と述べ,スターリンを激怒させたが,それが卓見だったことは,その後の歴史が証明している.

 以下引用.

 1946年3月5日,チャーチル(Winston Churchill)はもはや英国の首相ではありませんでしたが,名誉博士号を受けるため,米国のミズリー州フルトンのウェストミンスター・カレッジを訪問し,後に「鉄のカーテン演説」と呼ばれることになった演説を行いました.
 聴衆の中には,1,000マイル離れたワシントンからかけつけたトルーマン(Harry Truman)米大統領もいました.
 チャーチルは1930年代にナチスドイツによる戦争の脅威を説き,英国の人々の嘲笑を浴びましたが,正しかったのはチャーチルの方でした.
 ここで,チャーチルは再び同じようなことを試みたのです.
 チャーチルは,「バルト海のステッテンからアドリア海のトリエステまで,鉄のカーテンが大陸を横切って降りてしまった.この線のかなたに中央と東欧州の古い国々の首都すべてが横たわっている.ワルシャワ・ベルリン・プラハ・ウィーン・ブダペスト・ベオグラード・ブカレスト・ソフィアだ.これらの有名な都市とそれを取り巻く住民はことごとくソ連圏と呼ぶべきものの中に横たわっているのだ.」と語ったのです.
 チャーチルは,ロシア軍の占領下に置かれた中東欧において,スターリンの命令に従い,ロシア人が共産党政権による全体主義支配を押しつけつつあることを自覚するよう米国の人々に呼びかけたのでした.

 スターリン(JosephStalin)は,この演説に激怒し,チャーチルを「戦争屋」と非難し,この演説文をソ連内で発禁処分にしました.
 米国の人々は長きにわたって,ソ連の本質から目を背けてきたのですが,翌1947年にようやくトルーマン政権は,ソ連に対する封じ込め政策を決定し,1989年まで続く米ソ冷戦時代が始まるのです.
(チェコスロバキアでの共産党政権の樹立とベルリン封鎖によって,ソ連の本質が誰の目にも明らかになる1948年の1年前のことでした.)
(以上,http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/4776444.stm(3月6日アクセス)による.)

太田述正コラム#1202(2006.4.25)


 【質問】
 エストニアの首都タリン(Talinn)で,1944年のソ連軍によるエストニアのナチス占領からの「解放」を記念する2メートルの立像を,なぜ撤去したのか?

 【回答】
 エストニア人にとっては,ソ連軍は解放者などではなく,植民地化と弾圧の象徴のようなものであるため.
 ソ連軍が1940年6月にエストニアを占領して以後,1991年までに何万人ものエストニア人がソ連によって殺されたり,収容所送りになったり,弾圧されたりした.
 また,ソ連の他の非ロシア地区同様,エストニアにはロシア人が労働者として,あるいは軍人として送り込まれ,現在でも30万人ものロシア系がエストニアに居住している.
 エストニア人からは,これは植民地化政策であると受け止められている.

 詳しくは太田述正コラム#1751(2007.4.29)を参照されたし.

 【質問】
 立像撤去に対し,なぜロシア系住民の暴動が起き,ロシアからも非難の声が上がったのか?

 【回答】
 ロシア側から見れば,独立後のエストニアでロシア系が二級市民扱いされていることへの腹立ちもあるが,根本的な問題は,ロシアでいまだにソ連時代の第二次世界大戦史観が維持されているため.
 エストニアのロシア系も視聴している,ロシアの国営メディアは,そうした史観に基づく,ナショナリスティックな一方的な物の見方を視聴者に吹き込んでいる.

 ちなみに,ロシア国内では,第二次世界大戦の記念碑が壊されてもほとんど問題にされていない.
 例えば,2007年4月には,モスクワの郊外で道路拡張のため,6人の操縦士の墓が撤去されたが,抗議の声はほとんど挙がらず,1人抗議した人物は,警官に殴打されたという.

 詳しくは太田述正コラム#1751(2007.4.29)を参照されたし.

◆◆中立国


 【質問】
 ポルトガルのサラザール大統領は,同じファシストでありながら,なぜナチを支援しなかったのか? 逆に1940年には米軍に基地を無償提供しているようだが.

 【回答】
 サラザールは反ナチというよりは反近代主義者で,農村主体の社会を理想としていたそうだ.
 秘密警察の訓練でゲシュタポの協力を仰いでいたそうだけど,ナチとは思想的にはかなり違うところにいたようだ.

 この辺の出典は中公新書ラクレの「世界ファシスト列伝」(長谷川公昭)より.
 フランスのファシスト達についてもかなり詳しく紹介してるので,安いし買って損はないと思う.

 ちなみにサラザールは昼寝中にハンモックから落ちて寝たきりとなり,晩年は公務を遂行できなくなっていた.
 しかし側近達は,偽の書類を作って署名を求めたり,彼が安心するような内容の偽新聞を毎朝届けたりしていた.
 だから彼は,死ぬまで自分がポルトガルを指導していると信じていたそうだ.
 まあ,ある意味,最も幸せな死を迎えた独裁者と言えるかもしれない.


 【質問】
 第二次大戦中の中南米諸国(といっても10ヶ国以上あるが…)ってどういう状況だったんでしょうか?
 大半の国が末期に駆け込みで参戦したり,ブラジル軍がイタリアで戦ってたことぐらいしか聞いたことがない…
 第一次大戦のときは,ツィンメルマン事件なんてのがあったけど.

 【回答】
 全体としては親独的傾向が強かったものですが,余りドイツ支持を明確にすると,経済界から政府(殆どが軍事政権)が支持されなくなるので,表だった形はありません.

 1939年に中南米諸国の代表がパナマに集まり,パナマ会議が開かれます.
 この会議では,カナダを除く南北両アメリカ大陸の周囲300マイル幅の安全中立海域を宣言し,その海域での交戦行動を禁じる宣言を出しています.
 しかし,ドイツ(日本も)が対米宣戦をしたことに伴い,1942年にリオ・デ・ジャネイロにて中南米諸国の外相会議を開き,枢軸国に対する宣戦布告を決議し,まず,対枢軸国断交が行われました.

 全体の流れは以上の通りですが,個々の国を見ていきますと,……

 アルゼンチンは,英国や米国との農産物貿易で大儲けし,第二次大戦後,暫くの間は,世界的に見ても大金持ちの国になって独自の超音速ジェット戦闘機を開発したりしています.
 1943年に対独・伊宣戦を行っていますが,航路帯から外れていた所為で,周辺海域の対潜哨戒くらいで,軍は積極的に動かしていません.(対日宣戦は1945年…大抵の国は対日は1945年に入ってからです)
 ただ,1943年6月4日にクーデターが勃発し,新大統領に枢軸国寄りの元陸相P.ラミレス将軍が就任しますが,米国の圧力(貿易停止)によって,中立の維持は困難になっていました.

 ブラジルは,G.ヴァルガス Vargas (画像右)独裁政権が共産党とファッショを禁じ,米国と良好な関係を保っていた関係と,自国艦船が潜水艦の脅威を受けていたため,1942年8月22日に独・伊に宣戦を布告し,米国からの軍事援助を得て,自国沿岸,自国沖の哨戒を手始めに,1943年2月に陸軍部隊を北アフリカ戦線に派兵しています.
 1945年には欧州戦線にP-47戦闘機中隊を送り,イタリアで戦闘を繰り広げています.

 メキシコは,1941年4月に米国と基地と地上設備の相互扶助協定を締結し,1942年5月29日に対枢軸国宣戦を行っています.
 しかし,装備は旧式なものが多く,その更新に時間が掛かったため,1945年まで戦争参加はずれ込み,1945年にP-47Dの部隊が南太平洋戦線で対日戦に参加を準備中に終戦となりました.

 中米諸国は米国の干渉政策を恐れていずれも共同歩調をとり,
グアテマラは1941年12月12日に対独伊宣戦布告,
ホンジュラスは,1941年12月9日に対日,12日に対独伊宣戦布告,
サルヴァドルも同様,
ニカラグアは8日に対日,12日に対独伊,
コスタリカもニカラグアと同様,
キューバは12月9日に対日,1942年3月12日に対独伊宣戦布告.
 パナマについては軍事的な要衝であることから,運河地帯は元より,全国土に米軍が進駐し,警戒に当たっています.
 宣戦は他の国々と同様.
 エクアドル,パラグアイ,コロンビア,ヴェネズエラ,チリ,ウルグアイは1944年まで宣戦布告をせず,中立を保っていました.

 ボリヴィアは1943年4月7日に対枢軸国宣戦を行い,ペルーは各国と同様に対枢軸国断交を行った後,米国と軍事協定を1943年2月に締結し,国内に米国の陸軍航空隊基地を建設することに同意しています.

 なお,ペルーとエクアドルとの間では,エクアドルの経済的混乱に起因して,その不満を外に向けるべく,1941年に大規模な国境紛争が発生しています.
 この紛争は,1942年のリオ・デ・ジャネイロ会議で取り上げられ,結果的に係争地の領土がペルー有利に裁定されました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 スウェーデンは第2次大戦中,どのように中立を守ったのか?

 【回答】
 『嵐の中の北欧 抵抗か中立か服従か』(武田龍夫著,中公文庫,1985.4)によれば,スウェーデンは戦争に巻き込まれない,という外交目的を達成するため,隣国ノルウェーの王室一行の入国さえ拒否.
 それどころか,ノルウェーに対してあらゆる援助を(この時点では)拒否しています.
 中立状態,つまりドイツにも連合国にも肩入れしない事を建て前としてますが,下手に肩入れしていると見られるとドイツの侵攻を招きかねず――この時のスウェーデン軍では太刀打ち出来ない――,ノルウェーを「見殺し」にする形になってしまいます.

 一方,ドイツからは様々な要求――スウェーデン領内の兵員・軍事物資の通過など――が出されますが,スウェーデンはその度に譲歩を余儀無くされ,対ソ戦の為の完全武装の一個師団のスウェーデン領内の通過も議論紛糾の末,
「スウェーデンの国益(非交戦状態の維持)のみを考慮した,一回限りの最大限の譲歩」
として通過を認めています.

(それまでの通過は
「戦闘の為では無く,本国への帰休(または部隊への帰任)」
「ノルウェーは占領下にあり,戦闘中ではない」
などの苦しい理由で認めていたが,この輸送は「戦争に参加する為に」移動するので,中立国の原則に完全に違反する)

 その後もドイツからは,追加の通過要求などもあり,この状態はスウェーデンの軍備が拡張し,ドイツの敗勢が明らかになりつつあった1943年まで続きます.
 この間スウェーデン国内では言論の統制・検閲(ドイツの反感を買いそうな記事などを差し止め,出版停止など)などが行われています.
 しかしその一方で,スウェーデン国内ではノルウェーのレジスタンスへの支援拠点や(警察隊に偽装した)ノルウェー軍の訓練を行うなど,「結果として」中立国としての立場が連合国側の利益になった,との意見も紹介されています.

 こうしてみると,スウェーデンの中立は,大国の思惑や力関係などによる「偶然の幸運」によるものでしかない,という意見に同意するしかありません.

グンジ in mixi,2007年11月11日


◆◆◆スイス

 【質問】
 第二次大戦中スイスは中立国でしたが,まわりは全部枢軸国なので,貿易はできたのですか?
 特に石油なんかは,枢軸国は不足していたので,買いたくてもかえなかったと思うのですが,教えてください.

 【回答】
 スイスは永世中立国として第二次大戦中も局外中立を保ちました.
 ここまでは,誰でも知っている話です.

 しかし,例えばアメリカから石油を輸入しようとしても,周りが枢軸国で占められていれば難しそうですよね.当然の疑問です.

 実際の物資輸送のルートとしては,ビシー政権下のフランスを経由する手段がありましたし,米英との取引であればその間にスペイン等を入れることも可能でしたから,現実にも第二次大戦中に石油をアメリカの石油会社から購入していました.
 実は,スイスを経由してアメリカのスタンダード石油は,1942年まで枢軸国に石油を売っていたことも知られています.

世界史板

 【参考画像】
スイス・ドイツ国境にあったドイツ軍要塞内部の様子(復原写真)


 【質問】
 ナチス侵攻の可能性に対し,スイスはどのような対策を講じたのか?

 【回答】
 33年以降,軍事費を増額する一方,36年には国内のナチス組織を非合法化.反民主主義的言論活動も,その後禁止.
 38年には「中立」を際立たせるため,国際連盟から事実上脱退.
 国境警備を強化し,兵役年齢上限を60歳に引き上げ.
 39年には連邦政府に全権移譲.国民投票なしで法律が施行されることになり,同年末には物価統制令,40年には女性動員令など戦時法施行.
 この結果,動員兵力は80万人となった.

 フランスが降伏して四面楚歌の状況になると,軍最高司令官・ギザン将軍が40年7月,軍幹部をスイス建国伝説の地・リュトリに集め,
「万一の際は,アルプスの『砦』に引き篭もり,徹底交戦する」
と,国民を励ますことも.

 詳しくは,福原直樹著黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.50-51を参照されたし.


(引用元:朝目新聞


 【質問】
 スイス政府はなぜ,スペイン内戦に参加した義勇兵を処罰したのか?

 【回答】
 「国民皆兵」を国是とするスイスは,当時も今も,国民が外国の軍隊で戦うことを禁じているため.

 スペイン内戦中,スイス人は800名が国際旅団に参加し,200名が戦死.
 帰国者は連邦警察に拘留され,軍法会議において最高1年の懲役刑を宣告すると共に,何年間にも渡り,公民権を停止させた.
 彼らは出獄後も警察による監視が永年続き,就職もできなかった.

 スイス議会では義勇兵の「罪」を許すための決議案が何度も上程されたが,全て否決.
 2000年4月の名誉回復決議案もやはり否決されている.

 フランス,デンマーク,ベルギーなど欧州諸国では義勇兵を温情的に扱ったのとは対照的である.

 詳しくは,福原直樹著黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.54-58を参照されたし.


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