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『機甲入門』(佐山二郎著,光人社NF文庫,2002.11)
詳細に書かれており分厚い.
評価を色々考察して下すという面より,複雑な開発経緯を跡づけるのを丹念にやっているのだと思える.
日本飛行船物語もこういう趣がやはりある.
他にも入門ものは沢山出ているのだが,まずは事実を丁寧に洗い出す段階から研究が始まっているのだろう.
そういえば日本の爆弾の話をまとめた本を,兵頭二十八が出していたことを思い出す.
『パールハーバーの真実』が新書になったと聞くので,資料価値の高いものは文庫などで長く入手できるようにして欲しいのだが.
――――――軍事板
『軍用鉄道発達物語』(熊谷直著,光人社,2009.5)
『大陸の機甲戦闘演習 満州公主嶺・代々木・銀座 日本陸軍の機甲部隊 2』(菊池俊吉著,大日本絵画)
『日本軍戦闘車両大全 日本陸軍の機甲部隊装軌および装甲車両のすべて 1917→1945』(浪江俊明編,大日本絵画,2009.8)
【質問】
日本海軍の軍艦は世界でもトップ・クラス(米英日)なのに,何で陸軍の装備(戦車など)は,世界のトップ(米ソ独)と較べると見劣りするんですか?
陸海の予算分配に偏りがあったのですか?
【回答】
誤解して欲しくないんですが,97式中戦車改(チハ改)を作ってた時点では,辛うじて世界水準なんですよ.異論のある人もいるでしょうけど.
| 全長(mm) | 全幅(mm) | 全高(mm) | 装甲(mm) | 主砲(mm) | 重量(t) | エンジン(HP) | |
| 九七式 | 5,550 | 2,330 | 2,230 | 25 | 57 | 15 | 170 |
| 3号 | 5,690 | 2,810 | 2,355 | 15 | 37 | 15.4 | 250 |
その頃の日本の戦車の特徴としては,
・満州の泥寧期や朝鮮半島を含む国内の道路事情を考え,重量を押さえていた.それなのに,燃料事情から採用したディーゼルエンジンがソ連の物より著しく重い.結果として,装甲が貧弱になる.
・電装品や光学機器,材質や砲の性能が欧米列強に見劣りしていた.
という点が挙げられますが,日本海軍の艦船も,鋲接,粗悪な鋼質,貧弱なレーダーなど考えるに,決して質的に充実していた訳ではありません.
要するに,日本の戦車が,当時の欧米の最高水準のそれに比べて貧弱なのは,実は海軍装備にも当て嵌る「お国の事情」によるものです.
さて,予算が限られている日本陸軍が,軍事力を向上するには2つの手段がありました.
1 師団数を増やす
2 装備を向上する
例えば宇垣軍縮では,師団数が減りましたが,その代わり4単位制から3単位制になり,師団当たりの火力は倍増しております.
しかし,日中戦争などにもつれ込み,師団数の拡大が行われると,金のかかる質の向上よりも,より簡単な兵力の増大に走り,気がつくとWW2の勃発とともに1.5流装備だったのが相対的に2流になってしまいました.
さらに,英米蘭豪との戦争と言っても,植民地軍(つまり2流の装備)を相手に短期的に戦うだけ,という打算もありました.
これが計算違いに終わってまったのは周知の通りで,緒戦の段階で1.5流,ところがいざ苦戦し始めると新兵器は完成しないわ,数も揃わないわ,というのは海軍も同じですよね.
おまけに,ヨーロッパでは戦車が瞬く間に進化して,T34やらパンサーやらタイガーやらスターリン戦車やらが,わらわらと沸いて出る始末.
そんなこんなで,終戦時には日本の戦車は,欧州では1.5流のM4シャーマン戦車にも劣る三流に転落してしまい,戦後は司馬遼太郎元戦車兵などに悪し様に書かれるほど落ちぶれてしまいましたとさ.
なお,太平洋戦争時の予算配分ですが,アメリカ合衆国戦略爆撃調査団報告書において,1940〜45年度に於ける陸海軍臨時軍事費特別会計(軍需省の歳出決算額で,日本銀行支払小切手によるもの)を原資料に,陸軍省,海軍省がそれぞれ地域別(海軍は無し),費目別に算出しています.
1945年は4月〜10月の上半期のみで単位は100万円です.
1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省 4,191 6,383 10,368 15,764 45,511 20,808
海軍省 1,532 3,104 8,385 13,779 19,069 17,553
軍需省 1,244
10,472 8,993
合 計 5,723 9,487 18,753 30,787 75,052 47,412
陸:海 7:3 7:3 5:5 5:5 6:3 4:3
即ち,初期は概ね陸軍優位に推移していますが,中期〜末期は対等になってきています.
上の表をこのうち費目別に編集し,うち兵器燃料費を抽出すると,(若干インフレ率など会計処理的な推計が入っていますが)
1940年 1941年 1942年 1943年 1944年 1945年
陸軍省 1,625 1,797 3,267 4,558
3,085 3,725
海軍省 978 1,814 5,629 9,114
8,022 5,619
合 計 2,603 3,611 8,896 13,672
11,607 9,344
陸:海 6:4 5:5 4:6 3:7 3:7 4:6
となります.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)

【質問】
旧軍戦車の話に関連してですが,戦前戦中の日本は重装甲大火力の戦艦大和等を作る技術はあったのに,戦車はいまいちです.
戦艦と戦車の装甲を作る技術,あるいは戦艦砲と戦車砲を作る技術と言うのは別物なのでしょうか? 応用出来ないものでしょうか?
【回答】
砲身に関しては,だいたい同じ技術ですので,作製は可能です.実際にソ連では艦載砲を戦車砲に流用した例があります(試作でしたけど).
とはいっても,砲は駐退複座機を始めとする大きなシステムで,それをなるべく小さく砲塔に収めないといけない.
三式中戦車なんかは,この辺の砲まわりの設計を,時間短縮のためにちゃんとやっていないので,砲塔が馬鹿でかくなっている.
また,砲をでかくすると,必然的に重くなる.
日本は輸送船で扱える重さはこのくらい…… というの基準に戦車の重量を決めていたので,必然的に軽量な砲を積んだ軽量な戦車を作るしかなかったんです.
装甲に関しても同様で,厚くすると重くなるので不可.
また,エンジンもしょぼいのしかないので,重い戦車を動かすには,無理がありました.
まぁ,まともな対戦車砲や,まともな成型炸薬弾,被帽付徹甲弾なんかをまったく実戦配備できていない時点で,勉強不足なのは確かなんだけど.
ちなみに,海軍が10年式45口径12cm高角砲をチハの車体に乗っけるという,素敵な事をやっています.
砲重量が8.5トンに達し,戦車の速度は38km/sから20km/sに低下.整地でこれだから,たぶん不整地走行は無理……
とても戦闘に耐えるとは思えません.下手したら数発撃っただけで,車体が逝くんじゃないでしょうか?
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【質問】
大戦中のドイツ軍は半装軌装甲車や装輪装甲車を多数開発し,兵員輸送や強行偵察などに有効に活用していたようですが,我が帝国陸軍においてはこのような車輛の開発・装備に関してはどう贔屓目に見ても積極的だったとは思えません.
この差は一体どこから来たのでしょう?
【回答】
日本にモータリゼーションが無かったから.
また,島国である日本は,航空機と艦船の拡充を最優先事項とし,一部主力戦車以外は脇に追いやられた.
現在の日本では信じられないでしょうが,当時の日本に於いて,国産自動車というのはアテにならないものの代名詞です.日本に進出していた,横浜組立日本フォードとか大阪組立日本GMに比べれば,信頼性は段違いです.(ちなみに,生産数から言っても,組立外車の方が多かった)
中国の戦場は広大です.機械的信頼性のない国産自動車を改造した装甲車とか半装軌兵員輸送車より,二本の足の方が余程信頼があります(苦笑.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
つまり当時の日本は,世界の一流とはほど遠い「工業後進国」だったのです.
日本が,自前の材料や工作機械で不自由なく行けるようになり,「ちゃんとした工業国」の仲間入りしたのは,戦後もかなり経った昭和40年代近くのことで,それ以前は,ちゃんとした工業国ですらなかったのです.
また,現在のように自動車が溢れるようになったのは,それに遅れること10年以上.世界のトップを争うような性能の自動車を作れるようになったのは,さらにその後で,長いスパンで見るなら,ごく最近のことです.
陸軍が主戦場にしていた大陸では,マトモな道がなかったので,装輪装甲車による強行偵察はまず無理でしょう.
>半装軌兵員輸送車による急襲とか
ドイツ軍でも定数で戦車連隊1に対して1個擲弾兵大隊分しか配備してません.他の種類のハーフトラックは重砲の牽引車なんですが,日本軍では重砲の牽引車は最初から装軌車でした.
戦車師団向けにこんなのも有りますが,
http://earth.endless.ne.jp/users/mac0115/nihonngunnnosennsya6.html
歩兵を戦車に随伴させる為の車輛ですので,捜索連隊に偵察用の戦車があるだけの歩兵師団に配備しても無駄になるだけでしょう.
【質問】
戦前の日本は,「世界一流の分野も有するちょっと偏った工業先進国」だったのではないでしょうか?
例えば,戦前の日本は世界第三位の海軍を保有しておりました.私の認識では通り軍艦と言うモノはその時代のハイテクの固まりだと思います.
もちろん日本海軍は戦争の直前まで英国の技術にかなり依存しておりましたが,開戦の時点では当時のハイテク兵器・空母(含む艦載機)においては英国すら凌駕していたと思います.艦艇や航空機と言う分野においては,日本はかなりの兵器先進国になっていたように思います.
で,前の質問で何が言いたかったか申しますと,「陸軍は(海軍に比べて)何で装備の近代化に取り組まなかったのでしょうか?」ということなのです.
日本のモータリゼーションが遅れていたことは承知しております.
しかしながら,陸軍主導で国策として軍用車輛の向上につながる産業の主導ができたのではないかと思うわけです.
ま,「輜重・輸卒が兵隊ならば,蝶々蜻蛉も鳥のうち」というざれ歌に表れているわけですが,日本海軍が空母の有効性を見ぬいたように,なんで帝国陸軍は兵の移動・装備の輸送の機械化に着目せんかったのかなぁ?という疑問です.
【回答】
「世界一流の分野も有するちょっと偏った工業先進国」というのも,残念ながら事実ではありません.
エンジンや電子技術において遅れをとっていたのは周知の事実ですし,建造技術においても電気溶接をマスターできないままであったなど,当時の「工業先進国」とは大きな開きがあります.
潜水艦などは「潜水艦戦史」によれば,任務についただけで,戦闘にならなくとも満身創痍で帰ってきたと言います.
国家予算の相当部分をつぎ込んで,無理に無理を重ねたごく一部の分野が異常に突出していたことは事実ですが,全体を見るなら,工業先進国などとはとうてい呼べない状態だった,と見るのが公平なところだと思います.
それが事実か否かは,現在と当時の輸出品目の量と内訳を見れば一目瞭然のはずです.
「世界一流の分野も有するちょっと背伸びした発展途上国」という表現が適切と思われ.
軍用車輛の向上につながる産業の主導は,当時の現実として,それを可能にする土台が存在しなかったのだから仕方がなかった,と見るべきでしょう.
もし,国策として自動車生産を向上させようとしたなら,「どこからガソリンが湧いてくるのか? どこからタイヤゴムが湧いてくるのか? どこから鋼材が湧いてくるのか? どこから工作機器が湧いてくるのか? それらを買う金がどこから湧いてくるのか?」
その辺を先に解決しないといけないです.
さて,兵士の移動手段の機械化については,日本陸軍も積極的に取り組んでいました.
ただ,それより何より,GM,Fordの攻勢が凄まじく,国産の自動車産業がそれに太刀打ちできませんでした.
しかも,日本国内にも舶来信仰があり,国産品の育成が難しい部分もありました.
例えば,Fordは1925年に横浜で組み立てられていましたが,その組立台数は初年度3,500台,翌年8,600台となり,GMが大阪に進出した1927年には両社で12,000台,1928年には24,000台に達しています.円タク,ハイヤーなどが流行ったのは,この両社が進出してからです.
日本の自動車産業が本格的にスタートしたのは,1933年の豊田自動織機自動車部と,戸畑鋳物自動車部,自動車製造株式会社が設立されて以降ですから,既にスタートラインから出遅れています.
これでは日本の自動車産業が潰れてしまうと危機感を覚えた陸軍,商工省は,1935年8月に「自動車製造事業法」を制定し,750cc以上の自動車を年間3,000台以上生産する事業者は,政府の許可が必要となり,許可会社になれば,所得税の5年間の免除,資本増加,社債募集は商法の特例が認められ,生産した自動車は陸軍を始めとした官庁が優先的に買い上げると言うもので,但し,許可会社に成らなければ,外貨の使用が許可されず,材料,機械類の輸入が出来ないと言うものです.
これにより,豊田自動織機転じてトヨタ自動車は,G1/GA型トラックを先に開発しますし,戸畑鋳物自動車部と自動車製造が合併して成立した日産自動車は,グラハム・ページの生産設備を買い入れ,そこで開発していたトラックをニッサン80型として生産を開始し,三菱重工はディーゼルエンジン搭載のふそうバスを開発します.
これらは,三菱を除けば陸軍で使用されています.
(三菱は,この法律制定時に協力的ではなかったので,陸軍に睨まれ,ふそうは鉄道省のバスとして採用されています)
但し,僅か数年で本格的な自動車が作れるはずもなく,大陸ではどんなに古いタイプでも,GMとかFordの米国製が来ると,それを割り当てられた兵士は喜び,国産車を割り当てられた兵士は出発に際して水杯を交わす状況だったそうです.
国産トラックは,Overheatを手始めに,クランクシャフトのベアリング焼き付きによるエンジン破損,デファレンシャルギアの折損,サスペンションスプリングの折損など,戦場で故障した場合は致命的なもので,特にニッサン80型は,キャブオーバーだったために,エンジン上部に運転席があるので,前部重量が大きく,そのため前部のトレッド幅が大きくなっていました.
これは,前部の違うメーカーのトラックの轍を辿れず,泥濘地帯でストップすることもありました.
しかも,運転席が最前部にあるので狙撃されやすく,ピッチング,ローリングの影響を受ける上に,地雷を踏んだ場合,前輪の真上がキャビンなので,生命の危険が大きい.
更に,トラックの幅が米国規格よりも広くなっているので,中国の城郭市街地の城門を潜れず,必ず城外に駐車させねばならず,これがまた,戦場のニーズに合わないと言う悪循環でした.
1939年8月,統制経済の進行と共に,商工省,陸軍省,鉄道省などの関係部門とトヨタ,ニッサン,三菱と言ったメーカーによって,自動車技術委員会が誕生します.
この時に,軍部から品質向上と,性能改善が要求され,商工省から自動車の型式統制と部品共用化が求められています.
そして,1000〜1500ccはニッサン,2500ccはトヨタ,3500ccは両社,4500ccは,自動車工業と東京瓦斯電気工業自動車部が合併して出来た東京自動車を改称したヂーゼル自動車工業が担当します.
ヂーゼル自動車は特に陸軍の国策会社となっており,三菱,日立,池貝自動車製造,川崎車輌の各社が保有していたディーゼルエンジン車製造設備を結集させて,その生産増強を図っています.
当時の生産台数の予測は,1939年度で70,000〜75,000台(うちトヨタ,ニッサン各2万台),1940年度は,75,000台(同各25,000台),1941年度には80,000台(同各4万台)となっており,1941年度には国産化が達成できると言うものでした.
しかし,実際は,1939年に2万台,1940年22,000台の目標は達成できませんでした.
これは,日本のどの産業にも言えることですが,資材,部品の納期遅れ,増強設備の工作機械が為替管理強化で入手できなくなったこと,石炭,鉄鋼の統制も進み,原材料,エネルギーの確保も困難になったためでした.
戦争により,自動車統制会というので生産の統制が図られ,資源の入手がますます困難となり,メーカーも軍需産業に傾斜せざるを得ず,最終的に1943年末には,軍需省の下にある軍需会社化として自動車以外の生産も求められ,自動車会社としての歴史は一時頓挫する訳です.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)

(引用元:画像掲示板)

【質問】
旧陸軍は,機械化の必要性を重々承知しながらも,財政的な制約から断念したのでしょうか?
それとも,決定的な破局を迎えるその時まで,白兵主義の優位を確信していたのですか?
【回答】
最近は「財政的な制約から断念」説が主流です.
財政的理由から断念⇒精神主義的理由を後付け,という経緯.
元々,日露戦争までの日本陸軍は,メッケルらドイツ陸軍の影響を受けて,ドイツ式火力主義,つまり,迅速に機動する小銃・砲兵火力集中によって相手を圧倒する考えを持っており,歩兵の白兵(銃剣)突撃に頼ることなく火力(銃砲弾の物量)で勝敗を決しようとする戦術思想が主流でした.
その萌芽は,既に西南戦争後半の小銃火力の集中使用で見られています.
ちなみに,1891年版歩兵操典は1888年のドイツ帝国陸軍のそれをコピーしたもので,1898年に日清戦争を受けて改訂されたものも,ほぼそれに沿っていました.
で,日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては,
1. 重機関銃を陣地防御の要とする.
2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲,とくに15cm以上の榴弾砲,10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある
3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である.
と言うもので,各国は重機関銃,重砲の開発,大量配備に躍起となり,陸戦力の主力兵科となりました.
ところが,当事者の日本陸軍が白兵主義,砲兵軽視になるのは,
1.
砲弾,小銃弾の欠乏により火力主義が貫徹出来なかった.
開戦前の1903年から東京・大阪の両砲兵工廠で銃弾,砲弾の大量生産・備蓄と,開戦後の民間工場の動員による銃砲弾の大量生産をしたが,それでも追いつかない状態(南山の戦闘では2日で3万発の砲弾を使用したが,これは開戦前の半年分の消費量,砲弾生産量の三ヶ月分であり,旅順第一次総攻撃,遼陽攻略で完全に欠乏,得利寺の戦闘では小銃弾が底を尽く状態)であったこと.
2.
砲兵運用の根本的誤りで,平坦地の会戦でも要塞戦でも砲弾は榴散弾を多用したこと.
消費された野山砲弾の弾種比率は,榴弾1に対し,榴散弾6であり,戦場からは榴弾補給を要請されていたが,陸軍中央はこれを黙殺し,前線は効果のない砲撃を行なわざるを得ず,結果として歩兵の大量犠牲を必要としたため,歩兵からの砲兵に対する不信感を決定的なものにした.
3.
ロシア陸軍は,フランスの影響を受けており,仏式白兵主義(強固な築城によって相手の火力をかわし,機を見て火力支援を得て相手に接近し,歩兵の白兵突撃で勝敗を決する)を用兵の基本理念としていて,屡々白兵戦を挑んできたこと.
それに対する味方からの支援砲撃が,前述の通り効果が無く,ロシア兵の負傷率が比較的低い(ロシア側の砲弾による死傷率は14%程度だった)ことで,首脳部中に打撃力が予想外に低い砲兵への評価低下が植え付けられたこと.
以上の三点があり,火力主義への不信感が芽生えました.
加えて白兵突撃で日露戦争を「勝利」してしまったことで,「日本式戦法」が模索され始めました.
そして,1909年の歩兵操典改訂,翌年の野砲兵操典,輜重兵操典,12年の騎兵操典へと進みます.
1898年の歩兵操典では,「歩兵戦闘は火力を以て結晶することを常とす」と書かれ,更に,「多くの場合に於て,近距離より優勢なる射撃を決勝点に聚注する時は,突撃は敵兵既に去りたるか,若しくは僅に防支する陣地に向て行ふに過ぎさるものとす」と規定しているのに対し,1909年の歩兵操典改正理由書では,「歩兵の戦闘主義は白兵にして射撃は此の白兵を使用する為に敵に近接するの一手段なり,との主義を,改正操典にて明確に指示せられたり.
我国古来の戦闘法は白兵主義にして,白兵使用は我国人独特の妙技なり.
故に益々此の長所を発揮して白兵戦闘の熟達を図ることは我国民の性格に適し,将来の戦闘に対する妙決なれは,此の点に大いに力を作ること肝要なり」
としています.
その後,第一次大戦の戦訓と軍縮の狭間で,ある程度の近代化を行ないます.
が,これは,日本固有の地理的条件により,ロシア帝国崩壊後は,純軍事的に見て欧米の第一級陸軍部隊との大規模戦闘は生起し得ないこと.
従って,欧米軍と同質の火力重視の武装を行なう切迫性に乏しく,陸軍内で対立が起きています.
近代化路線派は,宇垣一成を頂点とする省部中枢の長州系軍政家と永田鉄山ら,日露戦争後に出てきた陸大出のエリート幕僚,但し,これらは装備の更新を漠然としか考えていない層から,欧米流国家総力戦を志向する層まで様々な層の寄せ集めで,平時の少数精鋭・戦時の大動員,ある程度の機械化のみ一致しているだけでした.
現状維持派は,歩兵中心・白兵主義を徹底的に突き詰めるもので,常時多兵,速戦即決,白兵突撃万能を説く保守派でした.
彼らは上原勇作,福田雅太郎ら旧薩摩閥の作戦家を糾合しつつ,長州閥優先の派閥人事で左遷された大陸出先軍の軍人,参謀本部第二部,隊付下級将校を中心に支持を集め,「貧乏所帯の日本が欧米流「長期消耗戦」を行なうことは出来ないと説き,近代化路線を「器械主義」,欧米模倣の「弊風」,「皇国の独自性の放棄」,「攻撃精神の衰退」,「国軍を顛覆せむと企図する」ものと非難していました.
現状維持派は,軍縮による首切りに動揺した下級将校層の不満を利用して,宇垣一茂らの中枢部批判を展開,後の出先軍における「下剋上」の火種を撒き散らし,その極端な白兵主義思想は,長く陸軍の作戦思想に多大な影響を与えました.
この路線・派閥対立の最中の1928年,統帥綱領が改定されます.
これには,
「統帥の本旨は常に戦力を充実し,巧に之を敵軍に指向して,其の実勢就中其無形的威力を最高度に発揚するにあり,蓋輓近の物質的進歩著大なるものあるか故に,妄に其威力を軽視すへからずと雖「勝敗の主因は依然として精神的要素に存すること,古来渝る所なけれはなり」
況や帝国軍にありては,寡少の兵数不足資材を以て尚能く叙上各般の要求を充足せしむへき場合,尠少らさるに於いてをや」
と有り,更に,1928年以降の歩兵操典などの改定に於て,その改正理由書には,
「我が将兵は陸軍の比類無き歴史と伝統とに思いを致し,益々忠君愛国の至誠を磨き,訓練の実行を重ね,上下互いに信頼し合って一体となり,かくて生ずべき必勝の信念を常に確保して,如何なる強敵に会しても恐るること無く勝利の一途に邁進しなければならぬ」
と段々,精神主義が強調されていくようになります.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,
p.31-35 & 109-113,抜粋要約)
【質問】
日中戦争期に,陸軍の装備の近代化・機械化が進んだのは何故か?
【回答】
他国陸軍(とりわけソ連軍)との競争から機械化を進めた点もある(重砲部隊増加など)が,むしろ,部隊の水脹れ状態による将兵の質の低下を補うため,ある程度の機械化を進めなければ,戦力を維持できないという面があった.
したがって,その近代化・機械化は,世界の列強陸軍の大勢から見れば,それほどではなかった.
詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.173を参照.
【質問】
ノモンハン事件の後,その戦訓を生かして陸軍部隊の機械化が進んだりしなかったのか?
【回答】
1937年9月,日中戦争が勃発します.
これにより,平時編制のだった師団は,定員が12,000名から24,000名へと倍増します.
▼ 戦時編制の歩兵師団の中心は歩兵連隊で,連隊は3個大隊より成り,1個歩兵大隊は
本部,
4個歩兵中隊,
重機関銃を8挺装備する機関銃中隊,
九二式歩兵砲または山砲を2門4門装備する歩兵砲中隊
で編成されており,大隊連隊直轄部隊として歩兵砲中隊が1個と速射砲中隊が1個ありました.▲
また支援部隊として,師団司令部の他,
騎兵連隊(本部,騎兵2個中隊と重機関銃8挺装備の機関銃小隊),
砲兵連隊(本部,野砲大隊(改造三八式野砲4門装備の中隊3個と大隊段列)3個,
重砲大隊(本部,九一式10糎榴弾砲4門装備の中隊3個と大隊段列)1個,連隊段列),
工兵連隊(本部と2個中隊),師団通信隊,輜重兵連隊1個(本部と6個中隊),
衛生隊,
野戦病院4個,
兵器勤務隊
がありました.
例えば精鋭第3師団の場合,歩兵連隊の主要装備としては,
四一式山砲が4門ある他,
九四式37粍速射砲4門,
九二式歩兵砲6門,
重機関銃24挺.
砲兵連隊の装備としては,
改造三八式野砲36門,
九一式10糎榴弾砲12門
を保有していました.
第3師団の平時編制は11,858名,馬匹1,592頭で成されますが,これが戦時編制になると兵員は25,371名となり,馬匹は実に8,197頭に膨れあがります.
特に輜重兵連隊では,平時は2個中隊400名,馬匹300頭で編成されるのですが,戦時編制では6個中隊3,461名,馬匹は2,612頭まで拡大します.
因みに,改造三八式野砲は馬匹6頭で牽引する訳です.
此処までは完全に日露戦争と変わりません.
一方,ノモンハンで完膚無きまでに叩かれた第23師団ですが,編成当時の編成人員は兵員12,869名,馬匹2,390頭で編成されていました.
火砲は歩兵連隊に,
速射砲12門,
山砲12門,
野砲36門
となっており,第3師団に比べると著しく劣ります.
この弱体化を補うのが自動車であり,
師団司令部に乗用車3台,トラック5台,
師団捜索隊には軽装甲車5両,
輜重兵連隊では乗用車4台,トラック45台,
師団兵器勤務隊では小型自動車1台にトラック8台
など可成り自動車化が進みました.
ノモンハン正面に置かれた際には,師団内に歩兵連隊が5個あり,安岡支隊の戦車部隊を加えるとほぼ2個師団相当の兵力となっていました.
更に,自動車2個中隊と,飛行部隊が加わります.
第3師団に比べると,先ず,砲兵装備は改造三八式野砲であり,重砲も三八式12糎榴弾砲と明治時代の装備です.
一方,捜索連隊は,乗馬中隊と装甲車中隊で編成され,全体では兵員220名,軽装甲車12輌に増強されており,ある程度の機甲化が為された事が伺えます.
因みに,第3師団の騎兵連隊は452名で馬匹429頭が依然として第一線で活躍していました.
輜重兵は,第3師団が完全輓馬編成なのに対し,第23師団では輓馬中隊と自動車中隊で編成されており,その中隊に配備されたトラックは400台に上っていました.
安岡支隊の基幹は戦車第3連隊と戦車第4連隊で構成され,戦車第3連隊は兵員376名,2個中隊編成で,
八九式中戦車(乙)26輌,
九七式中戦車4輌,
九四式軽装甲車7輌,
九七式軽装甲車4輌
で編成.
戦車第4連隊は兵員565名,戦車3個中隊に予備1個中隊+連隊段列構成で,中心は
九五式軽戦車35輌,
これに八九式中戦車(甲)8輌,
九四式軽装甲車3輌
で構成されていました.
これだけ自動車化されていたのですが,ソ連の方が機械化の程度は一歩先を行っており,更に砲の射程距離と弾薬の不足は致命的で,全滅寸前まで叩かれた訳です.
その復活の過程で,更に自動車化が徹底されます.
編成当初,馬匹2,390頭もいたのが,1941年3月時点になると,兵員12,605名に対し,馬匹は僅か691頭で,その大部分は歩兵連隊砲の輓馬編成でした.
野砲兵第23連隊は,編成当初兵員1,745名,馬匹1,259頭だったのですが,1941年3月時点では,兵員は1,795名と変わりませんが,馬匹はゼロになっています.
その編成は,1個大隊8門の九○式機動野砲が3個大隊で24門,残り1個大隊は2個中隊編成で,九六式15糎榴弾砲が1個中隊に4門となっていました.
これら野砲は,自動車で完全に牽引され,特に重砲大隊には6トン牽引車13輌が配備されていました.
捜索連隊も編成当初の兵員319名,馬匹185頭で,二刀流の編成だったのが,1941年3月には兵員314名に軽装甲車5輌,乗用車6台,トラック30台の編成となっています.
更に新設されたのが,師団戦車隊で,九五式軽戦車15輌を装備していたり.
一番変わったのが,輜重兵連隊でした.
編成当初のそれは兵員370名,馬匹113頭で,乗用車4台,トラック45台でそれを補完していました.
1941年3月になると,兵員は522名に増強され,馬匹はゼロとなりました.
その代り,連隊本部には乗用車3台とトラック10台,1個中隊が指揮自動車1台,乗用車3台,トラック45台で,これが2個中隊編成ですから,輜重兵連隊にはトラックが100台ある訳です.
材料廠ですら,乗用車1台,トラック10台,軽修理自動車2台を保有しており,機動性が向上していました.
もし日本が日中戦争の泥沼に突っ込まなかったら,米国並みの自動車化師団を幾つも編成出来ていたかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi, 2008年01月31日22:13
※2008/6/15,米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998.4.27)を参照して改訂
▼
八九式中戦車甲型(チイ車)

鋲打の丸い砲塔が,いかにも日本戦車を思わせて心和みます(笑)
3色迷彩のムラが刷毛塗りの様に見えますが,どうでしょう.
よしぞう(maro') in mixi,2007年02月17日23:47
▲
【質問】
旧日本軍が仮に質量共にドイツ並みぐらい?の機甲・砲・自動化歩兵を揃えられる環境にある場合,日本の陸戦ドクトリンは肉弾戦術からどう発展していたと考えられますか?
【回答】
充実したトラックで補給が円滑化,展開速度が向上,国内産業が充実.
こんなところじゃね?
少なくともドイツのような電撃戦ドクトリンは生まれず,出来上がる戦車は「より完璧なチハ」以外の何ものでもないと思う.
相手国の湾口の能力に縛られてる限り,重戦車路線はとりづらいだろうし,ドイツ程度の能力を持つと仮定したぐらいの日本では,アメリカの様にドーザーで力任せに環境整えるのは無理だろう.
それに海兵隊の様に大規模な水陸両用作戦ドクトリンを模索する下地も戦訓も必要性もないんだし.
ただし,電撃戦が現れた時点で日本も戦車戦術は研究していたから,必ずしも歩兵支援のみに留まった戦術に固執するとは限らない.
日本が戦車使わなかったのは,単に地形の関係だしね.
……機甲による迂回浸透というのが一番考えられるかな?
モッティ戦術の攻勢版みたいな.
あるいは,普通の現代陸戦みたいな感じになるんじゃないかな.
機甲を先頭に置き,両翼を自動化歩兵にした傘型の中隊みたいなのが出来て,火砲支援の元で敵の陣地に全戦線で素早く浸透していく,みたいな.
ただ現代戦と違って,歩兵の全てを自動化出来るわけじゃない以上,機甲と歩兵はどうしても等速で進軍出来ない.
それを機甲単独の突破と脆弱点攻撃,反転包囲で補ったのが電撃戦.
大量の機甲による圧倒的な一点突撃で,敵の脆弱点まで轢いちまおうってのが縦深攻撃.
で,これだと機甲が孤立して各個撃破されかねないから,じゃあ長い戦線と,そこに張り付けた歩兵による攻撃で,敵の戦力を拘束しちまおうってのが人海戦術.
圧倒的な火力制圧で,敵の陣地をズタボロにしてから進もうぜってのがエアランドバトル.
注意すべきなのは,これらのドクトリンは「どの要素を重視するか」で分かれてるだけで,出来れば全てが揃っているのが一番だって事な.
で,旧日本軍の場合,機甲が揃えられない,揃えても意味ないから,近代陸戦の基礎である下士官に自由な選択肢を与え,下士官を高度に教育するってのを重視した訳.
少なくとも俺の理解じゃそんな感じだ.
とりあえず日本軍の浸透戦術についてはこの辺がよくまとまってるかな.
http://ww1.m78.com/topix-2/%82%94%82%88%82%85%20battle%20of%20shanghai.html
少なくとも日本の国力の範囲では,火力も兵器もあれで十分だったんだろうな.
アメリカなんて規格外の敵と戦わなきゃ…
それ以前に日中戦争が起きなきゃ質重視のままで…
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼
最近入手した,戦時中の児童向け軍事雑誌『機械化』16号(昭和17年3月号)

最近,小松崎茂病が進んでこっちの世界まで来ています(爆
この雑誌は少年誌にも関わらず,曰く「潜水と潜水艦の科学」,曰く「戦車の防弾力」,曰く「空中戦と雲」など随分と色々な軍事情報を判り易く解説いており,小松崎先生も「無限軌道の科学」で挿し絵を描いていました.

よしぞうmaro' in mixi,2007年06月28日02:19
▲
【質問】
では,純粋に機動力の付加を目標に機甲師団仕様にしていくのが一番自然な発展,という事でいいのでしょうか?
【回答】
別項読むと,戦車師団抜きの自動車化歩兵師団がぼこぼこ誕生してたっぽいな.
で,まるっきり浅い知見での妄想になるけど…….
実は日本もそれなりに機械化・自動車化に力入れてたし,対中・対米戦もなく,大陸での運用前提で純粋に日本の戦闘ドクトリンが発展していったとしたら,重戦車の大量運用は難しいだろうから,早い段階で機械化・歩兵戦闘車みたいなのが導入されてたり,戦闘ヘリの研究・導入にも積極的だったりするんじゃないか?という気はする.
チハからして歩兵支援用だし.
ソビエトの重戦車に対抗して火力を補う為に飛行隊は対地・対戦車攻撃に力入れたりとか…
電撃戦というか限定エアランドバトルみたいな感じになるんじゃないかなぁ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 【質問】
日本軍の使用した牽引車の種類は?
【回答】
ホルト5トン牽引車
米国製.
大正8年に輸入.
三八式10センチ加農砲牽引用.
12年式3トン牽引車
別名50馬力牽引自動貨車.
大阪砲兵工廠製の国産第一号装軌車.
故障頻発.
九二式5トン牽引車
イケ.
90式10センチ加農砲牽引用.
九二式8トン牽引車
ニク.
ガソリン・エンジンの甲型とディーゼルの乙型あり.
15センチ加農砲牽引用.
九四式4トン牽引車
ヨケ.
独立混成旅団の野砲連隊に支給された90式機動野砲牽引用.
機動榴弾砲(九一式機動10cm榴弾砲)も同じだと思います.
九二式重装甲車と共用化.
カタログ・スペック40km/hだが,これで走ると壊れる.
九五式13トン牽引車
ホフ.
日本陸軍最大の牽引車.
96式15センチ加農砲などの野戦重砲牽引用.
これもエンジンの別で甲乙あり.
九八式4トン牽引車
シケ.
94式の後継.
機動火砲の高速牽引用.
支給先は94式と同じ.
九五式軽戦車と部品共用.
九八式6トン牽引車
ロケ.
92式の後継.
96式15センチ榴弾砲などの野戦重砲牽引用.
上述の九二式10cm加農砲も,ロケ車を使用しています.
九五式軽戦車と部品共用.
信頼性が高く,戦後も10年ほど使用.
九八式機動軽牽引車
ロニ.
ロケの軽砲高速牽引仕様.
ギア比が異なる.
一部はゴムパッド履帯装着.
九八式牽引自動貨車
コヒ.
ハーフトラック・タイプの高射砲牽引車.
3トン小型トラクター
飛行場整備用などに生産.
試製重牽引車
チケ.
自重16トンと,制式化されれば最大の牽引車だった.
その他の試製牽引車
・ハニ 昭和20年に中型牽引車として試作されたというが不明.
・不明重牽引車.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
機動速射砲(一式機動47mm砲)は自動貨車(トラック)を使用したようです.
九五式十三d牽引車を用いて九六式24cm榴弾砲を牽引した場合,12km/hでの牽引が可能でした.
七年式30cm榴弾砲を牽引すると,牽引速度は時速5キロとのこと.
また,九二式五d牽引車で九六式15cm榴弾砲を牽引した場合は,12km/h程度が可能だったとのことです.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE(黄文字部分)
【質問】
日本軍の自走砲の種類は?
【回答】
試製10センチ自走砲
九五式重戦車を改装.
加農砲.
ジロ車
九五式重戦車改造.
10センチ加農砲搭載自走砲.
ギト
20mm機銃を積んだ試作対空自走砲.
ソト
九七式軽装甲車の砲塔を取っ払って,その外に速射砲を積んだ化け物.
ソト
20mm双連機銃を積んだ試作対空自走砲.
短12センチ自走砲
海軍がチハに,砲塔式に短12センチ砲を積んだもの.
旧式砲をソードオフ.
そこそこ作られた.
12センチ自走砲
海軍がチハに露天式に12センチ砲を積んだもの.
旋回可能だけど,たぶん横向いて撃ったらこける.
試製四式重迫撃砲
ハト.
四式中型装軌貨車に30センチ迫撃砲を搭載.
4両試作.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
なんで旧軍はホニTを大量生産しなかったのでしょうか?
制式も早いし,チハ公よりも生産性は高そうなのですが.
砲塔もついてねーし.
【回答】
肝心の大砲がそんなに量産できない.
原型の90式野砲が初期型と機動式あわせて600〜800門程度の生産数.
38式野砲の更新に間に合ってない.
自緊式の砲身は,日本にとっては高度な技術だった.
むしろ,ホニ1はじめ同系列の砲を積んだAFVを300両前後も作ったのは,たいしたものだと思える.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の水陸両用車輛の種類は?
【回答】
試製水陸両用戦車AMP
ハーフトラック式の水陸両用戦車.
水上航行時は逆走する.
試作のみ.
SRイ号
試作水陸両用戦車.
ジェット推進方式を採用という画期的構造.
SRロ号
試作水陸両用戦車.
SRイ号の姉妹車輛.
スクリュー推進方式.
SRU
試作水陸両用戦車.
九二式重装甲車をベースに開発.
実戦試験に投入か.
SRV
試作水陸両用戦車.
同じく九二式重装甲車の技術を利用.
実戦試験に投入?
特二式内火艇
九五式軽戦車の資材を流用して作った水陸両用戦車.
陸に上がった河童.
クェゼリンで初陣を迎えて以後,太平洋各地に展開して壊滅.
特三式内火艇
一式中戦車相当の水陸両用戦車.
少数生産.
実戦は無し.
特四式内火艇
和製LVT.
攻撃用に使える代物じゃないのに,魚雷を抱かせて渡航を計画.
少数が戦地に送られる途中で海没.
特五式内火艇
計画のみ.
47mm砲を固定装備に,25mm機銃を旋回砲塔.
どうせ戦車に勝てないのなら的?
カホ
九五式軽戦車用の水上航行アタッチメント.
試作のみ.
スキ
水陸両用自動貨車.
日本版DUCK.
生産数約200両.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の装甲兵車の種類は?
【回答】
試製装軌自動貨車TE
日本の装甲兵車類の原型車とも言われる.
九八式装軌自動貨車
九五式軽戦車の履帯を流用.
試作車だが,少数が量産にうつされ,部隊配備されている.
一式装甲兵車
ホキ.
制式APC.
全装軌式.
少数はフィリピンで実戦配備.
一式装軌自動貨車
ホキの姉妹車.
後部荷台は非装甲.
フィリピンで少数が実戦配備.
一式半装軌装甲兵車
ホハ.
ハーフトラック式のAPC.
フィリピンで実戦投入したとの説もある.
九八式装甲運搬車
ソダ.
九七式軽装甲車の試作車ベースの小型装甲輸送車.
日本版ユニバーサル・キャリア.
四式中型装軌貨車
チソ .
ボンネットが目立つ.
FB器
湿地用輸送車.
ソ満国境突破用.
146機生産.
ナミ
FB器改良の揚陸車輛.
サイパン奪回に投入予定だったとも.
ユキ
FB器派生の雪上車.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本軍の装輪装甲車の種類は?
【回答】
オースチン装甲車
イギリス製.
少数が輸入されシベリア出兵に参加.
双砲塔に機銃.
ウーズレー装甲車
原型車はイギリス製で,石川島自動車で装甲車化.
少数輸入され満州で使用.
クロスレイ装甲車
イギリス製.
陸海軍で使用.
上海事変で活躍.
ルノー装甲車
ルノー製乗用車を改装した簡易装甲車.
その他,多様な簡易装甲車があるが省略.
ちよだ装甲車
正式名称不明.
ちよだ6輪自動貨車ベース.
陸戦隊で使用.
報国1号ほか.
スミダ装甲車
正式名称不明.
スミダ試製九三式乗用車の発展型とも.海外では九二式とも.
陸戦隊.
九一式広軌牽引車
スミダ自動貨車ベースに銃塔装着.
名前のとおりタイヤ交換で,鉄道軌道上も走行可能.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
この写真なのですが,石川島製作所の90式6輪装甲自動車『報国号』という説明がなされていました.
ですが,この90式6輪装甲自動車なるものが,検索では一切引っかかりません.
「90式6輪装甲車」でも「90式装甲車」でもダメでした.
どなたかご存知の方がおられましたら,詳細をお教え願えれば幸いです.

消印所沢 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,
2009年07月07日 22:25
【回答】
ワールドフォトプレスの『日本陸軍兵器集』(1979.10)では,「報国号装甲車」の名前で,同じ車両と思しき車両が載ってます.
六輪装甲車で,日章旗の塗装あり.
説明によれば,(p166より)
――――――
昭和7年に上海事変に出兵した海軍陸戦隊が使用した装甲車で,英製と思われる.
国民の献納金をもって購入されたため,報国号1号車,同二号車,同三号車と,三両が実戦に使用された.
当時の価格で25000円で,この装甲車を手本にして91式装甲車が開発された.
――――――以上要約終わり.
たぶん,90式,91式というのは間違いで,海軍で使われた九二式六輪装甲車だと思います.
そして,生産はされておらず,すべて輸入品だと思います.
「九二式六輪装甲車」ググルといくらかヒットするものの,肝心の写真は見つかりません.
ただ,「上海陸戦隊」という戦前の映画に,実車が登場するらしいです.
「石川島が製作した」というのは,たぶん間違いで,昭和3年に石川島造船が製作したウーズレイ装甲車と混同しているものと思われます.
極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,
2009年07月07日 23:28
なお,上掲写真は,昭和12年の第二次上海事変後に上海で印刷された「上海戦線写真帖」から.
“敵の心胆を寒からしめた我が最前線に於ける陸戦隊○○軍の活動(8月20日)”とあり〔略〕ますが…
載せているのはどう見ても畳!
新手のスペースドアーマーでしょうか(笑)
それにしても即席とは言え,流石です.
日本海軍恐るべし(^^;
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月24日02:40
青文字:加筆改修部分
畳は断片防御に意外に効果があるようで,海軍艦艇でも機銃座周辺などに柔道用等の理由で,艦内にストックされていた畳が,断片防御用に配置されている例が知られています.
また,水をかければ火炎瓶対策にもなったと思います――車体上面に乗せてるのが,それっぽい――し,実際に海軍艦艇での使用時には,そうして被弾時に着火しないようにしていた模様です.
まさとし in mixi,2007年06月25日 00:17
【質問】
日本陸軍の砲戦車(対戦車自走砲)の種類は?
【回答】
試製一式砲戦車
後の二式砲戦車.
九七式中戦車に砲塔式で山砲を積もうとしたらこうなった.
一式砲戦車
一式7センチ半自走砲を砲戦車としても採用したの.
90式75mm野砲を主砲に採用.
オープントップだ.
前面装甲は厚めだけど死ねる.
一式砲戦車
10センチ自走砲タイプのもある.
ルソン島に送られたけど海没.
二式砲戦車
ホイホイ.
一式中戦車に山砲を積んだらこうなった.
少数生産.
実戦は経験せず.
三式砲戦車
オープントップで防御に問題のあった一式砲戦車に対し,全周防御を施した対戦車自走砲.
たぶん連合軍の中戦車には,近距離でしか打撃を与えられない.
四式砲戦車
ホロホロ鳥.
後家の再婚.
余ってた旧式15センチ砲を積んだチハ.
フィリピンと沖縄で実戦投入.
ホリ
五式中戦車の車体に10センチ加農砲を積んだ対戦車自走砲.
試製五式砲戦車ホル
和製ヘッツァーといってホルホルしたい向き.
和製セモベンテ.
九五式軽戦車の履帯を広げたりして47mm砲積んだの.
クセ車
試製五式軽戦車の試作車の1両に,75mm砲を積んだ対戦車自走砲.
試作のみ.
ナト
四式中型装軌貨車に四式75mm戦車砲搭載の対戦車自走砲.
2両試作?
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦前の国産自動車開発の事が,詳しく書かれている本ってないでしょうか?
【回答】
三樹書房の『日本自動車史1・2』(佐々木烈著)とか,つい最近だと,グランプリ出版の『苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦』(桂木洋二著),
まぁ,桂木さんについては色々言われている人ですが….
それから,日本経済評論社の『鉄道車輌工業と自動車工業』(坂上茂樹著).
日本自動車史は特に明治・大正の黎明期が詳しく,全般的なのは苦難の歴史〜,
戦前から戦中にかけてのものだと鉄道車輌工業〜が結構詳しく,鉄道車輌との対比について書かれて居ます.
こちらは,絶版で入手困難ですが,日本経済評論社の『日本のディーゼル自動車』(山岡茂樹著)と,日本経済評論社の『伊藤正男 トップエンジニアと仲間たち』坂上茂樹著が参考になるのでは?
前者は,日本のディーゼル自動車関係の開発史ですし,後者は,統制型ディーゼルエンジンを開発したエンジニアの伝記です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2009/08/30(日)
青文字:加筆改修部分
別冊モーターファン 「国産車100年の軌跡」 三栄書房
昭和53年と古い本で古本屋で買いましたが,戦前の自動車について詳細に書かれてます.
自動車雑誌別冊だけあって,写真多数.
軍事板,2009/08/30(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦前の日本のトラックについて質問です
九四式の設計に当たって自動車工業と瓦斯電が共同設計したらしいのですが,他の自動車メーカーも九四式の製造に当たっていたのでしょうか?
戦中は日産とかトヨタとかメーカーそれぞれのトラックが採用され,統一基準みたいなものがなかったみたいなので,戦前も規格は統一されずに個別の業者がそれぞれ勝手に作っていたのかな,と疑問になりました.
兵站/整備の上で負担になるから,あんまり車種を増やしたとも思えないのですが,じっさいはどうだったのでしょうか?
【回答】
九四式自動貨車の製造は,両社のほか,六甲ST40の名称で,川崎車輌も製作しています.
元々,自動貨車製造については,陸軍もさることながら,商工省の存在が大きいです.
1939年8月に,国産車の技術向上を目指し,「自動車技術委員会」というのが商工省次官を会長に,商工省各担当部署の責任者,学識経験者,鉄道省の関係者,豊田から豊田喜一郎,日産から浅原源七がメンバーとなり,国産車の種々の問題に関して,軍当局から提起された事項を中心に,部会で検討会が作られました.
自動車の形式,自動車部品の共用化もこの委員会で論議され,1000〜1500ccは日産が,2500cc級はトヨタが,3500ccは日産,トヨタ両社で,4500cc以上は「ヂーゼル自動車」がエンジンの製造を行うことになりました.
これにより,重複による無駄を避けることが出来,試作車の投資の無駄を避けるようになっています.
このヂーゼル自動車は,陸軍がディーゼルエンジンの統一的製造を要求したため,自動車工業と瓦斯電,それに,ディーゼルの製造設備を持つ,三菱,日立,池貝自動車製造,川崎車輌の各設備を集約して誕生したものです.
ここから,特殊車輛に関しては,別途日野重工業が分かれています.
なお,これより先,鉄道省とスミダとチヨダの共同作業で,商工省標準車が作られています.
これが軍用としては九七式自動貨車となったものです.
但し,こういった動きに三菱だけが同調せず,陸軍から不採用になった三菱製の車輌は,鉄道省標準車として,「三菱ふそう」の名の下,バスとして採用されています.
軍用自動車の指定業者として,軍部から指定されたのはトヨタ,日産の二社で,後にヂーゼル自動車が加わっています.
トヨタと日産については,商工省の統一の動きより早く,独自の車輌を製作しています.
なので,同規模の車輌を複数種類調達していかざるを得ない面がありました.
このときの商工省標準自動貨車のコンセプトは,GM,フォードの一クラス上の大型車で,GM,フォードと競争する形で,トヨタと日産のトラックがありました.
従って,部品共用化と言っても,自動車部品の殆どは,各社で内製していますから設計思想の統一くらいで,実際の部品共用まで進んでいないのではないかと思います.
また,「自動車技術委員会」で検討されたものは,研究段階で,実際に施行されたのは1942年以降となっており,これが戦時規格型トラックに具現化していきますが,これも車輌製造仕様の統一で終わっていたみたいです.
でもって,戦前の自動車は大まかに言って,シャーシの上にボディを架装するものでした.
ボディは,板金工の手による叩き出しですから,精度などはあまり気にならないです.
豊田にしても日産にしても,シャーシ部分だけ製造して,他の業者が架装することも多い訳です(現在のバスがそのような手法を採っていますね).
また,エンジンにしても,トヨタと日産のエンジンは,極端に言えば,当時日本で最も多く走っていた,シボレーのものを原型にしており,両車ともGMの部品が有れば整備出来ました.
いすゞのディーゼルエンジンはユンカースが原型ですが.
それと,輸出販売ルートとしては,トヨタが中国大陸,日産が満州となっており,国産車同士の食い合いは避けていたようです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
日本軍のその他の支援車輛の種類は?
【回答】
100式挺進観測車
九四式軽装甲車ベースの砲兵観測車.
1式挺進観測車
九八式装甲運搬車発展の砲兵観測車.
装甲作業機甲
万能工兵車輛.
十数両生産.
装甲作業機乙
万能工兵車輛.
8両生産.
空冷ディーゼル.
装甲作業機丙
万能工兵車輛.
流体変速機仕様の試作車.
装甲作業機丁
エンジン換装により高速化.
しかし八九式中戦車が基本なので29km/h.
生産数20機.
装甲作業機戊
機能を限定して実用性を高めた最終型.
それでも架橋・火炎放射・地雷除去・トーチカ爆破兼用.
架橋機材はカタパルト式.
生産数77機.
TG機
チハベースの架橋車.
部隊随伴可能に.
セリ車
チハベースの戦車回収車.
伐開機1号型
八九式中戦車流用.
可動式衝角で森林を切り開くはず.
伐開機ホK
チハベースのもの.
ニューギニアにも進出.
伐掃機
伐開機の支援車輛.
倒木を除去.
潜行掘壕機SK
チハベースの特殊ブルドーザー.
たぶんエンジンが燃えちゃう.
機材運搬車KU
装甲作業機のアタッチメント輸送車.
チユ
チハにマインローラーをつけた地雷処理車.
フセ車
軽装甲車で牽引する消毒剤散布車輛.
フサ
軽装甲車で牽引する毒ガス散布車.
九五式野戦力作車
リキ.
戦車回収・整備用の装甲車輛.
少数生産.
TB器
湿地用偵察車.2人乗り.
▼九七式植柱車
九四式軽装甲車ベースの電信柱設置機.
九七式延線車
九四式軽装甲車ベースの有線通信線設置機.
気球係留車
九四式軽装甲車ベースの弾着観測用気球の係留車.
マルゴ車
九四式軽装甲車ベースの皇族避難用装甲車.
別に装甲兵車改装のものも存在.
九七式小作業機(甲)
い号.有線誘導式の鉄条網破壊用の爆薬筒運搬車.
「い」は有線(いうせん)の頭文字.
九七式小作業機(乙)
い号.ヤイ号.
有線誘導方式のトーチカ攻撃用の爆薬運搬車.
日本版ゴリアテ.▲
軍事板,2008/10/28(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本軍が鹵獲した装輪装甲車の種類は?
【回答】
FAI装甲車
ソ連製.
日本側ではフォード四輪装甲車と呼称.
張鼓峰事件などで鹵獲.
BA-20装甲車
ソ連製.
ノモンハン事件で鹵獲.
BA-10装甲車
ソ連製.
ノモンハン事件で鹵獲.
BA-3装甲車
ソ連製.
ノモンハン事件で鹵獲.
靖国神社に展示.
BA-6装甲車
ソ連製.
ノモンハン事件で鹵獲.
コムソモーレツ装甲牽引車
ソ連製.
機銃装備の装軌式小型装甲牽引車.
豆戦車.
操縦席は装甲されているが,砲員は車外乗車.
ノモンハンで鹵獲.
Sd.Kfz.221 or 222 or 223
ドイツ製四輪装甲車.
国民党軍が使用中のものを鹵獲したというが詳細不明.
M3A1スカウト・カー
米国製四輪装甲偵察車.
フィリピンで鹵獲.
フィリピン騎兵部隊装備か,米軍装備かは不明.
M3兵員輸送車
米国製装甲ハーフトラック.
フィリピンで鹵獲.
M3対戦車自走砲
M3兵員輸送車をベースにした対戦車自走砲.
試作車名称T12.
フィリピンで鹵獲され,フィリピンの守備隊がルソン防衛戦で使用.
マーモン・ヘリントン装甲車
米国製装輪装甲車.
蘭印軍および英軍から多数鹵獲.
日本軍のほかインド国民軍に供給.
ダイムラー・ランチェスター・マーク2装甲車
イギリス製6輪装甲車.
マレー作戦で鹵獲.
ダイムラー・スカウトカー・ディンゴ
イギリス製の四輪装甲偵察車.
英軍のほか蘭軍からも鹵獲か.
その他:オランダ軍の現地改造装甲車OVAERVALWAGENいろいろ
・シボレー四輪大型装甲車
・ブラート四輪装甲車(下のAA)
鹵獲後,現地の守備隊で使用.
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白 | 丘百/((==ヾ
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軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦後,軍用車輛を改造して作られた民生用車輛には,どんなものがあるの?
【回答】
更正戦車
戦後に戦車を改装してブルドーザーにしたもの.
チハベースや九七式軽装甲車ベースなどある.
警視庁装甲車
チハの砲塔を撤去するなどして製作された装甲車.
チハ改造クレーン
チハの足回りを流用して製造されたクレーン作業車.
横浜港で昭和30年代まで活躍.
雪上バス
ハ号軽戦車を改装した雪上車で,客車を牽引.
試製装軌自動貨車TC
九二式重装甲車の足回りを流用して試作された.
軍事板
青文字:加筆改修部分
雪上バス

【質問】
日本陸軍の自動車化された歩兵部隊や捜索連隊の乗車中隊に配備された自動貨車と,部隊あたりの配備数などをどうか教えてください.
小隊や中隊を何両で運んだかとかが知りたいんです.
【回答】
基本的に自動貨車の配備数は余り多くありません.
例えば,第23師団の捜索連隊には自動貨車30台という数字が残っていますが,中隊毎にどれくらいの数を配分したかはよく判らない状況です.
輜重兵中隊の場合は,自動貨車40両基幹になっています.
自動貨車には完全武装の兵士15名,または荷物500貫を載せることが出来ましたので,例えば,歩兵分隊を輸送する場合,単純計算では自動貨車1台があれば足ります.
1個小隊は4個分隊ですから,単純計算で,5台程度の自動貨車が必要になるでしょう.
1個中隊は4個小隊と指揮班,弾薬小隊が付きますから,大体輜重兵中隊の自動貨車分が必要になりますね.
眠い人◆gQikaJHtf2
「機械化」 昭和15年12月号より
九七式4輪自動貨車(?)の模型を製作する,の図

少年誌なので相変わらず,子供向け軍事/兵器解説や上記の様な小学生の模型製作についての記事が多数です.
よしぞうmaro' in mixi,2007年07月12日01:56
青文字:加筆改修部分
【質問】
九七式側車付自動二輪車って何?
【回答】
1937年,すなわち皇紀2597年制式の日本陸軍のサイドカー.
米国ハーレーダビッドソン社の製品の民生用ライセンス生産品であった,三共内燃機製の車両「陸王」に改良を加えたもので,不整地走行性能を向上させるために単車(陸王)本体だけでなく,側車の車輪も駆動する,世界初の二輪駆動式サイドカーであるのが特徴.
陸軍のみならず海軍陸戦隊も本車を採用,支那事変,大東亜戦争等での諸戦線,および内地での伝令,斥候,輸送に幅広く使用された.
【参考ページ】
http://muwsan.hp.infoseek.co.jp/photo-rikuoh.htm
http://nabeck.web.fc2.com/rikuou.htm
http://waltermodel.com/?pid=11983539
http://www.hozen.org/bbs/19/7154/
http://0ash.sakura.ne.jp/bike/archives/2005/12/post_206.html
旧軍写真の一枚

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月15日00:17
【質問】
日本軍は開戦直後にブルドーザーの存在を知り,陸,海軍が開発を発注したけれども,結局試作で終わったとありました.
ブルドーザーの何が難しいんでしょうか?
それとも,ただ単に軽視されてただけでしょうか?
【回答】
一応,戦前に朝鮮や満州にCaterpillarのBulldozerが少数が輸入されて,建築現場で使われていましたし,1940年頃から陸軍が小松に命じて試作をしていたので,全く存在を知らなかったと言う訳ではありません.
但し,北満湿地帯での道路建設用機械と認識してしまったため,これは使えないと早々に試作を中止してしまいました.
南方での飛行場設営に思いが至らなかった訳で.
そして,次いで海軍が南方基地設置用建設機械として,ブルドーザーを同じく小松に発注しました.
こうして作られた小松一型は,牽引車に油圧式ドーザーを付けた代物で,本格的なものでもなく,最初に作られた試作と増加試作6両はアッツ島に送られましたが,到着後に守備隊が玉砕して行方不明になりました.
次いで,陸軍が航空基地整備用ブルドーザーの試作を小松に指令(また此処でも陸海軍の対立弊害が出てくるわけで)し,小松は今度は1940年に試作した陸軍向け試作車を基に,海軍のものと同じ手法で,ブルドーザーを試作しました.
しかし,これは効率が悪く,米国のものに比べると劣っていたので,Caterpillarを参考に,よりブルドーザーらしくしたのが1944年の試作車です.
但し,資源不足で,1両しかできませんでした.
特に日本では油圧のシーリングの問題が大きく,なかなか油圧式ドーザーを動かすのに苦労したみたいです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
▼ ちなみにコマツ・テクノセンタ(静岡県)に展示されている現存機は,戦中フィリピンで稼働し,終戦後,米国の接収で海中に投棄されたが,のちに引き揚げられ,オーストラリアの農場で使用されていたものです.
http://www.jsme.or.jp/kikaiisan/data/no_018.html
つまり海に投棄して,引き上げて戦後20年ぐらいは使える実用性はありました
あとは,メーカーごとの差や個体差がありますが メンテナンスや燃料の問題が大きいです.
何よりも,現地に送る途中での海没(本体や・パーツや操縦者・燃料・潤滑油)があり,あまり役に立てることができなかったというのがあります.
光文社文庫『技術兵の日米戦争』(タイトルうろ覚えなので間違っていたら陳謝)あたりに,ある程度の記述があったような.
【関連リンク】
http://www.kenki.jp/museum/bulldozer/bull1930-04.html
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
「伐開機」って何?
【回答】
装軌車輛の前部に衝角を装着して樹木を押し倒しかき分けて進むという代物です.
「伐掃車」と言う伐開機が切り開いた道の倒木や根っこを片付ける車輛とセットで使用します.
本来は細長い通路を開設するための機材で,ビアク島に送られました.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分
※ 以前,似たような項目をどこかに載せたはずだが行方不明.
【質問】
日本の海軍陸戦隊が装備していた「機銃車」ってなんですか?
上海事変頃のは,各種の装輪装甲車のことみたいですけれど,太平洋戦争中に出てくるのも,同じものなんでしょうか?
【回答】
「機銃車」は装輪装甲車の事ではなく,海軍が陸軍に続いて購入した,Vickers
Armstrong Carden-Loyd Mk.VIbのことで,これは,「カ式機銃車」と呼ばれていました.
太平洋戦争初期にも,この車輌は使われていますので,同じものと言えるでしょう.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
戦時中までの御料車について教えてください.
【回答】
天皇家が最初に使った御料車は,1912年製ディムラーリムジンだったそうです.
1号御料車は,当時の英国国王KingGeorgeVの御料車と同型.
但し,皇室の色である溜色に塗装し,側面に十六花弁の菊の御紋章を付けたのもこれから始まっています.
このほかに2号御料車として,同じくディムラーのランドレー,これはちょっと小型ですが,天皇以外の皇族と外国からの賓客送迎用である貴賓車にはメルセデスのランドレー,お付きの人が乗る臣下車にはディムラーランドレーとフィアットランドレー2台,それに運搬車としてフィアット2台が購入されました.
ちなみに,これらを購入したのは,「鯰」こと大倉喜八郎だったりします.
1921年には木造ボディの車体は老朽化して,第3号,第4号御料車として,当時世界的に高級車としての名声を高めていた,1920年型ロールス・ロイスシルヴァー・ゴーストで,シャシーの価格は2,100ポンド(当時のオースチン・セブンが120ポンド)に,フーパー社でリムジンボディを架装しています.
このボディーが実に,2,425ポンドとシャシーより高かったり.
これは主に大正天皇の御料車として用いられましたが,御座所から段差無しに乗り降りできるよう,シートとルーフを日本で改造したそうです.
ところが,1923年の虎ノ門事件の結果,余りにも御上が無防備だと言うことで,この御料車に装甲板を付けることとなり,米国から板厚2mmの防弾鋼鈑を購入し,試作としてピアースアロウに取り付けてみたのですが,重量増で役に立たず,沙汰止みになり,1931年から1935年に掛けて7台が輸入されたメルセデス・Bベンツ770グローサー(1932年型4台,1934年型3台)に取って代わられました.
ちなみに,初代のディムラーは1932年,二代目のロールス・ロイスは1933年頃解体されますが,ロールス・ロイスのエンジンは,宮中吹上御所の緊急用水揚げポンプの動力源として戦争中も長らく使用されています.
また,ラジエター,ホイールは解体業者の手を経て民間に流れ,とある自動車マニアが保有していたそうです.
余談ですが,このラジエター,戦後,米海軍士官がグアムから持ち込んだ1926年型ロールス・ロイスを,銀座のドイツ料理屋ケテルスが購入したのですが,グアムで使っている時に塩害でラジエターがいかれ,代わりのものとして白羽の矢が立ったのが,元御料車のラジエターだったりします.
さて,三代目御料車のメルセデスは余りにも有名ですが,この同型車は,天皇家を始め,Hindenburg大統領,Sweden国王,Egypt国王,Bulgaria国王,Yugoslaviaの摂政,亡命中のKaiser
WillhelmII世,作曲家Richard Straussなどがご愛用の世界で117台しかない貴重なクルマだそうで.
量産されたのは1938年のW150/150II以降なので,このモデル,W07/W07Kは本当にPremiereなものでした.
天皇家の御料車のそれは,Supercharger無しエンジンに,4段型ギアボックスのもので,同型車の中には,ルーツ製Super
chargerを取り付けたエンジンに,ギアボックスはマイバッハ製6段(高低3段ずつ切り替えられる)のものもあるのですが,日本の路上では無用の長物と考えられたのでしょう.
ボディはジンデルフィンゲン工場製プルマン・リムジンで,リア・コンパートメントの内装は宮内庁支給の京都の西陣織でしつらえられています.
7台のうち2台は,陸軍工廠で,10mの至近距離から発射された機関銃弾に耐えることが可能な厚さ5mm以上の装甲板を,ボディパネル,ドアは元より,ボンネットパネルまで張り巡らしていました.
最も徹底的に成された車輌は,路面に敷設された地雷が爆発しても耐えられる様に強化され,床板は勿論,エンジン下部にも防弾鋼鈑が張られています.
更にガラスは厚みが優に15mmを超える防弾ガラスで覆われ,こうして重量は,標準的な770が2.7tになるのに対し,強化型は4.7tと戦車か装甲車かと言うくらいまで増加しました.
この重量に耐えるタイヤは,当初はContinentalを使っていたのですが,それが無くなると横浜ゴムに試作の命令が下り,4tの重量に耐え,釘を踏んでもパンクしないため,超肉厚カーカスと布入りシーラントを内張したチューブを用いた,特殊タイヤが開発され24本が納入されています.
このメルセデスは,空襲で焼失した1台を除き,残りは1969年まで使用されています.
後に2台は,富谷龍一氏の手によって,住江製作所がランドレーに改造し,全国行幸に使われましたが,その後この2台は部品取り用に解体され,1970年代初期に1932年型の最後の1台が解体,1971年にはダイムラー・ベンツからの要請で,1934年型が1台寄贈されていますが,未だ2台は宮内庁の車庫に眠っているそうです.
ちなみに,戦前はボディの溜色塗装は皇室専用色で,他のクルマに塗装するのを禁じられたのだとか.
また,戦争末期には,溜色のメルセデスは機銃掃射の的になるとの懸念から,三井本家が黒塗りの1937年型メルセデス500Nニュルンベルク・リムジンを献上し,これは内親王用などに使われていました.
ちなみに,この三井本家のメルセデスは,1936年,右翼によるテロが頻発していた当時,当時の総帥八郎右衛門の身を案じた三井家が特にドイツから輸入した装甲板付きのものだったり.
この他,非公式用の車輌としては,1920年に最初のディムラーリムジンが2台,第7,8号貴賓車として使用され始め,1921年には1920年型ディムラーオープンツアラーを1台購入しました.
1922年に裕仁親王の答礼で,PrinceofWalesが来日した際には,その為だけに,ロールス・ロイスから1920年型シルヴァーゴーストオープンツアラーを輸入しました.
(時代は下り,1975年にエリザベスII世女王が来日した際に,パレードに用いられたのは,キャデラック…orz)
実は,このオープンツアラーは,英国皇太子の来日には間に合わず,この貴賓車は,裕仁親王が国内や台湾に出かけられたときに使われていたそうです.
で,このクルマ,1925年に民間に払い下げられ,所有者を転々とし,オリジナルボディーは失われていますが,現存しているそうです.
1940年代の法律上の所有者は,ビルマ国カチン政府という訳のわからない代物で,その代表者名は日本女性だったとか.
お付きの人が乗る臣下車としては,まず,米国製のピアース・アロウの各モデルが使われていました.
今は消滅していますが,1920年代まで,米国の最高級車として君臨し,T型が300ドルの頃,4,850〜6,300ドルもしています.
また,ボディは箱型と幌型の二種類が用意され,季節によって載せ替えることもしていたようです.
ピアース・アロウが倒産し,消滅してからは,官公庁御用達のパッカード・スーパーエイト・リムジンが主に使われる様になります.
これは,1950年代まで使われ続けましたが,1960年代にメルセデス300シリーズに置き換えられ,国産車の充実と共に,トヨタセンチュリーとか日産プレジデントが主流となっています.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi
これも御料車(?)

(画像掲示板より引用)
【質問】
戦後しばらくの間一世を風靡したオート三輪(三輪車)ですが,戦前,もしくは戦中に日本軍は制式採用してなかったのでしょうか?
なかなか使い勝手が良さそうだ,と思ったのですが,やっぱり路外性能がしょぼいからダメだったのでしょうか.
【回答】
準軍用,あるいは非公式なものとの扱いでした.
戦前はオートバイのエンジンを輸入し,そのエンジンを用いて車体を作り上げるものが主流でした.
普及し始めたのは1925年頃からで,大阪東区のウエルビー商会が製造したウエルビー号から始まりました.
その後,3年で2社しかなかったメーカーが35社に迄増えています.
こうして市場が拡大していったのですが,所詮オートバイの亜種的な存在でした.
しかし,チェーンドライブ・片後輪駆動・バックギア無しでは使いづらく,シャフトを用いた後輪2輪駆動,バックギア付の機種が市場に出回り,初期のオートバイ亜種は駆逐されます.
これらは非常に高い技術を要するもので,弱小の企業では太刀打ちできません.
次いで,輸入のバイク用エンジンに代って,水冷の国産エンジンが登場します.
特に発動機製造(今のダイハツ)が嚆矢となり,次いで東洋工業(今のマツダ)がそれに続きます.
1933年のオート三輪登録台数は12,000台で小型車全体の保有台数の凡そ40%,その後,1937年には15,000台にまで達します.
購買力の小さな農業人口が80%を超えているような国で,この数字ですから十分に大きな生産台数だと思います.
ちなみに,車輛価格は1台当り700円〜1,500円で,平均価格が1,000円.
この時代,フォードが2,800円です.
シェア的には,発動機製造が30〜35%程度,東洋工業が20〜25%と,両社で市場の半分以上を占有し,残りを日本内燃機(くろがね),陸王内燃機,旭内燃機,帝国製鋲,水野鉄工所,兵庫モータースが団栗の背比べをしていました.
しかし,以後は戦時体制に組み込まれ,生産台数は減少しました.
ただ,軍事用は例外で,陸海軍共に内地や南方では重宝されています.
とは言え,野戦に於ける耐久性,不整地走行能力,機構的トラブルの問題と被弾時の措置に研究の要有りとして,いずれも準軍用,あるいは非公式なものとの扱いでした.
戦時中は,前述の発動機製造,東洋工業,日本内燃機が指定工場となり,軍需,官需用にオート三輪を製造しており,他にも沢山の海千山千の群小メーカーが製造しています.
日本内燃機のニューエラ号は後に一式として制式化されており,水運搬車も作られました.
蛇足ですが,東洋工業は,松田製作所,日本兵器製造を興した松田重治郎・恒次親子が中心となった会社で,1920年に前身の東洋コルク工業に重治郎が取締役として迎えられ,翌年,社長となって実権を握ります.
この会社は,瓶の栓や,氷で冷やす冷蔵港の断熱材としてのコルクを製造していました.
1927年,コルク製造から機械事業に打って出て行こうと社名を東洋工業に変更します.
この転換で,海軍から兵器製造の発注があり,また,各企業に加工機械を売り込んでそれらが採用されます.
同時に,機械技術の当時の最高峰として考えられていた自動車製造に乗り出しますが,身の丈を考え,まずは,1926年にトーヨーコーギョー号を言うオートバイを作り,30台ほど生産します.
次いで,島津楢造氏を迎え,自社製エンジンを開発し,それを搭載したオート三輪を生産し始めます.
ただ,販売チャネルが無かったので,三菱商事と組んで,国内や国外に打って出ます.
ブラジルの軍に採用されたのはマツダ号です.
ついでに,マツダランプは,マツダ,東洋工業とは無関係です.
こちらのほうは,東芝の前身の一つの会社が作っていた電球のブランド名だったか,と.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
日本に徴用可能な自動車は何台あったのか?
【回答】
1935年10月末日現在の「全国自動車・自動自転車集計表」と言う統計があったり.
陸軍省が調査したもので,何故,陸軍省かというと,万一の有事の際,自動車を徴発して軍用に充てなければならないからで,これは,年度の自動車徴発規程の基礎資料となるものです.
で,これによると,1935年の日本の自動車の台数は….
四人乗乗用車 :営業用/316台,自家用/1,173台
五〜七人乗乗用車 :営業用/44,785台,自家用/5,323台
八人乗以上 :営業用/21,214台,自家用/104台
1t積未満トラック :営業用/783台,自家用/689台
1〜1.5t積トラック:営業用/6,464台,自家用/885台
1.5〜2t積トラック :営業用/22,900台,自家用/3,098台
2t積以上トラック :営業用/9,837台,自家用/864台
小型自動車・貨物自動車:営業用/276台,自家用/3,412台
自動自転車 :営業用,自家用合わせて16,684台
ちなみに,小型自動車・貨物自動車は,ダットサンとかAustinの事,自動自転車は,バイク,サイドカー,三輪車の事です.
このほか,全国にタンクローリーが214台,患者輸送自動車が57台ありました.
この資料には官庁用とか消防自動車は含んでいませんが,全国,つまり,内地,朝鮮,台湾,関東州,南洋諸島含めて,日本全土にある自動車の数は総数130,517台.
で,その大部分が,Ford,Chevroletの組立外車です.
内地では,東京府が28,875台,名古屋を含んだ愛知,岐阜,静岡の東海三県で11,313台,北海道,樺太,千島で3,567台だったりします.
流石にこれでは拙いと思ったのか,自動車製造事業法によって国産車を育成し,1941年には年間2万台の生産量を誇るまでになっています.
ちなみに,自動車製造事業法が制定されても,横浜Fordに関しては生き残っており,1937〜40年に掛けて自動車製造事業法の枠外で,7,800台のFordが生産され,満州に移出,日産の満州に於ける系列会社であった,満州同和自動車で同社製自動車として売られました.
特に,1940年のトラック1,200台は,そのまま関東軍に納品されたりしています.
でもって,この自動車を製造する際の部品で足りなくなったものは,独ソ開戦まで,ドイツ・フォードからシベリア鉄道経由で手に入れていて,本国のフォードは何ら関わりが無かった様です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
国産バス

【質問】
戦前か戦中,統制型ディーゼルエンジン(一式戦車?)を潜水艦?でドイツに輸出した,とか.
数量等判りませんが,それほど技術的なものに見るべきものがあったのでしょうか?
【回答】
http://www.bekkoame.ne.jp/~bandaru/deta021a.htm
によれば,見るべきものはなかった模様.
以下引用.
統制型ディーゼルエンジン(一式戦車用)
ドイツに潜水艦で輸出されましたが...
日本の精密工業の水準がばれないようにヤスリ仕上げの無い部品を選別するのに苦労したそうで...
とても自慢できるようなものではありませんでした.
【質問】
戦時中,車輛に使われた代用燃料について教えてください.
【回答】
1940年の物資不足の頃から,色々な代用品が出現しました.
食べ物なんかもそうですし,工業製品たる客車だって,貨車に乗客を乗せた代用客車というのがあったり,教員資格のない,代用教員と言うのがいたり….
当然,「ガソリン一滴は血の一滴」なんてスローガンが叫ばれて,ガソリンの消費を抑えようと,色々工夫しています.
例えば,1939年1〜3月の西成線(今の大阪環状線西回り+桜島線で当時は非電化)では,平日1,400リットル,休日1,100リットルのガソリンが消費されていましたが,空燃比を希薄化したり,今のバスでも行われているアイドル・カット運転(これを手動で行った),その機関停止時に気化器からOverflowする燃料の回収,動車元空気だめへの空気充填を車庫で行う,変速操作運転の技能向上,2両編成の場合は,1両のみ機関を動かし,他の車輌は付随車とするなどを実施し,486リットルもの燃料を節約しています.
後,陸軍が中心となって,ガソリンに酒精を混入する実験が行われました.
が,酒精と言うのは,農産物(芋類)から採取されるものを主体としていた為,芋類の主流である甘藷の価格が高すぎたのが原因で,一旦頓挫し,1937年に復活し,4月に酒精専売法が施行されると共に,法律第39号「揮発油及アルコール混用法」が施行され,航空用以外の民需用ガソリンはエタノール混入ガソリンとしなければならない,と定められました(ちなみに世界で15番目).
これは,石油資源節約,航空用ガソリンの確保を目的としたためで,酒精の経済性は,ガソリン1に対し,軽油0.53,木炭1.22,薪0.94,天然ガス,都市ガス各0.72,アセチレンガス1.7,電気0.57に対し,酒精15.5と桁違いに悪かったりします.
しかし,これとて,エタノール生産が間に合わ(ぉぃ…)に,段階的に施行されることになり,1938年5月にガソリン総量の25%に5%,9月に25%に10%混入,1939年4月に50%に10%,10月からは70%に10%,1940年1月より全ガソリンに10%,11月以降15%,1941年には20%に引上げという施策計画が採られています.
実際には,酒精増産の進展で,1940年1月に15%混入が実施され,1942年2月からは,トラック用燃料として,7府県で単体酒精を使用するに至っています.
ところが,戦線の急拡大で,今度は医療用アルコール需要が急増し,燃料用に回すことが出来なくなり,1943年にこの「揮発油及アルコール混用法」は廃止されてしまいました.
では,ガソリンに変わる代用燃料とはどんなものがあったか?ですが,まず,発生炉ガス,これは木炭,薪,石炭を炉内で不完全燃焼させ,発生した一酸化炭素,窒素主成分のガスを燃料とするもので,木炭車というのが,それですね.
ちなみに,石炭利用の場合,国内炭では灰が冷えて蜂の巣状に固まる現象が多発したため,灰の融点が高い,山西省陽泉産出の陽泉炭に限定されています.
これ以外の石炭状物質としては,コークス,コーライト.
次いで,メタノールで,これは南大東島,台湾などでの砂糖黍搬出用,台湾総督府交通局鉄道部で使用例があります.
混入については,先述の通り.
後はカーバイトによるアセチレンガスで,トラック,三井鉱山神岡軌道などの産業用機関車に使用されました.
天然ガスについては,秋田の横荘,新潟の長岡,千葉の小湊,九十九里,滋賀の江若などで使用されています.
いずれも天然ガス田の産出地近辺でしか使用されず,燃料費的にも高価であり,ボンベなどの補給にも苦労しました.
さて,今までの炉は,バス・トラック用のものを内燃動車に転用したので,当然,大型車になると性能が不足する訳で,大型車には専用の炉を開発することになりました.
これは淡路島にあった淡路鉄道(今の淡路交通)が作ったもので,淡鉄式と呼ばれ,今までの2倍の容量を持つものでした.
性能的には,全線23.4kmを走ると,ガソリン動車の時間40.5分,表定速度34.2km/hに対し,46.5分,30.2km/hと矢張り落ち込んでいます.
ちなみに,往復の燃料消費は木炭50kgで,燃料費はガソリンに比べ30%増.
炉の耐用年数は短く設置費は2,165円,特に発生炉下部燃焼室は2年保つかどうか,と言われていました.
さて,その間,国鉄はどうだったのかと言いますと,1938年以降,白土式で木炭,コークスを,梁瀬(今のヤナセ自動車)式で,天然ガス,液化ガス,ガソリン・メタノール混用など各種の方法が試行錯誤されていますが,官尊民卑の倣いで,例によって民間の技術は採用されることなく,世界的にも例を見ない,蒸気機関車の燃焼後に煙突から排出される産業廃棄物,「シンダ」というものを採用します.
「シンダ」自体は炭素が主成分で,蒸気機関車から無尽蔵に出る(年間5万トン発生)ものですから,それを回収する機構を製作すれば,原料はタダで手に入った訳です.
しかし,これは全内燃動車に普及することなく(そりゃ,国鉄は蒸気機関車を運用していたのだから,必要になれば,蒸気機関車に動車を牽引させれば良いわけで),100輛程度の改造に終わりました.
今まではガソリン動車の話でしたが,ディーゼルの代燃化は結局戦後まで持ち越しとなりました.
ディーゼルの代燃化については,重油と天然ガス併用,代燃ガスを圧縮し,死点寸前に少量の重油を吹き込む重油着火方式,圧縮比を下げ,発火プラグで爆発させる電気着火方式がありましたが,これらは,「どう見てもディーゼルエンジンではありません.本当に(以下略」なものでした.
後,食用油も実験しましたが,コスト高だったり.
ちなみに,こうした国鉄の官尊民卑ぶりについては,例えば,ディーゼルエンジンにしても陸軍が中心となって開発した,当時としては優秀な設計であった予燃焼式の統制式発動機を使用せず(戦後の一時期,非電化私鉄のガソリン動車にはそれから発達したいすゞのDA系に載せ替えられましたが,国鉄は中々それを採用しなかったり),独自技術に拘った結果,新潟鉄工の海軍内火艇やそれから発展した51号魚雷艇発動機を基にした,扱いの難しい直噴式の発動機を発展(と言うか退化)させ,これは実に国鉄末期まで半世紀以上これを引き摺っています.
JR移行後,これらの機関を搭載していたディーゼルカーは,経済性の悪さから一斉にエンジンを載せ替えたり,軽量の新型車に置き換えられたりして,残滓を一掃しつつある訳で.
また,こうした機関を採用していた非電化私鉄の整備掛が,廃止のために,バス会社やトラック会社などの整備工場に転職しようにも,技術ベースが戦前のものなので,一笑に付されると言う笑えない話があったりします.
今回の参考文献:
「内燃動車発達史」下巻
「ある鉄道事故の構図」
「鉄道車輌工業と自動車工業」など
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
トラクターのエンジン部分が機関車に換装されたということですか?
消印所沢 in mixi,2007年03月04日00:04
【回答】
Oui!
大量生産されたT型Fordのエンジンは,成る程機構も簡単だったのですが,変速機が特殊で,運転に技術を要したため,武人の蛮用に耐えず,内燃動車にも余り使われませんでした.
後に,1927年から生産を開始したA型Fordのエンジンで漸くまともな変速機が付いたので,軽量小型の軽便鉄道用内燃動車や,建設現場用内燃機関車の動力に使われましたが,それまでは,Fordsonのトラクタエンジンを輸入して動力に用いていたりします.
ちなみに,1932年からA型に次いでB型のエンジンに切り替わり,1933年から輸出専用のC型エンジンとなり,1935年まで生産された訳ですが,生産が短期間だった割に,単純な機構であったが故に,これらのエンジンは多数が鉄道車輛用に使用されています.
また,B型のエンジンは,日本でCopyされ「聖」と言う名称で生産もされました.
更に,廃車になった自動車から取り外され,整備されて再使用されたエンジンも多く,戦後の産業用機関車でもこの手の機関を搭載したものが生産されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年03月04日09:24
【質問】
戦前の日本の自動車のナンバープレートは,どんなものだったのか?
【回答】
前にも何処かで書いたかも知れませんが,日本の営業用自動車のナンバープレートは,昔は3枚有りました.
2枚は前後に,そして,室内に乗客の見える場所に法令で定めた寸法のナンバープレートを掲げることになっていました.
色は,普通車は黒字に白文字で有れば良く,文字の太さや上下左右寸法と間隔に最小寸法の制限があるだけなので,外形寸法はまちまち.
特殊自動車は1933年まで白地に黒文字,それ以降は青地に白文字,小型車はオレンジ字に黒文字で,小型車は2輪や3輪がメインだったので,4輪でも前面にナンバーが無くてもOKでした.
また,2t以上7人乗り以上の自動車,それ以下でも空気入りタイヤと四輪ブレーキのない自動車の様な旧式車は,時速35km/hという制限があり,後面に白の三角形を表示することになっていました.
でもって,東京の場合は,ただ単に数字が書いてあるだけで,地方の場合は大正初期まではアルファベットのローマ字一桁,1919年以降は漢字一文字が使われています.
東京の1番は明治屋のトラックで,内務省が自動車に番号を付与すると言うので,それっとばかりに駆けつけたところ,既に1番は貰われて3番が宛がわれたそうな.
ところが,1番が宛がわれたのが三越で,三越は3番が欲しかったから交渉成立,交換して1番を付けることになりました.
当時のナンバープレートは,今の香港なんかと同じで,代々引き継がれているので,車が変わろうが1番を付け続けています.
ちなみに,東京だけがこうした1番を企業が所有したのであって,他府県の1番は大抵の場合,知事の自動車に付けられていました.
では,0番は…と言うと,0番は内務省の付与する番号では付けられず,陸軍の自動車学校や技術本部が自校0とか技本0と言うプレートを付けたくらい.
しかも,これらの車は参考実験車扱いでした.
西欧なんかでは,0番が知事の公用車になるケースが多いそうです.
東京では999番までの3桁ナンバーは,宮家のお忍びナンバーとか華族用ナンバーで,100番以下のナンバーも巡査が敬遠する番号だった様です.
こうした若番ナンバーは,1番の明治屋と3番の三越の様に企業が使う場合もありましたが,ブローカーが保持して税金を払い続け,必要に応じて,ナンバーを高値で売りつけると言うこともしていたらしい.
今の香港と同じですね.
こうしたナンバーを使い回す場合,警察ではなく,後のナンバーには税務署の交付した鑑札が付きました.
税金納付済みの中古車を購入して自分の持っている番号にする場合は,事前に白地に黒文字の仮プレートが交付されます.
それには,税金を払った前のナンバープレートが小さな数字で書かれていました.
でもって,それを付けた後,自分の持っているナンバーに変える訳です.
今の仮ナンバーに相当するのは今と同じ白地に赤斜線ですが,これは試運転ナンバーで,自動車の登録地の所轄警察署長が有料で貸し付けるものでした.
更に,昔はナンバープレートの無い自動車もありました.
最右翼は外交官の車で,「亜米利加」,「独逸」,「仏蘭西」なんて言う漢字のプレートを付けていましたが,「巴奈馬」とか「羅馬尼亜」なんて言うものもあって,警察官はさぞかし面食らったことでしょう.
後,陸軍は星,海軍は桜と錨の立体マークで番号はありませんし,消防車も同じ様にマークだけが描かれていました.
戦時体制化になると,もう訳がわからない状態で,各官庁が勝手に「○○省」と言う表示板を付しただけの自動車を走らせ,戦争末期になると,省だけでなく,その下部機構の名称が幅をきかせ,「航兵総」なんて言うプレートを付けて走らせていたりします.
もう,殆ど無政府状態ですわな(苦笑.
ちなみに,陸軍は戦前に梁瀬自動車に高官用の乗用車として,ビュイックのフェートンを特注していました.
その車体色は勿論カーキ色.
ただ,陸軍が用いていたトラックの様に艶消しのものではなく,艶有りのラッカー仕上げのものだったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年05月17日
【質問】
軍では,戦中の車の免許とか運転の教習はどうしてたの?
【回答】
祖父の戦友の方々に聞きましたところ,
「台湾の機甲歩兵は,世田谷にあった陸軍機甲整備学校(現東農大)で車の整備・運転を学び,卒業してきた奴が,民間でバスやタクシーの運転手をしていて免許を持ってたやつを助手にして,教育をしていた.
戦中に車を使うことには免許は特にいらんかったと思うが・・・」
とおっしゃっていました.
軍用のは,ちょっと今掘り出せない(戦車の資料はいっぱいあるんですがね)ですが,民間用のは,地方出版物のもので,例えば,「房総の乗合自動車」とかそう言うものがあります.
内務省が自動車運転に関する規制を考え始めたのは,大正8年に内務省警保局・土木局が連名で出した自動車取締令によるものです.
これを基に,各府県は自動車取締細則を定めて運用します.
ちなみに,軍事とは離れますが,大正12〜13年の千葉に於ける一年間の交通事故件数は61件,歩行者の死者3名,負傷者41名,従業員の負傷者1名,その他13名で,事故を起こした運転士61名のうち,15名は無免許です.
運転手の養成所はありましたが,数が足りず,免許取得の運転手の添乗の下,助手が無免許でハンドルを握らせています.
流石にこの状態はまずいので,大正15年に自動車取締令施行細則が改訂され,業務用(乗合,貨物)と自家用とナンバープレートが色分けされ,そのナンバーも外せない構造となります.
また,戦前から昭和20年代に掛けては,自動車運転免許状を交付される人と言うのは大型乗用車,乗合自動車,自動貨車とそれに準ずる車輌くらいなもので,排気量500cc以下の小型乗用車,オート三輪には,無試験免許(今日の原付免許と違い,学科試験も無しの文字通り単なる許可証)が必要とされるだけでした.
これは,最寄の警察署で1時間程度の手続きで(地域差あり.手数料は手元に資料がありません)交付されます.
その適用対象である小型自動車の区分は
大正13年〜昭和5年 360cc以下
〜昭和9年 500cc以下
〜昭和11年 750cc以下(2サイクルは500cc以下)
昭和12年以降〜 廃止
となっていました.
なお,「500ccは免許不要」としている資料(当時のものも含む)が非常に多いので注意が必要です.
戦前すでに東京では,荻窪あたりにダットサン専門の自動車教習所があったそうです.
戦後まもなくそこに教習を受けに行った人によると,1〜2回横に乗せた程度であとは適当に練習しろといわれたそうな.
それでも卒業免状を交付してもらったので,鮫州の試験所に試験を受けにいくと,実地試験を免除されて法規試験のみを受けたそうです.
ところがこの試験たるや,前の方に居た2〜3人に適当に口頭で質問をして,それのみで全員が合格とされたとか.(自動車ジャーナリスト小林彰太郎の自伝より)
余談ですが,眠い人氏の母親は昭和30年に免許を取ったのですが,従兄弟のルノー4CVで路上教習を受けて,試験に臨み,受かったそうな.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE,他)
うちの爺ちゃんは大卒で徴兵されたので,1年くらいで部下が何人か持てたらしい.
内地の基地で,のんびり終戦まで過ごしている間,部下達の運転を試験して運転免許を何枚も発行していた.
でも,爺ちゃん本人は,生涯(といってもまだ存命だけど),無免許.
「自分の分の免許もだしておけばよかった」
と,笑っていた.
【質問】
戦時中,日本軍は車輛修理をどのように行っていたのか?
【回答】
『比島に散った野戦自動車廠の記録』(比島派遣野戦自動車廠戦友会,開発社,1989/8/15)によれば,例えばフィリピンでは野戦自動車廠の下に支廠,出張所,派遣隊,移動修理班などが全土に展開していたという.
修理部品は日本本土から輸送していたが,鹵獲した外国車にはそうした修理部品はなく(輸入するわけにもいかないので),廃車から部品をとって修理するなどしていたという.
戦局も末期になってくると,修理よりも輸送,食糧調達,松根油生産のほうが優先され,またガソリンも残り少なくなっていたため,修理の機会はあまりなかったようだ.
同書ではまた,チェンジ・ギアが破損してローとバックのギア・チェンジが効かなくなったビュイックに対し,適当な廃車部品が見つからないので,折損歯車の欠損部分に溶接で肉盛りし,ヤスリ仕上げで歯形を修理したエピソードも紹介されている.
そのビュイックは玉兵団の師団長車で,その玉兵団はレイテ島に出発してしまったことから,もう車を取りに来る者はいないだろうと独り決めして用足しのときに乗り回していたら,軍司令部との連絡のためにマニラに残留していた師団司令部の一部の大尉に見つかり,「試運転中です」と冷や汗をかきながら答えたとか.
【質問】
すいません,今Blogで小説書いてるんですが,どなたか,アメリカ軍のジープで一般的に戦後にMPが乗っていた車種とその排気量,エンジン形式,出来ればピストンの直径とストロークをご存知の方おられましたら教えて下さい
.
検索はしてみたのですが,意外なほど情報が少なく,お手上げです.
日本軍の装甲車輛で,その車種のピストンと交換部品になりうるピストンをもっているかもしれない車輛を教えていただければなおいいのですが,解らなくてもこちらは自力でソレっぽい嘘をつける車輛を探してみようとは思っております
.
【回答】
Willis MBに関しては資料が出てきませんでしたが,戦後すぐのCJ-3Bなら,ボア79.4mm×ストローク111.1mmです.
これは,水冷4気筒で排気量2,199cc.弁配置SV方式で,60馬力を発揮しています.
基本的に戦時中の型やFord GPWも同じだったはずです.
日本の装甲車輛や軍用車輛はおしなべて,百式統制型発動機です.
Willis MB/Ford GPWとは違い,Dieselですから互換性はありません.
ちなみに,このエンジンのボアは120mm,ストロークは160mmで,2000回転で120馬力の予燃焼室式Dieselです.
豊田のものでは,A型エンジンはChevroletの直列6気筒エンジンのほぼそのままのコピーです.それでも3000cc程度になっています.
手元にあるのは,改良型B型エンジンの資料ですが,ほぼ同じとすると,ボア84.1mm×ストローク101.6mm.
排気量3,386ccの水冷直列6気筒OHV方式で,85馬力でした.
GM製のJeep型車輌は無いので,もしこういう車輌を使うのならば,Jeepではなくそれより一回り大きなDodgeのWeapon
Careerが豊田のエンジン部品が使えるかもしれません.
日産のものは,Graham-Pageのトラック用を移植したもので,NA型の場合,ボアは82.5mm×ストローク114.3mm.
排気量3,670ccの水冷直列6気筒SV方式で85馬力を出しました.
これも同様に,DodgeのWeapon Careerならエンジン部品が使えるかもしれません.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
第2次大戦までのバス交通の状況は?
【回答】
1918年,東京市内にバスを走らせる為,東京渡辺銀行の支援の下,東京市街自動車が設立されました.
そして,1919年3月からバス事業を展開し始めます.
この会社のバスは,車体を緑色に塗り,白線を塗った粋な姿が東京っ子に受け,更に,車掌として女性を採用し,彼女たちの制服が白襟のシャツだった事から,彼女たちは「白襟嬢」と呼ばれ,男性のみならず,女性の憧れの職業となり,市電に対抗してどんどん路線を延ばしていきます.
こうして,東京市街自動車は,順調に社業を発展させ,1922年には東京乗合自動車と改称します.
翌年の関東大震災で被害を受けますが,市電に変わってライバルとなったのが,1924年1月から東京市内を走り始めた「円太郎」と呼ばれた東京市営バスです.
東京市営バスは,震災後の市電復旧までの繋ぎと,市内交通の混雑緩和のため,黒塗りのTT型Fordトラックを800台輸入し,バス型のボディーと木製ベンチシートを急造したもので,当初こそ,珍しがられ利用されましたが,日が経つとそのお粗末な装備が批判を浴びます.
「円太郎」は,東京日日新聞の小阪新夫記者が書いて人口に膾炙したもので,三遊亭円太郎と言う落語家が乗合ガタ馬車の御者の物真似を十八番にしていたのが由来とか.
TT型Fordは,結局5年程度で廃車されますが,その後交代したバスも,市民は「円太郎」と呼び,市営バスの代名詞として定着してしまいました.
閑話休題.
東京市営バスは,東京乗合自動車のライバルとなっていきますが,市営のサービスの悪さに比べると,私企業である後者は,スマートでサービスの良い営業法により常に市営をリードして,益々社業を発展させていきます.
昭和に入ると,シャシーはDiamondTと言う米国車のスマートなものに統一され,「青バス」と言う札を掲げて運行していたことから,何時の頃からか,東京乗合自動車のバスは,市営の「円太郎」に対し,「青バス」と呼ばれるようになりました.
一方で,市バスに対し,新たにライバル関係になったのが地下鉄です.
地下鉄の開業時の運賃は全線一区10銭,これに対し,バスは半分の5銭なので競争にならなかったり.
其処で,地下鉄には様々な特典を付けたり,割引運賃で対抗する様になります.
こうして全線で激しい競争を行いますが,東京乗合自動車は,社業を益々発展させ,1935年には,青バスとが代田橋〜堀之内〜鍋屋横町〜新宿から都心に直通する系統の営業を行い,それによる競争で経営が苦しくなった西武鉄道(今の西武鉄道の前身)から新宿と荻窪を結ぶ新宿軌道線を経営委託され,1937年3月には,錦糸町をターミナルに,大島や東陽公園,洲崎,小松川など江東地区に路線を延ばしていた城東電気軌道を吸収して,バス会社であると同時に,路面電車を運行する様になります.
ところが,こうした投資が裏目に出,更にバックに付いていた東京渡辺銀行が昭和金融恐慌で倒産して,資金繰りに窮し,陸上交通事業統制の政策指導もあって,遂には東京乗合自動車は,1938年に東京地下鉄道に吸収されてしまいました.
此処に,地下鉄をメインとしながら,バス事業や路面電車事業を行う鉄道会社が誕生した訳です.
あの春日三球・照代の漫才も真っ青な状態だったり(苦笑.
こうして,西武軌道線は東京地下鉄道新宿軌道線,城東軌道線も東京地下鉄道城東軌道線となりました.
最終的に,陸上交通事業統制は早川の思惑を超えて,市内の路面交通事業は東京市の独占経営となったので,これらバス事業や軌道線は東京市営に譲渡されました.
しかし,虎は死して皮を残す…スマートな青バスの塗装は,以後の市営バスの塗装に採用されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年05月19日21:44
1919年,内務省警保局・土木局が自動車の規制をするために,「自動車取締令」を策定し,各地方長官の下で細則が定められ,運用が為されていました.
この自動車取締令は,営業用・自家用の車輌検査・登録から営業車の営業免許,路線許可に至る広範なもので,一杯穴がありました.
この省令は,営業用路線運行自動車…即ちバスについての規定がありますが,貸切自動車…タクシーやハイヤーの規定は無く,例えば,避暑がてら自動車で行楽地に行き,土地の乗合自動車として営業して…つまり,白タクですね…日銭を稼ぐと言うこともやることが出来ました.
また,免許についても地元警察が窓口になった為,地元の有力者の意向が働き,尚かつ,憲政会と政友会の政権交代の迸りで末端も入れ替わりがあったことから,政権交代毎に,利権を渡して支持を得るために,免許を濫発することになりました.
1925年になると,全国で乗合業者3,303,貸切業者7,509と言う状態.
で,これら業者の中身は非常にお粗末極まり無く,1923年度の千葉県の交通事故件数は,衝突42件,墜落16件,その他3件の計61件で,歩行者の死者3人,負傷者41人,従業員の負傷者1人,その他13人に上っています.
その61件の事故を起こした運転手のうち,15人が無免許でした.
当時は免許が濫発された割に,養成所の不足で多くの場合,乗合自動車に助手を乗せ,営業運転中に運転させる,と.
まぁ,当然,免許を持つお師匠さんが添乗はしていましたが,そして,事故を起こすと言う構図です.
1924年になると,これではいけないと言うことで,3月27日に千葉県では北条警察署が先ず無免許運転の取締を行い,館山町相崎の自動車営業者と雇い人,北条町北条の房州自動車運転手と雇い人,同じく北条町新宿の自動車営業者と雇い人を検挙することになります.
これがきっかけで,8月10日には全県一斉の自動車取締を行い,規定以上の速度を出したり,免状を携帯していないとか,夜間後方に点灯していないなど,告発47件,説諭203件の収穫を行いました.
ちなみに,当時の規定速度は,市街地で8マイル,その他10マイル,つまり13〜16km/h以下で走れと言うもの.
流石に,自動車の性能が上がると現実離れした数字で,1925年10月には市街地で14マイル,その他16マイル,最高18マイルに引上げられています.
また,前に触れましたが,ナンバープレートも,当初は取り外しが可能だったので,1枚のナンバープレートを数台の自動車に兼用して自動車税を逃れる輩が出た為,1927年6月から外せない構造に変更され,千葉では28日から警察の管轄毎に一斉に千葉市に集めて検査を行って新しいナンバープレートを配布しましたが,これまた,交通途絶地域を作ったと新聞から非難されています.
乗合自動車は普通バスを用いますが,こうした費用をケチる悪徳業者が横行し,廃車寸前のバスを塗替えて定員の1.5倍乗せて運行するのは未だ良い方,会社によっては,トラックを乗合自動車として運行するケースが後を絶たず,屡々警察の摘発を受けていますし,路線免許は先取特権であったため,東京なんかのブローカーが免許を取得して,本来,その路線を運行したかった個人か業者に売りつけて利益を上げるケースも多々ありました.
こうしたダミー会社による路線免許取得についても,警察は時に厳しく対応し,期日までに運行しなければ,免許取消しを行う場合もありました.
とは言え,路線免許の売買は不況などで経営が苦しくなったり,事業統制が内務省から鉄道省に移って,免許取得が厳格化されると,既存会社から新しい会社には,自動車,営業所,路線免許込みですが,路線1里当り1万円で取引されたそうです.
後,停留所も地方長官の許認可による設置でしたが,勝手に設置するものが後を絶たず,ある事業者に無許可停留所の撤去を命じたところ,他の事業者もやっているという抗議を受け,他の事業者のそれも使用を停止させたと言う話があったりします.
先日,「5万4千円でアジア横断」と言う新潮文庫を読んでいたのですが,今の中国は大正時代の日本の乗合自動車を巡る混乱をそのまま置換えた状況みたいですね.
歴史は繰り返すというか何というか….
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年05月20日21:33
【質問】
自動車連隊って何ですか?
【回答】
自動車連隊とは,関東軍自動車隊を昭和11年に改変して自動車第一連隊を編成したのが始まりで,六個の連隊が編成されましたが,16年の関特演でこれらは独立自動車大隊に改変されました.
同様に中国戦線でも兵站自動車中隊を改変して19個の自動車連隊が編成されました.
その編成は自動車4個中隊と材料廠からなり,傘下には連隊長以下人員700名,自動車300両を装備しました.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
日本フォードの工場は,戦時中はどうなったの?
【回答】
1941年12月8日,日米開戦となり,日本フォードの神奈川区守屋町工場は接収され,陸軍収用財産となります.
その建物,機械は,陸軍兵器本部,相模原造兵廠,東京補給廠,満州自動車会社,三和自動車,ディーゼル自動車工業に譲渡され,組立機器類は日産自動車の従業員の手で取り外され,解体されて満州自動車安東工場に移設された.
戦後,その機械類は,ソ連軍に接収され,梱包後,ソ連に持ち去られたとか.
守屋町の工場跡地のほうは戦後,進駐軍の倉庫として用いられた.
1974年,フォードが日本に再進出する際に再び納車前点検用の倉庫として用いられ,今は東洋工業の研究所が建設されている.
この時代の日本GMの大阪にあった工場は,関西の近代建築を良く手がけたヴォーリスが設計し,日本フォードの神奈川の工場は,同じく関東の近代建築を良く手がけたA.レーモンドが設計している.
ちなみに,A.レーモンドという人は,日本軍部の支配に幻滅し,帰国するのだが,帰国後,米陸軍航空隊の依頼で,日本の木造家屋の集落の模型,状況を提供し,これが「紙と木の家」を効率よく燃やすための焼夷弾実験に供され,日本空襲の基礎資料となった.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
戦時中の中国の自動車工業について教えてください.
【回答】
中国の自動車製作,その量産の歴史は日本と大して変わらなくて,1927年に瀋陽兵工廠で米国から技術者を招聘して,国内から自動車修理経験者を300名余を動員し,米国製Internationalをモデルに,中国に適応させたものを設計し,1930年,まず75型『民生』トラックが完成します.
これは,エンジン,タイヤ,ボールベアリング,電装品を除く部分はほぼ全て国産品で賄われたもので,積載量1.8tで,64km/hをマークしたものでした.
次いで,100型『民生』が誕生します.
こちらは,積載量2.8tに増加しましたが,速度は48km/hに低下しました.
しかし,満州事変によりこの工場は接収され,自動車工業,東京瓦斯電気工業,三菱造船,戸畑鋳物の出資により設立された,同和自動車工業の組立工場となり,いすゞのノックダウン組立をしていた訳で(ちなみに,大豆を輸送する為に南満州鉄道はChevroletを欲していたが,これを押しつけられた).
その後,満州重工業の傘下企業として満州自動車製造が設立され,同和自動車工業はこれに吸収,ちなみに,安東工場には,前にも書いた,日本フォードの組立ライン一式が設置されています.
ただ,折角の設備を整えたものの,いすゞ,日産80型の国産車のノックダウン生産は遅々として進まず(国産車そのものが台数少ないのに,部品を供給できる訳がない),その業務の殆どは,関東軍や民間で使われていたFord,Chevroletなどのトラックの再生作業のみ行っていたそうです.
さて,日本に瀋陽の工場を奪われた中国ですが,山西省大原兵工廠では,1933年に国産4気筒エンジンを搭載したトラックが試作されます.
これは,タイヤ,電装品,計器,ボールベアリング以外は国産で,積載量2t,速度30km/hの性能でした.
また,1936年には湖南省機械廠で,Dodgeのエンジンをコピーして2台のトラックを作りましたが,これらは中央の支援を受けることなく,消滅しています.
一方,国家的プロジェクトとして,同じ1936年に中国汽車製造公司が設立されました.
これにはDaimler-Benzが技術協力を行い,ドイツ人技術者の下,ディーゼルトラックを年間1,000台ノックダウン生産すべく,湖南省株州工場を1937年に建設開始し,同年,バス工場として,上海工場を建設する予定になっていました.
しかし,日中戦争の激化で,工場は広西省桂林,四川省重慶へと移転.
この間,少数のDaimler-Benz(中国名『飛鵬』)トラックが組み立てられたに留まりました.
ちなみに,この当時,中国全土の自動車保有台数は68,917台.
このほかの動きとして,中央資源委員会が1939〜40年に米国から技術,設備一式を導入し,雲南省昆明中央機器廠分工場で,トラックを生産する予定でしたが,設備はベトナム近辺で,日本軍の攻撃を受けて失われ,図面や資料類は洞窟に隠したものの,回収する術が無く,1950年に掘出したときは,変質して使い物にならなくなっていたとか.
やがて,戦争が終わると,満州の設備は全部ソ連に持ち去られ,1946年に天津汽車配件廠で,日本のオート三輪の部品を製造していた経験を生かして,3輪トラック『飛鷹』を10台試作します.
ただ,年産100台の予定が,戦後のインフレ,資金難で,計画は頓挫して,国産車製造の試みは,革命まで待たなければなりませんでした.
その代わりに流行ったのが,戦後の日本でもあった,トラックをバスに改造する事業で,Dodge
T234改造のバスは,1950年代の北京で大活躍したそうです.
また,乗用車をダブルキャブの客貨両用ピックアップに改造することも流行ったらしく.
そうこうしているうちに,蒋介石は敗れ,毛沢東の時代になっていくわけで.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
DUKW改造バスについて教えられたし.
【回答】
米軍が上陸作戦に用いていたトラックに,DUKWと言う車輌がありました.
これは大陸反攻作戦用で,揚陸艦から発進して水上を航行し,そのまま上陸して海岸内陸部まで物資を運ぼうと言う目的で考案されたものです.
最初は水陸両用のジープであるFord GPAを開発しますが,小さすぎて不評でした.
其処で今度は,GMCのCCKW-353トラックを基に水上航行が出来るように,艇体構造の車体と,後部にスクリューを設けたのがDUKW-353,通称Duckです.
とは言え,大陸反攻作戦よりも太平洋戦線の飛石上陸作戦で主に使われています.
太平洋戦争が終結すると,こうした特異な軍用車輌は一気に活躍の場を失い,民間に放出されることになりました.
当時,日本では空襲によって痛め付けられた交通インフラの復旧が最優先課題でした.
敗戦直後,東京の都バス路線は系統数12,路線キロ数63kmまで落ち込みますが,利用客は12.5万人と大混雑状態でした.
一方でバスは,ガソリン車68台,木炭車841台,薪車26台,電気車2台が在籍していたのですが,使用可能なものは僅かに196台でしか無かった訳です.
東京都では関東大震災からの復興と同じく,先ずは交通の復興は,復旧に時間の掛かる電車より,車輌さえ導入すればその日から走らせる事の出来るバスの導入を主眼とします.
需給予測としては,1945年当時の区部人口の倍,500万人が5年後の復興後に区部に居住すると見込み,その為の足として,在籍車輌1,000台,可動車輌600台を目標に整備を進めるとしました.
ところが復員や疎開先からの帰還,引揚者の増大により,東京の人口は瞬く間に増え,計画期間は5年から3年に短縮,可動車を850台とする様に変更されました.
とは言え,資材不足で1945年の新車導入は進まず,全て木炭代燃車で,いすゞ29台とトヨタ3台しかありませんでした.
また,1946年も電車の修理68両,バスは新車を170台,大修理133台を行ったのみ.
こうした中,1947年に米軍のGMC2.5t車の大量払下げをガソリン込みで受け,それをバスに改造し,使用する事が可能となります.
6輪駆動で,エンジンは国産車よりも強力な100馬力,これが400台供給されました.
これを改造してバスにしたのが,戦前からの架装メーカーの他,中島飛行機からエンジン担当重役がスピンアウトして設立した横須賀の関東電気自動車(今のトヨタ傘下にある関東自動車),平塚にあった日国工業,中島飛行機伊勢崎工場の後身,富士産業など,航空機メーカーの転身組も参入していました.
最初に完成した16台は遣っ付け仕事で,関東電気自動車が架装したボディーは,運転席はトラック其の儘に,後の荷台部分に箱形のバラック構造の車室を組立てたのですが,余りにも応急過ぎて視察した都議会議員から悪評紛々,特に窓硝子不足から硝子は1枚毎に入れて,その他は板張りという飛んでもないもので,以後この形式のものは作られなくなり,流石に窓硝子は全部の窓に嵌められる事になりました.
富士産業が手がけたのは,飛行機の余剰ジュラルミンを多用したもので,形状はバスらしくなっていましたが,根太まで軽合金を用いた為,強度不足で,当時の道路事情では折損事故が多発しました.
其の後,富士産業の車体はキャブオーバー型になって大型化していきます.
金剛自工と言う会社の改造車体は,ボンネット型乍らホイールベースをオリジナルの4,166mmから5,076mmに増やし,オーバーハングを1,330mmから2,474mmに拡張して,車体長を8,510mmとし,定員65名(最初の改造型は40名)としたものまで出現しました.
さて,1947年9月,キャサリン台風によって,江戸川区一帯が1週間以上水没しました.
この為,各地で都電を含めた交通網が寸断されてしまった為,都では,DUKWの借用を申し入れました.
市川〜小松川橋〜東京駅の間で使用する事を想定し,江戸川区の水没地帯では,其の儘水の中に入って,航行すると言うものでした.
実際に,DUKWを借用して試運転まで行いましたが,千葉街道は道幅が狭くて運転に支障を来した上,水没地帯でDUKWを航行させると,低速運航でもその波で沿道の土壁が崩れると言う被害が発生した為,この水陸両用車の導入は断念しました.
しかし,1948年1月にGHQはDUKW246台の払い下げを行い,うち東京都には40台が割り当てられ,20台は富士産業と日本建鐵がキャブオーバー型に,残り20台は帝国自工と金剛自工がボンネット型の大型車のボディを架装して1948年4月から運航を開始しました.
これらの車輌は1954〜57年まで使われ,一部の車輌にはオリジナルのガソリンエンジンを民生のディーゼルエンジンに換装されていたそうです.
でもって,こうした車輌の一台が流れ流れて熊本で鉄輪を付けて再起した訳で…というのを以前に此処で触れた気がする.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月23日23:37
【質問】
戦後日本の四輪駆動車は,ジープが最初というのは本当か?
【回答】
戦後,日本の四輪駆動車は,警察予備隊に納入するために開発された,中日本重工のJeepと,トヨタ自動車のトヨタジープ,日産自動車の日産パトロールの三種がありました.
これらは何れもJeepタイプ…と言うか中日本重工のはJeepそのもの…の車輌で,不整地走行性は十二分にありましたが,居住性とかそう言った部分については,二の次にされていました.
元来が軍用車ですから,そう言った面に配慮は余り為されなかった訳で.
流石に,民間に売られる際には,幌だけではなく,鋼板でキャビンを作る場合もあった訳ですが,それとても,遣っ付け仕事レベルで,一般の乗用車に比べると格段の差が出ていました.
さて,東北電力は,雪深い土地に発電施設,送電施設のある電力会社です.
その高圧送電線は山の中に架設され,冬の山の中の道は,四輪駆動車でしか通えない道でした.
しかし,其処で使っているJeepはキャンバスボディの代物で,冬に使うには相当に寒く,乗心地も悪く,尚かつ,夏季には普通の車で送電線監視が出来るので,車庫に眠ったままで稼働率が悪いのに担当者が悩んでいました.
現場からは,快適で年間を通して使用できる雪道に強い車を調達できないか,と言う要求が常に出されていました.
その頃,東北電力の営業車に,スバル1000が用いられていました.
国産初のFF車として,前輪に力が掛かるため,比較的雪道に強い営業車として重宝がられていました.
…と言うことは,これを四輪駆動車に改造すれば,Jeepの代りに年中使える営業車として使用できるのではないか?
こう考えたスタッフが経営陣に提案し,駄目元で,宮城スバルに持ち込み,宮城スバルでは社内の技術陣に聞いてみることにしました.
その社内のサービス部には偶然,自衛隊の車輌整備部門で軍用の四輪駆動車を整備し尽くした神様の様なエンジニアがいたのです.
彼は,それを聞くと,即座に図面を引き始め,計算の結果,改造が可能であると言う結論に達するや,中古のスバル1000バンをベースに,前代未聞のディーラー製作四駆の試作を始めました.
エンジンは四輪駆動ではよりパワーを食うであろうから,と,オリジナルのエンジンを降ろして,ff-1用の1100ccに換装し,プロペラシャフトとかデフユニットは,各社の小型車のそれを数種採寸した結果,日産ブルーバード用のものを取り外して,改造車に取り付け,試作車を作り上げました.
とは言え,素人工作の悲しさ,最初のテストでは前輪と後輪が逆回転してしまったそうです.
そんなこんなで,社内で試験の後,東北電力に引き渡し,10ヶ月の間,試用して貰いました.
その結果,雪道走行の走破性は抜群で,Jeepに匹敵すると言う評価を得ました.
但し,所詮は改造車,プロペラシャフトが室内に貫通するように剥き出しで通って居るような車輌で,とても公道を大手を振って走れるような代物ではありませんでした.
其処で,一大決心をした宮城スバルは本社に対し,試作車を添えてスバル1000の四輪駆動モデルの開発を進言したのです.
本社から三鷹と太田の技術サイドに照会した結果,ユーザーの声として,「雪道,悪路に極めて強い」と言うものがあり,エンジニアの間からも,「四輪駆動にするのも面白いなぁ」という声が雑談レベルではありましたが,出ていた事もあり,商品化は可能という結論が出ました.
斯うして乗用車ベースのパートタイム四輪駆動車として,スバルff-1/1300Gのバンを開発することになりました.
1971年の東京モーターショーの富士重工商用車ブースには,その試作車が展示され,注目を集めました.
試作車は4台が作られ,各種試験を経た後,増加試作車が「改」車検で販売されることになります.
5台は最初に評価した東北電力,1台は長野県飯山農協向け,1台が長野県白馬村向けになっており,1972年には防衛庁が業務車として特殊用途または運用試験用に1台納入されたそうです.
但し,この防衛庁向けはどうなったのか,定かではありません.
結局,スバル1000ベースの四輪駆動車は改造車も含めて13台で量産は完了し,本格的な四輪駆動バンは,後継車のレオーネで実現することになりました.
この事例は,ユーザのニーズを如何に汲み取るか,それを如何に反映させるかと言う示唆的な内容だと思います.
トヨタ自動車が,自社の車が売れないと言うのを分析するとか言う話がありましたが,結局はユーザのニーズを上手く汲み取れないからではないか,と思ってみたりする訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月04日23:01
◆◆◆◆対戦車兵器
【質問】
日本兵は米戦車をどうやって倒したんですか? 対戦車地雷ですか?
【回答】
地雷の場合は,精々擱坐させる位しか威力がありません.余程の軽戦車(タンケッテ)程度でないと,引っ繰り返すのは無理.
Caterpillar切っても,回収して修理すれば前線に出せますし.
分隊一個を潰して擱坐させた戦車が,あっと言う間に戦場から回収され,再び修理されるケースがImphalでは多く見られました.
日本がM4などを相手にする場合は,思いっきり近くから37mm対戦車砲を側面か背面から打ち込むか,陣地に引き込んで榴弾砲などの野戦砲の直射くらいと,後,火炎瓶くらいです.
火炎瓶で,火災を起こさせ,乗員が慌てて出てきたところで上に乗った兵が中に手榴弾を投げ込み,戦車を乗っ取って,敵に発砲すると言う戦術も採られています(当然最後は撃破される訳ですが).
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
地面に埋められた航空機用爆弾を転用した仕掛け爆弾とか,道端に隠されて戦車の側面からHEAT弾を撃ち込む対戦車地雷とか,いろいろあります.
けど,基本的に対戦車地雷はキャタピラを切る程度の奴が多く,地雷原は対人地雷と混ぜて敷設されたり,地面の上に直接置かれたり,撒かれたりする.
軍事板
【質問】
刺突爆雷って何?
【回答】
長柄の棒の先端に成型炸薬弾頭を付けた兵器です.
槍を突く要領で,戦車などを突いて弾頭を爆発させ,相手を撃破する,というものです.
http://www.parkershop.co.jp/banzai/5-3shutosu.html
に掲載されている,大本営陸軍部作成の刺突爆雷取り扱いマニュアルによれば,
「攻撃の際には,危険なので頭巾,手袋,耳栓などで身体
を護れ」とのこと.
まあ,至近距離で爆発するのですから,攻撃者も死傷は免れない,という「ほぼ自爆兵器」ですね.
▼ もっとも,『日本陸海軍事典』(新人物往来社)によれば,そもそも戦車に接近するまでに機関銃弾に倒される場合が多く,米軍からは「自殺兵器」扱いだったとか.▲
刺突爆雷


【質問】
なぜ刺突爆雷は開発されたのか?
【回答】
昭和19年,山下奉文は悩んでいた……
来るべき米軍の反攻をフィリピンで食い止めるのを主目的としていた,第14方面軍司令に山下は補職されたのだが,その目的を達成するためには,ど〜しても,
DO DO DO DO
DO 〜
γ二_ヽ
(゚д゚,,)
\/ li .ヽ/
γ ̄ ̄ ̄ ̄γ ̄ ̄ ̄ヽ
0)ニ)ニニニニニγ二_ヽl .
:llニi!
l_,, `--(゚Д゚,,)_i!____,l
/ ̄ ̄ ̄ ̄ lニニニニl / ̄ ̄ ̄ ̄`ー-、
/ ━ ) . 0)n../
ll二l:: ☆ .゙ー、__
∠_/______,,_____,∠_∠,,______,,_______ヘ
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(≡(( ( ( ( ( ( (≡(:::o:ヽ:::==0::::::::::==0::::::::::==0
ヽ:: (⌒"
ヽ≡ヽ_____ヽ≡ヽ,,ノ,,ーilij-、 ,,ーilij-、.
,,ーilij-、. } ('⌒" (';;
ヽ≡ヽ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,ヽ≡ヽ,((.
.≡ ,,)((. .≡ ,,)((. .三 ,,('' ⌒ (⌒゙
;;
米地上部隊の先鋒をなす,M4シャーマンを撃破せねばならなかったのだが……
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:::::: :: ____ ::::: :::: :::
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:::: ::::/ :: \:: ::: ::
ロクな対戦車装備がないお.
:::: /::: ─ ─ \ :: ::
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::: \ (__人__) ,/ :
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:: ノ ` ⌒´ \ :
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/´ ヽ :::
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ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
____
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/ _ノ ヽ、_ \ だからって,
/ o゚((●)) ((●))゚o \ 対戦車兵器無しに米軍と戦いたくないお!
| (__人__) |
\ ` ⌒´ /
早くしないと米軍くるお!
/ / ̄ ̄12 ̄ ̄\\
/ / チク | \\
| | 9 ○ タク 3 | | 兵器部なんとかするお!
| | / ||
\\ 6 //
/ ̄ ̄\
/ \
|:::::: | やるだけやるか……
. |::::::::::: |
|:::::::::::::: | ....,:::´, .
. |:::::::::::::: } ....:::,, ..
. ヽ:::::::::::::: }
,):::::::ノ .
ヽ:::::::::: ノ (:::::ソ: .
/:::::::::::: く
,ふ´..
-―――――|:::::::::::::::: \ -―,――ノ::ノ――
|:::::::::::::::|ヽ,二⌒)━~~'´
こうして完成したのが,命中率の悪い対戦車用成形炸薬手榴弾 『タ弾』 に長い柄をつけた,
| |
▼
┃
┃
┃
┃
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┃
『刺突爆雷』 でした.
∬ ∬
/ ̄ ̄ ̄\
/ ─ ─ \ ∬
/ (●) (●) \. 使えそうなのができたお!
| (__人__) |
\ ` ⌒´ / 実験するお!
/ \
山下将軍を始め,多数の見学者が見守る中,刺突爆雷の試験が行われた!
BOOOON!
____,′ , ’, ′
/ \ . ’ ’,
/ ─ ─\ ,′・. ’ ; ’, ’,′‘ .・”
/ (●) (●) \ ’,′・ ’,.・”; ”
’,
| (__人__) ’,′ ’, (;;ノ;; (′‘
・. ’,′”;
\ ` ⌒´ ’,′・ ( (´;^`⌒)∴⌒`.・
” ; ’,′
ノ 、 ’, ’・ 、´⌒,;y';;;;;;;;;ノ、"'人
ヽ
/ 〃 、(⌒ ;;;:;´'从
;' ;:;;) ;⌒ ;; :) )、 ヽ
( ヽ, ,.γ ー( ´;`ヾ,;⌒)´
从⌒ ;) `⌒ )⌒:`.・ ヽ
| ヽ γ⌒ヽ)ニ`:::、 ノ
...;:;_) ...::ノ ソ ...::ノ
実験は大成功だった (らしい)
しかし,あれやこれやの破片が周囲に飛び散り,見学者に負傷者多数!
山下将軍も,大腿部に破片が突き刺さる,と云う負傷を負った!
/ ̄ ̄\
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. ヽ:::::::::::::: }
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ヽ:::::::::: ノ (:::::ソ: .
/:::::::::::: く
,ふ´..
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|:::::::::::::::|ヽ,二⌒)━~~'´
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____,../ \
ノ / \ アレで我慢するお……
/ / |
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ヽ -一ー_~、⌒)^),-、;;;;;:::/
ヽ ____,ノγ⌒ヽ)ニニ- ̄
と云う,素晴しい対戦車兵器を得て,山下将軍率いる第14方面軍はフィリピン決戦に挑んだのでした (完)
ベタ藤原 in mixi,2008年06月12日22:23
ちなみに製造は1942年末.
大阪造兵廠で大量製造された(『日本陸海軍事典』新人物往来社)とか.
【質問】
旧日本陸軍が,ソ連軍のデグレチャフ対戦車ライフルとよく似た対戦車銃(確か口径は20ミリだったと思います)を生産していたはずですが,実戦での使用はなかったのでしょうか?
ないとしたら本土決戦用に温存していたのでしょうか?
もし使用されたら,ソ連兵がタイガー戦車のペリスコープを破壊して多少の損害を与えた様な戦果を,M4相手に期待できたのでしょうか?
【回答】
九七式自動砲ですかね.
制式採用後,北満州の陸軍,即ち,関東軍各部隊に配備されました.
実戦としては,ノモンハンが最初でしたが,歩兵中心で戦車はその支援に回るから,速度が遅く,少人数で設置し,地形を利用して,戦車側面を狙う思想でこの兵器が作られたのに対し,ソ連軍はドイツ式の戦車集団使用による高速侵攻を採った為,想定戦術が採れず,苦戦を強いられます.
しかも,予想に反してソ連戦車の装甲は厚く,強かったので,なかなか攻撃しても破壊に至りませんでした.
しかしながら,普通の対戦車砲より姿勢が低く,運搬が簡便だったため,歩兵用対戦車火器として,ソフトスキンや軽戦車に対してはある程度用いられ,効果が認められていたようです.
一応,末期の沖縄戦まで使用されているようですが,対戦車銃としてではなく,拠点防衛用の火器として使用されることも多かったようです.
上述のように,BTシリーズの軽戦車に対しても能力不足とされていたのですから,M4と撃ち合うのは無理かと.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
【質問】
97式自動砲は手の込んだ造りで,かなり高価だったと聞いたのですが,現在のお金で換算するといくらぐらいになるんでしょうか?
【回答】
昭和15年当時の九七式自動砲の価格は6.400円となっています.
これは三八式歩兵銃(77円)の約83倍,九二式重機関銃(2.175円)の約3倍に匹敵する価格です.
現在と当時の物価の差はこちら参照.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
友人と
∩( ・ω・)∩ チハたんばんじゃーい
と話してたときに,チハよりはパンツァーファウストなどの対戦車ロケットや無反動砲などの,歩兵携行対戦車火力の方が南方で頑張れたかもしれないね,という話になったのですが,当時の日本軍はこの手の対戦車ロケットの類の開発,及び使用はしていなかったのでしょうか?
技術そのものはドイツからの供与で入ってくるとは思うのですが,どうなのでしょう?
【回答】
日本で無反動砲の研究が始まったのは昭和18年の後半で,ドイツから到着した資料を元に開発が始まり,昭和19年には
「試製八十一ミリ無反動砲」
「試製十センチ半無反動砲」
「試製五式四十五ミリ簡易無反動砲」
等が制作されました.
しかし,いずれも試作の範囲にとどまっています.
試製五式四十五ミリ簡易無反動砲は外径八十ミリの試製五式穿孔榴弾を用いる,パンツァーファウストに近い無反動砲でしたが,実際には発射機の供給が間に合わず,弾薬のみが配備され,発射装置や使用方法は配備された部隊に任される予定だったとか.
また,ドイツから入手した構造図面を参考にして,19年9月に四式7cm噴進砲を正式採用.
これはバズーカのように筒内に弾を込めるタイプで,弾に安定翼が無く,ガス噴射で弾体を回転させて安定させていました.
弾頭着角60-90度で80mm鋼板貫通,100mで6割命中
終戦までに約3,500門を製造
……ただ,「日本陸軍兵器集 ワールドフォトプレス」によれば,この噴進砲,採用されたときは榴弾しか採用されておらず,対戦車戦闘に使えるとは考えにくい.
いちおう,成型炸薬弾「試製5式窄甲榴弾」が一部でテストされていたが,実用にはいたっていない.
このテスト結果は,「試製5式窄甲榴弾」のものと思われます.で,これは配備されていないわけで……
榴弾だけで対戦車戦闘はチト無理かなぁ,と.
さらに,上陸舟艇用の伏竜や対戦車用の刺突爆雷とか,弾頭がHEATだけど,運搬手段が火薬で飛ばすんじゃなくて人で,ってのも…
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE,極東の名無し三等兵 in FAQ BBS他)
【質問】
試製五式四十五粍簡易無反動砲について教えてください.
【回答】
この和製パンツァーファウストである試製五式無反動砲は,あまり知られていませんが,戦争末期にドイツから伝えられた成形炸薬弾を元に開発されました.
火薬発火式の中々面白い造りで,トリガー前にコッキングハンマーと,撃発用の空砲を入れる薬室があります.
結局発射器が量産出来ずに幻の兵器で終わっていますが,思うにこのグリップやラッパ状の尾部副筒や,長いロケット本体を見ると,実はパンツァーファウストではなく,コレがRPG7系統に影響を与えているのでは?とも思わされますが,どうでしょう?


よしぞうmaro' in mixi,2007年06月24日02:40
青文字:加筆改修部分
▼ その五式無反動砲の弾頭だけ生産して,特攻兵器として部隊に支給した話は,余りにもアレなので〔略〕.
いや,でも辛いエピソードです.
よしぞうmaro' in mixi,2007年06月28日 22:31
▲
【質問】
日本軍の対戦車戦術は?
【回答】
日本陸軍では対戦車防衛に「弾性防禦」の表現を使っており,正にその通りの弾力的な防禦策を展開している.
このため,第一線の戦車攻撃に対する抵抗は,それほど激しいものではない.
第一線では歩兵装備の重火器のうち,戦車に向けられるものは20%以下と見て良い.
戦車が接近すると一個小隊のうち一個分隊を残して,後はひとまず800〜1500ヤード後方に退く.
第一線に踏みとどまった一個分隊は,直ちに煙幕を張って散開し,煙幕の中から戦車が姿を現すと,焼夷擲弾をもって肉迫攻撃を加えるのである.
こうして初戦に於いて,先ず敵戦車の隊列を崩してコントロールを乱れさせ,被害を与えるというのが,その戦術的な狙いだ.
こうして第一戦の攻防戦が展開されている間に,師団砲兵が直接照準の出来る位置まで前進する.
もし歩兵の主要火力で攻撃を阻止できなければ,歩兵主力部隊は煙幕や焼夷擲弾を使用しながら肉迫攻撃を掛け,これを突破した敵戦車に対しては,直射陣地に前進していた砲列が集中砲火を浴びせると言った作戦である.
この作戦の特色は,一旦攻撃が停頓すると,攻撃側が忽ちピンチに陥ることだ.
立ち往生した戦車に対しては,手榴弾その他の手持ちの兵器でも功を奏することがあるし,散開したとは言え,敵戦車部隊の後続歩兵部隊を阻止できる.
●対戦車攻撃法
1. 場所の選択
対戦車攻撃要員が活動するのは,主として戦車の前進速度が鈍るところで,対戦車砲による攻撃の邪魔にならぬところとなる.
2. 特別要員
各歩兵中隊(機関銃中隊に適用されることもある)毎に対戦車肉攻班が設けられ,要員は特殊装備の元に訓練を受けている.
各要員の武装は,対戦車地雷と発煙手榴弾.
3. 攻撃方法
攻撃方法には次の三つがある.
(1)援護射撃の元に肉攻班員は戦車に向かって匍匐前進を行い,相手の死角に入る.
次に戦車の前方15ftの地点に,長い紐を付けた地雷を放り投げて,この紐を引きながら,戦車の真下に誘導する.
(2) 援護射撃の元に肉攻班員は突進して数個の地雷を戦車の進行方向にばらまき,そのいずれかを必ず接触させるようにする.
(3) 全長150ftのコードに,1ft間隔で地雷を結びつけ,これを戦車の通路に置き,両端の肉攻班員各1名と共に偽装隠蔽し,戦車を待ち伏せする.
このほか,肉攻班員は,通常後方から戦車に跳び乗り,ピック(小型鶴嘴)で戦車の武器又は砲塔の回転装置を破壊するよう訓練されている.
時には戦車の開口部から乗員めがけてピストルを発射することもある.
また,砲塔に掩蔽物を被せたり,開口部を泥土で目つぶししたり,開口部を利用して燻りだしを図ることもある.
勿論,こうした作戦を行う場合,その前に戦車部隊と行を共にする歩兵部隊は,別働隊によって除去される.
更に戦車は,3インチの丸太材または1乃至1.5インチの棒材を車輪のスポークに突っ込まれてスローダウンさせられ,遂には停車に追い込まれることもある.
当然ながら,磁気徹甲地雷が使用されることもある.
以上,米軍の対日本陸軍戦闘マニュアルより抜粋.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
▼ 以下は,実際に対戦車班に配属された兵士の証言.
[quote]
満20歳の時の徴兵検査で,丙種とされ,兵役はないものと思っていたのに,召集されたのであった.
帷子〔進〕氏と私は7月,熊本県島原湾に面した玉名郡の小学校に兵卒として駐留した.
そして米軍が,この海岸から上陸してくると想定して,私たちは米軍を迎え撃つ訓練をさせられたのだ.
〔略〕
あんなとこにね,米軍が上陸してくるはずないんだけどね,海岸防備.
米軍上陸したらね,火薬の箱をね,首から吊って,両手で抱えてまっしぐらに走って,どーんと向こうの戦車にぶつかるの.死んじゃうの.
その稽古をやった.
あれにはまいったさ.
だから戦争が終わってほっとした.
[/quote]
―――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.49 & 157(後半聞き書き)
▲

軍事板FAQ
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