c

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

◆◆◆◆兵站総記
<◆◆◆軍事組織総記
<◆◆総記
<◆大西洋・地中海方面 目次
<第二次世界大戦FAQ


 【link】

「Gigazine」◆(2010/09/07) ドッグタグや不発弾も発掘,自宅の裏庭で第二次世界大戦の捕虜収容所跡を発見した男性

Island Farm(独軍人捕虜脱走事件,英語)


 【質問】
 スペイン内戦以降の輸血の歴史を教えられたし.

 【回答】
 さて,欧州に於て第二次世界大戦の前哨戦となったのが,スペイン内戦です.
 フランコ将軍を支援したのは,ドイツ,イタリア,共和国側を支援したのはソ連やフランスですが,両陣営には60を越える国々から義勇兵がスペインに流れ込みます.

 その共和国側にカナダの外科医で共産党員でもあるノーマン・ベチューンが義勇兵として参加しました.
 ベチューンは普通に病院で奉仕することを望まず,直接的な華々しい活動をするつもりでした.
 要は,目立ちたがりだった訳です.
 その活動の場を得る為,ベチューンはマドリードで負傷兵の病棟を訪れましたが,そこで目にしたのは,出血した兵士達を後方に運び入れるものの,治療が間に合わずに出血多量で死んでいく姿でした.
 ベチューンは考えます.
 兵士達を後方に運び,手遅れで死なせるのならば,逆に血液を彼らの方に送り込めば,もっと多くの兵士達を助けられるのではないか,と.

 そして,ベチューンは事前に市民から血液を集め,それを容器に保存して前線に輸送すると言う案を提案しました.
 今まで輸血と言えば,現場での供血を宛てにし,生身の人間が供血場所に赴くと言う方式を採っていました.
 ソ連で,血液の保存が出来ると言う研究があっても,保存している期間が限られているとか,輸送で赤血球が壊れるなどの問題があって,血液の輸送は本格的に実施されていなかったのですが,医者とは言え素人の考えで,とにかくやってみようと考えたのでした.

 かくしてベチューンは,スペイン民主主義援助委員会と言うカナダの組織から援助資金を得ると,ロンドンでバン1台とルーフラック,それに積み込む保存用ボックス,ガス式圧熱滅菌器,灯油を使う携帯冷蔵庫を始め,魔法瓶,血液用の容器,輸血用の瓶などあらゆるガラス器具を積み込み,備品総数1,375個,グルコース,クエン酸ナトリウムなど生理的血清の静脈注射に必要な化学物質3ヶ月分を用意して,スペインに戻り,4名のスペイン人医師と共に,マドリード市内の15部屋のアパートにスペイン・カナダ輸血協会を設立しました.
 因みに,このアパートはナチスの外交官が放棄したアパートで,共産党救急医療サービスオフィスの直ぐ下の階にありました.

 彼らはそこで供血者を求める放送を流し,採血をし,血液を保存します.
 1日に2分の1ガロンから4分の3ガロンの血液を採取し,3.8%のクエン酸ナトリウム溶液を混ぜ,滅菌したミルクボトルやワインボトルに入れ,評点より僅かに高い温度に保った冷蔵庫に保管して,1週間使われなければ破棄すると言う方式を採っていました.
 但し,梅毒やマラリアなどの病原体検査の設備はなかったので,供血者にそうした病気になったことがないことを宣誓させるだけと言う素朴な事前対策を取りました.

 マドリードは既にフランコ将軍の反乱軍の対峙しており,市内の56カ所の病院から連絡があると,それが何時であろうと血液の瓶を詰めたリュックを背負ってバンに飛び乗り,急を要する場所に走りました.
 夜間は狙撃の危険があるので,無灯火で車を走らせ,病院に着くとまっすぐに地下室に飛び込みます.
 爆弾の破片や煉瓦や石の破片を避ける為に大抵の病院は地下に移設されていました.
 病院に到着すると,患者の血液型を調べて,持ってきた輸血用器具を使って輸血します.
 マドリードからグアダラマ山脈など他の前線までも血液を届けました.
 そうした場所では戦線に沿って車を走らせ,山地の渓流で車を停めて血液の瓶を冷やしました.

 しかし,限られたスタッフでは英雄的な行為も消耗を余儀なくされます.
 1937年2月に向かっていたマラガでは,父母等の懇願に負け,バンを緊急往復便として3日3晩,120マイル離れたアルメリーアまで避難民を運びました.
 それも束の間,皆が眠っていた夜更けにドイツ軍機が町を爆撃し,多数の人々が死亡したのを目の当たりにしました.

 この様なことがあって,ベチューンは飲酒のコントロールが出来なくなり,人付き合いも難しくなり,癇癪を爆発させる様になって,遂に共和国政府から侮辱を受けたと思い込んで激怒し,スペインを失意の内に去りました.

 因みに,その後,ベチューンは中国に渡って日本軍に対峙する中国共産党軍に協力しますが,僻地の村での手術中に誤って自分の指を切り,その傷口から感染症を発症して死亡しました.

 ところで,このベチューンのやり方はその後の輸血のやり方の手本とはなりませんでした.
 血液への理解が不足しており,粗雑な間に合わせのやり方であって,スクリーニングや保存の方法が僅かに正解に近いと言う程度のものだったからです.
 本人は英雄的な行為をしていたと思い込んでいたのですが,実際の数値は,試験期間の7週間で受血者の7割が死んだと言うお粗末なものでしたし…まぁ,その大半は負傷が原因で死亡したと考えられますが…,生き残った患者の半数以上に命に関わるほどの輸血後副作用が出ていました.

 一方,同じ頃,派手なベチューンとは対照的に,バルセロナではフェデリコ・デュラン=ホルダと言う医師が,同じような活動をしていました.
 しかし,こちらはもっと堅実且つ大規模で高度の機構を有しており,何階もあるビルを占め,実験室や病室,それに食堂まで完備されていました.
 住民が空腹を抱えている都市では,無料の食事は供血者を引き込むのに有力な手段でした.

 とは言え,バルセロナは混沌の最中にありました.
 まず左翼党派は様々な内ゲバを繰返し,共和国政府の下で曲がりなりにも統一された時には,フランコ軍の主要標的になり,義勇兵として参戦していたイタリアやドイツの空軍に町を爆撃され,石油の貯蔵庫や波止場,倉庫を破壊されて,電力や路面電車と言った公共事業も停止し,資材が底を付き,食糧供給も少なくなり,「バルセロナでは何処に行っても石鹸1つも買えない」と言われた位になっていましたが,それでもデュラン=ホルダは着実に問題を解決していったのです.

 まず,デュラン=ホルダは,死体血からの輸血を模索しましたが,死者が最も多く出るのは空襲であり,その最中に遺体を収容して採血をするのは現実的ではないとの結論を得て,この方法を排除しました.

 次いで,生きている人からの血液を採取する方法を考えます.
 血液を瓶に入れて,少量のクエン酸とグルコース溶液を加えて冷蔵保存するのはロシア人と同じですが,集める血液は誰に対しても普遍的に供血出来るO型の血液のみを集める様にしました.
 これにより,受血者の血液検査を不要にした訳です.
 また,採取した血液を6つのロットに分けて溜めていくことで,いずれかの血液に有るかも知れない抗体や抗原を薄め,より標準化された混合血液を作り上げ,保存する際にはフィルターを通した空気を瓶に圧入して,血液の酸素供給状態を高めました.

 こうして集めた血液を大量生産の技法を活用して保存した訳ですが,ベチューンの気楽な方法と違い,供血者に対しては,スタッフがその血液を1人1人調べ,梅毒検査を血液型検査の時と赤血球濃度の検査の2度行った他,病歴や生活習慣を調べる問診票の記入と健康診断を行いました.
 血液の保存期間はマージンを取って最長2週間とし,汚染を避ける為に,供血者の腕から輸血用の瓶までの全システムを滅菌したガラス器具とゴムチューブで連結したデュラン=ホルダが独自に設計した装置で行いました.

 この様な体制を敷いたことで,バルセロナ輸血センターと名付けられた機構は,円滑且つ専門的に機能して,戦闘が最も激化した時点でさえ,1時間当り最大75本の輸血用血液を処理していました.

 このバルセロナ方式は各国の注目を集め,フランスでも取入れられ,英国では『ランセット』誌が賞賛の記事を載せました.

 しかし,バルセロナも彼の設立したバルセロナ輸血センターも,間もなく終焉を迎えます.
 1938年冬にはほぼ全土がフランコ軍の制圧下にあり,全国から集まった避難民が押し寄せ,今まで街にいた人々も避難し始めて,街は空洞化していきます.
 1939年1月下旬になると,遂にこの街の郊外にもフランコ軍が押し寄せ,25万人に及ぶ市民は立ち退きを始め,身一つでピレネー山脈を目指しました.
 その中に,バルセロナ輸血センターを指揮したデュラン=ホルダの姿もいました.
 バルセロナ輸血センターには採取し,処理し,小分けにした血液が推定9,000リットルも残っていましたが,これらは放棄する以外選択肢はありませんでした.

 ただ,センターは閉鎖されましたが,デュラン=ホルダは生き延び,そのノウハウは英国で開花します.
 それは,第二次世界大戦に何とか間に合いました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/20 21:18

 さて,スペイン内戦が終わった1939年になると,世界はいよいよ焦臭くなっていきます.
 ロンドンでは劇場は未だ開いていますが,観客はいまいち陽気になりきれない状態でした.

 政府諜報部の算定に依れば,ドイツ空軍が開戦すれば最初の24時間で1,200トンの爆弾をロンドンに落とし,その後も1日当り600トンを投下し続ける能力があるとされていました.
 そうなると,ロンドンでは60万人の市民が死亡し,100万人を遙かに上回る負傷者が出ると考えられていました.

 政府は最悪の事態を想定し,市民に何百万個のガスマスクを配布します.
 市民達はこの不格好なガスマスクを,「イトラー(Adolf Hitlerのコクニー訛り)」と呼びました.
 また何万人もの民間人が,対空監視員や防空警備員や消防隊員として,あるいは救助隊員や汚染除去部隊の隊員として任務に就く様になりました.

 更に当局は,各家庭にアンダーソン式防空シェルターという名称の蒲鉾型の小屋を設置します.
 これは半地下の防空壕で,中に入っていれば爆弾が直撃する場合以外は安全というシェルターです.
 また,病院の救急病棟は爆撃を避けて地下に移され,100万人の子供達を田舎へ避難させる計画も立案されました.
 公共のプールは水が抜かれ,急拵えの張り子の棺の保管場所となり,共同墓地の為に大きな穴が掘られました.

 …とまぁ,此処まで英国政府はドイツとの開戦に備えて用意周到な準備をしていたのですが,たった一つ,根本的な点に関しては全く考慮がありませんでした.
 それは言わずと知れた,負傷者に対する輸血の手段です.

 1939年に入り,100万人からの負傷者が出ると考えられていたのに,それに対する血液の手当は未だにその都度供血者を募って採血する方法しか採用していませんでした.
 英国の医学界は,ソ連やスペイン,お隣のフランスが採用している血液保存方法について全く調査をしていませんでした.

 1937年に行われた戦備に関する聴聞の際,ある議員が陸相に血液の供給をどうするつもりか尋ねた所,陸相は,政府の方針では「血液は保存出来る期間が非常に限られているので,大規模な貯蔵は行わないことになっている」と答弁し,ソ連の事例について意見を求められると,「血液は私たちの身体に蓄えておく方が望ましい」と述べて,従来方式を踏襲する事を披瀝しています.

 1938年,英国保健省は万一この時点で開戦した場合,開戦から1週間の間に3万7,000名もの死者が出ると言う予測を立てましたが,それを受けて,ロンドンの4つの救急病院に緊急用の保存血を準備しました…が,その量は4カ所合計しても僅か8パイントに過ぎませんでした.
 スペインのバルセロナ輸血センターが9,000リットルを用意していたり,ベチューンが1日2リットルの血液を採取していたのでも間に合わなかったりするのに,僅か8パイントつまり約4リットルしか用意していないと言うのは如何に当時のロンドン医学界が平和ボケしていたかがよく分ります.

 こうした動きを打破しようとしたのが,ジャネット・ヴォーンと言う若い女性病理学者でした.
 因みに,彼女の又従兄弟には,作家として著名なヴァージニア・ウルフがいたりします.
 ヴォーンは,オクスフォードで勉学を続け,医学の学位を取った後,ロックフェラー研究所の助成金を獲得してハーヴァード大学で研究活動を続けましたが,患者を相手にすることを禁じられ,鳩を用いて研究を行い,貧血の研究に重要な貢献をして,英国に帰り,英国で初めて血液生化学の教科書を執筆し,ハマースミス病院に職を得ました.

 それはさておき,ヴォーンは女学校を放校になったり,女性故に差別を受けたりして,患者を扱わせてもらえなかったりし,研修医の時には下町のキャンデムタウンで貧困層を相手にした事から,貧困と不平等を解決したいと言う思いがあり,一時期共産党に加入しましたが,直ぐにその空虚さに幻滅し,その後スペイン内戦の共和国側を支援する英国人医師のメンバーになりました.

 その活動を通じて,バルセロナのデュラン=ホルダの仕事を詳しく知るようになり,ロンドンも戦争をするのなら,バルセロナの様に血液を保存する必要があるとの考えを抱く様になりました.

 1938年,Adolf Hitlerがチェコスロヴァキアの割譲を求め,世界の緊張が高まった頃に,ヴォーンはハマースミス病院の同僚1名と共に,有志から血液を集め,クエン酸溶液を入れた瓶に保存しました.
 2人が集めた血液は瓶50本分と,当時のロンドンで最大の貯蔵量を誇りました.
 結局,英仏共に宥和政策を採って,チェコスロヴァキアを見捨てたことでこの危機は去りますが,その後保存血は患者に有効に利用されています.
 当時,彼女は「ミュンヘン条約の頃に流された血は,全部ハマースミスのジャネットが集めた血だった」と笑い飛ばしていましたが,血液銀行無しに戦争するのは愚かなことだとの自信を深めました.

 爆撃を受けている最中に,供血者を電話で呼び出すなど出来はしないし,緊急手術にかかり切りの医者が,途中で手術を止めて採血する訳にも行きません.
 ヴォーンは,ロンドンの医学大学院で講演し,
「医師は患者に輸血するべきであって,採血に時間を掛けるべきではない」
と訴えましたが,ひな壇のお歴々は誰も耳を貸しませんでしたし,半年経っても保健省は行動を起こさないので,1939年春に同意見の若い医師達と語らって,ロンドン市がどの様な準備をすべきかを話し合って,スペイン語やロシア語の翻訳論文を読み,独力で沢山の器具を工面していきます.
 ヴォーンの子供達は,朝になってそこら中に古い瓶が置かれているのに文句を言ったりしています.
 これは,血液を保存するのにどんな瓶が良いかを決める為にやっていたことでした.
 最終的に医師達は,ミルク瓶が最も都合良く,輸送にはアイスクリーム運搬車が適していると言う事で意見が一致しました.

 因みに,保健省の顧問団体である医学研究会議(MRC)は,ミルク瓶の胴部を扱いやすい様に細くした瓶を全国で使用する為に採用しましたが,この瓶の名前は「MRC瓶」あるいは,「ジャネット・ヴォーン」と呼ばれていました.

 ところで,1939年にバルセロナを去ったデュラン=ホルダは,ロンドンの医師共和国委員会を通してヴォーンを知り,後にヴォーンの自宅に滞在して,彼女の研究室で仕事をし,自分がスペインで開発した手法を余すところなく伝授しました.
 そして,グループと共にロンドンの四方に血清学者と近代的な輸血設備を配置した4つのセンターを置き,それを地元病院と行政的に結びつけると言うシステムを提案します.

 出来上がった企画書『輸血用の血液供給』は,自発的にMRCに提出しますが,反応は研究会議の方からではなく,病院の学科長からの叱責の方が早かったりしました.
 それでも,MRCから出来るだけ早く費用の見積もりをして欲しいと依頼があり,ヴォーンは愁眉を開くと,直ちに費用見積もりを行いました.

 こうして決定的なハードルを越えたものの,更に数週間手間取りました.
 財務省が,
「計画の費用が高すぎる.
 これが絶対最小の費用であるとの保障を頂きたい」
と言ってきたのです.
 保健省の役人は,このプロジェクトの価値を売り込みに掛り,僅か2万ポンドの投資で,1日当り推定5,500名の命が救えると大見得を切りました.
 それに資金を投入するのは大ロンドン市だけで済み,他の都市は自前の費用で賄えると付け加えました.
 尤も,そんな根拠は何もなく,完全に役人のはったりだったのですが….

 それでも財務省は逡巡し続けます.
 更に保健省の役人は,4つの保存施設が提供する血液の量は予想される負傷者に必要な量を「かなり下回る」だろうと言うこじつけ説明を持ち出し公文書にして提示しました.
 最終的にプロジェクトが不適切であるとは受け取られず,1939年6月5日,やっと財務省は計画にゴーサインを出しました.

 その頃,ドイツはチェコを完全に併合しました.
 ヴォーン達は急いで貯蔵施設の開設に取りかかります.
 ビルを借り,備品を購入し,赤十字社や病院や医学校から人員を雇い挙げました.
 それから供血者の募集と採血.
 ヴォーンのグループが丁度設備を設置し終えた1939年9月1日,MRCから1通の電報が届きました.
 電文にはこうありました.
「採血を開始せよ」

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/21 23:20

 さて,1939年9月1日に第二次大戦が始まりますが,正にその日からロンドンの血液センターは何とか稼働に漕ぎ着けました.
 ドイツの勢いは留まる所を知らず,半年の間にポーランドは元より,ノルウェー,デンマーク,低地諸国を席巻し,1940年5月にはフランスに侵攻して6週間でフランス陸軍を破りました.

 この為,それぞれの国では政権が亡命乃至崩壊しましたが,医学界もそれは同様で,フランスではユダヤ人のアルノー・ツァンクが友人の助力でチリに逃れ,ポーランドの医療組織は殆ど崩壊しますが,生き延びた人々は英国のエディンバラ大学で組織を再建しています.
 オランダではレジスタンスと緊密に連携した医療組織を組織し,その輸血部門は小規模で,占領下で作られただけに障害は多々ありましたが,活動成果とスタッフの専門技術の質の高さは欧州のどの組織にも引けを取らないくらいのものでした.

 先に見た様に,英国は何とか大戦勃発までに血液供給体制を構築しました.
 ロンドン郊外には4つの貯蔵施設を設置し,そこは採血室,製造設備,産業用大型冷蔵庫を完備した施設で,病院が集中した地区に近く,しかも爆撃を受ける可能性の高い都心部から離れていた場所にありました.
 その施設にはO型の供血者が凡そ8,000人登録され,在庫が品薄になれば血液を供給する態勢が整えられています.

 但し,ちゃんとした建物を作る暇がなかったので,既存の建物を流用してのものでした.

 ロンドン北東部センターは産業都市のルートンにあり,地元病院の使われなくなった病棟に押し込まれましたが,これは未だ良い方で,田園地帯のメイドストーンに設置されたロンドン南東部センターは2軒の民家を改装した建物でした.

 更に,工業都市スラウに設置されたロンドン北西部センターは,提唱者のヴォーンが勤務していましたが,手頃な建物が無く,社交クラブ,つまり酒場の中に設置されており,供血者が採血するのは酒場の隣だったりします.

 最後のロンドン南西部センターはベッドタウンのサットンにあり,成人学校と言う静かな環境に設置されました.
 ここでは,現在でも世界中の医科大学で使用されている血液学の教科書の作者であるパトリック・L・モリソン博士が勤務しており,彼曰く,「体育館が製造室に,図書室が採血室になった」と述懐しています.
 モリソンは,ここで調査研究を行っていただけではなく,供血者の募集も担当して,近隣の地域にポスターを貼りだし,芝居の興行業者を雇い,業者と共に街の商店に赴いて机の前に座り,人々に参加を呼びかける仕事など専門外の仕事も多々熟しました.

 一方,英国軍も独自に輸血用血液貯蔵庫を設置し,ロンドン南西部にある病院の産科病棟の何室かを宛がいました.

 こうして英国は態勢を整え,ドイツ軍の到来を待った訳です.

 因みに,英国軍がこうした血液の供給について最初に経験を得たのが,68,000人に及ぶ死傷者と捕虜を出したダンケルクからの撤退戦でした.
 この時,瓶詰めにした血液がどうなるか,どれくらい保つのか,赤血球が輸送で壊れるものなのか,全く未知の経験だったのですが,この経験で希望の光が見えてきました.

 北部フランスでは英国陸軍は400パイントの血液と血漿を用いましたが,英国陸軍軍医大尉のウィリアム・メイコック博士の報告書に依れば,「例外なく満足な結果を得られた」とありました.
 保存血は数週間効力を保っただけでなく,手荒な扱いにも耐えました.
 ある軍医は,メイコックに
「輸血は,車両に乗っている時を除けば,どんな状況でも出来ます」
と報告していますが,実際には救急車内での輸血も日常的に行われていたりします.
 また,この戦闘の戦訓として,外科医も基地の病院で負傷兵を待つのではなく,より前線に近い場所で治療を施さねば救える命も救えない事が分りました.
 つまり,その為には血液も輸送する必要があり,メイコックは実際に可搬式の冷蔵庫を用いて血液の運搬を行っています.
 これで,兵士の生存率が高くなるはずでした.

 その戦訓を英国が検討していた,大戦勃発から1年後の1940年9月7日午後遅く,ロンドンにドイツ空軍がいよいよ襲来してきました.
 テムズ川一帯が木端微塵に粉砕され,イーストエンド地区を中心に,市内の何マイルにも及ぶ地域が燃え上がりました.
 翌朝までに400人が死亡し,1,600人が負傷しました.

 この日を皮切りに,ロンドン大空襲が開始されたのです.
 以後何ヶ月もの間,夜の爆撃が続き,多くの死者を破壊を齎しました.
 爆弾とそれから生じる火災は,断水とガス管の炎上を伴って大規模に広がり,新鮮な空気が火に吸い込まれて天候に変化が生じたほどでした.
 この火から逃れられなかったり,爆弾の破片や直撃,爆風などで何万人もの死傷者が出て,それに倍する人々が家を失って路上で暮らし,地下鉄の駅構内でねぐらを探す生活を余儀なくされました.

 そんな中,医療関係者は地上に留まり,病院が攻撃に晒されても,負傷者の手当に当たりました.
 こうした空襲で発生した負傷者を効率的に病院に運ぶ為,市内は10の救急医療地区に区分けされ,その救急医療地区を4つの輸血地域に振り分け,それぞれの血液貯蔵センターが担当する態勢でした.
 爆撃が開始されると直ぐに各地区の病院からセンターに電話が入り,必要と推定される血液の量が報告され,配送車が血液を輸送しました.
 配送車のドライバーのうち,,ヴォーンの勤務していた北西部センターでは殆どが女性からなるドライバーを独自に確保し,待機場所となっていた酒場から出動しています.
 ボランティアのドライバーはバンに飛び乗り,爆弾が落ちた跡やそこら中に散乱するビルの瓦礫を避けながら,真っ暗な通りを車体を傾けて走りました.
 その速度は極めて速く,屡々負傷者よりも先に病院に到着していた程です.

 戦後のMRCの報告書にはこう書いてドライバーを称えています.

――――――
 配送車は何時も遅れずに到着したが,これは運転者の質を反映していた.
 灯火管制の布かれた道路を詳しく正確に知っていることは不可欠だが,それに加えて,実際に走行する際の自発的な意志と,如何なる障害物や事情があろうと,どんなことをしてでも病院に到着するのだと言う決意が無ければ出来ない事だった.
――――――

 こうした爆撃下では,医師達も様々な障害と立ち向かわねばなりませんでした.
 病院のガスも水道も爆撃により途絶し,頭に付けた炭坑夫用のランプしか光源がないと言う事も屡々でした.
 それでも,血液だけはほぼ無制限に,しかも戦前よりも潤沢に供給されていましたが,医師達が血液を使う機会は余りありませんでした.
 医師達はあくまでも,輸血は出血多量などの最終手段に限られると考えていたからでもあります.

 しかし,負傷者の数と外傷の種類が増加するにつれて,そして医師達が経験を積むにつれて,輸血をする回数も増えていきました.
 例えば,落下物の下敷きになって手足が潰された挫傷の場合は,最初は安定しているものの,突然,前触れもなく衰弱するケースが多く,こうした患者には輸血が有効でした.
 また,外傷性ショックで手術を受ける前に循環系の機能障害を起こす患者も多く,これも輸血の必要がありました.
 他にも複雑骨折や重度の裂傷,第二度もしくは第三度の火傷にも輸血が必要でした.

 この様に経験により,重度の外傷を受けた患者に対しては,予測出来ない容態の変化や血圧の低下に備え,手術の前に先ず輸血が必要だと言う事,更に言えば,輸血は受傷後速やかに行うべきであると言うのも判ってきています.

 輸血を実施した患者の数は予想を大きく上回りましたが,1人当りの輸血量もそうでした.
 医師達は大空襲の間に,英国で何年か前に開発された,血液をゆっくりと注入する点滴法を用いて大量輸血をする手法を習得していきました.
 輸血の有効性も次第に明白となり,重傷者には輸血が最優先の措置であると言う認識も広がっていきます.

 また,輸血の器具についても,発達していきます.
 例えば重度の火傷を負って輸血用の注射針を挿入する場所が見つからない患者の場合,胸骨に一番太い注射針を差し込んで輸血を行った経験から,端に鍔のある針を作り,胸骨から針を差し込んでも中に落ち込んでいかない様にした他,この針を作ることで,揺れている船や未経験者でも簡単に輸血が出来る様になりました.

 因みにロンドン大空襲の間,どれくらいの血液が使われたか記録されていません.
 しかし,MRCの算定では,戦争全期間にロンドンの血液貯蔵センターが供給した血液量は68,500ガロン,つまり31万リットルを上回り,負傷者の10%以上に輸血が必要で,地区によっては33%にも達しました.

 1940年の秋から冬になっても爆撃は続き,爆撃の範囲が拡大して,リヴァプールやプリマス,スウォンジーなどの港湾や都市も爆撃される様になると,更に多くの血液が必要になりました.
 今までは何とか国内の供血で凌いできましたが,その量が段々と不足してきたのです.

 新たな供給源が必要でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/22 21:59

 さて,英国では血が足りなくなりつつありました.

 その頃,大西洋を隔てた米国では,著名な輸血医達が如何に連合国を支援するかを考えていました.
 例えば,米国で最初に乳児に対する輸血を成功させたアレクシス・カレルと言うフランス人医師が,1940年春に母国を訪れ,医療の実態を視察しています.

 因みに,カレルと言う人は1930年代にあのチャールズ・リンドバーグと知り合い,共に人工心臓の研究をしています.
 これは極めて精巧なガラス製の小型ポンプで,それを用いて実験動物から摘出した臓器を数週間生かしておくことに成功しました.
 これは現在の人工心肺の先駆けとも言える研究でした.
 ついでに,カレルと言えば,その著書である"Man, the Unknown"(『人間〜この未知なるもの〜』)の著者でもあり,形而上学の面でも有名な人だったりします.
 その交際範囲は幅広く,カール・ラントシュタイナーとキャンパスでよく話し,リンドバーグとは家族ぐるみの付き合いであり,アインシュタインとは超能力について白熱した議論を戦わしたりもしていたそうです.

 そんな余談は置いておいて,フランスから帰ったカレルは,輸血改善協会の緊急会合を召集して,出来るだけ早く大量の輸血用血液を船で輸送することを検討しました.
 ただ,既にフランスはドイツの軍門に下っており,血液をフランスに輸送したのでは敵の利益になるばかり.
(因みにこの頃はまだ米国は参戦していませんので,中立国扱いでした.)

 そこで目を向けたのが英国です.
 しかし,この血液輸送には難点がありました.
 当時は大西洋航路の定期貨物船が就航しておらず,輸送には1週間以上掛る可能性もあり,血液の有効寿命の大きな部分が失われてしまう可能性がありました.
 そこで,全血と同じ属性の多くを保つ血液成分を輸送することが検討されました.

 血液と言う物質は,数時間放置すると,酸素を運搬する赤血球が一番下に溜まって層を為し,その上に黄褐色の薄い白血球と血小板からなる層があり,残りの大部分を占める琥珀色の透明な層は血漿と呼ばれるものになります.
 血漿は赤血球を運ぶ媒体で,水と塩類と蛋白質とからなり,血圧の維持など赤血球に無い機能を持ちます.

 血圧の問題は,第1次大戦中から後に掛けて,外傷性ショックとの関連で外科医にとって重大な問題になりました.
 外傷性のショックは,外傷や火傷,挫傷を負った場合に起きます.
 出血に続いて,顔面が蒼白となり,皮膚が湿り,喉の渇きや悪寒が出て,脈が速く弱くなり,息が苦しくなって死に至ると言う症状ですが,これは特に出血多量になっていなくとも発生していました.
 こうした人々は赤血球の不足により死亡した訳ではなく,出血が急激に起きると動脈が潰れて血液が重要な臓器に届かなくなってショックが起きる事が分りました.
 また,最初は何でもない様に見えても,破れたり切れたりした血管から漏れ出す血液が多くなり,体内で補えなくなるケースや,外傷性の損傷を受けると血液の化学的な性質に変化が起き,血管内に放出された化学物質によって血管が膨張して多孔性になって,血圧を維持している液体が外に漏れ出す事で起きることも判ってきました.

 こうして,循環系を従来の化学的,生物学的システムとして捉えるだけでなく,流水システムとして捉える新たな視点が生まれ,体積や血圧は重要な問題と認識される様になりました.

 この様に体積や血圧を維持する為に必要なものが多くの犠牲の上で認識されると,それに適したものが何かを模索する様になります.
 第1次大戦の英国では,血液と同じ粘度を保つコロイド溶液のアラビアゴムが輸液されたりもしています.
 そんな中,英国陸軍のゴードン・R・ウォード軍医大尉は戦地で血漿を輸血する様に提言しましたが,その提言は日の目を見ませんでした.
 1930年代には各国が実験的に血漿輸血を行いましたが,連合国が血漿を軍事物資と見做したのは,ジョン・エリオットと言うノールカロライナ州ソールズベリーにあるローアン病院の研究主任の働きが切っ掛けです.

 エリオットは血液から血漿を分離する方法を研究しており,手許に血漿を入れた瓶を数本持っていました.
 その頃,病院に心臓を刺された男が運び込まれ,絶命する寸前でした.
 血液検査をして血液銀行から血液を取り寄せる暇がなかったので,失敗するのを覚悟して6週間前に作り上げた血漿を2本輸血します.
 ところが,輸血の途中で男の意識が戻り,翌日再び血漿を輸血すると,患者は輸血するのに必要な体力を十分回復させ,3週間後には退院に至りました.

 それ以来,エリオットは臨床で血漿を使用し,国家的な緊急事態に際して血漿輸血は有効だと確信するに至ります.
 血漿は血液よりも長く,何ヶ月も保つのが大きな利点でしたし,壊れやすい赤血球を含んでいないので,取扱いもそんなに気を遣わなくても済み,しかも血漿は不適合反応を引き起こさないので型に分ける必要がないと言う様々な利点があったのです.
 受血者の血液型に合わない血液を輸血すると,普通は凝集反応が起きますが,血漿中の凝血素は受血者の赤血球総てに反応を起こすには量が少なすぎるので,殆ど影響がない訳です.

 エリオットは意を強くして全国規模で血漿輸血を広めたいと考え,賛同者を捜します.
 そして,米国赤十字社が予備的な血液収集を行っていることを知り,医学部門の責任者であるウィリアム・デクライン博士に手紙を書き,更に英国大使館には試験用の血漿を渡した他,ボルティモアの血液銀行,アメリカ軍医学校に出向いて血漿を新しい輸血規格として採用することを働きかけました.

 その熱意に絆されて,デクラインはすっかりエリオットに同調し,血漿を収集する態勢を整える様に陸軍軍医総監を説得に掛り,その間,エリオットはコロンビア大学の外科教授で輸血改善協会の理事でもあるジョン・スカダーにサンプルを送り,そのサンプルを分析したスカダーは,英国に送るには血液ではなく血漿にすべきだと確信しました.

 勿論,軍部も血漿の有用性に関する情報を必要としており,一方で米国赤十字社と輸血改善協会は全国規模で血漿を処理する能力を試したいと考え,両者の利害が一致して,1940年8月,「イギリスへ血漿を」として知られるプロジェクトが発足しました.
 赤十字は供血者の募集をし,輸血改善協会で採血と処理を行い,瓶詰めと輸送は再び赤十字が担当する分担で活動を開始した訳です.

 ただ,血漿の弱点は細菌に汚染されやすいと言うものです.
 この為,その弱点をどう補うか考える人が必要でした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/23 23:11

 さて,血漿の有効利用を考える時,避けて通れないのが細菌汚染への対応でした.
 これを防ぐには厳密な品質管理が求められます.
 丁度良いことに,米国にはそうした事に打って付けの人物がいました.
 彼の名をチャールズ・ドルーと言います.

 ドルーは,ワシントン特別区に生まれ,奨学金を得てアマースト・カレッジに進み,そこでフットボールと陸上競技に勤しみ,ボルティモアの大学で生物と化学の教師をする傍ら,スポーツチームのコーチを務め,その後,モントリオールのマギル大学医学部で学びながらも,陸上の全国選手権大会で優勝するくらいの文武両道に優れた学生でした.
 そこを卒業するとコロンビア大学でフェローとなり,スカダーの元で研究に勤しみ,後に医学博士となりますが,たった1つ,他の人々とドルーが違っていたのは,彼が黒人,つまりアフリカ系米国人だったと言う点でした.

 当時,黒人患者の手術は人種差別もあって極めてぞんざいに行われ,術前術後の管理は殆ど為されず,それ故にショックを起こす患者が多かったそうです.
 黒人であるドルーは,当然,こうした状況を改善すべく,血液やその他の抗ショック作用のある液体に関心を持った訳です.
 そして,ドルーは「貯蔵血液」と言う論文を執筆しました.
 その最初の草稿の分厚さは,ニューヨーク市の電話帳ほどの分量があり,多くの人から,血液保存の分野でそれまでで最も信頼すべき研究成果だと評価された論文となり,黒人としてコロンビア大学で初めて医学博士の称号を得た訳です..

 更に,ドルーは指導教授のスカダーと共に,ニューヨーク長老派教会病院に血液研究施設を開設し,此処で血液保存の研究を行います.
 血漿のサンプルがジョン・エリオットから送られて以来,その研究を行ったのもこの施設でした.

 因みに,当時のアフリカ系米国人にとっては,社会的に様々な制約を受けていました.
 南部では州法によって人種差別が規定されていましたし,北部の知的職業人の世界でも,人種差別が優勢でした.
 黒人は軍医大学に入学出来ず,米国医学会の地方会も黒人を締め出していました.
 仕方なく,アフリカ系米国人医師達は独自の学会である全米医学会を結成し,独自の学会誌を発行していました.
 ドルーは現状には何の幻想も持ってはいませんでしたが,態度と研究成果を持って,現状を打破していこうと考えていました.

 そんな折,ドルーはワシントン特別区にある黒人専用大学の一つ,ハワード大学からの招聘に応じ,黒人の外科医を育てようと目標を立てていました.

 しかし,大学で講義を始めて直ぐ,恩師のスカダーから助けを求める電話がやってきて,血漿を英国に送るプロジェクトの責任者となることを要請されます.
 こうして,ドルーは血液輸送計画の医学責任者となり,輸送計画は忽ち動き出しました.

 血液を採取する組織はニューヨーク市全域に跨がる8つの病院から成り,マンハッタンのアッパーイーストサイドにある事務局に繋がっていました.
 事務局ではドーナツ型のテーブルに10名ほどの電話交換手が座り,市内の地図や電話交換局の位置を示すチャートを手元に置いてボランティアからの電話に応対しました.

 交換手は電話が入る度に予約カードに記入し,応募者を適切な病院に割り当てます.
 応募者はその病院に連絡を取り,血液型判定や健康診断を受け,1パイントの献血をします.
 献血された血液は病院の検査室で遠心分離機に掛けられ,分離された血漿を中央試験所に送って検査します.
 検査を終えると,血漿は冷蔵倉庫に送られて,そこから赤十字と軍によって船で英国に輸送されると言う仕組みでした.

 仕組みはたったこれだけのことですが,血漿は蛋白質に富んでいる為,細菌が極めて増殖しやすく,2度3度と検査して「清潔」と判定されたサンプルが,後に危険な汚染があると判明することも屡々でした.
 ある場合には,8月に汚染検査を済ませた1グループが,11月に英国に到着すると細菌汚染していたことが判り,折角運んだ血漿が総て無駄になるケースも起きています.
 この為,英国では血漿のことを「液体ダイナマイト」と呼んでいた程です.
 輸血改善協会の理事長だったデヴィット・ステッテンは,
「この事業を開始した時には,カクテルの様に造作もなく血漿を準備出来ると思っていたが,直ぐにそんなものではないと思い知らされて大いに悩んだ」
と述べています.

 さて,ドルーは責任者に就任すると,直ぐ出来ること或いは出来そうなことは総て実行するという姿勢で臨み,供血者の腕から輸送までの処理過程を,段階毎に詳細に組み立てました.

 先ず採用したのは,デュラン=ホルダ方式のチューブや瓶や真空ポンプを使った閉鎖システムの採用です.
 こうして血液が空気に一切触れることがない様にしました.
 次に各ロット毎にサンプルに取り,試験管に保管し,ロットの安全性をモニターする為に,3週間毎に定期的に検査をして細菌増殖の有無を調べ,更に総ての検査を長老派教会病院内の中央検査所で行う事を指示し,自分で直に品質管理を監督できるようにしました.
 この方式を採ることで,一時期あった細菌汚染は影を潜めました.

 細菌汚染を克服したことにより,この輸送計画は拡大され,ニューヨーク市の誇りとなりました.
 集団献血はニューヨーカーどころか全米でも初の取り組みでしたが,何千人もの人々が病院に列を為し,赤十字社はポスターや著名人の推薦の言葉を用いて宣伝活動を展開し,献血は苦痛もないし,公徳心を発揮する良い機会であると称えました.
 こうした15,000名近い人々が献血をし,その血液から作られた血漿が,5,500本の硝子瓶に詰められ,英国への戦時物資として送られたのです.

 ところが,こうした活動があっても尚,人種差別は首を擡げました.
 組織の会議では,英国に向けて発する血漿にアフリカ系米国人の献血を受入れるべきかどうかについての論争がありました.
 人間自体は生物学的に全く変わらない訳で,黒人の血漿を送ろうが白人の血漿を送ろうが何も違いはありません.
 しかし,政治的に白人と黒人の血液を一緒に受入れることが支持されないのではないかと言う懸念がありました.
 因みに,当時はボルティモアのジョン・ホプキンス病院の様な有名な医療施設でも,人種によって血液を分けており,その外の施設では黒人の血など全く受入れていませんでした.
 結局,政治的決断により,英国に送る血漿には黒人の受け付けるものの,血漿にはそれを明記し,使用者がそれと判る様にしました.

 1941年1月になると英国の血液貯蔵センターのネットワークが拡大され,独自の血漿製造ブラントが設立されましたが,一方,ニューヨークでは戦線の拡大に備え,血漿の大量生産を行う為,赤十字社が長老派教会病院で新しい予備計画に着手しました.
 今度の計画は自国の陸海軍向けの計画で,これもドルーが副責任者に就任しました.

 しかし,その矢先,軍は血液と人種に関する方針を発表しました.
 当時の軍隊では徹底した人種分離が行われており,上層部は士気の観点から,アフリカ系アメリカ人の血液は採取しない方針が最善であると判断したのです.
 赤十字社では所属の科学者達が,この方針には生物学的な基盤がないと公に表明したものの,軍部の方針には同意しました.
 それに失望したドルーは結局計画が動き出したばかりの3月に,辞任してハワード大学に戻ってしまいました.

 以後,ドルーは米国の医学界に「黒人思想集団」を作り上げるという大きな目標に専念し,外科指導医として優れたキャリアを積みました.
 そして,いくつかの全国規模の医学機関で理事を務め,軍医総監の命令による戦後医師団の一員として占領下欧州の医療施設を視察したりもしています.

 ただ,こうした絶頂も長くは続きませんでした.
 1950年4月1日夜,ドルーは3人の同僚と共にアラバマ州タスキーギで深南部に住む貧しい黒人達の為に,年に1度行われる無料診療に参加する為,ドルーの運転する車で移動していました.
 しかし,前日には数例の手術,講義,会合など目の回る忙しさで,2〜3時間の睡眠時間しかなかったと言います.
 そうして,徹夜で運転した挙げ句に居眠り運転で事故を起こし,回転する車の下敷きとなりました.

 当時,南部の多くの病院は人種分離をしていましたが,救急室だけは白人と黒人の区別はありませんでした.
 白人の医師達は,運び込まれた患者を見て,それがドルーだと判ると懸命に手を尽したと言います.
 しかし,蘇生措置も効果が無く,デューク大学医療センターに助言を仰ぎましたが,2時間近い尽力の後,結局ドルーは死亡してしまいました.
 未だ45歳の若さでした.

 因みに,この時の話は2年後に神話と化しました.
 南部の病院と言う事で,曰く,医師達が「白人の血」を輸血したのを拒否したからだと言うもの等はその最たるものです.
 黒人のコメディアンで人種差別撤廃の活動家でもあったディック・グレゴリーは頻繁にその種の話をしています.
 また,全国都市同盟のホイットニー・ヤングも,この話を新聞のコラムに取上げました.
 こうして,タイム誌やニューヨークタイムズなどもそれを信じ,人気テレビ番組のMASHにもドルーの死の話が登場して,全国規模に噂が格上げされました.

 実際には,医師達は患者がドルー博士であることを知っていましたし,躊躇うことなく有る限りの血液を輸血しましたが,首の骨が折れ,胸が押し潰され,大静脈が切断されて,助かる見込みは全くなく,一緒にいた医師仲間は,「世界中の血液を集めても,彼を助けることなど出来なかっただろう」と話していました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/24 23:52

 ハーヴァード大学にエドウィン・J・コーンと言う化学者がいました.
 コーンは,裕福な家庭の生まれで,シカゴ大学,ハーヴァード大学,イェール大学に学び,更に欧州各国に留学して研究生活を送りました.
 このコーンの専門は,未だ当時としては新しい分野である蛋白質の研究でした.
 最初の業績は,肝臓の抽出物を濃縮して貧血の治療薬を作り出したもので,第1次大戦中に小麦が不足した際には,代替原料を見つける為にパンの蛋白質を研究していました.

 1940年春,コーンの研究の題材は,血漿に絞られていました.
 先述の通り,血漿はいくつかの蛋白質から出来ている物質です.
 しかし,血漿は細菌に汚染されやすいものでした.
 もし,血漿から抗ショック作用に関係している蛋白質だけを抽出出来たら,血漿よりも扱いやすく細菌汚染の心配のない輸液が作れるはずだと考えたのです.

 丁度のこの頃,米国政府部内では,この戦争がテクノロジー戦争になる事や,最も応用性のある研究を一番早くした国が軍事的に優勢となる事が解り掛けて来ました.
 そこで,政府は何百万人の市民を兵士として徴兵する一方で,何十もの大学や企業,更に軍の研究室から,補助金や契約金を通して,科学者を雇い上げました.
 こうした作業に携わったのが,新設された国家研究保護委員会と科学研究開発局で,これらの機関が全国の研究機関を調査して,例えばカリフォルニア工科大学のロケット工学センターや,ミシガン大学の爆発物センターなどの施設を直轄研究機関に指定しました.

 指定された大学の寮には,それぞれの分野の最高レベルの研究者と一緒に仕事をする為に全国から集められた,軍の訓練生や研究者で一杯となって行きます.

 兵器に特に関係のない様な,戦地への血液輸送に関しても政府が力を入れていたものの1つでしたから,専門的な輸血委員会が発足しました.
 選択肢としては全血と血漿の2つでしたが,全血は冷蔵すれば1週間は保つものの,時間の掛る海上輸送では戦地に着くまでに役に立たないことが予想されましたし,血漿はそれよりも長く保存出来ますが,汚染しやすい事が欠点でした.

 1940年10月2日の輸血委員会の会議の席上,ブリンマー大学のマックス・ストゥルミア博士が,フィラデルフィアのシャープ・アンド・ドーム社と共同で行っている,血漿を凍結乾燥する研究について報告を行いました.
 凍結乾燥すれば,何年も無菌のままで保存出来,水を加えると完全に元通りになると言う説明でしたが,ショック症状の第一人者であるハーヴァード大学のウォルター・キャノン博士は,血漿を輸血に用いるのであれば,その成分についてもっと知るべきであり,それには蛋白質が専門の科学者を連れてくるべきだと独りごちました.
 それがコーン招聘の切っ掛けでした.

 米国参戦の前に,血液関連のプログラムが委員会の勧告に基づいて開始されました.
 先に見た様に,赤十字社は血液を収集するシステム作りを開始し,製薬会社は凍結乾燥の血漿を開発し始め,コーンは血漿の派生物及び代替物を発見するべく,軍の出資による研究プログラムを着手しました.

 コーンは此処でも優れた能力を発揮しました.
 元々が研究者だったのですが,研究をとりまとめるプロジェクトリーダーとしても当時有数の優れた能力を発揮しました.
 格好こそ,どんなに暑い日でも常にウールのスーツにゲートル,フェルトの中折れ帽というスタイルで,態度も堅苦しく形式張っていましたが,研究に関しては効率の良い成果中心型の運営をして,野心のある優秀な人材を募り,戦略会議を毎週開き,短期的なはっきりとした目標を設定し,一意専心を以て皆を動かしました.
 また,大学とか企業や研究施設とか言う立場を越えて,必要とあれば,相手が何処の誰でも気軽に電話を掛けましたが,不思議なことに,電話を受けた相手は,どんなに自分が忙しいという時でも,何故かコーンの為に実験をすると約束してしまい,しかも,出来るだけ早く結果を出して,コーンに報告の電話をすると言う事になっていたそうです.

 さて,コーンはチームを集め,ハーヴァード大学に研究所を設置します.
 研究材料の血漿は,週に1度,助手の1人がポンコツのフォードを運転してボストンのダウンタウンにある赤十字センターに行き,そこで新鮮な血液を受け取ると,壊れかけの後部座席にそれを積み込み,今度は郊外のジャマイカ・プレインにある州立毒物学研究所に寄って血液を高速の遠心分離機に掛け,紅茶色の血漿を持って,ハーヴァード大学医学部に帰ってくると言うものでした.

 血漿は透明な液体ですが,約93%の水,1%の塩類,6%の様々な蛋白質から構成される複雑な溶液です.
 この血漿にエチルアルコールを加えると,蛋白質が沈殿するのですが,総ての蛋白質が沈殿してしまう為,これを1つずつ分離する必要がありました.
 この問題に対処する為,コーンは塩類の含有量,温度やPHと言った条件を少しずつ変えて,特定の蛋白質が沈殿しやすい条件を作り出し,エチルアルコールを加える試験を幾度も繰返しました.
 この作業は,原油から石油とかガスその他の物質を取り出すのとそっくりな手順の為,「分画」と呼ばれる様になりました.

 こうして,コーンの研究チームは夏の間に血漿から数種類の成分を分離することに成功します.
 最初に分画されるのは凝固の基質を形成するフィブリノーゲン,それを取り除いて残りを再度分画すると,2度目と3度目の分画で得られるのは免疫物質のグロブリン,その後に得られるのは免疫物質とコレステロールの混合物で,5度目の分画で白い粉末が得られました.
 これは主にアルブミンから成っており,これは極めて安定な蛋白質で,液体をスポンジの様に吸収し,輸血に用いる物質として非常に有望なものでした.
 長期間安定を保ち,熱変化に強く,電解質溶液やアラビアゴムとは違って血管壁の中にトドばる傾向があり,浸透性が極めて強く,単一の蛋白質なので場所を取らない,即ち,乾燥血漿に比べても5分の1の体積で抗ショック作用が得られます.

 分離に成功すると,アルブミンの研究は急速に進むことになり,比較的純粋なアルブミンを大量に用意することが出来,その量には上限はなく,直ぐに利用出来るものでした.
 しかし,この研究成果は,程なく機密指定を受け,表向き姿を消すことになります.

 コーンが研究を続行している間に,治験も並行して行われました.
 ボランティアの医学生11名を対象に,それぞれ血液を1リットル近く抜き取ってアルブミン溶液を輸注しましたが,アルブミンは例外なく血管の容積を回復させ,副作用も起きませんでした.
 そこで,ボストン全市の救急室に話を付けて,特に酷い事故が起きた時に電話してもらう様に手配しました.
 事故が起きれば,医師達がアルブミンを持って救急室に駆付け,アルブミンを輸液して反応を記録すると共に,患者の血液を少量採取して生化学的な分析を行う,治験段階に入ったのです.

 1941年12月最初の日曜日,アルブミン溶液の在庫が若干溜まっていました.
 そこへ,真珠湾攻撃のニュースが流れます.
 ペンシルヴェニア大学の著名な外科医であるイジドー・S・ラヴディンは,コーンに電話を掛け,海軍の命令でハワイに飛んで状況を検分するので,手持ちのアルブミンを総て送って欲しいと言う要請を受け,世界中に此処にしかないアルブミン溶液の瓶を総て手提げ鞄に詰めて送り出しました.
 ラヴディンは,鞄を受け取ると直ぐに深夜に離陸し,米国大陸を横断し,太平洋を半分飛んで,真珠湾攻撃から4日後に現地に到着しました.

 そこは阿鼻叫喚の巷と化し,2,500名近い兵士が死亡し,1,000名余りが爆弾や機関銃弾の破片などで負傷していました.
 火傷で皮膚が黒焦げになり,救助者の手の中でそれが剥け落ちる人も大勢いました.
 海軍病院だけでは収容しきれず,兵舎や食堂,それに将校クラブにも溢れていました.
 当初の2日間,医師達は負傷者の容態を安定させ,モルヒネを注射し,過剰投与を防ぐ為に頭に赤チンで投与済の印を付けて回りました.
 ラヴディンが到着した頃は,やっと落ち着きを取り戻し,骨折の固定や火傷の手当,傷口の縫合などを行っていました.

 ラヴディンは最も重度の火傷を負った患者を7名選び,アルブミン投与を実施します.
 その効果は劇的で,1人の火傷患者は,他の医師が輸血をするかどうか疑問を持ったほどでしたが,朝にアルブミンを投与すると意識のない状態から,意識朦朧とした状態ながら言葉が出,2日目に投与すると更に回復が見られ,3日目には朝食が食べられるほどに回復したと言います.
 ラヴディンは総計で87名にアルブミンを投与したのですが,そのうち副作用とも言うべき反応は,4名だけでしかもそれは軽いものであったことが判りました.
 こうして,アルブミンの効果を知った政府は,既に準備に入っている乾燥血漿の生産に加え,アルブミンの生産計画も急いで立案される事になります.
 軍部は製薬会社7社に,その生産を委託しましたが,コーンはその生産を各社の化学者任せにせず,スタッフに指導させることを主張しました.

 こうして,各社の化学者達は大急ぎで荷物を纏め,ボストンに送り込まれることになったのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/25 23:43

 アルブミン,乾燥血漿の生産には莫大な量の血液が必要でした.
 それは軍部の需要の為だけではなく,通常の輸血用血液に比べると一手間も,二手間もかかる代物です.
 単純に計算すると,血液の体積の内,約半分は血漿ですから,1単位の乾燥血漿を作ろうとすれば2単位の血液が必要になります.
 同様に,1単位のアルブミンを得ようとすれば,3.6単位の血液が必要となっていきます.

 こうして,大戦が進展して負傷者が増えると,加速度的に乾燥血漿やアルブミンの利用が増え,その生産の為に必要な血液がどんどん増えていきました.

 既に見た様に,赤十字社では英国に血漿を輸送する為に,採血センターをニューヨークの長老派教会病院を始めとして東部の大都市7カ所に設置しました.
 此処には快適な待合室や,喫茶室,高価な設備を備えた採血室があり,まだ献血に馴染みのない時代だった為に,職員は丁寧で親切な応対を心がけ,採血センターを安心の出来る気分の良い場所にする様指導が入りました.
 また,献血促進の為に広報担当者を雇い入れ,新聞やラジオを通じてキャンペーンを展開しました.
 ポスターには,優しそうな看護婦が青年に向かって身を屈め,背景に戦闘機が飛んでいる図柄が1つと,もう1つは負傷した兵士の姿か描かれ,「彼は血を流した.貴方の血をもらえますか?」というコピーが付いていました.

 各支部も献血を繰返す人達にバッジを配布したり,何度も献血した人を称える「ガロンクラブ」を組織するなど,あの手この手の奨励プログラムを作っています.
 兵士達も,血漿を賞賛する発言をして,同郷の市民に献血を呼びかけました.
 例えば,ドナルド・J・サットンと言う19歳の衛生兵は,北アフリカで受けた血漿を「返す」為にボルティモアの献血センターに出向き,「血漿は奇跡の薬だと言いたくて来た」と述べています.

 赤十字社は屡々,退役兵士を募って血漿輸血の「奇跡」について語らせました.
 サットンもその一人で,こう語っています.

――――――
 ショックを起こした兵士が運び込まれました.
 死んでいる様に見えたのに,血漿を身体に送り込むと生き返りました.
 空から掃射された機関銃の弾丸を全身に受けた兵士もいました.
 彼は攻撃を受けたその海岸で,出血多量で死にかかっていました.
 しかし血漿を輸血すると回復したので,船に運び込んで入院させることが出来,命を取り留めたのです.
――――――

 また,ニューヨークの献血運動では,ハリー・L・ゴールドマンという退役衛生兵がこう語りかけています.

――――――
 血漿があることを知っていると,例え打たれても生き残るチャンスが倍増すると思えます.
 兵士は本当に血漿を愛おしく思うものです.
 魔法の薬の様に感じるのです.
 仲間が撃たれて重傷を負うと,「急いで!血漿を早く!」と叫びます.
 血漿の効果を知っているからです.
 判って頂きたいのは,血漿を輸血する現場が最前線だと言うことです.
 ライフルに銃剣を付けてそれを地面に刺し,安全装置に瓶を吊して流し込むのです.
 私たち衛生兵は暗闇の中でも器具を扱える様に,準備や組み立ての訓練をします.
 機関銃の射手が暗闇の中で銃を分解したり組み立てたりする訓練をする様にです.
 何故そんな訓練をするかと言えば,光が漏れない様に毛布をすっぽり被って処置をするからです.
 小さな懐中電灯を頼りに静脈を探し,輸血の針を挿すのです.
――――――

 更に,フロリダではタンパで非営利の血液銀行を運営しているグレース・ジャクソンと言う高齢の女性の仕事ぶりを中心にしたラジオドラマ「戦う女性たち」が放送されました.
 番組は淀みない愛国的な弁舌で,義務,理想化された銃後の生活意識,女性の高潔さ,血液の神聖さなど,戦う国家として米国が賞賛せずにいられない事柄に触れ,人々の感情に訴えました.

 医師達が負傷した若者を救う為に働く病院を舞台にしたこのドラマは,血漿について適切な知識を提供し,何処で献血出来るかを教え,国内の献血者の3分の2が女性であることを聴取者に思い出させました.
 あるときはナレーターが,行方不明の兵士の妻と娘が彼の誕生日の記念に献血をしたと語りました.
 放送が回を重ねるにつれて感動的な話が次々と展開され,人々を鼓舞する結びと成っていました.

――――――
 貴方の血は,金銭や時間や仕事とは違って,文字通り貴方の心から他の人の心に,アメリカ人兵士や水兵の心に届く贈り物です.
 兵士達は,あなた方が此の世で大切だと思うものを救う為に生きるでしょう.
 貴方が彼を救う為に,心の広い簡単な一歩を踏み出すことで…
――――――

とまぁ,こんな感じです.

 とは言え,これは建前で本音の部分は別にありました.
 特に差別の意識は,深く米国人の意識に刻まれていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/26 21:30

 さて,不毛な話と言えば,「有色人種」の血液に関する話です.
 赤十字社は,献血募集の最初の頃,軍部の希望に従って,アフリカ系米国人の献血を断っていました.
 しかし,真珠湾攻撃により,血液の払底が予想されたことから,赤十字社は制約を解く様に軍部を説得し,黒人の献血も受入れ,ラベルを付けて別々に処理する様にしました.
 この方法であれば,「受血者に同じ人種の人の血液から採った血漿を輸血出来る」からでしたが,この方法は多くの米国人に嫌われ,黒人や公民権運動の団体だけでなく,教会や科学者の組織からも,問い合わせや抗議が殺到しました.

 例えば,ニューヨーク・タイムズは社説でこんな風に書いています.

――――――
 黒人の血を輸血に用いることに対する偏見は極めて理解しがたい.
 南部には黒人の乳母の母乳で育った人達が大勢いる.
 赤十字社が持ち続けている偏見を,血液にまつわる迷信や信仰の名残であると説明することは出来ない.
 これが本当に科学の時代かと考えてしまう.
――――――

 尤も,各地では人種差別が未だ未だ根強く残っていたのも事実で,血液と人種の問題を手探りで解決しようとしていたのはニューヨーク支部だけでなく,ボルティモア支部は黒人献血者専用採血センターを設置し,ニュー・オーリンズ支部は,週に1度,黒人献血者の日を設ける事にしていましたが,何れも結果は思わしくありませんでした.

 抗議が収まらない中,赤十字社は1942年春に会議を開き,社の立場を再検討しました.
 赤十字社は,血液に人種による差はないと進んで認めていたものの,「白人の多くは,自分の血管に黒人の血を入れることを拒絶するだろう」と言う固定観念を打ち破れませんでした.
 その固定観念は,誰もその真偽を調べたことがなかったのに,です.

 しかし,戦地で大きな傷を負って出血し,昏睡状態になった白人兵士が「色の違う」血漿を輸血されるのを拒める者が果たしてどれくらいいるのか,一方で,黒人兵士が白人の血漿を望まない者がいると言う可能性などは一顧だにされていません.
 赤十字の見解では,兵士の90%が白人である以上,方針は「圧倒的多数の希望」に従うべきであるとすべきだと言うものでした.
 まぁ,当時の社会状況では,献血に対しても人種に対しても敏感な時期で,以前見た様に,誰彼とも無く日系人を収容所に入れるのが適当と考えた妄想的な時期でもあった訳ですから,そればかりを論うことは出来ません.
 国内でも軍隊を始めとして人種隔離政策が罷り通っていました.
 献血というのも今までに馴染みのない,価値観の古い人達から見ればぎょっとする様な計画であり,赤十字社上層部が,始まったばかりのもろい血液収集ネットワークを守る為には人種隔離政策を維持する必要があると考えたのも当然と言えば当然です.

 ところが,アルブミンの生産が軌道に乗ると,人種隔離政策を続けることは難しくなります.
 血漿の場合は未だ献血者50名分の血液を一緒にして処理したので,黒人と白人を分けるのが容易かったのですが,アルブミンの生産では,何百人分,時には何千人分の血液を一緒にして処理します.
 この為,「黒人の」アルブミンと「白人の」アルブミンを別々にする実際的な方法はありませんでした.
 と言う訳で,赤十字社としては安全策を採らざるを得ず,黒人の血液をアルブミン生産に用いることを禁じ,戦争中ずっとこの方針を固守しています.

 こうした変な方針にも関わらず,献血は全米の至る所で実施される様になりました.
 幾多の人々が個人で,或いは団体でやって来ました.
 企業も組合も毎週の割当に応じて参加し,それは工員であろうが重役であろうが全く立場を越えたボランティアに発展していました.
 ミルウォーキーのシュリッツ醸造と言う会社では,500名の労働者が一丸となって献血に参加しましたし,クリーヴランドのアメリカ銀行協会では,戦争が終結するまで1日6パイントの献血を目標とする短縮労働日を設けた他,ミネソタ州セントポールの路面電車の乗務員の間では,誰が一番多く献血出来るかを競い合いました.
 ハリウッドでは,ドラキュラ役で当りを取った俳優のベラ・ルゴシが,「不正利得」を返還する為に献血に参加し,刑務所内でも競って献血が行われ,献血の第1位はサンクエンティン重罪刑務所,第2位は小差でアティカ重罪刑務所となりました.

 こうした献血は,犠牲を払いたくても前線に手が届かない大衆の感情の捌け口と成りました.

 赤十字社では殺到する献血者に対応する為,センターの営業日を週6日に増やし,次いでセンターの数を増やして人口密度の高い東部の都市から,西部や中西部にネットワークを拡大していきました.
 最終的に35の都市にセンターが設置され,センターには63台の採血車を配置して郊外をカバーしていきました.
 しかし,赤十字社がノルマを達成する度に,戦地での需要に迫られた軍部は数倍多い割当量を強要する様になりました.
 1942年の割当量は25万パイント,それは想像を絶する量でしたが,赤十字社は何とか納めました.
 すると,翌年の割当量は100万パイント以上に跳ね上がったのです.

 軍需物資の生産でもそうですが,米国は戦時体制に移行すると,猛然と生産活動を開始します.
 日刊輸送船,週刊駆逐艦,月刊空母なんてのもよく言われるのですが,乾燥血漿も同様に軍需物資として指定され,大量生産が行われました.

 赤十字社は全血を採取し,それを氷で冷やして巨大なアイスボックスに入れて急行列車に積み込み,全国9カ所の製薬会社のプラントに輸送しました.
 そのプラントは全米どこから血液を送っても,採血から24時間以内にどこかのプラントに搬入出来る配置になっていました.
 プラントでは血液を遠心分離して血漿を取り出し,50本分を混ぜ合わせて凍結乾燥した後,出来た粉末を1本分の分量に小分けします.
 それから血漿の瓶と滅菌水の瓶を1本ずつブリキ缶に詰めて密閉し,それを頑丈な段ボールに詰め込みました.
 これが,戦地用輸血キットとなります.

 このキットは厳しい耐久テストを受けました.
 軍の職員が「箱を3階の窓からコンクリートの上に落とし,大きな部屋で箱を使ってフットボールをしてみてから開封してみてやっと耐久性の凄さを認めた」と言います.
 このブリキ缶は凹んだものの,割れも潰れもしていませんでした.

 また,海軍は独自の耐久テストとして,射撃演習の間,戦艦の上に箱を置きました.
 12インチ砲の爆風や砲煙にモロに晒したのですが,これにもびくともしませんでした.

 しかし,利点は多数有ったものの,乾燥血漿は完全ではありませんでした.
 血漿キットの重さは数ポンドに達し,大きさもランチボックスほどで,持ち運びが大変で使いにくい代物であり,輸血する場合は箱をこじ開け,ブリキ缶の底に溶接されている缶切りで2つの缶を開け,両端に注射針が付いたゴムチューブを取り出し,2本の瓶の蓋のゴムにそれぞれ針を刺して水を血漿の瓶の中に流し込み,良く振ってからその液体を注射します.
 この注射には15分かそれ以上掛るとされていました.
 砲火を浴びている状況でこうした悠長なことは出来ません.

 一方のアルブミンは,処理の段階で完全な滅菌が出来ますから,即座に使える液体の形でアンプルに詰めておけます.
 濃縮されている為,アンプルの大きさも男性のこぶし大であり,使いやすく軽くて小さいと言う特徴を持っていました.
 その特徴は,航空機や船の中で取分け価値が高く,乾燥血漿が生産されている間も,アルブミンの研究は速やかに進められました.

 アルブミンを開発していたコーンの研究所は小プラント状態となり,何十名もの化学者が交代で昼夜を通して働いていました.
 以前は試験管でしたが,今はタンクを使って生産していました.
 これはパイロットプラントを組み立てて,工場施設で行う処理過程の試運転をしている状態でした.
 アルブミンが出来上がるまでには,約1週間掛り,それから10時間,摂氏60度で加熱滅菌を実施し,浸透度や粘度,溶液の透明度を測る尺度である光の散乱度,蛋白質の純度を綿密に分析し,溶液にしてガラスのアンプルに詰めて密封すると言うものでした.

 この様な状態でも,コーンは精力的に働きました.
 しかも,この研究所だけでなく,米国全体のアルブミン研究の責任者として全国の大学や企業に属する臨床医や免疫学者,生化学者と契約を結ぶ一大組織の長に成り果せていました.
 普通はこうした大規模組織なら,ある程度は人に任せますが,コーンはサンプルが送られてくるとそれを自身の手で検査しないと気が済まないたちでした.
 研究所の研究者達は1日12時間以上働くことを強制され,それを望まない人間は容赦なく排除されていきました.

 コーンの熱意は手本でもあり,脅しでもありました.
 夜中でも研究所に電話をしてくることもありました.
 ある日,コーンが夜中2時に電話を掛けて,とある助手を呼び出した時のこと,その助手はコーンからの電話と知るや否や,大急ぎで襟元のボタンを留めてネクタイを締め,上着を着てから受話器を取ったと言います.
 また,別の日には冷蔵室の中で防寒着も着ずに長話を始めました.
 ついてきた同僚達は,寒さを堪えながら,震えていたと言いますが,博士の方はぶるっともしませんでした.

 研究者達がコーンの元で四苦八苦して震えていた頃,彼らが所属していた製薬会社ではプラントを建設していました.
 ステンレスのタンク,うなりを上げる冷蔵庫,大型の遠心分離機を備えた,極めて清潔な乳製品工場の小型版でしたが,24時間体制でガードマンが見張りをしているのが相違点でした.
 進捗会議は毎週コーン臨席の下で開かれ,議論白熱の為に山と積まれたチョコレートケーキやサンドウィッチが全然手が着いていない事も屡々でした.
 会議内容を纏めた記録は全3巻で合計1,600ページを超えていました.

 1942年6月6日の進捗会議では,海軍の大佐が要求するアルブミンの量を製造業者側想定の7倍を要求する予定だと爆弾発言をしています.
 只でさえ,全企業がこれ以上無いスピードで開発や原料収集を進めているのに,と赤十字社を始め各企業は海軍の無神経さに一斉に反発しました.
 大佐はかっとなってこう言い返します.
「このアルブミン計画全体にかなりの悲観論がある様だ.
 原料が手に入らず製造も出来ないのなら,我々は,では諦めるのか,それとも前進して取りかかってみるのか!」

 とは言え,業者側の言い分は尤もでした.
 純粋なアルブミン生産は乾燥血漿より更に難しく,1回の偶発的な汚染で生産量の4分の1を失った企業があり,品質基準を達成できないために撤退する可能性を示唆する会社も出て来ました.
 また,ある企業は製造したアルブミンを注射したモルモットが死亡したと報告していました.
 コーンの指摘は,製造設備が手に入らなければ生産は進まない事を示唆しています.
 大型の遠心分離機は,一般的な機器ではなく,フィラデルフィアのシャープレス社しか製造していないものでした.
 そして,あろうことか,シャープレス社はその在庫を総て海軍に納品してしまっていました.
 海軍ではビルジから燃料と水を分離するのにその遠心分離機を使っていた訳です.

 数時間の議論の末,海軍は必要な機材を確保することに同意し,遠心分離機が届く様にすると約束しました.

 そして,1942年11月,最初の濃縮アルブミン製剤が海軍に納品されました.
 1943年3月には,業界全体で月何千本まで行きましたが,コーンの要求はそれを越え,月産25,000本を要求しました.
 更に7月には軍隊が必要するだけ供給できるようにしようと叱咤しています.
 即ち,この頃には25,000本を越えていた訳です.

 正に米国の生産能力恐るべしです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/27 23:48

 さて,ここんとこずっと米国の事情だったのですが,枢軸国に目を転じてみます.
 米国と同様に化学工業の先端を行っていたドイツでも,血液の代用品を研究していました.
 その1つのトトヒュジュンは単純な電解質溶液に過ぎず,作用する前に血管壁から漏れ出てしまいました.
 もう1つ,バイア社開発によるペリストンと言うものの名称が伝わっていたのですが,これはどんなものか不明でした.

 ペリストンは,1943年7月に北アフリカで連合軍が1本のサンプルを手に入れるのに成功します.
 それが米国のコーンの同僚の元に送られて詳細に生化学的分析が行われました.
 その結果,これは合成抗ショック剤であることが判明します.
 そして,その組成は浸透性のあるビニル化合物で,分子量が大きいので血管壁から漏出しません.
 確かに良いことずくめなのですが,マウスで実験してみると肝臓と脾臓に長く停滞するという好ましくない性質がありました.
 因みに,このペリストンを投与されたドイツ兵を発見して研究する試みも行われましたが,これは実現しませんでした.

 ドイツではもう1つ,ポリガルと言う血液凝固剤の試験も行われており,ダッハウ強制収容所で収容者4名に注射した事が後に判明しました.
 1人はロシアの人民委員,1人は精神薄弱者で,残りの2名はどんな人物だったのか不明です.
 ニュルンベルク裁判で明らかになった報告書では,椅子の上に立った親衛隊員がロシア人の右肩を撃ち,弾丸が脾臓から飛び出しました.
 ロシア人は身を引きつらせて椅子に座り込み,20分後に死亡しましたが,傷口は固い凝血塊で止血していたので,かなり長い間生きていたようです.

 結局,このポリガルも実験段階で終わってしまいました.
 先に見た様に,医者にユダヤ人が多かったことから,彼らを根刮ぎ追放したり殺した上,海外からの医学の進歩も「アーリア人」の医学には参考に値しないとした為に,この頃のドイツの医療技術は明らかに1世代前のものとなってしまっていました.
 この為,ドイツでは,検査室での血液型判定は全くと言って良いほど行われておらず,血液の貯蔵についての知識も殆ど無く,採血を必要な時期にその都度行うと言う方法を採っていました.
 兵士の血液型はIDカードに記入されていましたが,その血液型も連合軍の諜報部の調査では,間違いが多かったと言われています.

 そして,親衛隊の場合,左腕の下側に入れ墨を入れ,負傷すると,指定した供血者や軽傷の仲間から血液を受けました.
 その上,輸血の方法でも,英米は大量の血液はゆっくり輸血する方法を採りましたが,ドイツにはそんな知識はなく,心臓が負担過重になるのを恐れながら少量の血液を輸血する方法しか採っていませんでした.
 でもって,例のアーリア人優越主義の為,血液はアーリア人のものしか受け付けませんでしたので,条件は更に振りになり,1942年にソ連軍の捕虜となったドイツ軍軍医のパウル・シュルツ博士は,「無意味な人種理論」と「純粋な血」に対する要求が,十分な血液供給を不可能にしていると語っています.
 また,ドイツの輸血技術が余りにもお粗末だった為,米国軍医は,負傷した敵兵に遭遇すると血漿を投与したい衝動に駆られたと言います.

 占領したドイツ軍の野戦病院を検分したアイラ・ファーガソンと言う外科医は,「戦地の手術は未熟な外科医の手に掛ると身の毛がよだつものになる」と報告しています.

 まだ輸血をするドイツ軍はマシな方で,日本軍は前線の近くで最も原始的な輸血法である腕から腕への輸血をするだけで,それも滅多にすることはありませんでした.
 終戦後,日本の捕虜収容所から帰還した連合国の兵士達は,日本の研究者が捕虜にマラリア患者の血液を注射したり,捕虜の血液を抜いて,代わりに馬の血を入れるなどぞっとする様な実験を行ったと言う報告をしています.

 ところで,日本は論外として,ドイツ本国でも血液の有用性に無知だったことから,相当数の同胞の命を犠牲にしただけでなく,占領下の国で起きていることを把握し切れていませんでした.

 オランダでは,血液の採取と処理をする地下組織が作られ,それは欧州で最も進んだ組織に成長していました.
 その拠点は当初ロッテルダムとアムステルダムの病院に置かれていましたが,前者は連合国の爆撃で破壊されてしまいました.
 当初は,病院の職員やボランティアの市民を募ってその都度採血する方法を採っていましたが,後に滅菌したビール瓶に数日間保存する方法を採用し始めます.

 ドイツ人は母国を占領し,レジスタンスを虐殺し,ユダヤ人を強制退去させ,更には国中の機械類やガス,石油や石炭などのエネルギー資源,更に金属製品も奪い取りました.
 教会の鐘でさえ,銅を採る為に溶かしてしまいます.
 勿論,医薬品や食品ですら例外ではありません.

 それでもオランダ人達は工夫して輸血システムを近代化しました.
 オランダの医師達は,密かにBBCにダイアルを合わせて英国軍が北アフリカで乾燥血漿を使用したというレポートを傍受し,独自の施設を建設することを決意しました.
 オランダ赤十字社はその任務に最適な人物として,アムステル醸造の化学者であるゴラルド・マステンブルークを雇い入れました.

 マステンブルークは,スウェーデンとスイスから技術関係の論文を密かに持込み,会社の最上階で,血漿を凍結乾燥する設備を密かに組み立てます.
 ビールの冷蔵器を用いて血漿を冷やし,それをウィスキー醸造会社であるデュアーズ社から持ってきたタンクに入れました.
 遠心分離機の部品はスイスから密輸され,沢山の瓶に血漿を分配する為のパイプは,レジスタンスがこっそりドイツ空軍のメッサーシュミット戦闘機から失敬してきたものでした.
 そして,完成した設備は24時間稼働させ,戦時中に合計6,000単位もの乾燥血漿を生産しました.

 後にオランダの輸血部局の責任者となったはヨハネス・J・ファン・ロッヘムはこう述懐しています.
「ドイツ人はこれにまるで関心を示さず,全く無視していた.私たちの血を信用していなかったんでしょう」

 こうして,アムステルダムに秘密の血液処理システムが出来,献血がレジスタンスの活動となりました.
 医師達は自転車を漕いで瓶を運び,血漿を隠し持ったトラックが田舎道を走り,農村や地下組織の人々に運びました.
 そして,1944年,ドイツ軍がカナダと英国の軍隊数千名を来たオランダに閉じ込めた有名なアルンヘムの戦いの最中,オランダ人は何百パイントもの乾燥血漿を届け,それがなければ間違いなくしに至っていた兵士達の命を救ったと言います.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/28 23:31

 さて,昨日はドイツを中心とした血液の話を書いたのですが,意外にこの分野で先進国なのがソ連だったりします.
 最初に見た様に,ソ連では,死体から血液を採取する方法が開発され,スキルホソフスキー研究所ではそれを専門に行っていました.
 そして,独ソ戦が始まると,大量の血液と血液製剤が使用されました.

 米国でもソ連が死体血の採取をしていることを承知しており,コーンの研究チームでもそれが話題になっていました.
 しかし,米国諜報部が探った所,ソ連は死体血からの血液採取を手間が掛りすぎると判断したと言う結論に達しました.
 ある米国の研究者はこの報告を聞いて,
「2リットルの血液を確保するのに,選び出した1つの死体から複雑な方法で採取するよりも,4人の生きている供血者から採取する方がずっと簡単だという事にロシア人が気づいたと推測して間違いないだろう.
 生きている供血者は2ヶ月経てばまた供血出来るが,死者は一度しか役に立たない.」
と,書いています.

 とは言え,死体血はソ連の血液システムのほんの一部を構成するに過ぎませんでした.
ソ連は血液貯蔵の先駆者でもあり,保健省の下に何十もの研究所や1,500カ所ものセンターが設置されていました.
 中央輸血研究所のA・バグダサロフ教授は,
「独ソ戦が開始されると,こうした研究所の多くが,速やか且つ効率的に仕事を調整した」
と書いています.

 バグダサロフ教授は同僚と共に,4つの戦闘と輸送の主軸に沿って血液供給システムを再編成しました.
 最前線は北はレニングラードから南はオデッサ,そして黒海まで延びるものとし,第2線はそれより数百マイル東の線で,来たのアルハンゲリスクからモスクワを通って,南のロストフを結ぶもの,第3線はロシア内陸部をボルガ川に沿って続き,第4線は線と言うよりも面でシベリア中に散在していました.
 各区域はそれぞれ既存の航空路,鉄道,人口の多い地区のセンターを最大限に利用して血液を収集する様に組織されており,バグダサロフ教授は,「開戦から12ヶ月の間に,文字通り何百トンもの血液が,撤退の途上で負傷者に供給され,極めて大きな成果を上げた」と書いています.

 医師達は全ての型の血液を採取して,万能のO型を全血輸血に用い,他の型は血漿生産用に回しました.
 全血だけで1,000トン,血漿は米国の様にパイント単位ではなく,タンク車単位で数えられた程の量でした.
 但し,ロシア人的鷹揚さというか,余り緻密な検査は行われていなかった様で,その供給システムの欠点は,全般的に細菌汚染の率が多かった事にありました.
 尤も,この原因の1つは血漿を米国の様に凍結乾燥して提供するのではなく,液体状態で提供したことが多かった事が考えられています.
 バグダサロフ教授によれば,この欠点の為,一時期は大量の血漿輸血を受けた者の40%が副作用を生じたと言います.

 一方で,ソ連では血液代用物質をも多く生産していました.
 滅菌水を用いた電解質懸濁液の「ペトロフ溶液」,骨髄の造血作用を促進する為に造られた「セルツォフスキー溶液」,血圧を維持する様に造られたゼラチン液の「フェデロフ=ヴァシリエフ溶液」などです.
 ただ,これらは数時間の間,ショックを防止しましたが,血漿やアルブミンの様な長時間抑止効果はありませんでした.

 血液の原料供給の面では,人々の愛国心は高く,モスクワでは生活水準の高い米国のニューヨークと同じ人数の2,000名が列を為して献血を行いました.
 それは,「採血センターは早朝から夜遅くまで活気に溢れている」とバグダサロフ教授は書いているほどです.
 献血者には食べ物と現金が渡されましたが,現金は返す人が多かったと言います.
 男性が前線で戦闘を行う為に徴兵されていたので,この献血者の殆どは女性でした.

 こうして採血された血液を保存した輸血瓶には,献血された人の名前が書かれていました.
 この為,前線では供血者と受血者との間で文通をしたり友情を育てたりすることが多かったと言います.
 また,そう言った出来事が,供血者の近隣で献血に対する熱意を増加させたのは間違いなかった様です.
 更に,ある兵士は2度目に負傷して重体になった際には,前に命を救ってくれた同じ女性の血を欲しがったという話も残されています.

 意外なことに,ソ連の戦地医療は「良く組織され,効率的で近代的である」と,他の連合国の視察団が報告しています.
 特に驚いたのが野戦病院です.
 外観は,カナダの木材切り出しの飯場の様な質素な建物で,医療スタッフは自分たちで建てて迷彩を施す様にしていました.
 その隠蔽技術は高く,あるとき,視察団の乗った車が,誰も人が住んでいない様に見える場所で止まりました.
 実際には道の両側に1つずつの病院があったのですが,その1つからアコーディオンの音が聞こえてきてやっと人の住む施設があると判ったほどだと言います.

 中はどこもかしこも急拵えでしたが,患者の身体を綺麗にして振るい分けをする木造の沐浴場,水漆喰を塗った,何百床もある大きな病室棟,テント張りの消毒室には,薪ストーブに乗せた蒸気滅菌器で外科用器具の滅菌をし,血液の貯蔵室は地面を掘って造った小さな穴蔵で,大きな氷を置いて血液や血漿を冷蔵すると言う様に施設が極めて効率よく,しかも完璧に整備されていました.

 ロシア人の創意工夫と血液や輸液を然るべき場所に配備する能力が試されたのは,戦時の中でも特に過酷なレニングラード攻囲の時でした.
 この時,ソ連軍はドイツ軍の攻勢に押され,疲弊して,陣地を次々に放棄して退却を重ねます.
 遂に1941年9月,レニングラードをドイツ軍が攻囲下に置き,市に繋がる鉄道や道路を分断し,連日市街地に向けて砲爆撃を敢行しました.
 それから3年,レニングラードは最も悲惨な都市崩壊の現場となります.
 電気やガスは勿論供給を絶たれ,熱源や水も殆どありませんでした.
 爆撃で割れた窓からは雪が容赦なく降り込み,住民が頼みとする日々の食糧配給は,握り拳大の黴臭いパンだけとなり,多くの人が止むなく犬猫や鼠まで食べ,家具の繋ぎ目や壁紙からこすり取った膠で作ったスープを啜りました.
 1番酷い時には,1日で3,500名以上が死亡し,900日の攻囲で総計63万人が死亡しました.
 因みに,この数字は,英米の戦争中の全死亡者よりも多かったりします.

 そんな中でも,レニングラード血液学及び輸血研究所のスタッフは,屈せずに仕事を続けていました.
 電気も水道の水もなく,風や雪を遮る窓硝子も無事なものは殆ど残っていませんでした.
 脆いガラス器具も同様にすっかり割れて破損してしまっていましたし,実験用のモルモットすら死んでしまっていました.
 この為,研究者達は,例えば,ウォツカの瓶でも銅管でも見つかるものは何でも使いました.
 水は,軍隊の様に薪ストーブに蒸気滅菌器を乗せ,雪を溶かして滅菌水を作り,その水でペトロフ溶液を作って血液に混ぜて量を増やしました.

 献血者はこの攻囲下でも引きも切りませんでした.
 研究所や採血センターの外には献血する人々が零下の気温の中で列を作っていたほどです.
 それは市が献血する人を「ソ連邦の英雄」と表現したポスターを何千枚も貼りだした為でもあり,党は工場や大学その他の学校にまで拒否出来ない「勧誘」と言う方法を採った為でもあります.
 御陰で,この状況の悪さにも関わらず,レニングラードの1941年の献血者の数は前年比より倍増しました.
 栄養の良い米国人と違って,栄養状態の余り良くないロシア人からは,各個人から一気に大量の採血をするのではなく,数日間,毎日少量ずつ採血する方法を試行しました.

 一方で,1,000名を越える輸血専門技術者を育成し,彼らを血液や血漿キットと共に前線に送り出しました.
 レニングラード市民は過酷な封鎖に耐えて生き延びただけでなく,その最中に100トンを超える血液と血漿を前線に提供するという偉業を成し遂げたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/01/29 21:22


 【質問】
 WW2当時の携帯食料について教えてください.
 カロリーメイトのような料理せずに高カロリーを得られるような食料を配布していた国はあるのでしょうか?

 【回答】
 米軍では大戦当時,Dレーションと呼ばれるチョコレートバー風の個人携帯用非常食を支給してました.
 美味しくない上に本来非常用であるものが一般食として支給されたので,評判は最悪だったとか.
 その他にKレーションと呼ばれる缶詰肉料理や,ビスケットなどで構成される戦闘用レーションも支給されています.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板

 また,日本陸軍の航空糧食については,カルピス・ドリコノのような飲料,チョコレート(固形・絞り出しの2種),羊羹,ガム,ドロップなんかが戦時中も配給されていました(もちろん場所によるけど).

軍事板


 【質問】
 よく戦場で「軍法会議ものだ!」と言うシーンがありますが,軍法会議は自分の国に帰ってから開かれるものなんですか?

 【回答】
 前線で発生した事件は一応戦線後方で行われます.
 ドイツ軍の場合は憲兵少佐二名が軍規(軍法)に照らして軍規違反の罪状を問います.
 最高刑を死刑として,軍刑務所での禁固刑,階級剥奪,不名誉除隊など様々な刑罰があるようです.
 状況によっては本国送還で行われました.これは高位の軍人だね.

一等自営業 ◆JYO8gZHKO.


 【質問】
 古今東西の捕虜収容所所長について質問です.
 WW2物の映画や小説などに登場する捕虜収容所の所長などは,戦線で負傷などが赴任理由になっているのをチラホラ見かけますが,実際はどうったのでしょうか?
 栄転なんでしょうか?
 それとも左遷先と見るのが良いのでしょうか?

 【回答】
 特に変わりありません.

 軍隊では戦闘をするばかりでなく,後方を担当するのにも士官が相当数必要であり,その中の一部が,捕虜収容所長として赴任したにすぎません.
 部下の方は,戦傷などで後方に送られたケースが多いようですが,捕虜収容所長は,それなりに国際法に精通した人々を充てることが多く,高等教育を受けた人間がなるケースが多いです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 栄転か左遷か,という観点とは少し違いますが・・・

 かの名著「戦場における『人殺し』の心理学」によれば,捕虜収容所では捕虜側よりも,看守側のほうに心的外傷が多発するそうです.
 捕虜の生殺与奪の権を握り,反乱や脱走に備えるなどの心的負担は尋常なものではなく,後方だからといって閑職ではないようです.

 同所には「ナチスドイツによって収容所の管理者に任命された者たちには,攻撃的精神病質者が驚くほど多かった」「できるだけ<凶悪犯とサディスト>があてられた」ともあります.
 そんなところの所長ですから,左遷先としては不適切でしょう.


 【質問】
 イタリア軍に捕まったイギリス兵の扱いはどうだったのでしょうか??

 【回答】
 イタリア軍に捕まった英国兵は,概ね捕虜条約に則った待遇をされています.
 それが行き過ぎて,以下の話があったりするのですが.

 英国空軍のボーフォート搭乗員が撃墜され捕虜になったのですが,彼は士官だったので,色々と便宜を,特に食べ物などに対して図ってくれたそうです.
 しかし本国への護送中に,その搭乗機,Z.506をハイジャックし,監視中の枢軸国軍用機を騙し,味方のスピットファイアの攻撃から命からがら逃れ,マルタ島に帰還して,搭乗員が逆に英国の捕虜となりました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 第二次世界大戦中,各国が使ってたガソリンのオクタン価ってどのくらいなんでしょう?
 某所の議論によると,当時のガソリンのオクタン価からして,
「ディーゼルよりガソリンエンジンの方が排気量あたりの最高出力が高い」
とは言えないとのことですが.

 【回答】
 アメリカ=80.ドイツ=74.ソ連=70.

 アメリカ・ソ連は実際に使用していた値としてザロガ氏の書籍で日本でも流布している.
 ドイツはエンジンのカタログデータから判る数値.
 ドイツの場合現場ではこれより低質なガソリンを使っている可能性がある.
 アメリカ・ドイツはエンジン開発で目安とすべきオクタン価として指定されている数値でもあり,仮にこれより上質なガソリンを使っても性能は上がらないと思われる.
 このようなガソリンでは高回転型エンジンも過給も実現困難.
 例えばマーリンをミーティアに改造する際,自然吸気・低圧縮比にして低回転仕様のエンジンに改めている.
 逆に戦車用ディーゼルでは過給していた例が見られ,熱効率の良さからネットとグロスの差も小さくなる傾向がある.

 ただし日本やイタリア,米国でR975の代用に作られたGM6046等は本当に高性能を狙っているかと言うと突き詰め切れていない感もあり,それら未発達なディーゼルと比較すればガソリンエンジンが圧倒的に不利とも言えなくなる.

軍事板


目次へ

「WW2別館」トップ・ページへ

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ   サイト・マップへ

Ads by TOK2