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 【質問】
 WW2にアメリカが費やした金額は?

 【回答】
 1940年の米の歳入が51億ドル,戦費が2800億ドル程度と言われている.
 50ヵ年分以上を費やしたが,そのほとんどが公債(借金)だよ.

軍事板,2008/09/04(木)
青文字:加筆改修部分

 米の機密資料公開で戦費総額出てたな.
 WW2の戦費は現在の価値にして350~400兆円ぐらい.

 国残高が2695億ドルで,当時のGDPが218億ドルだから十数倍か.
 たしかにすごい額だが.軍縮と戦時税率一部維持で十分乗り切れた.

 まあ,危機的といえば危機的だが,あれだけの戦争をしたわりには大したこと無かった.
 何しろ他の国は戦勝国も敗戦国も,名実ともに破綻状態だったからな.

 米国の場合,半分は戦時体制の歳入で賄えてる.
 税収負担率46%.
 借金も中長期の国債を借り替えながら,余裕を持って返済してる.
 金利は2%台を保ち,朝鮮戦争終盤でやっと3%.

 そのころ日本は深刻なインフレを起こして,新円発行で戦前の資産が端下金になった.
 とても返せる借金じゃなかったのさ.

 『戦争の経済学』(ポール・ポースト著,バジリコ,2007.11)を流し読みしただけだから,細かい数字は違ってるかもしれんけど,おおむねそんな印象だった.

モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板,2008/09/04(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アメリカは不況から脱出するため,第二次大戦参戦を望んだという説がありますが,実際に戦争で景気は良くなった・・というか儲かったのでしょうか?

 【回答】
 陰謀論の有無は別問題として,戦争特需でアメリカの景気が大幅に拡大したのは事実.
 儲かったというより戦時の経済政策が成功して富が増えたというのが正確.

 ケインズの理論を元にしたルーズベルトのニューディール政策は,大規模な財政出動の継続に対して産業界から反対があり,違憲訴訟も度々なされ,途中で財政再建路線に転換したため失敗する.
 この時,ケインズは『ニュー・リパブリック』誌で
「私の説の正しさを証明できるに十分なほどの財政支出は,戦争でもない限り不可能だ」
と書いている.

 パールハーバーで大義名分を得たことにより,ルーズベルトはヒトラーが実行した全体主義的経済に近い強権的な経済政策を実行でき,それが成功したといえる.

 アメリカの1938年の経済成長率は-3.8% 失業率15.9%
 それが戦時体制,統制経済への移行によって1942年には失業率が4%未満に下がり,ほぼ完全雇用を達成.
 また経済成長率は1941~1945年平均11%で,実質GDPは5年で70%増大.

 戦争費用は膨大で年平均でGDPの30%を超え,トータルでおよそ3300億$と推計.
 1933~1940年のニューディール期における公共事業や救済事業などの支出が300億$強だったことと比較すれば,戦争がいかに巨大な公共事業であるか分かる.

 その巨額の戦費を,アメリカは主に国債発行と増税で賄った.
 20万$を超す所得には94%の所得税が課せられる.
 財務省はFRBに要請し,国債を発行利率2%台の低金利に抑え,利払い負担を軽減.
 並行して主要消費財の価格固定及び,消費財の購入クーポン割当制によって民間消費を抑制し,かつ標準的な労働者の税率を23%に留めて,国債購入インセンティブを与える.
 また,キャピタルゲイン課税を25%に留めたことにより,企業は高率の所得税を避け,配当を抑えて内部留保を増やし,富裕層もまた株や債権などで資産を維持した.

 以上のような戦時下の経済政策で,アメリカでは富裕層も一般労働者も大幅に貯蓄が増えた.
 その巨大な貯蓄が戦後,統制経済の終了と生産体制の民需への移行によって,50年代の高度消費社会へと繋がる.
 戦時に発行した長期債も,50年代に約70%が償還された.
 アメリカのいわゆる”黄金の50年代”は,戦時の資本蓄積をベースにして生まれた.

経済板住人 ◆ebHA.RI.WI in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アメリカ産業界の戦時体制移行はどのように行われたのか?

 【回答】
 米国の戦争機械は,1941年12月の日本,ドイツ,イタリアの対米宣戦布告によって,従来の仮面の平時モードから大っぴらに戦争モードに切り替える事が出来ました.

 しかし,急に経済機構を戦時体制に切り替えてしまうと,需要構造の転換とそれに対応する供給体制変更が間に合わず,あらゆる場所で隘路が生じ,インフレが加速したりします.
 この為には,日本と同じく,通常の市場や価格決定機構を停止したり抑制したりして,なだらかな坂を登る様に市場を誘導して,戦時産業体制を確立しなければなりません.
 この立ち上げには約1年を必要としました.

 1942年1月26日,先ずSupply Priorities and Allocation Board(SPAB)とOffice of Production Management(OPM)を統合して,戦時権限法に基づく大統領の強制権限をもつ,War Production Board(戦時生産局:WPB)を設置します.
 これは,戦時に於ける生産と統制に関係する主要機関の代表が参加する機関で,陸海軍長官,商務長官,Board of Economic Warfare(経済戦理事会:BEW)議長から成っていました.
 1942年末から1943年にかけては農務長官,戦時人的資源委員会委員長,国防運輸長官,燃料関係諸庁長官,食糧庁長官が加わり,1944年7月以降は,BEW議長に代わって,Office of Price Administration(価格管理本部:OPA)長官が参加する事になります.

 このWPBと言う機関は,ピーク時の1943年2月には,実に23,000名を擁する一大行政機関となり,WPB議長は,大統領の戦時産業動員の全ての権限が付与されていました.
 また航空機生産委員会は,全産業から独立した委員会であり,執行副議長直属の委員会として,生産執行委員会,経営コンサルタント部,戦時生産推進部,情報部,造船監督官,アルミニウム・マグネシウム部,銅部,鉄鋼部と並び重要な機関とされていました.

 こうした戦時生産機構や施設建設に必要な金融は,
必要証明書に基づく特別傾斜償却,
Emergency Plant Facilities Contract(緊急工場施設契約),
Reconstruction Finance Board(再建金融公社)の子会社であるDefence Plant Corporation(国防工場公社:DPC),
連邦政府直接金融・所有
と言う4つの方法がありました.

 主要産業に対してはDPCの適用による金融が為されました.
 これは政府資金によって建設された国防・戦時生産施設を,政府に代わってDPCが所有し,それを民間会社にリースするものです.
 但しそのリース料は,
主契約者に年1ドルを支払う名目リース料方式,
下請けリース契約に対する実質リース料方式,
名目リース料設備のDPCへの償還方式
があり,重要産業であるアルミニウム産業,重化学工業,クライスラーなどの自動車会社に対する戦車や航空機の生産工場に適用されています.

 1940年後半から1945年前半までの施設拡張総額760億ドルの中で,DPCによるものは2,300件,70億ドルに及びました.

 生産統制については,1941年末にProduction Requirement Prant(生産必要計画:PRP)が導入され,基礎的生産資材の全般的配給統制の基本体制が確立されました.
 1942年半ばには民生用品生産が除去され,主要産業については軍需生産に完全移行し,例外を除いて,大口資材と金属品の90%が統制下に置かれる事になります.
 これは,WPBが従来の生産資材のフローに横から介入して配分する形を取り,非鉄金属や鋼などは地金から,厚板,ロッド,バー,薄板,管,棒,鋳造品全てがリスト化されてWPBに提出され,各商品については軍の申請に対象数量を割当決定して,余剰品は返却させる仕組みであり,基礎資材を総合的にバランスする機構でした.

 更に,1943年1月12日にはControlled Materials Plan(CMP)規制により,戦時重要資材として炭素鋼,特殊鋼,銅,真鍮,アルミニウムがControlled Materials,即ち指定統制資材となり,完全に垂直的な統制が行われる事になります.
 1944年の軍需生産のピーク時には真鍮の83%,アルミニウムの78%,炭素鋼55%が直接軍需用途に消費されました.

 軍需調達には軍の権限も強く,屡々軍とWPBとの間に優先争いが起きましたが,CMP規制は,その争いを上手く解決する手段として用いられていました.

 因みに,DPCのリース物件が多く各企業に払下げられ,例えば,映画にもなったTuckerなんかは,B-29関連工場の払い下げで自動車産業に打って出た人ですし,アルコアの独占から寡占に変えた競争相手も,このリース物件払下げによって設備の拡充を行っています.

 何でもかんでも軍が嘴を突っ込んで,生産ラインを掻き乱した,敵国の某国とは偉い違いです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,WPB 2007年10月12日22:24


 【質問】
 アルコア社と米政府との間の確執とは?

 【回答】
 第二次大戦中,アルミニウムはジュラルミンの原料として,戦争に必要不可欠な存在でした.
 米国は1940年7月から1945年8月の間に,航空機299,293機,航空機用エンジン802,161基,プロペラは807,424セットを生産し,その生産実績は金額にして448億ドル,全軍需品の24.3%を占めています.
 当然,それに使われるアルミニウムは膨大で,約150万トンのアルミニウム合金を消費しています.
 日本と比べるのも烏滸がましい状態です.

 ところが,その大戦の真っ最中,米国政府は別の内なる勢力と戦っていました.

 このアルミニウムを生産していたのが,北米大陸では50年に渡り,アルコア只一社でした.
 1900年代以降,全世界のアルミニウム会社が何度もカルテルを締結し,各国のアルミニウム会社が販売地域と数量を決めています.
 アルコアはその表面に出ませんでしたが,カナダのダミー会社を通じて参加していました.
 こうして,北米とアジアに於けるアルミニウム販売については,この会社の独占状態だった訳です.
 航空戦を戦うのに,アルミニウムが手に入らなければ航空機の生産が出来ないのですから,独占状態の彼らは高利益を上げる事が出来ました.

 ただ国家防衛上,流石に政府としてもこの状態を放置できず,1937年4月,アルコア,アルミニウム・リミテッド(アルキャン)とその関連会社61社がSharman Lawの第1条と第2条に該当しているとされ,カナダに本社のあったアルキャンは分離され,国際貿易分野も手放しました.
 この為,米国内での独占状態の再構築を迫られる事になります.

 そもそも,アルコアと司法省との闘争は1911年に開始され,アルコアは事ある毎に司法省から目の敵にされていました.
 Baush Machine Tool Companyと言う会社が,2Sジュラルミンを中心とする高品質のアルミニウム製品を生産していました.
 1925年,アルコアはこの分野に進出し,1927年には瞬く間にBaushの生産高を上回ってしまいます.
 Baushは5万ドル程度しか追加投資が出来ず,市場の多種多様な板幅の種類に対応する事が不可能で,大資本を投下できるアルコアに為す術もなく,1935年までにはBaushは板,管,線などの圧延加工を全て放棄してしまいました.

 1931年,Baushは工場を閉鎖せざるを得ない状況に追い込まれ,同社のHaskell社長が,連邦地裁に300万ドルの損害賠償訴訟を起こします.
 その争点は,Baushの鍛造と板製品についてアルコアの製造原価を原価割れで提供して競争者を排除した事と,海外地金の流入を妨害して独占を維持した独占禁止法違反でした.
 1933年の第一審判決はアルコアの勝訴に終わり,1935年,Baushは上告したものの,此処でもアルコアの地金価格は不均一であり,海外地金を使用した製品価格とアルコアの一貫縦割り価格での各レベルでの価格水準が比較できないとして,アルコア勝訴に終わりました.

 しかし裁判的には強かったものの,Haskell社長の更なる上告を阻止する為に和解に持ち込まれ,司法長官は,このケースの結審結果が将来の行為の根拠にならない事を確認した手紙で同意を与えました.

 一旦,これで事件は終息した様に見えましたが,火種は燻り続け,1937年4月,司法省はアルコアを140にも上る訴追項目にて訴追し,アルコアが14の市場で独占を行使し,海外の業者と共同謀議を行い,米国市場に海外地金の流入を不可能にしていると述べ,更にこの訴追は,従来の水平市場の独占のみならず,原鉱採掘,水力発電,アルミナや地金精錬独占,二次塊やスクラップ市場に至る,広範囲な垂直市場での独占についても告発していました.
 元々,Baushの法律コンサルタントとして,司法長官のCummingsが付いており,その遺恨戦とも言えるものでしたが,更に一般にも悪評が高く,アルコアがHarding,Coolidge,Hooverの歴代大統領の財務長官を務めたAndrew Mellonと関係が深いのも影響していました.
 Mellon一族は米国有数の財閥で,Andrew Mellonと兄のRichard Mellonは,アルコアの大株主でもありました.
 つまり,彼らの富の源泉はこの独占に代表された訳です.

 F.D.Rooseveltは,共和党政権を支えたMellonをして,「巨万の富の悪人達の頭目」と非難し,折からの恐慌はMellonの政策失敗が引き起こした,と槍玉に挙げていました.
 そして当選したF.D.Rooseveltは,共和党の財政力を弱めるべく,折からアルコアを敵視していた司法省を焚付けたという訳です.

 1937年のアルコアの市場占有率は,製品,ボーキサイト,アルミナで100%,圧延加工品の板が60%,押出材が40%,鍛造が40%,管・ロッド・線・条が60%,箔が50%,ピストンが22%,粉が50%,調理器具50%と,「圧倒的じゃないか,諸君」(by デスラー)な状態です.

 この起訴の審理に要した日数は,南北戦争の期間よりも長く,長い裁判として有名になった1874年のチックボーン事件の審理に要した日数6ヶ月半よりも176日も長く掛かりました.
 公判終了までにアルコアは200万ドル,政府は50万ドルの法廷費用を費やし,控訴審は第二次大戦を越えて大戦後暫くまで続きました.

 それは兎も角,一審のNew York南部地区地方裁判所の審判は26ヶ月に及ぶ数限りない申し立てと,手続き的な論争を経た上,審判記録は実に58,000ページに達しましたが,1942年3月に出た判決は,130に及ぶアルコアの罪状全て無罪の評決を下しました.
 因みに,裁判官はこの判決の朗読に9日掛けたそうです.

 ボーキサイトの所有は50%であって独占にはならないとか,
水力発電はTVAや北西太平洋地域での政府が主導する水力発電計画で全米の0.003%に抑えられている,
加工品の分野でも,先駆者としての関連技術特許の為せる業であり,
電線は電線の全体の比率からして,アルミニウムが占める割合は微々たるもので,主に価格は銅電線メーカーが決定している
…などなど.

 この法廷では,アルコア側の老獪な訴訟戦術が勝利しました.
 裁判官と同世代のベテラン弁護士による法廷での駆け引きも相まって,独禁法護持側の若い弁護士達は余りにも夢想的である事をさらけ出し,確たる証拠もないままアルコアを訴追したとして,裁判官にアルコアへの好印象を与える事に成功しています.

 政府側は引き下がらず,最高裁に上告することになります.
 因みにこの頃,戦争は正にたけなわで,政府は大企業の助けを借りる必要がありました.
 が,ニューディーラー達は聞く耳を持たなかった訳です.

 最高裁は長い遅延の後,本件は法律解釈に馴染まないから第二審判所で訴追すべきとして,1944年6月,連邦議会法を経て,1945年1月に控訴裁判所に回付され,3月には判決が下される事になりました.

 此処でも,アルコア有利の判決が下ります.
 アルコアの独占は,確かに独占的な市場占有を行っているが,先ず独占ありきではなく,商行為の結果として独占を維持する事に繋がったと言う論理で,1911年以来の独禁法の解釈に新しい側面を与えるものでした.
 そして,現段階でのアルコアの解体は支持しないとしました.

 最終的な判決は,実に1956年まで掛かりましたが,その間,第二次大戦中に政府がアルミニウムの精錬工場や加工工場を建設し,アルコアに任せていました.
 しかし戦争が終わると共に,その工場を競争会社に売却し,アルコアの独占は寡占へと変貌を遂げます.

 今のMS訴追と同じ様な事案が,遙か昔に,それも戦争中の米国で続いていた訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月11日22:36


 【質問】
 WW2でアメリカは食料不足にはいたらず,配給制にもほとんどならず,前線でもステーキを食っていた,というのは本当ですか?

 【回答】
 切符配給制はあったが,食料不足は存在しなかったという.

 例えば, TIMEの「パールハーバーの衝撃」という写真集の126ページに,ガダルカナル島の最前線という写真で米兵がビールを飲みながらステーキを焼いてる小隊の写真が掲載されてる.
 同127ページには,食事にステーキなしだった米軍将兵が抗議して食堂にピケを張る写真が.
 同128ページには,南方の飛行場でイギリスの赤十字職員よりコーヒーとドーナツを振る舞われパクつく米兵の写真.
 他にもステーキ画像多数.

 とくに166ページで具体的にステーキについての記述がある.

 それによると,アメリカでは肉,コーヒー,バター,チーズ,砂糖が配給切符制になり,物価管理局の統制下におかれた.
 しかし,アメリカの食料供給事情は開戦前よりよくなり,農務省発表によると1945年は建国以来,最も食料を消費したし,食料にかけた金額も新記録だった.

 余談だが,以下はアメリカの食料配給点数表
ステーキ肉1ポンド12点
ひき肉1ポンド7点
ラム肉1ポンド9点
ハム1ポンド7点
バター1ポンド16点
マーガリン1ポンド4点

軍事板,2006/01/04(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦時,アメリカはコーヒーをどう調達したのか?

 【回答】
 さて,米国が繁栄を謳歌していた1920年代は突如終焉を迎えます.
 言わずと知れた,世界大恐慌です.
 これにより,株券は紙屑同然になり,企業倒産が相次ぎ,失業者は町に溢れ,生き延びた労働者や農民達もひもじい生活を余儀なくされました.
 米国発の恐慌は,各国に広がり,欧州諸国は海外からの輸入を停止します.
 これで大打撃を受けたのが,欧米先進国へコーヒーなどの一次産品を輸出していたラテンアメリカ諸国で,これらの国々は更に深刻な打撃を受けました.

 米国のコーヒー業界で,この大恐慌を耐え抜く事が出来たのは,大多国籍企業だけでした.

 その1つは,スタンダード・ブランズ社,もう1つはゼネラル・フーヅ社です.
 後者は日本でも味の素と提携して,味の素ゼネラルフーヅ(AGF)ブランドで,日本でもインスタント・コーヒーを打っていますね.

 前者は,あのJ.P.モルガンが創始したモルガン商会を介して,パン製造の為のイースト菌を販売していたフライシュマン社,菓子作りの為のベーキング・パウダーを販売していたロイヤル・ベーキング・パウダー社,そしてコーヒー大手焙煎業者のチェイス&サンボーン社などが合併して成立した会社です.
 後者は,代用コーヒー製造業者のポスタム・シリアル社が,高級ブレンド・コーヒー「マックスウェル・ハウス」を販売していたチック=ニール社を併合して成立した会社でした.

 一方で,大手コーヒー・チェーン店は,1つは不況に喘ぐ庶民が少しでも安いものを,と言う事で,その頃誕生したスーパーマーケットに流れ,また小売業者の救済運動の影響,更にカフェインを含んだ清涼飲料として,コーヒーに代わってペプシコーラやコカ・コーラが人気を博した事も,コーヒー・チェーンが衰退した原因でした.
 余談ですが,コカ・コーラは1886年に,ワイン,コカイン,アオギリ科の植物であるコラを調合して「脳を活性化する薬」として販売され,1903年にコカインは使用禁止となりますが,炭酸が添加されて,更に清涼感を増し,「爽やかな憩いのひととき」と言うキャッチフレーズと共に若年層に受けた飲料ですし,ペプシ・コーラは,1898年に消化酵素ペプシンを含む消化不良の治療薬として販売され,後に炭酸を添加して清涼飲料となったりしています.

 余談はさておき,1937年には遂に老舗のコーヒー焙煎業者であるアーバックル社も,業績不振が響いてゼネラルフーヅ社に買収され,ゼネラルフーヅは更に1939年,「カフィ・ハーグ」や「サンカ」などのカフェインレスコーヒーを販売する欧州の業者を買収し,益々巨大化していきます.
 また,スタンダード・ブランズ社もコーヒー・チェーン店を傘下に収め,総合食品産業がコーヒー業界を牛耳る事になり,地方で細々と営業していた小規模コーヒー焙煎小売業者は,続々と淘汰されてしまいました.

 この頃の米国は大恐慌から抜け出る為,積極的なニューディール政策を実施して,景気の回復を企図しますが,この為,政策は内政重視となり,対外積極策を控え,善隣外交と称する協調的な外交路線に切り替えました.
 とは言え,禁酒法が廃止されて,米国民の嗜好は再び分散した上,長引く不況で購買力が高まらない事から,ブラジルなどラテンアメリカ諸国は苛立ち,これらの国々は共に手を携えて,生産者側が主体的にコーヒー価格の決定に携わる様に画策しました.

 これが報われ掛けた時に勃発したのが第二次世界大戦です.
 ドイツ潜水艦は,無制限潜水艦戦を仕掛け,ブラジルはニューヨーク港にコーヒーを輸送する事もままならなくなり,堪らずに,今まで貯蔵していたコーヒーを一気に吐き出す事になります.
 この為,コーヒー価格は再び急落し,欧州に高級マイルド・コーヒーを輸出していたコロンビアは,欧州市場の閉鎖と相まって大打撃を被り,コーヒー市場は大混乱が続きます.

 この状態を収拾する為に開かれたのが,1940年のパンアメリカ・コーヒー会議です.
 この会議では全米コーヒー協会のリーダーシップの下,南北アメリカ14カ国の代表がニューヨークに集い,アメリカ大陸間コーヒー協定が結ばれました.
 これにより,米国は年間消費量を若干超える1,590万袋(なお,1袋は60キログラム換算)を買い取り,生産国の輸出量は,ブラジル60%,コロンビア20%,残りを中南米のそれぞれの生産国で分け合う事で落着きました.
 また,この年のコーヒー価格は,1ポンド5.75セントと史上最低に下がった為,翌年からは価格を1ポンド13.38セントに値上げする事となり,以後,この値段が固定される事になりました.

 この協定で,ラテンアメリカの参加国は,コーヒー輸出による最低限の利益を確保する事が出来ました.
 しかし,中米のメキシコやグアテマラは割当量の増大を求めて抵抗し,特にグアテマラのウビコ大統領は,時刻の要求が容れられなければ,ドイツのナチス政権と手を組むなどと脅すなど強硬な態度を示しています.
 また,米国は生産国の同意無しで一方的に各国のコーヒー割当量を増やす事が出来る特権があるなど,生産国と不平等な関係が残された点にも問題が残りました.

 米国にとってこの協定は,単にコーヒーと言う「国民的飲物」を自国の為に確保する為だけでなく,枢軸国のドイツやイタリア,特にその軍隊にコーヒーが流入するのを阻止する意味もありました.
 この協定は「貿易を通じた全体主義の勢力浸透に対する経済的な砦」を構築するものであり,ファシスト同盟に対抗する西半球の大経済連合への第一歩と見なされたのでした.
 因みにこの1941年,米国民1人当りのコーヒー消費量は年間16.5ポンドとなり,1日2杯のコーヒー飲用に相当する事になります.

 そんな中勃発したのが,太平洋戦争です.
 米国は連合国側に立って宣戦を布告し,中米では親独のグアテマラのウピコ政権に圧力をかけて,ドイツ系コーヒー事業者の大部分を没収すると共に,中米でドイツ系住民を拘束し,テキサスの収容所へ送った後,ドイツ在住の米国国民と交換で,彼らをドイツへと引き渡しました.
 こうして,中南米全体で4,058名のドイツ人を不当に拘束し,拉致して米国に拘留された訳ですが,これは大戦間に中南米で再び盛り返してきたドイツ系コーヒー業者に対し,徹底的なダメージを与える事になりました.

 参戦後は,コーヒーは砂糖と共に配給制になります.
 その為,国民1人当りの消費量は半減します.
 これにより,庶民はコーヒーを二度出ししたり,ポスタムなどの代用コーヒーで我慢しなければなりませんでした.
 但し軍関係者は別で,ゼネラルフーヅ傘下のマックスウェル・ハウス社や,19世紀末に米国に進出したスイスの多国籍企業で,粉ミルクやコンデンスミルクを製造から始まり,1938年に新しいスプレー・ドライ製法でインスタント・コーヒーに進出したネスレ社が製造したインスタント・コーヒーが,必ず携帯口糧に添えられていました.
 また,コーヒー業者は競って自社のコーヒーを戦場に送ろうとし,愛国心に満ちあふれた宣伝に終始しました.
 因みに,戦争が終わるまで,米国は40億ドル分のコーヒーを輸入します.
 その総額は,輸入総額の実に1割を占めるものだったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/18 23:17


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