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◆◆陸戦史
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欧州方面・目次
<WW2 FAQ


 【link】

Pobediteli.

 1941年6月22日から1945年5月9日までの戦線の動きがアニメ形式で動いていって,気になった都市や戦場を地図上でクリックすれば,そこに関しての記録映像も見られるという優れモノ.
 かなりの大長編で,最後まで見るのにかなり時間がかかったのを覚えてる.

 ページの右側の地図をクリックすれば見られる.
 ロシア語わからなくてもなんとかなると思う.

 かなりクオリティが高かったから,ロシア政府が戦勝60周年に合わせて作成したサイトかも.

――――――軍事板
青文字:加筆改修部分

『ヴィットマン LSSAHのティーガー戦車長たち』(上下巻,パトリック・アグテ著,大日本絵画,2005.9)

 値段がクソ高いが粗製濫造が多い本の中で,極めて高い価値を持った本.
 ただ少々見難い部分もあるが,そんな事は気にならないくらい素晴らしい本である.
 この資料本は戦車戦マニアには必読かもしれない,
 ヴィットマンの戦いは,戦車戦のあり方を的確に示しているからだ.
 戦車の目標が戦車からテロリストに移り変わっているが,両者とも大した違いはない.
 如何に相手より先に発見し,射撃,撃破するのが戦車の戦いなのだ.

 またビットマンは砲隊鏡を愛用していたが,現代に無理やり置き換えれば「車長用独立熱線映像装置(CITV:Commander's Independent Thermal Viewer)」の先駆けとも言えるかもしれないね.

―――CRS@空挺軍 in mixi,2008年04月10日16:55

『ヴィットマン戦記1943』(小林源文著,学習研究社,2008.4)

 最新の資料に基づき構成されたヴィットマン戦記.
 また小林源文先生の特徴は,所々に解説が載っていることだ.
 例えば名射手である,バルタザール・ヴォルの射撃についての解説は非常に面白い.
 この細かな気配りというのが,小林 源文先生が今でも支持されている理由だろう.
 是非この方式を,他の漫画家の人達も継いでいって欲しい!

―――CRS@空挺軍 in mixi,2008年04月10日16:55

『ヴィレル−ボカージュ ノルマンディ戦場写真集』(ダニエル・テイラー著,大日本絵画,2005.12)

『カセリーヌ峠の戦い1943』(スティーヴン・ザロガ著,大日本絵画,2009.2)

 著者はオスプレイではおなじみのスティーヴン・ザロガ氏.
 戦闘の推移が詳細に書かれていていいけど,北アフリカ戦は既存の資料が大量にあるから,新しい知見があるかというと微妙.
 陸戦,戦術オタなら買ってみるのがいいかも.

――――――軍事板

『カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS 武装SS師団全史』第1巻(高橋慶史著,大日本絵画,2009.6)

『最後の特派員』(衣奈多喜男著,朝日ソノラマ文庫,1988.7)

 衣奈多喜男って誰かと思ったら,朝日ソノラマの社長やってたのね.
 しかしこの人,凄い体験してるな(笑)
 ローマではムッソリーニの失脚,
中部イタリアではドイツのPKと行動を共にし,
ノルマンディーでは前線に向かうティーガーやパンターとすれ違い,
ベルリンから終戦前のスウェーデンへ.
 こんな体験した日本人,他にもいるのかな?

――――――軍事板,2009/06/28(日)

『砂漠の狐を狩れ』(スティーヴン・プレスフィールド著,新潮文庫,2009.3)

 戦車隊所属将校の主人公がイギリスの長距離砂漠挺身隊に出向して,戦線後方の偵察やロンメル暗殺など,様々な任務をこなす.
 小説だが,第22機甲旅団の主人公が所属する連隊と,挺身隊で主人公が所属する部隊以外はすべて実在していて,それぞれの行動は史実に基づいておる.
 また,部隊長クラスは基本的に実名.
 戦車連隊所属の時期は後退戦,挺身隊にいる時期の描写もかなりが,砂漠の行軍やトラックの故障と整備の話で全体的に地味だが,敵中突破したり敵装甲車に追われたりと,アクション・シーンもある.
 また,情景描写が細かい.

 ちなみに本文は約470ページだが,そのうち訓練を含めた戦車隊将校の時期が70ページくらいあり,小隊(A15やA9巡航戦車,M3軽戦車などで編成)を率いた戦闘(外装式サスペンションに被弾すると,車高が急に落ちる)や,撤退の混乱を細かく描いているので,北アフリカでのイギリス戦車兵の戦記としても読めないことはない.
 てか,個人的には全編そんな感じだともっと嬉しかったんだが….
 訳も特に軍事的に変な部分はなかったと思う.

――――――軍事板,2009/11/23(月)

 買って読んでる.
 これは面白い.
 これなら今後,迷ったときに作者買いと訳者買いしても良いんじゃないかと思う.
 今,シュトゥンメが死んだ後辺りだが,おそらく今後出てこないだろうスタイン先輩とストリーター曹長(最初の一言特に)がなんかかっこよかった.
 ありがとー.

> 全編そんな感じだともっと嬉しかったんだが….

 同感その2.
 クルセーダー特盛りになりそうだが.
 誰か海外でハヤカワ辺りの海洋冒険ものが海軍将校でやってるような,英戦車将校を主人公に据えた話を書いてないんだろうか.
 開戦前から始まってるのがいい.

――――――軍事板,2009/11/26(木)

『西部戦線全史』(山崎雅弘著,学研M文庫,2008.3)

 第二次世界大戦の主要な戦場の一つであった欧州戦線.
 その欧州戦線を「中東戦争全史」「完全分析 独ソ戦史」の著者が第一次世界大戦終結からナチスドイツの降伏までを通して解説した一冊.
 今回の舞台は殆どが西部と中部ヨーロッパ.イタリアに関しては「独VS.英米仏」という構成のため,北アフリカ戦線は簡単に触れられてる程度.
 多数の戦況図などもあってわかりやすく,西部戦線について知る事のできる一冊です.

――――――グンジ in mixi,2008年05月04日16:55

『第2次大戦欧州戦史シリーズ』vol.1〜(学研,1997.5〜)

 1〜10はハッキリ言って,もう内容が古いヨ.
 土門周平さんのクルスク戦記事とか,完全に陳腐化した情報ベースだし,冷戦終結後に出てきた事実の見直しや再評価を反映していない.
 そろそろ太平洋みたく完全な新版を,1から出すべきだね.

――――――軍事板,2009/09/11(金)

 まあ,新版を出すなら,北アフリカの巻とか,もう少し通し概況を載せて時系列を判りやすくして欲しいです.
 他に流れの判る本を読んでいれば,あれでもOKですが,個々のエピソードや雑多なコラムや検証記事ばかり目立ち,通史としては非常に読みにくくなってると思うのです.

 ただでさえシーソーゲームな戦域だったのに.

――――――Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2009/09/11(金)

『第10戦車師団戦場写真集』(J.ルスタン共著,大日本絵画,2004.5)

『タンクバトル』(斎木伸生著,光人社,2002.3)

『タンクバトル 4』(齋木伸生著,光人社,2008.9)

『タンクバトル 5 激突!ノルマンディー戦車戦』(齋木伸生著,光人社,2009.12)

『ティーガーT重戦車vsシャーマン・ファイアフライ』(スティーヴン・ハート著,大日本絵画,2008.11)

 ヴィットマンってファイアフライに撃破されて戦死したってことで,おおむね確定してたのね.
 しかし次に出るのが「日本海軍空母対米海軍空母1942」って.
 もうすこしマイナーな対決にしたほうがいいじゃないかな.
 既存の書籍が一杯ありすぎて,かえって読者の食いつきが悪いんじゃないかと思うが.

――――――軍事板

『ティーガーの騎士 ミヘル・ヴィットマン物語』(カール・コーラッツ著,大日本絵画,1993.8)

『電撃戦 グデーリアン回想録』(ハインツ・グデーリアン著,中央公論新社,1999.3)

 読んで損はしない.
 ただし,グデーリアンの人物評はまったく当てにならないけどな.
(軍事板)

『電撃戦という幻』(カール=ハインツ・フリーザー著,中央公論新社,2003.2)

『バラトン湖の戦い』(M.スヴィーリン他著,大日本絵画,2000.4)

『ヘルマン・ゲーリング戦車師団史』(フランツ・クロヴスキー著,大日本絵画,2007.5)

『ヘルマン・ゲーリング戦車師団史』下巻(フランツ・クロヴスキー著,大日本絵画,2007.8)

 今回は表紙と中面P196,P200〜203で,私が10年近く前にパリにある仏軍公文書館ECPAで見つけた,東プロイセンにおけるヘルマン・ゲーリング第1降下装甲師団の前線写真が掲載されました.
 ただ,残念な事に軍装解説がされていないので,陸軍のウォータースモックと空軍スプリンター迷彩グランドスモックとのチャンポンの使用例や,今回扉で使われた下の写真も解説が無いので,HG師団の中期で,その迷彩スモックと共に多用されていたSS迷彩のヘルメットカバーや,捕獲PPSH短機関銃などの小ネタもたぶん見逃されているのでは?


 この時代のHG師団猟兵なら,SSのCパターン(シュロの樹)迷彩カバーをヘルメットに被せて,ウォーター迷彩スナイパースモックを着用し,空軍のベルトバックルとブルーグレーのズボン&レギンスを履くという,「何者?」といった軍装もアリなので,楽しめますねー.

 このウォータースモックは,コレクターの間ではスナイパースモックの名称が付いていますが,実際は一部の擲弾兵師団やこのHG師団でまとまって使用されており,ゆくゆくは陸軍野戦部隊で全般的に導入する予定だったのでしょうか.
 生地はアノラックから綿を抜いた表面の薄い生地ですが,私の手持ちの物は,中間トーンが黄色味の強い物でした.
 また,中には全体に薄いピンク系の物も散見しました.

 兎も角,余り知られていないHG師団戦史にスポットを当てた記念碑的な出版で高橋さんの翻訳労作なので,興味が在る方は是非本屋でご確認下さい.

――――――よしぞうmaro' in mixi,2007年07月08日02:35〜07月11日 01:40

『ロンメル戦記』(山崎雅弘著,学研M文庫,2009.11)

 なんというか,「文筆家」として山崎氏が著しい進歩を果たした作品だと思う.
 以前より格段にパワーアップwしてるわ.
 素材自体(ロンメル)の面白さとは別に,氏の筆力に由来するテンポの良さと分かりやすさが,この本を面白くしている.
 もちろん,綿密な調査研究や地図作成の努力も素晴らしい.
 これはマジお勧めです.

――――――軍事板,2009/11/18(水)

「ワレYouTube発見セリ」:D-Day, The Invasion of Fortress Europe

「ワレYouTube発見セリ」:Stalingrad battle won

「ワレYouTube発見セリ」:1942-Hard combats in Crimea

絶版のときは↓

 【質問】
 WW2欧州方面の本でおすすめのものを紹介していただけませんか?
 欧州方面には疎いもので,戦況の推移及び作戦の開始日時,参加部隊など,一般的な戦線について知りたいのです.
 概要+方面については東部戦線,アフリカ戦線に興味あり.
 全般に関する記述があればなお好ましい+主に陸上戦
といったところです.

 【回答】
 オーダー了解

◆アフリカ戦線
砂漠の戦争 ムーアヘッド(早川文庫)…英寄り
砂漠のキツネ パウル・カレル(中央公論社)…独寄り
ロンメル戦車軍団 サンケイバランタインブックス18

◆東部戦線
バルバロッサ作戦(上中下)パウル・カレル(学研M文庫)…独寄り
焦土作戦(上中下)パウル・カレル(学研M文庫)…独寄り
詳解 独ソ戦全史 学研M文庫…ソ連寄り

◆地上総合
ドイツ機甲師団(ケネス・マクセイ)サンケイバランタインブックス15
ヒトラーの戦い1〜10 児玉襄 (文春文庫)
ドイツ戦車軍団(上下)  フォン・メレンティン (朝日ソノラマ)…生き残った独装甲部隊参謀の手記,独寄りw
『失われた勝利』(マンシュタイン著,中央公論新社,1999.12) …当然,独寄りwww

・その他オプション
 お好みで学研WW2ムック各巻からチョイスして副読本に(笑)

・萌え耐性があるなら
 どくそせん イカロス出版…意外なことに,そんなに悪くは無い(笑)

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 シモ・ヘイヘって誰?

 【回答】
★★★同志スターリンと語らい合うスレ【69】★★★
より.

----------------------------
 頭を撃ち貫かれたい赤軍将兵にお薦めの「白い死神」(Белая Смерть),シモ・ヘイヘ

・4000人いれば大丈夫だろうとコラー河一帯へ侵入したら,たった32人のフィンランド兵に撃退された
・銃声と硝煙を発見したが,すでに頭部を撃ちぬかれた後だった
・足元がぐにゃりとしたので雪を払ってみると,頭部を撃ちぬかれた赤軍兵が敷き詰められていた
・「スナイパーだ!」と叫んだ将校が,次の瞬間こめかみを撃ちぬかれてて倒れていた
・スコープもない旧式モシンナガン小銃で狙撃,というか距離300m以内なら確実にヘッドショットされる
・いとも簡単に1分間に150mの距離から16発の射的に成功した
・野営中の真夜中にトイレからテントまでの10mの間に頭を撃ちぬかれて即死
・戦車と合流すれば安全だろうと駆け寄ったら,戦車長がヘイヘから狙撃済みだった
・赤軍の7/10000がヘイヘに狙撃された経験者,しかも白い死神という伝説から「積雪期や夜間ほど危ない」
・「そんな奴いるわけがない」といって攻撃しに行った25名の小隊が1日で全員死体になって発見された
・「サブマシンガンなら狙撃されないから安全」と雪原に突撃した兵士が穴だらけの原型を止めない状態で発見された
・最近流行っているヘイヘは「何が何でもヘッドショット」,気温が−40℃でも弾薬が残りわずかでも赤軍狩りに出て行くから
・5階級特進で少尉となったシモヘイヘに狙撃の秘訣を尋ねると,ただ一言「練習だ」
・コラー河付近はシモヘイヘに殺される確率が150%.一度狙撃されて命をとりとめても凍死する確率が50%の意味
・ヘイヘが狙撃で殺害した数は505人,他にサブマシンガンで倒した数は正式なものだけで200名以上

----------------------------

 そういや,我が敬愛するワシーリー・マルゲロフ将軍も,フィンランド戦線(冬戦争)で戦っているんだよな・・・
 もしヘイヘに狙われていたらきっと・・・・・

CRS@空挺軍 in mixi,2008年04月10日21:28

「大丈夫,跳ね返した」


◆◆◆◆フランス降伏以降


 【質問】
 マジノ線Maginot line に莫大な予算を使わず,連合国が効率的に軍備を進めていれば,チェコの段階でドイツを掣肘していた?

 【回答】
 フランス降伏までは,各国の軍部も国家元首も(ヒトラー含む)みんな,WW1型戦闘,1日でウン万人が死んでもおかしくないような塹壕型大消耗戦になると予想していた.
(だからこそフランスはマジノ線を整備したわけで)

 だから最後の最後までみんな開戦に及び腰だったし,ヒトラーもそれを読んだ上で軍事力の誇示を続けていた.

 よって,連合国側の軍備が向上していたとしても,ヒトラーの「本気で戦争しちゃうぞ」ジェスチャーは有効.

54 :名無し三等兵 :03/11/06 08:58 ID:???
マジノ線を自走化すればいいじゃない

55 :名無し三等兵 :03/11/06 09:00 ID:???
超重多砲塔マジノ線車キタ━━━━━━(°∀°)━━━━━━!!!!

56 :名無し三等兵 :03/11/06 09:04 ID:???
1日数mmドイツに迫る,恐怖のマジノ線車

114 :名無し三等兵 :03/11/07 00:44 ID:???
フランス全土を覆う「マジノ面」ってのはどうか?

(軍事板)


 【質問】
 フランスはセダン以東の仏独共通国境にはマジノ線を築いていたが,仏白国境にはより弱い縁辺部防衛線を築いていただけだった.なぜ海岸まで伸ばさなかったのか?

 【回答】
 マジノ線の延引をセダンで停止したのは,ベルギー領内にドイツ軍を嚮導させるための高等戦術だった.何の役にも立たなかったが.

 また,マジノラインを海岸まで伸ばしちゃうと低地諸国を見捨てることになってまずいという政治的判断があった.
 で,マジノラインの分浮かせた戦力で低地諸国保護のため積極的に兵を進めてドイツを迎え撃つ計画を立案.
 まあ,史実では集中した戦力は戦車師団にあっさり背後から包囲されて終わったが.

(軍事板)


 【質問】
 マジノ線を大西洋まで延長してたら,フランスは勝てた?

 【回答】
 それは無理かと.
 要塞だけあっても,独軍の機動力に対応できる部隊(戦車の運用も重要だが,部隊間の連携がとれるよう無線の配備をしておくのが必須だろうね)も合わせて存在しなきゃ,意味無いし.
 アルデンヌにも作っておくというのはいいかもしれないが.

 陣地防御に関する戦術思想が,フランス軍は第一次大戦レベルだった.
 独軍主攻正面の仏第9軍壊滅の原因が,「一連不断の戦線」という旧観念にとらわれ,両翼側の掩護を各隣接部隊に依存していた為,独軍の戦線突破によって連鎖反応的に戦線の崩壊を招いた.
 この戦訓からウェイガン将軍は,全周防御可能な無数の拠点を散布した縦深陣地帯をエーヌ〜ソンムの戦線に構築し,独装甲部隊の進撃を食い止めようとしたが,装甲部隊予備をフランダース会戦で失っていた為,有効な機動打撃を与え得ず,3日で突破されてしまった.

(軍事板)


 【質問】
 フランスが,開戦のどさくさ紛れにベルギー領の一部を掠め取ろうとしていた,という話は本当ですか?

ニュー速VIP板
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 これこそ聞いたことのない珍説ですが,いったいどんな本にフランスのベルギー進出はベルギー領を自国の物とするためのものだったなんて書いてあるんでしょうか?
 存在するんなら是非とも読んでみたいのですが.

 フランスとベルギーは第一次世界大戦以降対独戦に備えた軍事的な会合を断続的に持ってきました.
 30年代に入って協議は一度途切れますが,開戦直前になり,軍首脳レベルでの意見交換は再開されています(ドイツを刺激するのを恐れて,ベルギー政府はぎりぎりまで中立を通しましたが).

 手持ちの書籍ではベルギーとフランスが,ドイツの黄色作戦に対して協同で対処するような合意に達したかどうかは見つけられませんでした.
 しかし1940年4月9日という段階ですら,フランス政府は戦争会議において
「仏軍のベルギー領内での作戦への,ベルギー政府の同意を取り付ける努力をする」
「同意を得られたらベルギー領内作戦を実施する」
と決しています.
 ベルギー領を掠め取る気なら,ベルギー政府の同意を取り付けるような行動を取るものでしょうか?

名無しクルセイダー信者 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マンシュタイン計画は,「黄色の場合」作戦と何か違うのですか?
(どうも特にアルデンヌを突破する部分を指しているような気がしてはいるのですが)

 【回答】
 「黄色の場合」の初期計画は,周知のとおり第一次世界大戦の「シェリーフェンプラン」を踏襲したもので,中部ベルギーを強行突破して大西洋岸に進出した後,南下.
 パリの西に進出して,連合軍を包囲殲滅した後に,フランスを征服するものでした.
 しかし,マジノ線の途切れたベルギーからの進入は,連合軍も当然想定しており,「ディール計画」と呼ばれる,ベルギー国内中央のディール川ぞいに進出しての反攻計画を策定していました.

 フォン・マンシュタイン将軍は,この連合軍の反攻計画を無効にするために,防御の手薄なベルギー南部とルクセンブルグから侵攻してフランスへ侵入,そこからイギリス海峡に向けて突破を図るというプランを策定しました.
 B軍集団がオランダを占領して連合軍をひきつける間に,A軍集団がアルデンヌの森を突破して,南部ベルギーと北部フランスを通った後に西進する,つまり,「ディール計画」のためにフランス北部に集中している連合軍の 背後を絶つ形になるのです.

 簡単に言えば,ベルギーから右フックを撃つのが「シェリーフェンプラン」,左フックを撃つのが「マンシュタインプラン」という形になります.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 マンシュタインプランではB軍集団の動きは同じだが,陽動部隊として英仏軍をひきつけることに役目が変わった.
 主力は中央のA軍集団となり,これが手薄なアルデンヌを突破して,英仏軍の後方に突進し,その退路を断ってB軍集団と共に英仏軍を包囲殲滅する.
 マンシュタイン・プランではこの後,兵力を南方に前進させて残存兵力を掃討しつつ,マジノ線を後方から襲うことになっていた.
 これは実際の作戦でも行われ,「黄色の場合」に次ぐ第二段階として「赤の場合」という名称がつけられている.

軍事板
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 原案の「黄色の場合」が修正されて,マンシュタイン計画を取り入れた形になったってことですか ?

 【回答】
 取り入れたっつうか,ほとんどまるまるパクってる.
 作戦立案責任者のハルダー参謀総長は後に
「色々考えた末にアルデンヌ突破案に至ったんで,べ,別にマンシュタイン・プランなんか参考にしてないんだからねっ」
と参考にしたことを否定している.
 んでマンシュタインは栄転という名目で,東プロイセンで編成中の軍団長に飛ばされてる.
 この辺の経緯については,レン・デイトンの「電撃戦」か,カール=ハインツ・フリーザーの「電撃戦という幻」で詳述されてるんで,そっちのほうを読むといいかも.
 まあ読んだ後は,ドイツ軍の強運さとフランス軍のへたれっぷりが印象に残るが.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW2時,通れないとされていたアルデンヌの森を,ドイツ戦車が通れたのは何故ですか?
 ベルリンオリンピックの聖火リレーのコース調査という名目で,欧州各国の主要幹線道路の様子をドイツは調べていたそうですが,道路があったなら,なんで「通れない」なんてフランス軍は思ったんでしょうか?

 【回答】
 「通れない」というのが,そもそも幻想.

 「電撃戦という幻」上巻(カール=ハインツ・フリーザー著,中央公論新社,2003.2))の「『通り抜けできないアルデンヌ』という神話」という章から引用したいと思います.

 2 「通り抜けできないアルデンヌ」という神話

 フランス軍上層部の軍事思想は,第一次世界大戦後ますます硬直化し,教条主義的になった.とりわけアルデンヌ-セダンの戦線区については次の二つの先入観が人々の心を支配していた.
-「アルデンヌを車輛部隊が通過することはできない」
-「ムーズ川を渡ることはできない」

 「戦車が走れないアルデンヌ」,「渡れないムーズ川」という観念は普遍的法則となり,権威ある人々がこれを保証した.
 「ヴェルダンの英雄」アンリ・フィリップ・ペタン元帥は
「アルデンヌの森を通り抜けることは不可能である」
と断言し,総司令官ガムラン将軍はムーズ防衛線について
「ヨーロッパ大陸においてムーズ川は戦車に対する最良の障害物である」
と太鼓判を捺した.
 フランス軍にとってアルデンヌ-ムーズ川の二重の天然の要害は,克服不能な,もはや迂回するしかない戦略上の障害物であり,セダン地区は明らかにこの二つの障害物に守られている安全地帯であった.
 そこで彼らは,他の戦線区を優先させるため,セダンの防衛陣地をなおざりにし,二戦級の部隊をここに駐屯させることにした.
 ドイツ軍がアルデンヌで攻勢をかけたと聞いたとき,フランス軍総司令部は,これからでも増援部隊を送る時間はまだ十分にあると考えた.(p.239)

 はじめから「絶対にアルデンヌ&ムーズ川は通行不可!!」と考えてたわけです・・・

 この神話に対し,かの有名な軍事評論家のリデル・ハートが,意見を述べましたが……

 「通り抜けできないアルデンヌ」は神話にすぎないとする警告の声が第二次世界大戦前の連合国のあいだに無かったわけではない.
 イギリスの軍事評論家リデル・ハートは,1928年にアルデンヌを視察旅行したさい,フランスの軍人たちが「ここは天然の要害である」と安心しきってることに驚きを隠せなかった.
 1933年,イギリス国防省が大規模な機甲師団を編成したとき,ハートは戦車戦術の専門家として意見を述べるように要請された.「将来の戦争における機甲師団のもっとも有効な運用法」について助言を求められた彼は,
「たとえばドイツ軍がフランスに侵入した場合,機甲師団によってアルデンヌから反攻に出るべきである」
と提案した.
 彼がイギリス軍から公式に得た回答は
「アルデンヌは通り抜けできない」
であった.
(同書 P240)

……イギリス軍もフランス軍と同じでした.

 最後に実際にアルデンヌが障害物として有効かどうか試験されました,
 その結果は…….

 1930年代,フランス軍においてもアルデンヌが障害物として本当に有効かどうかが試験された.
 たとえばブルギニョン大佐は,戦車部隊によるアルデンヌへの奇襲攻撃はおそらく可能であるとする報告を行った.
 1983年の五月と六月に第二司令官(当時)アンドレ・ガストン・プレートラ将軍が指導した兵棋演習の結果は,1940年五月にグデーリアン装甲軍団が実際に演じた攻撃と恐ろしいほどに酷似していた.
 上層部の誰もがぎょっとしたことには,プレートラは,ドイツ軍は60時間でムーズ川に達し,一日で川を渡るだろうとの調査結果をつきつけたのだ.
 実戦でドイツ軍はセダン北方,ムーズ川の小さな屈曲部に面したサン・マンジェに57時間で到達したから,誤差はわずかに3時間ということになる.
 兵棋演習のただならぬ結果について報告をうけたガムランは,プレートラを,悲観的展望を示した――「いたずらに不安をかきたてた」――罪できびしく問責した.
 フランス軍総司令部が講じた唯一の措置は,「将兵に不安をあたえないように」,この兵棋演習の内容を封印することであった.
(同書 P240〜P241)

……もうアホかとバカかと小一時間(以下省略).

 このように,アルデンヌ攻勢の成功は,フランス軍上層部の致命的な失策を重ねた結果だったのです.

CRS in FAQ BBS


 【質問】
 電撃戦であっけなくドイツに降伏したフランスですが,マジノ要塞の中の兵士はほとんど戦わずして降伏してしまったのでしょうか?
 それとも,ある程度の期間は立て篭って交戦し,ドイツ軍にダメージを与えていたのでしょうか?

 【回答】
 当時は,マジノ線に10個要塞師団を貼り付けていました.
 ドイツ軍が最初に攻撃を行ったのは,その最西端にあるラ・フェルテ要塞で,此処には,47mm対戦車砲1門, 25mm対戦車砲2門,機関銃2丁から成るブロックと,25mm機関砲2門の隠顕式砲塔と機関銃2丁を有したブロックから成っていましたが,砲兵支援が後方の一方向しか受けることが出来ず,12月15日からドイツ軍は攻勢を開始し,16日に要塞東南の高地を奪取,18日から88mm〜210mmの砲259門を集中し,19日に陥落させています.

 大要塞自体も頑強に抵抗したため,降伏までに39要塞のうち,4要塞,102堡塁中12が攻略されたに過ぎません.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 第二次大戦時,なぜフランスはドイツに敗れたのですか?
 ドイツの攻勢のポイントはわからなくとも,いつかドイツが西から攻めてくると言うのは可能性として十分検討すべき問題であった訳ですから.前線に配置した主力が遊兵と化しても,戦略予備と志願兵を活用して縦深陣を敷き,出血を強いれば,勝てないにせよ負けはしなかったと思うのです.

 【回答】
 仮に志願兵が集められたとしても,使い物になる前に正規軍の主力がダンケルクで消滅してるので,どうしようもない.

 フランスはドイツとの国境地帯に要塞を築き(有名なマジノ線),ここでドイツ軍を食い止めているうちに戦略予備を集結させて,一気に反撃する計画だったが,ドイツ軍はマジノ線を無視して迂回して来た上,鉄道網と道路網を爆撃で破壊されまくって,戦略予備の移動も集結もままならなかった.

 だからと言ってマジノ線に配置した主力を動かすこともできず――そんなことしたら,空いた国境線からドイツ軍の続陣がなだれ込んでくる――,結局,北部配置の部隊でかろうじて集結に成功した部隊だけが,ドイツと戦っていた.
 フランス軍はパリ付近の戦略予備まで北翼に投入して,危機を拡大させてしまった
(ディール計画のブレダ修正案に基づいた対応だから,その辺は戦前からの計画の通りではあったわけだが……

 縦深陣を敷くような兵力の余裕がなく,総司令部は戦況をよく把握できていない上に,通信網が潰されたので戦略規模での指示が出せず,戦略的戦闘は事実上不可能になっていた.

 「俺ならこうした」は後知恵にすぎず,そうできなかったのにはそれなりの訳があるということを,まず知ってくれ.
 毎回薦めるが,「電撃戦という幻」を読むといい.
 まぁ,ドイツの現地指揮官が暴走するとは誰も予想できなかったし,フランスの将軍たちは想定外の事態に素早く対応する訓練を受けてなくて,ただ呆然としている間に勝機を失った.

 ていうか,フランス政府とベルギー政府との連携も悪すぎるのが,一番悪いような.
 ベルギー側はアルデンヌをちゃっちゃと放棄して,ムーズ川後方へ後退するわ,フランス軍のベルギー領進出はベルギー国王に拒絶されるわ,当時のフランス軍的には,空気読めよベルギー・・・という気持ちだったと思われ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 1940年のフランス陸軍は,そんなにダメな組織だったのか?

 【回答】
 惨状を呈していました.
 『西部戦線全史』(山崎雅弘著,学研M文庫,2008.3),P.163〜252から,フランス軍が主戦線と考えていた北東方面だけを挙げると,仏軍最高司令官ガムラン大将と東北方面軍司令官ジョルジュ大将は,ガムランがジョルジュの頭越しに命令を下す等の行為が原因で不仲.
 そのため独軍の進攻開始当日は,「ジョルジュのプライドを傷つけない様に配慮」して,具体的な指示を出さず,仏軍参謀総長はパリ東端バンセンヌのガムランの司令部と50キロ以上離れたラ・フェルテ・スー・ジウアルに置かれたジョルジュの司令部を,自動車で往復する事を余儀無くされます.
(参謀本部は両者の中間のモントリに置かれた)

 おまけに司令部に無線機はもちろん,伝書鳩も無くオートバイや自転車の伝令と民間の有線電話(混雑時には不通になりやすい)を使って下された命令は,戦場の実態にそぐわない物だったり.

 とどめにガムランは,当時の仏首相レイノーとも対立していたり.
 ガムランの能力に疑問を持ってたレイノーは,解任を画策するが,国防相兼陸軍相でありガムランの友人でもあるダラディエ元首相が反対し実現せず.
 これにより政府と軍のトップが完全に決裂.

…という状態.
 ほかにも色々あるけど,悲しくなるので後は本書を読んで確認されたし.
 負けて当然だわ,こりゃ.

グンジ in mixi,2008年05月04日16:55


 【質問】
 エバンエマール要塞はどうやって攻略されたの?

 【回答】
 ドイツ軍はヒトラー総統の発案により,エバンエマール要塞攻略とアルベルト運河に掛かる橋の奪取にグライダー空挺部隊の降下猟兵による強襲作戦を実行します.
 要塞に投入された兵力は僅か78名.
 隠密のうちに部隊は降下し,成形炸薬と火炎放射器を使い,要塞のトーチカを次々と沈黙させ,無力化に成功します.
 守備隊が外に出て戦っていれば撃退に成功していたでしょうが,混乱する守備隊は何もできず,次の日の朝にドイツ軍主力が到着し,降服しました.

週刊オブイェクト,2004/12/12


 【質問】
 第二次大戦時,連合軍の「ボレロ作戦」と「ラウンドアップ作戦」違いを教えてください.

 【回答】
 イギリス軍内では1941年9月にはすでに,イギリス海峡を渡ってフランスに上陸する計画案を策定してました.
 これがラウンドアップ作戦です.
 しかし12月にアメリカが参戦すると,その上陸作戦の実行可能性について,米軍の上層部からかなり厳しい意見が提出されました.
 これを元に米陸軍最高司令官マーシャル大将の支持を受けて,米軍の戦力と物資をイギリスに集結させる案がルーズベルト大統領に提出されています.
 これをボレロ作戦と呼びました.
 マーシャルは早期に対日戦に集中するために,上陸は1年以内に行う意向でしたが,チャーチルとイギリス軍首脳はこれに猛烈に反対します.
 最終的にルーズベルトの判断により,チャーチルの希望に沿って北西アフリカ侵攻(トーチ作戦)を先に行うことになり,上陸作戦は1944年に延びることになります.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板


 【質問】
 アイザック・アシモフの雑学本の中で.「1942年に潜水艇でニューヨークに上陸しようとしたドイツ特殊部隊」というのが出てくるのですが,
・これは本当なのですか?
・本当だとしたら,どのような計画で何度くらい行われていたのでしょうか?
・この作戦のことが書かれているほかの本はありますか?

 【回答】
 実話です.1944年にも工作員はアメリカに上陸してますよ.
 西部タイム刊/アメリカの世紀(6)1940-1950パールハーバーの衝撃の198〜199ページ参照.
ISBN4-8275-1228-0
3900円
 たぶん絶版だけど,大きめの図書館にあるよ.


◆◆◆◆アフリカ戦以降


 【質問】
 中東地帯での戦記ってありますかね?
 一兵士視点でできればWWUが…
 ああいった気候での弊害だとか生活が知りたいです

 【回答】
 航空ファンイラストレイテッド ロンメル戦車軍団DAK

 イギリス軍の戦闘機パイロット視点でよければ
 ロアルド・ダール 「単独飛行」(ハヤカワ文庫)

 アフリカに赴任中に第二次世界大戦が勃発し,空軍に志願した思い出が,デテールたっぷりに描かれている.
 この人,「チャーリーとチョコレート工場」の原作者でもある.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 ちなみに「チョコレート工場の秘密」等の童話作品は,『あなたに似た人』(早川文庫)だったかの解説によれば,ダールが自分の子供に読み聞かせるために書いた,いわば余技で,どちらかといえばダールは奇妙な味の短編小説の書き手として有名.

 また,映画化されたダール作品としては,「チャーリーと……」よりは「ジャイアント・ピーチ」のほうが出来がいい.
 監督は同じくティム・バートン.

消印所沢

「チャーリーとチョコレート工場」


 【質問】
 WWUのアフリカ戦線に興味があります.
 主戦場となったリビアでは河川はなく,トリポリなど一部を除けば,水資源はほとんどないように思えます.
 20万?程度の兵士を派遣していた独伊は,必要とする水を主にどこから補給していたのでしょうか?
 イタリアあたりから船舶で運んでいたんでしょうか?
 それともオアシスなどが所々にあったりしたのでしょうか?

 【回答】
 砂漠といっても完全に河川がないのではなく,地下水脈の形で存在する.
 その為,海岸付近では地上に現れる.
 海岸付近の都市のあるところには,そういった何らかの水資源があり,そこの住人が生活できるだけの水が得られる.
 砂漠に点在するオアシスでも,地下水脈から井戸で水を汲み上げている.

 とはいっても,主戦場となる砂漠のど真ん中では近くにオアシスがないことも多く,後方の都市からトラックで水を運ばねばならなかった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次世界大戦のイタリア軍が,10万で1000人に負けるという大敗を喫したそうなのですが,誰かご存知ありませんか?

 【回答】
 1000対10万は若干大げさですが,1940年2月5日に,北アフリカのベダフォムというところで,約3000名の英軍によって数万のイタリア軍が壊滅したという事実はある.

 (1)1940年12月初旬の一連の「コンパス作戦
 在キレナイカ地方のイタリア軍約25万のうち,約8万人がエジプトに侵攻.
 英軍は僅か2個師団を基幹とする兵力4万人で,反攻に出て,シディバラニ付近で,これを包囲殲滅.

 (2)「コンパス作戦」後の追撃戦〜ベダフォムの戦い
 攻勢主力が殲滅され,英軍がリビアに侵入してきた事態に対し,イタリア軍は未だに数的優位を持つにもかかわらず,海岸道路沿いに敗走状態に陥る.
 この敗走の最中,約4万人が戦死または降服(この間に英軍には1個師団が増援され,総兵力は6万程度になっている).

 さらに,英軍は,一部戦力に内陸の砂漠を突っ切らせ,キレナイカ−トリポリタニアの境界近くの小村ベダフォムにて,海岸道路を封鎖.
 ベダフォムにおいて,この封鎖を突破しようとしたイタリア軍と英軍との間で起った戦闘において,このときイタリア軍はベダフォムに辿り着けた数万人,約100両の戦車以外に重火器を有さず,対するイギリス軍は,約30両の戦車を巧みに利用してイタリア軍を待ち伏せし,イタリア戦車隊を壊滅.
 唯一の重火器を失ったイタリア兵は,イギリス軍に投降.

 こうして,在キレナイカのイタリア軍は,ほぼ殲滅された.

 ただイタリア軍の名誉のために言っておけば,最弱のように言われているイタリア軍だが,勇戦した例がないわけでもない.
 例えば1941年12月,アレクサンドリア港に潜入したイタリア海軍フロッグメン部隊が仕掛けた爆弾により,英戦艦クイーン・エリザベスとヴァリアントが大破着底している.
 この任務を担当したXMAS戦隊はこの他にも爆装ボートによる体当たり攻撃で巡洋艦や貨物船を多数撃沈.ジブラルタル近くで座礁した貨物船を秘密基地にして,そこから出撃した人間魚雷部隊が14隻の船舶を撃沈するという,映画みたいな活躍もしている.
 なおこのXMAS戦隊はイタリア降伏後も枢軸側につき,XMAS師団を編成して終戦まで戦い続けた.
 そして終戦後,捕虜収容所に押しかけたパルチザンによって,多数の隊員が殺害されるという悲劇も味わっている.(「ラスト・オブ・カンプグルッペ」)

 何かと評判の悪いアフリカ戦線でも,包囲され,絶望的な状況になったとき,ドイツ兵があっさり諦めるのに,イタリア兵は最後まで戦意旺盛だったという.これなどはちょっと信じがたい話ではあるが.
 イタリア軍は,自分の戦いじゃないと思うとあっさり降伏するが,ロマンチシズムや自分の男意気を示す為には命を賭けて戦うという感じだろうか.

 最近では,こんな例も.

 フランス公共ラジオによると,イタリアのフラティニ外相は2004年4月15日,イラクで「カタイバ・ムジャヒディン(戦士大隊)」と名乗るグループに拉致,殺害されたファブリッツィオ・クアトロキさんの最期の様子を明らかにした.
外相によると,クアトロキさんは短銃を突きつけられると,頭にかぶせられた袋を外そうとし,
「イタリア人の死にざまを見せてやる!」
と叫んだという.
 カタールの衛星テレビ,アルジャジーラに届けられた映像に基づく情報とみられる.
 また外相は同日,国営テレビで,残る3人の人質を解放させることは極めて難しいとの認識を示した.

http://www.sankei.co.jp/news/040415/kok096.htm


 【質問】
 トブルクの戦いって何?

 【回答】
 1941年2月〜1942年6月,ロンメル指揮下の枢軸軍と,英軍との間で起こった,兵站拠点トブルク Tobruk を巡る争奪戦です.
 ロンメルは1941年2月,ドイツ・アフリカ軍団の指揮官に任命されると,4月にはベンガジを奪回し,英軍のトブルク要塞を包囲しましたが,補給不足などにより陥落させることはできませんでした.
 トブルク解囲を目指す英軍との何度かの攻防――5月のブレビティ作戦,6月のバトルアクス作戦,11月のクルセイダー作戦――の後,1942年5月にトブルク西方のガザラの戦いで英軍を破り,トブルク占領に成功しました.

 【参考ページ】
http://www7.plala.or.jp/kutaragi/page047.html
http://adolf45d.client.jp/gunjiww2.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Tobruk
http://www.answers.com/topic/battle-of-tobruk

 とりあえず,トブルク観光ではしゃぐドブスは,海に叩き込んでよし.

【ぐんじさんぎょう】,2009/3/26 02:18
に加筆

 Twisting Toysから1942年トブルク戦線設定の,〔サン・マルコ海軍歩兵〕1/6フィギュアの新作が発売に!
 早速予約注文していたのがこの休みに届いたので,ちょっといじってみました

 今回はカーキ綿生地の熱帯服設定ですが,特徴あるセーラー服や,やはり英軍型ミルス装備をちゃんと再現していて中々の仕上り.
 マスクも顎髭が凄いが,以前の様なアラブ人顔と比べると悪くは無い.

 同社製品で休戦以前は,現イタリア陸軍監修でお墨付きなのですが,今回は海軍モノなのでどうなったのかと思って箱の裏書きを見ると,何と友人の,空挺/ヘルメット研究の大家であるPaolo Marzetti氏が監修しているではないですか!

 どうりで良い出来だった訳で.
 でも綿ベルトが英軍式であればもっと良かったのですが…
 これはルーズパーツを買いましょうか.
 でも何故ベレッタ短機関銃装備なのか?
 おかげで三連弾薬盒に入れる為に10連マガジンしか付かないのですが.

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月08日00:51


 【質問】
 ロンメルの処遇についてだが,ヒトラーの贔屓が無ければ将官,それも一方面軍,一軍集団の司令官に成るなんて有り得ない.
 アフリカ戦の推移から見ると,あの人事はまずかったのでは?

 【回答】
 ロンメルも評価が難しい人物らしく・・・・
 英雄として,しばしば過剰なまでに宣伝されたのと,それと反発するような批判が混在している.

 個人的に調べた限りでは,「優秀な前線指揮官」ぐらいだろうか.
 最前線で陣頭指揮してこそだと思う.

 また,一言多い人ではあるみたい.
 ケッセルリングに余計なこと言ったりして批判されているね.

 ちなみにヒトラーの命令は,
「苦戦にあるイタリー軍を援護しろ,現状の防衛ラインを維持しろ」
であって,誰もアレキサンドリアまで攻め込めなんて言っておらん.
 そんなところから,
「ロンメルは兵站を理解していない」
という批判もある.

軍事板,2009/05/07(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ロンメル・アフリカ軍団が補給で苦労したのは,マルタ島を英軍に押さえられて,「トミーの航空機のせいで輸送船沈められまくりだよ・・」 だったから?

 【回答】
 これ自体は嘘じゃないけど,実際の時期とずれている.
 ドイツ軍が一番調子よく進撃してた頃は,マルタ島の脅威はそれほど大きくはなかった.
 手が付けられなくなったのはアフリカで撤退し出してから.
 この辺りはクレフェルトの『補給戦』(中公文庫,2006.5)に詳しい.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 トリポリ,ベンガジ,アゲダビア,トブルク,アレキサンドリア,ポートサイドおよびカイロとスエズを「点」で見る.
 そんでもってイタリア半島,クレタ島,ギリシャ,スーダンの位置関係みれば,ロンメルがアレキサンドリアを目指す事をもって防御するのは妥当では?
 トブルク手前で踏みとどまってもジリ貧だよ.
 チャドから北上してるフランスはおまけだけど.

 【回答】
 陸上交通路の現実がそれを許さない.

 仮にアレキサンドリア取っても「ジリ貧」.しかも激しく消耗する.
 もっとうまく戦線を整理する方法はなかったかと.
 1942年に入ってからはアメリカも参戦してるんだし,ドイツ側が掌握してない,アフリカの大西洋側から上陸してきたら,北アフリカ戦は終わりなんだから.
 ロンメルが目に見える形の「成果」を欲しがってるように感じる.

 散々既出だが参考文献を読むことをお勧めする.
 もう読んだ上でそれなら仕方ないけど.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 【反論】
 アレキサンドリアを確保できれば,直接補給をアレキサンドリアに海上輸送.
 で,アレキサンドリアを失った英軍の補給拠点は大きく後退←ここ重要

 あとは大英帝国海軍vsルフトヴァッフェの海上補給戦次第に持ち込める可能性が出てくると.

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 【反論】
 全力で奪還してくると思いますが.
 更に中東はフランスと英国が既に根を張っているし(1940年〜41年にケリが付いている).
 しかし喜望峰ルートは遠いなあ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 【反論】
 大英帝国海軍vsルフとバッフェの場合,せまい地中海はルフトバッフェに味方します.
 ちなみに短期間ですが,マルタ戦で大英帝国海軍の損害はご存知ですよね.
 これをいつまでも続けるのはいかに大英帝国海軍でも不可能です.

 マルタはルフトバッフェが引き上げたから息を吹き返せたのであって・・・
(独はいつも最後の瞬間にふんばりがききませんなぁ.英軍と違って)

 完全に追い出され英海軍が大損害を受けた場合たら,奪還はいつになることやら.
 その分,大陸反攻も大きく遅れるでしょうし.

 ま,どうせ独は東部戦線で大変なことになりますが…
 末期戦こそ独軍の華!うらー!

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大戦中,英軍はリビアのドイツ・北アフリカ軍団司令部にコマンドを送り込み,ロンメル将軍の暗殺を 狙ったらしいですが,本当ですか?

 【回答】
 本当です.

 簡単に解説すると,この作戦はトブルク奪回作戦に先立って敵にショックを与えるという趣旨の元に計画された作戦でした.
 この作戦を指揮したのは,元コマンド部隊総指揮官であったロジャー・キーズ海軍元帥の子息,ジェフレー・キーズ中佐です.
1941年11月14日,キーズ中佐に率いられた奇襲班はベダ・リットリアにあるロンメルの
司令部を奇襲すべく二隻の潜水艦に分乗して潜入しました.
17日深夜,キーズ中佐達は司令部と思われる建物に突入しましたが,ドイツ兵の逆襲により
キーズ中佐は戦死.残りの人員は急ぎ撤収しましたが迎えの潜水艦との合流に失敗.
陸路脱出に成功して41日後にキレナにたどり着いた2名を除いて他の隊員はすべて
戦死もしくは捕虜になってしまいました.

キーズ中佐は独軍によって丁重に葬られ,死後ビクトリア十字勲章を受章しました.
ちなみに,彼らが突入した建物は独伊軍の補給本部の司令部で,もちろんロンメルは不在でした.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板

アフリカ戦線でロンメルによって作られたニセ戦車


 【質問】
 WW2の時のドイツ軍将校って北アフリカで,どうして夏でもコート着てるんですか?
 あれって暑くないんですか?

 【回答】
 まず,北アフリカの砂漠でも夏の平均気温は冬よりも高いです.
 ただし,それ以上に昼夜の気温差が大きいため,どの季節であっても冬はコートが必要な気温にまで下がります.
(「寒く感じます」というのは誤り.実際に寒い)
 日中は太陽光を防ぎ通風性の良い服装が適しているため,ドイツの冬を想定した通風性の悪いコートは適していません.
 このため,アフリカ戦専用の被服が用意されていました.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
「戦車を高射砲で攻撃するなんて卑怯だ」
「高射砲でしか撃破できない戦車の方がよっぽど卑怯だ」
って何のやりとり?

 【回答】
 ロンメルの副官,シュミット中尉の回想によるようです.

 バトルアックス作戦における208高地の戦いにて,捕虜となった英軍戦車兵が英語で
「私の意見では,高射砲で戦車を撃つのは卑怯ですな」
と言ったのに対し,その訳を脇で聞いた独軍砲兵が,
「なる程.だったら88mm高射砲以外には打ち抜けない装甲の戦車で攻めてくるやつは,それ以上に卑怯だよ」
と言った・・・というのが原典のようです.

 ソースはタミヤのFlaK36/37の説明書です.
 解説は菊地氏による.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【伝説】
 北アフリカ戦での一こま.
 ドイツ軍に隣の戦区のイタリア軍から
「水が不足して戦闘不能になりそうだ! 至急水の救援を!」
って要請が来た.
 ドイツ軍が急いで水を運んで行ってやったら,イタリア軍は将兵総出でパスタを茹でる準備してて
「よかった,これでパスタが茹でられるよ」
と言って,ドイツ軍を唖然とさせたことがある.

 【事実】
 う〜ん,まあ,話としては面白いのですが,それは都市伝説の一種で,イタリア兵も最前線では食事と言えば缶詰めレーションがほとんどでした.

 イタリアはドイツ軍ほどフィールド・キッチンの配備が進んでいなかったので,暖かい食事は兵舎以外はなかった様で,当時の記録を見ても,砂漠の真ん中での食事は,レーションも配備されていましたが補給が滞り,わずかな牛肉缶詰めの配給とビスケットと水だけです.

 ただし,将校はこれにあてはまらず,戦線後方の司令部では豪奢な食事をとっていたので,もしかしたらこれがドイツ軍の戦史本などを通して伝わったのかも知れません.
 兵と将校の待遇差は英軍以上,ロシア軍以下と言えば判り易いでしょうか.

 …だから,パスタを食べれなかった前線の塹壕にいた兵隊達は,戦争をやる気も起きなかったのかも知れませんが(笑

 ここの英文サイト
http://17thdivision.tripod.com/charlottesaxisattic/id26.html
にイタリア軍の糧食について,やや詳しく再現写真付きで解説しています.

 下の項目をクリックすると兵舎での食事や,部隊,個人糧食についても写真付で解説しているので,ご覧ください.

 因に現用イタリア軍では,暖めて食べる缶詰パスタが入ったレーションを個人支給しています.

 それから,なんとなく「砂漠でパスタ」を思うと,日本人ならのんびり大鍋でスパゲッティを茹でている図を想像するのではないでしょうか?
 実は兵舎や国内の演習場で供される暖かい食事でパスタ料理が出る事がありますが,それはペンネやマッケローニの様な短いパスタをトマトとひき肉ソースで煮込んだ料理がほとんどだった様です.
 何故か?
 それはちょっと考えてみれば判る話ですが,それは長いスパゲッティと違って,短いパスタなら手早くおタマでよそって飯盒に分配しやすいからです!

 また,海軍の話ですが艦内でパスタを茹でる際は,海水を汲んでこれに水を半分加えて湧かし,それでパスタを茹でて水の節水に努めていたとも聞きます.

 詳しくは,拙書『イタリア軍入門』(イカロス出版,2006/2)をご覧ください.

吉川和篤 by mail

 ちなみに,パウル・カレルの「砂漠のキツネ」にも,

 アメリカ軍は戦争の全期間を通じて,兵士にホテル並みの食事を出すことができた.
 ドイツ軍も,時に滞ることはあったが,下宿屋の晩餐程度は可能であったが,イタリア軍には何もなかった.

とあります,
 その後の記述もイタリア軍はそれでも戦い続け,カメラード(戦友)という言葉の意味をイタリア軍から学ぶドイツ人が多かったとあります.

「笹山さん」 in FAQ BBS

「MC☆あくしず」7号より


 【質問】
 アフリカ戦線でのフォルゴーレ空挺師団の奮戦について教えられたし.

 【回答】
 1942/10/25-11/1,第2次エル・アラメイン戦の最中、パヴィア歩兵師団,アリエテ機甲師団と共に南部戦区を守るフォルゴーレ空挺師団は,兵力比1:13,戦車比1:70という絶望的戦況下に置かれた.
 空挺師団という部隊の性質上、軽武装で戦車など持たず,対戦車砲すら少数しか持たない彼らだったが,火炎瓶や対戦車地雷を抱えて肉薄攻撃を敢行,連合軍の攻撃を数度にわたって撃退するという大奮闘をしてのけた.
 結局、絶え間ない敵の攻勢により大損害を蒙り,他の友軍部隊が後退を始めたため退却を余儀なくされたが,その活躍振りは、後にチャーチルをして「彼らは獅子の如く戦った」と賞賛せしめるほどのものだったという.

 【参考文献】
『イタリア軍入門』(吉川 和篤&山野治夫著,イカロス出版,2006.2),p.59

【ぐんじさんぎょう】,2009/3/7 22:30

 詳しくは,今月号の「グランドパワー」誌『イタリア空挺部隊全史(前編)』を読まれたし(^^;

よしぞうmaro' in mixi,2009年03月07日 09:56
青文字:加筆改修部分

イタリアの軍装雑誌「UNIFORMI E ARMI」誌より

 目玉は,“M33ヘルメットの子供”としての,M41型空挺ヘルメット解説(写真右).
 額のパッドが無く,後頭部にネックガード布が付いた初期型空挺メットの紹介は貴重です.
 また,次ページに掲載されているカラビニエリ空挺のステンシル入り空挺メットも激レア.

 しかも面白いのは,M33型通常ヘルメットに穴を開けたボール紙を被せて,どの辺で縁をカットして空挺ヘルメットのシルエットになったか検証している点.

 表紙(上写真左)は,パルチザン軍装.
 手にする大戦末期イタリアの珍銃,F.N.A.43サブマシンガンが気になります(笑)

よしぞうmaro' in mixi,2007年04月25日01:10

現代のフォルゴーレ空挺師団


 【質問】
 キレナイカでのイタリア軍コマンド降下によるB-24爆撃機20機撃破(1943年7月)について教えられたし.

 【回答】
 このコマンドは,空軍空挺コマンドです.

 北アフリカでの英軍コマンド部隊の活動に刺激された最高司令部が,空軍にも陸軍第10連隊と同様な特殊空挺部隊創設を決定,1942年2月にタルクィニアでアルディーティ空軍爆破大隊(ADRA,デ・アジェリス大尉指揮)を編成しました.

 9チーム兵員305名には,敵飛行場制圧と航空機破壊を主眼にして,陸軍と同様に厳しい破壊工作・コマンド戦闘訓練を課し,空挺兵達は4回ずつ地上降下(昼夜)と海上降下(昼夜)行い,さらにグライダー降下,ゴムボートや潜水艦を使った上陸,地上走破及び夜間戦闘を学んだそうです.

 11月,部隊はチュニジアに送られ特殊作戦行動に入り,1943年4月の戦闘で負傷した大隊長に替わりダルマス中佐が指揮を執り,アルジェリアやリビアの連合軍飛行場攻撃を陸軍空挺と共同で行いました.

 そして,7月18日ベンガジ近郊ベニーナ第2航空基地に夜間降下したCargnelとProcida二名は約20機の米B-24爆撃機破壊に成功,その後生きて捕虜になり,二人には後に戦功章が贈られたそうです.

 まあ,普段のダメっぷりと引き換えに,こんな例外的な超人達もいるイタリア.なかなか魅せてくれます.

よしぞう(maro') in mixi,2007年03月12日 10:20


 【質問】
 チョイグイ峠の戦いって?

 【回答】
 1942年11月26日,チュニジアのチョイグイ峠西方で発生した米独戦車大隊同士の戦闘.
 50mm砲3号6両,75mm砲4号7両からなる独軍に対して,米軍はM3スチュワートで25両で対抗した.
 米戦車大隊A中隊が独軍右翼に回り込んだが,独戦車の装甲を貫徹できず,反対に4号の75mm砲で手痛い打撃を受ける.
 しかし,その間にB中隊が背後へ迂回,9両を撃破.
 これは奇襲となり,独戦車残余は退却.追撃した米戦車部隊はドイツ陣地を確保した.
 この戦闘で米軍は戦車25両中7両,独軍は13両中9両を失った.

丼炒飯 ◆HY/YgdSbHM


◆◆◆シシリー上陸以降


 【質問】
 末期ドイツ西部戦線・イタリア戦線の初心者お勧めの本って何がいいでしょうか?

 【回答】
 末期の西部戦線なら山崎雅弘「詳解西部戦線全史」(学研M文庫)に地図入りで詳しく出てるけど,イタリア戦線の良い本は知らないな.
 イタリアの戦いはたぶんWW2欧州戦域で(日本では)一番冷遇されてるテーマじゃないかな.
 戦いを指揮した将軍の名前ですら,すぐには思い浮かばないよ.
 ドイツのケッセルリングくらいか.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 『イタリア軍入門』には,シチリア上陸作戦以降からRSI(イタリア共和国)軍の戦歴まで記述があるので,これが2009年現在,書籍としては本邦唯一か.


 【質問】
 チャールズ"コマンドー"ケリーって誰?

 【回答】
 アメリカ軍の保持する建物にドイツ兵の大軍が接近.
そのときケリーは

・BARを乱射してドイツ兵を狙撃
・BAR撃ち過ぎて動かないので,ベッドに置いたらベッドが燃えた
・別のBARを探して撃ちまくるが,銃身が歪んで撃てなくなった
・上の階に行きトミーガンを発見.窓からまた撃ちまくる.ドイツ兵数人を倒す.
・トミーガンマガジン空に.バズーカを建物のどこかで見かけたことを思い出し,建物の三階へ.
・バズーカ砲と弾頭六発を発見.二階に下りて発射してみようとするも,やったことがないので撃ち方がわからない.いろいろやってるうちに発射砲を会得.
・バズーカを四発撃った後で部屋の中に焼夷擲弾を発見.ドイツ兵の占拠する近くの建物の屋根に放り投げる.爆発炎上.
・60_迫撃砲の弾を発見.雷管の安全ピンを抜いた,と思ったけどそれは装薬の安全ピンだった.信管のピンがわからないのでいろいろいじってるうちに外れる.
 窓から放り投げたら気がついたらドイツ兵が五人死んでいた.全部で十発の迫撃砲弾を投げつける.
・カービン銃を発見.クリップ数個しかないけど.でもやっぱり給弾の方法がわからなかったのでクリップ撃ちつくしてまた別の武器を探す.
・スプリングフィールド銃を発見.装填してドイツ兵を撃ちまくる.
・窓から中庭を見ると37_対戦車砲を発見.階段を駆け降りて砲弾を装填してみる.うまくできた.近くのドイツ兵の拠点の教会を狙う.
・でもやっぱり撃ったことがないのでどう撃てばいいかわからない.みようみまねでやっと発射に成功.でも着弾したのはすぐ近くの塀だった.
・たまたま装填したのが徹甲弾だったので平気だった.そこには榴弾もいっぱいあったんだけど.
・気がつくと,ドイツ兵の拠点の教会は穴だらけに.鐘楼が崩れ落ちてる.
・弾薬箱の底にヘンな形の弾頭を発見.なんじゃこりゃ.空中爆発型の榴弾だったらしい.それで撃ったドイツ兵の集団は全員死亡.
・ドイツ軍の対抗砲撃が中庭に降ってきた.対戦車砲を撃つのは楽しいので逃げたくないと思ったんだけど大尉が
「弾を無駄にするな」と怒ったのでしかたなく逃げた.
・建物の中に入ると三丁目のBARを発見.まあ死んだ兵隊が握ってたんだけど.撃ちまくりつつ装填してまた撃ちまくる.
・そのBARもなんか煙を吹くくらい熱くなってきた.そしたらドイツの狙撃兵が一階を狙ってきてるので手を貸せ,と言われたので一階へ.
・そしたらGIどもがスパゲティを茹でていやがった.むかついたので厨房の中でBARを乱射.いい加減にしろ.
・敵の狙撃してきてるほうの窓から木に登ってるドイツ兵を発見.BARで乱射して片付ける.
・木から落ちたドイツ兵を助けようと駆け寄ってきた二人のドイツ兵を狙撃.またそれを助けようとした三人のドイツ兵をまた狙撃.
・そんなことをしてるうちにBARのクリップをいっぱい持ってきてくれた仲間がいた.ありがとう.でもお前も戦え.
・BARがまた撃てなくなったので中庭の対戦車砲のところに戻る.
・こんどは無駄弾を撃つなと怒る上官はいない.しめしめ.っていうか気がついたら味方が撤退して全然いない.
・でも気にせず砲弾を撃ちまくる.ドイツ兵の隠れていそうな建物はつるべ打ち.
・中庭から建物に戻ったらもう全然仲間がいない.薄情モノめ.バズーカの弾を発見したので撃ちまくる.
・二階の窓際にもどったら,怪我して動けない仲間の兵隊が銃に弾を込めて渡してくれるので撃ちまくる.
・っていうか,怪我した兵隊たちはこぞって弾倉や銃に弾を込めて渡してくれる.弾がなくなるまで撃ちまくる・・・

 議会名誉勲章者一覧リストにあったぜ.
Charles Kelly
http://www.medalofhonor.com/CharlesKelly.htm

中々いい顔立ちで,武器と一緒に写っているのがまさにコマンドー(笑)



205 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/10(水) 02:16:26 ID:???

「戦いながら操作を覚える」って,ゲームの主人公か!(笑)


218 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/10(水) 11:05:38 ID:???

 つか,弾が尽きるたびに新しい武器を発見ってのも,ゲームまんまという感じ(笑)


206 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/10(水) 02:21:37 ID:???

 よく読むと,この部隊,ケリーぐらいしかまともに戦争してねえ(笑)


212 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/10(水) 05:13:58 ID:???

 アメに上陸された後でも,ドイツ軍は37mmなんかつかってたのかねぇ?


219 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/10(水) 11:26:09 ID:???

 イタリア戦線の1943年だから,まだ37mmのM3対戦車砲を使ってる.
 榴弾に曳火射撃用の信管はないし,変な形というと多分M2キャニスター弾.
http://www.inert-ord.net/usa03a/usa5/37mm/index.html


220 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/10(水) 12:01:20 ID:???

「これは流石にネタだろー.コピペ改変かなんかか?」
とか思ったんだかマジ?


221 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/10(水) 12:32:00 ID:???

 デーヴ・グロスマンの『「戦争」の心理学』でコマンドー・ケリーの逸話を発見した.
 上記の通りだった.
 それなりの信憑性はあると思うぜ.


軍事板
青文字:加筆改修部分

 上記の元ネタはデーヴ・グロスマンの『「戦争」の心理学』p.215〜221.
 第十章「殺人機械-数少ない真の兵士がもたらす影響」.

 ケリーは自伝を書いており,その題名は「たったひとりの戦争」です.
 本ではその戦闘箇所を全文引用しておりますので,気になる方は読んで見てください.
 ルーデルと同じく淡々と,あの時の戦闘を回想しています.

 この戦闘で特徴的なのは

T
 発砲しない兵士達が多い.
 建物の中には多くの米兵がいたのに,積極的に発砲していたのはケリーだけ.

U
 撃てる奴に弾薬を渡している.
 確かに負傷しているが発砲できるはずなのに,わざわざケリーのために弾薬を渡したり,弾込めしている.

 まさに彼は「真の戦士」だったのです.

Charles E. Kelly
http://en.wikipedia.org/wiki/Charles_E._Kelly

Medal of Honor受勲者一覧サイト
http://www.medalofhonor.com/CharlesKelly.htm

 ただ英雄にありがちではありますが,戦後の生活は恵まれなかったようです.
 最愛の妻を子宮ガンで亡くし,再婚するもの離婚,またアルコールに溺れてしまい,1985年1月11日 64歳で亡くなりました.

http://www.medalofhonor.com/CharlesKelly.jpg

CRS@空挺軍 in mixi,2008年12月10日10:08


 【質問】
 アンツィオ上陸作戦って何?

 【回答】
 ローマ南部のモンテ・カッシーニで枢軸軍の頑強な抵抗に遭った連合軍が,北部の海岸アンツィオに迂回上陸して挟撃しようとした作戦.
 1944/1/22,連合軍第6軍団による上陸はほぼ無血で成功するが,枢軸軍の勢力を過大評価したルーカス少将は,一気に攻め入ることをせず,奥行きわずか6マイルの橋頭堡で後続部隊を待つという過ちを犯し,枢軸軍側の防御ライン構築や,ケッセルリンク指揮下のドイツ軍の反撃を招いている.
 連合軍は2万9200人の死傷者を出し,結局ローマに進軍できたのは5月に入ってからとなり,作戦は失敗と評されている.

 【参考ページ】
http://kapon3.web.infoseek.co.jp/miritary/cinema/military-hyouron-1968thebattleforanzio.html
http://www.sunsetgames.co.jp/the_gamers/tcs/tcs.htm
http://home.att.ne.jp/iota/aloysius/cinema/07/c_anzio.htm

 なお,同作戦の主な戦闘の一つであるベルベデーレ山での戦いでは,日系アメリカ人の第442連隊と第100大隊が先陣を切っている.
 なお,同作戦の主な戦闘の一つであるベルベデーレ山での戦いでは,日系アメリカ人の第442連隊が先陣を切っている.

【ぐんじさんぎょう】,2009/6/23 21:00
に加筆

>日系アメリカ人の第442連隊と第100歩兵大隊とが先陣を切っている

 あれ?第100大隊って,442連隊が編成される前は独立歩兵大隊だったけど,442連隊が編成されると同連隊に編合されたんじゃなかったっけ?それとも並列して存在していた時期があるのでしょうか?
 もしくは単なる「と」と「の」書き間違い?
 確かに442へ編合後も第100大隊と呼称していましたし.
 だから442連隊の麾下大隊番号は第100,第2,第3(第1は確か,補充大隊であったと思う)となってましたし.
 記憶モードですが.

鉄底海峡 in mixi,2009年06月22日 23:21

RSI空挺カラー写真


 これは1945年4月頃に捕虜になったRSI空挺兵士達が写ったカラーニュースフィルムから落とされたものの様で, 上の写真では襟のグラディオ章が新品ではここまで光っていた事が良く判り,またブルーグレーのウール服の色合いの違いも感じられます.

 また,全員若い兵士で「PER L'ONORE D'ITALIA」のカフタイトルを付けていないので,アンツィオ戦以降に参加した空挺兵だと思われます.
 英軍の捕虜になっている点や,周りの状況から,パダーナ平原(北イタリア)で末期に投降した第2空挺連隊「ネンボウ」ではないかと推測します.
 この連中なら,第1連隊「フォルゴレ」のような1945年の西アルプス戦線における厳しい冬期山岳戦も経験せずにいたので,案外平穏だったのかも知れません.
 連合軍に組織的に手順を踏んで投降>武装解除を受けたと思われますので,こういったリラックスした写真が残っているのでしょう.
 パルチザンに捕まったら,まずは生きて故郷には帰れなかったと思われ….

 さて,このニュース映像がYouTubeの何処かに落ちていないか探していますが見つかりません!
 もしご存じの方がいたら,ご一報くださいー.

よしぞうmaro' in mixi,2007年06月20日00:40
〜07月23日 01:48
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 有名なノルマンディー上陸作戦を知りたくて,文庫を読んだんだけど,地名に無知だから何が何だかさっぱり・・
 視覚的なものの方が分かりやすいし,理解も早いと思ったのですが,歴史群像の『ノルマンディー上陸作戦』(学研,2008.8)は良いでしょうか?

 【回答】
 視覚的というのが地図や戦況図であれば,下記の方がお勧めかもしれんです.

『ノルマンディー上陸作戦 地図で読む世界の歴史』(チャールズ・メッセンジャー著,河出書房新社,2005.5)
 原題『THE D-DAY ATLAS』.
 ノルマンディーに至るWW2欧州戦線の上陸作戦を概観しながら,戦況図を多用し解説.
 ただし,計画や部隊運用の記述解説が中心なので,兵器に関する記述は少なめ.
 なお,NATO兵科記号を覚えてないと,いちいち調べるのが面倒.
 しかし旧来ウォーゲーマーには,各種規模における作戦図の多さから狂喜できる可能性大.

 ただし概観と写真類,そして兵器や上陸作戦の戦術基礎を望むなら,歴群『ノルマンディー』の方が良いです.

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 学研M文庫の山崎雅弘著『詳解西部戦線全史』(2008.3)も,戦況図が多くて本文の記述と対照しやすいと思うよ.
 ノルマンディ関係だけで,文庫1ページの地図が16点ある(p.44〜59)

軍事板
青文字:加筆改修部分

ノルマンディ上陸作戦


 【質問】
 ドイツ軍はノルマンディーを要塞化していたようですが,連合軍はなぜノルマンディーに上陸したんでしょうか?
 上陸地点なら他にいくらでもあったと思うのですが,あえてノルマンディーにこだわった理由はなんなのでしょう?
 安全な場所にきっちりと部隊をあげた後で,じりじり陸路を進んでもよかったのではないかと思えてしまいます.

 【回答】
 ある程度幅がある海岸で無いと速やかに大兵力を揚陸出来ないから.
 更には確保した橋頭堡から内陸に進軍する為の物資も揚陸しなければならない.
 そうなると揚陸可能な場所は限られてくる.
 仮に狭い海岸だと,上陸直後に敵側に直に戦力を集中されて、動けないままやられる危険性が高い.
 渡河、及び上陸作戦では素早く縦深の確保する事が重要.
 その点,ノルマンディーなら,上陸地点の目と鼻の先にフランス北部の交通の要衝であるカーンがあった.

 また,要塞化されていたのはより英本土に近いカレーで、ノルマンディーの沿岸陣地はカレーと比べると未完成の状態だった.
 様々な欺瞞工作を連合軍は行い,海峡間の最も狭い場所、カレーに来るとドイツ軍に思わせていた.
 しかも陣地は事前の艦砲射撃と航空爆撃で潰しまくった.
 オマハ・ビーチで多少苦戦はしたが,その日の内に橋頭堡が出来てるし,英軍の担当地域ではさほどの抵抗は受けなかった.
 根拠地の目と鼻の先に上陸に適した地点があるのに,しない手は無い.

 「他にいくらでも上陸箇所があった」というなら,具体的にどこなのか書いてもらいたいもんですが.

>安全な場所にきっちりと部隊をあげた後でじりじり陸路を進んでも
>よかったのではないかと思えてしまいます.

 これをやろうとすると,その間に防御を固められて,却って損害が増す可能性がある.
 フランス西部では上陸地点に向かないし、南部では遠い.


 【質問】
 ノルマンディーの人工港の一日の最大揚陸量ってどのくらいだったのですか?

 【回答】
http://search.eb.com/normandy/articles/Mulberry.html
によれば,ノルマンディー上陸作戦に使用された人工港「マルベリー」は、米軍がサンローランに設置した一基は嵐で破壊されましたが、英軍が設置したアロマンシュの人工港は使用され続け、10カ月間で250万人の兵士、50万台の車輛、および400万トンの物資の揚陸を行ったそうです.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 第二次大戦のノルマンディー作戦の際の連合軍はアメリカ軍の方が指揮して,と本などにはありますが,このような場合,他国軍人がごちゃごちゃと混ざり合っているわけではないのですよね?

 【回答】
 師団単位以下で国籍違う部隊が混ざる事はないんじゃなかったかな?
 欧州戦線じゃ大体,軍団で纏まってたような.

 枢軸側ではSS義勇ナントカという形で,外国人がドイツの指揮下に入ることもあったが,こちらは最初は(または名目上は)師団でも,消耗したり情勢が変わると,実質的には連隊規模や中隊規模になったり,ばらばらになってドイツ軍に吸収されたり,という例もある.

 国が滅びてたりして亡命してるとあり得るのかも.

 ロジャー・ヒル著『死闘の駆逐艦』という本があって,WW2で英海軍の駆逐艦艦長として何隻かの艦を渡り歩いた著者の体験談なんだが,そのなかで丁度ノルマンディの時に指揮していた艦の砲術長がベルギー人だった.
 書き方から推して亡命者だろうと思う.
 また,英海軍にはポーランド籍の艦(駆逐艦とか潜水艦とか)がちらほら居て,英艦隊の指揮下に組み込まれていたりする.

 陸戦だと,亡命籍だと旅団単位位で指揮下に組み込まれてる例もある.

 あと,数カ国の連合体制であっても総司令部あたりには,連絡のために将校が(場合によっては団体で)派遣されている.
 後混ざり合う状態で思いつくのは義勇兵による国際旅団とか,後進国に派遣されている教官とか?
 緊急時だと義和団の大使館籠城組とかも,それなりに混ざってたと思う.

軍事板,2009/11/10(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 当時のアメリカの国力なら,徹底的な爆撃と砲撃を連続で行えば,オマハ・ビーチも無血上陸できたんじゃね?

▼ 【回答】
 オマハビーチを見下ろせる位置にある「オック岬」というところにはドイツ軍の要塞があり,大口径の大砲が多数配置されているのが,偵察で確認されていた.
 軍艦は陸上砲台と撃ち合うと不利なので,それがある以上,海岸には近づけないと見られていた.
 そのため,艦砲射撃はたった40分間しか行われなかず,ドイツ軍陣地には大した損害はなかった.

軍事板,2008/09/14(日)
青文字:加筆改修部分

▼ オマハビーチにはかなりの事前砲爆撃が加えられた.
 事前爆撃のほうは,オマハビーチにはかなり大規模に行われた.
 だが,爆撃が目標を外して全く効果を与えていなかった上に,艦砲射撃もドイツ軍陣地を正確に捉えていなかったので,大した被害を与えられず,結果的にあぁなった.
 だが爆撃目標を外して,こちらも大した被害を与えられなかった.

軍事板

▼ しかも砲台は頑丈なトーチカに収められており,爆撃では完全に破壊出来ないだろう,とされたため,オック岬には米軍のレンジャー部隊が投入され,海岸沿いの切り立った崖を無理やり登って要塞を肉薄攻撃したが,いくつかの砲台には砲が据え付けられていたものの,ほとんどの砲台はトーチカの外側だけで中はカラ.
 更にいくつかは木の棒を大砲にそれらしく見せかけたダミーだった.
 要するにドイツ軍は砲台を作るので手一杯で,砲本体を運び込む余裕がなかったのっだ.
 でも,それは航空偵察では判らなかった訳.
 この戦闘で投入された米軍レンジャー部隊が,死傷率50%の大損害を出した.

 オマハビーチを挟んだオック岬の反対側にも,中口径砲の小要塞があって,こちらは爆撃にも耐え(というか,爆撃はみんな外れていた),海岸が制圧されて後方を遮断される事を恐れたドイツ兵が,放棄するまで砲撃を続け,オック岬制圧後,危険を犯して海岸に接近した連合軍艦艇に,撃沈破の損害を与えている.

軍事板,2008/09/14(日)
青文字:加筆改修部分

 もし事前爆撃と艦砲射撃が正確にドイツ軍陣地を捉えていたら,もっと被害は少なくなっただろう.

 あと,米軍がオマハビーチで大損害を出した理由の一つに,装甲工兵車輛の開発を怠った,ということがある.
イギリスはディエップ上陸作戦の失敗からこの手の戦車改造装甲工兵車輛を各種開発しており(開発担当権部隊指揮官の名を取って「ホバートファニーズ(ホバート氏の変な連中)」と呼ばれた),工兵部隊の活躍を助け,被害を最小限にする事に成功している.

 英軍は米軍にもこの「ホバートファニーズ」を提供しようと持ち掛けたけれど,英軍の兵器開発に懐疑の目を向けていた(まぁパンジャンドラムとか作ってる人達だし・・・)ので,水陸両用走行機構付きシャーマン(シャーマンDD)以外を採用しなかった.

 ちなみにオマハ方面に投入されたシャーマンDDは,発進させるのが沖合い過ぎた為,波に煽られて次々と転覆し沈没.
 遠浅の波打ち際にどうにか辿り着いた数両も,砲弾穴にはまって動けなくなり,海岸に辿り着いたものは一両もなかった.

軍事板

 【関連リンク】
「gigazine」:オマハ・ビーチ上陸作戦を淀川で再現したムービー


 【質問】
 映画「プライベート・ライアン」見て思ったけど,なんで海岸にある敵のトーチカ,前もって艦砲射撃で潰さなかったんですか? 戦艦の大砲を連射しとけば潰されてたのでは?

 【回答】
 巧妙に構築された陣地は,短期間の艦砲射撃だけで完璧に潰す事は難しいです.
 特に厚いコンクリートで防御されたトーチカは,相当な砲撃に耐えられますし,要塞砲は,同一口径の艦砲の5倍の威力に相当すると言われています.
 第2次世界大戦において,上陸前の空襲や艦砲射撃で上陸海岸の砲台や陣地,トーチカなどが壊滅したという例は殆どありません.
 ということは,砲弾と砲撃時間の限られた艦砲射撃では,トーチカの壊滅は不可能だということです.
 100kmを超える上陸海岸全体に隙間なく砲弾を注ぎ込むには,どれほど艦艇があっても足らないでしょう.

 例えば,これは太平洋での戦いの例ですが,軍事研究の2001年六月号によれば,テニアン攻防戦において,この戦いで二門の六インチ砲しか持たない日本軍が,戦艦コロラドと駆逐艦ノーマン・スコットを撃退しています.
 戦艦コロラドは,さすがに重装甲に守られ撃沈はしなかったが,上部機関に22発も砲弾をくらい43人の死者を出して撤退しました.
 理由は波で,揺れる艦上からの砲撃では,偽装して隠された海岸砲台に当てるのはそれだけ難しかったからとのことです.

 英仏海峡には,建造を中止された戦艦から外された40cm砲も有り(数は十分で無かったのですが),米英海軍も安易には近づけませんでした.

 さらに,オマハ・ビーチでは,事前爆撃が爆撃隊のミスで失敗していたという史実もあります.
 他の上陸地点では,抵抗はあれほど強力なものではありませんでした.


 【質問】
 「プライベートライアン」見て思ったのですが,なぜ上陸する前に空爆しなかったのですか?

 【回答】
 ノルマンディの海岸地帯のうち,「プライベートライアン」の舞台になっている「オマハ海岸」(オマハはコードネームで本来の地名ではない)だけは,事前の防衛強化策でトーチカ等が整備されていたのに,当日の朝爆撃した爆撃機部隊が先導機(爆撃する目標を後続の部隊全体に指示する役)が,目標を取り違えて海岸ではなく,海岸から陸地に進んだところにある予備陣地(海岸が陥落したら撤退して,そこで第2時防衛線を張る)を爆撃目標に指示し,爆撃部隊はそこに爆弾を落とした.

 そのため海岸陣地はほぼ無傷で,艦砲射撃も少し離れたところにある砲台を恐れて,艦が海岸へあまり接近出来なかったので大した効果がなかった.

 なので,最も防備の堅い所に,真正面から上陸作戦仕掛ける結果になったのであんなことに.

 ちなみに,爆撃地点を間違えるとか比較的よくあること.
 ひどい場合には頭上の味方の爆撃機から爆弾が降ってきたりする.

 上空から地上の目標を確認・視認するのは非常に困難.
 現代でもGPSによらないナビだと,マイル単位(1.852Km)での間違いはよく有る.
 そのため現地潜入した特殊部隊や,地元レジスタンスなどが無線・標識・レーザーなどで,誘導する必要がある.
 ノルマンディーでも落下傘を対空布板代わりに,空挺降下輸送機に必死で示す写真も残ってる.
 "FAC"なる業務があるのも,彼らが現地から攻撃機などに進入点や目標を連絡するため.

 ノルマンディーへの空爆は「上陸地点の秘匿」もあって,かなりシビアな問題だった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 映画「プライベートライアン」の冒頭,上陸するシーンで浜辺に点在していた鉄製のテトラポットのような,こんぺいとうのような,毬栗のような弾除けの名前はなんて言うのでしょうか?
 NHK「映像の世紀」のノルマンディー上陸のシーン(だったかな?)にも同じ鉄製の弾除けが浜辺に転がっていました.
 気になったものでよろしければお願いします.

 【回答】
 *←こういう形をした奴ならあれは弾除けではなく,上陸用舟艇が波打ち際に乗り込んでくるのを妨害する為の水中障害物.
 ものによっては上の方に地雷を取り付けておいて,機雷のように船艇の破壊を狙った.

 本来は水面下に沈んで効果を発揮する物だが,ノルマンディー上陸作戦時,連合軍は干潮時に上陸してきたので,水中障害物はみな陸上に露出してしまい,上陸してきた連合軍兵士にバリケード替わりに使われてしまった. 

軍事板

 一等自営業閣下の「ノルマンディー1944」には,
「木製海岸障害物 衝突杭 テトラヘドロン」
「”チェコのハリネズミ” 先端に地雷が取り付けられている」
「”地雷杭” 満潮時には水面下になり艦艇を破壊する」
の図解がありました.

 正式名称っぽいのだと,「チェコのハリネズミ」かなあ?

 ちなみにノルマンディには,「ロンメルのアスパラガス」と呼ばれる鉄杭もありました.
 秦郁彦著「第二次大戦鋼鉄(はがね)の激突」(中公文庫,1988/5)の「ノルマンディー」の章から引用しますと,

 彼(引用者註 ロンメル)はまた,空挺部隊の脅威も忘れてはいなかった.
 海岸線の背後の低地は水浸しにされ,海岸から10キロまでの樹木の少ない平地には,爆雷で結ばれた「ロンメルのアスパラガス」という名の鉄杭が林立した.(P114)

ぴぴ in FAQ BBS


 【質問】
 ノルマンディーでのシャーマンDDの多くは,波を被って沈没してしまったとされてますが,乗員は脱出できたんでしょうか?

 【回答】
 脱出できた人は少なかった.

 そもそも戦車自体,ひっくり返って真横になったりしたら,地上でも脱出は大変.
 それを海でやるんだから・・・.

 さらにシャーマンDDの場合,周囲に展開してた波除のスクリーンが邪魔なので,ハッチから車外に出れてもすぐに沈む戦車から離れることができず,脱出の困難さに拍車が掛かった.

 ただし沈んだのはオマハ海岸の連中だけ.
 ソードやゴールドではそれほどでもない.
 発進地点が予定より沖合いになってしまったための悲劇.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ノルマンディ上陸作戦で,工兵車輛は役に立ったの?

 【回答】
 英軍の第79機甲師団,異名をホバートファニー,について調べると面白いと思います.
 1943年1月だったかの連合国首脳カサブランカ会談により,フランスからベルギーに戦線を開く事が決定され,準備が開始されます.
 英国はその前年にディエップにカナダ軍の1個旅団(たぶん)を上陸させ,潰滅.
 持って行った「チャーチル」戦車は海浜の阻塞を超えられず立ち往生,という経験があり,大西洋の壁を越えるには特殊な装甲戦闘車輛が必要と考えました.
 その中心となったのが,英国で軍の機甲化に情熱を捧げたパーシー=ホバート少将(退役後復帰)です.
 日本語では最近のパンツァー(PANZERという月刊戦車写真雑誌.ことに北海道の各師団連隊戦闘団の演習写真が秀逸)で取り上げられています.
 同師団は装甲工兵戦車A.V.R.E.(armored vheicle royal engineerかな?)に柴束,橋のセット,それに工兵が乗車し,ペタード迫撃砲(flyingdustbin 綴りは曖昧)を装備,を中心として,シャーマンD.D.(当初はヴァレンタインD.D.でした),シャーマンクラブ(これも訓練の当初はヴァレンタインだったかな?),カーペットレイヤー,チャーチルクロコダイル火焔放射戦車,CDL(装甲シャッター付サーチライトを砲塔の上に載せたシャーマン)などの開発と運用研究,そして師団傘下の部隊が実戦参加をしています.

 特殊戦車のおかげで歩兵の犠牲は減ったか?
 当初の計画では歩兵第一波とともにシャーマンD.D.(Duplex Drive)が(そんなに遠くは無い.2000mくらいの沖合いでLSTから海中へと入ってスクリューで自走)が上陸.ドイツのバンカーに対して直射支援を行う.その次の波で特殊戦車が上陸して各種障害を除去の予定でした.
 が,作戦計画というのはどうも実戦では覆される運命らしくて,この予定が色々狂います.
 が,結果だけ見れば英軍は橋頭堡を築くのに成功.
 これに対して,シャーマンD.D.のみを用いた米軍は,多大な犠牲をオマハで出しています.ユタではさほど損害は大きくなかった.

 その後,ノルマンディー,ブリタニー半島からブルージュに至る,ドイツが強固に防御していた要塞都市への攻撃には,しばしば英軍の特殊戦車,それに場合によってはカンガルー(シャーマンだったか? ともかく旧式の戦車の砲塔を外した装甲兵車)が投じられていますから,その価値は認められ,活用されていたようです.

 【質問】
 こんな時に「パンジャンドラム」が有れば・・・

 【回答】
 実はパンジャンドラムでカーペットを敷いて,砂浜の緩い地盤の上でも戦車が沈まないようにしよう,という案があったらしい.


 【質問】
 オラドゥール事件とは?

 【回答】
 フランス中南部の小村で,1944年6月10日,武装親衛隊(SS)により住民六四二人が虐殺された事件.

 ノルマンディ進攻の時,戦場に向かう途中で武装SSダスライヒ師団の一部隊が,オラドゥール村の村民をほぼ皆殺しにした.
・レジスタンスの妨害にキレた指揮官が,見せしめのために殺害を命じた
という説と,
・ダスライヒの高級指揮官(ランメルディング師団長?)が横領した金塊が,輸送途中にレジスタンスに奪取され,奪回と証拠隠滅のために村を襲撃させた
という説とがある.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)

 オラドゥール村(Oradour-sur-Glane)には1944年、凡そ700名の住人が住んでいましたが、1944年6月10日、村は武装親衛隊第二戦車師団の中隊に占領され、焼き払われました.
 この時、197名の男性が銃殺、240名の女性と205名の子供が教会内で」焼死しています.

 この大量虐殺を巡る事情は、フランス古文書館公文書資料室が史料を公開していないので,全てが解明されていません.

 明確なのは、
 1. 親衛隊突撃連隊指揮官ケンプェが「マキ」の捕虜になった.
   連隊長シュタトラーは、仲介者を通じて、フランス側の捕虜に
   身代金を幾らか付けて交換しようと提案したが「マキ」に拒絶
   された.(ちなみに、ケンプェは作戦開始翌日に殺害)
 2. 別の突撃連隊下級指揮官ゲルラッハは、Oradour-sur-Glaneが
   「マキ」の活動拠点であることを報告したが、同じLimoges地方
   には、Oradourと言う地名の場所がもう一ヶ所あり、村の構造は
   いずれもよく似ていた.
 3. 連隊本部には、1944年6月10日に別の村の方で上級将校が1名処刑
   されたようだと言う報告があった.

 さて、シュタトラーは、第一大隊長ディークマンに、仲間のケンプェを捜索、これを救出すべしと命じ、救出できなければケンプェとの交換取引のため、出来るだけ多くの人質を取れと指示します.

 しかし、6月10日午前、第三中隊の将校たちと行なった協議で、ディークマンは、Oradour-sur-Glaneを「焼き払い、乳飲み子から老人まで一人残らず抹殺せよ」と命令し、14時頃、第三中隊はOradour-sur-Glaneを無抵抗で占領、住民は村の広場に集められ、抵抗したものは射殺します.
 そして、村長に30名の人質を出すように命令したが、村長は拒否し、代わりに自分と息子が人質となることを申し出ますが、ディークマンはこれを拒否し、男たちは車庫や納屋に連れ込まれ、カーン中隊長の合図で全員射殺、女性と子供たちは、村の教会に閉じこめ、爆薬と手榴弾で火を付けました.

 作戦は21時に終了し、窓から逃げた女性1名と、死んだふりをした男性数名が生き延びただけでした.

 ちなみに、ディークマンは、その大量虐殺直後にNormandyの戦闘で死亡.
 一説には、人質だけ取れとの命令に不服従だということで軍法会議に掛けられることになり、自殺したと言います.

 以上、世界戦争犯罪事典P.573〜575より抜粋.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
ドイツ戦車兵A「奴ら,もう勝った気でいやがるぜ」
ドイツ戦車兵B「よし,教育してやろう」

 これの元ネタは何ですか?

 【回答】
 1944年6月12日,ノルマンディのヴィレル・ボカージュでの戦闘において,SS第101戦車大隊のエースであるミヒャエル・ヴィットマンSS大尉が,砲手のバルタザール・ヴォルSS軍曹と交わしたとされる会話.前半がヴォル,後半がヴィットマン.
 この戦闘で,ノルマンディの要衝であったカーン後方に回りこもうとしたイギリスの機甲旅団が壊滅し,連合軍のノルマンディ攻略に大きな狂いが生じた.
 ヴィットマンはこの時,自車のみで英軍部隊の縦列に突進し,不意をついて十数両の戦車と兵員輸送車多数を撃破したとされている.
 上記のセリフはその縦列を確認した時のものとされている.

 その後ヴィットマンはヴィレル・ボカージュ市街に突入し,さらに戦果を挙げるが,対戦車砲により撃破された.
 しかし乗員全員と共に脱出に成功し,生還した.

 なお国防軍発表ではその後,再出撃し,市街に突入していた部隊と共に残敵の掃討を行ったとされているが,最近の研究ではそうではなかったらしいことが明らかになってきている.
 この戦闘によってヴィットマンは全軍71人目の剣柏葉付騎士十字章を授与され,その後8月9日の戦闘で戦車撃破総数138両以上のスコアを残して戦死している.


 【質問】
 「バンド・オブ・ブラザーズ」とはどういう意味ですか?

 【回答】
 「バンド・オブ・ブラザース」はシェークスピアの戯曲「ヘンリー五世」の,以下の台詞に出てくるもの.

We few, we happy few, we band of brothers;
For he to-day that sheds his blood with me
Shall be my brother; be he ne'er so vile,
This day shall gentle his condition;
And gentlemen in England now-a-bed
Shall think themselves accurs'd they were not here,
And hold their manhoods cheap whiles any speaks
That fought with us upon Saint Crispin's day.

 この台詞は,戦友愛と兵士の誇りを謳ったものとして有名で,「史上最大の作戦」の原作にも,ノルマンディ上陸部隊のある将校が,これを部下に語って聞かせたという話が出てくる.
 「ブラックホーク・ダウン」の原作でも,戦死した戦友の葬式で,これが読み上げられるくだりがある.


 【質問】
 「バンドオブブラザース」のE中隊って何で有名なの?

 【回答】
 E中隊だけが突出して特に有名なわけではない.

 事の始まりは,Dデイについての話を書きたいと希望していた原作者のスティーブン・アンブローズが,E中隊の同窓会に参加する機会を得たことから.
 彼はそこで,隊員達の思い出話を聞くことができた.
 その内容が非常に興味深かったので,さらにインタビューを重ね,E中隊を視点を当てた,欧州における米軍の戦いを書くことにした.
 それが「バンドオブブラザース」となった.
 他の空挺部隊の話は,コーネリアス・ライアンの「史上最大の作戦」や「遠すぎた橋」などでも述べられている.

「バンド・オブ・ブラザーズ」

……うむ,「うそ」ではないな


 【質問】
 連合軍のノルマンディー上陸後,パ・ド・カレーの要塞群はどうなったのですか?

 【回答】
http://www.civilization.ca/cwm/disp/dis003_e.html
によれば,ドーバーを扼する沿岸砲台として建設されたパ・ド・カレーの要塞群は,陸上伝いの攻撃に対して充分な防備がなされていなかった.
 ノルマンディのドイツ軍が突破された後,士気の低下などもあり,44年9月にカナダ第1軍の攻撃によってかなりあっさりと陥落しているとのこと.


◆◆◆アルンヘム強襲作戦以降


 【質問】
 『遠すぎた橋』のDVD見てて思ったんですが,マーケットガーデン作戦,誰か実施前に止める高級指揮官いなかったんでしょうか?
 後知恵かもしれませんが,いくら空挺部隊で橋を確保してるとはいえ,ドイツ軍の防御線に次々ぶつかって,すごく非効率に見えるんですが.

 【回答】
 あの地域にはドイツ軍の部隊は,後方支援部隊か敗走して再編成中の部隊しかいない”はず”だったので.

 原作の「遙かなる橋」(早川文庫)を読めばわかりますが,実施前に反対論を唱えた各級指揮官や参謀も何人かいた.
 しかしそもそも,英軍の欧州派遣軍総司令官であるモントゴメリーが
「このままだとアメリカに功績を全部持っていかれる」
と強引に推し進めた作戦なので,止められる人がいなかった.

 アメリカ軍は
「そんなにやりたきゃやれば.
 でもうちらは最低限の協力しかしないよ?」
ということにしたので,止めるにしろ実行するにしろ,半分どうでもいい感じだった.

 次々に強力な抵抗にぶつかっているように見えるのは,作戦推進派にしてみれば結果論.
 作戦開始まで,あれほど強力なドイツ軍部隊が作戦予定地にいるとはわからなかった.

 ただし,反対派の中に,ドイツ軍がこの地域に展開している兆候があると主張した人物は複数存在した.
 結局は推進派に押し切られてしまったが.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 マーケットガーデン作戦は連合軍の敗北に終わったと聞きますが、ドイツ軍側の被害はどれくらいだったのでしょう?

 【回答】
 高橋慶史の「ラスト・オブ・カンプグルッペ」によれば、アルンヘム戦でのドイツ軍の死傷者数は2,565、3,300または5,175名と記録により異なるとのこと.
 うち約1,000名がSS第9装甲師団「ホーエンシュタウフェン」の将兵と思われるとある.
 連合軍側の損害は、1万6千名前後.

 この作戦が失敗と言われている理由は、損害の過多では無く、作戦目標(ルール工業地帯への突破とアントワープを補給港として使用する為のアルンヘムの確保)が達成出来なかったからですので,念のため.
 素人さんがよく誤解されている事なのですが(ゴーマニズムの人とか)、作戦の成功、失敗は損害の大小では無く、目標を達成出来たか、です.
 東部戦線では、ソ連軍の方が損害が大きいドイツ軍の負け戦なんて、ゴロゴロしています.

 【関連動画】
「ワレYouTube発見セリ」:Beginnings of Operation Market Garden


 【質問】
 Robert Henry Cainとは?

 【回答】
 あのイギリスのお馬鹿番組「TopGear」の司会者ジェレミー・クラークソン
【Top Gear】Series12 Episode6 5/5 (字幕)
ですが,彼の義父,マーケット・ガーデン作戦でのグライダー部隊将校で,ドイツ戦車をPIATで撃破しまくり,見事ヴィクトリア十字勲章を授与された Robert Henry Cain少佐です.

Major Robert Henry Cain
http://www.war44.com/forum/war-hero-s-their-stories/754-major-robert-henry-cain.html

Robert Henry Cain
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Henry_Cain

――――――
Family

His daughter, Frances Catherine Cain, is the agent for and is married to British television & motoring journalist Jeremy Clarkson who presented a documentary on him and other VC winners. The young Ms Cain remained unaware of her father's VC until after he died. Apparently he had never thought to mention it.
――――――

 ジェレミー・クラークソンのwikiでも

――――――
Jeremy Clarkson

Military interests
Clarkson presented a programme looking at recipients of the Victoria Cross, in particular focusing on his father-in-law, Robert Henry Cain, who received a VC for actions during Operation Market Garden at Arnhem in World War II.

(father-in-law=義父 )
――――――

 いやぁー,世の中恐ろしいものですね.
 義父が軍事界では超有名人とは・・・誰が予想したでしょうか?

Robert Henry Cain少佐


ヴィクトリア十字勲章

CRS@空挺軍 in mixi,2008年12月19日13:51
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アルンヘムに降下した英第1空挺師団は,結局どうなったのか?

 【回答】
 アルンヘムを占領しようとした英第一空挺師団の主力は,44年9月17日,アルンヘム北西のオーステルベークに降下.
 その後,再編中のホーエンシュタウフェン師団他からなる雑多なドイツ軍戦闘団群に包囲され,アルンヘムへの前進を阻まれた.
 9月26日夜,その5日前に対岸に降下したポーランド第一空挺旅団の支援を受け,ネーダー川を渡河して撤退した.
 第一空挺師団の内,フロスト中佐の指揮する第一パラシュート大隊がアルンヘムに到達し,アルンヘム橋を望む地域の占拠に成功した.
 9月18日には橋の強行突破を図ったグレープナー戦闘団を攻撃し,指揮官のグレープナーSS大尉を戦死させるなど大損害を与え,撃退に成功した.
 しかし,その後完全に包囲され,師団主力から孤立,9月20日には大半が捕虜となった.
 第一空挺師団の損害は,降下部隊10,005名中撤退に成功したのは2,163名.
 その他は戦死もしくは捕虜となった.

 以上,高橋慶史著「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」(大日本絵画)より抜粋.


 【質問】
 米軍がアルデンヌの戦い序盤で大混乱に陥った要因は?

 【回答】
 山崎雅弘によれば,米陸軍情報部の失態,つまり
「兵力集中,補給物資の集積など前線からの状況証拠の分析から,第一軍司令部情報参謀が
『独軍が攻勢を準備中』
と報告していたのに,情報部の独軍上級司令部の通信を傍受する『ウルトラ情報』に依存しすぎていた為に,この報告に疑問を呈し,戦線強化を行わなかった」
とされています.
(独軍は命令伝達を暗号通信ではなく,将校による命令書の運搬によって行っていた)
 結論部分で米軍の傾向として,総合的な合理主義が戦争遂行上の経験不足を補っているが,その反面としてパターンの多用から想定街の事態に有効な対応策を見いだせず,弱点を更に深める危険性もある,と指摘.
 現代の事例として,人件費節約という「合理主義的な観点」から公開情報の分析部門を縮小し,コストのかからない電子情報への過度の依存に陥りつつある各国情報機関の問題をあげています.

 詳しくは『歴史群像』No.87(学研)を参照してください.

グンジ in mixi,2008年01月26日16:02


 【質問】
 もし連合軍航空機による打撃/阻止がなかったら,ドイツ軍のバルジ作戦は成功したでしょうか?

 【回答】
 航空支援のあるなしはあまり関係がない.

 アルデンヌ攻勢は悪天候で連合軍側が航空支援が出来ないのにつけこんで開始されたものから,たとえ独軍側に驚異の対空兵器があっても戦況は変わらない.

 攻勢が失敗したのは,補給線が伸び切るより先に攻勢終着点に辿りつけなかったからで,それはアメリカ軍の各部隊が1940年のフランス軍とは違い,包囲され孤立しながらも抵抗し続けたから.
 1940年当時の英仏軍と違い,無線で離れている部隊同士が連絡し合え,総司令部からの的確な指示が得られる1944年の連合軍の状況では,高速進撃により敵軍を分断し孤立させてその隙に後方の総司令部を突く,という電撃戦術が通用しなかった.
 ドイツ軍の装備している戦車は,1940年のものよりずっと重武装重装甲になった代わり,機動性が激しく低くなっていたから尚更.


(画像掲示板より引用,元出典不明)


 【質問】
 バルジ作戦の時,米兵に化けたドイツ兵は,なんで正体を見破られたの?

 【回答】
 「バンド・オブ・ブラザース」スティーブン・アンブローズ(並木書房)では……

第32騎兵隊 某軍曹「…おかしい,おい止まれ!」(分隊員は銃を構える)
SS特殊部隊「なんだー」
第32騎兵隊 某軍曹「官姓名 所属を述べよー」
SS特殊部隊「○○中尉 第18騎兵大隊E中隊だ」
第32騎兵隊 某軍曹「撃て」

第32騎兵隊 分隊員「うわ,こいつら中身はフリッツだ」(死体ひっくり返しながら)
第32騎兵隊 分隊員「なんで解ったんですか軍曹」
第32騎兵隊 某軍曹「こいつの靴がな,それと…」
        「騎兵大隊の下には中隊はない,隊だけなのさ」
        「騎兵隊員が自走砲に跨乗しているのはありうるが,編成を間違える中尉はいないよ」

 一方,「ヨーロッパで最も危険な男」では,靴を怪しまれたことに気づいたか,訊かれもしないのに手を振って「E中隊だ」と叫んだ,ということになっている(笑)

軍事板,2009/05/19(火)
青文字:加筆改修部分

すぐにバレそうな変装の例

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ジーノ・メルリとは?

 【回答】
 デーヴ・グロスマンの『「戦争」の心理学』,p.223〜224によれば,第二次世界大戦の9月の長い一夜,ベルギーのブリエールで1500人のドイツ軍を,たった一人で食い止めた男.

 1944年の夜,彼は仲間とふたりでアメリカ軍の退却を援護する任務を与えられた.
 ドイツ軍の攻撃は凄まじく,仲間はあっさりと戦死してしまう.

 そしてドイツ兵が近づいてきたときに,メルリはとっさに死んだふりをした.
 彼は仲間の血を全身に浴びていたので,向こうは簡単に騙されて,その場から離れていった.
 そういて十分距離が離れたところを見計らって,彼は機関銃に近づいて掃射を開始し,敵兵をなぎ倒した.

 一晩中ドイツ軍は偵察隊を送り込み,状況確認をさせたが,そのたびにメルリは死んだふりを繰り返しては,機関銃で掃射した.
 時には銃剣でひっくり返されたこともあったが,彼はぴくりとも動かなかった.
 こうしてその夜のうちに,52人のドイツ兵が死んだ.

CRS@空挺軍 in mixi,2008年12月10日20:01


 【質問】
 アルバ共和国って何?

 【回答】
 アルバ共和国 Republic of Alba / Repubblica di Alba は,エンリコ・マルティーニ Enrico Martini 率いる反ファシズム・パルチザン「ガルバルディ」「正義と自由」旅団によって,北イタリア・ピエモンテの都市,アルバに作られた自治共和国.
 その国名は,ナポレオン戦争中(1796年〜1801年),同じ場所に存在した共和国の名にちなんで命名された.
 パルチザンのこのアルバ解放は殆ど無血占領だったものの,これに対し,ムッソリーニ派のイタリア共和国(RSI)軍はアルバ共和国を含む,ビエモンテ山岳地帯のパルチザンを掃討するアルバ作戦を開始.
 ドイツ軍第81SS擲弾兵連隊,RSI軍フォルゴーレ空挺師団,デチマ・マス師団の「フルミネ」「ルポ」「コレオーニ」大隊,治安部隊「黒い旅団」,ファシスト党系義勇軍である共和国防衛軍(GNR)の「レオネッサ装甲部隊」などを投入して,パルチザン側に戦死者9千名,武装解除8万名という損害を与え,アルバ共和国もまた壊滅した.
 よって同共和国は,1944年10月10日〜11月2日の23日間存在しただけで儚(はかな)くも終わったが,しかしこの勇敢な歴史は,今でもアルベージ(アルバの人々のこと)の自慢として語られているという.

 【参考ページ】
http://www.donodelsole.com/outline.html
『Avanti Camerati!』(同人誌),p.6-7
http://en.wikipedia.org/wiki/Republic_of_Alba_(1944)
http://it.wikipedia.org/wiki/Repubblica_di_Alba_(1944)

【ぐんじさんぎょう】,2009/5/26 22:40
に加筆


http://www.photohighway.co.jp/ImageAlbum.asp?key=602.258481&src=5174609&un=97071&m=2&pos0=1&type=1
Folgore-17

 '45年初頭,仏国境側に於けるフォルゴーレ空挺連隊の兵士達.
 全員ドイツ軍の防寒服(左端はウォーターパター ン・アノラック,右3名は3ポヶ山岳パーカー上下)を着用している為,かろうじてバスコ(ベレー)と同連隊の空挺ベルトバックルで確認できます.


http://www.photohighway.co.jp/ImageAlbum.asp?key=602.258481&src=5130119&un=97071&m=2&pos0=1&type=1
Decima MAS-2

 デチマ・マス部隊独特の迷彩スモック上下の良く判る一枚.
 記章類も全て取り付けて迷彩ファティーグとして戦闘時に着用しています.
 左胸のポケット上にフルミネ大隊第3中隊“フランス人義勇中隊”の六角形の部隊章が見受けられる.
 その下の髑髏の記章はPXで購入したものと本人より聞く.
 これは前の水兵服写真と同一人物で'44年10月アルバ作戦時頃の撮影.
 半年の違いで顔だちがまるで違っているのが,歴戦の激しさを物語っている.


http://www.photohighway.co.jp/ImageAlbum.asp?key=602.258481&src=12130295&un=97071&m=2&pos0=1&type=1
Decima MAS-6

 '44年10月ピエモンテ山岳地帯で行われた大規模な対パルチザン掃討作戦,アルバ作戦に出動するフルミネ大隊の兵士達と車輛群.
 同大隊はモ−タライズ化が進んでおり,車列奥には一品物の大型装甲トラックも確認できる.
 兵士達が被る,迷彩ペイントが施されたヘルメットも良く判る.

よしぞう maro'


 【質問】
 旧ドイツ海軍の「シャルンホルスト師団」ってなんですか?
 英文の文献で見たのですが,検索しても出てきません
 戦艦のことではなく,なんかの陸戦隊?の名称らしいのですが.

 【回答】
 歩兵師団「シャルンホルスト」は1945年3月30日にデッサウで士官学校生徒や壊滅した師団残余などから編成された師団.
 ソ連軍と戦い,5月2日に米軍に降伏した.
 これとはべつに海軍歩兵大隊「シャルンホルスト」というのが存在していたらしいので,それと混同されてるのかもしれない.

 なお戦争末期,水上作戦がほぼ不可能になったドイツ海軍はデーニッツの命令により余剰人員からなる海軍歩兵部隊の編成を始めた.
 1945年1月〜4月にこれらの部隊から5つの海軍歩兵師団(第1〜3,第11,第16)が編成された.
 第1〜3はドイツ本国で編成され兵員は1万名前後で,第1,第3はソ連軍と,第2は英軍と戦っている.
 第11,第16はオランダで沿岸警備部隊を寄せ集めて編成したもので実質連隊規模でほとんど戦闘を経験せぬまま終戦を迎えた.
 以上海軍歩兵師団については「ラストオブ・カンプグルッペ」より.


 【質問】
 ミヒャエル・ヴィットマンとその部下の搭乗員が戦死した際に仮埋葬され…40年後に遺骨が発見されたという一連の事実に関して質問します.
(1)誰が彼らの遺体を残骸から発見し埋葬したのですか?
(2)仮埋葬の場所は記録に残してなかったのですか?
(3)戦後発見するまでにだいぶ時間が掛かってますがなぜですか?
(4)遺骨が発見されたのは工事中「偶然」だったのですか?
(5)発見された遺骨は再埋葬されるまでの間にどのような鑑定を受けたのですか?
 以上回答お願いします.

 【回答】
1)
 戦場の遺体は伝染病などの原因となるので,戦闘終了後にできるだけ早く埋葬する事が多い.
 その場合,そういった業務専門の部隊や懲罰を受けた兵士,捕虜などを使って行われる.

2)
 ヴィットマンの埋葬場所についての記述ではunmarked tombとなっているので,墓標などを立てずにそのまま埋葬したものと思われる.
 戦闘の合間にだから,記録をとられたとしても曖昧なものだろうし,
 数年も経てば風景も変わるので,ますますわからなくなる.
 写真では,ヴィットマンの007号車は砲塔が吹き飛ぶほどの爆発を起こしているので,遺体の身元の確認も難しかっただろう.

3)
 そういう状況でどこの誰ともわからない,どこにあるかも正確にはわからない遺体をわざわざ捜す手間はかけられない.

4)
 うろ覚えだが,フランス人の戦史研究家が当時の住民の証言などからあたりをつけ,工事に便乗して発掘調査を行ったという経過だったと思う.

5)
 ヴィットマンについては歯型から,他の一名については認識票から身元が確認された.

 以上推測も含むが,大体こういうことだろうと思う.
 ヴィットマンが最後に乗っていたのが007号車だというのも,分かったのは戦後かなりたってから.


 【質問】
 WW2末期,進撃する米ソ両軍がエルベ川で出会い,平和を誓ったとされる「エルベの誓い」に関してですが,このとき出会った双方の部隊名について教えてください.

 【回答】
 アメリカ軍第69歩兵師団と,ソビエト軍第58狙撃兵師団.

 4月25日,米69歩兵師団の斥候が複数の箇所でソ連軍と接触.
 翌26日に,米69歩兵師団長Reihard少将とソ第58親衛狙撃兵師団長Russakow少将が接見.

以下ご参考
http://www.torgau.eu/p/d2.asp?artikel_id=1170&liste=&tmpl_typ=Detail&l=1
http://www.archives.gov/exhibits/a_people_at_war/war_is_over/articles_war_is_over/map_american_russian_linkup.html
http://www.archives.gov/exhibits/a_people_at_war/war_is_over/articles_war_is_over/morning_report.html

軍事板


 【質問】
 『最期の100日』とは如何様なのもなのでありますか?

 【回答】
 WW2欧州戦線の最期の100日を個人単位のエピソードと全体の流れを絡めつつ,英米連合軍,独軍,ソ連軍から立体的に描く作品です.
 ハヤカワ文庫から上下巻で出ていました.

 ちなみに下記がハヤカワ文庫の西部戦線黄金コンボ(笑)
「グリーンビーチ」→「史上最大の作戦」→「遥かなる橋」→「バルジ大作戦」→「最期の100日」

 東部戦線は下記(笑)
「燃える東部戦線」→「攻防900日」→「ヒトラー最期の戦闘」

 ハヤカワ東部戦線,薄いなぁ…
 欧州海戦は海上,海中ともに充実してるのに…

Lans ◆xHvvunznRc in 軍事板,2009/07/19(日)
青文字:加筆改修部分


◆◆◆戦後


 【質問】
 大戦終了後,ヨーロッパで埋められたままの地雷は誰が処分したのでしょうか?

 【回答】
 Denmarkと北海沿岸諸国の場合,大戦中に埋設された150〜200万発の対人,対戦車地雷の除去を,英国軍の指令によって,各国の黙認の下,武装解除されたドイツ軍によって除去作業が行われました.

 Denmarkでは,1945年5月10日から10月1日に掛けて,Denmark軍将校と憲兵の監視下で,地雷に関する教育も行われず,性能の悪い地雷探知機しか与えられない状況で,徒歩で地雷原に送り出され,誤って地雷に触れた者は,爆死か重傷を負っています.
 1945年11月1日の報告書では,死者250名,重傷250名に上っています.

 Franceでは,全土で1,000万発の地雷除去を,ドイツ兵捕虜を使役して行いました.
 従事した捕虜は4万人で,これに鉄棒と短剣を与えただけで,除去をやらせました.
 死亡事故は当初2,000件,死亡率40%でしたが,暫くすると4%に低下しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 WW2でのバルジの戦いのときに連合国に破壊工作したスコルツェニー中佐ってどうなりましたか?

 【回答】
 戦後ニュールンベルク裁判でアルデンヌでのグライフ作戦の件で告訴されたけど,同業者のイギリス軍中佐の
「いや,同じこと連合軍でもやってたから」
という証言があったりして無罪に.
 その後の非ナチ化裁判の審理中,ナンセン旅券でスペインに亡命.
 その地で起業して実業家として成功し,恵まれた後半生を送りましたとさ.

 その他,右翼の大物として世界各国の反共運動やネオ・ファシズムに関与し,CIAやモサドとも繋がりがあったという話もある.

軍事板

スコルツィニー


 【質問】
 ヨハヒム・パイパーはなぜ戦後おフランスで暮らしたんですか?

 【回答】
 パイパーは出獄後,自動車会社の技術文書の翻訳で生計を立てていたんだが,労組から経営者に抗議が出て失職することが度々あった.
 それでいい加減ドイツに住み続けるのがいやになったところで,先に移住していた元戦友の誘いでその隣家を買ってフランスに住むようになった.
 フランスに住むに当たってはフランス政府の許可は得ており,翻訳業をそのまま続けていたそうだ.

 しばらくは平穏に暮らしていたが,フランスの新聞にパイパーがフランスに住んでいることが掲載されたことがきっかけとなって,脅迫状が届くようになった.
 家族を家から出して,隣家の友人に銃を借りた1976/7/13の晩,極左と思われるテロリストの襲撃を受け,翌日炎上した家の焼け跡から遺体が発見された.

 パイパーのように,元SSであったために戦後不遇な人生を送った人は多い.
 故郷の町長になったバルクマンや,家業の農園業を継いで地域の名士となったニコルッシ=レック(どちらもまだ存命)みたいな幸運な人もいるけど.

(軍事板)

 パイパーの死は,
「ヨーヘン・パイパー,フランスの極左テロにより殺される」
という僅か数行の記事として,14年前,雑誌に掲載されただけである.
 私はまだパイパーは生きていると確信している.確信している.
 なぜなら……

(小林源文著「炎の騎士」,学研,2004/2, 最終ページ)


 【質問】
 エルンスト・バルクマンとマックス・ベンシェは戦後どんな人生を歩みましたか?

 【回答】
 バルクマンはバルクマンは戦後故郷に帰り,エルンスト・シュムック・バルクマンと改名,その町の消防団長と後に町長を勤め,その後,最近になって他の元町長と共にKisdorfの名誉町長職に任じられる.
 今も健在.
http://www.geocities.com/alkantolga/

 マックス・ヴュンシェは1948年に釈放された後に,ヴッパータール(Wuppertal)の工業製品の会社でマネージャー(社長?)として名声を馳せ,1995年4月17日に80歳の人生を全うした,と言うことらしいです.
http://www.ritterkreuztraeger-1939-45.de/Waffen-SS/Wuensche-Max.htm

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE

 バルクマンについて付け加えると,彼の故郷Kisdorfの消防団のHPの年表に消防団の制服を着た写真がある.
 また,現在は引退したようだが,CSU/CDUの地方支部の幹部を勤めるなど,町の名士としての穏やかな生活を送っているようだ.


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