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◆海事関連
<アジア・太平洋方面 目次
<第2次大戦FAQ

Nihon Kaigun(英語)
RADUNO DEL GRUPPO KAMIKAZE "SHINYO" AL TEMPIO YASUKUNI(イタリア語)
「朝目新聞」●やる夫で学ぶ海上輸送線 (of 人生VIP職人ブログwww)
海とKISSと太陽と(中小艦艇データ集)
『海軍めしたき物語』(高橋孟著,新潮文庫,1982.11)
『海上護衛戦』(大井篤著,学研M文庫,2001.2)
著者は,先の大戦中の海上護衛総司令部の参謀(海軍大佐) だった方で,当自のシーレーン防衛の実相を描いた本です.
この本を読んでいると,日本の生命線防衛に随分と当時の海軍の無策ぶりばかりが目につきますが,現在の状況もあまり変わらないような気がして心配になります.
〔略〕
――――――Siila in おきらく軍事研究会,平成20年(2008年)6月16日
旭日旗(各海戦時編成,戦闘経過等)
『撃沈された船員たちの記録』(土井全二郎著,光人社NF文庫,2008.5)
「決戦」を怒号する日本軍の輸送・補給作戦に従事し,大きな犠牲を払わされた船員たちの記録.
「海をもっと知ってほしい」
「海に出ていく人たちに大きな理解を」
との著者の願いが込められた一冊.
この本は著者の単行本「ダンピールの海」(丸善)を改題し,文庫版化にあたって誤記・誤植の訂正,文章の一部削除・加筆,写真の追加掲載し,当時一般に理解が十分に得られてるとはいえなかった船員の視線からあの戦争を眺めた本です.
――――――グンジ in mixi,2008年05月25日17:13
「ワレYouTube発見セリ」:Imperial Japanese Navy
「ワレYouTube発見セリ」:Pacific Action
「ワレYouTube発見セリ」:軍歌:月月火水木金金 ( 'Through the day, throughout the week')
「ワレYouTube発見セリ」:大東亜戦争海軍の歌 1942
◆◆総記
【質問】
海軍メイドさん事件って何ですか?
日独伊三国同盟と深く関わりがあるようですが・・
【回答】
軍事板内における俗説.
三国同盟締結に際して、日本海軍内の反対派が変節した理由として,ドイツ駐在武官時代、彼らがドイツ政府の内示を受けた家政婦をはじめとする「現地妻」に篭絡された、とするもの(少壮陸軍将校のドイツ支持もこれが原因とする)
『昭和史の論点』(文春新書,2000/3)、あるいは元海軍中佐の千早正隆などをソースとするらしい.
http://yasai.2ch.net/army/kako/983/983365012.html
参照.
しかし,これは単なるヨタ・ネタ,都市伝説である可能性が高い.
以下引用.
ネタ元の要点は半藤氏の「陸軍は明治以来〜」の部分と,続く保阪氏の発言ですが,このように前後をきちんと読むと,『昭和史の論点』で言われていることは,以下のように纏められます.
・親独感は当時の知識人・軍人に共通した,普遍的なものだった.
・海軍は海軍省トリオシンパ以外は三国同盟賛成だった.
・三国同盟反対の海軍省トリオは,反対しているために暗殺される恐れを感じていた.
・海軍の親独感情はドイツの接待攻勢によるものではないかと半藤氏は推測している.
・海軍は国内の政治取引,陸軍との駆け引きで予算獲得のために三国同盟に賛成した.
従って,親独感から海軍は三国同盟を推進したという「海軍メイドさん事件」なるものは,その根拠とされる『昭和史の論点』で
「陸軍との駆け引きのため三国同盟に賛成した」
と否定されているわけです.
〔略〕
このように,冷静に考えれば「メイド萌えで三国同盟」には無理が出てきます.
それ故,所謂「海軍メイドさん事件」は誇張して作られたネタです.
この話は「メイド萌えがドイツ贔屓の一因となった」にとどめるべきものです.
「海軍メイドさん事件」は話としてはとても面白いので,ネタとして使うのは良いと思います.
しかし,ネタはネタとして使ってください.
メイドさん

【質問】
海軍の情報公開の程度は?
【回答】
開戦まで、新聞報道はギリギリの線で海軍の情報を流していました。
佐世保のお膝元、長崎日日新聞の記事には
・6年6月、霧島が長崎・五島で公演・映写会・見学
・11年10月、修理中の由良で蒸気噴出、6名死亡 など、やばげな報道もしていました。
陸海軍が現代の「白書」じみた年鑑を発行していたことも分かっています。問題は頒布先ですが。
また、維新から日華事変参戦中の艦艇の写真集も発行してます。(編纂委員長が古賀さんなのです)。
公開されたスペックを覚えている海軍ヲタから、名前ぐらいは知っている程度までの幅はあれど,銃後の人達は、艦艇を知る義務ではなく、知る権利を与えられていたのはまちがいないです。
私のかかりつけの医者は、子供の頃に陸奥の実物をスケッチしたことがあると話していますし,軍港見物ができた時代は、佐世保は陸奥、舞鶴は吾妻が船内公開されていたようです。
鷂 ◆Kr61cmWkkQ in 軍事板
【質問】
旧海軍が行った北洋警備について教えてください.
【回答】
秩父丸
笠戸丸を塗りつぶして
積雲益々ひろがり
雷雨オンで
止んで東の空に二筋の虹を見る
北方漁場で,日ソ間の領海解釈の違いから,その操業は屡々トラブルを起こしました.
このため,日本海軍はその海域の漁業権を守るため,水産関係者の陳情を受け,駆逐艦を派遣していました.
ちなみに,日本は領海3海里を,ソ連は領海12海里を主張し,これによる拿捕が結構あった為です.
1917年,帝政ロシアが倒れると,反革命勢力の白軍と赤軍との内戦が始まり,1920年には有名な尼港事件が起きたり,26漁区での焼き討ち事件などもありました.
その後,度重なるソ連の監視船の妨害や,武力行使に対し,日本政府が現地政権へ責任を追及すると,シベリア・ソヴェートのアントノーフ臨時政権は,「カムチャツカは我々の知るところではない」と言う声明を発します.
となると,日本の漁師も黙っておらず,自衛出漁と称して武器を持って出漁し,ロシア人に捕獲された仲間の漁船を発砲して取り返すと言った紛争の情景が,岡本正一氏の『蟹缶詰発達史』に描かれています.
こうした紛争に対処するため,大湊に駐在する海軍部隊から,旧式駆逐艦が派遣されました.
この駆逐艦の仕事は,漁船の保護やソ連監視船からの妨害に対応するだけではなく,日本の主張するソ連領海としての沿岸3海里を計測し,その地点に旗付きのブイを設置する作業も行っています.
つまり,この地点から中に入ると,ソ連領海の侵犯となり,捕まっても文句が言えない,と言う訳.
しかし,それをソ連側に説明しようと士官を送ったのですが,ソ連船は日本士官の乗船を拒否し,説明文書も中央からの指示が無いと受け取れないとして,書類すら受け取らなかったそうです.
こうした北洋警備は,水産関係者からの陳情で始まったため,駆逐艦の乗組員は屡々母船を訪れることがあり,その時には士官ばかりでなく手隙の水兵も一緒に母船に乗り組み,歓待を受けたとか.※
※ちなみに小林多喜二の『蟹工船』では,北洋警備の駆逐艦の士官が酒食を供応されて酔っぱらって帰艦したり,ストライキをした工船労働者を,着剣した水兵が「不届き者」「不忠者」と罵倒しつつ,艦に連れ去ったり….
戦後に製作された山村聡監督の映画版『蟹工船』だと,エンディングで水兵が労働者を蟹工船の甲板上で射殺して,軍艦旗が血に染まったり….
こうした描写は全て嘘なのですが,この文学作品や映画を通じて,〔間違った知識が〕人口に膾炙したケースもあったりする訳で.
その北洋警備ですが,1932年からは毎年春の出航前に,函館で北洋漁業に関する保護,警備,取締,通信連絡の打合会が開催されました.
出席者は水産会社の幹部の他,外務省,農林省,逓信省,北海道庁,海軍省軍務局,軍令部と大湊要港部参謀長,駆逐隊司令と駆逐艦長,海軍水路部要員に,函館警察署,水上警察署など総勢100数十名が出席する会合でした.
会合では,海軍の方から,「領海侵犯した時には速やかに報告し,決して取り繕ってはならぬ事」と言う警告が出され,漁業関係者の方からは,出港船舶,日程,操業区域などが事細かに報告されています.
海軍の警告は,先述の自衛出漁によって,当局の黙認の下で機関銃を積んで出漁した漁船があったのですが,その機関銃が日本漁船同士の争いに使われたりした苦い経験もあって,漁業関係者の暴走を厳しく戒めるものでした.
この駆逐艦の派遣は結構効果があり,例えば,漁船の一隻がソ連の監視船が近づいている事を知らせる無線を発信すると,直ぐ様,駆逐艦は速力を上げ,該当海域に向かいます.
当然,この時には主砲のカバーは取って戦闘態勢に….
こうした駆逐艦が近づくと,ソ連の監視船は転舵して遠ざかっていったそうです.
また,ソ連の漁船団もこの海域で操業するのに出くわすこともあったそうですが,こちらの蟹工船には女性が乗り組み,出くわすと手を振ってくれることもあり,華やいだ雰囲気で,和ませてくれたとか.
ちなみに,高緯度地域では磁気コンパスの修正が屡々必要になりますが,それを面倒臭がって,位置を間違え,カムチャツカの海岸に直角に乗り上げた日本漁船があったそうです.
普通なら,これで拿捕とか必至ですが,流石に「これは領海侵犯の意図はないだろう」と言って,ロシア官憲も苦笑して見逃してくれたこともあったそうな.
こうした北方海域での漁業保護は,その後,占守型海防艦に任が引き継がれ,旧式駆逐艦は随伴しなくなりました.
日本の漁船が引っ張られたから海軍が総員で浦塩まで行って示威行動をした,とかそんな話と言うのは,実は平田晋作が書いた「新戦艦高千穂」にその様な下りがあって,その辺から尾ひれが付いた話ではないかな,と思ってみたりするのですがねぇ.
駆逐艦波風の艦内新聞「波風新聞」より「工船のエレベータにて詠める」
蟹ならばすぐさま殺られるこの次は
揚がったら甲羅とアンヨは生き別れ
人間で良かった無事に生きてきた
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月29日22:25
+
【質問】
WW2の日本海軍将校で,「演習でアメリカ側を担当した際には,日本側をさんざんに打ち負かした」という逸話が残っている人がいたと思うのですが,誰でしたっけ?
【回答】
27期の中村良三さんです.
中村さんが鎮守府長官の時のエピソードなので,佐鎮長官だった昭和7年度か呉鎮長官だった8年度(ということは,どっちにしてもコテンパンやられたGF長官は小林躋造さんですね).
中村さんは,同期の末次さんと並び立つ鉄砲屋のエキスパート,しかも漸減邀撃作戦に精通した戦術家でした.
で,小林さん率いるGFを完全に翻弄し,非難轟々の中,
「敵が貴様らの思い通りに動いてくれると思ったら大間違いだぞ!」
と一喝して沈黙させちまいました.
ちなみに中村さん,上に厳しいだけでなく下にも厳しく,利根艦長となる黛さんは
「中村さんの言動は,『貴様ら低能は黙って俺の命令に従ってろ』て感じがにじみ出てて嫌だった」
と回顧してます.
末次さん同様,艦隊派の過激派でしたが,末次さんみたいに権力への執着はあまりなく,艦政本部長としてB計画着手中に,2・26事件後の陸軍粛清にあわせて海軍も現役大将の減員を要求されたとき,中村さんは予備役入りを受諾して下野しました.
ついでに,例の演習で惨敗した小林さんも,同時に予備役入りしてます.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ in 軍事板
というか,図上演習(日本が)やっても毎回日本は負けてたんで.何回やっても土佐沖に追いつめられて終了.
追いつめられた後のことはやらないのが,帝国海軍クヲリティ.
(軍事板)
【質問】
戦争初期にまず米海軍の空母を全て沈没させて、太平洋の制海空権を取ってしまえば、太平洋では敵無しではありませんか?
空母の敵は空母だから、米空母が居なくなれば怖いものなし!
大和や武蔵と言った戦艦も容易に使える・・・!のではないのでしょうか?
【回答】
米空母を全滅させるには、日本海軍もそれに準じた被害を受けることになりますよ。
日本海海戦のようなパーフェクトゲームはありえません。
日本はそこで受けた損害を戦時中に回復することは出来ませんが、米国の場合はフルに生産力を使って、場合によっては月一隻の割合で正規空母を量産したりできます。
加えて、航空機の生産数も日本の数倍です。
また、太平洋を取った時点で、日本の戦力は完全に摩耗していますが、米国は資源が国内で自給自足が出来るので、戦力を生産しそこから押し返してくるでしょうね。
さらに、米海軍がいわゆる「決戦」に乗ってきてくれるという保証はないのです。
徹底的に決戦を回避し、戦力を蓄えて一気に反撃ということも出来ますね。
当時の空母は防御面では非常に弱いものです。
この点について,日米ともに開戦以前に十分に認識しており,それぞれが可能な限り手を尽くしていましたが、実際のところは、艦のダメージ・コントロール、護衛艦艇の防空能力といった,ある種,間接的な面の差でアメリカ側が優位にあったといえるでしょう。
日本海軍も、艦隊防空の指揮系統や方法論といったソフト面にも多いに改善の余地があるにも関わらず、その発想が無く、たとえあっても「海軍の伝統」という強固無比な障害物が…
というわけで日米の機動部隊同士が殴り合った場合、「数があるから勝てる」という物ではありません。相手の空母を沈めたはいいがこちらは満身創痍、ということも考えられます。
仮に艦自体は無傷でも、艦載機とパイロットの損耗は日本にとってはそれこそ一会戦すれば回復に三ヶ月単位で時間がかかるレベルでした。
二直制を導入しようにも当時日本にはそれだけのリソースは存在しません。
それにまた,潜水艦はどうするんです? 日本海軍の対潜作戦能力の貧弱さを知らないわけではありますまい?
装甲甲板に多重防禦を極めた設計にしたのに,潜水艦にあっさり沈められた大鳳をお忘れですか?
どんなに機動部隊が活躍しようと戦艦部隊が無敵の威力を振るおうと、潜水艦に通商路を破壊されてはどうにもなりません。
潜水艦に補給ラインを切断されまくる状態だと、日本海軍の攻勢限界ラインは中部太平洋あたりまで縮小するでしょうな。
さらに、戦艦の数でも米海軍は日本海軍を上回っています。
個艦戦闘能力の差はあれど,やっぱり戦力で劣ってることに変わりは無いんじゃないでしょうか。
【質問】
太平洋戦争中の日本の新聞で,敵艦の名前が知られているのはなぜですか?
【回答】
航空朝日1944年11月号を見ますと,エセックス級の11番艦までの艦名及び,完全に正確な要目,造船所名,果ては進水日まで完全に正確なデータが記載されてます.
更にエセックス級後期建造型シャングリ・ラの要目と進水日諸々,計画中の4隻まで言及されています.
また,インディペンデンス級の要目,流用された軽巡の艦名・・・
CVE・AVGまでほぼ総て,また,なんと英空母に関しても建造中の艦名や要目が出ています.
この情報源はスイスの航空情報誌「インタラヴィア」誌より入手した,そうです.
【質問】
太平洋戦線で,米軍は「日本空母の損失状況」をどの程度正確に把握していたんですか?
珊瑚海で1隻,ミッドウェイで4隻というように,初期ではかなり正確につかんでいたようですが,マリアナやレイテになるとどんなもんだったんでしょうか?
大鳳や翔鶴なんかは魚雷を受けてからかなり粘った後に沈んだんで,米軍は沈没を直接目撃してないように思えるんですが.
【回答】
基本的に捕虜情報,戦闘報告,航空写真,無線傍受情報によって,損失状況は可成り正確に判っていました.
特に,無線傍受情報については,個艦の通信についても悉く解読しています.
即ち,ある艦の無線傍受情報が突然消えたのであれば,その艦は沈没したと判断出来ますので,その辺の戦力情報分析は正確に出来ていました.
これに,必要とあらば,航空機による泊地偵察情報も補完されますので.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
「戦艦武蔵の最後」(塚田義明著,光人社文庫,2001.5)で,武蔵の機関銃手だった著者が沈没後,漂流中の丸太に捕まろうとしましたが,既にいっぱいで
「馬鹿野郎!丸太が沈むだろう!放せ!」
と,けりを入れられた場面がありましたが,沈没の際に
「どけどけ,御真影だ!」
と言って背中に重い御真影を背負って,海に飛び込んだ兵士達が登場しましたが,御真影を背負った彼らは優先的に漂流中の丸太やボートにしがみつく事が,許されたんでしょうか?
【回答】
ボートが横付けできる状況であれば,御真影を無事に移せます.
ミッドウェーの4空母のうち,艦橋が炎上した蒼龍を除く3空母が回収に成功してます.
自沈した赤城・飛龍は当然のことながら,艦橋の幕僚が全員爆死した加賀も,炎上を免れてたので.
ただ,いったん飛び込んで…となると引き揚げは困難でしょう.
フィリピン沖海戦の囮空母は,撃沈されることを前提にして出撃したので,あらかじめ駆逐艦にそれらを預けてました.
鷂◆Kr61cmWkkQ
で,確かその本にも書いてあったと思うが,御真影を背負った状態で,あれだけどでかい船が沈む際に発生する海流から逃れられるとは考えにくい.
しがみつく前に沈んだ,もしくは海中で御真影を捨てざるを得なくなったと考えるのが自然.
【質問】
横須賀周辺の旧海軍の建物で,現存するものがありましたら教えてください.
【回答】
例えば,横須賀地方隊の田戸台分庁舎は,1913年の横鎮施設部長の桜井小太郎(英国公認建築士で後に丸の内ビルヂングを設計)が設計した旧横須賀鎮守府長官官舎ですし,第七艦隊司令部の建物は,1924年建築の旧横須賀鎮守府庁舎,横須賀製鉄所創設当時の船渠が三基残っていました.
ちなみに,幕末にフランスから輸入されたスチームハンマーは,1997年まで艦船修理部で使われ,ヴェルニー記念館に移設展示されています.
詳しくは,若干の記述に目をつむる必要があるかもしれませんが,神奈川県歴史教育者協議会編「神奈川県の戦争遺跡」(1996/大月書店)が,資料としては整備されているのではないでしょうか.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
呉軍港はいつごろ,どのようにして開港されたのか?
【回答】
1883年2月10日から7月25日にかけて,肝属兼行海軍少佐一行が,呉湾周辺を調査し,此処に「東洋一の大軍港」と形容される呉軍港の歴史が始まります.
呉湾は瀬戸内海の広がりの中から見ると,その中程にあり,紀伊水道,豊予海峡,下関海峡からはほぼ等距離にあります.
また湾内は数多くの小島に囲まれ,海峡は狭く,湖水とも見まごうばかりであり,こうした条件から,敵艦隊の攻撃を避ける為に必要な防御策を十二分に採ることが出来ると言う点に着目した訳です.
また,呉湾の後背地には,市街地に適した適度な平野が広がり,その背後には呉湾の波浪を和らげる400〜700mの山々が北東西の三方を囲んで,風除けになっています.
とは言え,この平野は後に呉が発展していくと,巨大化する海軍を支えるにはあまりにも狭く,波浪を和らげる山塊は,その市街地の拡大を三方から抑え付けていると言う逆の面もあったりする訳で.
そうなると,「呉」が市街化するには平野部は土地を極限まで利用する高密度化,そして,急峻な山を登り詰める高地部を郊外化するしか方策はありませんでした.
1886年5月,第二海軍区鎮守府として呉湾が正式決定され,11月には鎮守府の起工式が行われます.
そして3年後の1889年7月,呉鎮守府の開設に至りました.
元々,この地は呉湾の東に半農半漁の宮原村がありましたが,お上の土地収用に伴い,この村の人口は5,000人から2,400人と半減します.
この移転した村民達は,海軍用地の更に高台である宮原村高地部,市街地に適した平地である荘山田村新開地,海軍用地付近,海軍用地の反対側の山裾にある川原石・両城地区に分散していきました.
小作人や漁民は着の身着のままでの移転だそうですが,商人や土地持ちの農民達は海軍から補償金を得て,或者は海軍軍人向けの商売を新たに始めたり,借家経営をして海軍軍人に貸し出す事業を始める人も出てきます.
移転してきた海軍の軍人にしても,いきなり官舎が建った訳ではなく,その官舎の落成までは,荘山田,両城,川原石,宮原の高台の民家を借りたり,地元名主が建設した住宅に住んでいました.
こうして移住した彼等は将校であり,鎮守府までは人力車や馬に乗って数キロの道のりを通っていました.
明治末期になると,将校の住まいは鎮守府周辺に建設された官舎に移行しますが,この官舎に入れたのは,鎮守府司令官を中心とする高級将校のみでした.
彼等の官舎は,鎮守府周辺とは言え,軍用地であるが故に開発から取り残された非常にゆったりした住まいで,郊外的な空間でした.
海軍病院の官舎もこの周辺に建設されています.
そうした官舎に入れなかった将校達は,借家経営者により営まれた両城,川原石,宮原の借家に分散して住んでいました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/19 23:13
【質問】
呉軍港拡張に伴う住宅問題について教えられたし.
【回答】
軍港が拡張すると,「呉」の人口は急増します.
1885年,17,818人だった人口は,5年後に24,469人に増え,この他に人口に換算されない流れの軍港建設労働者が1万数千人もいました.
こうした人々は,例えば西南戦争で敗北した薩摩兵だとか,江戸から身を持ち崩して下った旗本崩れと言った連中も多く,彼等の住まいは請負業者が急造した作業員小屋であり,家屋がない者は,海軍用地周辺に自ら建てた仮小屋で生活していました.
1902年,「呉」は4町村が合併して市制を施行します.
この頃の人口は60,124人に達していました.
因みに呉と言う地名は,元々呉湾の入江際にあった「呉町」の範囲の狭い地名を指していたもので,市制の時に初めて,平野部と周辺一帯を呉と呼ぶ様になりました.
呉の平野部は,川砂が堆積した低湿地であり,鎮守府開設後,此処を埋め立てて市街地を形成.
更に,呉湾に川砂が堆積するのを防ぐ為に,二本の河川改修が実施されました.
そして,呉湾両側にあった既成市街地を連絡する様に市街地が形成されていきました.
1903年以降,呉海軍工廠が本格的に稼働し始めると,建設労働者に代わって職工が増えていきます.
1909年には10万人,1933年に20万人,1941年に30万人,1943年は戦前戦中のピークで35万人(短期徴用工を含めると40万人)に達しました.
当然,住宅問題は深刻になっていきます.
既に明治末期にはこの住宅不足は深刻となり,高地に建設は移っていきます.
また,地元の借家経営者が建設する階段住宅が呉の名物になりつつありました.
借家経営者だけではなく,海軍工廠に勤める職工達の中からは有志で住宅組合を作り,共同で家を建てる動きが出てきました.
組合数は64組合に達しましたが,総じて10名内外の人数から構成され,共同で1〜2万円程度の融資を受け,個人住宅を建設しており,その総戸数は595戸に達しています.
この64組合中,50組合は1930年以降に行われたもので,海軍共済組合からの融資が建築資金の基でした.
つまり,海軍としても持家政策を積極的に行ったと言えるでしょう.
将校用住宅の供給としては,1930〜40年の10年間に,市の斡旋によった土地区画整理組合が高地部に住宅地を造成していたり,民間の土地会社が1940年前後に,呉や広島の沿岸部を中心に住宅分譲を盛んに行っていました.
こうしてみると,呉の土地開発は,海軍官舎,海軍病院官舎に代表される幹部クラスの鎮守府近辺にあった住まいと,将校の為の借家であった階段住宅,組合や土地会社による周辺部,高地部での住宅供給の二つの流れがあったことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/19 23:13
呉と言えば,海軍鎮守府関係の史跡が多くある訳ですが,鎮守府長官官舎も入船山記念館として残されています.
この他の高級将校の官舎は,軍法会議付近に4棟が建てられて,これが工廠長,参謀長,工廠検査官,工廠副官が住む官舎となり,監獄跡に8棟が建てられて,これが参謀長,機関長,港務部長,経理部長,建築部長,鎮守府副長官などが入居.
更に監獄に隣接して3棟が和庄,宮原,荘山田と言う名称の住居が建てられています.
まぁ,府中刑務所や巣鴨監獄の隣に高級官僚の宿舎が建てられている訳で,正に海式に,「板子一枚下は地獄」を地で行っているのではないかと思いたくなります.
先述の様に,呉鎮守府開設後,暫くの間,高級将校は「呉」周縁の高台に住宅を借りるなどして散らばって住んでいました.
それが変るのは1890年の事,この地に明治天皇が行幸されてからです.
明治天皇は鎮守府北側の緑豊かな小高い丘である入船山の軍政会議所兼水交社を改修して,行在所とします.
この時,明治天皇を行在所に迎え入れたのが,呉鎮守府長官を勤めていた中牟田倉之助です.
その後,行在所の儘放置するのも宜しくないと言う事と,鎮守府に近くいざ鎌倉と言う時に直ぐに駆けつけられると言う判断で,1892年から中牟田は以前住んでいた荘山田の住宅から入船山のこの元行在所に住むことになりました.
以後,この入船山は俗称「長官山」と称される様になり,この周辺は軍事機能の中枢機能のみならず,長官並びに長官に続く高級将校の住まいとして形作られていきました.
この区画は「呉」高地部の狭隘な地とは異なって,ゆったりとして周囲には緑が生い茂り,軍の中枢地帯と言う事で,一般市民が容易に立ち入らない隔絶された場所であった事も影響しています.
一方,海軍監獄は元はと言えば,海軍用地最北である和庄村檜垣谷に鎮守府開設と同時に建設されます.
しかし,この地は従来の市街地との境界でもあったため,時代が下り,呉が発展するに従って,「呉」の中心地となり,監獄がぽつんと繁栄の中に取り残された状態になってしまいました.
また,この海軍監獄は谷地に建設された事で,道路から下瞰される状態となり,収容者の士気にも影響しかねない事も懸念されました.
1900年代には早くもこの海軍監獄の移転が,市民の要望として,鎮守府へ要請されています.
そんな折,1905年に呉で大地震が発生し,長官官舎は屋根が壊れ半壊状態となり,監獄も施設が破壊されました.
長官官舎の方は,この半壊状態の廃材を再利用して直ちに再建され,天然スレート鱗葺きの屋根を持つ英国風ハーフティンバーの瀟洒な建物となりましたが,この建物の設計は,海軍技師で建築科長だった桜井小太郎が行ったとされています.
一方の海軍監獄の移転には少し時間が掛かり,1910年9月に漸く呉市平野部の北東にある二河射的場の一部に移転が決定し,1911年9月竣工,10月移転が完了しました.
そして,この跡地に建てられたのが,先述の8棟の官舎群です.
ただ,折角建設された官舎群ですが,1930年にはこの官舎用地の一部は,呉線建設用地として拠出されました.
呉線は,呉駅から長官山の北麓を掠めて海軍官舎へと突入し,隧道で隣接町と結ぶ計画でした.
その代わりに呉市や地元商工会が提供したのが,平原土地区画整理組合による住宅地と言われています.
もう一つの官舎は,海軍病院要人の官舎です.
これは海軍宮原浄水場麓の南斜面に4棟が建設されました.
建築年は2棟が1924年,残りが1932年ですが,そのプランはほぼ同型同質なので,着工時期は同時かも知れません.
この官舎には,呉鎮守府軍医部長とそれに連なる身分の将校担当官達が住んでいたと考えられます.
こちらは鎮守府長官官舎ほどではないにしろ,内面的には英国の影響を強く受けています.
平面構成は,典型的な戦前の文化住宅スタイルで,玄関を入って直ぐ横に洋風応接空間,8畳の続き間と洒落た造作の離れ風6畳書斎からなる和風居住空間,食堂など機能的なプラン構成で洋風の生活様式が取り入れられていたモダンなサービス空間の3つから成り立っています.
この応接間正面には造り付けの木の棚があり,窓際奥にある赤煉瓦の暖炉がある小さな空間に連なっています.
この様な構成をイングルヌック構成と呼び,英国流の構えだったりします.
イングルヌックは,天井が高くて広い応接間で部屋全体が暖まらない,更にそんな中で親しい友人との会話も何となくぎこちない感じになってしまう,そんな時,こそこそっと忍び込んで,暖を採りながら話し込んだりお茶をする小さなスペースの事で,当然,この中には喉を潤すアイテムが常備されていました.
もう一つ,英国流だったのは応接間と食堂の配置です.
英国流では,客人は食事の準備が整うと応接間から食堂へと移動するのですが,この距離が長ければ長いほど良いとされています.
つまり,この演出を実現するには応接間と食堂の間が離れている必要がありますが,この官舎の場合,両室が離れ,且つ,縁側を歩かせて庭の風景を内部に積極的に採り入れています.
この様な構成が,戦後,占領軍たる英連邦軍将校のお気に入りになったのか,戦後は彼等がこの官舎を用い,1956年以降は大蔵省,厚生省所管を経て,国立呉病院の宮原官舎となりました.
この官舎は,病院長,副院長,職員クラブとして利用されていましたが,国立呉病院の長期建替え計画の最中で解体が予定されていました.
今はどうなっているか判りませんが….
こうした官舎は呉鎮守府の中でも隔絶された地に造られており,それは一種租界的な雰囲気を醸し出していたそうです.
もしかしたら,この環境が,海軍の井の中の蛙状態を惹起したのかもしれませんね.
て事で,更にこの話続く.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/20 23:21
昨日は高級幹部クラスの住居についての話でした.
では,一般の士官達はどんな家に住んでいたのかと言いますと,異動が多い彼等は主に借家に住んでいます.
先述の通り,「呉」の地に海軍鎮守府が出来ると,元居た住民達は立ち退かされました.
しかし,土地を持たない貧農と違って,土地を持っている人々を無碍に追い出す訳に行かず,彼等に対しては国から補償金を出すことになりました.
特に宮原村の出身者にはこの補償金を元手に借家経営者に成った人々が多かった様です.
こうした経営者の中で特筆すべき人物が,高橋仙松と言う人です.
この人は明治初年の生まれで,青年期にこの呉海軍鎮守府の発展にぶつかります.
そして,彼は宮原村から吉浦村両城地区三条(後の二川町)に移住すると,移転で得た補償金を元手に借家を建設し,これを海軍関係者に貸しました.
こうして,付近で長屋や戸建ての借家を1軒建てては家賃を得て,これを次の借家建築の資金源に充て,建てては,次を建てる繰り返しを行っています.
正に借家建築道楽人の名に相応しい人だった様です.
こうした借家経営者が多かった為に,呉の狭い平野部には空き地がないほど住宅が建ち並び,更に住宅建設の地は傾斜地に向かいます.
階段を上る様に,次々と借家が傾斜地に建てられていった訳です.
この様な状態では,新たに家を建てるのは難しい.
ところが高橋仙松は,目の付け所が違いました.
流石,借家建築道楽人です.
彼が目をつけたのは,両城川の北側斜面でした.
此処は標高差40mの南面する斜面で,松がぽつぽつと生えているだけの土地でしたが,何しろ,傾斜が急な土地であり,どの借家経営者も,よもやこんなところに家は建つまいと考えて放置していた土地です.
しかし南面の斜面であると言う事は,此処にそれなりの品質の住宅を建築すれば,将校用の借家として十分な質を持つ借家となります.
折しも呉海軍鎮守府は拡張を続け,借家の需要は旺盛にありました.
1925年頃,彼はこの土地を購入し,まずは敷地両側に麓から天辺まで上がる階段を作り始めました.
そして,この階段を作業路にして,下から徐々に雛壇状の宅地を石垣で築いていきます.
この石垣は,大阪城の石垣を築いた人に頼んだと言う伝説があるほど,エッジは反りを持ち,精緻に築かれていきました.
そして,石垣が完成した宅地から順に洋室を持つ和洋折衷住宅を建設し,これを海軍士官達に貸し出していきました.
こうして出来た家は8戸.
彼は常に陣頭指揮に立ち,下から2段目の住宅には自身が住んで,ここから日々建ち上がっていく石垣と借家を大工の棟梁と眺めながら,指示を出して上段の建設を進めていったと言います.
しかも彼が達見を有していたのは,この敷地の中央ではなく,両側に階段を建設したことでした.
確かに,中央に階段を建設すると,土地を有効利用することが可能です.
ところが,彼は両側に階段を作り共用部を増やしています.
この理由自体は定かでないのですが,この階段設置が呼び水になって,隣接の斜面に,1934年に地元酒屋「山徳」,1930〜34年の間に付近の住人である岡野内らが住宅を建設します.
これらの住宅も,高橋仙松の住宅に対抗して,三角切妻の洋室を持つ和洋折衷住宅となり,この一角が海軍将校の住む文化住宅地帯であることを示すステータスシンボル的な存在となりました.
高橋仙松が考えた通り,この借家の借り手は全て海軍将校となりました.
時に,高橋仙松は還暦を超え,借家建築道楽の集大成をこの住宅建築で行った事になります.
高橋仙松の様に,海軍将校を対象とした借家の建設は盛んに行われています.
一つは1930年の平原土地区画整理組合が開発した13,000坪の土地に建設された郊外住宅であり,この土地には当時の市長や商工会議所の人物達が挙って住宅を建設しました.
1935年以後は,呉市にこうした住宅開発に関する助成規定が成立し,後山の3,000坪を筆頭に,見残の2,400坪,吉浦新町の7,000坪,吉浦狩留賀の10,000坪,湯舟の9,000坪,阿賀町原の26,000坪などの土地区画整理組合が誕生し,高地部や周辺部の住宅供給を加速することになります.
特に後山の開発は,内務省の都市計画関係法規の第一人者だった小栗忠七が絶賛しています.
これらの組織は,市の斡旋で組織されたもので,行政や海軍は官よりも民の力を期待していた様です.
もう一つの動きは,広島市のディベロッパーによる広島〜呉間の沿線開発で,三興土地拓殖商事による洛陽園,大西拓殖による朝日ヶ丘住宅地の10,000坪(1区画100坪以上),寺田商会の鶯の里住宅地の8,000坪(1区画100坪前後)などの造成が1939年前後に相次いで行われています.
海軍将校や工廠の技手などがこうした土地を購入し,家を建てています.
因みに1945年の呉空襲により,市街中心部は大半が焼失してしまいますが,この通称「階段住宅」は丁度中心部と郊外の境目に位置していたらしく,空襲を辛くも免れました.
そして階段の上にあって,車が入らない事で,住宅の建て替え自体も殆ど無いまま,往事の姿を残しているそうです.
今回の参考文献は,
『近代日本の郊外住宅地』(片木篤他編,鹿島出版会,2000.3)
を元に若干軍関係の記述に訂正を入れています.
元々,西宮近辺の郊外住宅(我が祖父の家もその流れ)をの事を調べていて,この本を手に入れ,読んでいると偶然,呉の住宅事情なんてのが出てきたりした訳で.
横須賀とか佐世保などの地にも,そうした住宅事情を描いた研究資料があるのかも知れませんが,意外とこうした住宅建築史から海軍や陸軍を論じた本ってのは無いものですね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/21 22:11
【質問】
「港の6人衆」とは?
【回答】
敗戦後,港湾労働者を束ねていた有力者で,神戸の
田岡一雄(港洞会),
向井繁人(永宝商会),
本多仁介(大神倉庫),
横浜の
笹田照一(笹田組),
鶴岡政次郎(鶴岡一家),
藤木幸太郎(藤木組,のち藤木企業),
の6人.
戦前,沖仲士は流れ者や血気の者が多く,これを指揮するには強力な組織が必要だったため,下請け業者のほぼ全てが組長または組と連携していたが,大正15年頃,全国主要港の業者を傘下におさめていたのが酒井新太郎,鶴井寿太郎,藤原光次郎の「鶴酒藤兄弟会」.
この3人と兄弟分の盃を交わしていたのが山口組の2代目親分,山口登で,山口組を継承して3代目になったのが田岡一雄.
また,酒井の下で組頭をつとめていたのが笹田照一,鶴岡政次郎,藤木幸太郎だったという.
詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.217-218を参照されたし.
◆◆組織
【質問】
旧海軍では,聯合艦隊司令長官の地位は上から何番目ですか?
【回答】
日本海軍では、敗戦直前の時期を除いて、明確に各々の序列が決まっていた訳ではありません。
1933〜1945までは、図にすれば、こんな感じです。
天皇----┬----海軍省
|
├----軍令部
|
├----鎮守府(佐世保、横須賀、舞鶴、呉)
|
├----警備府(1941年以降、それ以前は要港部として鎮守府の下部組織)
|
├----聯合艦隊--┬--第一艦隊(時期によって変遷していますが)
| |
| └--第二艦隊
└----支那方面艦隊
と言うことで、天皇から見れば、序列的には海軍大臣、軍令部総長、鎮守府長官、警備府長官、聯合艦隊司令長官、支那方面艦隊司令長官は全くの同格です。
但し、実際の権限は、海軍大臣は軍政を所管し、海軍軍人を統督し、鎮守府、艦隊は所管の軍政に於いて海軍大臣の指揮を承けるとされ、海軍大臣が他の幹部よりも優越します。
海軍大臣と軍令部総長は、国防用兵に関することを総長から大臣に発議することになっており、海軍大臣は平時の海軍軍備、経費、艦隊、鎮守府の建制を担当していました。
鎮守府長官、警備府長官は、軍政は海軍大臣、作戦計画は軍令部総長の指示を受けることになっていました。
聯合艦隊司令長官もこれは同様で、軍政は海軍大臣、作戦計画は軍令部総長の指示を受けることになっていました。
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
「大海令」と「大海指」の関係性について教えてください.
下記サイト
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/daikairei.htm
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/daikaisi.htm
では戦史叢書から引用して
軍令部総長が伝宣する海軍に対する大命〔天皇の命令〕の発簡符号を大海令○号という
「大海指」は大海令に基づく軍令部総長の指示
となっています.
以上から,
・天皇の幕僚である軍令部総長が天皇より受け,かつ海軍部隊に告知する命令が「大海令」,
・大海令を反映し,軍令部総長が責任者になって海軍部隊に具体的な命令を下すのが「大海指」
だと理解したのですが,これで理解に問題はないでしょうか?
幕僚であるはずの軍令部総長が大海指を出すとき,「命令の責任者」になれるという点かがちょっと分からないので,その点教えていただけるとありがたいです.
【回答】
>天皇の幕僚である軍令部総長が天皇より受け,かつ海軍部隊に告知する命令が「大海令」,
>大海令を反映し,軍令部総長が責任者になって海軍部隊に具体的な命令を下すのが「大海指」
そのとおりです.
大海令の最後の条文は「細項に関しては参謀総長をして指示せしむ」と伝宣されるわけですから.
(軍令部総長ではなく参謀総長です…って)
>幕僚であるはずの軍令部総長が大海指を出すとき「命令の責任者」になれるのか
「命令」を出すのは天皇に限定され,軍令部総長が出せるのは「指示」です.
しかし「指示」と言いつつも,実際は「命令」に値する重みがありますから,
形式上は責任を天皇に預けながらも,実際の失敗は軍令部総長が泥をかぶる,というのが大人の解釈かと.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ
天皇の命令を布告する場合,それは軍令となります.
軍令には,
1. 軍令第○号という公示すべき軍令中,陸海軍共通のもの.
2. 軍令海第○号という公示すべき軍令中,海軍のみに関する諸条例,諸規則,操典,教令教範類となっており,
があり,
3. 公示しないものは,秘内令,極秘内令
となります.
大海令は,天皇の命令を布告すると言う訳ではなく,あくまでも,海軍部内に於ける指令を告知するためのものだと思いますが….
大海指に関する理解はそれで良いと思いますけど.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
GFってなんの略称なんですか?
【回答】
日本海軍であれば連合艦隊.「連合艦隊」を英訳したGrand
Fleetの略.
世間一般的には女友達.
SF的には銀河系艦隊.
【質問】
なぜ連合艦隊司令部が軍令部の意向を押し潰して,連合艦隊司令部の作戦をゴリ押しすることができたのか?
【回答】
大海令,大海指は細かな作戦を指示することはなく,それのみで作戦部隊が行動を起こす事は不可能だった.
したがって,作戦実施上,各部隊指揮官,とりわけ,その中枢をなす連合艦隊司令長官の責務が大きかった.
そのため,表面上,大海令,大海指を逸脱しない範囲の作戦行動という形をとりつつ,内実は連合艦隊司令部の作戦構想が強引に実施される事態が再三あったという.
詳しくは,「世界の艦船」2005年8月号,p.91(石渡幸二著述)を参照されたし.
【回答】
日本帝国海軍の場合
司令:補助艦艇(駆逐艦、潜水艦などの「軍艦:巡洋艦以上の大型艦。正確な定義はややこしいので省略」以外の艦船)複数で構成される「隊」の指揮官。
権限上は軍艦艦長と同格。
司令官:指揮下に複数の「軍艦」ないし「隊」を持つ指揮官。戦隊は司令官がトップ。
司令長官:指揮下に複数の「司令官」ないし「司令長官」を擁する指揮官。従って艦隊は司令長
官がトップとなり、複数の艦隊司令長官を指揮する立場の連合艦隊のトップもやっぱり司令長官。
【質問】
艦隊司令と旗艦の艦長って別に居るものなのでしょうか?
そもそも,この辺りの指揮系統はどのようになっているのでしょう?
【回答】
当然,艦隊司令長官は中将,戦隊司令官は少将,艦長は大佐が務めるものですから兼任はしません.
艦長の役割はその艦を指揮する事.
艦隊司令の役割は「艦隊」を指揮する事.
どちらも重要で難しい仕事であり,兼任できるような物ではありません.
ふだんは艦隊の関係者は,船のスタッフと別の部屋で生活してます.
…と,どっちにも解釈できますが.
>指揮系統
例えば菊水作戦の全責任は,伊藤整一司令長官にありますが,
大和の行動の全責任は,有賀幸作艦長にあります.
伊藤さんが指示を出す相手は,大和を預かる有賀さんと,護衛をしている第2水雷戦隊の古村司令官.
伊藤さんが「弾幕薄いよ,何やってんの」と砲術長を鼓舞するのは,有賀さんを蔑ろにする越権行為.
伊藤さんが「雪風もっと前に出て」と駆逐艦の陣形に口出しするのは,古村さんを蔑ろにする越権行為です.
伊藤さんが考えることは,大和を沖縄に持っていくことです(もちろん伊藤さんはそれが不可能だと承知していましたが)
大和がどう戦い,どう動き,どう捨てるのかを決めるのは,あくまでも艦長である有賀さんの仕事です.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ他
【質問】
階級とポストの関係は決まっていたの?
【回答】
おおむねこうなっていた.
帝国海軍の全艦隊を統率する「連合艦隊」司令長官→通常は大将
いくつかの「戦隊」などで編成される「艦隊」司令長官→中将
空母など軍艦数隻もしくは駆逐艦や潜水艦の「隊」いくつかで編成される「戦隊」の司令官→少将
駆逐艦や潜水艦など数隻から編成される「隊」の司令及び軍艦(戦艦,巡洋艦,空母など艦首に菊の御紋を付けた艦艇)の艦長→大佐
駆逐艦や潜水艦など菊の御紋のつかない艦艇の艦長(軍艦の「艦長」と区別して駆逐艦長,潜水艦長と呼称する)→中佐以下
まれに,戦艦の艦長(大佐)が,昇進して新しいポストにつくまでの間,少将で艦長を務める場合もあった.
【質問】
連合艦隊司令長官の山本元帥は,海軍内では序列何番目ぐらいの提督であったのでしょうか?
【回答】
開戦一年前の昭和15年暮の時点での序列は上から順に以下の通り.
,昭和15年暮,開戦時,山本五十六戦死時の役職,階級の位置はを示す.
| 名前・昇進時期の階級 | 昭和15年暮の役職 | 開戦時の役職 | 山本五十六戦死時の役職 | 備考 |
| 伏見宮博恭王大将 | 元帥,軍令部総長 | 辞職,無し | 無し | |
| 大角峯生大将 | 軍事参議官 | 故人 | 故人 | 海兵26期 |
| 永野修身大将 | 軍事参議官 | 軍令部総長 | 軍令部総長 | |
| 百武源吾大将 | 軍事参議官 | 軍事参議官 | 予備役 | 海兵30期 |
| 加藤隆義大将 | 軍事参議官 | 軍事参議官 | 軍事参議官 | |
| 長谷川清大将 | 台湾総督 | 台湾総督 | 台湾総督 | |
| 及川古志郎大将 | 海軍大臣 | 軍事参議官 | 軍事参議官・海軍大学校長 | |
| 塩沢幸一大将 | 横須賀鎮守府長官 | 軍事参議官 | 軍事参議官 | |
| 吉田善吾大将 | 軍事参議官 | 軍事参議官 | 支那方面艦隊司令長官 | |
| 山本五十六大将 | 連合艦隊司令長官 | 連合艦隊司令長官 | 連合艦隊司令長官 | |
| 嶋田繁太郎大将 | 支那方面艦隊司令長官 | 海軍大臣 | 海軍大臣 | |
| 豊田貞次郎中将 | 海軍次官 | 予備役 | 予備役 | 海兵33期 |
| 豊田副武中将 | 艦政本部長 | 大将 呉鎮守府長官 | 軍事参議官 | 海兵33期 |
| 古賀峯一中将 | 第二艦隊司令長官 | 支那方面艦隊司令長官 | 大将 横須賀鎮守府長官 |
上記の内,影の薄い人々(笑)について説明すると…
百武源吾大将は開戦時にも軍事参議官で,昭和17年7月予備役になった.
この人は,どちらかと言えば「条約派」で,対米戦争には絶対反対,軍事参議官の会合でも対米戦争反対を主張したので,煙たがられてクビになったと思われ・・・
実兄に有名な百武三郎大将が居たので,その影に隠れて目立たず.
ただ,源吾さんより三郎さんが有名なのか?と言われたら,侍従長候補に三郎さんの名が出た直後に,昭和天皇が「誰?それ」と聞き返したというエピソードもありますしね….
豊田貞次郎中将(海兵33期,同じ海兵33期の豊田副武よりも序列は上)は昭和16年4月,大将昇進と共に予備役になって政界に転出,商工大臣とか外務大臣を歴任し,開戦時には日鉄社長,五十六サン戦死時には内閣顧問だった.
豊田貞次郎大将も,同期にもう一人居た豊田(副武)の方がキャラクター性が強かった為か目立っており,貞次郎サンはいまいち目立たず.
大角峯生大将(海兵26期)は昭和16年,中国大陸に視察に行き,飛行機が墜落し殉職した.
この人は,以前に海軍大臣を勤めていた時に,軍令部の権限拡大を受け入れ,いわゆる「条約派」と呼ばれる人達を大量にクビにした.その中には,山本五十六の親友・堀悌吉中将も居た.
バリバリの「艦隊派」というわけでも無かったようだが,「八方美人」などと陰口を叩かれるくらいの人で,軍令部に最後まで頑強に抵抗するだけの度量は無かった.
余談だが,漫画家・魔夜峰央の「峰央」は本名で,海軍提督に因む命名(白泉社「魔夜峰央の妖怪缶詰」より)だそうだから,その提督とは,この大角峯生のことだろう.
全員の名前を言えたら偉い

【質問】
日本海軍の人事は適材適所で行われていたでしょうか?
【回答】
行われていたとは考えにくい.
開戦の際の配備と想定される作戦内容と人事の関係.
配備
真珠湾=機動部隊(空母6,高速戦艦2が中心)
南方=南遣艦隊(軽巡2,水上機母艦2,潜水艦14など)※,
※マレー海戦時には,さらに高速戦艦2,重巡5を指揮下に.
作戦内容
真珠湾=航空戦(地上基地及び所在不明の敵機動部隊)
南方=砲雷撃戦(戦艦1巡洋戦艦1を中心とする英東洋艦隊)
人事
真珠湾 南雲中将(水雷専門)
南方 小沢中将(航空戦専門)
??????? これはなぜ?
水雷専門の南雲中将が航空作戦の指揮をとり,航空作戦の権威(と言われていた)小沢中将(右画像)が砲雷撃戦の指揮をとる?
これだけ考えても合点がいかない.適材適所とは程遠い.
もちろん,小澤治三郎氏も元々は「水雷専門」だった.
その彼が砲雷撃戦の指揮をとる.これ自体はは別にオカシイ事じゃない.
でも,他にもっと適していそうなポストがあり,そのポストには,南遣艦隊司令長官のほうが適材と思える人物が就いている.
とうてい納得いかない.
以下のような辛辣な意見も,まま見られる.
その後の太平洋戦争の推移を見るにつれ,この人事ほど痛恨の残るものはあるまい.
南雲は明らかに航空機動部隊の指揮官としては不適材であった.
南雲はもともと有能ではあったのだが,なにせ航空機にはまったくの素人であったし,何より山本五十六のハワイ作戦に反対であったのである.
さらにスプルーアンスのように新しい分野をどんどん勉強していこう,という気概がもはやなかった.(南雲の好敵手となったスプルーアンスも航空機には門外漢であったが,彼には新しい分野,知らない分野をどんどん勉強しようという気概があったのである)
それでもまだ他に人がいなかった,というのなら納得できる.
しかし当時の日本海軍には小澤治三郎ないしはかなり年次は下るが山口多聞というニミッツ,スプルーアンスと対等にわたりあえる人材がいたことのである.
特に小澤の場合は南雲と一期しかちがわなかったし,当時の海軍関係者は誰もが航空機動部隊司令長官は生みの親でもある小澤がなると思っていたらしい.http://www7.plala.or.jp/machikun/essay2.htm
なぜこのようになったか.考えるまでもありません.「年功序列」です.
おいおい.
中田がペルージャからローマに移籍した時のことを考えてください.
トップ下から不慣れなボランチにポジションを移され,どれだけプレーに精彩を欠いたか.
いやあ,適材適所って大事なんですね.
日本海軍はけっして実力主義の組織ではありません(陸軍もですが.)
海軍兵学校何期卒.この年次によって序列が決まってしまいます.
同期の間でも,ハンモックナンバーによっての序列はあります.
階級が一緒でもそれは同じ.
この序列を無視して,下のものが上のものを飛び越えることはありません.
なぜ水雷屋の南雲が機動部隊の司令官で,航空屋の小沢が水上打撃部隊の司令官か.単純に南雲の序列が上だった.そういうことです.
上で紹介したサイトは,次のように述べています.
もしアメリカ式能力人事が行われていたら,おそらく山本五十六でさえ連合艦隊司令長官をクビになっていたと思う.
(軍政に秀でていた山本五十六は海軍大臣になっただろう.彼の現場指揮官としての能力は後世疑問をもたれている.
彼を連合艦隊司令長官とした米内光政もまた人事に関しては軽率であった.
海軍の人事は,特に将官以上となると,適性などまったく考えずに,ひたすらハンモックナンバーのみで行われていたらしい.
適性に疑問があっても,よい参謀をつけておけばそれで事足りると考えていたのである.
平時ではそれでよいが,戦時では困る)
そして小澤治三郎連合艦隊司令長官,山口多聞航空機動部隊司令長官,という人事ができあがっていただろう.
これが当時の日本海軍最高の人事である.
http://www7.plala.or.jp/machikun/essay2.htm
ん? でもこれ,今でもどこかで聞くなあ.
「俺は水雷屋だから,航空のことは分からん」
南雲は常常こう言っていたと伝わっています.
その南雲中将に,例えば二次攻撃を行わなかっただの,重要施設を叩かなかっただの,索敵をきちんと行わなかった,だのと難癖つけるのはお門違い.
確かにそうかもしれないが,責められるべきはそのような人事を行ってしまった海軍全体のシステムのはず.
目の前の敵,戦艦に果敢に突撃し,魚雷を叩き込むことに情熱を注いでいた人間にそんなこと言ったって.
文学部の人間に,相対性理論を尋ねても.
これに僕は,当時の人間がいかに言い訳がましいか,無責任かを感じます.
死んだ南雲中将一人に責任を押し付けて,自分達の責任は知らぬ顔の半兵衛.
ここの所をよく理解しないと,真の失敗は見えてきません.
【質問】
海軍軍令部総長の伏見宮殿下は,かなり悪評高い人物だったということで,嫌われているようですが,本当でしょうか?
【回答】
簡単に言えば,皇族の立場を利用して軍令部を専横し,海軍大臣の権限の多くを軍令部総長の権限にしてしまった.
おかげで,海軍大臣を含む人事権を軍令部総長が掌握することになり,結果,軍令部の独走によって対米強硬派が海軍の主流を占めるに至る.
実に老害としか言いようがない.
【質問】
当時のアメリカ人が,山本五十六について驚いたこととは?
【回答】
「日本人は,一郎,二郎というように,子供が生まれた順番に数字を付けて名前を授ける」
と聞いていたアメリカ人が,山本五十六の名前を聞いて驚愕した.
さらに,その名前が生まれた順番ではないと知ってホッとしたつかの間,父親が56歳のときに生まれたので名付けられたと知って,またもや驚愕.
【質問】
豊田貞次郎には,山本さんは後継者として気にかけてたのでは?
山本さんがGF長官を辞めたがってた頃,後任に嶋田さんか古賀さんを希望しつつも機会があれば両豊田もいいね,と参謀に話したらしい.
元帥宮にオイタして広工廠に飛ばされた貞次郎さんですが,それを機会に航空本部長まで這い上がってきたトンボ屋ですから,山本さんはきっと鉄砲屋の古賀さんや副武さんとは違った期待感を持ってたと思いますよ.
【回答】
「後任に嶋田さんか古賀さんを希望しつつも〜」
というのは,五十六サンが海軍大臣・及川古志郎に宛てた手紙の中で書いていたコトだよ.
ちなみに,五十六サンが海軍次官だった頃,当時,佐世保鎮守府長官だった貞次郎サンを後任の海軍次官に,という話が出たんだが,貞次郎サンは断った.
その時,貞次郎サンは,五十六サンに宛てて
「自分が今現在,親補職に有るので,海軍次官になるのが嫌であるなどとは,どうか思わないで下さい」
などという手紙を送っている.
(註:鎮守府長官は親補職(形式上,天皇が任命するポスト)だが,海軍次官は親補職ではない)
これを読んだ五十六サン,カチンと来たらしく,井上成美軍務局長に
「オイ,豊田貞次郎が,こんな手紙を寄越したぞ」
と言って手紙を見せ,
「豊田貞次郎というのは,こういうヤツなんだ,よく覚えておけ」
と言った.
その後,五十六サンはGF長官になったが,昭和15年末になると,交代の話も出てきた.
GF長官は「平時でも2年が限界」と言われ,この時点で,就任から1年経った五十六サンには,当然の事ながら,交代の話が出た.
そんなある日,航空本部長・井上成美中将が五十六サンを訪ねた.
五十六サンは開口一番
「こないだ,豊田貞次郎(海軍次官)に会ったが,これが海軍次官か?と思うような世間話しかしなかった」
と,軽く貞次郎サンを叩いたあと,
「ところで井上君,GF長官の件だが,僕は,米内サンに現役復帰してもらってGF長官になり,僕は,1F長官専門(註:当時,GF長官と1F長官は兼任だった)になるのが良いと思うんだが,どうだろうね?」
と聞いた.それに対して井上サンは
「それは疑問が有りますね.
だってそれじゃ,現役の海軍大将全員ロクデナシ,という烙印を押すことになりますよ.
私が海軍大臣だったら,そんな人事はやりませんね」
と反論,
さすがの五十六サンも,その場は引き下がった.
だがそれでも五十六サンは,「米内光政GF長官」の考えを諦めきれなかった.
というわけで,どう見ても,貞次郎サンを「後継者として気にかけて」「期待感を持ってた」とは思えないんだがねえ・・・(笑)
及川大臣に送った手紙は,あくまでも,
「後任を選ぶのなら,序列から言って,こんな人達が居ますね」
といった程度の意味だ.いわば「建前」「社交辞令」に過ぎないんだよ.
五十六サンはね,及川古志郎とか嶋田繁太郎とかに宛てた手紙では,必ずしも「本音」を書いていないんだよ.だって,五十六サンは,この二人を信用していなかったからね.
及川古志郎が,日独伊三国同盟締結に同意した時,五十六サンに
「勘弁してくれ」
と言ったら,
「勘弁で済むか!!」
と怒鳴ったエピソードくらい知っているよね.
あと,嶋田繁太郎は同期生だが,彼に対する五十六サンの評価は
「巧言令色の輩」
「おめでたいヤツ」
というものだった.
そこのところを注意して資料を見ないといけない.
【質問】
よく山本五十六がフリーメイソンだったという説を見かけるのですが,本当でしょうか?
ヨッチ
【回答】
それはヤコブ・モルガンや大田竜が唱えている大嘘.
山本五十六がアメリカに内通していたので,日本は太平洋戦争が負け,しかも山本は戦死していなくて,アメリカで生活していた,というヨタ.
ちなみにヤコブも太田も,反ユダヤ主義の本を沢山書いている.⇒ヤコブの本の内容
【質問】
キング米海軍提督は性格破綻者だったってホント?
【回答】
ホント.
第二次大戦中の米海軍制服組のトップ.ニミッツの上司.
操艦の名手で,モットーは「即時実行」「厳格公正」「全てを100%に」
合衆国艦隊司令長官と海軍作戦部長をかねたのは歴史上彼ひとりだけ.
第二次大戦中,文字通りアメリカ海軍のドンとして君臨した.
「海軍士官としての能力は人格以外すべて完璧」とまで言われた完全な性格破綻者で,ニックネームは「ニトログリセリン」「ドライアイスの剣」
艦隊の指揮からデスクワーク,戦闘機操縦,政治家との折衝まですべてにおいて超一流の実績を残したが,性格は酷薄無情.
共産主義者・有色人種──と言うか自分以外を蔑視していることを隠しもしない歩く舌禍.
その上,酒と女,ギャンブルはつきもので,戦争指揮の傍らですら良くシケこんでた.
当時の米陸海軍の将帥たちいわく,
「キングと比べれば,マッカーサーなんてハイスクールの生徒だ」
スプルーアンスやハルゼーなど米海軍の将帥のうち,戦時向きな連中を見つけては引っ張り上げてたが,その反面,失敗した部下や気に入らない部下はバンバン切り捨てた為,周囲の人間からは滅茶苦茶に嫌われ,退役の際は慰留すらされず追い出された.
後,脳溢血で倒れ,晩年はベセスダ海軍病院で10年あまり寝たきりのまま病床で孤独死.
……戦時とは言え,こんな人が事実上全軍の指揮をとっちまうのがアメリカン・クオリティ.
WW2時の各国の将帥は皆,下手な小説よりキャラが立ってる気がする.
このキングあたりなんか,小説で出されたら「絶対こんな奴いねぇよ」って感じ.
【質問】
大東亜戦争のとき,ハルゼーが「もっと猿肉を作れ!」と人種差別まがいのアジテーションをしたってホント?
【回答】
「猿肉」は知らんが,ハルゼーの人種差別は有名でしょ.
ハルゼーは,映画「レッドオクトーバーを追え」ではS・コネリーに無能な提督と言われてたが,露骨な人種差別のせいで現代では評価を落しているのかも.
他にも色々書かれているハルゼー.
"Halsey was not an intellectual. His official reports were written in commonplace language.
His speeches and private correspondence reveal that he often thought in cliches, that his vocabulary was narrow and that he had difficulty with syntax.
His letters confirm his contempt for the Japanese in locker-room jargon . . . "
"Halsey had the knack of appointing extremely intelligent officers to his staff, on whom he relied for decision- making. On only rare occasions did he overrule them. 'Admiral Halsey's strongest point,' wrote a staff officer, 'was his superb leadership. While always the true professional and exacting professional performance from all subordinates, he had a charismatic effect on them which was like being touched by a a magic wand. Anyone so touched was determined to excel."
[From "Fleet Admiral William F. Halsey Jr" by James E. Merrill]
ただ,敵愾心を煽って戦意を高めるのは,戦時では寧ろ当たり前.
つーか,既に戦ってる相手に,「人種差別」も茄子の蔕もありゃしませんよ.
【質問】
機動部隊の定義を教えてください,
空母を主体とした艦隊と考えていたのですが,そうなると何が「機動」するのか分かりません
.
ひょっとしたら「空母や高速戦艦を主体とした高速打撃部隊」なのかなと思ったり.
【回答】
基本的には空母とその護衛艦からなる部隊.
「機動」の字は,空母の有する航空戦力(=高い機動力を有する戦力)を,その主たる戦闘手段としてる事による.
そうなったのは,日本海軍が艦隊の運用上主力部隊と分けて呼称するために「機動部隊」という言葉を使ったから.
ただ,広義には臨時に組まれた部隊や艦隊を指したりもする.
タスク・フォース=任務部隊と似たような意味だ,この場合は.
しかし米軍では,タスクフォースって語は水上打撃艦や
潜水艦のグループにも当てられてる.
ちなみに陸の場合は,ヘリやら車両やらを使う,その(搭載している部隊ではなく)機動部隊自身が高い機動力で動き回る.
ちなみにgoo国語辞書では
きどう-ぶたい 4 【機動部隊】
機動力の優れた部隊.
海戦では空母を中心に,巡洋艦・駆逐艦などで編制された航空戦を主任務とする高速艦隊をいい,陸戦では戦車や車両が十分に配備された部隊をいう.
だそうだ.
旧日本海軍の場合,空母を含まない部隊は,「前進部隊」とか「遊撃部隊」と呼んでおりましたな.
【質問】
機動部隊は「空母を中心として作戦ごとに臨時に編制し,作戦が終わればすぐ解体された」ってホント?
【回答】
1942年7月までは,日本海軍には常設機動部隊が無く,空母だけの第一航空艦隊に,第一,第二艦隊から借りてきた高速戦艦や重巡,水雷戦隊を組み合わせた「臨時編制」の「機動部隊」で作戦行動を行っておりました.
(ただし,1942年5月,一航艦専属の護衛駆逐戦隊として第十戦隊を新設)
これでは具合が悪いと言う事が分かったので,1942年7月に残存空母戦隊と第一,第二艦隊から引き抜いた高速戦艦&重巡戦隊をもって,常設の空母機動部隊である第三艦隊が新設されました.
以後,日本の空母群は,基本的に,この第三艦隊で作戦しておりますね.
さらに1944年3月に,戦艦や重巡を全て集めた「第一機動艦隊」が新設され,事実上,連合艦隊の機動水上戦力は,全て空母中心の艦隊となりました.
こうすれば,第一機動艦隊所属艦であれば,柔軟な戦時編制が出来るわけですね.
だが,遅きに失した・・・・・
【質問】
艦隊と戦隊の違いって何なんですか?
【回答】
艦隊は紺碧,戦隊は五人組(違
日本海軍だと
隊:軍艦未満の諸艦艇をまとめて軍艦相当にしたもの(駆逐隊,潜水隊など)
戦隊:複数の軍艦や隊をまとめたもの(水雷戦隊,航空戦隊,番号戦隊など)
艦隊:複数の戦隊をまとめたもの,常設と臨時編成とあり(番号艦隊,南遣艦隊など)
連合艦隊:複数の艦隊をまとめたもの.五十六タソの玩具(笑)
【質問】
日本海軍の鎮守府制についてご教授ねがいます。
【回答】
明治9年に海軍職制章程を制定し、東海・西海鎮守府を設置しました。防衛海域と召集区域を明確化する目的で設置。
それぞれの鎮守府に必要な艦艇を置き、それに必要な兵員を招集・養成して搭乗させ,常備艦隊に必要な艦艇を貸し出すものです。
16年頃から陸軍が沿岸防御の強化を唱え始め、5個海軍区への拡大を図ります。
19年に海軍条例が制定され、5個海軍区が確立します。
第1海軍区は太平洋東岸を担当、鎮守府は既存の横須賀
第2海軍区は太平洋南岸・周防灘を担当、鎮守府は呉として22年に開庁
第3海軍区は九州沿岸を担当、鎮守府は佐世保として22年に開庁
第4海軍区は日本海を担当、鎮守府は舞鶴として34年に開庁
第5海軍区は北海道を担当、鎮守府候補地は室蘭が挙がったものの撤回
それぞれの鎮守府が独自に工廠・補給所・採炭所を持ち、自活できるようになっています。
もちろん,鎮守府の垣根を越えて編制される艦隊には、どの鎮守府も支援をします。
鷂 ◆Kr61cmWkkQ in 軍事板
【質問】
日本海軍で,「艦隊」と「鎮守府」はどういう関係なのでしょうか?
第1艦隊は横須賀鎮守府に属するとかそういう関係なのですか?
【回答】
鎮守府は海軍の艦艇・航空機・地上部隊・乗組員をすべて管轄しています.
艦隊は軍令部の要求に応じて,鎮守府から必要なものを選抜して編制されます.
たとえば,第1航空艦隊の赤城と蒼龍は横須賀,加賀と飛龍は佐世保,翔鶴と瑞鶴は呉の備品.
ただし,いったん艦隊に預けたからには,船の運用について鎮守府長官は南雲さんに横槍を入れられません.
逆に,翔鶴と瑞鶴を一刻も早く現場復帰させよと南雲さんが意見しても,呉鎮長官は無視できます.
艦隊と鎮守府の交渉はすべて軍令部が間に入って行うもので,どちらも上下関係はありません.
なお,鎮守府も艦隊に貸し出していない沿岸警備用の武力を装備しています.
特攻兵器で編制した特攻戦隊とか,敷設艇や水雷艇からなる防備戦隊とか,水偵だけじゃなく艦爆や艦攻も保有する各地の内戦航空隊とか….
特に強力なのは呉防備戦隊で,海上護衛隊が編制されるまで船団護衛を担当していましたし,
編制後もすべての海防艦はこの部隊に組み込まれて慣熟訓練を行った後に実戦配備されてます.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ
鎮守府に属する下部組織には,以下がありました.
・人事部
海軍志願者・召集者の配置や移動,予備員の採用,軍人軍属の扶助や軍事普及を担当.
横須賀・呉・佐世保・舞鶴の各鎮守府,大湊・鎮海・大阪の各警備府に設置.
昭和12年以降に23都市に設置された「地方人事部」とは違い,「横須賀人事部」のように称する.
・経理部
鎮守府の物品の購買,火薬廠と燃料廠の作業会計および工廠資金を除く鎮守府の会計経理,監査を担当.
これも徳山・馬公を除くすべての鎮守府・要港部・警備府に置かれた.
・軍需部
需品・燃料・兵器・被服・糧食の保管と研究を行う.
横須賀軍需部長は主計科,呉軍需部長は兵科,佐世保軍需部長は機関科の少将が大半を占めている.
・建築部,施設部
大はドックや埠頭,小は機銃座や掩体壕まで,鎮守府の施設設備の計画.設計,施工,維持を担当.
昭和16年に海軍建築部が外局の施設本部に拡張してから施設部に改称,施設本部の管理指導を受けた.
・軍港部,港務部
港の警備や民間船の監視,浚渫や浮標設営など航路維持,係留や出入渠の計画,救難・防火・検疫など
かなり現在の保安庁に似た性格のセクションで,明治期は軍港部長が民間航路を管理する知港事を兼任.
当初は警備軍港司令部の職分だったが,明治30年に軍港部として独立.
33年,港務部に改称.
・予備艦部,艦船部
鎮守府が管轄する艦船のうち,艦隊にレンタルしていない軍港残存艦船(予備艦)を管理.
明治41年〜大正3年まで海軍区防衛のために予備艦隊が編制された際,管理のみを担当するようになった.
・鎮守府艦隊,予備艦隊,水雷団(→隊),警備戦隊,防備戦隊
鎮守府本来の沿岸防御を行う水上・陸上部隊.
鎮守府艦隊は明治32〜33年に省令で設定されたものの日露戦争臨戦のために廃止.
予備艦隊は明治41年に設定され,大正2年に鎮守府艦隊に改称後,3年に廃止.
水雷団,水雷隊は水雷艇・駆逐艦・潜水艇で編制する攻撃部と,敷設艇で編制する敷設部からなり大正3年に廃止.
警備戦隊は昭和8年,防備戦隊は昭和9年に編制.内容は別項参照.
・海軍監獄/軍法会議
海軍刑法に基づき,裁判と収監をおこなう.
・海軍病院
傷病者の治療,死亡者の検死,防疫をおこなう.
軍港に併設する病院は,突発的な大事故や大量感染時に対応できるよう,常時空き病床を確保するよう定められる.
長期療養を要する結核患者や潜水艦任務従事者のために,遠隔地にも病院を確保している.
・海兵団
兵・下士官教育を行う施設で,教育カリキュラムは海軍大臣の指揮下で教育局が作成するが,維持管理は鎮守府の仕事.
・各種学校
士官教育学校は,大正12年に軍縮のために教育本部を解体した際,設置管区の鎮守府に維持管理を託すことになった.
ただし大学校・兵学校・機関学校・経理学校・軍医学校は海軍大臣直轄のため,教育局が直接管理.
横須賀鎮守府管轄:砲術学校(横須賀・館山),水雷学校,機雷→対潜学校,横須賀通信学校,航海学校,電測学校,工作学校(横須賀・沼津),工機学校
呉鎮守府管轄:潜水学校,防府通信学校
佐世保・舞鶴鎮守府には管轄学校はない.あえて挙げるなら佐世保管轄の魚雷艇訓練所がある.
・練習航空隊
海軍は飛行機教育の学校を設けず,部隊で直接教育する方針を採ったため,練習航空隊は鎮守府長官の指揮下にある.
第11・13・20連合航空隊=横須賀 第12・21連合航空隊=呉 第22連合航空隊=佐世保 第23連合航空隊=舞鶴
もうひとつ大阪警備府が第24連合航空隊を維持管理.
・海軍工廠
造船部時代は鎮守府の直轄組織だったが,工廠となってからは艦政本部の指揮に従いつつ鎮守府が維持管理するように変更.
横須賀所管=横須賀・多賀城・相模・高座・沼津・豊川・鈴鹿・津・第1火薬・第2火薬・第1燃料・第2燃料・第1衣糧
呉所管=呉・広・光・第3燃料・第2衣糧
佐世保所管=佐世保・川棚・第4燃料
舞鶴所管=舞鶴・第3火薬
【質問】
太平洋戦争頃の日本海軍について質問です.
駆逐艦が複数集まって編制するのが駆逐隊だとすると,海防艦や水雷艇や哨戒艇が複数集まって編制するのはそれぞれ,海防隊,水雷隊,哨戒隊ってことでいいんでしょうか?
あと,それぞれの隊司令は中佐くらいでしょうか?
【回答】
もちろんそうです.
・駆逐隊…おおむね駆逐艦4隻で1個駆逐隊.吹雪型は3隻で組んだことがあります.
・潜水隊…潜水艦3隻で1個潜水隊.
・水雷隊…水雷艇4隻で1個水雷隊ですが,17年春には3個水雷隊を全部解散してます.
・掃海隊…掃海艇(または特設掃海艇)3〜6隻で1個掃海隊.
・駆潜隊…駆潜艇3隻,または特設駆潜艇2隻+特設捕獲網艇1隻で1個駆潜隊.
・砲艦隊…19年に砲艦を軍艦から艦艇に格下げして編制しました.2隻で1個砲艦隊.
特設砲艦3〜4隻で組む砲艦隊は日華事変から編制されてます.
・海防隊…19年7月に初めて結成し,3〜4隻で1個海防隊.終戦まで8個海防隊しか編制してません.
哨戒艇で組んだ哨戒隊,てのは当初なかった気がします.
太平洋戦争開戦に備えて,三陸沖海上に「特設監視艇」を並べて敵襲を調べる部隊を「第1哨戒隊」と称しましたが,17年には「監視艇隊」に改称していますし,徴用漁船が減った末期に,海軍が自前で調達した特設哨戒艇をその任務に当てはしましたが,その時も「監視艇隊」のままでした.
階級のことですが,駆逐隊司令・潜水隊・航空隊司令は大佐が本務です.
末期には中佐司令も少々現れるようですが,平時なら「司令心得」扱いです.
それ以下の海上部隊司令は中佐が多いみたい.
陸戦隊・警備隊・通信隊など地上部隊の司令に少佐という例もありますが,それなりの大部隊は中大佐が司令です.
鷂◆Kr61cmWkkQ
【質問】
旧日本海軍の組織・編成について調べていたのですが,鎮守府の下に防備戦隊,警備戦隊,防備隊,警備隊といった部隊がありました.
これらはどのような部隊だったのでしょうか?
【回答】
防備戦隊は,各鎮守府が担当する重要海面(海峡,島嶼など)の防禦と機雷戦に当たる部隊で,海防艦の様な護衛艦艇や敷設艦,敷設艇などの機雷戦艦艇を基幹にして,特設掃海艇や特設駆潜艇などの徴用艦船で編成されていました.
大抵は,重要海面に機雷を敷設することが主な任務です.
防備隊は,重要海面並びに重要島嶼に設置された防備戦隊の根拠地であり,当該地域の防禦任務に当たっていました.
また,その他に特修兵の教育任務も持っています.
警備戦隊は,各鎮守府が担当する重要海面の警備を担当する部隊で,或程度の戦力を有していました.
警備隊は,それらとは異なります.
太平洋戦争末期の1944年,各鎮守府所管の各術科学校を戦力化して本土決戦に備えるものとして,発足したのが陸上警備隊です.
1945年には海兵団が警備隊と名称変更されています.
海兵団は鎮守府所属で,軍港の航空機に依らない空中防禦,陸上防火を掌り,また補欠員を
統括し,新兵の教育に当たる任務に就いていましたが,本土決戦に際しての戦力不足によって,警備隊に格上げされたものです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
なぜ軍艦の艦長や提督は,沈没する艦と運命を共にしたんですか?
【回答】
責任者は一番最後に退艦するのが義務.
だから沈むのが早いと一緒にブクブク.
それがどこをどう間違ったのか,艦喪失の引責自決も兼ねるようになったのが帝国海軍クォリティ.
ま,帝国海軍だけじゃないけどね.
ただ,生還した人だってけっこう居る.
その後どうなったかは,ケースバイケース.一概に,全員がクビになったとか左遷されたわけでも無い.
代表的な例を挙げると・・・
ミッドウェイ海戦で沈んだ赤城艦長青木大佐は,予備役になったあと召集,僻地の航空隊司令を勤めた.
ソロモン沖で沈んだ戦艦比叡,霧島の艦長は,二人とも生還したが,比叡艦長西田大佐は,予備役になったあと召集され,アモイ駐留武官に「左遷」された.
一方,霧島艦長岩淵大佐は,海上勤務は解かれたが後に少将に昇進,昭和20年,マニラで戦死.
かのマリアナ沖海戦で沈んだ空母大鳳艦長菊池朝三大佐は,生きて帰ったけど,少将に昇進して翌年,連合艦隊参謀副長になっている.
昭和20年に第五航空艦隊参謀長を勤めた横井俊之少将も,マリアナ沖で沈んだ飛鷹の艦長だった.
あと,駆逐艦長の吉川l潔少将(戦死時中佐)なんかは,
「艦は3年あれば作れるが,艦長を作るのには10年以上掛かる」
と言って,何度も生還している.
【質問】
海軍兵学校は卒業後,席次順に昇進するそうですが主席や次席の場合,佐官まで昇進するのにどのくらいかかるんでしょうか?
【回答】
昇進までの期間は,例えば海兵45期生(1917年卒業)の場合,こんな感じです.
(海兵を優等で卒業した人) (普通の成績で海大に進学した人) (海兵後航空畑に進んだ人) (海兵の成績が良くなかった人)
1918年 少尉任官 少尉任官 少尉任官 少尉任官
1920年 中尉任官 中尉任官 中尉任官 中尉任官
1923年 大尉任官 大尉任官 航空術学生卒 大尉任官
1924年 砲術学校高等科卒 大尉任官
1927年 海大(甲種)入学
1929年 同卒業 少佐任官 海大(甲種)入学 少佐任官 少佐任官
1930年 少佐任官
1931年 同卒業
1933年 中佐任官
1935年 中佐任官 中佐任官 待命・予備役編入
1938年 大佐任官
1939年 大佐任官
1940年 大佐任官
1941年 召集
1943年 少将任官 中佐任官
なお,海軍に於ては進級の際,「考課表」というものがあり,佐官〜一等兵まで,一人一葉の甲表と部下全員の比較をする乙表がありました.
これは年一回書かなければならないもので,将校のものは調整官の手を経て最終的に海軍大臣まで進達されます.
准士官以上の主な記入項目はは,
・本人告白(家庭事情,
・自己研鑽の内容,
・体力(身体の状態),
・職務上の希望,
・特に告白するべき事象(断酒など))
・対上所見
(家庭事情の考察,自己研鑽の所見,体力評価,職務上の希望についての所見),
学術技能の所見(他人に比較して明らかに優位にある場合に記述)
本人の長所,
研究心努力素質将来見込,
褒賞,
外国語の力量,
気質,
欲望(飲食欲,性欲,休憩欲,労働欲,生命欲,智識欲,所有欲,幸福欲,社交欲,名誉欲,秩序欲),
趣味及び感情,
操行(道徳的理想,行為),
態度動作及び言語,
注意力,
記憶力,
想像力,
判断力,
作業力,
最適の職)
・調整官及閲歴諸官所見
対上所見については,大体この様なことを書くと言うことで,あくまでも目安に過ぎません.
調整官の所見も同様で,被考課者の総てについて知悉し,しかも豊富な表現力,語彙力がないと作成出来ません.
ちなみに調整官は,艦船では士官以上と候補生が副長,下士官兵は分隊長で,高等官以外所見を書くことは許されていません.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
旧海軍で「准士官」っていう階級がありますよね?
あれ,なんでわざわざ兵曹長だけを別扱いしたんですか?
古参の軍曹も兵曹長もバリバリの叩き上げであることに違いはないのに,固有の呼称まで変えるのには納得がいきません.
また,「准士官」と「下士官」あるいは「准士官」と「下級士官」の間の待遇の差はどんなものがあったのでしょうか?
【回答】
准士官の官階名である「兵曹長」というのは,1920年以前の特務士官の名称であり,少尉相当.
その時は准士官は「上等兵曹」となっていました.
その後,兵曹長が准士官の名称となり,下士官の最高職階は上等兵曹となります.
特務士官とは,下士官出身の士官のことで,これを定めることで,年齢に相応しい高い棒給を支給したり,退職年齢を定めることが出来,反面,一般の士官より明らかに格の低い差別的位置づけを為し,例えば,名称も1942年までは「特務」が付き,昇進も尉官(後に少佐まで進級可能)となっています.
准士官もこれに準じ,退職年齢が設定されてしまいます(定限年齢は48歳).
士官(または士官相当官)は奏任官であり,一応,高等官になります.
准士官との待遇の差は,官階がまず違いますし,これによって,棒給にも差が出ます.
当然,年金も大きく違ってきます.
例えば,特務少尉の最低号棒は,1943年度で,1,368円/年,これに対し,准士官は,最高号棒では,1,330円/年(最低号棒なら,930円/年)になります.
また,学歴によっても昇進速度に差が出てきます.
例えば,予科練の場合,甲種は中学校3年〜4年修了者から採用し,16歳で入隊後,23歳で特務士官になりますが,乙種は高等小学校卒業者から採用し,15歳で入隊後,特務士官になれるのは29歳になります.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
「あまり成績のよくない海兵出の士官」さんは37〜8歳で予備役編入になるようなのですが,このような人たちはその後どうなるのでしょうか?
【回答】
予備役編入の前に「待命」というのがありますが,これは俸給払うけど,職がないよと言う状態です.一種の窓際族.
大抵の士官はこの間に就職活動をして次の職場を決めます.
しかし,痩せても枯れても士官になっているのですから,そこらの兵や下士官と違って一種の学士みたいなものですので,大正期の大規模軍縮とか昭和初期の恐慌の時以外は比較的職場には恵まれています.
技術系士官なんかだと,造船所関係に勤務とか,兵科でも海運関係とか其の他色々あります.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
日本海軍の士官のうち,
兵科・機関科士官→将校
その他の科の士官→将校相当官
特務士官→将校でも相当官でもない
という事は分かったのですが,商船学校出身の予備士官や予備学生出身の士官は,どのような扱いだったのでしょうか?
【回答】
高等商船学校を卒業して船員免状を取得すれば,好むと好まざるとに関わらず,海軍予備将校となります.
高等商船学校に入校すると同時に,海軍予備生徒として海軍生徒に準じた扱いになり,卒業後,海軍砲術学校で半年の教育,商船実務練習2年半の後,航海科の生徒は海軍予備少尉,機関科は海軍予備機関少尉になります.
後に,水産講習所,水産専門学校遠洋漁業科卒も同じ扱いとなりました.
なので,これらの科では将校扱い.
予備学生は,大学,大学予科,高等学校,専門学校卒業生から採用し,採用後1年の部隊または諸学校での教育の後,海軍予備少尉に任命されますが,航海,機関少尉には任命されず,兵科将校の扱いとなります.
予備役の将校担当官は,その制度がありません.
但し,軍医科,薬剤科,後に,主計科,技術科には,それに準じる現役士官制度があります.
これは,大学,専門学校卒業生から採用し,2年間の現役を経て,予備役に編入されます.
とは言え,彼等の扱いは,予備役でも海軍軍医少尉など現役の名称と同様に呼ばれることになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
海軍予備員は大佐までしか昇進できず,実際に大佐までなった人はいないそうですが,これはなぜでしょうか?
【回答】
まず,軍隊も官僚組織なので,将官に進んでしまうと指揮命令系統とかその辺に影響を及ぼします.
また,中将,少将は勅任官,大将になれば親任官ですから,おいそれと昇進させる訳にはいきません.
その点,大佐までなら奏任官になる訳です.
任命のためには,親任官では天皇陛下ご臨席の下,公式令により官記に親署し,御璽をツし内閣総理大臣の副署が必要となり,官を免ずる場合も,御璽が必要になります.
勅任官でも,任命には御璽が必要です.
しかし,奏任官では,一覧表にして勅裁を経て任命するだけでよく,御璽も不要です.
海軍予備員で海軍予備大佐になる為には,商船の乗船年限と船員としての免状の取得状況に依りますが,その大佐になるのにも年齢制限(服務停限年齢,大佐,中佐の場合は55歳)がありますから,郵船や商船の一流船の船長で,よっぽど優秀な人で無い限り,その資格を満たすまでに服務停限年齢に引っ掛かってしまう訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
帝国陸軍は潜水艦や空母を持っていたそうですが,その乗組員はどうしたのですか?
陸軍の将兵が訓練をしたのですか,それとも海軍の人間を招いたり民間人の船員を徴用したのですか?
【回答】
将校20名と下士官・兵の50名が幹部基幹要員として,大竹の海軍潜水学校,呉の潜水学校分校で教育を受けています.
しかし,海軍で5年かけて行う教育を3ヶ月で何とかしろと言う要求だったので,海軍も苦慮しています.
その体系だった教育を受ける前,基幹将校6名は,民間の潜水艇で実地訓練を受けていました.
ちなみに,陸軍潜水輸送教育隊の隊員は航空科を除く,全兵科から選出され,三島で,甲板科と機関科に分かれて船舶兵教育を受けています.
彼らの中は当然,船舶の「せ」の字も知らない者も居たので,商船の船長や機関長を佐官待遇の陸軍嘱託にして,初等教育も行っています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
戦前に旧陸軍の輸送隊として暁部隊というものが存在したそうですが,これについて教えてください.
【回答】
そもそも暁というのは陸軍の船舶関連の部隊に付けられた通称号,本当の部隊名が敵にばれるといろいろと不都合があるので本当の部隊名の代わりに使われたあだ名みたいなものでして,船舶工兵第1連隊が暁第6170部隊,機動輸送第8中隊が暁第16732部隊,船舶輸送司令部戦闘司令所が暁第2940部隊といったふうに,それぞれの部隊を表す数字と組合して使われていました.
ややこしいことに,これらの部隊の殆どが「暁部隊」と略されており,一万トンを超える大型船舶を持ち,南洋で死線を潜り抜けたものや,100トンぐらい徴用漁船で本土近海の輸送任務についていたもの,沖縄で特攻艇の基地管理をしていたもの,広島で事務仕事をしているものなど,いろんな暁部隊があります.
例えば,
「機動輸送中隊概史」
に出てくる機動輸送第8中隊は暁部隊です.
「海上機動旅団変遷史」
に名前だけ出てくる船舶工兵第1および第2連隊も暁部隊です.
◆◆◆教育機関
【質問】
旧日本軍の幼年学校についてですが、陸軍幼年学校は結構検索にかかるのに,海軍幼年学校はあまり検索できません.
呉にあったらしいと言うのはわかったんですが、それ以外のことがよくわかりません.
どこか、詳しいサイトまたは資料があれば教えてください.
【回答】
古い本ですが、景山昇「海軍兵学校の教育」(1978年 第一法規出版)辺りが詳しい資料か、と。
で、海軍では、1945年に設立された海軍兵学校予科が,それに充たるかと思います。
それ以前は、15歳から19歳の間に行なう、海軍兵学校での教育が海軍の教育キャリア・パスの最初で、これには入学試験があり、中学校四年一学期修了程度で行ないます。
入学定員は大正期〜昭和初期までは130名程度、以後増加して、戦争末期には4000名まで拡大しています。
修了年限は明治期に2年10ヶ月〜4年1ヶ月、大正期は2年9ヶ月〜3年3ヶ月、昭和6年入学までは3年8ヶ月、
昭和9年までは4年、以後、3年6ヶ月〜2年4ヶ月となっています。
創設は明治9年海軍操練所として設立され、海軍兵学寮を経て、明治9年に海軍兵学校となり、22年に広島県江田島に移転、昭和18年生徒急増の為、岩国に分校を設置、翌年江田島町内に大原分校が設置され、更に海軍機関学校を舞鶴分校としました。
先述の海軍兵学校予科は、中学生が学徒勤労動員で勉学する余裕が無く、また、陸軍幼年学校に人材を取られる不安から設置され、これは長崎県針尾島に作られています。
欧米では、陸軍幼年学校の様な教育機関は、米国に見られますし、旧ソ連でもあったやに記憶しています。
(眠い人 ◆gQikaJHtf2,
「海軍兵学校 海軍機関学校 海軍経理学校」水交会
「海軍兵学校沿革」中島親孝
「海軍オフィサー軍制物語」雨倉孝之,等)
【質問】
日本海軍について質問です.
海軍兵学校の校長はどのくらいの階級の人が任命されたのでしょうか?
また,海軍大学の学長にはどのくらいの階級の人が任命されたのでしょうか?
それと,海軍兵学校校長/海軍大学学長というのは,海軍の中でどれくらいの序列だったのでしょうか?
【回答】
海大・海兵のみならず各種学校長の一覧を,例のサイトからぺたりんこ…と.
http://homepage2.nifty.com/nishidah/ja05.htm
のちに大将・元帥になる人らが勢揃いしていますが,出世コースの面から見れば,何としても経験せねばならないポストではありません.
末期の海大校長を見ると,これから艦隊で大役を果たすことになる南雲さん・小沢さんのあとに,海相の大役を終えた及川さんや吉田さんも就任してますから.
海兵校長はだいたい,艦隊司令長官に就任できる程度の中将が任じられてます.
草鹿さんは11航艦長官に就く直前,
井上さんは第4艦隊司令長官をクビになってからの就任です.
後任の大川内さんは舞鎮長官,
小松さんは第6艦隊,栗田さんは第2艦隊を終えたばかり.
教育は重要な仕事ですが,軍令部総長や海相を目指す出世コースに必須のポストではありません.
鷂 ◆Kr61cmWkkQ in 軍事板
江田島海軍兵学校生徒館(現・海上自衛隊幹部候補生学校)

【質問】
海軍兵学校教官舞鶴分校(機関学校)について教えてください!
初心者サスケ
【回答】
舞鶴機関学校については,資料が少ないですが,舞鶴市・舞鶴市教育委員会編「舞鶴の近代化遺産」(2001年)に庁舎,生徒館の平面図が掲載されています.
ちなみに,機関学校については手元資料では,1927年6月に旧舞鶴兵団跡地を利用して建設決定,1930年に竣工.
校舎は本部,生徒館,大講堂,学術講堂,実験室など80棟余り.
その建築は,動的解析理論に基づく世界初の建築だそうで,鉄骨部材は呉工廠で建造中止となった軍艦用の資材を流用したものだそうです.
今は,自衛隊舞鶴地方総監部として使用され,大講堂は海軍記念館として修復されています.
海軍記念館は,事前申し込みが必要ですが,そちらにも幾らか資料があるはずです.
◆◆生活
【質問】
すいません,太平洋戦争中の日本海軍の軍艦の食堂施設について知りたいのですが.
大型艦の食堂の位置や,佐官,士官,下士官の食堂の利用,
毎日のメニューは献立みたいに決まっているのか?
炊事・調理は炊事班で良いのかといったことまで,殆ど解りません.
何か良い資料やサイトは無いでしょうか?
佐官と士官で食事を摂る場面を書くことになり,困っています.
【回答】
食事は烹炊室と呼ばれる調理場で行なわれる.
調理は蒸気熱使用なので,烹炊室は缶から近い場所にあった.
駆逐艦なら艦橋の一層下とかそういうところ.
大和は6基の巨大蒸気炊飯器で御飯を炊いた.
やはり巨大な冷蔵庫もある.
調理は主計科の兵士によって行われる.
主計兵の職務は帳面つけと給食係.
ちなみに作る係は士官向け専属とそれ以外に分かれていた.
板前なんかが主計科で徴兵されてきたら,真っ先に士官向け食事係にされた.
佐官と尉官,下士官と水兵は分からないけど,士官と兵士はメニューが異なっていた.
献立は決まっていた.
食事は日に4回作られるので,烹炊室の作業が止まる事は無かった.
旧海軍では兵用の食堂はなく,居住区画のハンモックやベットを片付けたスペースにテーブルを出し,そこで食事をとる.
士官は第一士官次室(ガンルーム)で食事を取る.
大尉以上は士官室,兵学校での中尉・少尉は第一士官次室,叩き上げの特務士官は第二士官次室,准士官は准士官室で食事をとった.
つまり士官でも,ちゃんとした士官(学生上がり含む)と,兵隊上がりの士官は部屋が別.
また,旗艦設備のある艦や大型艦では艦長や司令長官・参謀長クラスのための専用食堂があったという.
食器も下士官兵と士官では違うものが使われた.
また士官用の食器は和食用と洋食用の2種類があった.
下士官兵の食器は和洋の区別がなく,飯椀・汁椀・湯呑・中皿・小皿・箸だけ.
カレーなども箸で食べたらしい.
給食費については,下士官兵は食事支給.
士官は食費を給料に上乗せして支給.
その金を集めて材料購入した.
艦の運営とは別に士官全員の分をまとめて購入.
当然,冷蔵庫も別.
【質問】
海軍の食事内容はどんなものだったか?
【回答】
旧日本海軍の駆逐艦の献立は「簡単な和食」だったそうで.
「ルンガ沖夜戦」(半藤一利)によると、塩鮭・梅干・ご飯・じゃがいも・たまねぎ・醤油・味噌・漬物あたりが積まれていたらしい。
戦闘食はでっかいおにぎり2個で合計米2合だったとか、夜食や戦闘の合間にぼた餅が出たとか。
また,特型駆逐艦「雷」海戦記によると、夜食はお握りが多かったらしい.麦飯もしくは白米のお握りに、靴の底のような沢庵 干乾びて皮と種だけになった梅干.
あとはオジヤとかうどん(ガ島戦以降はどんぐりやフスマの混じったクソ不味い代用うどん).汁粉の時は乾パンも一緒に配食されたとか.
ご飯は軍隊では麦飯.これはビタミン欠乏症を予防するため、麦(麦芽)を混ぜたもの。
明治時代の軍隊食では白米を出していたが、脚気病になる兵士が続出したため、まず海軍で試しに麦飯にしたところ,脚気罹患率が激減。
日露戦争時でも白米を食べ続けた陸軍では、脚気で勤務不能状態になるばかりか、病死に至る兵士も少なくなかった。
ただし,太平洋戦争では、逆に白米がスタンダードになったようだ。南方のような高温多湿の環境では、精白しきっていない玄米だと穀象虫が大量発生して食用に耐えなかったとか・・・。
巡洋艦未満の小型艦では,艦長を含む士官と曹兵が同じメニューを食べていたと言う。
狭い艦内に戦艦や巡洋艦と比べると少人数で居住しているため、食い物で差別をすると士気に影響したとか。
NF文庫「特型駆逐艦雷」によれば,駆逐艦のような小型艦は、海が荒れてると猛烈にガブる.それでもちゃんと飯と味噌汁を炊き上げる主計兵は凄い.食う方も一苦労で、柱等を抱きかかえてないと食器もろとも反対側の壁まで吹っ飛ばされるそうな.
南方などで行動が長期に渡る場合、駆逐艦のような小型艦にとっては辛い.
生鮮野菜類は尽き(積み込むときのギンバイも原因),煮魚の煮汁も使いまわす.
毎日の飯のおかずは,
梅干のミイラ
腐ったような臭いのする煮魚
夜食は焦げ臭いオジヤ.
その上冷房も無いもんだから,将兵の疲労が溜まるのは当然.
水兵は新鮮な野菜に餓えていたので、水兵に野菜はこびをすると,タマネギなどその場でシャリシャリ食べながら作業して,周囲もそれを当然とみなしてなんも云わないそうな。
ちなみに物資の不足した戦争末期の前線の特攻基地では,
「明日、出撃する勇姿のためにごちそうしてやりたいので,味噌とタマネギを特別配給してください」
という泣ける話があったりする。
巡洋艦以上では,上述のように差があった.
帝国海軍の先生は階級社会イギリスだったので,士官食と兵食の差は、タイタニック号のメニューの落差と似たようなものだった。ただし准士官以上は現金給与(自費).
ノーベル書房刊「復刻 海軍主計兵調理術教科書」によれば
調理の種類
艦船部隊等における海軍軍人の食事は大体において准士官以上は現金給与(自費)、下士官兵は現品給与(公費)との区別があった。
准士官以上は階級によって食事の室を将官室、士官室、第一士官室、第二士官室、准士官室の五つに分け、室に応じ品数にしたがって食費を食卓係に渡し、主計兵あるいは割烹(調理人)をして、適宜材料を五室それぞれ買い入れ調理をなさしめる。
兵食すなわち下士官兵の食事は官の材料を用いて主計兵曹、主計兵調理を行い、その調理品は下士官中に定められたる食卓長に配給する。
また多数の食事を一時に作らなければならないため、自然簡単な調理を旨とし、和洋中、あるいはこの三つをかれこれ折衷した調理法が行われた。
という.
以下は戦艦「大和の」食事例
▼朝
味噌汁(玉葱・白菜・味噌)
付き合わせ(昆布・佃煮)
漬物(大根の新菜)
飯(米・麦)
▼昼
照り煮(ブリ)
煮豆(うずら豆)
澄まし汁(ブリ・玉葱・白菜)
飯(米・麦)
▼晩
ハムサラダ(ハム・馬鈴薯・人参・玉葱・グリンピース・ミカン缶)
ビーフシチュー(牛肉・馬鈴薯・人参・玉葱・白菜)
果物(林檎)
漬物(キャベツ)
飯(米・麦)
海軍では酒も士官と下士官兵とでは違う
士官は「賀茂鶴」
下士官兵は「千福」
日本海軍の士官の食事を見ていると、「フルコースの洋定食」なる表現が頻繁に出てくる.これはどちらかというと、フランス料理と言うよりは、洋食のコース。素材を生かしてシンプルに煮る、焼く、蒸す程度で調理した物。
限られた材料しかなく、便利な冷凍食品もないんだから、今想像できる物とはかなり違いがある。
前菜 スモークサーモン、鱈のサラド、
スープ 鶏の澄ましスープ
魚料理 虹鱒のムニエル
肉料理 ビーフステーキ
デザート 栗冷菓
戦局がだいぶ苦しくなってからも,士官はフルコースだの食事マナーだの言ってたことが,海軍批判の一つにあったりする。戦局が思わしくない頃、戦艦大和に招かれた辻ーん(辻政信)が絶句したほど.そのときの食事:黒塗りの膳に、鯛の刺身、鯛の塩焼き、冷えたビール。
まあ、マナーだのなんだとといっているのは、海軍というのは伝統的に、外国へ行って、寄港先でいろいろな付き合いをする機会が多いといったことがあるんだろうけが。
空母「赤城」の料理人は甘いものも得意だったそうで,夜食に出るお菓子は特に好評。おしるこ、みつまめ、ショートケーキ(!)、カステラ、おはぎ…….
ちなみに、積んでた砂糖が5トン。大型艦ならではの積載能力。
真珠湾攻撃から帰投中の赤城では,お祝い宴と御馳走ぶるまいで生鮮品をほぼ食い付くしてしまい、航海の後半、おかずは缶詰ばかりだったらしい。1ヵ月の行動期間では生鮮食料品はもたないから,さっさと食ってしまおうという判断もあったろうが.
「海軍食グルメ物語」によれば,給糧艦「間宮」は18000名分の食糧を三週間分搭載でき、艦内ではアイスクリームなどの各種お菓子が生産・販売されていた。
特に有名だったのが間宮羊羹と間宮最中であり、その味は虎屋をも凌ぐと言われたほどである。
生産能力もかなり高く、最中なら一日に六万個も生産できた。
また、艦内には真水の風呂・クリーニング請負・医療施設が設けられていたので、海軍の兵士たちは「間宮」の長い一本煙突を見ただけで歓声をあげて喜んだという。
ミッドウェー海戦時,攻撃に備える空母飛龍の戦闘食は大きなボタ餅。かぶりつく口の中に甘みがとろけたとか.
飛龍から脱出し漂流後捕虜となった機関科員の手記を読んだのだが、機関室から上部へと出る通路に積まれていた米と麦の袋が燃え上がり、行く手を阻まれたとか。
退艦命令直前、艦長命令で救出に赴いた連中もこの火災のおかげでたどりつけず。
あやうく主食に殺されかけたというお話.
マリアナだったかな、どっかの艦爆乗りが母艦に帰ってきて腹ごしらえしようとしたら、テーブルにぼた餅が載った皿が多数。誰も食わないのか?と思って,お茶を持ってきた従兵に聞くと,
「いえ、誰も帰ってこないんです……」
スリガオ海峡夜戦で大破した最上では、重傷者にみかんの缶詰を食わせて回った.
一口食わせて安心して意識不明になった者は放棄,「もっとくれ」と言った者はまだ大丈夫と判断したそうな.
【参照】
ttp://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_9.html
ttp://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_17.html
ttp://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_24.html
ttp://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_27.html
ttp://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_28.html
ttp://www.amitaj.or.jp/~shibata/book/book_30.html
【質問】
戦闘中の艦艇でも,食事係の人はご飯を作り続けるのでしょうか?
【回答】
『海軍めしたき物語』(高橋孟著,新潮文庫,1982.11)つー名品があるからそれを読みなさい
で,答えは基本的にイエスで,世界中どこの海軍でもそうらしい
戦闘食,っていうのがある(日本海軍の場合お握りと沢庵,それにお茶か味噌汁だったそうな)ので,戦闘中は炊事班も忙しい.
空母の炊事班は帰還して来た搭乗員の為に食事と特別食(大概お汁子だったとか)を作るので,とてつもなく忙しかったそうな.
また,大戦果が期待もしくは報告されてる場合は祝勝会の準備でてんやわんやだったとか・・・.
『海軍めしたき物語』に,ミッドウェイ戦の最中に外の倉庫に食材を取りに行かされて,炎上する赤城から人が海に落ちて行くのを見た,と言う話がある.
烹炊長



(うそ)
【質問】
日本艦にはラムネ,サイダーが積まれていたと聞いたが?
【回答】
ラムネ、サイダーは良く話に出てくるが、今のラムネやサイダーをイメージするとちょっと違う。理由は全然「冷たくない」のだ。なま暖かいラムネやサイダーを想像してみるが良い。
それでも渇いた喉には美味だそうだが。
伊168号がヨークタウンを撃沈し、駆逐艦を振り切って戦域を離脱した後、浮上して艦長が一息ついていたら、
「艦長、どうぞお飲みください」
と,乗組員がサイダーを持ってきた、という話があったな。

【質問】
トマト・ケチャップが海軍の軍需品だったと聞いたが?
【回答】
昭和6年に潜水艦航海糧食表と潜水艦航海食養価表が作られました。その後、数次の改正が行なわれ、昭和18年9月に改正された表に始めてトマトケチャップが登場します。
トマトケチャップが、いつから海軍で使われるようになったのかは、はっきりしません。愛知トマト(後のカゴメ、以後カゴメと呼びます)のケチャップ(ビン入り)は太平洋戦争開戦時にはそのほとんどの生産が軍納品で占められていました。
昭和17年秋頃には軍納品以外の製造は不可能になってしまい、昭和18年始めには海軍の監督工場に指定されます。軍納品は毎月、大湊、横須賀、大阪、呉、舞鶴、佐世保などの海軍の基地の軍需部を回って注文を貰い,その注文をまとめて海軍省に行き、ケチャップの製造に必要な砂糖、塩、酢酸クエン酸、香辛料のチケットを切って貰い、横須賀と羽田(第一衣糧廠)の海軍貯蔵庫で材料を受け取ります。
これらの材料は終戦まで不足したりすることはありませんでした。
戦争がたけなわになるまで、ケチャップはビールビンに詰めていました。しかしこれは重量があるうえ、かさばり,輸送効率が悪く、ビンも回収する事ができないため、カゴメに対し昭和16年、海軍軍需部より「固型ケチャップ」の開発が命ぜられました。当時は外国でも試みられていませんでした。
1ビンのケチャップを濃縮して煙草の箱より少し大きいぐらいのものに固めるものでした。戦前は当然、フリーズドライ(真空凍結乾燥)などありませんでしたから、加熱濃縮しか方法はありませんでした。ケチャップ中の糖分は加熱することによりキャラメル化し焦げ臭くなってきますし、食酢(酢酸)は揮発性を持っていますから加熱すると酸味が飛んでしまいます。
そこで加熱方法に工夫を加え,熱風乾燥で濃縮し、酢酸の代わりにクエン酸を使用し、昭和19年始め頃から生産に入りました。
製品はロウ紙で包んで密閉し、紙箱に入れて出荷されました。ロウ紙用のパラフィンや紙箱用の厚紙も海軍から支給されました。
固型ケチャップは将兵には好評だったようで、戦後、カゴメの関係者の友人だった潜水艦乗りは次のように語ったそうです。
「毎日毎日青海原ばかりながめて暮らしている海上勤務の将兵にとって、あの穏やかな赤い、さえた色は何とも温かく、そしてあの甘酸っぱい柔かな味は心にしみるようで、今も忘れられない。実際に溶かして食べるより、さいの目に切ったり、薄くスライスしたりして熱いご飯の上にのせて食べたが、非常にうまかった。あれを見ると、食欲がわいたものだ。」
終戦により固型ケチャップの生産は打ち切られました。
引用・参考文献
日本海軍食生活史話 瀬間 喬 昭和60年発行
カゴメ八十年史 昭和53年発行
【質問】
酒保に関連して・・・
人気商品の買占め行為のようなものはなかったのだろうか?
転売を前提にした,文字通り「独占」の状況を作り出せると思うんだが・・・
【回答】
買占めというか、班ごとに注文をとって係が買いに逝くので(海軍では)競争状態だったそうです.
ある者は酒保の付近に隠れていて、酒保開けと同時に並ぶとか(注文は相方が取って後から持ってくる).
中には物品運搬中の兵を薄暗い通路で殴り倒し、商品を奪うという事件も.
【質問】
戦前,海軍の保存用缶詰の物品にサザエなど海産物があるのか?
あるとしたらどういう料理に使われていたのか?
をお聞きしたいんですが.
【回答】
戦前〜戦中の軍用缶詰でポピュラーなのは鮭缶,鯖の味噌煮缶,鰯缶,鯨缶そして牛肉の大和煮缶.
他にもあったけど,基本的にはこの4種類のみと言っていい.
潜水艦乗員の副食に用いられたのがもっとも一般的.
あとは戦闘時の臨時食や宴会時のつまみに用いられた.
基本的に軍艦は極力炊事調理して食事を作るので,缶詰を鍋に開けて過熱調理する・・・ということはほとんどやってない.
戦闘食も可能な限り厨房で作った.
あと,アジア歴史資料センターで見てみたら,昭和2年の「第1遣外艦隊特務艦鳴戸任務報告」って資料の備品リストらしきものに「サザエの缶詰」ってあったよ.鰻の缶詰も出てる.
ちなみに戦前は,サザエは安い食材だった.
アワビは当時から高級食材だけど.
ウナギやフグは,今の感覚だと松阪牛なみの超高級品.
食い物は身近なだけに,時代背景に注意しないと思わぬ落とし穴にハマる.
522:名無し三等兵:2006/07/25(火)05:42:30ID:???
あぁ,船底の貝類,食いてぇ……
523:名無し三等兵:2006/07/25(火)06:37:51ID:???
船底に付着した貝類は,塗料に含まれる鉛毒に汚染されてるので,食ったら死ぬ.
【質問】
補給を絶たれた孤島での,日本海軍部隊の食糧事情はどうだったの?
【回答】
一例をあげると….
トラック島には当時大規模な海軍の冷蔵施設があって,これを民間に運営させており,ここに生糧品を備蓄して艦隊に補給を行っていました.
また,現地には鰹節製造工場があるほど当時は鰹が豊漁でした.
しかし,昭和19年のトラック大空襲以降補給船の入港は途絶え,いきおい自活に頼らざるを得なくなりました.
また鰹もだんだん取れなくなってきたため,現地の素性のわからない魚を捕って食べることになりました.
しかし南洋の魚には毒魚が多く,取れた魚は片っ端から,たまたま海軍省軍需局が出版していた毒魚図鑑と首っ引きで調べる羽目になったとか.
ちなみに内地でも,戦争の激化に伴い民間向けの燃料が配給されずに漁が出来なくなったため,各鎮守府で民間の漁船と契約して,燃料を支給する代わりに操業海面の監視をさせる特殊漁船と言う制度が出来ました.
監視のために無線機を支給し,漁獲があった場合は鎮守府の軍需部で直接買い上げました.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
旧日本海軍関連の書籍を読んでると、「酒保で銀バイ」というフレーズが出てくる事がありますが、銀バイって万引きの意味で解釈してて良かったですか?
【回答】
「銀バイ」というのは(主に食料を)黙って持ってくること。
確かに酒保は売店のようなものだから、酒保から銀バイしたら,それはいわゆる「万引き」だけど、銀バイは必ずしも酒保からのみやったわけではない。
また、必ずしも「銀バイ」するものは糧食とは限らず,マッチや煙草、蝋燭、手ぬぐいなどの日用品も「銀バイ」の対象だった。
さらには,艦艇で備品の銅製の洗面器を,他艦から銀バイしてくる強者もいた(銅の洗面器は高価な備品なので、無くすと無茶苦茶怒られる)という話が「海軍めしたき物語」に出てくる。
艦の備品なので,所属艦の名前が彫り込んであるのだが、銀バイされてきた洗面器は,上から削って横に自艦の名前が彫りなおしてあったとか。
ちなみに「銀バイ」の語源は「銀蝿」から。
蝿みたいに食べ物にたかる、という意味。
【質問】
駆逐艦くらいなら航海中,海水風呂入れるのかな?
【回答】
軍艦(巡洋艦以上)なら、士官は毎日真水のフロに入れたらしい。
それが駆逐艦だと週一回にまで激減する。
駆逐艦の場合,兵卒クラスだと、金だらい半分ぐらいの水が支給(?)され、タオルを濡らして体を拭き、顔を洗い、歯を磨いていたそうな。
軍艦の場合、甲板上にケンパスを張り,その中に沸かした海水を入れて入る.
高級士官は自室があるから,風呂も自分用.
渡辺鉄工(旧九州飛行機)の社長も,洗面器一杯の水で全身を洗うことを海軍時代に覚えたとか.
【質問】
日本海軍が,巡洋艦及び駆逐艦搭乗員に丸坊主を徹底していた理由は?
【回答】
酸素魚雷には髪の脂、それにフケが大敵だったため.
ある時、海軍関係者が何気にイギリス東洋艦隊の写真を見たら、駆逐艦搭乗員が全員頭を丸坊主にしていた。
「これまで特に頭髪規定が厳しくなかった英海軍が急に丸坊主を徹底・・・.は!! これはもしや!!」
と、緊急会議「英海軍が酸素魚雷の実用化に成功か?」が召集され、対策の検討と情報収集が行われることに。
暫く経って、単に英東洋艦隊に南方特有の寄生虫(ダニかなんかだったらしい)が大流行したので、その対策に髪を刈っただけ、ということが解かり,関係者は一安心。
かと思えば、英海軍が実際に酸素魚雷を実用化して、一時期ネルソン級戦艦に装備していたりする。(事故多発で廃止になったわけだが)
【質問】
旧日本海軍は平時、大体どんな日課で一日を過ごしていたのでしょうか?
また、どんな訓練を行っていたのでしょうか?
【回答】
具体的に何といわれないいと,漠然としか答えようがないです。
昭和の海軍には甲・乙の日課があり、甲は作業地に碇泊中・航海中で乙は休養や補給のために入港中のときのものでした。
これは軍艦例規に基づいて各艦ごとに内規を決めていたそうです。
ただし作業地では,往々にして日課とかけ離れた厳しい訓練が行われていました。
「軍艦例規」や「軍艦○○内規」といった資料に当たれば細部まで詳しくわかると思います。
海軍の一年度は前年12月1日〜その年の11月30日まででした。
12月から1月までは母港で本格的な訓練に備えての準備をします。
2月の初め艦隊の各艦が作業地に集結して一期目の訓練が始まります。
この時期は基礎訓練を繰り返します。
四月の終わりから5月の初めになると甲種戦技という単艦または戦隊ごとの一期目の訓練の総仕上げを行います。
そして艦隊は一旦解散して各艦は母港に帰り、休養と補給の後6月になると再び集結して二期目の訓練が始まります。
八月の終わりになると乙種戦技が始まります。
これは戦隊・艦隊単位でのの総合的な訓練でした。
こうした訓練を一期・二期それぞれ各地を巡航しながら行いました。
巡航が終わると年度末の演習があり、これが終わると研究会を開き,そのあと艦隊は解散して各艦は母港に帰り一年が終わります。
これ以外に一年に十回ほどの基本演習が随時行われ、数年に一度は青・赤軍に分かれて三ヶ月ぐらいかけてやるやる大演習がありました。
一期・二期を前期・後期とも言います。
【質問】
月月火水木金金 ってなんのこと?
【回答】
日曜日と土曜日が無いこと.要するに・・・休みなしって事だよ
比較的有名な軍歌も作られています.
♪朝だ夜明けだ 潮の息吹・・・.

【質問】
「五省」って何ですか?
【回答】
帝国海軍の士官養成学校「海軍兵学校」(江田島にありました)を卒業された方が常におっしゃるのが,「五省」についての話です.
「五省」とは,一日を終えるに当たって,就寝前に生徒がその日一日を振り返り,海軍将校に必要とされる「5つの徳性」の各項目を唱和,静かに目を閉じ,その日の自分の行動・思考と照らし合わせて己を見つめ直す,というものでした.
士官の卵たちは唱和・黙想するなかで,以下の5つのことを毎晩自分に問い掛けていました.
1.至誠にもとるなかりしか(誠の道から外れることはなかったか?)
1.言行に恥ずるなかりしか(言葉や行動の中で恥じる点はなかったか?)
1.気力に欠くるなかりしか(気力に欠けることはなかったか?)
1.努力に憾み(うらみ)なかりしか(十分努力しきったか?)
1.不精にわたるなかりしか(不精なことをしなかったか?)
毎日休むことなく自分の精神・魂の有り様をチェックする姿勢は大切と思います.
現在,江田島には海軍の幹部候補生学校や各種術科学校があります.
今でも江田島が海軍教育のメッカだという事実は,歴史のつながりを肌で感じさせてくれる嬉しいことですね.
ただし,普段から鍛えられていない奴がいきなり「五省」をやっても,鬱になるだけなので注意,注意.
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