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◆◆◆◆ドイツの戦後
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<第2次世界大戦


(画像掲示板より引用)


 【link】

ドイツの戦後補償─経過と内容

平野耕太 in twitter◆(2013/03/09)
 コスプレ死亡かるた,ぜんぜん関係ないけど,ドイツのイベント行ったとき,ドイツの人が
「ギリギリ警察に捕まるか捕まらないか,微妙なレベルで絶妙に細かく改変した,ナチス親衛隊っぽい服」
で来てて,むこうはナチ服で公に闊歩はリアル投獄なので,命がけでコスプレしてきてて,もはや感動した.

『〈戦争責任〉とは何か 清算されなかったドイツの過去』(木佐芳男著,中公新書,2001.7)

 ドイツの戦争責任ネタだと,本書が面白いな.
 全ての責任をヒトラーにおっかぶせて,それを否定して市民や国防軍の責任を追及すると,糾弾されるとか,2001年発行だから今はどうか知らんが,そんな現状が書かれてた.
 あと,笑ったのがドイツの平和運動家が,日本の平和教育を「先進的」と評して,
「ドイツも日本を見習うべき」
って語るくだり.
 どこの国もよその国を理想にするんだなー,と思った.

-----------------軍事板,2011/11/02(水)
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 「ラートブルフの原則」とは?

 【回答】
 「実定法は多少とも正義感に反する場合でも,それに従わねばならないが,正義との距離があまりに耐え難い場合は,正義に立場を譲らねばならない」とする原則.
 1946年にラートブルフが論文として発表,第3帝国の国家犯罪を裁く根拠となった.

 以下引用.

 さらには,「実定法は多少とも正義感に反する場合でも,それに従わねばならないが,正義との距離があまりに耐え難い場合は,正義に立場を譲らねばならない」といった内容の,いわゆるラートブルフの原則が〔旧東ドイツの国家犯罪を裁く裁判に〕採用された.

 法哲学者ラートブルフは,ナチ支配下では合法的であった第3帝国の犯罪を裁く根拠となるこうした考え方を,1946年の「法的不正義と超法規的正義」という論文で記している.

三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.169
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,
その点は留意されたし


 【質問】
 終戦後,連合軍の捕虜となったドイツ兵100万人が,連合軍側の虐待などにより死亡したという説の真偽はどうなのでしょうか?

 【回答】
 戦闘中,もしくは占領の混乱時,しかも,数カ国に分割占領されている状況においては,本当にそうだったのか,良く判らない謎と言うのが結構あったりします.
 ドイツの「消えた100万人」についても同じ事が言える訳で.

 ドイツ国内に連合国軍が攻め込むと,武装解除した軍人や党機関の人間などの処遇が問題になります.
 1944年11月からそうした人々を,一時的に抑留するケースが発生しだしています.
 連合国軍欧州軍最高司令部で抑留が見込まれていた員数と,実際に行われていた員数は正確には判らりません.
 1944年12月に同司令部のG2が見込んでいたのは,19.8万名でしたが,G5では,43万人と見積もっていました.
 米国の歴史家Friedmanは,1945年の拘引者数を13.5万人としています.
 1948年6月8日にA.ザイドルは,こうしたドイツ人の数を100万人と予想しています.
 但し,フランスで懲罰的な建設作業に携わっていた70万人については,この数には入っていません.

 1944年9月16日付の「対敵情報指令」の付属文書Bでは,ゲシュタポ,SD隊員,警察署長と部長,治安及び公安警察隊長,警察役職者,親衛隊と警察の上級指揮官,武装親衛隊とナチス党下部機関・関係団体指導者,高級官僚,特別な全国機関の構成員などが抑留対象者として挙げられ,ゼルナーによれば,その数は22.2万人に上る予定でした.

 米軍占領地域においては,こうした抑留者は,旧収容所に収容され,オーベツウルゼルとシュヴェービッシュ・ハルが最も悪名の高い収容所とされています.
 このほか,ケルン,レマーゲン,ヴュルツブルク,ハイルブロン,ダッハウ,レーゲンスブルクなど40カ所で収容されたほか,「全国労働奉仕隊」や「ヒトラーユーゲント」の隊舎,軍演習場,強制収容所,休業中の工場も活用されました.
 しかしながら,そこに対する給養は最悪に近く,栄養失調による浮腫に掛かったり,中には餓死する人々も出ることがありました.
 但し,こうした死亡者は,行方不明とか損失などとして扱われ,その数は明確にはなっていません.
 そこで,100万名の死亡者が出たと言う話に繋がっていきます.

 とは言え,戦争世代の人々へのアンケート調査では,回答者1127名中,抑留経験者は628名で,抑留期間は平均30ヶ月,その釈放証明書によると,拘引理由の大多数は,ナチ「同調者」とされています.
 そのアンケートでは457名が甚だしい虐待を受けたことを,479名には後遺症が残ったとあります.
 この対象者の版数以上は,下級職員,職人,鉄道員,主婦,労働者だったそうです.

 こうした抑留者達は,収容所審問部で審理が終わり次第,数日,数ヶ月,数年後に釈放されましたが,逮捕と抑留は間違いだったと申し渡されることも多かったとか.

 フランス軍占領地域でも,問答無用の逮捕が可能とされ,フランス将兵の殺害には,重罪が予告されていました.
 ジンゲン・アム・ホーエントヴィールの市長は,連合国将兵が暗殺された場合用に,地元名望家30名を,銃殺要員として指定しなければなりませんでしたし,ユーバリンゲンでは,住民がフランス将兵に発砲もしくは将兵を襲撃した場合,50人の市民の射殺と,周辺地域の焼き払いを宣告されていました.

 フランス軍政府ハンドブックの第90項では,反抗的ドイツ人,ナチ党員の疑いのある者は全て問答無用で拘引出来ることになっており,数千の人が街頭で拘引され,拷問を受けています.

 こうした実数は把握出来ていません.
 当のフランス軍自体,拘引したのに逮捕者の氏名を登録することすら有りませんでした.
 また,収容所での拷問も日常茶飯ですが,上記の状態であったが為に,死者の数は正確には把握されていません.

 1960年代に「旧占領軍拘留者協会」によって,拘引された人々の数が1945年夏現在で,20万人プラスマイナス25%と推定され,1949年夏でも5,000人が収容所に入れられていました.
 うち,女性は10%.

 また,1945年10月から47年3月にかけて,軍政府によって,20万人の書類が調べられ,127名の戦争犯罪人が逮捕,3981名のナチ党員が拘留され,8.75万件の制裁措置が申し渡されています.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月22日



 【質問】
 上記に関する,現存する資料には,どんなものがあるのでしょうか?

 【回答】
 米兵によるダッハウ収容所員の処刑(1945.4.29:329〜500名殺害)
→ 米陸軍省法務局によって記録,写真ならびに映画撮影が行なわれている.

(参考文献)
  Howard A. Buechner "The Hour of the Avenger(1986)
  Nerin E. Gun "The Day of the Americans"(1966)

 スウェーデンによるドイツ兵士のソ連への引渡(1945.12:2,522名)
→ スウェーデン軍将兵はこの移送命令を拒否,国家警察が輸送に当たる.

(参考文献)
 パウル・カレル著『捕虜』(学研,2001.11)

 チェコに於けるドイツ兵の虐殺
→ ミレシャウに於けるチェコ人の残虐行為が記録に残る.
   1990年代,殺された将兵の集団墓穴が発見され,個人の写真が報道され,明らかとなる.

 米仏による強制収容所の転用(1945.:200万人).
→ 平均30ヶ月の抑留.釈放証明書の存在など.

(参考文献)
  ジェームス・バクー著『消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所,死のキャンプへの道』(光人社,1993.11)
  Charles Lincoln "Auf Befehl der Militarregierung"(1965)など
(ただし『消えた百万人』については,捕虜に関する統計のOther Losses(その他減耗)には,すぐに釈放されたヒトラー・ユーゲント隊員などが含まれていることを無視しているという批判があるとのこと.
 英語版ウィキペディア参照)

 デンマークのドイツ兵捕虜による地雷除去作業(1945.5〜10:死者250名,重傷250名)
→ 英軍将校による命令により,リンデマン将軍の個人的責任で,地雷除去作業を命令.

(参考文献)
 Helge Hagemann "Under Tvang"(1998)

などなど.

 捕虜虐待に関しては,『世界戦争犯罪事典』(秦郁彦,佐瀬昌盛,常石敬一監修:文藝春秋社,2002.8)から参考文献を抽出しています.
 この本自体は,変にソースが偏っている訳でもなく,欧州関係については,ドイツ軍事史研究所のHorst Boog元所長,ドイツ連邦軍将校で,戦史研究家のFlorian Berberich氏,米国の元司法長官Ramsey Clark氏などドイツ,オーストリア,旧ユーゴ,米国など様々な立場の将軍,提督から,医学者,歴史関係,政治関係の研究所研究員,歴史家,大学教授,法学者,文筆業,教育学者など様々な階層の人々がその編纂に関わっているもので,かなり資料的価値が高いと判断してます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 【反論】
 大木毅氏によると,バクーの「消えた百万人」は間違えだらけの本であり,バクーの主張は欧米では,とっくに専門研究者から論破されているそうです.
 やや長くなりますが,引用します.
------------
 このようなソ連の捕虜に対する扱いを考えると,西側連合軍のドイツ捕虜に対する処遇は比較的人道的だと思われてきた.
 ところが,近年,こうした理解に異議を唱える著作が登場した.
 カナダ人ジャーナリストのジェームズ・バクーの書物,『その他の減員』である.(邦訳『消えた百万人』光人社,1995年).

 バクーは,アイゼンハワー将軍の命令によ,り百万人ものドイツ捕虜が組織的に殺害されたというテーゼを,この著作で展開したのだった.
 1989年に出版された『その他の減員』は,同じ年にドイツにおいても訳出され,『計画された死』という刺激的なタイトルで出版され,ベストセラーになった.
 これが事実であれば衝撃的なことであり,またわが国の「専門家」のなかにも,バクーを評価するものがすでに出ている.

 しかしながら,バクーの『その他の減員』は,やはりセンセーションを狙った書であったらしい.
 ドイツ捕虜の処遇に対する専門書を著しているアーサー・スミスは,猛烈な反論をバクーに向けている
(Arthur L. Smith Jr.,Der geplante Tod,in D.Bracher(Hrsg.),Deutschland zwischen Krieg und Frieden,Dusseldolf,1991).

 紙幅の都合上詳細は避けるが,スミスによれば,バクーの主張は先行研究や重要史料を無視して,都合のいい史料だけに恣意的に依拠したものであるという.
 一例をあげれば,ドイツ連邦文書館(バクーはここの史料も利用したとしているのだが・・・・・・)には,アメリカ捕虜収容所におけるドイツ捕虜の待遇に関する,さまざまな統計や報告が残されているのだが,バクーの著作ではまったく無視されている.
 極めつけは,殺害されたと称する捕虜の死体処理で,百万もの人間が殺されたならば当然,死体処理施設がなくてはならないはずである.
 ところが,スミスにこの質問をぶつけられたバクーは,
「どのように死体を片づけたかはわからない,おそらくライン川沿いの閉鎖された坑道に投げ込まれたのだろう」
と答えている.

 これ以上の解説は必要ないだろう.
 戦時捕虜の運命は,人々の関心を引きやすいテーマではある.
 それだけに,我々は「新説」には慎重であるべきで,「アウシュヴィッツはなかった」式の嘘には,くれぐれも注意しなければなるまい.

------------大木毅・鹿内靖共著『鉄十字の軌跡』(国際通信社,2010/8/8),p.208-209
 このことから,「消えた百万人」を参考文献に挙げるのはまずいと思われます.

モーグリ in FAQ BBS,2012/7/1(日) 21:18
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ドイツ人捕虜も,シベリア抑留日本兵と同じように土木作業をやらされたりしたの?

 【回答】
 ドイツ人捕虜の場合,1941〜49年まで,大規模工業施設や炭坑の建設および再建,鉄道・道路の建設,橋梁の建設,暖房・ガス管の敷設,都市住宅および労働者共同住宅の建設などに従事しています.
 これらドイツ人捕虜が建設したのは,ウクライナのコルホーズ建設,ドンバス炭坑の再建,レニングラードの石炭供給,世界最大の水力発電所,モスクワの地下鉄,運河,モスクワのディナモ・スタジアム,東シベリアのゴルドベルク工場,原爆研究所まで,多岐にわたっています.

 捕虜を監督するGUPVI(ソ連捕虜抑留者問題管理総局)の収入は111億ルーブル,経費支出は133億ルーブルで,赤字ではありましたが,その後のソ連経済に対する価値は何倍にもなります.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 戦後のソ連抑留時にいわゆる思想転向をして,国家人民軍やシュタージで高官に就いたドイツ捕虜で,名前や経歴がわかる人物がいれば教えてください

 【回答】
 一番有名なのはスターリングラードで捕虜になったパウルス元帥.
 戦後は東ドイツ軍の再建に関わり,「赤いプロシア軍の父」と呼ばれた.

 あとはスターリングラードで捕虜となり,戦後NVAの将官になったヴィルヘルム・アダム大佐とかアルノ・フォン・レンスキー少将とか.
 その他,戦後NVAに入った元国防軍軍人たちは以下を参照
http://www.axishistory.com/index.php?id=5706
 階級はNVAでの最終,カッコ内は国防軍時代のもの.


 【質問】
 日本と違って,独では大戦中の軍人も堂々と顕彰されており,国民からの敬意も払われていると聞きますが,国防軍ではなく,武装SSの在籍者も同様なのでしょうか?

 【回答】
 旧SS隊員は差別されていました.
 なにせ戦後も国防軍の元兵士とは違って,軍人恩給や年金が支給されなかったし.ヨッヘン・パイパーが戦後釈放された後,迫害を受けてドイツに住むことが出来ず,やむなくフランスに移り住んだのも知られた話.

 1949年に成立したボン基本法(旧西ドイツの暫定憲法)131条では,
「ドイツ敗北後,公職追放された官吏,扶助を貰えなくなった軍人の新補償法を今後定める」
としていますが,この「軍人」の定義には,武装SS隊員は入っていませんでした.
 1950年,その矛盾を排すべく,尉官級の元武装SS将校によって,「互助会」というのがローカル的に作られ,武装SSの戦友会組織として1951年10月には,全国176の支部を持つ一大圧力団体と化し,ドイツ軍人同盟,ドイツ軍人防衛同盟,降下部隊兵士同盟,ドイツ・アフリカ軍団連盟,自動車部隊組織,グロース・ドイッチュランド伝統共同体,鉄兜団の軍人団体で構成された全国退役軍人組織「ドイツ軍人同盟」に参加しています.パウル・ハウサーも「旧武装SS隊員相互扶助協会」の中心になって活躍しました.

 1952年12月,建国以来首相となっていたAdenauerは連邦議会でこう演説しています.
「『あらゆる』軍組織に勤めた全ての国民が立派に戦ったのであり,ドイツ軍人の誉れと偉大な功績は,我が国に於いて生き続けるものである」
 1953年には,カナダ軍捕虜の殺害の罪で無期刑を受けていたKurt Meyerと英軍刑務所で面会(後に14年に減刑し,1954年9月に釈放)し,1954年8月30日には議会で,武装SSの名誉回復宣言を行なっています.

 ただ,この段階で131条の適用は為されず,その対象になったのは,兵役義務法と引き替えに自由民主党の対案と社会民主党の支援で,1961年6月に,特務部隊に10年以上勤務した者で,勤務内容は軍役相当に限るとされた人々でした.

 なお,「国民からの敬意」とありますが,オットー・カリウス氏の手記では,戦後旧軍人に対して国民が敬意を払ってくれないと愚痴ってます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2他


 【質問】
 戦後のドイツでは,ヒトラーやナチだけでなく,戦争犯罪を犯していないドイツ軍人にも,風当たりが強かったんですか?
 例えばロンメル将軍やルーデルも,口に出すのはタブーだったんですか?

 【回答】
 ルーデルは「ソビエト人民最大の敵」とか言われてたのでちょっと微妙.
 そもそも一般人には,あまり知名度がなかった.
 軍のアドバイザーとしては,普通に活動している.

 ロンメルは「ヒトラー暗殺未遂事件」に関わってたとして自殺を強要された,ということで一転して,「ヒトラーとナチに抵抗した人」扱いで,西ドイツの軍艦に名前が付いたりしている.

 基本的には,「ナチス党の幹部党員」「親衛隊(武装親衛隊含む)の将兵」だった人以外は,そんなに「タブー」扱いはされていない.
 公然と賞賛するのは遠慮されたけど.
 逆に,ナチスに抵抗したりヒトラーの命令に従わなかったり反抗したりした人は
「ドイツ人にだって,ナチスに反対していた人はいた.
 みんながナチに加担した訳ではない」
というドイツ人の自己正当化意識から,積極的に語られたりもしている.

軍事板,2009/08/25(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 国防軍やSSに対する,戦後ドイツ国内の評価の変遷を,知りたいんだけど.

 【回答】
50年代〜 まったり 「俺達がんばったよね」回顧録がボチボチ出てくる
60年代〜 アイヒマン裁判で風向きが一変,武装SSが叩かれ出す,国防軍も微妙に
80年代〜 ドイツ統一後,国防軍も叩かれ出す
90年代〜 国防軍の戦争犯罪展が開かれる
現代〜  いやー当時はろくなもんじゃないね (いまここ)

 60年代に浪花節で名誉回復を図り出したのがパウル・カレル.
 その後の現在定着しているドイツ軍神話はそこから始まった.

 今日,歴史資料の解明により,ドイツでは,国防軍(陸・海・空軍の総称)は「綺麗な戦争を戦い」,悪逆非道だ ったのは「ナチ」である,と言った一種の伝説も見直されているようです.
 敗戦後,多くの復員軍人を抱え,ドイツにも「良識があった」との考えに慰めを見出すためにも,伝統ある「国防軍」はドイツ人達の心の支えになったのかもしれません.
 が,伝統と栄光ある「国防軍」にも,実は「悪逆非道」の徒はいたのです.

 ヴァルター・フォン・ライヒェナウ陸軍元帥はその戦略能力の高さからあまり悪い評判は立っていませんが,国防軍を「ナチ」と迎合させた張本人です.

 フォン・ライヒェナウと同じく高い戦術能力を持ったヴァルター・モーデル陸軍元帥は,生粋の「ナチ主義者」でありました.

 「陸軍は皇帝派,海軍はキリスト派,空軍はナチ派」と言った色分けも一部ではありますが,事実は「ナチ共」はあらゆる組織に浸透していたのです.

 逆の場合もあります.テオドーア・アイケSS大将は強制収容所の看守部隊の親玉で,戦時中は武装SS師団「トーテンコップフ(髑髏)」の司令官でした.
 強制収容所の劣悪で非道な環境や待遇は,彼が考案したとも言われていますが,ロシア戦線で見事な部隊指揮を見せ,「ドイツ参謀本部の傑物」とまで言われたエーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥ですら,「勇敢な軍人であった」と評しています.

 映画「将軍たちの夜」でも大きなウェイトを占める,7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に連座した罪で処刑されたアルトゥーア・ネーベ警察大将(兼SS大将),独ソ開戦時には「アインザッツグルッペン(特別行動隊)」の指揮官としてロシアに赴きますが,「特別行動隊」の任務はユダヤ人狩りとロシア知識階級の絶滅でした.
 また,実話を元にした映画「大脱走」で,脱走後に再び囚われた連合軍捕虜の処刑者リストを作成した(国際条約違反であることは明らかですが)のも,このネーベ将軍であったと言われています.

 お解りでしょうか.
 軍務で勇敢な功績を立てれば,或いはその他の行為で過去の罪の「御祓」を行えば,過去にどのような行為を行って,どのような危険思想に染まっていようとも,その人物は高く評価されているのです.
 言い換えれば,軍務による功績によって彼らの犯した罪が「隠滅」されているのです.おそらく,この風潮は戦後の一時期に著名なドイツ軍人達が氾濫させた「回顧録」の影響によるものでしょうか.
 当然,戦友であった「身内を庇う」ため,回顧録を書いた人間が故意に事実を隠している場合もあります.

 近年のドイツ国防軍に対する”一般的な”評価を知りたければ,
グイド・クノップ『ヒトラーの戦士たち―6人の総帥』
とかお勧め.
 ロンメル,カイテル,マンシュタイン,パウルス,ウーデット,カナリスといった面々の,ナチズムに対する態度を検証した本.
 とはいえ,「ヒトラー暗殺事件に関与してない将校は,皆ナチスの潜在的な共犯者」とでもいいたげな筆致は,少々鼻につく.
 大学時代,西洋史の教授(専門は近代ドイツ史)に,
「正直どうなんですかねぇ?」
と話を振ったら,
「まあクノップはジャーナリズム畑の人だから…」
という,身も蓋もない返答が返ってきた覚えが.

 他には

ドイツにおけるナチ犯罪処罰と「罪の個人化」

公共の記憶をめぐる抗争

戦後ドイツにおける「過去の克服」と極右勢力

 あるいは,このゼミの丸山君の論文(卒論と大学紀要?)はどうかな?

 ついでに『自由からの逃走』も読んどくか?
 学生時代に読まされて辟易したもんだが・・・

軍事板,2009/07/07(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 現代のドイツで,WW2のドイツ軍を格好よく描く行為は犯罪となる,と聞いたことがありますが,事実ですか?
 また,一等自営業氏(軍事板における小林源文氏の呼称)の劇画漫画『黒騎士物語』をドイツに持ち込むと没収される,というのも事実でしょうか?

 【回答】
 それはデマです.
 さるミリタリー・ショップの女子店員が,ブラウンの服に小林源文の漫画を携行して,何度もドイツに逝っております.
 蛇足ですが,そのミリタリー・ショップ主宰で,「ドイツ軍の軍装でロンメルの墓参りに逝くツアー」が企画され実際に実行されましたが,このときはさすがに入国出来ませんでした.


 【質問】
 現在のドイツ国内では,WWUの軍装を着ると捕まりますか?
 ナチスものは法律で禁止されてるとか聞いたもので.

 【回答】
 理由があれば捕まらない.
 ドイツのリエナクターはちゃんとドイツ軍やってます.
 一方で,ネオナチならば,ドイツ連邦軍の格好だろうが,米軍の格好だろうが,ナポレオン軍の格好だろうが捕まります.
 理由は,彼らが制服を着る行為がナチ的なため….

 ちなみに,S○Gという業者が江利香クラブという店名だったころに
「ナチスドイツ軍の軍装でロンメル将軍の墓参りに逝くツアー」
を敢行したことがあったが,参加者全員がドイツで入国拒否されたことがあるそうな.

(軍事板)

 また,ネット時代に入ると,フランスで,アメリカのヤフーのオークション・サイトでの旧ナチス・ドイツ商品販売が違法とされたケースもある.
 以下引用.

 サイバースペースのボーダーレス性を如実に示す事件が具体的に発生しています.
 アメリカのヤフーのオークション・サイトで旧ナチス・ドイツの商品が販売されたケースです.
 アメリカ国内では違法ではありませんでしたが,フランス国内では旧ナチス・ドイツの商品を販売することは違法とされていました.
 2000年に,フランスの裁判所は,アメリカのヤフーのオークション・サイトでの旧ナチス・ドイツ商品の販売を中止することを命じました.
 しかしながら,フランスの裁判所の判決は,フランスの主権の及ぶ範囲であるフランス国内でのみ執行することができるのであり,フランスの国境を越えてアメリカ国内で執行して,ヤフー本社のオークション・サイトでの旧ナチス・ドイツ商品の販売を中止することまでが可能かどうかという点が争点になりました.

 〔略〕

 さらに2001年11月には,逆にアメリカの連邦裁判所が,このヤフー事件について判決を下しています.連邦裁は,フランス裁判所の判決をアメリカ国内で執行することは,アメリカ合衆国憲法修正1条の「表現の自由」を侵害することを理由として,フランス裁判所の判決をアメリカ国内で執行することを認めませんでした.
 加えて連邦裁は,米ヤフー社は,その子会社であるフランス・ヤフー社を持っているので,そのフランス子会社がサイトの利用を防止するために誠実な努力をしていれば,米ヤフー社は,法的な制約を受けることはないと判断しました.

 刑事事件については,アメリカの連邦裁は,フランス裁判所の判決をアメリカで執行することを認めませんでしたが,フランスでアメリカ・ヤフー社を被告とする民事訴訟の手続きが開始される場合には,事情が異なるでしょう.
 つまり米ヤフー社は,その子会社であるフランス・ヤフー社(つまり資産)をフランスに持っているからです.

牧野和夫著「インターネットの法律相談 全訂版」(学陽書房,2005.8.15),p.313

コスプレ?
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ドイツでは,ナチスについて語ることそのものが犯罪とされているそうですが,てことは,第二次大戦時の兵器について語ることも犯罪なのですか?
 ヤークトティーガーはどうしたとか,「フォッケウルフは強い!」とか,そうしたことまで犯罪になりますか?

 【回答】
 ちょいと違う.
 要するに,「公共の場でナチスを賛美する行為を行う」ことが取り締まりの対象になっているわけであって,決して戦争を語っていけないと言うことではない.
 ドイツにも戦争博物館はいくつもあるし,兵器も展示されている.田宮のプラモも売ってるし,リネアクターだっているよ.

 一方,ナチス式の敬礼をするとそのまま警察に連行される.
 それと,当時のSSの制服を所持しているだけでも逮捕対象.
 だからネオナチですら,しょっ引かれるのが嫌で表立ってはやりません.

 簡単に言うと,ドイツでは「ナチス関係には研究対象としてしか関わっちゃダメ」.
 その他の全ての事由が処罰対象になります.


 【質問】
 来年春頃ドイツに行く予定です.
 鉄十字勲章のレプリカを購入予定ですが,販売している都市 店など知っている方は教えて下さい.
 旅の中心は,ベルリンです.

 【回答】
 おそらく30年位前の話ですが….
 故・佐貫亦男先生によると,ベルリンのヴィーラント街に「ORDENS-SAMMLUNG」と言う店があって,勲章を専門に扱う店だったそうな.
 で,新品の騎士十字章なんかも売っていて,先生は剣付柏葉騎士十字章を5.000円(当時の価格)ほどで買い求められたそうです.
 店主に注文すればブルーマックスやダイヤモンド剣付柏葉騎士十字章もレプリカとして作ると言われたとか.
 ただし,此処で販売されている騎士十字章は1957年に制定されたもので,中央の鈎十字が柏の葉(1813年版の鉄十字章のデザインに准ずる)

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2004/12/24
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 終戦直後の,ドイツの難民問題について教えられたし.

 【回答】
 宮崎駿氏に「ハンスの帰還」と言う作品があります.
 これは1945年4月から5月にかけて,東から難民と共に撤退するドイツ軍人(と言うか豚さん)を書いたものです.

 因みに,西ドイツに於て,Flüchtlinge(避難民)とVertriebene(国外追放者)は厳密に区分されています.
 これは戦後,西ドイツによって支払われた補償金基準に基づく違いで,法的規定が異なるものです.

 避難民は,オーデル・ナイセ線の西側で生まれた者であり,国外追放者は,オーデル・ナイセ線の東側で生活していたか,ドイツ人として旧帝国領で暮らしていた者になります.

 1944年に赤軍がドイツ本土に侵攻した為,「東方」からは数百万人が西を目指します.
 海路では700隻余の船が,戦争最後の4ヶ月の間に200万人がバルト海を越えました.
 勿論,その中にはWilhelm Gustlof,Goya,Steubenの撃沈の様な悲劇もありましたが….

 1946年10月の調査では,ドイツ全土で避難しなかった地元民4,934万人に対し,避難民と国外追放者を併せると,1,553万人に達しました.
 国民の約3人弱に1人が,避難民と国外追放者になります.

 地域別に見ると,早期に西側連合軍の占領下に入ったラインラント・プファルツ州などフランス軍占領ゾーンには地元民約500万人に対し,避難民と国外追放者は僅かに5万人,即ち1%でした.
 米国軍占領ゾーンのバイエルン州,ヘッセン州などの諸州とブレーメン市でも,意外に少なくて1,366万人の地元民に対し,避難民と国外追放者は約300万人と全体の22%.
 ソ連軍占領ゾーンのブランデンブルグ州,ザクセン州,チューリンゲンなどの諸州とベルリン市でも,1,340万人に対し約391万人で29%.
 英国軍占領ゾーンのシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州,ニーザーザクセン州などの諸州とハンブルグ市では,1,728万人に対し,約362万人と全体の21%に過ぎません.

 これらを俯瞰してみると,一見,フランス軍占領地域を除けば,全国に平準化している様に見えますが,ソ連軍占領ゾーンのバルト海沿いにあるメクレンベルク・フォアポンメルン州には,地元民117万人に対し,98万人の避難民と国外追放者が押し寄せ,その比率は84%に,更にシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州では,地元民138万人に対し,127万人余の避難民と国外追放者が押し寄せました.
 後者の比率は実に92%.
 州の人口が倍増した事になります.

 これは,バルト海避難作戦で東方から海路を通じた難民が押し寄せ,西や南からも米軍や英軍などの連合国軍が迫ったので,難民も兵士も北上を余儀なくされ,一種のサンクチュアリだったこの地域に集中した為です.

 記録が敗戦のドサクサで確かではありませんが,外来者の内訳は,1943年以降,爆撃の大都市を逃れ,都市から農村に避難したEvakuierte(疎開者)が20万人以上,避難民と国外追放者が,1945年3月〜6月だけで70万人,トータルで数十万人が町村部へ,また,EiderstedtとDithmarschenから成るG地区とOstholsteinのF地区には,英国軍に投降したドイツ兵を100万人程度.
(彼らは1946年4月まで収容されていました.
 その後,収容所は解体されますが,かつての外国人強制労働者が其処に残りました)
 となると,シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州には190万人が居たことになるわけで.

 しかも彼らは,都市部より農村に入植します.
 都市部は既に人口飽和状態で,更に爆撃で荒廃しており,受入れる余地が無かった為です.

 日本でもそうですが,ドイツでも農業,牧畜業,林業を生業としていた様な地域は,閉ざされた共同体であることが多く,其処に,ベルリンやライプチヒ,ドレスデンなどと言った大都会から,空襲や戦災を逃れて来た様な人々や,東プロイセン,シュレジエン等の東方からソ連軍に追われて来た国外追放者が,多数押し寄せたので,地元民との間に様々な軋轢が生じました.

 しかも,大都市生活者は社会的に上層部にいた人が多く,国外追放者はJunkerに代表されるドイツ殖民のエリート層が多かった為,教育もあり,生活様式も田舎の民とまるで違う.

 更にこうした人々の流入は,只でさえ乏しい職を奪い合う状態になります.
 第一次産業が主なこの州では,難民達は農業労働者として約7万人が就職せざるを得ず,1949年までに農場主などの経営層になれたのは,僅か20%しかいませんでした.
 このほかの職業として,比較的彼らが容易に就けたのが,手工業であり,或都市では半数の手工業者がこうした難民達でした.
 それ以外は,中々職業が無く,「沢山の仕事を我慢して引き受ける」か,その地を去るかしか無かったりします.

 「非ナチ化」も地元民と難民との間の軋轢の発生に,追い打ちを掛けます.
 戦時中,ナチスに協力した者は,戦後「非ナチ」化によって職を追われる事になりますが,疎開者や東方追放者と言った難民には,ナチス関係の資料が無く,職を追われるのは地元民のみと言う状況.
 難民にナチス時代の悪業が噂されても,具体的な証拠が無く,戦後恵まれた職に再就職するのを地元民は黙って見ているだけでした.

 斯うして短期間の間に,地元民と難民との間で,不穏な情勢が醸成されていく訳です.

 ハンスが帰還したとしても,幸せになるには未だ未だ政府の対策が必要になった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月09日22:54
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ドイツは個人に対する戦後賠償は行ったのか?

 【回答】
 東西ドイツ統一によって,法的には個人による賠償請求が可能になったため,かつての強制労働者から,未払い給料の補償や慰謝料を請求する訴訟が次々と起こされた.
 また,アメリカのクラス・アクション(集団訴訟)が脅威であったため,外交交渉の結果,集団訴訟を放棄させる代わりに基金が創設され,その基金から賠償金が支払われたという.
 以下引用.

 戦時中,主として東欧の占領地域から非常に多くの人々が強制的に連行されて,ドイツの企業や農村で働かされていた.
 その数は労働者760万,戦争捕虜と強制収容所の囚人を合わせると900万に及ぶ.

 法的関係は明白である.
 奴隷労働はすでに第2帝政時代に禁止され,奴隷の保持は場合によっては死刑とされていた.
 また,1899年のハーグ陸戦規定で,占領地の市民の強制労働は禁止されていた.
 だが,ドイツはすでに第1次大戦で条約を無視した.
 条約無視は第2次大戦では常軌を逸し,ドイツ国民の生活必需品と軍需物資の製造のために強制連行された労働者は,劣悪な条件の下,事実上無給で働かされていた.
 そのため,終戦直前までドイツ市民の生活水準に耐え難い低下はなかった.
 飢えと買い出しに人々が苦労するようになったのは,戦争が終わってからである.

 戦後の西ドイツは,こうした外国人労働者への補償を原則として行っていなかった.補償問題は,ドイツ問題の最終解決となる平和条約が締結されてからのこととして,先送りされていた.
 だが,統一に関する90年9月の2プラス4条約は,最終的な平和条約に代わるとされたため,それによって個人賠償の権利が発生したという解釈が生まれた.
 実際にハンガリー人,ルーマニア人,そしてイスラエル在住のユダヤ人など,かつての強制労働者からドイツの裁判所に,未払い給料の補償や慰謝料を請求する訴訟が次々と起こされた.
 紆余曲折は省略するが,最終的には連邦憲法裁判所が96年に,
「再統一の結果,平和条約の欠如は補償問題を逃げるための口実にはなりえない」
という主旨の判決を出した.
 また,この判決では,ドイツ企業で働かされた被害者が,該当企業ではなく,ドイツ政府を相手取って裁判を起こすのは,「国際法に抵触しない」として訴訟権も認められた.
 200万を越える生存者がいる以上,膨大な数の訴訟が予想された.

 同時に外圧も激しくなった.
 なによりもアメリカの司法制度にある,いわゆるクラス・アクション(集団訴訟)が脅威であった.
 この制度は,戦後アメリカに移住した被害者が集団で,特定の国や外国の企業を相手取ってアメリカの裁判所に補償を訴えることを可能としていた.
 幾つかのドイツ企業に対して,クラス・アクションによる裁判が起こされていた.
 被害企業の責任が認められれば,当該企業の在米資産を差し押さえられかねない.企業にとっては一大事である.
 いや,裁判を起こされているだけで,その企業のイメージは壊滅的な打撃を被る.
 また,法的手段とは別に,アメリカの一般世論でもドイツ製品の不買運動が始まりかけていた.ベンツやBMWが売れなくなったら大変である.

 国内世論と外圧の両方の追い風を受けて,98年に成立した者民党と緑の党の連立政権は,この問題に正面から立ち向かい,主としてアメリカ政府および訴訟を支える弁護士事務所などとの交渉を始めた.
 難交渉の末,今後アメリカはそうしたクラス・アクションに基く請求権を発生させないという確約と引き換えに,ドイツは「政治的・道義的・歴史的責任」を認め,2000年7月に「記憶・責任・未来」という名の財団を発足させる法律が連邦議会で承認された.

 財団の飢饉は,連邦政府と産業界(一部アメリカのユダヤ人補償業界も)が半々に出資した100億マルク(7000億円)とされた.
 一応これで一件落着と思われたが,実際の資金拠出となるとどこも渋るのは人情で,当初は産業界から思ったように集まらなかった.

 ところが,資金集めが始まってほぼ半年たった2001年3月,集まりの悪さを理由にアメリカ最高裁のある裁判官がクラス・アクションを再受理する方向の発言をした.
 すると,1週間で残りの大部分が集まり,支払い開始の見通しが出てきた.まさに「現金なものである」.
 そして,同年7月には一人当たり最大1万5千マルクを限度とする補償金の支払いが,とりあえず申請の出ている120万人に対して始まった.
 こうして,国家次元では90年10月3日に終わった第2次大戦の戦後処理が,対個人の次元でも,つまり本当の意味でようやく終結したのである.戦争が終わって56年が経っていた.

国から個人へ――国際法の主体の拡大

 全体としてみると,額が巨大なため,交渉の過程ではドイツ政府も企業も渋る局面があったが,歴史的責任はとらないわけにいかない,という一般世論の力は,経済的利害を越えるのに大きく貢献した.
 今後,クラス・アクションは起こさせないという確約をアメリカ政府から取るのは,ドイツ企業の当然の自己防衛であろう.
 また,飢饉への寄付はできるだけ低く押さえたいのも,企業としては当然の「エゴイズム」である.
 現代社会では,そうした利害は避けられない.
 利害を無視して,変に道徳を持ち出しても解決はおぼつかない.
 そのことを承知の上で,なんとか法的かつ道義的に解決にもっていける制度を関係者および世論が模索した結果が,先のような政府と産業界の折半出資による基金という制度である.

三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.174-178
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,
その点は留意されたし


 【質問】
 ドイツと日本の戦後賠償の形態は,どう違うの?

 【回答】
 ウェブ上だと日本語のソースはあまりないね.この辺?
http://www.zephyr.dti.ne.jp/~kj8899/deutsch.rep.html
http://www.ohnichi.de/Toki/toki9.htm(リンク切れ)

 ちょっと要約してみた.

 日本はサンフランシスコ講和条約の時に個人の財産を含む在外資産の放棄で,連合国の賠償請求権を放棄してもらった.
 連合国としても,日本相手に個人補償ベースでやると,プラマイの収支が怪しいので,個人補償も請求しないことを含めて,これで手打ちにした.

 対韓,対中も似たような内容.

 東南アジア方面には賠償金を分割ローンで払った.

 で一応,国家間賠償,個人補償の終わった綺麗な身.
(日韓基本条約で北韓を入れるかどうかだけがグレー)

 対してドイツ,実は第二次大戦の講和条約も結んでない.
 連合国はドイツの産業施設から全商船,炭鉱の石炭,特許,国土の1/3まで奪っていった(難民1200万人!)ので,それが賠償だ(#゚д゚)フォルァ! が旧西独の主張.

 個人補償については講和条約後に,とロンドン債務協定で決めたけど,分断が固定化してしまっていつ講和条約を結ぶか判らなくなった.
 仕方ないので,個別にちょこちょこと協定を結んで個人補償をしてる.
(統一後に付いては別項参照のこと)

「ドイツは日本と違ってきちんと補償している」
という誤解はおそらくこの辺.
 国家間賠償の時にまとめて丼勘定で済ませた日本と,いまだに細かくやってるドイツの違い.

 ドイツ人個人の在外資産は手放した覚えは無いので,東欧,特に国土の多くを奪ったポーランドに対して補償請求をしてる.

マスコミ板
「週刊オブイェクト」コメント欄,2004年08月09日付に転載)

 戦後賠償・・・国家間の条約で完全にケリをつけた日本と違って,ドイツの賠償問題はややこしい事になっています.

――――――
■<財産返還要求>居住区追われたドイツ人ら提訴へ 8/10 毎日新聞
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 第二次世界大戦をきっかけに,ポーランドやリトアニアの居住区を追われたドイツ人やポーランド人が,ポーランドやリトアニア政府を相手取り,残してきた財産の返還を求める訴訟を準備している.
 独・ポーランド両国は,「追放」を受けた国民への金銭的補償を既に行っているが,一部強硬派はあくまで財産返還を求める構え.
――――――

 ドイツ人がポーランド政府相手に賠償を求めています.
 これってどういう事かと言うと,日本人が朝鮮や満州に残してきた財産の補償を中国,韓国政府に請求する事と同じ事になります.

「週刊オブイェクト」,2004年08月09日付

 わたしの家のそばに昔,韓国の地主さんがいて,頭のいい人で 帰国するとき,協会に寄付【条件つき】.
「戦後五十年したら半分返してくれ」
 それで見事,奪還した例があります.
 運がいいというか.

風船くん in 「週刊オブイェクト」コメント欄,2004年08月09日付


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