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◆航空関連
欧州戦域・目次
<第二次大戦FAQ


◆◆Link


Black Cross/Red Star(東部戦線航空戦)

The Luftwaffe, 1933-45

World War II Guide to Air Power(英語)

WWIIフランス空軍の記録

アークEFI航空情報センター(総合)

『図説ドイツ空軍全史』(学研,2007.6)

「ワレYouTube発見セリ」:Finland Air Forces Bomb`s Russian World War II

「ワレYouTube発見セリ」:RAF 1

「ワレYouTube発見セリ」:Soviet Air Force 1935

「ワレYouTube発見セリ」:The Battle of Britain


◆◆総記・組織


 【質問】
 各国ではパイロットをどう増強したの?

 【回答】
 米陸軍航空隊は,大戦開始時に保有機21,500機に対し,操縦士30,000名.1944年には73,000余機まで保有機は増えています.
 米海軍航空隊は,大戦開始時で,保有機5,233機,操縦士5,900名です.
 大戦終結時には,この保有機が58,000機に達しています.
 こうした拡大に従って,操縦士養成も拡大しています.
 特に旅客機操縦士は基より,農業機パイロット,大学生など民間にいる軽飛行機の操縦士を徴募することで,急速に養成が可能となっている訳です.

 英国の場合,空軍の第一線機は開戦時で全世界に1,911機(全保有機2,600機,ちなみにドイツは4,161機)でした.
 操縦士不足はBattle of Britainがピークで,1940年6月5日の時点で,第一線機466機,操縦士の定数1,456名に対し,6月15日の時点で1,094名しかいませんでした.
 このため増強に努め,253名を他機種などから促成教育し,56名が海軍から移籍しています.
 大戦終結時には,全保有機9,200機,搭乗員(操縦士だけではないですが)193,313名に上っています.
 英国海軍は大戦開始時,第一線機232機でしたが,終了時はその20倍の機体を保有しています.

 英国の場合は,1936年から養成プログラムの拡充に着手し,元来から有る英国,エジプト,カナダの育成部隊に加え,豪州,ニュージーランドが加わり,1939年から南ローデシア,ケニアでも育成が開始されました.
 これにより,1942年半ばには,年間11,000名の操縦士,17,000名の搭乗員が養成可能となっていました.

 ソ連は欧州に13,000機,極東に2,000機,海軍機700機で,終戦時には欧州の第一線機だけで7,500機以上に達しています.
 ソ連は極東から回す他,元来,学生航空などの団体や民間,農業用の機体の操縦士を回すことが出来ています.(ちなみに,ソ連邦英雄の数は2,420名)

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

育成中のパイロット達と,その教官


 【質問】
 日本の特攻隊のように,正規軍による自爆攻撃を作戦として取り入れていたり,計画していた国はあったのでしょうか?

 【回答】
 あったが,その大部分はパイロットの死を前提にしたものではなかった.

 英語にはrammingという言葉がある.
 ramは衝角.
 つまりrammingとは,海軍で言うところの衝角戦法だが,英語版ウィキペディアによれば,この言葉は海軍のみならず,戦車戦,空戦でも使われる.
 衝突戦法とでも訳すべきか.
 ただしこれが日本の特攻と異なるのは,パイロットの死を前提としたものではなく,たとえ現実には困難であった場合でも,パイロットが帰還することを作戦の前提にしていた.

 さて,同ウィキペディアによれば,rammingが空戦で最初に使われたのは,第一次大戦も初期の1914/9/8,ロシア軍パイロット Pyotr Nesterovが,オーストリア軍機相手に行ったのが最初だとされる.

 そして第2次大戦の最初のrammingは,1939/9/1,ポーランド軍パイロットの Leopold Pamulaがワルシャワ近郊のL^omiankiで実行したものだとされる.

 また,独ソ戦勃発後間もなくの東部戦線でも,ソ連空軍パイロットがドイツ軍機相手に「taran attack (taranはロシア語でのrammingの呼び名)を仕掛けており,パイロットが重傷を負ったり,機体が大破した時などには,日本の特攻同然の体当たりが敢行されたという.

 ウィキペディアの記述だけでは,タラン戦法が本当にあったのかどうか疑いの残るところだが,事実,タラン戦法を敢行するパイロットを称えるソ連のプロパガンダ・ポスターも残っている.


「TARAN attack is the weapon of heroes! Glory to Stalin's falcons - terror to fascist vultures.」

 また,taranをやられて戦死した,ドイツ空軍のエース・パイロットもいる.

http://www.luftwaffe.cz/schellmann.html
によれば,以下の通り.

Schellmann led JG 27 for Operation Barbarossa, the invasion of Russia. On 22 June 1941, he was a victim of a “taran” attack made by a Russian I-16 fighter in the vicinity of Kamenki, near Grodno in Russia.

 さらに,『ソビエト航空戦』(飯山幸伸著,光人社NF文庫,2003.10)の250ページにも,タラン戦法について4行ほど記述があります.
 以下引用.

 九月三十日にはモスクワ占領を目的とする「タイフン作戦」が発動され,十二月上旬までモスクワを巡る激しい戦いにはいった.
 なお,モスクワに対する夜間爆撃作戦は七月二十一日〜二十二日に開始されていた.
 けれどもソ連軍は,国土防空軍の第六戦闘機軍団,対空砲兵部隊の第一防空軍団が並々ならぬ防空体制で守っていた.
(中略:ソ連軍の増強ぶり及び反撃について書かれています.
 迎撃戦でドイツ軍に多大な損害を与えたIL-2による攻撃,前線基地を長距離爆撃機で反復攻撃とか,意外と頑張ってるソ連軍.
 なんかドイツは負けるべくして負けたといわざるをえない感じです)
 しかしながら決死の防空戦だったので,ソ連空軍側も少なからぬ損害を被った.
 特に敵機に向かって体当たり攻撃を行なう「タラーン」は,日本軍の神風特別攻撃隊よりも三年早く実施された自殺攻撃となった.
 経験を積んでようやくドイツ軍機と渡り合えるようになった戦闘機乗りの多くが,一回の必死の戦闘で命を落としていった.
(この後は寒波襲来,ヒゲ伍長殿の死守命令などについて続きます.

 この本,「はじめに」でブリッツとミーティアといえば甥っ子はガンダム,叔父は軍用機と話がかみ合わない,なんて話が出てたりして微笑ましいです)

 よって,VVS(ソ連空軍)においてtaran戦法が実際にとられたことに,疑いの余地はない.

消印所沢
NaNaShi in FAQ BBS(青文字部分)

 一方,ドイツにおいても戦局が悪化すると,体当たり攻撃が計画・実行された.

 その経過

 1.1944年には対重爆用の強襲飛行隊で「弾が尽きたときには体当たりする」という宣誓が行われた.
 しかし実際に体当たりすることは希であり,またパラシュート降下が大前提であった.

 2."エルベ特別任務飛行隊"(写真・右)による大規模対重爆体当たり攻撃”ヴェールヴォルフ”が企画された.
 実行段階では,戦局の逼迫から少数機による実行に留まり,戦果は挙がらなかった.

 3.大戦末期,橋梁破壊のための特攻作戦"トータルアインザッツ(全面的献身)"が企画された.
 上の二つの計画とは異なり,対地攻撃の場合は乗員に脱出の機会は無く,日本における特攻作戦と同様に死亡が確実な計画だった.戦果は不明.

 【参考サイト】
「航空体当たり攻撃」( from 「SHO chan 元帥府」)
※写真引用元も同じ.

 他に,計画だけなら……以下の画像のようなものがあったとか.

V-1有人型Fi-103

(ただし,これは特攻用ではないという話もある)

米国の体当たり機計画TDR-1

軍事板他


 【質問】
 WW2において,なぜどこも空中給油を実用化しなかったのでしょうか.
 プロペラがあると邪魔になるのかと思いましたが,今日ではヘリへの空中給油も実際におこなわれています.
 また,初期の米軍ジェット機では翼端の燃料タンク先端に受油パイプをつけて,空中給油を受けたとも聞きますので,翼端部で燃料を受け取るようにすればプロペラが邪魔になるとも思えません.
 必要性がなかったのかとも考えましたが,航続距離・兵器搭載量を増やせるのは,現代戦でもWW2でも大きなメリットだと思われます.
 なぜできなかったのか(orしなかったのか),どなたかお教えいただけないでしょうか.

 【回答】
 給油機と受油機さえ用意すりゃいいってもんじゃないの.
 現在の空中給油は,航法やら情報伝達やら管制やらの技術の上に成立してる物.
 その中のどれ一つとして,WW2時代の航空機が持っているものはない.

 まず,給油機の配置をどうする?
 現代の空中給油はある意味,米軍の世界規模の展開能力に裏打ちされたもの.
 米軍であればこそ,適時適切に給油機を展開させられるし,それができる様に状況を構築するのが米軍の世界戦略.
 闇雲に給油機を飛ばせば航続力を伸ばせるという話ではない.

 それに,目視距離での空戦しか行なえないWW2時代の航空戦なら,給油機もそれなりに空戦場に接近しなきゃならん.
 索敵その他で安全が確立できないから,そんなものが空戦場付近をのたのた飛んでたら,敵機に襲われて火達磨だな(笑).

 さらに,「給油」で飛行時間が延びるのはいいとして,パイロットはどうするよ?
 自動操縦もGPSもTACANもレーダーもない時代に,航続距離だけ延ばしても仕方がないでしょうが.
 そもそも,空中でのコミュニケーションが無線しかない時代では,給油機と受油機がまともに会合できるかどうかもわからんし.

 給油機と受油機さえ用意すりゃいいってんなら,米軍が硫黄島を躍起になって攻略したり,「寄生虫戦闘機」なんてものを大真面目に計画したりはしません.



 【質問】
 『連合軍の小失敗研究』という本には,アメリカ軍は戦争前に空中給油の実験に成功し,いつでも実戦投入可能という結論を出したが戦争中は忘れていた,と書かれてましたが?

 【回答】
 空中給油の実験自体は,第1次世界大戦の頃に行われて,少量の実験では成功している.

 しかし大々的に可能だったかは,また別の問題.
 ガソリンって簡単に着火爆発する危険な物質なのよ.
 本格的な空中給油では,大量のガソリンを高い流入速度で送り込む必要があるから,摩擦で発生する静電気で爆発する危険が大きすぎる.
 ケロシンならその辺りは対処可能な程度に鈍感なので,空中給油が実用化できた.

 件の実験は
http://www.centennialofflight.gov/essay/Evolution_of_Technology/refueling/Tech22.htm
に詳しいが,ここで最初の「空中給油」として取り上げられているのは1921年.
 燃料缶を背負った男が翼越しに隣の機に乗り移って「給油」する方式.
 これなら燃料がガソリンであっても, その意味での「安全性」にはさほど問題はなかったと思う.

 上記サイトでは,安全確実に給油機と被給油機を結ぶシステムの完成に時間がかかり,二次大戦の間開発が停滞したとはあるが,ガソリンだから悪かった,ケロシン系ジェット燃料になったから実用化した,とは書いていない.

 その限りにおいては,「技術的に成熟していなかった」と言ったほうがいいのかもしれない.

軍事板


 【質問】
 第二次大戦中の欧州戦線を舞台にした小説を書いているんですけど,撃墜された航空機パイロットを救出する部隊が主人公なんです(規模は分隊).
 史実ではこのような部隊があったんでしょうか?

 【回答】
http://www.specialtactics.com/history.shtml
にありますが,米軍のpararescueの場合,1943年8月,中国とビルマ(ミャンマー)の国境でベイルアウトした輸送機の乗員を救出する作戦が行われたのが最初とされています.

http://en.wikipedia.org/wiki/Air_Force_Pararescue
には1922年から必要性が指摘されていたこと,二次大戦欧州戦線では,敵地への着陸はほとんど即時の拘束につながったため,pararescueの出番はほとんどなかったことが書かれています.
 このため,ジャングルの多い東南アジア戦線が主な活躍場所になったようです.
 砂漠や荒地の多いイラク,アフガニスタンでもCSAR(combat search and rescue)は活躍していたようです.
 ともあれ,上記Wikiによれば二次大戦中,第八空軍が「searescue」グループを結成したとありますので,史実で部隊は存在したわけです.
 もっとも,この場合は海に降りた乗員の救助だったわけですが.


 【質問】
 日本が(背伸びしたかどうかは置くとして)92オクタンを標準としたのに,より進んでそうなドイツやイタリアが87オクタンを常用してたのは,どういう事情からなんでしょうか?

 【回答】
 ドイツの場合,人造石油の水素添加の問題だからと言う話を何処かで聞いたような気がしましたが,これは不確かな話なので….

 元々,オクタン価を上げる技術は米国がリードしていました.
 これは,高温高圧下で水素添加して改質すると,加鉛効果が良くなってオクタン価を高めることが出来る,と言う技術で,この高温高圧を実現するための特殊鋼製造がイタリアでは難しかったこと,また,その技術は更に改良され,高温高圧の作業が少なく,と言うことはそれに耐えうる特殊鋼の使用量が少なくて済む,所謂フードリー法が開発されています.
 これらの特許は,米国が保有していた訳で,仮想敵国たるドイツやイタリアには輸出が為されなかったと言う ことになります.

 更に添加剤についても,英国では開発されていたものが,ドイツでは開発出来なかった,と.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

人造石油製造でノーベル化学賞を受賞したベルギウス


 【質問】
 日本軍やドイツ軍が大戦中にみたUFO話ってアレは,未確認の軍用機が正体なんですか?

 【回答】
 大概はテンパってて星や流れ星を見間違えたか,飛行機を見間違えたのだと考えられる.
 「ありえない動きをしていた」とかいうのは星がほとんどだろう.

 結構有名なエピソードとして,B-29の爆撃が始まると爆撃機の乗組員から,
「日本本土への行き帰りにずっと謎の飛行物体が着いて来る.
 日本の警戒機にしては航続距離が長すぎる・・・」
と言う報告が相次いだのでよく調べたら木星だったとかいう話が.

 逆に,敵機を発見したのに木星や火星だと思っていて,一方的に攻撃されて撃墜された,という話も.

 あと,有名な「エリア51」はアメリカ軍の試作機のテスト基地だったり
(だからここの周辺では「絶対そんな飛行気は存在しない」筈の飛行機が飛んでる)とか,
「UFOがよく目撃される」と言われる空域は”何故か”アメリカやソビエトのテスト空域と
被ってる,とかそういう話も.

 軍ヲタには有名な話だが一般胃はちっとも知られてない話として,有名な「ロズウェル事件」は核実験観測用の気球が不時着したもの.
 機密で正体を説明できないので,軍関係者が適当に誤魔化したら,「宇宙人の宇宙船だ」という話になってしまったものだ.

 あと,アメリカはナチスドイツの開発してた先進的な航空機を多数,本国に持ち帰ってテストした.
 戦後すぐにアメリカ本土で目撃された「UFO」は,これらがほとんどだと思われる.
 これもまた,機密で説明できないのを軍関係者が誤魔化したら,「宇宙人の(以下略」ということになってしまったものだ.

 ただ,「UFO」と言うものが有名になると,軍関係者はむしろ意図的に情報を混同させて機密保持を図ろうとした形跡が見られる.
 要は噂をうまく利用してたということだな.

軍事板


 【質問】
 第2次大戦時のアルゼンチンの航空戦力は?

 【回答】
 南米のArgentinaは最後まで,連合国に入るのを躊躇しました.
 この為,米国からは様々な圧力を受け続けた訳で,早くから連合国入りして航空機の供給を受けたBrazilに比べると,戦力的には劣っています.

 何しろ,主力戦闘機が1940年に国産化したCurtiss Hawk75戦闘機で,この型はM型と言う英仏に引き渡された引込脚型ではなく,全体的に簡易版で,脚も固定脚と言う代物.
 これが輸入で30機,国産で200機装備されましたが,隣国のP-40DやP-47Dに大分見劣りします.

 爆撃機は隣国がB-25やA-20に対し,1939年に輸入したMarin139Wが35機と言うお寒い状態です.

 このため,国産機の育成に力を入れ,1927年創立のFábrica Militar de Avionesで数々の機体が作られます.
 単発軽爆撃機として,1935年に,Wright CycloneSGR-1820F3を装備したI.Aè.MB2 Bombiが製作されますが,1939年には,Piper Cubに似た,陸軍用の直協偵察機I.Aè.A20 El Boyeroが試作されました.
 この機体は,大戦中は作られず1947年に150機が量産されています.

 次いで高等練習機としてI.Aè.DL21が試作されましたが,全金属製の為,大戦中の資材不足のArgentinaでは製作出来ず,1943年5月にこれを木製化したDL22が1944年に100機製作されました.
 これには国産のI.Aè.16空冷星形発動機を装備し,1945年にはMB2の後継として,英国のArmstrong Cheetah空冷発動機に換装して余剰馬力を増やし,7.7mm機銃2丁を翼内に装備し,爆弾架を取り付けた偵察・軽攻撃機DL22Cが120機生産されています.

 1945年8月11日には,15人乗りGliderで,Waco CG-4に類似したI.Aè.25 Mañqueが試作されます.
 構造には南洋杉を使い,機首部はヒンジ式で上部に上げることが出来ました.

更にMartin 139Wの代りに,Mosquitoを空冷化した様な形態のI.Aè.24 Calquinを設計し,1946年6月に初飛行した機体は,100機が量産され,配備されました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月19日


 【質問】
 アメリカの軍用機の国籍マークが,第二次大戦初期と中盤以降で異なるのはなぜですか?

初期はF2Aの塗装で多く見られる「丸の中に星」
中盤以降は今でも見られる「丸の中に星+帯」

になってるようですが.

 【回答】
 両サイドに線をつけるのは,ドイツ機との誤認を防ぐためです.
 遠方からだと,鉄十字の外側に描かれた,白い帯と,白い星の区別がつかないから.

 ごく初期には,星の中に赤い丸を描いていた時期もあります.
 これは,日本機の日の丸と見間違えやすいという理由から,まもなく廃止されています.


◆◆通史


 【質問】
 スペイン内戦については,ドイツと繋がりがあるためかナショナリスト側の情報は軍板内でもたまに目にするのですが,対する共和派についての情報が少ないようにも思います.
 航空戦において共和国軍の主力だった機種にはどんなものがあるのでしょうか?
 戦闘機ではI-15・16あたりしか知識にないのですが,爆撃機などもソ連が供与したのでしょうか.
 フランスなども共和派に積極的な武器などの援助をしたのか,お手数ですがご教授いただけると幸いです.

 【回答】
 共和国側の軍用機ですが,1936年3月の段階では,
主力戦闘機がFrance製のHispano-Nieuport 52,
主力軽爆撃機が,CASAでLicense生産したBreguet 19,
重爆撃機兼輸送機として,Fokker F.VII/3mが使用され,
海軍では,
CASAで生産された,Vickers Vildebeest雷撃機を主軸に,
飛行艇として,Savoia-Marchetti S.62戦闘飛行艇,
Dornier WalD-8飛行艇を使用していました.

 内戦勃発後,ナショナリスト側が捕獲したのは,
空軍機73機(+修理中17機),
海軍機5機,
練習機19機,
公用機2機,
民間航空(LAPE)2機,
その他民間機26機,

 共和国軍の手元に残ったのが,
空軍機118〜130機(+修理中15機),
海軍機87機,
練習機60機,
海軍練習機9機,
民間航空(LAPE)13〜14機,
Autogyro2機,
公用機6〜8機,
社用機13機,
その他民間機105〜107機になります.

 内戦初期,共和国が用いたのは,以下の機体です.

(空軍)
Boeing281(P-26の輸出型)1機,
CASA-Breguet19軽爆撃機60〜70機,
Cierva C.319/30Autogyro3機,
Dornier Wal飛行艇8機(他に5機が修理中),
Hawker Spanish Fury戦闘機(国産化果たせず)3機,
Hispano-Nieuport52戦闘機35機(他に10機修理中,10機未組立).

(海軍)
CASA-Vickers Vildebeest雷撃機27機(うち2機が水上機),
Cierva C.30AAutogyro2機,
Dornier Wal飛行艇8機,
Macchi M.18戦闘飛行艇10機,
Martinsyde F.4戦闘機9機,
Savoia-Marchetti S.62飛行艇30機.

 内戦中に各国から供給を受けたのは以下の機体.

Belgium
 Avia BH-33戦闘機×1(SABCA製),De Havilland D.H.89輸送機×1
Czecho-slovakia
  Aero A-101/Ab101軽爆撃機×25(47機発注),Letov S.231/331/431戦闘機×17〜21
  Letov S.328直協機×6(未確認)
Estonia
 Bristol Bulldog戦闘機×8〜11(最低8機),Potez25直協機×8
France
 Bloch MB200重爆撃機×1〜2,
 Bloch MB210重爆撃機×4〜7,
 Dewoitine D.27/53戦闘機×2〜3,
 Dewoitine D.370-01×1,
 Dewoitine D.371-01×1,
 Dewoitine D.371×10,
 Dewoitine D.372×13〜14,
 Dewoitine D.510TH×2(ヘジャズ(サウジ)向けの偽装輸出品),
 Gourdou-Lesuerre GL-32戦闘機×15〜20,
 Gourdou-Lesuerre GL-410/482戦闘機×2,
 Gourdou-Lesuerre GL-633戦闘機×6,
 Liore et Olivier 20/213夜間爆撃機×1〜2,
 Loire 46戦闘機×5〜6,
 Potez25直協機×5〜7,
 Potez540/542/544重爆撃機×18,
 Romano R.82/83×12(各6機)
Italy
 De Havilland D.H.89輸送機×1
Netherlands
 Fokker C.10直協機×1,
 Fokker D.21戦闘機×1(工場破壊で国産化断念),
 Koolhoven F.K.51戦闘機×22
Sweden
 Northrop 1C Delta連絡機×1,Sikorsky S-38B飛行艇×1
Swiss
 Douglas DC-2輸送機×1,Lockheed 9B連絡機×2
United Kingdom
 De Havilland D.H.84輸送機×4,
 De Havilland D.H.90輸送機×3,
 Douglas DC-1輸送機×1,
 Focke-Wolf Fw-56戦闘練習機×3(ItalyのEthiopia侵攻の際,英国人が購入して引き渡せなかったものを供給)
United States
 Grumman GE-23戦闘機(FF-1のCanada輸出型)×34,
 Seversky SEV-3戦闘機×1,
 Vultee V-1/V-1A輸送爆撃機×8
USSR
 I-15戦闘機×153,
 I-152戦闘機×30,
 I-16戦闘機×276,
 R-5直協機×31〜62機,
 R-Z襲撃機×93〜124機,
 SB-2M100A爆撃機×93〜108
他にSpain国産で,
 I-15の国産化型E-15Chato×237,
 I-16の国産化型E-16Moska×14
となっています.

(軽飛行機,練習機,民間輸送機でもマイナーなものは除いています)

 この内,ItalyのD.H.89は,I-DRAGと言う民間登録記号を持った歴とした民間輸送機でした.
 1936年8月にその機体は,Le Bourgetに置かれていまして,英国はCroydonのRollason Air Serviceと言う会社が購入し,Corniglion-MolinierによってBarcelonaまで空輸されたものです.
 内戦が勃発しなければ,このまま,Spainの民間航空会社LAPEに引き渡される予定だったりします.

 ちなみに,この機体は,ItalyによるEthiopia侵攻時に鹵獲されたもので,元はと言えばHaile Selasse皇帝の専用機でした.戦利品として,Italyに持ってこられたのが回り回ってSpainにやって来た訳で….

 でもって,この機体は,最終的にはBasqueで1937年4月に空爆で破壊されましたが,その前に,タキシング中,共和国軍に捕獲されたC.R.32に追突されて破壊されたりしています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)



(画像引用元:http://membres.lycos.fr/wings2/3vues/3vues.html


(画像引用元:http://www.geocities.com/CapeCanaveral/Hangar/2848/gallery.htm


 【質問】
 スペイン内戦でのゲルニカ爆撃は,民間人を狙った無差別虐殺
 それとも軍事的な目標を攻撃した際に市民が巻き込まれたんですか?

 【回答】
 ゲルニカは人民戦線派のバスク軍の重要な拠点でしたが,軍事的な目標といえるものはほとんどなく,当時は避難民とフランコ軍の攻勢により劣勢に立ったバスク軍の敗残兵が,多数流れ込んでいる状況でした.

 ゲルニカへの爆撃命令を下したのは,当時コンドル軍団参謀長のフォン・リヒトホーヘン中佐です.
 これはフランコ軍の北方戦線司令官モラ将軍の要請によるものでした.
 爆撃目標とされたのは,ゲルニカの町の東はずれにあるレンテリア橋です.
 ここはゲルニカ市内に入る道路の交差する要所で,ここを遮断すればバスク軍の撤退を阻害することになります.

 しかし,Ju52爆撃機を主力とするコンドル軍団の爆撃機には550ポンド爆弾のほかに多数の焼夷弾が搭載されており,目標は橋だけではなく明らかに都市そのものの爆撃を狙ったものでした.

 結論として,ゲルニカ爆撃は都市を焼き払うことでバスク軍の戦意喪失を狙った無差別爆撃といえると思います.
 皮肉なことにコンドル軍団の爆撃終了後も,レンテリア橋は健在でした.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板

 ちなみにこのフォン・リヒトホーヘン中佐は,レッドバロンの従兄弟.

軍事板


 【質問】
 ゲルニカは無防備都市だったのですか?

 【回答】
 ゲルニカが無防備都市宣言をしたという事実はありません.
 しかし,宣言と関係ない「無防備な都市」の意味で,「無防備都市」が爆撃された,という表現が多々使われており,このため「無防備都市宣言をした都市」と「無防備な都市」が混同されている傾向はあります.


 【質問】
 独ソ戦初期,航空兵力はどちらが上だったのでしょうか?
 ドイツ側が優勢だった場合,クレムリンの間近まで迫っていたのなら,クレムリンの建物や軍事施設を航空機で破壊することは出来なかったのでしょうか?

 【回答】
 数の上では圧倒的にソビエト軍が優勢だったが,スターリンの粛清でマトモな指揮官がいなくなってた上に,開戦初頭の混乱で命令系統がちゃんと機能してなかったので,ソビエト空軍の主力のほとんどは開戦初日に地上で撃破された.
 そのあまりにも一方的な戦果の報告書を見て,えらい人が
「・・・これはどう見ても誤認だろ? いくらなんでもこんな戦果が挙げられるものか」
と報告を信じなかったのは結構有名.

 モスクワは爆撃されたが,ドイツ空軍の主力は前線航空支援と後方の軍事基地や交通網の破壊に向けられていたので,都市爆撃は熱心には行われなかった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦時のソ連の航空機パイロットについて聞きたいのですが….
 あの航空機の大量濫造ぶりから考えると,かなり多人数のパイロットがいたと思うのですが,アメリカならともかく,軍に入隊する以前からパイロット職についていた人間がそれほど多い国とも思えません.
 ど素人が「戦闘機」に乗りたいと軍に志願しても,(素質テストみたいのはあるかもですが),簡単に配属できるような部署だったのでしょうか?
 パイロット技術を身につければ,戦後も民間機のパイロットとして働けるというのは甘いですか?

 【回答】
 民間には多数の飛行クラブがあり,また,農業の機械化という形で,農業機パイロットも多かった訳で,軍人以外にも多数の操縦経験者がいます.
 大体,Po-2だけで,1941年6月22日までに13,500機生産されているわけで.戦後,彼等のうち,生き残った者は軍用機パイロットとしてそのまま留まった者も居ますし,民間に戻っても,飛行クラブの教官とか,農業機のパイロットとか,職は色々ありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 さて,ソ連の空軍の基礎は,1920年代,ヴェルサイユ条約によって軍備を制限されたドイツ軍との秘密協定により,お互いのノウハウを提供しあって誕生したものです.
 民間航空部門であるアエロフロートもその前身が1923年に誕生し,1932年には正式に国営会社になりました.
 ですので,各国と比較しても,英仏米は別格として,軍民共に航空分野における人的資源の養成にそれほど立ち遅れたわけではないと言えるでしょう.

 もちろん,パイロットには,そうなるための適正が必要であり,その選抜にも恐らく抜かりはなかったでしょう.

 ところが,赤色空軍がダメダメになってしまう一大事件が起きます.
 そう…スターリンによる粛清の嵐です.

 当然,幹部クラスの空軍軍人も多数が粛清の嵐に巻き込まれますし,事故が起こったり,設計のミスが見つかれば,事故を起こした当事者や設計者など関係者が反政府分子に祭り上げられ,強制収容所送り….
 ま,そうした体質を話半分と見ても,パイロット養成やら,新鋭機の開発,航空戦術の発展にブレーキが掛かったのは否めないでしょう.

 ちなみに,国営企業時代のアエロフロートは戦時には,空軍の輸送部門に組み込まれました.
 戦闘機など小型機のパイロットはなかなかつぶしが利かないでしょうが,大型機の取り回しに慣れたパイロットなら,アエロフロートで採用された可能性が高かったと聞いています.

Central aeroclub, 1924


Same, the winter view.


 【質問】
 第二次大戦初期の空戦で独空軍は二機編隊で三機編隊の英仏空軍に勝利しましたが,なんで二機編隊のほうが有利なのか分かりやすく説明願います.

 【回答】
 レン・デイトンの「戦闘機」(早川文庫,1998.8)にイギリスの3機編隊がだめな理由と,ドイツの4機編隊(ドイツのは基本的に2機1組の編隊が2組まとまってる)が良い理由が書いてあったと思う.
 この本の内容がどこまで当を得たものなのかは俺にはわからんが.

 ドイツのは実戦から得られた教訓を基に作られたものだが,イギリスのは昔からそうしてたからというだけの形骸化したものだったらしい.
 今本が手元にないから正確じゃないけど,イギリス式の欠点は,
・3機がお互いに近すぎるので,編隊を組んで飛行するだけで無駄な労力を使う,
・僚機ばかりが気になって索敵の能率が悪くなる,
・いざ戦闘を始めたときに,3機のそれぞれが何をするのか不明確.
・あと相手からすると比較的見つけやすいというのも.

 ようするにイギリスのはWWIIの航空戦に対応してない,洗練されてないものだったと書かれていた.

軍事板

 3機構成の逆V型編隊だと,先頭の長機が最大能力の急旋回をやったときに編隊が崩れる,つぅ問題もあったようですね.
 たとえば左旋回すると,左後ろの僚機は長機より小さく回り込めないから右側に寄ってしまうし,右後ろの僚機は反対に左側に寄ってしまう.結果として,逆V型編隊のはずが縦一直線のトレイル編隊になってしまうと.
 2機編隊の場合,前後というより左右に広く展開する形をとるので,急旋回や反転では左右の位置関係を入れ替えることで編隊を維持しやすかった,ということのようです.

井上@Kojii in mixi支隊

 レン・デイトンの「戦闘機」の当該箇所をベタ打ちしておきますね.

 ……イギリス空軍の戦闘機パイロットは,その主流にしてかつ絶対的多数を占めている正規軍人はもとよりのこと,そうでない傍系出身の者にいたるまでことごとく,平時の観念から編み出されたにすぎないあの綿密なV字編隊を保って行動することこそ,空戦にとって価値ある戦技だということを,ただこれ唯一無二の金科玉条として教え込まれ,訓練され,墨守してきた者たちのみで構成されていた.
 だが緊密な編隊を組むということは,そのこと事態が一個編隊の列機全員の注意力をすべて隣接の僚機のみに必然的に集中させてしまうことになり,従って各個が自機の上下四周を見まわすという余裕がまったくなくなってしまうことを意味する.
 旧式の複葉戦闘機の時代だったら四周の警戒監視がおろそかになるという,この一大欠点を別とするなら,他にさしたる問題もなくてすんだろうけれども,新式で高速の単葉戦闘機の時代ともなると話は全く別になってしまい,新型戦闘機の複雑化した機能のために,パイロットは座席の計器板への注意を怠るわけにいかなくなり,緊密隊形保持のために隣接僚機に注意力を集中し続けることは非現実的となっていたのである.
 おまけに緊密なV字編隊は,その編隊を組んでいる相手の僚機の図体のためこちらからの視野のかなりの部分がさまたげられ,相当大きな死角が生じてしまうのであった.

(戦闘機下巻P32〜33)

 ……この二機一組というのが実はミソなのであって,三機一組のV字編隊は,三という数字は支柱の三本脚ならたしかに安定だろうけれども,人間を一組とする構成ではまったくこれ以上心理学的に不安定な集まり方は他にないのである.
 このことは小説の類が好んで題材にする人間の三角関係というものを考えてみればすぐに納得がゆくであろう.

(同P35)

 従って,上記に加えて

・三角関係イクナイ!!
という要因も.

ぴぴ in FAQ BBS

 これについては,仮想戦記の傑作「ラバウル烈風空戦録」中に,非常にわかりやすい描写があります.
 曰く,
3機編隊はぴんと張った糸で結ばれているようなもの,
2機編隊はゆるいゴムでつながれているようなもの,て感じ.
緊密な連携を保った3機編隊の威力は2機編隊など問題ではないが,パイロットが消耗してくると編隊を維持するだけでも苦労する.
 その点,ひたすら長機を追うだけでよい2機編隊の利点が改めて見直された云々・・・

 細部は異なりますが,概ねこんな感じです.

ゆうか in FAQ BBS


 【質問】
 マルタ島の攻防でジョージ・バーリングが乗っていた機体はスピットファイアですか? ハリケーンですか?
 また,このバーリングという人は撃墜のほとんどが単独の空戦で,それもこのマルタ島でのことらしいですけど,それは,バーリングが配属されていた期間のマルタ島が,まともに編隊を組んで空中戦をやれるような状態ではなかったからでしょうか?

 【回答】
 機体はスピットファイア.
 マルタが依然厳しい状態だったのは確かだが,バーリングがマルタに行った頃は英軍が大補給作戦をやってる時期で,初期のように「グラディエーターしかありません」状態ではなかった.
 この辺参考.
http://www.general-support.co.jp/column/columun05.html

 バーリングが単独空戦したのは,性格によるもの.「スクリューボール(変人)」とあだ名されたように,非常にとっつきにくい性格で,しかもチームワークを徹底的に馬鹿にしてた.
 だけど,腕を認められて許されてた面もある.
 この性格が災いして,後に空軍を追い出されることにはなるが.


 【質問】
 映画「史上最大の作戦」でオマハビーチで2機のドイツ軍戦闘機が出撃してましたよね.
 あの戦闘機って本当に出撃してたものなんでしょうか?
 しかもあのパイロット達は,司令官に対して癇癪を起こしてましたが,あれも実話なんでしょうか?

 【回答】
 実話.
 司令部が出撃を許可しようとしなかったのも実話.

 ちなみにあの時出撃したのは,実際にも第26戦闘航空団司令のヨーゼフ・プリラー中佐とその僚機のハインツ・ヴォダーチェック軍曹の僅か2機だけであった.

 ちなみにヨーゼフ・プリラーは戦後,ビール会社のお嬢様と結婚するという逆玉人生を送り,「史上最大の作戦」の製作時にはアドバイザーを務めたが,公開直前に心臓発作で亡くなっている.


 【質問】
 エンパイア・ステート・ビルにB-25が飛び込んだ事件について教えられたし.

 【回答】
 ボストン郊外のベッドフォード飛行場から発進した1機のB-25Dが1945/7/28/09:35,雨雲による視界不良のため,同ビルの75階に衝突.死者14名,重傷者26名.
 このとき,休暇中だった17歳の沿岸警備隊衛生兵,ドナルド・モロニーがいち早く現場に駈けつけ,決死の救助活動で多くの負傷者を救出した,というエピソードが残っている.

 詳しくは「航空ファン」 2006年4月号,p.135,またはアーサー・ワインガーテン Arthur Weingarten 著「空が堕ちてくる」(集英社,1979)を参照されたし.

消印所沢

 この事件は,今は無き「航空ジャーナル」誌の1979年6月号にも掲載されました.

 ニューヨークタイムス1945年7月28日号から−
 陸軍航空隊のB−25双発爆撃機1機が霧てで視界を失い,エンパイア・ ステート・ビルの地上から975フィートの所に突入した.
 この惨事により乗員スミス中尉ら3人と79階にいた10人が死亡し,26人が負傷した.
 突入 した機体の一部がビル中央部を貫通した際,エレベーターのケーブルを切断した為,6番エレベーターは79階から地下室まで約1,000フィート落下し,オペレーターのベティ・オリバーは重傷を負ったが,奇跡的に一命を取り止めた.
 機のガソリンタンクが爆発した為,5番街1,050フィートの高さの同ビル展望台まで,煌くオレンジ色の炎が立ち昇り,周辺地区に一時パニック状態をもたらした.

 ボーイング767が突入した貿易センタービルは倒壊しましたが,エンパイア・ステート・ビルは外壁に穴が開いたものの,衝突した機体は地上に落下炎上しました.
 理由は一介の素人には分かりませんが,ビルの構造が違う他にレシプロ機とジェット旅客機では運動エネルギーが桁違いだっのでは無いでしょうか.

赤とんぼワークス in mixi支隊


 【珍説】
小沢代表 安倍首相と討論で 議会制民主主義の定着訴え [7/1 民主党Webサイト]
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 小沢代表は,ゲルニカ,ドレスデンでの無差別爆撃をドイツ,アメリカが戦後謝罪したことを挙げ,核兵器廃絶のためにも,広島,長崎への原爆投下についてアメリカに謝罪を要求すべきと主張.
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 【事実】
 アメリカがドレスデン爆撃を謝罪?
 聞いたことが無いです.少なくとも公式の謝罪は無い筈ですが・・・
 そもそもドレスデン爆撃の主力はイギリス空軍で,アメリカ軍は補佐でした.
 小沢さんはイギリスとアメリカを勘違いしているんじゃないか,と検索して見たらこういうのが出てきました.

重慶大爆撃 対日民間賠償請求訴訟 ●原告ら訴訟代理人 弁護士 土屋公献
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 前田哲男氏が紹介している通り,ドイツ政府は,ゲルニカ空爆から60年後の1997年3月にヘルツォーク大統領が,ゲルニカ市と市民に対し,
「この残虐な行為の犠牲者は,非常な苦痛にさらされた.
 わたしたちはドイツ空軍による爆撃とそれが招来した恐怖をけっして繰り返さない.
 いま,両国民の間の和解と将来の平和を呼びかける」
と謝罪した.

 また,ドレスデンを壊滅させたイギリスは,2000年の「空襲55周年記念式典」にあたり,エリザベス女王の名代ケント公を派遣し,謝罪の意を示すと同時に破壊された聖母教会の再建費用負担を申し出た.

 日本政府は,重慶大爆撃は関して,まさにこれらドイツやイギリスが爆撃被害者に謝罪した事例に学ぶべきである.

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 恐らく小沢さんのネタ元はこれでしょうね.
(まさか似非軍事評論家の前田哲男だったとは.
 しかも土屋公献は朝鮮総連の代理人

 アメリカについては触れられておらず,イギリスについての話となっています..
 しかもよく見ればこれ,謝罪ではないのではありませんか?
 ゲルニカでのヘルツォーク大統領の演説の内容にしても,謝罪とはとても言えないですよ.
 あくまで和解であり,遺憾の意レベルですらない・・・
 そうなるとドレスデンでのケント公の謝罪というのも何だか怪しい・・・
 もしかして重慶爆撃賠償請求訴訟の人達が,自分達の主張に都合が良いように勝手なことを言っているのでは?
 そしてそれを,小沢さんが鵜呑みにしてしまったのではないでしょうか.

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 ドレスデン爆撃とその後の顛末,調べてみました.

 ケント公エドワード王子(聖母教会再建資金を募るドレスデン財団の王室パトロン)が,エリザベス女王の名代として記念式典に参列し,聖母教会が再建された暁に大聖堂の頂点に飾られる金の十字架と宝珠を手渡したのは事実です.
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/641423.stm
その製作にはRAFでドレスデン空爆に参加したパイロットのご子息も関わったそうです.
 ケント公がどんなスピーチをしたのかは結局わからなかったのですが,少なくとも「謝罪」を口にしたという記事は見つかりませんでした.

 そして,こちらはその四年後,晴れて教会が再建されて,寄進式でのケント公のスピーチ.
http://www.britbot.de/en/news/items/040622a.htm
やはり,謝罪の言葉はないです.

 次に,エリザベス女王.
 これまでに何度かドレスデンを訪れていますが,一度も謝罪したことはないです.
 50周年記念式典では花束を捧げることもありませんでした.
http://books.guardian.co.uk/departments/history/story/0,,1160681,00.html

 2004年11月の訪独時には遂に謝罪するのではないかと憶測が流れましたが,結局それはありませんでした.
No apology for Dresden on state visit to Germany
http://www.guardian.co.uk/germany/article/0,,1342146,00.html

 ところで,女王による謝罪を炊きつけたのはドイツのリビジョニスト,Jorg Friedrichとタブロイド紙ビルドです.
http://www.guardian.co.uk/germany/article/0,,1341405,00.html

 英国の主要紙は社説で,このような要求に対して軒並み不快感を表しています
(ただし,これらの新聞はどれもやや右寄りです).
http://www.guardian.co.uk/editor/story/0,,1341801,00.html

>It is unfortunate that this visit has been preceded by a wholly artificial controversy, whipped up by the tabloids in both countries, (デイリー・テレグラフ)

>The main reason why the Queen should not express regret is that Germany must not be allowed to see itself as a victim ...(サンデー・タイムズ)

>Such apologising is fatuous(オブサーバー)

>The Queen will, rightly, express regret for the lives lost on both sides, but not remorse for military action taken in good faith three generations ago ...(タイムズ)

 注目すべきは,ドイツの新聞,Berliner Morgenpostもそのような謝罪は両国のためにならず,英独の友好関係を害すると警告していることでしょう.
>An apology by the Queen ... would also do a disservice to British-German relations by releasing animosities that have have been brought under control,

 また,ドイツ政府が公式に謝罪を要求したという事実はありません.
The German government has not called for an apology,
http://www.guardian.co.uk/germany/article/0,,1341207,00.html

"There has been no serious request for an apology, so the question doesn't arise," one British diplomat said yesterday.(上記,Friedrichとビルドに言及した記事を参照)

 全体を通して言えるのは,英国は両国の友好関係は大切であり,爆撃の犠牲者に対して弔意を表しているものの,無差別爆撃に対して公式に謝罪したこともないし,その予定もない,ということになると思います.
 もしも,日本が政府として米国に対して無差別爆撃に対する謝罪を要求するのであれば,これは両国の友好関係を破壊しかねないので,よほど慎重にやる必要があるでしょう.

 次に米国.米空軍がドレスデン空爆の正当性を主張する報告書を作成しています(エラーを無視しないと見れません).
https://www.airforcehistory.hq.af.mil/PopTopics/dresden.htm

 いろいろな数値を用いて,ドレスデン空爆が他のドイツの都市の空爆と比べて苛烈であったとは言えないことを証明しています.
 長いので,Conclusionだけ読めばいいと思いますが,それも長いので,Wikipediaが要点を書き出してくれています.

1.空爆は正当な軍事目標に基づくものである.
2.軍部隊や防空施設が近くにあったので無防備都市とは言えない.
3.他の諸都市との比較において空爆は過剰であったとは言えない.
4.空爆は通常の指揮系統に基づいて行われた.
5.空爆は不必要な民間人犠牲者を出さずに,軍事目的を達成した.

このような公的な報告書がある以上,小沢先生の主張は「珍説」認定してもよいかと.本当は私,小沢シンパなんですけどね.

―――バグってハニー in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

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 どうやら意図的な捻じ曲げ行為を信じ込んでしまった事に加え,イギリスとアメリカを勘違いした結果,訳の分からない答弁になってしまったのが真相のようです.
 しかし小沢さん,一体誰にこんな嘘を吹き込まれたのだろう?
 そして早速,自民党の中川幹事長はこの件を指摘し,民主党小沢代表に発言の訂正を求めています.

■ (党首討論)7月1日の小沢代表の質問は「ウソ」に基づく.だから,もう一度党首討論開催を [中川秀直公式Webサイト]
http://www.nakagawahidenao.jp/pc/modules/wordpress0/index.php?p=601

「週刊オブイェクト」,2007年07月06日

 ・・・魚拓を撮っておこう.

JSF in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

>主軸は英空軍
 その通りです.まず,夜間に RAF のランカスターが二波に渡って焼夷弾攻撃を行い,丸焼けになった翌日の昼間に,USAAF の B-17 が爆撃しています.

 無差別爆撃に対して謝罪しろっていいだした日には,ハンブルクや,他のドイツの主要都市に住んでいた人だって何かいう権利があると思いますけど.
 規模はだいぶ違うにしても,ロンドンだってコベントリーだって.バッキンガム宮殿ですら被爆してるでしょう,確か.
 だからって,女王陛下がヘルマン・ゲーリングに謝罪を求めたりしましたっけか.

井上@Kojii.net in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 こういうのも.

http://www5e.biglobe.ne.jp/~denbei/htm/zakki/zakki2_4.htm

 通常,I am sorry と言えば謝罪であるが,人が死んだときに哀悼・お悔やみの言葉(口語)として同じ I am sorry を使う.
 これを知ったのは,20年前,米国に留学中に祖父を亡くした時だった.
 まわりの友人達に祖父の死亡を伝えたときに必ず I'm very sorry と言われたからだ.

 想像するにモンデール氏は,単に空襲で亡くなった人達に対して哀悼を述べただけではないのか.
 新聞の記者・編集者がI am sorry にこの様な使い方が有ると知っているかどうか分からないが,少なくともソーリーには遺憾の意を表す意味はない.
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 何故,I am sorryと言えないのか,という問いにはこういう意味合いが・・・

JSF in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


◆◆◆ドイツ

 【質問】
 ドイツの航空機産業は第1次大戦後,どのように育成されたのですか?

 【回答】
 ドイツの場合,航空機産業の整備に関して,国は,利潤を得る部分までは民間主導で,それを越えて企業にとって過度の負担になる部分は国家が介入すると言う概念を持っていました.
 ただ,理念はご立派なのですが,実際には戦時にどれくらいの航空機が必要なのか,国として明確に示さず,また,航空機禁止の影響もあって,企業体も中々発展せず,再軍備初期の頃は軍民共に試行錯誤の日々でした.
 しかしながら,1930年代後半には,Dornier,Heinkel,Junkers,そしてB.F.Wの様な基幹となる航空機会社が整備され,造船,車輌工業の航空機産業への進出と,自動車会社,工作機械会社の発動機産業への進出が図られます.
 また,戦時生産の為,各航空機会社が平時に予め工場を建設する訳ですが,この配分は,戦時に主要機械工場を2交代制として操業する場合,各組立工場は1交代制の完全操業が出来る釣合で整備されました.

 更に戦時生産に移行する場合,既存工場の2交代制実施の他,下記の方法が採られました.
 (1) 戦時遊休機械工場を下請工場としてそれぞれ航空機製作所に配当,組合せ,その組立工場を2交代制の操業とする.
 (2) 空軍部隊が国外の前線に移動したことで,不要となった国内飛行場の格納庫,商品見本市会場を組立工場とし,戦時遊休機械工場と組み合わせて生産単位を作り上げる.
 (3) 紡績工場,砂糖工場,家具工場を航空機産業に転業させる.
 (4) 航空機会社の創設.

 こうした施策は,戦前の内に軍需監督庁が計画し,動員時の図面供給条件などを予め通告した上,軍需転換に要する動員日課予定表を該当工場に作成させて,労力,資材の配給を準備させたり,製作転換を必要とする工場については,資材充足計画を作成させて,労力,エネルギー,治具,原料,半製品,部品などの所要量を申告させ,その配給を準備したり,治具関係は,工作機械類の動員注文計画,不要機械類の相互融通計画を策定したりしています.
 また,製作転換をする企業については,予め教育注文を出した上で,治具類を準備させる場合もありますし,官の側でもそう言ったものを準備しておくケースもありました.
 但し,官の準備は,製作困難な軍需専用のものに限られています.
 この治具類整備に関しては,開戦後は海外から押収した機材の転用というのも行われ,生産拡張に寄与している訳です.

 一方,他業種から航空機産業への進出の例には二つのケースがありました.
 一つは,最初から簡単な完成機を独力で製作して,次第に高性能機に進む場合.
 もう一つは,部品工場として指導を開始し,逐次完成機を独力製作出来るようにする場合です.

 前者の例は,Henschelです.
 鉄道車輌メーカーだった同社は,1936年にJunkersの指導で航空機産業に進出しますが,JunkersはHenschelに対し,小型機の設計,開発,生産についての助言を与え,1937年には完全独立を果たしました.
 後者の例は,Blohm&VossとA.T.G.です.
 前者は造船所,後者は鉱山用運搬機材などの製造会社でしたが,両社とも1934年にJunkersの分工場としての指導を受け,まず,B&Vは,Junkersの機体の胴体後半と操舵部分を生産,A.T.G.は,主翼の生産を行い,Junkersは残部の生産と最終組立を行っていました.
 両社ともに,Junkersの製作転換指導部から熟練工,技術者の派遣を受けたり,B&VやA.T.G.から技術者,熟練工を受入れて教育したり,治具,工具,検査具を分与したり,あまつさえ一部の社員を転籍させたりしています.
 こうして,数年の指導で,両社とも航空機会社として独立出来る状態になった訳で.
 同じ総動員と言いつつ,何処かの国の泥縄式生産体制とは大違いです.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 ドイツ航空機産業の資金は,どのように調達されたのですか?

 【回答】
 ドイツの場合,1920年代から30年代に掛けて,隠れ軍備増強をする際の資金としては,メフォ手形というのを用いてやっていました.
 とは言え,財政的には国が出している様な居ない様な,何とも曖昧なもので,一種空手形と言っても過言ではありません.
 こうした手形金融が積み重なった結果,1937年頃には財政運営が二進も三進も行かなくなり,Austriaを併合してその資産によって漸く一息つく,足りなくなったら,Czechを併合してその資産で一息…という際限のない自転車操業になっています.
 でもって,同じ手口でPolandを併合してその資産を使おうとしたら第二次大戦になった訳で.

 で,航空機産業の拡張については,その資金をどうするかが問題になりました.
 その方策としては,一に国家が直接支払うが,その支払時期を何年か引き延ばす,二に銀行にクレジットを付与し,国がそのクレジットの保証を行い,企業は,そのクレジットを長期返済させる,のいずれかの手がありますが,ドイツの場合は後者を用いています.
 これは航空機購入の資金の方が既に国家にとって過大で,これに加えて生産設備も,となると,財政破綻を来す恐れがあったからです.

 そこで,後者の方法として,国家が90%まで返済を保証したライヒス・クレジットを設定し,この保証契約に基づいて市中銀行が直接航空機会社にクレジットを与えるか,もう一つはこの航空機産業専門の銀行を介して,クレジットを与えるかしたものが考え出されました.
 この航空機製作所建設資金のクレジットは短期で6〜8年,長期で25年に渡り,利息も普通のクレジットが年利5分のところ,このクレジットでは年利3分5厘と極めて低く設定しています.
 ちなみに,この種クレジットで建設された製作所のうち,3分の1が1941年末までにこれら資金の返済を完了していたりします.

 このクレジットを扱った航空機産業専門の銀行が,ドイツ航空銀行と言い,1935年3月29日,頭取に太っちょHermann Wilhelm Goering航空大臣兼空軍長官が就任し,資本金7000万マルクで航空取引銀行有限責任会社という銀行名で設立されました.
この金融機関は,1940年7月6日にドイツ航空銀行株式会社に組織変更し,資本関係はライヒス・クレジット銀行会社とのみ提携していました.
 その業務は,金融から,航空に関する財政管理業務の他,航空関係企業の管理,金融,監査,信託業務の処理などを担当し,航空関係産業への経営参画も行う一大コンツェルンになっています.

 子会社としては,航空機の補用品調達配給機関である,航空需要会社を経営し,傘下に,フランスの銀行と提携して,その投資下にフランス航空銀行を設立したほか,オランダに於ても,ルイテンランド銀行に資本参加してそれを傘下に加えています.

 さて,拡張資金の他,企業を経営するには運転資金も必要です.

 ドイツ航空機産業の発注形式は1.5年の仕事を一括契約するのが普通です.
 但し,その代金のうち,30%が最初に材料費として支払われ,製品がそれぞれ完成して検査官に支払われる時点で,残りの70%の代金から該当分が分割で支払われる形になっています.
 ただ,それは現金で引き渡されることは無く,その注文時に軍が注文価格に相当する軍債務証券を交付します.
 会社は所要に応じて,これを逐次銀行に提出して3〜3.5%で割引を実施し,事業資金とすることになっていました.

 1942年中期からは,勝ち戦のお陰で企業の手元資金が潤沢に成ってきたことから証券の交付は廃止となり,また,前渡金制度も廃止されました.
 1942年10月1日以後,軍需産業が銀行に対してクレジットを得る場合は,軍から発注の証書として交付された注文確認書を担保とすることになりました.
 支払いについては,注文確認書の所有者に行われることになります.
 このクレジットの形式は一般金融と全く同じものと看做されます.
 また,銀行が注文確認書を該当企業の担保として持つのが不安な場合は,軍に対してその注文額の30%以内で欠損保証を要求することが出来ますが,銀行はそのクレジットの1%を軍に納入する必要がありました.
 これでも受注会社が所要のクレジットを得ることが不可能である場合は,軍が軍債務証券または不足金額への前渡し金を交付することが出来ました.
 これによって,どんなに小さな会社でも,軍の仕事をする場合には,銀行の保証,または軍の保証を得ることが出来た訳です.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi


 【質問】
 メッサーシュミットのMeとBfの違いはなんでしょうか? どちらが一般的なんですか?

 【回答】
 元々,バイエルン航空機製造会社という社名だったのを,メッサーシュミット社に改称した際,機体符号もBfからMeに変更された.
 ただし,すでに空軍に正式採用された機体については,改名の手続きはとられなかったので, Bf110以前の機体は,機体符号はBfのまま.

 現場では,メッサーシュミット社の機体はすべてMe××と呼ぶことが多かった.


 【質問】
 戦争末期の,ドイツ空軍の防空体制について教えてください.

 【回答】
 ドイツの場合,昼間戦闘機隊の防空は,外郭防空と本国防空に分けられます.
 但し,外郭防空線(ドイツの外側国境線からオランダ,ベルギーを経てブレストに向かう線)の1000kmに配備されている戦闘機は単座戦闘機3個連隊,複座戦闘機1個連隊で,合計640機だけ,
 これが,沿岸航行船舶護衛任務にも機体を割いたので,更に防空戦闘に投入出来る機体は減ります.

 此処で,爆撃機は戦闘機の迎撃を受けますが,この時,ドイツ側は空対空ロケット弾攻撃を行います.
 一方の連合国側は此処まで護衛戦闘機を付けることが出来ますので,これの撃墜を目指します.
 突破を図ったドイツ側は,緊密な編隊を組む敵爆撃機にロケット弾攻撃を行った後,分解した編隊に対し,30mm砲による攻撃を行うことになります.

 外郭防衛線は,1941年までは機能しますが,42〜43年になると劣勢になり,44年後期には崩壊します.

 本国防衛線についても,戦闘機42個中隊を配備する予定でしたが,Hitlerの同意を得られず,不十分なまま本格空襲を受けることになります(つまり,空襲が本格化しても外郭の限られた兵力だけを用いていた).
 ちなみに,戦闘機一個連隊当たりの年間戦死者と定員数の比率を見てみると,1942年以前は40〜50%で,1年を通じてもある程度の操縦士が生き残っていたのに対し,1943年には100%近くに達し,1年でほぼ顔ぶれが入れ替わる状況,1944年になると,250%,場合によっては300%に達しています.
 新規補充員は,年間150時間に満たない飛行時間で,出動10回までに消えました.

 高射砲では,B-17やB-24でも苦労しています.
 88mm以上の重高射砲は,1943年に本国に1,234個中隊(1個中隊の砲台式の場合は12〜24門で編成),1944年に1,508個中隊編成されていますが,数百機侵入の場合の撃墜率は最良の場合は,5〜6%,平均で2〜3%です.
 砲弾の消費量は,1機撃墜当たり平均2,500発で,88mmの場合は,1ヶ月317万発になっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 質問なのですが,第二次大戦後半の独空軍の弱体化は,燃料施設や工場の爆撃等の他にどのような理由があったんでしょうか?

 【回答】
 工場や空軍基地を爆撃した際,迎撃してくる独空軍機を護衛機で撃墜.
 連合軍はこれをネチネチと繰り返したおかげで,独空軍はノルマンディーの際まともに行動できなかった.D-Day当日に出撃したのはプリラーともう一人だけ.

 地上にいる航空機も機銃掃射できるようになるほどの航空優勢を,連合側が西部戦線で獲得した.
 それまでは,その日はどの手を使ってくるのか分かるような作戦を,連合側は繰り返し行っているだけだった.

 Bf-109以後の新型戦闘機の開発がメッサーシュミット社内で混迷に陥っていた.

 フォッケウルフはあるけども.エースが疲弊して戦死,若手の育成に手が回らない.

 主たる敵であるソヴィエト空軍の復活.クルスクのときのように航空優勢を東部で獲得できなくなった.


 【質問】
 大戦中のパイロットの育成に関し,アメリカは環境・設備がよかったのに対して,日本は環境が悪く,航空戦力の弱体化に拍車をかけたとか言われますが,ドイツの場合はどうだったんでしょうか?

 【回答】
 ドイツの場合は,1942年まではDenmarkを基地に,滅多に空襲のない状態で,十分な訓練が行えましたが,連合軍のItaly上陸後は,満足な訓練が行えず,急速に戦死者が増え,実戦部隊は定員割れを起こしたため,訓練未了な状況で実戦部隊に送り出さざるを得ず,1945年には飛行時間150時間で送り出す有様.

 なので,新規補充隊員は,出動10回に耐える者は殆ど無かったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 WW2で敗戦国となった独逸からは,航空機の技術は一切合財無くなってしまったのでしょうか?
 同じ敗戦国である日本は,練習機とはいえ航空機を自主開発したわけですが,独逸の方ではそのような事例を聞いた事が無く,不思議に思っていたのですが.

 単に開発する必要がなかったという事だったりするんでしょうか?

 【回答】
 ドイツも日本と同じように,戦後の一時期航空機の開発を禁じられていた.

 この間,Dornierがまずスペインで再起し,子会社を設立して,スペイン空軍向けの汎用機Do-25を開発する.
 1954年に西ドイツに移転して軽輸送機,大型輸送機,VTOL機の開発を行い,1972年12月22日,Daimler-Benzの傘下に入り,1989年5月19日にDeutche Aerospace(DASA)に参加する.
 なお,Dornierのスイス支社は,1948年にFFA(Flug-und Fahrzeugwerke AG)となり,軽飛行機を主に製造してきたが,後にドイツに設立された,Flugzeug und Faserverbund Technologie(FFT)に開発が引き継がれている.
 余談ながら,Dornier博士の長男が,1982年にDornier Compositeと言う新会社として立ち上げて飛行艇を開発していたりするが,1990年に頓挫.

 Focke-Wolfは,クルト・タンクが国外に去った後,1951年に復活.
 イタリアの軽飛行機,Piaggio P.149を製作し,糊口を凌いだ後,VAKと社名変更.
 後に,1963年に1956年にSIATから抜けたWeser(第一次大戦後,飛行艇を製作していたRohrbachの後身で,第二次大戦中はBf-109を下請生産していた)と合併し,VFWとなってTransall C.160やSicorsky S-65を生産.
 1964年にHeinkelも参加.
 1968年にRFBを傘下に,Henschel(戦後は一旦航空機製造を中止し,1955年航空機製造を復活)の航空機部門を吸収し,翌年Fokkerと合併し,VFW-Fockerとなり,1981年にMBBの傘下に入る.
 タンク博士自身はアルゼンチン,インドなどでジェット戦闘機の開発に従事.

 Klemmは残り,相変わらず軽飛行機を製造するが,1957年にBoelkow-Entwicklungenに吸収される.
 ちなみに,Boelkowは1947年に航空機設計事務所として設立され,1948年にDeutsche Flugzeugとなり,Boelkowに改称され,1968年10月31日にMesserschmittの傘下に入る.

 Blohm & Vossは,1955年にBlohm & Vossの子会社Hamburger Fahrzeugbau GmbHとして再び発足し,戦後,西ドイツでフランス製のNord Noratlas輸送機の国産化を行い,再び,Blohm & Vossに社名変更.
 1969年5月14日に,Messerschmitt-Boelkowと合併して,Messerschmitt-Boelkow-Blohm(MBB)を構成する.

 Heinkelは,1950年にErnst Heinkel Fahrtzeugbauとして復活し,一時期自動車製造を行った後,1955年にErnst Heinkel Flugzeugbauに改称.
 Fouga CM-170 Magister練習機の国産化に着手,その発展型CM191を開発したが,1964年にVFWに参加する.

 Messerschmittも同じく,自動車製造に参入すると同時に,1951年にスペインのHispano Aviation内に事務所を構え,同国向けの戦闘機,練習機を設計,またアラブ連合の航空機産業育成に参画.
 1955年に本国に戻った後,翌1956年,Fouga CM-170 Magister練習機の国産化のために,Heinkelと共同で,Flugzeug-Union Sudを設立,1958年にはG.91Rの生産のためにDornierも含めて,Arbeitsgemeinschaft(ARGE)になり,国産航空機の製作のため,Henschelの一部,Heinkelの一部,Siebelと共同で,Entwicklungsring(EWR)となり,1965年にはJunkersを買収.
 また,この体制でF-104Gのライセンス生産を実施.
 Messerschmitt自体は,1968年にBoelkowと合併し,1969年5月にBlohm&Vossと合併してMBBとなり,1989年にDASAに参加,また,回転翼機部門は1992年にEurocopterに参加する.

 Siebelは,政府の要請で,1952年にKlemmとSaaleのフランス領からの移転に伴い,これを吸収.
 更に,第一次大戦前からの名門メーカーAlgemeine-Transport-Anlagen GmbH(ATG:HalberstadtC.V,Rumpler C.VIIなどを製造)と合併し,軽飛行機メーカー,Siebelwerke-ATG GmbH(SIAT)として存続 .
 1955年にKlemmは離脱,1968年にMBBの子会社となり,72年頃吸収.

 Buckerは1960年代にCanary Aeroとして復活し,1967年に,Bucker Aero Technikとなる.

 なお,Junkersは,東ドイツに工場があった関係で生産設備が殆ど接収されたが,1954年にVEBと言う国営航空機工場がそれを母体に設立され,Il-14の生産の他,Jumo112を基にした国産ジェットエンジンを用いたジェット旅客機を試作をしている.
 1991年に,Elbe Flugzeugwerkeとなり,Deutsche Aerospace Airbusに吸収された.
 会社組織としてのJunkersは下請程度の存在であり,1965年にMBB傘下となり,1975年に消滅.

 また,エンジンの分野では,BMWの技術者達が,フランスのSNECMAのために,ATAR101を開発し,ユンカースの技術者は,スペイン,次いでエジプトに流れて,クルト・タンクが設計した戦闘機用のエンジンを開発すると共に,VEBに残された資料を基に,東ドイツでジェットエンジンの開発を続けたものもあった.

 資料は,
http://www.worldairforces.com/Companies/Companies.html
が主ですが(此処は結構充実していて,メーカースレの基になっていました…秋になれば復活予定だけんど…メーカースレ),他の資料は,Jane's All The World Aircraft,航空情報世界航空機年鑑1959〜1972年版です.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in FAQ BBS)


 【質問】
 ホルテン兄弟って?

 【回答】
 ドイツの全翼機バカ兄弟.
 兄はヴァルター(1913-1998/10/9 配役:いかりや長介)
 弟はライマール(1915-1994 配役:仲本工事)
 第二次大戦前から終戦まで全翼機製作に熱中.
 そのうちH IXはHo229 または Go229ジェット戦闘機となった.もちろん全翼.
 Go229という呼称は,戦闘機を量産できるような工場をホルテン兄弟が持たなかったので,ゴータ社で製造されたため.もっとも,正式にGo229の呼称を付与されたことはない.
(ゴーダ社に生産主体が移った後も,Ho・Goと平行した設計案を分けているらしいから余計ややこしい )
 戦後にはアルゼンチンに招かれて戦闘機開発に従事.

 ホルテン兄弟を見てると,「自分がこれに乗りたい」という想いが革新的な機体設計の一番大きな要因だと思えてくるね.愛に走るというか(笑
 「震電」開発の鶴野氏も,そこはかとなく同じ匂いがする.

 【参考サイト】
軍事板
「世界の名機」;ホルテンHo229(ゴータGo229)戦闘機
「全翼機図鑑」: Horten
●オリジナルエアーボット● ホルテン Ho-229他に変形するサイバトロン戦士


 【質問】
 ホルテン兄弟が作った航空機を教えてください.

 【回答】
Ho1  全翼研究用グライダー      試作1機
Ho2  全翼研究用グライダー      試作4機
Ho3  全翼研究用グライダー      試作4機
Ho4(Ho251)全翼研究用グライダー 試作2機
Ho5(Ho252)全翼研究機      試作2機
Ho6(Ho253)全翼研究機      試作1機
Ho7(Ho227)全翼練習機      試作1機(20機製作予定)
Ho8  6発全翼旅客機         試作1機(未完成)
Ho9(Ho229)全翼ジェット戦闘爆撃機 試作2機(他未完成5機)
Ho9B 全翼ジェット戦闘機(計画のみ)
Ho10 全翼ジェット戦闘機(計画のみ) 
Ho11 全翼グライダー(未完成)
Ho12 全翼自家用機 (未完成)
Ho13A 全翼ジェット戦闘機空力試験機(未完成)
Ho13B 全翼ジェット戦闘機(計画のみ)
Ho18A(Ho250)全翼4発ジェット爆撃機(計画のみ)
Ho18B 全翼6発ジェット爆撃機(計画のみ)


 他に,Ho5〜Ho6の頃だと思うんだけど「パラボラ」っていう名称の研究機作ってるらしい.ちなみにこいつ,運送中に燃えたらしい.
 また戦後,アルゼンチンに招聘され,Ho8元にしたI.A.38っていう無尾翼の貨物輸送機作ったらしい.
 でもこれも実験機造った段階でいろんな問題が噴出&アルゼンチンの政情不安で終了と相成ったようで.
 IA38等のアルゼンチンでのホルテンの作品については
http://www.laahs.com/art09.htm〔リンク切れ〕
参照.

19 ◆NNFamWkE(青文字)他 in 軍事板


 【質問】
 終戦までのHo229の製作状況は?

 【回答】
 動力無しの1号機Ho229V1が1944年2月28日に初飛行しています.
 そしてJumo004Bを2基搭載した2号機Ho229V2は,1944年12月25日に初飛行して,本によって時速800km/hを記録というのと1000km/hを記録という記述があるが,800km/h出たのは確実ではないかと考えられます.

 なお2号機はエンジントラブルのために4回目の飛行で墜落して失われました.
 量産型原型であるJumo004Cを搭載した3号機は,ほぼ完成の状態で終戦をむかえています.
 あとは7号機までが組みたて中だったようです.

軍事板

 【参考画像】(やや重いのでリンク形式に)


◆◆◆スロヴァキア

 【質問】
 スロヴァキア空軍について教えてください.

 【回答】
 1939年,HitlerはSlovakiaの分離主義者,Hlinkaの人民党を扇動し,Josef Tisoを大統領とするSlovakia国をCzech解体の翌日に独立させ,3月23日,ViennaでHitlerと共に保護条約に調印し,ナチスドイツの保護国となりました.
 新国家は270万人の人口を有し,そのうち,Slovakia人が240万,13万のドイツ人,10万のマジャール人,8万のユダヤ人で構成されています.

 この保護条約では,Schtzzoneと呼ばれる西Slovakia地域と要塞などの軍事施設ににドイツ陸軍が駐留し,ドイツ空軍はZlinaに第15観測飛行隊,Malacky-Novy,Dvorの空軍射爆場を使用,他に二ヶ所の空港に約40機を駐留させていました.

 しかし,保護国とは言え,一定の軍事力は保持していました.

 解体前,Czechoslovakia空軍はFranceを範にしており,全土で6個飛行連隊で構成されていました.
 第1〜第3までは戦爆連合,第4が戦闘機連隊,第5と第6が爆撃機連隊でした.

 このうち,Slovakiaに配備されていたのは第3飛行連隊で,その最後の連隊長,Gustav Studeny大佐は,Czech人だったので,解体時にBratislavaの州軍司令に格下げされました.
 Slovakia独立後,自動的にその連隊はSlovakiaの軍に組み込まれ,国家防衛省直属となります.
 司令官は中佐(後に大佐,将軍)Ferdinand Catlos,Karol Sojcekが短期間勤務していました.

 ポーランド戦後の1939年末,泥縄式に設立された空軍の再編成,機材の再整備が行なわれます.

 1940年にSlovakia空軍(VVZ)の司令部がTrencinに設置されました.
 初代司令官には,Jan Ambrus中佐が就任しました.
 彼は国内でもよく知られていた曲技飛行の名手であり,37年のZurichで開催された国際飛行競技大会で,Avia B.534を駆ってドイツ空軍の誇るBf-109を追いつめたメンバーの一人でした.
 しかし彼は,Czechoslovakiaの抵抗運動に加わるために国を出てしまい,以降は陸軍の高級将官が司令官に就任します.
 第二代がRudolf Pilfousek中佐,ついでAnton Pulanich中佐(後に少将まで進級),そしてStefan Jurech少将が就任し,最後は1944年8月26日の空軍廃止の日まで,Alojz Ballay大佐が就いていました.

 既存の機体の分解整備や,修理については,Slovakia国内では出来ず,ドイツの保護領となっている旧Czechから人が派遣されて行ないました.
 戦闘機飛行隊は,第11,12飛行隊がPiestanyに,第13飛行隊がSpisska Nova Ves.に配備され,これらにはAvia B.534/Bk.534が支給されました.
 観測・偵察飛行隊は7個飛行隊を3個に再編し,第1飛行隊をZlina,第2飛行隊をSppiska Nova Vesに,第3飛行隊はNitraに配備し,機材としては,既存の飛行隊が用いていたLetv S.328が支給されました.

 更に旧訓練部隊は,1940年に入るとSlovakia空軍飛行学校と改称され,各地に点在していた部隊を,Trencianske Biskupice基地に集約します.
 後に,戦火が激しくなってくると,Tri Duby基地へと移動しています.
 発足当初の使用機材は,Plaga E.39/E.241,Avia B.534,Letov S.328,Ba/Bs-122が使用されていましたが,これらの機材はドイツからの供給を受け,Focke-Wolf Fw-44,Gotha Go-145,Heinkel He-72,Klemm Kl-35D,そして戦闘練習用にBf-109Eに取って代わられました.

 総合整備工場,航空機工場は,元々Nitraにありました.
 1943年8月には,Tri-DubyとMokradに移動しています.
 ここでは全機種の修理,整備の他,Skoda-Kauba S.K.257練習機,Junkers Ju-87D-5を生産していました.

 話を戻して1941年3月1日,スロヴァキア空軍の再編が行われます.
 先に編成された第11,12,13戦闘飛行隊で,第2戦闘機大隊を編成し,Vlasdimir Kacka大尉が指揮官となりました.この大隊はPiestanyに配備されます.
 同時に,第1〜3観測飛行隊は,第1観測機大隊を編成し,指揮官にKournel Jancek少佐が任ぜられます.これは,Spisska Nova Ves.に司令部が置かれました.

 時代は下って,1943年6月1日,第3戦闘機大隊がPiestanyにて編成されます.
 その大隊には,東部戦線で戦闘中だった第13戦闘飛行隊のBf-109G-4と,新しく編成されたBf-109E装備の第14戦闘飛行隊の2個飛行隊から成る予定でしたが,第14の方は機材が間に合わず,紙上の存在でしかありましせんでした.
 第2戦闘機大隊は,第13が抜け,第11,12戦闘飛行隊から成っていましたが,Avia B.534戦闘機からJu-87D-5爆撃機へと機材を更新しようとしていました.
 しかし,これは戦局の悪化で,遂に完了しませんでした.

 第1観測機大隊は,旧型機を一掃し,Focke-Wolf Fw-189A-2に機種変更しました.
 しかしながら,機材の補充は十分ではなく,これらの機体は,偵察機隊の機材を横滑りさせたものだったりします.

 1943年4月1日,第41爆撃飛行隊が編成されました.
 これらの基幹要員は,Slovakia空軍の航空学校を卒業後,ドイツはバルト海沿岸のGriefwaldで訓練を行なっていました.
 後に,実戦訓練はCrimea半島のSimferopol近郊にあるSakiで,3機のHeinkel He-111H-10を用いて行ないました.
 1943年秋には飛行隊はPopladに移駐します.
 この基地には,他に時代遅れのS.328,Fw-58BとJunkers W.34が配備されていました.

 同じ頃,第51輸送飛行隊がTri Duby飛行場にて編成されました.
 この飛行隊には,フランス製のCaudron C.445M Goelands軽輸送機が5機,ドイツ製のKlemm Kl-35D軽飛行機が2機,He-111H-10が1機,Fi-156Cが1機配備されていました.
 輸送機部隊としては,このほか,Vajnoryに航空輸送グループ(LDS)があり,C.445M,W.34,Kl-35D,Ju-52/3m,Fw-58B,He-111H-10,そして何故か米国製のStinson SR-10C Reliantが配備されていました.
 後者は軍の輸送の一部を担っていたほか,Slovakia航空の民間航空機としても用いられています.
 後に,第51輸送飛行隊の任務の殆どは,軍の輸送ではなく政府機関の要務飛行が中心と成っていき,軍の戦力としては使用されなくなっていきました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 スロヴァキア空軍の装備機は?

 【回答】
 Slovakia独立時,多種多様の機体が300機近くあり,供給は旧Czechから行なわれていました.

 その内訳は,
Avia B.534戦闘機が60機,
Bk-534戦闘機が11機,
Letov S.328観測機が73機,
Aero A-100偵察機が14機,
発達型のAb-101偵察機が1機,
Praga E-39練習機が41機,
E-241が33機,
Avia Ba-122高等練習機10機,
Bs-122曲技練習機が13機.
Aero-Bloch M.B.200重爆が1機,
Avia-Fokker F.VII爆撃輸送機が1機,
Avia B.71(Tuporev SB-2のLicense生産型)軽爆が1機,

 このほかに戦力として期待できない旧式機として,
Avia B.34戦闘機が3機,
Avia Ba-33戦闘機が2機,
Letov S.16爆撃機が5機,
S.616爆撃機が1機,
Aero AP-32襲撃機が5機,
APb-32襲撃機が1機,
Letov S.128観測機が5機,
Aero A.11偵察機が3機,
Aero A.211練習機が2機,
A.230練習機が1機,
A.330練習機が1機,
Letov S.239練習機が1機
という布陣でした.

 1942年まで,Slovakia空軍の装備は,以前のCzechoslovakia空軍の装備をそのまま利用するので十分でした.
 しかし更に大戦が進むと,これでは性能不足になり,1942年以降,1944年までドイツとイタリアからの供給で賄われることとなります.
 但し,ドイツからの機材については,フランス戦線で使用して,不要になった機材が主に供給されました.
 その機材に関しては,実に様々なものが供給され,型もバラバラで,Slovakia空軍が要求するものにマッチしたとは,とても言えないものでした.

 自国での生産も行われましたが,少数が引き渡されたに留まっています.
 Czechoslovakia製の低翼単葉のスポーツ機/軽旅行機 Benes-Mraz Be-555 Superbibi 8機
 これを原型として開発されたZoborI 7機
 練習戦闘機Skoda-Kauba SK-257 5機
 License生産のJu-87D-5 7機(後,ドイツに接収).

 そこでSlovakiaは,ロシア戦線に参加して,更に戦力になる機材を手に入れる計画を立てます.
 具体的には,陸軍中央兵器廠の技術者を派遣軍に帯同させ,捕獲したものの内,役に立つものを見極めさせて,本国に輸送させたのです.
 こうして入手した機体には,
I-16若干機,
I-153若干機,
Antonov Ss-6(ロシア製Storch)若干機,
Archangelsky SB-3急降下爆撃機1機,
Polikarpov Po-2連絡機1機
がありますが,その殆どの機体は本国への鉄道輸送中に破壊され,Slovakiaが手に入れたのは,僅かに
Ss-6連絡機6機,
I-153戦闘機1機,
Po-2連絡機1機
に過ぎませんでした.

 特に,一番入手したかったSB-3爆撃機(Slovakiaには当時まともな重爆が無かった)は,修理して本国へ空輸している最中に,Lvovで離陸中に接触事故を起こしてしまい,修理不能となってしまっていました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 スロヴァキア空軍が戦前描いていた将来計画は?

 【回答】
 薔薇色の計画を描いていました.

 色々な増強の結果,1944年7月までに,Slovakia空軍は16個飛行中隊で7個飛行連隊を構成し,更に3個飛行師団を構成する軍備拡張案が完成する予定でした.

 第1飛行師団は,偵察と観測を任務とする師団で,第1飛行連隊を構成している,第1飛行中隊,第2飛行中隊はFw-189を装備し,第3飛行中隊は偵察型のBf-109の装備が予定されていました.
 第1飛行師団に属する第2飛行連隊は戦爆連合で,第21飛行中隊と第21飛行中隊に,Do-17,Do-215を装備しています.

 第2飛行師団は戦闘機師団で,配下の第1飛行連隊に属する第11飛行中隊,第12飛行中隊にはBf-109を装備し,第2飛行連隊には第13飛行中隊,第14飛行中隊を持ち,前者はBf-109,後者はBf-109またはBf-110を配備する予定でした.

 第3飛行師団は爆撃機師団で,第1爆撃連隊は第31飛行中隊,第32飛行中隊で構成され,これらの装備機はJu-87,第2爆撃連隊は第41飛行中隊,第42飛行中隊で構成され,これらの装備機はHe-111,S.M.84になる予定でした.

 最後が輸送連隊で,第51飛行中隊,第52飛行中隊,第53飛行中隊で構成され,装備機は,Ju-52/3mを装備する予定でした.

 これらの装備機はいずれもドイツとイタリアに発注し,代金の払い込みまで済ませていましたが,Slovakia保護国の崩壊で,全然引き渡されませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

Bf-110(これはドイツ空軍)


 【質問】
 スロヴァキアの航空機メーカーには,どんなものがあったの?

 【回答】
 Slovakiaの航空機メーカーと言っても,大したものではありません.
 けれども,LetovとAreaがBeckovに工場建設を計画し,1941年にはMrazがChocenに分工場を建設しています.

 でもって,Slovakiaの航空機として固有のものとしては,Zdenek Rublicによって設計され,Nitraで製作された機体があります.
 この機体は,低翼単葉のZoborIスポーツ機/軽旅行機です.
 原型となったのは,Czechoslovakia製のBenes-Mraz Be-555 Superbibiで,これは10機生産され,うち8機がSlovakiaに引き渡されました.
 ZoborIは9機が生産され,その全てがOK-SOB〜OK-SOJの民間登録記号を付けていましたが,Slovakia政府所管の国民防衛隊練習・連絡飛行隊に所属することになっていました.
 しかし,何故か最後の2機はドイツ空軍に引き渡されてしまいました.

 その他の本物の軍用機については,Trencianske Biskupiceにある国営軍用機修理工場で生産が行われようとしていました.
 また,PragueのSkoda-Kaubaの主任設計技師だったAustria人のOtto Kaubaが,いくつか製作した試作機の発展型として,ドイツ空軍が採用した,練習戦闘機Skoda-Kauba SK-257の生産を此処で行おうとしていました.
 この機体,最初は,1,000機の生産が目論まれていました.
 しかし,後に100機に削減され,最終的にSlovakiaの工場で生産されたのは,僅か5機にしかなりませんでした.

 このほか,国営軍用機修理工場では,Ju-87D-5のLicense生産が行われています.
 12機のJu-87D-5が此処で生産され,5機がドイツに見本として引き渡されました.この5機は,軍用機として引き渡されたのではなく,あくまでも民間ベースの商業輸出として引き渡された様です.
 ちなみに,これらのJu-87D-5には,OK-XAA〜OK-XAEの民間登録記号が付いていました.
 残りの7機がSlovakia空軍に引き渡されましたが,残念ながら,これらは接収されています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 カルパートウクライナ紛争での,スロヴァキア空軍の戦闘について教えてください.

 【回答】
 Slovakia地域は元々,二重帝国地域ではマジャール王国に属し,マジャールでは,この地域を「未回収のマジャール」地域と見なしていました.
 このため,マジャールとこの国の国境地域は従来から"Hot Border"となっていました.

 特にCzech政府が弱体化した1938年からは,マジャール空軍機が偵察に侵入したり,宣伝ビラをばらまきに越境したりしており,1938年10月25日には,マジャール空軍の1/2"Ludas Matyi"飛行隊に属するC.R.32戦闘機2機が,Ju-52/3m爆撃/輸送機1機と共にSlovakia南部に越境し,伝単をばらまいていた時に,チェコスロヴァキアを越境した同国空軍第10飛行隊のLetv S.328を発見,これを撃墜し,操縦士を負傷させ,後席偵察員を死亡させる事件が起きています.

 時代は下って,1939年3月のチェコ解体の際,国の東の枢要部であったカルパートウクライナ地区は独立を宣言しますが,既にマジャール陸軍が侵攻を始めており,3月16日に占領(マジャール側から見たら正当な支配者に戻った)が完了しました.
 そして,3月23日,占領地区を更に拡大し,あわよくばスロヴァキア全土を支配下に置こうと,カルパートウクライナ地区の国境を越えます.
 けれども,この企てにSlovakia人はAugust Malar大佐の指導の下,軍民挙げて結束し,マジャール軍相手のレジスタンスを開始.
 発足したばかりの空軍もまた,国境線で衝突を繰り返しました.

 こうして,第45戦闘飛行隊(隊長:Jan Svetlik大尉),第49戦闘飛行隊(隊長:Jan Prhacek大尉),併せて約20機のB.534戦闘機,第12観測飛行隊(隊長:Frantisek Wagner大尉),これに第13観測飛行隊の一部から兵力を抽出して,併せて約20機のS.328観測機,AP-32観測機を以て,最前線基地のSpisskaに赴任しました.
 しかし機体は確保したものの,乗員はチェコ解体時の戦力分割に手間取り,当初は各飛行隊に6名程度しか居ませんでした.
 これは,Ondrej Dumbala少佐指揮下の第37〜39戦闘飛行隊,第15偵察飛行隊から抽出して供給して確保します.
 彼らは到着早々にして砲火の洗礼を受けることになりました.

 既に,3月23日の侵攻初日,マジャール空軍の奇襲によって,前線基地に19機展開した機体のうち,2機のB.534が撃墜,4機のB.534と1機のS.328が対空砲火で撃墜され,第45戦闘飛行隊の隊長,Jan Svetlik大尉と,第49戦闘飛行隊のStefan Devan伍長が戦死し,これがスロヴァキア空軍初の戦死者となりました.

 翌日の24日はスロヴァキア空軍にとって災厄の日となりました.
 スロヴァキア空軍は,Uzhorodから出撃したマジャール空軍の1/1 "Ijasz"飛行隊のC.R.32と17回空戦を行ない,S.328を1機,B.534を2機,撃墜または捕獲(B.534)され,4機のB.534と1機のS.328が損傷して不時着しました.
 この時,第49戦闘飛行隊長など3名が不時着しましたが生き延び,1名(Jasef Zachar軍曹)が捕虜となりました.

 この日の午後,Sovrance近郊でこの紛争における最も大きな空戦がありました.
 第12飛行隊の12機(3個分隊)のS.328は第45戦闘飛行隊に属する3機のB.534に護衛され,マジャール陸軍部隊の攻撃に出撃しましたが,その途中でマジャール空軍の9機のC.R.32戦闘機に襲われ,惨敗を喫したのです.
 この戦闘で,1機のS.328が撃墜され,操縦士のGustav Pazicky軍曹が機上戦死,偵察員のFerdinad Sveno中尉は,パラシュート降下中にマジャール軍戦闘機に射殺されました.
 このほかのS.328はいずれも不時着を余儀なくされ,B.534戦闘機は全機撃墜破されましたが,これらの乗員はいずれも救助されました.
 ちなみに,この際,スロヴァキア側の記録ではFrantisek Hanovac軍曹とMartin Danihel伍長がマジャール戦闘機の撃墜を報告していますが,マジャール側には記録がなく,公式とは認められていません.

 更に厄日は続き,Spisska Nova Ves基地にマジャール空軍のDebrecenから飛来した,3/4 ”Sarkany"と,3/5 "Huvelyk Matyi"両飛行隊から抽出されたJu-86K-2爆撃機が10機飛来し,スロヴァキア領土に対する初空襲を行ないました.
 この攻撃で,12名の兵士と一般市民が死亡し,2機のB.534,3機のAP-32,1機のS.328とB.71を地上で破壊します.
 しかし,基地機能の破壊には失敗しました.

 その後,戦線は膠着状態が続き,4月に入って直ぐ,マジャールとの戦闘は下火となって,新たな東部国境線が確定し,合意に至りました.

 こうして紛争は終わりを告げたのですが,2年後には紛争を起こした両国が共に戦うのですから,運命とは分からないものです.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 ポーランド戦におけるスロヴァキア空軍の戦闘について教えてください.

 【回答】
 マジャールとの衝突で惨敗してから約半年後の1939年9月1日,スロヴァキア陸軍はドイツ陸軍と協同してポーランドに攻め込みます.
 と言うか,スロヴァキア駐留ドイツ軍がスロヴァキアとポーランドとの国境を越えたので,仕方ない側面はあったのですが.

 当時のスロヴァキア陸軍は35,000名.彼らはドイツ軍南方軍集団の一翼を担っていました.
 けれどもスロヴァキア陸軍は,ポーランド内陸部まで侵攻するのにはほど遠い状態で,1938年のミュンヘン条約でポーランドに割譲されたOravaとSpisと言った,ほんの一部の地域を回復するのが精一杯な所でした.

 空軍に関しては,僅かに3個飛行隊,即ち,Obdrej Dumbala大尉の指揮する,第13飛行連隊麾下の第39,第45戦闘飛行隊に所属する約20機のAvia B.534戦闘機と,第16観測飛行隊のLetov S.328観測機が10機,これらのみ,ポーランド戦役に参戦しています.

 このうち,Letovはスロヴァキア陸軍部隊の対地支援,爆撃,連絡,伝単の投下,首都と国境線間の急使派遣など,多様に使われました.
 また,ポーランド南部にドイツ軍が侵攻してからは,8機がVinne飛行場に進出し,ドイツ空軍のJu-87と共に襲撃に使用されています.
 しかし,ポーランドのStryj近郊で第39飛行隊のAvia B.534が敵軍の対空砲火で撃破され,操縦士のViliam Grun軍曹は,敵領土に脱出後,数々の逃避行を行ない,基地に帰還することが出来ましたが,9月9日に,もう1機のAvia B.534がPresovで不時着し,操縦していたViliam Jalovier伍長は運が悪く,死亡してしまいました.

 ポーランド戦役末期の9月26日,先述のViliam Grun軍曹は,Prasov近郊でポーランド陸軍第13飛行連隊のRWD-8連絡機を撃墜します.
 ちなみに,この時のポーランドは敗北し,所属の空軍機はルーマニアに越境している最中でした.
 ともあれ,撃墜は撃墜と言うことで,スロヴァキア空軍初の公式撃墜記録となりました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 スロヴァキア空軍は独ソ戦でどのように戦ったの?

 【回答】
 Slovakiaは,ドイツがソ連に侵攻した1941年6月22日に参戦した最初の衛星国の一つでした.

 東部戦線に陸軍が分け入っていったのと同時に,空軍も又,東部戦線に派遣されます.
 東部戦線に先陣として派遣されたのは,

Kornel Jancek少佐の第1観測飛行隊の
第1飛行中隊(Rudolf Galbavy大尉),
第2飛行中隊(Frantisek Wagner大尉),
第3飛行中隊(Belo Kubica大尉)
の合計30機のLetov S.328と,
Vladimir Kacka大尉率いる第2戦闘飛行隊の第11〜13飛行中隊に所属する,33機全てのAvia B.534戦闘機,
そして,
Imrich Kublis大尉率いる連絡飛行隊から,7機のPraga E-39,E-241,各1機のStinson SR-10C Riliantと Be-555 Superbibiが抽出されました.

 独ソ戦勃発以前には,これらの飛行隊は,平時の基地から野戦基地,即ち,Spisska Nova Ves,Kamenice nad Cirochou,Nizny Sebes,Nizny Hrabovecと言った,東部Slovakia地区に展開しており,独ソ戦勃発後の7月7日までに,更にUkraine西部地区に歩を進めることとなりました.

 けれども,これが意味するところは,Slovakia国土の防空を実質的に無防備にすることに繋がり,7月1日にはB.534を装備する第11飛行隊はPiestanyに帰還し,航空学校からの特に優秀な3名の操縦士を加え,これらの戦闘機を用いて,ドイツの兵器製造工場が多く配置されている,Vah渓谷の防衛戦力の基幹として配置し直されました.

 残りの5個飛行隊については,予定通り,Kiev方面へ向かう西部Ukraine地区に展開し,ドイツ軍の夏期攻勢,秋期攻勢の何れにも参加して成功裏に任務を完了しました.
 これらの飛行隊は以下の飛行場に展開して,任務を遂行しています.

第1飛行中隊 → Zagorze,Sambor,Lvov,Rzeszno,Vinnica,Haysin,Berdiczev,Bielaya Cerkev,
            Vasilkov,Mytnica,Bieliki,Nikolayevska,Sofiyevka
第2飛行中隊 → Koniuszki
第3飛行中隊 → Koniuszki,Komarno
第12飛行中隊 → Sambor,Lvov,Proskurov,Bar,Vinnica,Haysin,Berdiczev,Bielaya,Cerkev,
            Gubin,Mytnica,Bileliki,Nikolayevska,Sofiyevka
第13飛行中隊 → Sambor,Lvov,Rzeszno,Czortkov,Yarmolincy,Bar,Tulczyn

 さて,S.328装備の観測飛行隊は,退却するソ連軍部隊に対する攻撃,戦線を越えての偵察飛行,連絡任務に用いられました.連絡任務はその装備から見て余り適任ではありませんでしたが.

 一方で,1941年8月初めの時点で,Avia B.534装備の戦闘飛行隊は,ドイツ軍のHenschel Hs-126偵察飛行隊である,3.(H)/32,4.(H)/32と共に,戦線を越えていき,後に,S.328装備の飛行隊が彼らに付いていきました.
 戦闘機隊の任務もまた,戦場上空哨戒,地上目標への攻撃が主なもので,対戦闘機任務は余りありませんでした.

 この襲撃任務で一番戦果を挙げたのは,Vladimir Kacka率いる第12戦闘飛行隊のAvia B.534戦闘機11機で,Vinnica-Niemirov幹線で行軍中のソ連軍隊列を襲撃したことで達成されました.
 この時には4機の戦闘機が損害を被ったのにも関わらず,敵師団に壊滅的な被害を与えています.

 また,第12戦闘飛行隊が,空中での戦果を挙げたのは,1941年7月29日のことで,Josef Palenicek少尉率いる小隊が,15機の"Curtiss"戦闘機(実際は,I-15かI-153と思われる)と空中戦を行い,数機の損害と引き替えに,1機の"Curtiss"を撃墜した,と言うものでした.

 Avia B.534戦闘機では,不整地での離着陸性能が良いお陰で,少なくとも二人の戦闘機パイロットがソ連の捕虜になることを免れ,いくつかの冒険譚を作ることになりました.

 例えば,1941年7月25日のこと,第13飛行隊のAvia B.534戦闘機3機は,Ladislav Hodro曹長に率いられて,Henschel Hs-126の護衛任務に就き,Tulczyn近郊を飛行していましたが,この時,ソ連軍の重対空機関砲の射撃を受け,Frantisek Brezina軍曹の機体に命中して,機体はソ連軍の勢力圏内に不時着してしまいました.
 また,二人目のパイロットである,Stefan Martis軍曹の機体も,同じく対空砲火で,主翼と風防に損傷を負いました.

 しかし,Martis軍曹は不時着したBrezina軍曹の機体の側に着陸し,Brezina軍曹を乗せると,危険で冒険的な飛行を行い,遂に味方の勢力圏内にある飛行場に着陸させたのです.
 当然,この二人の操縦士が取った行為に対し,当局はこれを賞賛し,それぞれに2級と3級の英雄勲章を与えました
 これは,東部戦線で戦ったSlovakia空軍兵士に対する,最初の叙勲でした.

 それから5日後,第12飛行隊のJozef Palenicek少尉率いる6機のAvia B.534戦闘機は,Gradzev近郊を制空と爆撃任務のため,飛行していました.
 この時,Martin Danihelys軍曹の機体が対空放火で損傷し,前線後方の敵勢力圏内に不時着せざるを得ませんでした.
 と言うことは,即ち,彼が捕虜になる危険性がありました.
 そこで,Gustav Kubovic軍曹と,Jozef Drlicka軍曹の両機が残り,後者がDanihelys軍曹を救うために,彼の機体の側に着陸し,Drlicka軍曹の機体の主翼上にDanihelys軍曹を乗せたまま,離陸し,彼を安全な場所まで連れて行ったのです.

 但し,そうそう上手いことが続くことは無かったり.

 Slovakia軍の戦闘用航空機の最大の弱点は,燃えやすいことでした.
 彼らは,しばしば地上からの対空砲火(幾らかは味方,Slovakia陸軍とかドイツ軍から)により,損傷を受けることがあったのです.
 また,特殊なBiBoLi航空ガソリンや補充部品の欠乏に悩まされ,このためにエンジンに特別な改造を施さなければなりませんでした.

 これらの要因により,徐々に残存航空機の数を減少させていきました.
 さし当たり,第2飛行隊は7月25日の時点でKoniuszki飛行場から,Spisska Nova Vesに引き揚げざるを得なくなり,第1飛行隊,第3飛行隊についても,その半数を引き揚げてしまいました.

 他の飛行隊についても,長期間の派遣から徐々に撤退を行い,8月15日には第13飛行隊がTulczynからPiestanyに撤退し,その2日後には第3飛行隊の残余の部隊が,NitraからKomarnoに撤退.
 第1飛行隊の残余の部隊と,第12飛行隊だけは残置され,Kiev正面に進撃する快速師団を支援していました.

 さて,1941年9月に入ると,Slovakia空軍の活動は絶頂を迎えます.

 最初の半月,第12飛行隊は,Dnieper河の渡河を行うドイツ軍部隊から,Kiev北方60kmに位置するGornostaypolの橋の防衛を任されます.
 9月7日,その橋の上空で,10機のAviaB.534戦闘機と,9機のI-16とで空中戦が繰り広げられ,この戦闘では自軍の損害無しで,2機のI-16を撃墜しました.
 翌日,3機のB.534と2機のI-16との空中戦になり,今回は1機のB.534が撃墜されました.
 10日,3機のB.534が哨戒中,3機の"I-17"戦闘機(この機体は,最高速度480km/h超,20mmCannon砲を装備した新世代の戦闘機(LaGG-3,MiG-3などの可能性が高い)と同じ空域で空戦となり,1機のB.534が大破しましたが,2機の"I-17"戦闘機を撃墜しました.

 とは言え,これだけの奮戦に,第12飛行隊だけでは手が回らず,実際には,本土から第13飛行隊所属の10機のB.534が分遣されていました.
 しかし,これらの機体も戦闘で疲弊し,3機が損失していました.

 一方,快速師団を支援する第1観測飛行隊もまた,9月21日までにRudolfGalbavy少佐率いる7機のLetovS.328が最大級の戦果を挙げています.
 彼らは,空爆により,Prosev〜Sofiyevka〜Glikoye〜Voronkovを結ぶ線の東方地域において,集結地に集結した800両の車輌を撃破したのです.

 こうして,1941年の秋は概ねSlovakia空軍の旧式機材でも有利に過ごすことが出来ました.

 1941年秋の終わりに,最初に東部戦線に派遣された機体が引き揚げて来ました.
 1941年10月26日には,最後の第1飛行隊(この部隊は僅かに3機のS.328に減少していました)と,第12飛行隊(同じく4機のB.534戦闘機に減少)が,Sofiyevska基地からTri Duby,Piestanyの両基地に引き揚げて来ています.

 この年の派遣が一応成功裏に終わった背景には,赤軍の総退却と,I-15,I-153,I-16と言った旧式機で無秩序に構成されたソ連空軍が挙げられます.
 1941年7月から10月にかけて活躍したSlovakia空軍の兵士達は,自国の宣伝機関から,"tatranski orli" (タトラの鷲)という渾名を与えられ,その出撃回数は,東部戦線だけで3,275回を数え,殆ど損害無しに,I-16を3機,"I-17"を2機,"Curtiss"を1機撃墜しています.

 また,Slovakia空軍の操縦士は,対空砲火,敵機との戦闘で,修理が不可能であると明確に判明しない限り, 極力,機体を持って帰ろうとしています.
 作戦行動中に帰還に失敗した唯一人の操縦士は,1941年9月21日のJ.Kalisky軍曹だけでした. 彼はLetov S.328を護衛中,Rogozov上空で対空砲火によってまさかの撃墜を喫してしまいました.
 しかし,S.328はこれを助けようとせず,結果的に連絡飛行隊が責任を追求されています.

 1942年夏,東部戦線駐留Slovakia空軍部隊は機材補充を本国で行いました.
 1942年6月13日にUkraineを出発した部隊は,第1観測飛行隊,第11戦闘飛行隊の第一陣で,前者はLetov S.328を6機,後者はAvia B.534が12機と相変わらずの機体です.
 既に両機とも第一線で使えるものではなく,戦線後方でPartisan対策のための警備師団に協力して観測任務を実施する任務に就くことになりました.
 最初,両飛行隊は,Zitomir基地を根拠地にしていましたが,第1小隊(隊長:Frantisek Wagner大尉)では,連絡任務の他に,対Partisan攻撃任務も追加されました.
 これらの飛行隊は,1942年10月までにUkraineに残っていましたが,一旦本隊は本国に帰還し,連絡用の機体として,第3飛行小隊のS.328残存機,フランス製Caudron C-445M Goelandと米国製Stinson SR-10C Reliantが本国〜Ukraine間,またはCrimeaとその後背地との連絡に用いられています.

 第11飛行小隊(Ivan Haluzicky少尉,次いでJan Dulla少尉,最後がMikulas Guljanic大尉)は, 相当長期間,Ukraineに取り残されていました.
 この飛行隊は,1942年10月にOvruchに移駐し,1943年3月にはMinskに移駐しますが,相変わらず,Partisan相手の作戦飛行と偵察を続けていました.
 Slovakia空軍の隊員たちにとって,特にStalingrad戦の後の作戦は殆ど理解しがたいものとなり,士気は低下し,B.534とS.328の少なくとも2機が脱走したことが報告されています.

 これは,また,ドイツ人兵士たちが揶揄する文句,"Partisanen nummer zwei"(Partisanが二人いる)の理由の一つとなりました.
 1943年8月,部隊はMinskからPiestanyに引き揚げています.

1941年秋に,東部戦線の第一線から最後の飛行隊がSlovakiaに引き揚げてから少し経って,Slovakiaの首都Bratislavaに滞在していた駐留ドイツ空軍司令部に対し,Slovakia空軍は繰り返し使用機材の更新を依頼していました.
 Yak-1,LaGG-3,MiG-1/3と言ったソ連の新型戦闘機が頻々と見かけられるようになり,それが段々多くなってくるであろうと言う見通しの元,これらソ連新型戦闘機に対抗するためには,少なくとも1個飛行隊は,現在の機体よりドイツ製の優れた機体に更新し,訓練を積んで,最高の状態に持って来ておく必要がある,と言う訳です.

 その願いは,1942年2月25日に漸く叶えられ,18名のパイロットと,98名(一説には88名)の整備士が,新型戦闘機,Messerschmitt Bf-109Eの転換教育を受けるため,DenmarkのKarup-Grave基地にある戦闘機学校に派遣されました.
 その指揮官にはSlovakia空軍で最も有能な指揮官である,Ondrej Dumbala大尉(彼は,1941年に早くもドイツの二級鉄十字章を授けられた最初のSlovakia人のうちの一人)が任命されました.
 厳しい訓練を終えて,1942年7月6日,彼等の殆どは帰国し,第13戦闘飛行隊を編成します.
 機材は,1942年から翌年に掛けて,27機のMesserschmitt Bf-109E,内訳は,E-1/B,E-2,E-3,E-7,E-7/Tropが各2機,残り17機がE-4と言う編成で,何れもドイツ空軍の第一線機材更新によって余剰となった機体が,Slovakia空軍に引き渡されました.

 さて,新鋭機(苦笑)を渡された我らがSlovakiaの面々….
 1942年10月27日に,OndrejDumbala少佐(昇進した)指揮下の第13戦闘飛行隊の操縦士の面々が,所謂,第一次転換訓練修了者として,Azov海に面した東部戦線の基地へ向けて,Piestanyから出発しました.
 その展開時点では,7機のBf-109E"Emil"(1機のE-3,5機のE-4,1機のE-7)が参加し,11月に入ると,更に5機のBf-109Eが供給されました.
 1943年7月にJozefPalenicek少佐率いる第二次転換訓練修了者が戦闘任務にとって変わるまで,東部戦線で戦闘を行っています.

 この間,1943年1月5日には,第13戦闘飛行隊はKerchから移動して,Maikop基地に移り,此処から作戦行動に出ていました.
 3月18日にはTaman基地に送られ,4月1日にはAnapa基地,9月に再びTamanに戻り,その後Kerch,最後はBagerovo基地へと,即ち,独ソ前面の南部戦線で戦闘を繰り広げています.

 この頃になると,最早Emilの供給は無くなり,1月5日からBf-109F-3に機種転換され,3月1日には,更に新しいBf-109G-2が,同じ月の後半から月末に掛けては,ロシアに於ける最後の補給となるBf-109G-4が引き渡されていきます.
 けれども,これらの機体はSlovakia空軍のものではなく,ドイツ空軍のものを貸与されたもので,その結果,これらの機体にはバルカンクロイツが塗装されていました.
 Slovakia空軍の操縦士が使用していることを示すものは,僅かにプロペラスピナーのカバーに描かれたSlovakia国旗の色,赤,青,白に過ぎませんでした.

 第13戦闘飛行隊は,もはやSlovakia地上軍の支援に用いられることはなく,OttoDessloch将軍指揮下の第4航空艦隊に属するJagdgeschwader52(JG52)の13(Slowkei)Staffel所謂,13/JG52と称されるようになっています.
 この飛行隊は,Crimea半島,Azov海,黒海のあちこちで,中でもKuban近辺で過酷な空中戦を繰り広げていました.
 その任務は迎撃戦闘と爆撃機護衛の両方で,警戒警報で飛び上がったり,地上軍も攻撃したりと,正に八面六臂の活躍でした.

 1942年11月28日,Vladimir Krisko少尉と,Josef Jancovic軍曹の2人の乗った2機の"Emil"は,警戒飛行中に9機のI-153に遭遇し,損害無しでそのうちの3機を撃墜しました.
 これがEmilでの初めての戦果でした.
 この戦場に出撃していたソ連の航空部隊は,第4,第5前線航空軍で,最初のうち,Slovakia人操縦士達に対して,旧式機材と経験の浅い操縦士の組合せで立ち向かっていましたが,後になると,その機材は,MiG-3,Yak-1,LaGG-3,La-5,Spitfire,Airacobra,Pe-2FT,Boston他の機材に更新され,それと共に,操縦士の腕前も上がって,Slovakia人操縦士達は苦戦を免れなくなりました.

 第13戦闘飛行隊は,東部戦線から引揚げるまでに,凡そ2,000回の作戦飛行を果たし,210回の空戦(他の記録では204回または215回)に勝利したと考えられています.
 一方,操縦士の戦死者は僅か7名…ですが,その中には,Joseph Drlicka軍曹(三級英雄勲章,二級鉄十字章授章者),Jozef Jancovic軍曹(三級英雄勲章授章者)の様なエースも含まれていました.
 また,この飛行隊で最も成功を収めた操縦士は,Jan Reznak上級軍曹で,32機の確実,1機の不確実撃墜を記録し,ドイツ人から彼に対し,二級鉄十字章,一級鉄十字章,そしてドイツ十字章金章を授与しました.
 次いで戦果を挙げたのがJan Gerthofer中尉で,27機の確実,5機の不確実撃墜により,2級鉄十字章,1級鉄十字章を授与されています.
 同じく2位になるのがIzidor Kovarik軍曹で,29機の確実と1機の不確実撃墜により,2級鉄十字章,1級鉄十字章,黄金騎士戦功十字章,ドイツ十字章金章を授与されています.

 1位,2位と言った順位付けに関しては,ソ連軍機撃墜の数について,未だはっきりした資料がソ連側から示されていないので,未だ変動する可能性があります.
 第13戦闘飛行隊の戦果についても,戦果誤認など様々な理由で誇張していることが明確になっています.
 それどころか,戦後に新生Czechoslovakia空軍発足時に参加したSlovakia人達がその戦果(と称されるもの)を声高に主張したこともあり,正確な数が判りません.
 不運なことに,第13戦闘飛行隊に関する活動記録と書類が失われてしまっているため,事実を確かめる術はとても難しい訳です.
 けれども,その疑問に対する回答の一つとして,あるドイツ人歴史家が述べた様に,
「戦闘機パイロットに関するスロヴァキア人の記録は,ドイツ人の標準から見ても評価できるものである」
と言う賛辞があることも事実です.

 第13戦闘飛行隊は,1943年10月末まで東部戦線に留まり,以降,Slovakia本国に引揚げ始めました.
 ロシア戦線での最後の勝利は,1943年10月23日,Gustav Lang軍曹によって達成されています.

 第13戦闘飛行隊がSlovakia本国に呼び戻された理由ですが,主な理由の一つに,数人の操縦士がソ連側に寝返った事が挙げられます.
 特に,StalingradとKurskでの第三帝国とその同盟国の大敗北によって,彼等には,枢軸国側として戦うための意義が見いだせなくなり,戦意を喪失していきました.
 1943年9月9日,Kuban上空を哨戒飛行していた2機のBf-109G-4…Anton Matusek軍曹(彼は僅か1週間前に一級鉄十字章を授与されていた)とLudovit Dobrovodsky軍曹が操縦していた機体…は,無線でソ連機と衝突したと伝えた後,ソ連側に亡命し,後にソ連でLa-5FNの操縦教育を受け,Slovakiaの叛乱での戦闘に参加しています.
 また,1943年9月11日には,Alexander Geric軍曹が,Stefan Martis曹長と共にドイツ軍のFw-189偵察機を護衛中に戦線を越えてしまい,帰還に失敗したとされました.
 実は,彼等は元々の計画で,この偵察機を撃墜する予定でいましたが,その攻撃に失敗しました.
 しかし,Stefan Martis曹長がAnaba着陸後に,ソ連軍機によって攻撃を受けたと報告した上,Alexander Geric軍曹のBf-109G-4が撃墜されたとしています.
 Moscow放送すら,そのGericの撃墜について触れ,撃墜したパイロットは勲記を受けたとしていました.
 実際は,Geric軍曹機の胴体内には,無線修理兵のVincent Tkacik一等兵が同乗しており,彼等は共にソ連の地に亡命していました.
 Tkacik一等兵は,ロシア人達にとって未だ秘密の塊だった通信基地設備のエキスパートで,彼の情報はソ連軍にとっても有用だった様です.
 1944年にAlexander Geric軍曹は,諜報任務のためにソ連からSlovakiaに戻ります.そして,1944年8月29日,彼はPraga E-39で,Illava北方に飛行するため,Piestanyを離陸しますが,失敗して死亡しました.

 1943年9月11日に発生した事実が発覚すると,遂に,Ferdinand Catlos将軍を第13戦闘飛行隊の司令に任命し,部隊は,「士気の低下」を撤収の理由としましたが,実際は,Slovakia駐留ドイツ空軍作戦司令部の命令が下ったためで,10月までにVajnoryに撤収を完了しました.
 撤退後は,Emilが5機,Slovakia空軍の所有物として引き渡され,1943年に引き渡されたGustavは,全機がドイツ空軍で用いられ,失われました.
 このため,最新の機体が,新たに飛行隊に供給されています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

スロヴァキア空軍のBf-109


 【質問】
 スロヴァキア空軍は,本土防空ではどう戦ったのか?

 【回答】
 1944年からイタリア南部を基地にした第15空軍の空爆標的としてSlovakiaが挙げられるようになります.
 Slovakiaの空爆目標には,首都Bratislavaの精油所,Dubovaの石油貯蔵施設,Dubnice nad Vahomその他の 兵器工場があり,Slovakia空軍は,その状況に対する早急な対応をしなければなりませんでした.

 東部戦線から撤収後した第13戦闘飛行隊(Vladimir Krisko中尉,彼は東部戦線で9機を撃墜したエース)が 指揮官になりました)は,Vajnoryに基地を置き,1944年2月からはPiestanyに移駐しました.
 その任務は,首都Bratislava近辺の拠点防空であり,このため,Emergency Flightと非公式に呼び慣わされる 様になりました.
 けれども,その機体は旧式化しており,12人の操縦士に14機の機体が配属されてはいますが,2機のBf-109E-1/B,1機のE-2,1機のE-3,6機のE-4と,1機のE-7/trop,更に2機のAvia B.534と1機のBk.534だったりします.

 その飛行隊の本土防空戦に於ける「初撃墜」は,Danubeに不時着させたもので,1944年3月13日のこと,緊急警報により出撃した,2機から成る警戒飛行隊のうちの1機,Rudolf Bozik曹長が,ドイツ空軍II/ZG1の「双発機」Bf-110G-2を攻撃したものでした.
 この駆逐機は,接近してくる2機のEmilをP-51と誤認し,攻撃したので,その結果として,Rudolf Bozikは,これを撃墜し,後に,「米国の『四発爆撃機』を撃墜した!」と報告した不幸な事故だったりします.

 さて,ポンコツと言っても良い機材で編成された,Slovakia空軍第13戦闘飛行隊ですが,これらの機体は漸く,ドイツ本国から供給された14機のBf-109G-6で代替されることになりました.
 この部隊は,Wienにある,ドイツ空軍本土防空戦闘機隊の一部隊である,Oberst Gotthard Handrickが指揮 するJG8の配下にある予備部隊としての位置付けをされています.

 1944年春にそのBf-109G-6群は,莫大な数の米国爆撃機に対して,毎日の様に迎撃戦闘任務を行っていま したが,実際は人目に付かずに訓練を実施すると言う名目で,万一戦闘に巻き込まれたとしても,それを回避 することになっていました.
 と言うのも,その機体と乗員たちは,来るべきドイツに対する叛乱の為に温存しておくべきだと判断されたから です.
 その叛乱計画は,Slovakia国防相のFerdinand Catlos将軍が陸軍の参謀達と計画していたものとは別個に, Jan Golian大佐が計画していたものでした.
 ですから,BratislavaにいたSlovakia駐留ドイツ空軍作戦本部の将校達は,Slovakia空軍の飛行が消極的だと言ってSlovakia空軍の部隊を非難していました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 対ドイツ反乱の際の,スロヴァキア空軍の働きについて教えてください.

 【回答】
 1944年8月29日,ドイツ軍は,アテにならないSlovakia保護国の直接統治域のいくつかを占領下に置きました.
 同時期,Slovakia陸軍は,連合国の一部であるCzechoslovakia陸軍の一部であることを宣言し,ドイツ軍に対する抵抗戦に入ります.
 叛乱した陸軍は,1944年10月には5万の兵士と7,000のPartisanで構成され,Jan Golian大佐(後,准将)と,後に彼の後を継いで,師団長だったRudolfViest将軍が就任します.
 なお,Viest将軍はCzechoslovakia併合後,Londonに亡命し,Moscowを経て着任しました.

 さて,叛乱空軍は,ZvolenとBanskaBystricaの間に位置するTriDubyに集中配備していました.
 それまでこの基地は,青年航空学校,整備学校,操縦学校と言った航空関係の学校から来た生徒を,Slovakia空軍兵として訓練する空軍飛行学校が設置されていた場所でした.
 可能な限り,Slovakia空軍兵士(偶にはその乗機も含んで)達は,Vajnory,Piestany,Trecinなどの残存Slovakia空軍基地からこの基地めがけて集まって来ました.
 それに加えて,残置されたMokradの航空補給部隊,また,Popradの第41爆撃飛行隊から,叛乱初日の占領ドイツ軍に対する作戦任務に従事した後,TriDubyに移動したLetovS-328が数機――元々,これらは混成航空団の機体,但し,この機体は既に用途廃棄になっていた旧式機――増加しました.

 こうして増えた混成航空団の構成は,
Messerschmitt Bf-109E-4が2機(但し,弾薬は欠乏している),
Avia B.534が4機,
Letov S.328が7機,
Savoia-Marchetti S.M.84bisが2機,
同S.M.84が1機,
Focke-Wolf Fw-58Cが2機,
Junkers Ju-52/3mが2機,
Caudron C.445Mが2機,
Junkers W.34が2機,
Klemm Kl-35Dが2機,
Praga E-39が6機.
 このほか,操縦訓練学校のFocke-Wolf Fw-44,Heinkel He-72,Gotha Go-145も加わっています.

 こんな状態であるため,混成航空団は1944年9月初旬から,以前航空戦闘団の基地にあったMesserschmitt Bf-109G-6を2機,Letov S.328を2機,Focke-Wolf Fw-189A-2を1機,それぞれ整備の上,ソ連を通じて引き渡して貰っています.
 それでも,いくつかの機体は,弾薬と予備部品の欠乏で早々に失われ,それ故に,機体は少数であり,戦闘に必ずしも適切な戦力投入が出来ませんでした.

 混成航空団の指揮官は,MiklasSinglovic中尉(後にVladimirKrisko中尉)で,彼の下に,25名の操縦士と12名の機上偵察員,そして,12名以上の地上要員から成っていました.
 また,彼等に混じって,旧Yugoslaviaの2人の操縦士が所属していました.
 1人は,Arsenije Bolievic少佐(Yugoslavia王国空軍第34戦闘飛行隊)とSavo Poljanec大尉(同国空軍第161戦闘飛行隊)の2人ですが,彼等はドイツ軍の捕虜収容所を脱走して:,Slovakiaに入ったところで,叛乱に遭い,彼の国の空軍に身を投じたものです.
 なお,叛乱空軍の総司令官は,Jozef Toth大佐でした.

 叛乱初日から,混成航空団は基地周辺を防禦しつつ,ドイツ占領軍に対する攻撃,宣伝ビラの散布,安全な連絡手段の提供,包囲された味方への補給などを行っていました.
 これらの任務は,主にS.328,B.534,Bf-109G-6が担っていました.
 混成航空団の航空機は,戦闘中に損傷を負ったり,時には乗員が怪我をした状態で帰還することも屡々でした.
 その整備士達は,これらの機体を維持し続けるために戦闘による損傷を修復するのに一生懸命に働き続けました.
 また,彼等は夜間の間中ずっと,ソ連軍の輸送機であるLisnov Li-2やDouglas C-47から補給品や武器をTri Duby基地に荷下ろしする任務に就かなければなりませんでした.
 他の航空兵や飛行学生達は,凡そ1,200名に達しましたが,彼等に行き渡るくらいの機体が十分に無く,歩兵部隊としてドイツ軍相手に勇敢に戦いました.
 これらの歩兵部隊は,3つの歩兵大隊…これらは,Ivan Haluzicky大尉,Daniel Kunic大尉,Teodor Slajchart大尉の3名の士官の指揮下にありました…と,3つの歩兵中隊…これらは,Mikael Minka中尉,Juraj Mesko中尉,Jan Zubrik中尉が指揮していました…で構成されていました.
 ちなみに,彼等の部隊のことをドイツ人達は,「青い悪魔」と呼んでいました.

眠い人◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 スロヴァキア反乱における,米ソ等のスロヴァキア空軍への支援の内容は?

 【回答】
 Slovakia叛乱の期間中,空軍は困難な立場に追い込まれています.
 その理由の一端は,1944年7月1日にMoscow北東350kmのIvanovo飛行場で編成された,第1チェコスロヴァキア戦闘機連隊が,ソ連から派遣されてくることにありました.
 その連隊は以前,英国空軍に参戦していた20名の戦闘機操縦士達で編成され,彼等は義勇兵として東部戦線に参戦していたものでした.
 彼等はRussiaの地で,更に2人のSlovakia人,1943年9月9日にBf-109G-4を駆ってソ連側へ脱走し,ソ連戦闘機の飛行訓練を受けていた,元第13戦闘飛行隊所属のAnton Matusek曹長とLudorvit Dobrovodsky一等軍曹を組込ます.

 1944年9月17日,連隊は,Zvolen近郊のZolna飛行場で,新品のLavochkin La-5FNを21機受け取り,後に,Tri Dubyからの作戦に参加することになりました.
 この精鋭飛行隊は,直ちに前線に参加することを宣言し,混成航空隊は短い勝利の後に,その要員の休息と,保有航空機の修理の時間を与えてくれたのです.
 既に9月18日の時点で,連隊の8機の機体が,Piestanyのドイツ空軍基地に対する攻撃を行い,6機の機体を地上で破壊し,自らの損害はゼロと言う戦果を挙げました.
 その後,9月20日には,Slovakiaにある別のドイツ空軍基地,Malacky-Novyを破壊する,米国陸軍航空隊第15空軍の空襲に参加し,米軍と共同で27機を破壊しています.
 このためドイツ空軍は,Poland南部に配備していた,第77地上襲撃航空団とマジャール北部に配備していた第52戦闘航空団をこの叛乱に投入せざるを得なくなりました.

 この戦闘飛行連隊は,のべつ幕無しに,多くの作戦に参加しました.
 爆弾を搭載して地上部隊を支援したり,叛乱軍の航空基地上空の防空なども実施しています.
 これらの活動期間中,573回の戦闘飛行任務に就き,13機を撃墜(Bf-109を4機,Fi-156を3機,Fw-189とFw-190をそれぞれ2機ずつ,Ju-87とJu-88をそれぞれ1機ずつ)し,多くの機体と地上設備を地上で破壊しました.
 この中で最も戦果を挙げたのは,チェコ人のLeopord Srom准尉で,彼は,3機のBf-109,1機のFw-189と1機のFi-156を撃墜しています.

 反面,彼等の損害は,10機の航空機が破壊され,そのうち3人の操縦士が死亡,1人が捕虜となり,4人が不時着して負傷しました.
 この損害の総ては,地上からの対空砲火に依るものでした.

 ソ連側もこの叛乱に手を差し伸べています.
 武器や軍需物資の運搬には,主に第4親衛爆撃航空師団"Bryansk"のNorthAmericanB-25Mitchell が投入されました.
 こうした物資は,1944年9月4〜5日の夜間にTriDuby飛行場に,同じく1944年9月21〜22日夜間からは,BreznoとHronom近郊のRohozna補助飛行場にそれぞれパラシュートで投下されました.
 これらのMitchell爆撃機は,1944年10月27日までに498回の投下を行い,うち352回が成功,そして,253tに及ぶ武器,弾薬,火薬を叛乱軍に届け,その間に1機を失っただけでした.

 同時に,ソ連長距離空軍第5航空軍"Orel"の第53航空師団"Stalingrad",第54航空師団"Orel"所属のDouglasC-47とLisnovLi-2もまた,物資や人員の輸送にあたりました.
 天候が許す限り,これらの機体は,TriDubyに向けて軍需物資を輸送すると共に,Slovakia陸軍からの脱走兵とCzechの亡命兵で構成され,ソ連国内で編成された第2Czechoslovakia空挺師団の2000名程度の兵員も援軍として送り込んでいます.

 このほか,Lavochkaの第1飛行連隊は航空燃料を運搬し,帰りに傷ついた兵士,女性,子供たちの脱出を助け,ドイツによる叛乱鎮圧前には,Slovakia所有の準備金をRussiaに運搬しています.

 1944年9月26〜27日の夜間から叛乱鎮圧までの間,第5航空軍"Orel"は,701回の飛行を行い,うち354回が成功,その輸送で,385tの武器,弾薬,軍需物資と1,928人の兵士が輸送され,698名の人々と,20.3tの物資がソ連側に輸送されました.
 失われた機体は,DouglasC-47が6機,LisnovLi-2が8機を数え,最後の飛行は,1944年10月24〜25日の夜間飛行でした.

 次は米軍の間接支援.

 1944年6〜8月に掛けて,Slovakia上空で,ドイツ空軍本土防衛戦闘機隊と,米国陸軍航空隊第15空軍との間で幾度の戦闘があり,米陸軍航空隊は,13機のB-24,2機のB-17,2機のP-38,1機のP-51を喪失しました.
 ドイツ軍はこれら撃墜機から脱出した米軍の乗員を捕獲し,Ferdinand Catlos将軍指揮下のPerzinok近郊にあるGrinavaの捕虜収容所に収容していました.

 1944年9月1〜2日の叛乱に際し,其処のSlovakia軍監視兵は捕虜収容所を脱走し,叛乱の中心地,Banska Bystricaに向かいますが,
 その時,収容されていた米陸軍航空隊の兵士26名も彼らに合流して脱走しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


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