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◆◆航空史
<◆航空関連
アジア・太平洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ

米空母で輸送中の捕獲零戦


◆◆◆黎明期


 【質問】
 日本海軍では初期の航空隊はどのような位置付けだったのか?

 【回答】
 観測手段⇒主力艦支援⇒「漸減」兵力⇒航空主兵・戦艦無用論噴出
という流れ.

 ワシントン条約締結後,海軍内では航空機の索敵・支援能力に特に注目を集めていた.
 主力艦の主砲の射程距離が3万m前後まで伸びた結果,主力艦にとっても航空機は欠くべからざる観測手段となったからである.
 海軍は航空行政を艦政本部の管轄から独立させる事を決定(航空兵科独立),1927年4月,海軍航空本部を設置した.

 1928年の「海戦要務令(第3改正)」では,航空隊は偵察以外にも,主力決戦時に先制を機して
「戦闘機隊を以て敵航空機を制圧しつつ,攻撃隊を以て敵艦隊を強襲する」
とされ,1928年4月,空母「鳳翔」「赤城」をもって第1航空戦隊を編成,連合艦隊に編入した.
 当時の航空部隊の運用は,戦術的には攻撃的な面もあるが,基本的には,戦艦からなる主力部隊を支援するという補助的なもの,あるいは敵艦隊の行動を撹乱するためのものであったと言える.

 また,「漸減邀撃」作戦構想の「漸減」にも航空部隊を使おうという考え方が次第に強まり,ロンドン会議に際して海軍軍令部が作成した「所要兵力」案では,空母4隻を2隻ずつの航空戦隊に分け,1戦隊を決戦部隊に,1戦隊を「漸減」部隊に配置していた.

 さらに,山本五十六航空本部技術部長は,敵の攻撃に対して脆弱な空母に頼る必要のない長大な航続力を有する,地上発進の大型攻撃機を構想した(巌谷二三男「中攻」,p.2 & 「日本海軍航空史1」 用兵編」,p.115-116 & 241-242).

 そして,それら構想を可能にする世界のトップ・レベルの航空機を国産機で保有することにより,航空本部と横須賀航空隊はこれに力を得て,航空主兵・戦艦無用論を噴出させ,砲術関係者と衝突していくことになる.

 詳しくは,山田朗著『軍備拡張の近代史』(吉川弘文館,1997/6/1),p.140-143を参照されたし.

1927年4月4日 昭和2年4月4日 [政治]-[軍事]
海軍航空本部が設置される。

(画像引用元:歴史占星学研究所
ワロタ


 【質問】
 日本の航空機に,日の丸が付けられるようになったのはいつ頃からですか?
 それと,初めて日の丸を付けた機体を教えてください。

 【回答】
 飛行機出現当初,陸軍は尾翼に通し番号を振っていました。
 根拠法令については定かではありませんが,1915年から陸軍では日の丸が識別用に採用されています。

 当時は翼だけに塗られていた様で,それが明確にとらえられている写真は,1918年に上野の空中文明博覧会に展示された,Grahame-White 13高速研究機が最初かと思います。
 また,1916年に試作された陸軍制式一号飛行機の場合は,方向舵に日の丸が付いていました。
 しかし,1917年のNieuport 24C1の輸入機では,陸軍機標識として,主翼と方向舵に白地に赤星を付けていますし,1919年のSpad S-7C1にもその標識は使われているので,明確に日の丸に統一された訳では無いようです。
 一方で,1920年に日本向けに輸出された,Fokker D.8は,胴体に日の丸が付いています。
 多分,ソ連赤軍の赤星との混同を避けるために,シベリア出兵前後に日の丸に統一したのだと思います。

 海軍の場合は,1921年の英国から招請した教官団の持ち込み機材に日の丸が付いていました。
 1920年の横廠式イ号甲型水上練習機の試作機には,付いていません。
 従って,海軍の場合はその前後ではないかと思います。

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 なぜ戦前日本に独立空軍はできなかったのか?

 【回答】
・空軍独立論者は海軍内にいたが,海軍の中でも異端であり,主流とはなれなかった.
・また,用兵上,航空機に要求されるものが陸海軍では余りに異なっていたため,その統一は困難だった.
・空軍独立論がドイツの影響で出たこともあったが,陸軍主導を嫌った海軍が反対した.

 海軍において航空主兵論の牙城は海軍航空本部だった.
 その急先鋒,大西瀧治郎大佐(教育部長)は,1937年7月に小冊子「航空軍備に関する研究」を発表.
 その中で彼は,戦略空軍の建設,すなわち,航空戦力を打撃的軍事力として,一つの戦略単位として建設することを構想していた.
 大西は,大陸においても洋上においても使用できる,大航続力を有する航空機により編成された「純正空軍」を建設すべきであると説いた.
 そして彼は,この陸海のいかなる方面にも使える「純正空軍」を,「海軍自体が空軍化すること」によって建設しようとした.

 しかし,大西瀧治郎の提案は,当時の海軍の総意にはなりえないものだった.
 航空本部は海軍内の異端児であり,また,航空関係者はことある毎に,大艦巨砲主義の擁護者である「鉄砲屋」(砲術関係者)と衝突した.
 それは,航空主兵論者・山本五十六航空本部長(1935年12月就任)自身が「火消し」に奔走しなければならないほど激しいものだった.

 一方,陸軍は,日露戦争で確立した歩兵中心の軍事思想に基づき,航空部隊を陸戦協力兵力ととらえ,陸戦場付近の制空権確保と敵地上部隊への直接攻撃を重視し,この傾向は太平洋戦争が始まるまで変わらなかった.※
 したがって,後方を空襲する重爆撃機は余り注目されなかった.

 さらに,海軍航空隊が洋上でのアメリカ艦隊との艦隊決戦を支援することを表向きの任務(密かに航空独自の『邀撃』を目指していたが)とし,陸軍航空隊は,大陸でのソ連軍との戦いを想定して作られたため,航空戦力の整備が進むにつれて,陸海軍の航空作戦思想にも航空機の特徴にも,それぞれの独自性が強まり,独立空軍建設はますます難しくなった.
 同じ航空機メーカーで作られた航空機であっても,海軍機と陸軍機では全く別個に開発され,速度表示(海軍はノット,陸軍はq)から計器の位置,レバーの回転方向など悉く異なり,機体部品も陸海軍でそれぞれ別の物を使った.
 これは,陸海軍相互の秘密主義・官僚的縦割り行政の現れであると共に,陸軍と海軍では,航空機に要求したことが細部に至るまで異なっていたからである.

 それでも,ドイツの再軍備・空軍建設に刺激され,1936年に空軍独立論が陸軍主導で登場するが,航空作戦思想の違いと,政治力の強い陸軍に主導権を取られることを危惧した海軍の反対によって結局,具体化しなかった.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.144-156を参照されたし.

 ※ただし大正期には,陸軍でも空軍設立が検討されたらしい.
 生田悖著「日本陸軍史」(教育社)より

 陸軍は,井上幾太郎少将(のち大将)を起用して航空の充実を図った.
 大正八年,フォール大佐を長とする航空団を招いて,進歩したフランスの軍事航空技術を学んだ.
 翌九年,陸軍には空軍独立論が生まれ,海軍と正式に検討したが,時期尚早の結論に終わった.
 独立論の根拠は,技術開発と戦時の膨大な消耗に対処するには,国と陸海航空の全力を傾ける必要からでがあり,反対論は陸・海の航空用法の相違を理由とした.
 けっきょく,陸軍は,地上作戦協力を主目的とする,独自の航空戦力を建設することになった.
(P.113)

名無し四等兵 in FAQ BBS


 【質問】
 これってホント?

日本では,陸軍航空隊と海軍航空隊がそれぞれあって,空軍というものは創設されなかった.
 憲法上の問題で,空軍は持てなかったのである.
 戦前の話だろう?……と首をひねった向きもあろうが,実はこういうことだ.
 大日本帝国憲法第11条に,
「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
とあるのだが(いわゆる統帥権),これは普通に考えて,陸軍と海軍とをそれぞれ統帥する,という意味だと受け取られる.
 そうなると,陸軍でも海軍でもない,新たな軍隊を創設するためには,憲法改正の手続きが必要だということになってくる.
 しかし,戦前の日本で「不磨(ふま)の大典(たいてん)」とされていた大日本帝国憲法を改正しようなどと,言い出せる人はいなかったのだ.

林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.110-111

 【回答】
 ……うーん,そういう俗説が一部にあるらしいのですが,はっきりした論拠は今までに見たことがないですねえ.
 帝国議会で空軍独立論が取り上げられた時には,憲法とのからみの話は出てこなかったよ,ってな話も聞きますし.
 同書の誤謬の多さから見て,著者が何か明確な論拠をもって書いたとはとうてい思えませんし.

 こういうときこそ,山田朗先生に聞いてみようかな?(笑)

消印所沢

 とりあえず大日本帝国憲法73条には改正規定があるのですよ.

 それだけでも,「不磨の大典」というのは単なる文飾で,改正不能でもなんでもないことは明らかなのですが,
 公布と同時くらいに,解釈書である『憲法義解』(伊藤博文の名前だがおそらく井上毅あたりの著作)が刊行され,つまり最初から解釈の可能性と余地を想定して作っているのが,帝国憲法の一つの特徴でね……はふう.

おおや in FAQ BBS

▼「戦前の日本は大日本帝国憲法改正が不可能だったため,日本は空軍を持てなかった」
という林氏の説は,北村賢志氏の「虚構戦記研究読本[兵器・戦略篇]」の孫引きと思われます.
162ページに「反戦軍事学」の記述と全く同じ記述が登場してます.
 というよりも,北村氏以外の軍事書籍でこんな説を聞いた事ないです.

 疑問に思ってWARBIRDSのAns.Q(航空機関係の6161番です)に質問した人がいます.
http://www.warbirds.jp/ansqn/
 その回答によると,大正時代に空軍独立が論議された時,報告書では
「憲法条文にある『陸海軍』は本来『国軍』の意味であるので,空軍を組織しても憲法違反にあたらない」
という解釈を示したそうです.
 憲法は法解釈でどうにでもなる問題なんです.

 ただし軍部が憲法改正を嫌がっていたのは事実です.
 というのも,もし憲法改正をやるとこれが薮蛇となって,よりシビリアンコントロールが強い方向に改憲されてしまう可能性があったからです.

 なお,林氏は最近出た「「戦争」に強くなる本」でも,この説を事実だとして書いてます.
 この俗説を言い出した北村氏にも問題がありますが,林氏の本が「朝日」「筑摩」という権威ある大出版社から出ていることで,こうしたおかしな俗説が無批判に広がっていく危険性の方が,より深刻だと思います.

モーグリ in FAQ BBS

▼ 大日本帝国が空軍を持たなかったのは「大日本帝国憲法第11条に,『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』」,だなんてありえないでしょう.

 陸海軍の間で協議されてたようですが,艦載機重視の海軍の反対で潰れたそうです.

 アジレキに史料があるかもしれませんが見てられないので,

鮭缶 by mail,2008年01月20日 01時08分

▼ 最近,防衛庁戦史部に行ったんですが,見つけた史料で「独立空軍に関する意見」(中央・軍事行政・その他163)を見ましたが,憲法云々の話は書いてなかったですね〜

鮭缶 by mail,2008年09月02日 01時55分


 【質問】
 日中戦争のときにソ連は中国を支援したそうですが,中国空軍への支援の規模と,ソ連から派遣された義勇兵パイロットの数を教えてください.

 【回答】
 戦闘機としては,1937年8月21日に中ソ不可侵条約締結に伴い,4個中隊のPolikarpov I-15が引き渡され,その後,1938年には改良型のI-152が347機引き渡されています.
 この機体は,第一飛機製造廠で忠-28乙として国産化されたものもあります.
 有名なのは Polikarpov I-16で,当初2個大隊分が引き渡され,南京失陥後にはI-16 Type6とType10が第4,第5大隊で使用されています.
 その後,各型合計216機が引き渡されて,Hawkの後継機となりました.
 また,I-153は1938年の重慶遷都時に,93機が引き渡されて,第3〜5戦闘大隊に配備され,零戦と戦闘を繰り広げました.

 偵察機としては,Polikarpov R-5が1934年頃に地方軍閥へ先ず12機引き渡され,その後100機程度が中央空軍に引き渡されました.

 爆撃機は,1937年9月にTupolevSB-2が2個飛行大隊分送られ,その後,爆撃大隊に順次装備され,最終的に292機引き渡されています.
 大型爆撃機としては,TB-3が第8大隊19中隊に6機が引き渡されましたが,流石にこんな機体での爆撃は無謀で,輸送機として使用されました(唯,2機が日本軍機に破壊されています.)
 このほかの爆撃機は,Ilushin DB-3で第8大隊とソ連志願兵に対して,1939年に24機が引き渡され,四川や武漢,それに渡洋爆撃も計画されました.

 訓練機としては,Polikarpov I-16 UTI-4を若干機,南川第二飛機廠で製造し,忠-28甲として用いたほか,Yakovlev UTI-2wo初等練習機として,1937年10月に中央航空学校で少なくとも4機が使用されています.

 こうして,1941年までに各型合計1250機に達しましたが,1941〜43年頃に米国製機が行き渡るに伴い,順次廃棄されています.

 中国に派遣されたソ連軍人は,1939年2月までで3,665名です.
 彼等は,ザバイカル軍管区とその周辺の軍管区と太平洋艦隊第9独立戦闘機大隊,第32独立戦闘機大隊と言った海軍の所属も選抜されています.
 この中にはスペイン内戦で撃墜15機の記録を持つエースも含まれています.
 1937年11月に第一陣が送られ,12月2日にI-16戦闘機23機が南京に到着しました.
 以降,日本軍と激闘を繰り広げ,1938年2月23日には渡洋爆撃を決行したと言う話もあったりします.

 この中から14名にソ連邦英雄の称号が与えられましたが,200名以上が戦死しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


◆◆◆重慶爆撃


 【質問】
 重慶爆撃は何度行われ,どのくらいの死者を出したのか?

 【回答】
 重慶爆撃は主に,1938年12月から1941年9月まで行われました.

 まず,12月22日に陸軍が22機で爆撃をしたのを皮切りに,1月7日,10日,15日と四回に渡って約30機ずつ,ここまで陸軍が担当しましたが,被害は,1月15日に死者119名,負傷116名を出しただけに終わります。

 次いで海軍に担当が変わり,第二連合航空隊の中攻45機が,1939年5月3日に市街東部と東南部,4日に27機が北部を爆撃し,3日に死者673名,負傷1,023名,4日は死者1,973名,負傷3,318名で,これはゲルニカ爆撃を上回るものです。

 その後,5月,6月に各2回,7月4回,8月6回,9月4回の出撃を行い,1940年5月から陸海軍共同で,百一号作戦という重慶爆撃作戦を展開します。
 陸軍は山西省運城から重爆54機,海軍は漢口から中攻122機を出撃して9月まで断続的に空襲を行います。
 この空襲では,海軍が延出撃日数32日,陸軍が9日,延攻撃機数は海軍が2,128機,陸軍が322機,投下爆弾数は海軍が14,228発,1,558t,陸軍は1,344発,142tであり,これにより,死者4,232名,負傷者5,411名,損壊家屋6,955棟の被害を出しました。

 更に41年夏季にも空爆が繰り返され(後述の防空壕での死亡はこの時期のもの),死者は前年の6割程度になっています(但し,3万人死亡説が正しければ,この数はもっと増える)。

 最後は,1943年8月で,陸軍が行っていますが,これは在華米軍の補強により効果無く終わっています。
 最終的に,被害は,中国側資料では死者11,800人,家屋損壊17,600棟となっています。

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【質問】
 中国への空襲って重慶爆撃が有名ですが,中国ってちゃんと空襲警報があったんですか?日本の爆撃機が来ると警報してたんですか?
 防空壕とか避難訓練とかあったんですか?

 【回答】
 初期の漢口,周家口,上海では結構不意打ちを食ったようですが,空襲警報網は重慶遷都後に初歩的なものが作られていました。
 物資の集積状況,基地の整備状況もこういった便衣隊の活動で,一目瞭然であり,次の空襲時期はいつか,目標はどこかが予め推測可能でした。
 後は,その目標近くに迎撃隊を進出させ,早朝から夜間にかけて,数機の哨戒飛行を行うだけです。

 また,日本軍の出撃についても,漢口,運城の基地を日本機が離陸するやいなや,昼間ならばその機数を電信で重慶に報知され,途中の山々の頂には見張り員がおり,日本機を認めると,烽火を上げます。
 そのリレーで,日本機の来る方角を知らせるわけです。
 ちなみに,電信と烽火併用でも,中攻,重爆の巡航速度では十分に迎撃基地に通報が間に合いました。

 こうして,少なくとも空襲の40分から1時間前には爆撃機による空襲警報が発令されます。

 防空壕も当然ありますが,重慶爆撃の初期には完成していません。
 ただ,重慶だけでなく,広東などにも大規模防空施設がありました。
 それも,蛸壺方式のような日本に見られた簡易なものではなく,コンクリートで,入り口に頑丈な鉄の扉を持つ本格的なものです。
 重慶のは,1938年から工事が開始され,こうした大規模防空壕(公共用大隧道)を始め,会社・個人でも防空壕を整備し,1940年には公私あわせて1,865カ所,収容人員44万余のものになっていました。

 但し,初期の頃は当時の人々は都市空襲というものに慣れていないので,避難もせず,中国空軍の迎撃戦闘を見物しようと,街路,岸辺,丘の上などに出て,空を見上げていました。
 これによる死者が結構あったようです。

 後に,重慶爆撃が本格化し,外交使節のいる周辺以外に全ての爆弾が降るようになってからは,市民も防空壕に避難することが多かったのですが,1941年6月5日の空襲では,3万人の市民が避難した大防空壕が酸欠状態となり,ほぼ全員が死亡しました(実際の死者は992人とも言われる)。

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板


 【珍説】
 原爆投下は無差別爆撃だが,重慶爆撃はそうではなかった!

 【事実】
 陸軍航空隊独立第一八中隊(司令部偵察飛行隊)の一員として重慶爆撃に参加した,河内山譲氏の証言.
「五月末迄2連空は夜間爆撃を主としていたが,途中で1連空と共に昼間に切換え,目標も重慶の軍事施設だけを選別していたのを改め,市街地をA・B・C・D・E地区に区分した徹底的な絨毯爆撃に変更した」
(河内山 譲 「司令部偵察飛行隊 空から見た日中戦史」叢文社 P一六五)

 どう見ても無差別爆撃です. 本当に(ry

 あと,別に米軍の爆撃や原爆投下は「無差別」じゃないけどな.
 結果的に被害が無差別になっただけであって.

 また,自分が言っているほど戦史に興味があって,ある程度の知識があるというなら,世界大戦の特徴である「総力戦」が,どういうものであったのか,ということは理解しているはずだ.

 なおかつ米軍の爆撃や原爆投下が無差別である,と主張するなら,それはただのモノ知らずか,イデオロギーに毒されたプロパガンダを鵜呑みにしているに過ぎない.

軍事板隔離スレッド in コヴァ板


 【質問】
 重慶爆撃に対し,アメリカはどのように反応したか?

 【回答】
 重慶に対する「無差別」爆撃だとして,日本に抗議した.
 「重慶駐在のアメリカ大使ネルソン T. ジョンソンは,1939年夏までに66回の空襲を体験していた」そうだ.
 以下引用.

 この抗議に対し,日本側は「攻撃は敵の軍事目標に限定されている」と回答.
 憤慨したアメリカ政府は,1939年後半,報復措置として航空機関係製品の輸出を禁止.さらに,1940/1/26で期限の切れる通商航海条約を更新しないと発表する.
 条約失効翌日,国務長官コーデル・ハルは,駐米日本大使に,日本軍によって爆撃された35以上の中国の都市の名と,一部には日時まで明記してあるリストを渡した.
 このリストには,
「中国にある米国資産で,日本軍の爆撃によって損害を受け,しかも,その位置は事前に日本に日本当局側に通告され,米国国旗を掲げていたもの」
の事例,約200も引用されていた.

 日本側が,「中国側の軍事機関や施設以外のものを爆撃した事はない」と否定するのに対し,ハル長官はこう述べた.
「公的機関から,あるいは私的な情報や新聞などから,中国にある日本軍が,全く軍事的機関や施設のない場所で,住民を爆撃して銃撃を加えた多数の事例についての詳細な報告が,我が国に来ている.
 さらに,焼夷弾の使用は(必然的に戦闘員でない市民や,その財産に,無惨な損害を与えて)住民に大損害を与えてきた.
 多くの場合,日本軍の航空攻撃は,武装していない住民達を恐怖に陥れようと意図しているとしか考えられない」

 しかし日本軍は,重慶爆撃を続けたばかりでなく,1940/6/14には,日本政府は駐日アメリカ大使に対し,
「これらの攻撃を強化しようと意図している」事,
「中国内に残留しているアメリカ官憲あるいはアメリカ市民の受ける損害には責任を負えない」
と通告してきた.

(Carl Berger 「B29」,サンケイ新聞社出版局,1971/3/5, P.50-51,抜粋要約)

 国際法的には重慶は防守都市ではなかったのか?とか,色々議論はあるが,まあ,満州事変の件で国際的信用が地に落ちていた日本(事変直後は,ドイツにおいてさえ最悪であったそうな)が,自説を強固に主張したいなら,とてつもない宣伝努力が必要だっただろうね…….


◆◆◆大東亜戦争


 【質問】
 「真珠湾で,重油タンクを攻撃していれば・・・」という話はよく聞きますが,WW2で航空攻撃によって燃料貯蔵施設が大きな被害を受けた事例はありますか?

 【回答】
 戦争末期の日本では,幾つもあります.

 1945年5月10日朝9時30分頃に,112機のB-29によって,徳山の陸軍燃料廠が空襲を受け,500lb高性能爆弾549tのうち,875発が燃料廠と隣接の興亜石油麻里布製油所に命中し,製油所は壊滅.
 徳山の第三海軍燃料廠も同じ日に1700発の500lb高性能爆弾で灰燼に帰しました.

 1945年6月以降になると四日市の第二海軍燃料廠も執拗な攻撃を受け,6月22日には4000lb高性能爆弾15発が投下されました.

 川崎の三菱石油川崎製油所も,7月25日に300発の500lb通常爆弾の投下を受け,機能停止に陥っています.

 最後は8月14日の日本石油秋田製油所に134機のB-29によって,100lb,200lb高性能爆弾1200発が投下され,命中は120発程度でしたが,折からの風に煽られ,延焼,その炎は1週間以上も燃えさかったと言う状況で,日本の石油精製能力は壊滅しています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 真珠湾攻撃で空母に帰れず,ハワイ諸島のある島に不時着した零戦があったそうですが,(パイロットは日系移民一名と共に,住民によって殺された),その機体をアメリカが調査して零戦の性能がばれてしまわなかったのでしょうか?

 【回答】
 湾内に九九式艦上爆撃機,九七式艦上攻撃機各1機が墜落し,後に米軍が引き揚げて調査しています.
 但し,前者の胴体後半はちぎれ,後者は機首部が壊れたので,部分参考程度でした.
 もう1機,墜落零戦が鹵獲されていますが,これも残骸のみで機首部の損壊が酷く,性能調査の参考品には なりませんでした.

 お尋ねのBII-120号機は,西開地重徳一飛曹が火を放っており,主要部は焼失しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【質問】
 太平洋戦争開始当初において,何故アメリカ軍はフィリピンでも航空奇襲を受けてしまったのでしょうか?
 真珠湾攻撃は想定外だとしても,日本が攻撃してくるならまずはフィリピンであろう,ということはさんざん研究も想定もされていたのにもかかわらず,初日に奇襲攻撃されているのはどうしてなのでしょうか?

 【回答】
 米比軍はばっちり警戒していました。
 が,いくつもの偶然と要素が重なって結果として奇襲攻撃に。

 開戦と同時に日本軍はやってくるだろうと想定して爆撃機は上空退避,迎撃機も上げておいたのですが,台南では濃霧が発生し,それが原因で出撃が遅延。
 で,フィリピンではいつまで経っても日本軍はやって来ない上に,燃料が切れかけたので,給油の為に空港に降り立ったところに襲撃を受けた。

 開戦時の日本では物凄い数のラッキーが起きてる。
 後々その反動が来るけど.

♪マーフィーの法則は 宇宙の法則〜(嘉門達夫)


 【質問】
 「1空事件」とは?

 【回答】
 1空上層部が,「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓に沿っている体裁を整えるため,捕虜になった後に帰還したパイロットを隔離,冷遇した事件.

 開戦4日後のクラーク飛行場爆撃で1機の九六陸攻が損傷,彼らは事前に「日支事変と違う.被弾しても自爆するな」と訓示されていたため,不時着.
 搭乗員は生存が視認されていたにも関わらず,「自爆して全員戦死」との虚偽の報告がなされた.
 ところがマニラ陥落後,その全員が陸軍部隊によって収容され,1空に送り返された.
 帰還後,搭乗員全員が位階勲等を剥奪され,下士官は兵に降格.
 さらに彼らは隊内で隔離され,戦死を期待されての出撃を続けたが生き残り,最期は3/31,単機でラエからポートモレスビーに出撃して自爆せよと命じられたという.
 また,捕虜となった搭乗員が所属する中隊の中隊長福岡大尉は,この責任を取ってクーパン攻撃支援後に自爆した.

 詳しくは『航空ファン』 2006年4月号,p.151,または中攻会編『ヨーイ,テーッ!』(文芸春秋,2005.1)を参照されたし.

消印所沢

 より詳しい状況は,以下の通り.

 昭和17年3月31日,不思議な命令を受けた者たちがいた.
 使い古した96陸攻一機,搭乗員8名,場所はラエ飛行場で,機体には爆弾と燃料が満載されていた.
 見送りはわずかな人だけ.行き先はポートモレスビー.
 命令は
「敵飛行場へ自爆せよ」
である.

 搭乗員は以下の通り.

主操縦員 原田武夫 一飛曹
副操縦員 徳田英利 一飛
主偵察員 白井嘉孝 二飛曹
副偵察員 西田利穂 一飛
主電信員 首藤貫一 三飛曹
副電信員 渡辺禎銀 一飛
主搭乗整備員 清野五郎 二等整備兵曹
副搭乗整備員 三浦浅吉 二等整備兵曹

 なぜこのような命令が出されたのか?
 開戦五日目,昭和16年12月12日,第一航空隊の96陸攻48機は,台南基地を出撃,ルソン島の敵飛行場の爆撃に向かった.
 この原田一飛曹機も,福岡規夫大尉の指揮する中隊に属して,クラークフィールド敵飛行場に向かって出撃した.
 不運にも敵飛行場上空には雲が低く垂れ込めており,高度350メートル以下の低空攻撃となった.
 ここで,原田機は対空砲火で被弾し,左エンジンから火を噴出した.
 すぐに,じりじりと高度が下がり始める.飛行高度は350メートル以下である.

「機長,自爆だっ!」
と叫びながら,パイロットは操縦ハンドルを前に倒そうとした.
が,それはとっさに誰かに引き止められた.
「分隊長が言ったぞ,自爆するなって――」

 それは第十一航空艦隊参謀長大西瀧治朗少将(当時:後の特攻の父)が,開戦の前日,高雄基地において麾下航空隊の分隊長以上の士官を集め,訓示した中に次のような言葉があった.
「明日から始まる戦争は,これまでのシナ事変とは違う.比島には味方陸軍部隊が上陸して全土を占領する計画である.
 したがって,被弾して飛べなくなっても,いままでのように自爆してはならぬ.
 不時着して,どこかの山中にひそんでいて,陸軍が侵攻してきたら,このときに出てきて収容されるように」
 それが,そのまま全搭乗員に申し渡されていたのである.
 不時着か,自爆か.
 低高度における片舷飛行は不可能.
 結局,原田機は不時着するほうを選んだ.
 接地したすぐ後には,機内から二人の搭乗員が脱出し,編隊に向かって手を振るのが認められた.

 しかし,ここで一空司令荒木敬吉大佐は,中隊長福岡規夫大尉の意見もいれ,全員戦死と上級司令部へ報告した.
 当時,陸軍部隊が占領したところまではまだかなりの距離があり,機外の二名と生存者も自決を選ぶだろうと判断したのは,無理のないことだった.
 例え申し渡し事項があったとしても,虜囚の辱めを受けずという帝国軍人の鉄則は,厳として生きていたのである.

 やがて,昭和17年1月2日,マニラは陥落したが,その際,陸軍部隊から第11航艦司令部を経由して,一通の電報が届いた.
「貴隊搭乗員八名を収容せり.マニラ,ニコルソン飛行場に受け取りにこられたし」
 戦死と判断された八人は生きていたのだ.
 不時着した後の八人は,山中に逃げ込み,食もなく彷徨し,四,五十人の土民に寝込みを襲われ,弱りきっていた搭乗員は,たやすく全員が縛り上げられ,捕虜収容所へと送られたのである.
 しばらくしてマニラ陥落が迫り,監視が緩み,脱出に成功した八人は,敵兵の目をかすめつつ北方へ歩き続け,ようやく味方戦線へたどり着いたのである.

 八人の存在に,一空幹部は困惑した.
 早々に戦死と報告してしまったこと,
 「はやまるな,自爆するな」と内辞してあったこと.
 しかし,現実は捕虜となり,米軍から峻烈な尋問を受けたはずで,これをいかに処置すべきか.
 第11航艦,第21航戦,一空は,それぞれに困惑し,異例の会議を重ねたが,妙案・解決策は見つからないまま,時間が過ぎていった.
 この間,八人は位階勲等は剥奪され,下士官は兵に降格,一般隊員から隔離されて,小さくなって生きていた.
 そして,2月20日,ティモール島に空挺作戦が実施されるに及び,一空がその支援を行うことになった.
 原田機八人は一切を復活されて参加,福岡中隊長機のすぐ斜め後ろで,死に所を得るべく,敵弾の命中を待った.
 しかし,敵は戦意に乏しく,陸攻隊にさしたる被害もないまま爆撃は終了.
 福岡中隊長機は,さらに列機を一列縦隊に纏め,低空に舞い降りて地上銃撃を繰り返させたが,それでも敵弾の命中はなかった.
 福岡中隊長は,銃撃を終わって上昇,隊をまとめると,列機に帰投するように命じた後,反転して翼をふりつつ急降下し,敵陣地へ自爆していった.
「はやまるな,自爆するな」
と言った責任を,自爆で果たしたのである.

 福岡中隊員は一同泣いてこれを見送った.
 原田機は死所を得るべく出撃し,かわりに中隊長を戦死させてしまったのである.
 それまで,八人に同情的だった隊員も,それからはおのずと変化が生じた.

 原田機八人は出撃を繰り返すが,被弾こそすれ,一度も致命傷とはならずに,武運に恵まれなかった.
 昭和17年3月30日,原田機は零戦三機に護衛され,暗に「帰ってくるな」と命令されて,ポートモレスビー強行偵察に飛び立った.
 敵基地上空に達した原田機は,上空に零戦三機を残して,ただ一機で弾幕の中に降下し,千メートルを行きつ戻りつして,悠々と写真を撮った.
 ところが,奇怪にも,敵戦闘機は一機も現れなかった.
 航空基地のモレスビーに敵戦闘機がいないとは,不思議である.
 原田機は今回も死神に見捨てられて,皮肉にも武運に恵まれなかった.
 撮影されたフィルムは,すぐに現像されて,その後の爆撃に大きく役に立った.

 そして翌3月31日,ついに最後のときが来た.
「自爆せよ」
である.
 この日,原田機は零戦の護衛もなく,文字通りの単機出撃であった.
 飛び立ってしばらくして,ポートモレスビーに達したと思われる原田機から,最後の通信が入った.
『われ爆撃終了,全弾命中』
 それから原田機は沈黙したが,十数分後,再び送信が開始された.
 次の電文を暗号化していたと思われる.
 それが終わると,・・・と短符がみっつ送られてきた.
 続いて長符――が始まった.やがてその長符がぶつんと切れた.
 暗号電文が解読されたとき,川合一曹(通信員)は鉛筆を取り落とした.

『我今より自爆せんとす.付近天候晴れ』
『生前の御厚意深謝す.天皇陛下万歳』

 これが原田機八名の最後であった.

「電文にあった『天候晴れ』というのは余計だよ.
 首藤(主電信員)がわざと入れたんだ.
 天候晴れとやれば,もしかしたら自爆確認をやってくれるかも知れぬと望みやがって……
 単機で死ぬのがどんなにさびしいことか,つらかったろうなァ」
 そう言ったきり,後の言葉は嗚咽の中に消えた.
 原田機の乗組員は,位階勲等は剥奪され,下士官は兵に降格させられていたが,その後一階級特進し,あらためて昭和一七年三月三十一日戦死,となっている.

 さらに詳しくは,『炎の翼』(関根精次著,光人社NF文庫,2005/6),P123〜P132を参照されたし.

 これは当時の日本陸軍内における「戦陣訓」の影響が,窺い知れる事件だと思います.
 あと,下に厳しく上に甘い所とか.(海軍乙事件じゃ,だーれも処罰されてないのに……)

極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 日本軍がパイロットの質を維持できなかったのは何故か?

 【回答】
 開戦時からパイロットの数に余裕がなかったため.
 以下,ソース.

 優秀な搭乗員の養成には時間がかかる.
 当時,パイロットの場合,基礎訓練1年,実践部隊での初歩訓練1年,さらに高度訓練1年の合計3年を要すると言われていた.

 開戦時,日本海軍の常用機定数は合計3019機であり,この運用には最低でもパイロット3445名が必要だった.
 また,常用機の3分の1に相当する補用機のためのパイロットも合計すれば,現有する航空機を運用するだけでも約4600名のパイロットが必要だった.
 しかし,1942年1月の段階でも,海軍所属の全パイロットは3615名という状態で,配備常用機1機に対し,搭乗員1組を充当させるのが精一杯だった.
 開戦時におけるこのようなパイロット数の余裕のなさは,航空戦力自体の損害に対する回復力が極めて小さいことを示している.

 実践部隊において勤務2年以上の熟練パイロットの占める比率は,
1941年末=49.5%
42年6月=40%
43年3月=22.5%
43年6月=21%
と急速に低下した.

 42年いっぱい続いたガダルカナルを巡る攻防戦において,熟練搭乗員が大量に戦死すると,それ以降は,例え航空機があっても信頼できる搭乗員がいないという状態が敗戦まで続くことになった.

(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.218-219,抜粋要約)


 【質問】
 WWUのガダルカナルの飛行場は,1942年の末から43年の初期くらいまでは最前線基地で航空機も多数配備されていましたが,1944年末とか1945年くらいになると前線の遥か後方です.
 そのときはガダルカナル飛行場はどうなっていたのでしょうか? 滑走路だけで飛行機0,ガラガラ状態ですか? それとも,念のために申し訳程度配備したりするのですか?

 【回答】
 学研のムック「日 vs. 米 陸海軍基地」によると

‘43年6月  ヘンダーソン飛行場に加えて戦闘機用の第一・第二応急滑走路・分散飛行場の整備.
 滑走路長の延長や補助滑走路も完成している.
 43年中にはB-17も運用可能な規模に.
‘44年2月  上に加えてカーニー飛行場,コニ飛行場を整備
‘45年3月   ヘンダーソン飛行場を中心とした「ヘンダーソン複合飛行場施設」として ,兵站・航路上のハブ的存在になる.(主滑走路は2,100m規模)

ってな感じで,地味に拡張し続けていた.


 【質問】
 1943年7月のソロモンの戦いで,日本軍の空襲の編成が気になります.(主にレンドバ島への空襲)
「零戦35機,Val6機」
だとか
「零戦41機,陸攻6機」
など,攻撃機や雷撃機の数が余りに少ないように思います.零戦だけのファイタースウィープは別途に行っているのに.
 これが,当時出しうる全力編成だったんですか?

 【回答】
 6/30の時点では,ラバウルには38機の陸攻が居た.
 同日の攻撃(レンドバ攻勢の初日)で26機中17機が未帰還となり,残存機は20機ちょい.修理不可能機を含めればおそらく20機を切る.
 連日の作戦による稼働率低下を考えると,一桁前半で全力だったかもしれない.

 ただ,7/9に陸攻20機の増援を受けた直後でも陸攻の出撃機数は低調であり,7/15の空襲では大打撃を受けた結果,陸攻による昼間強襲の取りやめが決定されることになる.
 この時期(7/9〜)には,陸攻の存在価値そのものに疑問が持たれていた結果として出撃機数が低調だったのではないかと思われ.
 んでもって7/15に駄目押し.


 【質問】
 山本五十六長官はラバウル視察のとき,どうして防御性能の悪い一式陸攻なんかで逝ったのでつか?
 二式大艇とか一○○式司令部偵察機とか,ほかになかつたんでしょうか?

 【回答】
 「防御性能の悪い」のは,二式大艇とか百式司令部偵察機も同様.

 二式大艇は水上機であり,山本長官御一行様はラバウル飛行場を発進し,ブイン飛行場に降りる予定だったので問題外.

 百式司偵は,陸軍機云々以前(ちなみに当時,海軍でも使われていたが)に,2人しか乗れないので問題外.
 連合艦隊司令部のスタッフは何人居ると思っているのか?

 この当時,ラバウル飛行場に常駐している飛行機で,多人数を乗せられる機と言えば,一式ライターでなければ,もっと旧式の九六式陸上攻撃機くらいしか無いので,あまり選択の余地は無い.

 「どんな飛行機に乗っていれば」と言うよりは,護衛戦闘機をもっと多くすべきだっただろう.
(つーか,それ以前に,ブインに行くべきではなかったんだが・・・)


 【質問】
 孤立したラバウルの地下工場で,再生飛行機を作ってたって本当?

 【回答】
 ラバウルに残されていたのは,南東方面航空廠の技術員です.
 昭和18年に三つの航空廠を合併して出来た本廠は,ラバウルを主な拠点として航空機整備に当たっていましたが,昭和19年2月にラバウルからの航空兵力引き上げに伴い,残地された人員をもって第108航空廠を編成しました.
 残された人員は約二千数百名で,うち軍人が59名,残りは軍属です.

 彼らは洞窟を掘って地下工場を建設し,終戦までに彼らが再生した飛行機は13〜15機といわれています.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE

 【関連リンク】
朝目新聞」●ラバウル  (of 続・妄想的日常)


 【質問】
 台湾沖航空戦でアメリカ艦隊を一隻も沈めてないのに,「数十隻を撃沈,撃破」とか信じられないほどの誤認をしたのは何故ですか?

 【回答】
 オレが当てた,沈めた〜沈むと思う,そうだといいな,という希望的報告を,そうだといいな,と鵜呑みにした上,全員の報告を全部足し算するという,ポジティブシンキングの大成果。

 戦果確認は基本的には帰還後の聞き取り調査による。
 どの国でも同じなのだが,地上勤務のベテランが厳しく問いただすので,この段階で大幅な誤差が生じることはそれほどない。
 問題は,それを集計する人間が別にいることです。

 更に台風の中の出撃で,ベテラン搭乗員もいない出撃だったため,味方機の被弾炎上を敵空母撃沈と勘違いしたというオチ.
 米軍の実際の被害は巡洋艦2隻に爆弾命中で小破。

 幻の戦果がいかに作り出されていったかについては,その場にいた軍人による回想録
「大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇」(堀 栄三著 文春文庫),
および,数年前に放送されたNHKスペシャルを本にした
「幻の大戦果・大本営発表の真相 NHKスペシャルセレクション」(辻 泰明, NHK取材班著 日本放送出版協会)
が詳しい。


 【質問】
 以下の朝日新聞社説について違和感を覚えたのですが,こんな事が有り得るのでしょうか?

沖縄戦60年 この地獄を忘れまい [6/23 朝日新聞社説]

 沖縄県宜野湾市の佐喜真美術館は,三方を米軍普天間飛行場の金網に囲まれている.
 軍用地の地主だった佐喜真道夫さん(59)が再契約を拒んで土地を取り戻し,飛行場を削り取る形で建てた.

1発の爆弾で,半径700メートル以内の住宅がすべて吹っ飛んだ.そんなのが1坪に4発も落ちてきた.この展示室は44坪あるので,176発が落ちたことになる」.
 沖縄戦を描いた絵を背に,佐喜真さんは体験者から聞いて歩いた膨大な言葉を入場者に伝えていく.

 【回答】
 ・・・この体験談を信じるならば,どうやら沖縄戦で核爆弾が使用されていた事になります.(もちろん,有り得ません)

気を付けろ爆弾だ兵器生活
 上のサイトで紹介されている戦時中の資料を見て下さい.
250kg爆弾だと木造家屋なら半径10m(直径20m)程度までが全壊範囲です.
500kg爆弾だと半径15m(直径30m)
1000kg爆弾だと半径20m(直径40m)

 半径700メートル以内の住宅がすべて吹っ飛ぶ規模の爆風とは,通常爆弾ではとても達成出きるものでは無いのです.
 核兵器・・・5kt級の戦術核兵器なら可能かもしれません.

(週刊オブイェクト)


◆◆◆航空特攻


 【質問】
 神風の読み方は「かみかぜ」と「しんぷう」のどちらが正しいのでしょうか?
 駆逐艦「神風」は「かみかぜ」だが「神風特攻隊」は「しんぷう〜」だ,と何かで読んだ気がするんですが

 【回答】
 神風特攻隊に関して言えば…….

 猪口力平・中島正共著「神風特別攻撃隊の記録」(雪華社,1984.7)によれば,「しんぷう」です.
 神風隊の命名は,昭和19年10月20日の特攻隊編成式の前の晩に猪口中佐が大西瀧治郎中将に提案したものとされています.
 同日朝,大西中将は
「この体当たり攻撃隊を神風(しんぷう)特別攻撃隊と命名し〜」
と訓示しています.
 命名者に関しては源田参謀であるとの説もありますが,いずれにせよ当初現場では「しんぷう」と呼ばれていたようです.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE

 ただし,「かみかぜ」も普通に使われています.
 零式艦上戦闘機,略して零戦が,「れいせん」とも「ぜろせん」とも呼ばれたのと同じような事情と考えて結構.

ゆうか in FAQ BBS


 【質問】
 航空特攻は戦術的に正しかったのでしょうか?

 【回答】
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6kamikaze_h.htm
 航空特攻の発端は,レイテ沖海戦時,「大西中将の手持ちの部隊で空母の飛行甲板を使用不能にする」ということにあり,人道的に見れば狂っていますが,純粋に戦術的に見れば,必ずしも誤りとは言えません.

 問題は,特攻がその後も続けられた点にあり,これについては,
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6kamikaze_k.htm
「効果はあったが,高くついた」
 つまりコスト対効果を考えると,もっと上策もあったのでは?と言われています.
http://www.omura.info/kamikaze/japanese/
 「通常爆撃を実施すべきだった」とする意見がそれです.

 陸軍内では特攻実施前にも戦術上の見地から反対論があり,要旨以下のようだったそうです.

・武装,戦闘行動で(急降下爆撃に比べて)劣り結果的に不利
・体当たりの最大の欠点は落速の不足にあり,爆弾の落速の二分の一程度では
 装甲甲板を貫徹できず(特攻主張派の言う)一機一艦撃沈は無理

 この反論は鉾田の教導飛行師団が出したそうですが(19年8月),特攻推進をあくまで主張する航空本部と御用学者を集めて怪しげなデータをまとめた第三陸軍航空技術研究所に蹴られたとか.
 航研が特攻に拘ったのは,既成の爆弾等の改善が出来なかった不首尾を糊塗するためではなかったかとも言われています.


 【質問】
 特攻で敵艦を撃沈するには,1隻当たり特攻機がどれだけ必要と,日本海軍では見積もっていたのか?

 【回答】
 昭和20年3月2日,軍令部第1課長が海軍省に対して行った説明(防衛省戦史研究室所蔵資料.表題は失念)

各艦種撃沈に要する弾量
空母    桜花×1+80番爆弾×1,または95式魚雷×3
軽空母   桜花×1+80番爆弾×1,または95式魚雷×2
護衛空母 80番爆弾×1,または95式魚雷×2,または2式魚雷×3
戦艦    桜花×2,または95式魚雷×4,または回天×1
巡洋艦   桜花×1,または95式魚雷×2,または2式魚雷×2
駆逐艦   95式魚雷×1,または2式魚雷×1
輸送船   2式魚雷×1,または震洋×1

 見ての通り,本来特攻戦備に伴う各種攻撃手段の威力評価です.
 ちなみに,各攻撃手段は威力点という基準で評価されており,航空手段の場合
桜花(5),80番(3),50番(2),25番(1)
で,空母撃沈のための所要威力点は8点,とされました.
 また水上・水中手段の場合
回天(8),95式魚雷(3),2式魚雷(2),震洋(1)
で,この場合は空母撃沈のための所要威力点は9点です.

 つまり桜花×1+80番×1の代わりに,80番×2+50番×1でも良いことになります.
 まあ,戦艦が25番×10で沈むかといえばまず否ですから,かなり大雑把な基準ではありますね.

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 空母に特攻する時にベストな狙いは何処だったんですか?

 【回答】
 『筑波海軍航空隊 零戦特攻隊戦闘準則』より

――――――
目標
空母ハ飛行甲板ノ前部寄リニテ「リフト」
其ノ他ハ艦橋ノ付ケ根
輸送船ハ状況ニ依リ船艙口
―――――

 他の隊の命令文書でも似たようなもので,空母の発艦能力を奪うために中央〜前部寄り,そして強度的な弱点であり航空運用の要であるエレベータが最適目標とされます.

 ついでに言うと,複数機による突入の場合は前機突入破口を目指すべし,とあります.

 ちなみに目標配分は
正規空母 25番×3    or 80番×1
特空母   25番×1以上 or 80番×1
戦艦    25番×2以上 or 80番×1
其の他   どちらか1

で,正直大型艦の撃沈狙ってません.
 この程度で戦艦や空母が撃沈できるはずもなく,むしろ損傷による人的損害を狙っていた傍証といえるでしょう.
 特に戦艦はそうで,艦橋スタッフという中核人材を葬ることに重点が置かれてます.
(艦橋は戦艦においてはもっとも防御が軽い割に重要な施設である,ためでもあります)

ゆうか ◆9a1boPv5wk in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 これって大発見?

【旧日本軍の航空特攻作戦,命中効果率は56%=予想以上の戦果−米軍機密文書】

 太平洋戦争末期,劣勢の旧日本軍が多用した航空機の体当たりによる米艦への特攻作戦で,米軍が至近自爆を含む特攻機の命中効果率を半年間で56%と算定し,日本側推定を大幅に上回っていたことが,米国立公文書館に保管されている米軍機密資料で分かった.日本側は特攻初期のフィリピン海域での特攻命中率を26〜28%と推定していた.
 戦史家の原勝洋氏が入手したこの資料は,未公開分を含む米側撮影の特攻写真340枚とともに,15日発売の「写真が語る『特攻』伝説」(原勝洋著,KKベストセラーズ社)で公表される.

時事通信,2006年11月15日7時1分

 【回答】
   ……
  ∧_∧   
  (・(・・)・) 
  /JベタJ   
 ~し―-J

 その 「命中効果率を半年間で56%」 と云うのは,あくまでも 「特攻攻撃実行機とその命中率」 でしかないのよ. つまり 「命中効果率を半年間で56%」 には,米艦隊に到達する前に撃墜された特攻機や,米艦隊を発見できず未帰還になった機は含まれていないのよ.
 実際,日本軍側が特攻機として出撃させた機数と,米軍側資料にある 「特攻機数」 にズレがあったりしましたから.


 また,米軍の云う 『命中効果率』 には 「至近自爆を含む」 から,効果率が高くて当然,という意見もありますが,日本側が推定していたとされる 『特攻命中率』 (26〜28%) は,戦後になって,安延多計夫海軍大佐が 「至近命中」 も含めて出した比島〜台湾〜硫黄島期での特攻成功率 (27.1%) とほぼ同じであるので,米側の云う 『命中効果率』 と,日本側の 『特攻成功率』 と同じものと考えても問題はないでしょう.
 ただ,日本側が 『特攻命中率』 として出した数字は,日本側が特攻機として出撃させた数を分母としたもので,特攻機として出撃していない (通常攻撃) 機が体当たりに成功したモノも 「特攻機による戦果」 として含まれているのよ.
 具体的で分かりやすい例を挙げると,米軍側の資料 (「第二次世界大戦 米国海軍作戦年誌」) では,駆逐艦 「クラックストン」 「アンメン」 が1944年11月1日に双発機 (「銀河」) の特攻攻撃を受け,損傷したと記録され,日本側も特攻機による戦果として記録しているが,この日,日本軍は双発機を特攻作戦には投入していない.


 まぁ 「命中効果率が半年間で56%」 と云うのは 「米艦船上空に到達した日本機で,特攻を行い命中したものの率」 としてなら評価できるでしょう.

ベタ藤原 in mixi

 『特攻機』の命中率に関しては,Uボートによる撃沈数と船団の規模の相関関係に取り組んだ学者達が,数学を駆使して次に取り組んだ命題だった,とオペレーション・リサーチの教科書で読んだ気が.

まけらいおん in mixi


 【質問】
 日本以外で,正規軍が特攻による航空作戦を組織的におこなった例はないと思いますが,他国でこれをおこなわなかったのは,なぜでしょうか?

 【回答】
 一応,独ソ戦初期にはソ連軍機の一部がカミカゼまがいの体当たり攻撃を行ったり,また,戦争末期のドイツ空軍がそれをしようと部隊編成まで行ってますけどね。
 詳しくは別項参照.

 要は,戦闘行動に耐えうるだけの操縦士を日本が養成出来なかっただけです。

 英国は本国は勿論,植民地からの人的資源の供給が豊富で,しかも操縦士の大量養成が行われ,ローテーションがきちんと出来ていました。
 米国も,国土の広さから航空機が欠かせませんので,民間航空のパイロットはアマチュアも含めて大勢いましたから,こちらも人的資源は豊富でした。
 ドイツも,末期こそどうしようもなくなりますが,初期の頃はグライダー航空などの活動を通じて操縦士を十分養成して戦争に臨んでいますし,ソ連もこれは同じです。

 しかし,日本の場合,航空機自体の数が少なく,民間航空の基盤も脆弱で,燃料や機材が豊富でないので,勢い,質に頼る傾向がありました。
 結果,緒戦期を除けば,段々と操縦士の養成が不可能となり,飛ばすだけでやっとと言う状況に陥ります。
 これで戦果を挙げるのは不可能です。
 そこで採用されたのが特攻作戦と言うことになります。
 とりあえず,余計な戦闘行動は不要で,敵にまっすぐ突っ込むだけで済みますからね。

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板・改

 上記に関してですが,佐藤守氏がなぜ日本が特攻という手段をとったかについて,パイロット養成計画の不備という問題点を具体的に指摘した論考を二回に分けて書かれています.
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070601/1180667743
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070604/1180920574
 戦争が始まっても平時の感覚から抜けられない,予算が弾力的に運用できないというつまらぬ官僚主義,パイロット増強計画をまとめた寺井義守海軍中佐が米国帰りであったために,なかなか彼の案が承認されなかったというつまらぬ派閥主義などが指摘されています.
 だから,佐藤氏は国家の無策のために特攻という手段をとらざるを得なかった大西瀧治郎中将に対して同情的なのですが,当時は今の自衛官と違って軍人には政治的発言力がありましたから,この指摘は少し同業のよしみが強すぎるのではないかと思いました.
 それはともかく,佐藤氏の論考は特攻の悲劇がなぜ起こったかを考える上で傾聴に値すると思います.

バグってハニー by mail

 また,同じく佐藤守氏のブログで,海軍の搭乗員増員計画がうまくいかなかったことに関し,寺井中佐自身の講演を書き起こしたものも紹介されていますのでお知らせします.
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070627/1182910497
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20070628/1182994688

 さらに,そのコメント欄ではこの資料を提供されたゼロ戦パイロットと同期の「13期K.K」という方が,この計画はやはり無理だったのではないかと指摘されています.
 さらにまた,同期のパイロットで戦死された方の胸を打つ遺書も紹介されていますので,ぜひご覧ください.

バグってハニー in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 特攻の手順を教えてください。
 超低空で索敵→敵発見で急上昇,急降下と思っていますが,実際どうなのでしょう。
 わざわざ発見してから上昇してると,狙い撃ちにされそうな気がするのですが・・・。

 【回答】
 特攻機の突入の手順には二種類ありました。

 まずは,
*超低空で索敵→敵発見で急上昇,急降下
 この場合は低空で接近し,目標を発見した後いったん高度300メートルまで上昇し,目標から約10キロの地点から降下を開始して最終約45度の突入角度で突入します。
 利点としては,レーダーに捕まりにくいことと(約20キロ付近までは探知が困難),上空哨戒戦闘機が目視で発見することが困難なことです。

 次に,
*高高度で接近し,目標発見後緩降下で突入
という方法もありました。
 約6000メートル以上の高空で飛行すれば,レーダーには発見されるものの哨戒戦闘機がその高度に達するまでに時間がかかるために,特攻機が敵機を早めに発見して対応することが可能でした。
 あまり角度をつけて突入すると,速度が付きすぎてコントロールが難しくなるため,角度の浅い緩降下で突入を行いました。

 理想はこれらを組み合わせて敵の対応を困難にすることですが,実際は使用できる機体の数や錬度の問題で不可能でした。

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE

 他にも,超低空でそのまま突っ込むなどの突撃法がとられています.
 応用編ですが,島影を利用してレーダー探知から逃れ,そのまま一気に突っ込んだ例(リンガエン湾などで確認されています)もあります.

ゆうか in FAQ BBS

 【関連動画】
「ワレYouTube発見セリ」:Kamikaze


 【質問】
 レイテで神風特別攻撃隊として参加したのは,海軍兵学校の方々なんですか?
 参加した全員の名前は分かりますか?

(軍歌好き ◆f9B5GYj5EY)

 【回答】
 フィリピンで第一神風特別攻撃隊が編成された際には,201航空隊副長の玉井中佐が第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将の命令により人選を行いました。
 その際の人選は甲飛10期生※を中心として行われ,指揮官として海兵70期生の関行男大尉が指名されました。
 しかし,その後の特攻では兵学校出身のパイロットは少なく,予科練出身の下士官と予備学校出身の士官パイロットが中心になっていきます。
(※甲飛10期生=第十期甲種飛行予科練習生)

 比島方面作戦 特攻戦死者名簿
http://www.warbirds.jp/senri/22tokuko/101/101.html

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 予科練に入った学生達は,訓練を終えると他のポジションには入らず(向いてないから違う分野に行け,とかにはならず),みな全員が特攻隊員になったのですか?

 【回答】
 「予科練」とは「海軍飛行予科練習生教育練習航空隊」の略なので,全員がパイロットになることを前提にしています.
 したがって操縦・機体整備・装備品整備・兵器整備・偵察といった飛行機関連の初期練習に回されるわけで ,
「飛行機は無理.潜水艦に乗れ」
というのは入隊前に言い渡されています.

 しかし昭和19年秋以降に入隊した予科練生は,ほとんど飛行機に触れることなく ,回天・震洋をはじめとする水上水中特攻隊,あるいは本土決戦用の陸戦隊員へと鞍替えしてます.
 なお,桜花・秋水には専用の練成航空隊がありましたが,末期の予科練成には遠すぎる存在でした.

 各予科練の詳細は「等身大の予科練」をご一読ください.
http://joyo-net.com/syoseki/yokaren/yousei.html

鷂 ◆Kr61cmWkkQ


 【質問】
 神風特別攻撃隊か,瑞鶴の囮作戦時の攻撃隊の中に,中学生レベルはいたのではないでしょうか?
 当時の小中学生ってかなり小柄だったんじゃないでしょうか?
 155cm前後で40〜50キロぐらいの子も,零戦で特攻させられたりしたのでしょうか?

 【回答】
 戦前の教育制度を調べればわかるが,陸海軍ともパイロットになるには,最低でも今の高専卒に相当する年齢になってる.
 流石に中学生くらいの年齢はいない.
 更に,空母艦載機搭乗員になるにはそこからまた専門的な訓練を受けるので,そんな極端に若いパイロットはいない.

 戦前と現代では教育制度が異なっている事に注意しよう.
 例えば,戦前の教育制度で「高等学校の生徒」と言うと,現代では大学の1年次くらいに相当する(一昔前の国立大学だったら教養課程だな).
 戦前の中学とは,旧制中学のことで,戦後の学制では高校と同じ扱い..

 有名な海軍の「予科練(飛行予科練習生)」でも,対象者は満15歳から20歳.
 その予科錬では,戦争末期のときでさえ教育期間は半年取られており,旧制中学在学中に,予科錬に志願して卒業するまでにどう考えても9ヶ月はかかる.
 さらに,予科錬でたてなんか空母に配属しないので,(そもそもペーペーは飛び立てない)どう考えても陸上基地でしばらくは訓練だわな..
 なので,最低の年齢で採用されて入隊後即特攻に出撃したとしても今の高校1年生くらいやね.

 尚「特攻」(神風攻撃)で戦死した人の平均年齢は20歳前後だ.

 ちなみに陸軍の場合身長が152cm以上ないと「甲種合格」になりません.航空兵にもなれまっしぇん.
 当時の日本人だと大人の男性でも,155cm前後で40〜50キロぐらいの人は普通にいた.


 【質問】
 特攻隊員への指導方針は?

 【回答】
 軍極秘 第十航空艦隊機密第101号 「特別攻撃隊指導指針」(防衛省戦史研究室所蔵資料)によれば,

特攻隊員指導方針
一,特別攻撃隊員ヲシテ根底アル決意ヲ堅メシムルコト
 指導者ハ常ニ自己ヲ反省シ自身特攻隊員ノ気持ニ成リ切ルコトヲ念願スルヲ要ス
 指導上ノ要点
 (イ)戦局ノ現状ト日本ノ危機ニ就テ或程度ノ真相ヲ話スコト
  (一)忠勇ノ士多数アリ個々ニハ幾多遺功ヲ奏シ大ナル戦果ヲ挙ゲ来リタリト雖モ大勢ノ赴クトコロ如何トモ致シ難ク今日ニ至レリ
     右ノ原因ノ主ナルモノ
       戦力(国力)ノ桁違ノ大差
       使用兵器ノ性能ノ差
     随而之ヲ補ヒ得ルモノ戦闘指導ノ優ト精神力ノ偉大ナル発揮ヨリ外ニナシ
  (ニ)燃料ノ取得,飛行機生産ノ見込
  (三)敵本土攻略ノ企図必須ナルコト,之ニ対スル本土防衛態勢ノ実情
  (四)搭乗員各自の技量,教育見込
 (ロ)帝国海軍ノ責任ト吾人ノ覚悟
 (ハ)先輩ノ偉業
 (ニ)体当攻撃ノ特徴及利点
  (一)比較的未熟者ニテ実施シ得ルコト
  (ニ)命中確実
  (三)天候ニ禍ヒサルコト少シ
  (四)敵戦闘機ニ食ハルコト比較的少シ
  (五)敵空襲下発進シ易シ
  (六)損傷アル機ト雖モ其レガ致命的ニアラザル限リ使用ス
  (七)性能悪キ機材モ使用シ得

ニ,取扱及躾

 (イ)取扱ヲ殊更ニ特別ニセザルコト,但シ宿舎等ヲ別ニスルハ気分ヲ一致セシムルニ必要ナリ
  訓練上或ハ気分ノ弛張ニ依リテハ外出等ヲ停止スルコト

 (ロ)特攻隊印ナリトシテ自棄的気分ヲ起サシメザルコト
  現戦局ハ国民全部特攻タルヲ要スルニ到リ唯前後アルノミニシテ現在ノ特攻隊員ハ一足先ニ選手トシテ出掛ケ行クベキモノタルコトヲ銘記セシメ,飽ク迄謙虚ナル態度ヲ持セシムルコト

 (ハ)躾ハ飽ク迄厳格ニナスコト
  特攻隊員タルガ故ニ手ヲ弛メザルコト,斯クスルコトガ結局彼等ノタメニナル
  死ニ至ル迄ノ真面目ナル行ガ死ヲ一層有意義タラシムルコトヲ教フルコト

 (ニ)精神的不適或ハ行動不良ト認メタル者ハ抽出,他ニ転向セシムルコト
  此ノ際新配置ニ就テハ慎重考慮スルコト

 (ホ)病気ニ罹リタル時等ハ気力衰ヘ士気落チ勝チナリ,此ノ際ノ取扱ニハ特ニ注意シテ早速快復ニ努力スルカ,一旦特攻隊員ヲ免ズルコトモ必要ナルコトアリ

 (ヘ)雑念生セザル様可及的訓練ヲ励行スルヲ要スルモ燃料等ニ制肘セラレ不如意ナル現状ニ於テハ課題ヲ与ヘ,或ハ運動其ノ他仕事ニ従事セシメ,努メテ活動明朗敢闘的ナル雰囲気ノ醸成持続ニ努ムルコト

 〔略〕

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 艦攻や艦爆で特攻する時に,後部座席に人が乗る必要があったのですか?

 【回答】
 パイロット一人では,警戒,航法,無線に不安があったため.
 初期の陸軍重爆特攻でも,パイロットと航法員のみで特攻を行うケースがあったが,敵機の襲撃を受けても反撃が出来きずに撃墜されるケースが発生し,それなら…… ということで,搭乗員全部を乗せたりするようになりました.
 また,艦攻や艦爆では無線機が偵察員席にあり,パイロット一人では無線を打てなかったり,特攻成功の際はそれを伝える長付を打たなければならなかったりで,無線員を乗せる必要があったワケです.

ベタ藤原 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 ペアの搭乗員と別れたくないといった心情的なものもあるかも知れませんが,特攻であっても航法,電信要員を乗せての出撃が殆どです.

 ただし,特攻戦死者名簿をつらつらと眺めると,艦爆隊で単独特攻があります.
 これは第三御盾隊の彗星に集中していて,後席に搭乗者を乗せた機体と必ずペアを組んでますが.
 また,宇佐航空隊(練習航空隊)の九九艦爆にも単独突入があります.この隊も編隊長機は2名搭乗ですが.


 【質問】
 大西中将は「二千万を特攻に用いれば勝てる」と発言しましたが,一方で切腹し,「彼は勝っていても腹を切っていた」とも言われています.
 やはりこの二千万特攻というのは立場上こう言わざるを得なかったでしょうか?
 特攻隊を送り出すエピソードを聞いていると,どうも本気だとは思えないのですが.

 【回答】
 大西長官が昭和20年の2月の下旬から台湾在住の指揮下の各部隊に対し,繰り返し「特攻の重要性」を訓示していますが,その内容に
「100万の敵が本土に来襲せば,我は全国民を戦力化して300万,500万の犠牲を覚悟してこれを殲滅せよ」
というくだりがあります.

 もちろん将官の訓示がこの一文で終わるわけも無く,
「今や飛行機や兵器は飛行機会社や兵器工場の製品ではなく,国民全部女子供までが勝って貰うために泣きながら作った,金にかえられない貴重なものである」
と続き,すべての航空機の「完全な戦力化」つまり特攻の必要性を説いたわけです.

 これは指揮下部隊への訓示でしたが,毎日〔当時,東日〕の記者が一航艦の検閲を受けたと大本営にウソを言い,内地の新聞に載せます.
 この記者は特攻を賛美していましたが,自分で記事を書けば検閲で消される.
 そんなとき,部内限りのはずの訓示で大西長官が,「自分の言わんとしていることを言った」ので「彼の口を借りた」のだそうです.

 5月10日に軍令部次長となった大西中将は抗戦論を展開しますが,その内容は
「99回負けても最後の1回で勝てばいい」
「いままで真の決戦は行われていない」
「本土こそが陸海空の戦力を総合できる」
「温存した航空機1万機と陸軍120万海軍100万の兵力を特攻隊とすることで上陸軍と刺し違える」
「そうすれば負けることは無い」
というものです.

 航空のパイオニアで航空主兵論者である大西中将が,戦力の中核に航空機を据えるのは当然で,
「艦隊の無い海軍省は空軍省に脱皮させる」
とも言ってました.
 「2000万を特攻」させるとするならあまりにも飛行機が足りません.

 以上の記述は秋永芳郎の『海軍中将大西瀧治郎』(光人社文庫,1997.4)に拠ります.
 500万というのも桁外れの犠牲ですが,一応,軍人という前提です.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 菊水作戦における日本軍の投入兵力は?

 【回答】
 戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」によれば,

菊水1号(4月6日)
 特攻 計215機(未帰還162機)
  爆戦×86,甲戦×4,艦爆×76,艦攻×45,銀河×4,
 通常 計176機(未帰還16機)
  彩雲×20,夜戦×18,甲戦×116,瑞雲×4,陸攻×12,艦攻×5,大艇×1

菊水2号(4月12日)
 特攻 計103機(未帰還69機)
  陸攻×8,桜花×8,爆戦×25,甲戦×6,艦爆×20,艦攻×22,銀河×12,百式司偵×2,
 通常 計241機(未帰還45機)
  彩雲×18,夜戦×17,甲戦×150,陸攻×13,銀河×15,飛龍×16,瑞雲×6,水偵×3,月光×3,

菊水3号(4月16日)
 特攻 計177機(未帰還106機)
  陸攻×6,桜花×6,爆戦×89,艦爆×34,艦攻×20,銀河×21,
 通常 計239機(未帰還21機)
  彩雲×14,夜戦×11,甲戦×166,艦爆×5,艦攻×11,銀河×20,飛龍×12,

菊水4号(4月18日)
 特攻 計70機(未帰還32機)
  陸攻×4,桜花×4,爆戦×11,甲戦×3,艦爆×28,艦攻×12,水偵×8,
 通常 計201機(未帰還7機)
  彩雲×17,夜戦×36,甲戦×94,艦爆×5,艦攻×23,陸攻×8,銀河×10,水偵×1,飛龍×6,瑞雲×1,

菊水5号(5月4日)
 特攻 計136機(未帰還61機)
  陸攻×7,桜花×7,爆戦×62,甲戦×5,艦爆×14,艦攻×13,水偵×28,
 通常 計164機(未帰還4機)
  彩雲×10,夜戦×22,甲戦×91,艦攻×9,陸攻×9,銀河×9,飛龍×7,瑞雲×7,

菊水6号(5月11日)
 特攻 計69機(未帰還50機)
  陸攻×4,桜花×4,爆戦×37,艦攻×10,銀河×8,水偵×6,
 通常 計106機(未帰還3機)
  彩雲×9,夜戦×10,甲戦×75,艦攻×7,陸攻×3,銀河×2,

菊水7号(5月24〜25日)
 特攻 計107機(未帰還32機)
  陸攻×12,桜花×12,爆戦×10,銀河×22,白菊×49,水偵×2,
 通常 計254機(未帰還9機)
  彩雲×21,夜戦×36,甲戦×131,艦攻×10,陸攻×17,銀河×13,瑞雲×15,大艇×1,水偵×1,飛龍×9,

菊水8号(5月27〜28日)
 特攻 計51機(未帰還26機)
  白菊×36,水偵×15,
 通常 計157機(未帰還20機)
  彩雲×3,夜戦×16,甲戦×85,艦攻×8,陸攻×15,銀河×12,瑞雲×3,水偵×2,大艇×1,飛龍×12,

菊水9号(6月3〜7日)
 特攻 計23機(未帰還5機)
  爆戦×13,甲戦×4,艦爆×6,
 通常 計222機(未帰還13機)
  甲戦×101,彩雲×21,夜戦×45,艦攻×19,陸攻×12,銀河×3,瑞雲×8,水偵×6,大艇×1,飛龍×6,

菊水10号(6月21〜22日)
 特攻 計67機(未帰還28機)
  陸攻×6,桜花×6,爆戦×25,甲戦×6,白菊×16,水偵×8,
 通常 計188機(未帰還25機)
  彩雲×6,夜戦×12,甲戦×121,艦攻×6,陸攻×9,銀河×4,瑞雲×16,水偵×2,飛龍×12,

 夜戦は彗星,零戦,月光.
 飛龍は陸軍より指揮を移管された部隊.

 でもって,2月14日〜6月22日に至る海軍航空作戦は,
九州方面より出撃 延7095機
 制空・直掩 3004機,偵察・哨戒 919機,攻撃 3167機
台湾方面より出撃 延783機
 制空・直掩 109機,偵察・哨戒 94機,攻撃 580機

 これらに加えて特攻出撃 延1868機

 そして未帰還機は総計1339機,内特攻972機.

菊水作戦に呼応した陸軍の総攻撃

第6航空軍
第1次総攻撃(4月6〜7日)
 特攻 118機
 通常 
  艦船攻撃 襲撃機×2(未帰還2),飛行場攻撃 重爆×10(未帰還2),制空 71(未帰還15),偵察 8(未帰還1),

第2次総攻撃(4月12〜13日)
 特攻 90機
 通常
  艦船攻撃 襲撃機×4(未帰還0),飛行場攻撃 重爆×8(未帰還2),制空 68(未帰還5),偵察 3(未帰還0),

第3次総攻撃(4月16日)
 特攻 50機
 通常
  艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還2),飛行場攻撃 重爆×4(未帰還0)+戦闘機×11(未帰還8),制空 36(未帰還2),偵察 1(未帰還1),

第4次総攻撃(4月21〜22日)
 特攻 36
 通常
  艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還1),飛行場攻撃 重爆×8(未帰還0)+襲撃機×3(未帰還3),制空 46(未帰還3),偵察 5(未帰還1),

第5次総攻撃(4月28日)
 特攻 36
 通常
  艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還0),飛行場攻撃 重爆×7(未帰還0),制空 28(未帰還8),偵察 1(未帰還0),

第6次総攻撃(5月4日)
 特攻 50
 通常
  艦船攻撃 襲撃機×5(未帰還5),飛行場攻撃 重爆×7(未帰還1),制空 30(未帰還4),偵察 3(未帰還1),

第7次総攻撃(5月11日)
 特攻 40
 通常
  艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還2),飛行場攻撃 重爆×5(未帰還1),制空 30(未帰還5),偵察 1(未帰還0),

第8次総攻撃(5月24〜25日)
 特攻 70
 通常
  艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還2),飛行場攻撃 重爆×26(未帰還10),制空 55(未帰還5),偵察 2(未帰還1),

第9次総攻撃(5月27〜28日)
 特攻 39
 通常
  艦船攻撃 襲撃機×2(未帰還1),飛行場攻撃 重爆×4(未帰還2),制空 25(未帰還4),偵察 1(未帰還0),

第10次総攻撃(6月3日)
 特攻 31
 通常
  艦船攻撃 襲撃機×3(未帰還2),飛行場攻撃 0,制空 36(未帰還3),偵察 1(未帰還0),

 ※第8次総攻撃には義烈空挺隊を含む.

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 〔特攻攻撃によって〕沖縄戦では沈没した艦船76隻,損傷164隻に及び,米軍将兵たちは戦場神経疲労症(シェル・ショック)に患って,一時は戦争遂行も危ぶまれるほどだったのである.

小林よしのり『戦争論』

 【事実】
 撃沈は26隻に過ぎず,しかも,撃沈した艦船は駆逐艦以下の小型艦艇に限られ,巡洋艦以上の大型艦は撃沈されていません.
 特攻によって,アメリカ軍が戦闘不能状態に陥ったという事例もありません.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6kamikaze_k.htm

軍事板

 もっとも,戦果は資料によって前後します.
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/sensi1/sensi-okinawa23.html
では24隻,
http://homepage1.nifty.com/usaki/eirei/tokkou1.html
では軍艦32隻+輸送船75隻,という数字もあり(信憑性に疑問符付),まったくの無根拠というわけでもありません.
 小林氏が読んだ何かには「76隻」という数字が載っていたのでしょう.
 ただしその資料の信憑性を十分吟味せずにそのまま数字を使ったこと自体は責めを負うべきです.

 また,一時撤退を検討した記録は確かに残ってます.
 ソッコー却下されていますが(苦笑

ゆうか in FAQ BBS

▼ また,歴史家のサミュエル・モリソンはその著書『モリソンの太平洋海戦史』(光人社,2003.8.31)の中で,特に危険だったレーダー・ピケット艦について言及していますが,体当たりされた艦艇の乗員の様々なエピソードを記した後,以下のように結んでいます.

――――――
 レーダー・ピケットと他の艦船に対してカミカゼが行ったのは,自己破滅の猛攻撃だったが,かつてこのような炎の恐怖,責め苦の火傷,焼けつくような市に用いられた飛び道具や兵器は少なかった.
 沖縄での戦いの中で,来る日来る日も〔原文ママ〕,縡の艦船の乗組員が示した持続する勇気,臨機の才,敢闘精神は海軍の歴史にいくつもの類例を残している.

――――――p.436

 幾分は自国自讃も混じっているでしょうが,同書に述べられている具体的事例は,
「戦争遂行も危ぶまれる」
とは程遠い敢闘精神を確かに示しています.▲

 【参考動画】
「ワレYouTube発見セリ」:アメリカからみた【神風特攻隊(KamikazeTokko)】第二次世界大戦


 【質問】
 特攻は,中には強制もあったことは認めるが,全部がそうでなかったのでは?

 【回答】
 制度的には強制ですね.
 軍板の住人の多くは,それを作戦にまで組み込んだことを問題としています.

 まぁ広義の強制って奴だな.
 特攻に限らず日本の社会はそういう風潮がある.やりたくないけどそれをクチにだせる空気じゃないってのは,悲しいかな,自己主張の弱い日本人には得てしてある.

(軍事板)

 【質問】
 でも,自ら志願した若者もいたはずでは?
 【回答】
 本当に心の底から喜んで参加しのかは誰にも分かりません.
以下の引用文に見られるように,当時,毎日のように特攻隊員を見ていた人でさえ,別の一面には気がつかなかったようです.

 軍隊,取り分け個人の兵士というのはですね,出来うるまで生き残って敵を倒すことが絶対条件なんです.これは軍事の基礎の基礎です.本来,全ての訓練,制度はその為にあるといって過言ではないのです.

 古今東西,ありとあらゆる戦で組織が死を決したとき,それは負けるときのみです.
 そして負けが決定的であるのに,ただ悪戯に引き伸ばすためだけの作戦を強要してはばからない組織は,すでに死に体も同然でしかありません.
 つまり組織としては瓦解しているわけです.

 軍板の住人は,おそらくほぼ全員が,国に残した人々のために,死を賭して立ち塞がろうと気高く出撃していった人々が居たことを疑ってはいません.
 ですが,それを強要して憚らず,美談に仕立て,軍事組織としての本分を忘れたことに対して容認できないのです.

(軍事板)

(以下,引用)

 暗闇の坂道を山裾の搭乗員室に向かう.搭乗員室とは名ばかりで,道端の椰子の葉で葺いた堀っ建て小屋,土間に板を並べただけのものである.
 その入り口に近づいた時,突然右手の暗闇から飛び出して来た者に大手を広げて止められた.
「ここは士官の来る所ではありません」と押し返してくる.
 私はその声に聞き覚えがあって,むっとした.それは二〇三空の倉田上飛曹であった.厚木空の教員時代,同じ分隊におり,同じラバウル帰りの長野,山本の同年兵である.三人組で私の下宿へ押しかけて来ては妻の酌で飲んでいった奴である.
「何だ,倉田じゃないか.どうしたんだ」
 私の声に彼も気がついた.
「あッ分隊士ですか.分隊士ならいいんですが,士官が見えたら止めるように頼まれ,番をしていたものですから」と変なことをいう.
 不審に思ってわけを聞いてみると,
「搭乗員宿舎の中を士官に見せたくないのです.特に飛行長には見られたくないので,交代で立ち番をしているのです.飛行長が見えた時は,中の者にすぐ知らせるのです.しかし,分隊士ならよろしいですから見て下さい」
 そう言われてドアを開けた.そこは電灯もなく,缶詰め空缶に廃油を灯したのが三,四個置かれていた.
 薄暗い部屋の正面に,ポツンと十人ばかりが飛行服のまま,あぐらをかいている.そして,無表情のままじろっとこちらを見つめた目が,ギラギラと異様に輝き,ふと鬼気迫る,といった感じを覚えた.
 左隅には十数人が一団となって,ひそひそ話している.ああ,ここも私たちの寝床ではない,と直感して扉を閉めた.
「これはどうしているのだ」
 倉田兵曹に聞いた.彼の説明では,
「正面にあぐらをかいているのは特攻隊員で,隅にかたまっているのは普通の搭乗員です」
と言う.私は口早に質問した,
「どうしたんだ.今日俺たちと一緒に行った搭乗員たちは,みな明るく,喜び勇んでいたように見えたんだがなあ」
「そうなんです.ですが,彼らも昨夜はやはりこうしていました.目をつむるのが恐いんだそうです.色々と雑念が出て来て,それで本当に眠くなるまで,ああして起きているのです.毎晩十二時頃には寝ますので,一般搭乗員も遠慮して彼らが寝るまでは,ああしてみな起きて待っているのです.しかし,こんな姿は士官には見せたくない.特に飛行長には,絶対にみんな喜んで死んで行く,と信じていてもらいたいのです.だから,朝起きて飛行場に行く時は,みんな明るく朗らかになりますよ.今日の特攻隊員と少しも変わらなくなりますよ」
 私は驚いた.今日のあのゆうゆうたる態度,嬉々とした笑顔,あれが作られたものであったとすれば,彼らはいかなる名優にも劣らない.
 しかし,また,昼の顔も夜の顔もどちらも本心であったかも知れない.

【軍事】泣ける話【Part5】

 甲飛四期生(私が筑波空で受け持ったクラスである)の某准士官がいた.
 彼は妻帯者であり,准士官にもなっているので,技量も優秀なのは当然である.
 彼が特攻出撃の前夜私のところに来て,
「特攻攻撃とは爆撃命中率百パーセントであれ,という意味ではないのですか.私は敵艦に完全に命中させる自信があります.その場合,生きて帰ってはいけないのでしょうか?」
と私に問いかけた.
 私は返事に困った.
「いや,それはいけないのだ」
とは知っていながらも,彼を前にしては言えなかった
(中略)
 翌朝,特攻隊は例の如く,出撃のため号令台の前に整列し宇垣長官のはなむけの言葉をちょうだいした.
「前日は,小官所要のため特攻隊の見送りができなかった.本日お前達が行ったら,昨日出撃していった者達によろしく伝えてくれ.みんなの成功を祈る」
 長官の言葉が終わったとき,昨夜の准士官が,
「質問があります」
と言って手を挙げた.
 長官は彼の方を見た.
「本日の攻撃において,爆弾を百パーセント命中させる自信があります.命中させた場合,生還してもよろしゅうございますか?」
彼が言い終えるや否や,長官は即座に大声で答えられた.
「まかりならぬ」
の言であった.
「かかれ」
の号令があって,彼は私のところに走り寄った.
「今聞いていただいたとおりです.あと二時間半の生命です.では,お先に」
と言い残して機上の人となった.

(岩井勉著「空母零戦隊」,文春文庫2001)


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 最近,つくづく「若い」ということの「純粋性」を思い知らされる.

 歳をとればとるほど,魂に不純物が混じってきて,その分,言葉で粉飾することが身についてしまう.

 言葉で自分自身を誤魔化して生きているやつの多いことよ.

 特攻隊に続々志願したのも,若者たちだったことに,改めて思いが至る.

(小林よしのり from SAPIO 2003/8/30 & 9/3合併号,p.81)

 【ツッコミ】
 「言葉で自分自身を誤魔化して生きているやつ」とは勿論,小林本人のことですよね? まさか,普段,小林が中傷している人達のことではないですよね?

・拉致を「テロだ」と言ったり,「テロじゃない」と言ったり,
・「大東亜青年塾」名誉塾長なのに,「右翼団体とは関係ない。(ゴー宣 190章)」と言ったり,
・なぜか万景峰号等の北朝鮮船に対する厳しい臨検には反対したり,
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/3408/200306access.mp3

等のウソでウソを上塗りするような発言を連発してきた小林本人のことですよね?

 だいたい,
>「若い」ということの「純粋性」を思い知らされる.
など,かつて「純粋まっすぐ君」をあれだけ批判していた小林が,言っていいことではありませんね.

 特攻隊の英霊達を,テメエのご都合主義で利用すんな.

????

▼ 俺は保阪氏マンセーではないけれど,例えば特攻隊に関連する本や記事の中では,現代2004年12月号と2005年1月号に掲載された,保阪氏の「60年目の特攻隊論」がいちばんバランス取れていると思う

 端的に言えば,「英霊」とか「犬死」とか白黒二元論で見るのではなく,美談ではない事実として,彼らの心情や内面をありのままに知ろうという視点.

 また,保阪氏と半藤氏の対談本「昭和の名将と愚将」の最後のところに曰く,特攻については,
「犬死ではない,しかし英雄ではない,我われは感情的になってはいけない」
だそうだよ.

 他にも彼の本や記事はいろいろ読んでるけど,彼は決して「日本軍は最悪で評価はゼロ」という結論ありきで始まってるとは思わないよ.
 世代的に憤りとか抑えられん部分があるのだろうとは思うが,それはしょうがないよね.

 ただ,保阪が2007年に母校で公演した際,女学生から
「でも,この本(「昭和の名将と愚将」)の最後の方は,随分と感情的になっちゃってますよね」
って指摘されたとか.

 まあ特攻に関しては,費用対効果から語るべきだよな,本来は.
 当時の日本人一人の値段に,特攻によって敵艦一隻を撃沈するのに必要な数をかけて,それが米軍の軍艦一隻とつりあうのかどうか.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 旧軍に終戦まで特攻を拒否し続けた航空部隊があったって本当ですか?

 【回答】
 有名なのは海軍の「芙蓉部隊」.渡辺洋二氏の「彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団」(光人社)に詳しく載っています.

軍事板

 上記で紹介されている書籍の紹介↓
http://plaza.rakuten.co.jp/eugene/3004

 芙蓉部隊の基地の跡地の写真↓
http://sooshiya.web5.jp/sootakara/oosumi/iwagawakichi/index.html
 米軍に見つからないよう,滑走路は巧妙にカモフラージュされていたそうです.

 特攻ではなく夜間爆撃を選択した芙蓉部隊指揮官の美濃部正海軍少佐は,とことん合理主義を追求する人だったようです.
 帝国海軍の悲劇はこのような軍人が例外だったということなのでしょう.

バグってハニー by mail


 【珍説】
 特攻隊の遺書には捏造がある.

 【事実】
 「捏造」は無いが,出版された特攻隊員の遺書が収録時点で改竄された例は,枚挙の暇がないほど多い.
 数年前,朝日から出た本の改竄を見つけた読売が喜んで記事にしたら,その後自社の本でも改竄があったことが判明して大恥を掻いた,なんて一件も.

 ちなみに,「きけわだつみの声」にも「添削」がある.「愛国戦隊大日本」モードに入ってる人達も当然居たんだが,なにせ,岩波から出てる本なので,そういう部分はカットされてる.

 なお,特攻隊員の遺書に必ずしも本音ばかり書かれているわけではない.一応,上官による検閲があるため.



 【質問】
 なぜ『きけわだつみの声』などで,そうした「添削」がまかり通ったのか?

 【回答】
 「戦争体験」を政治利用したい政治勢力が戦後,主導権を握ったためだという.
 そして,日本の軍国主義を徹底非難することは,当初軍国日本の解体を最優先しようとしていたGHQの占領目的に沿ってもいたので,彼らはGHQの庇護の下,そういう行為を推し進めることができたのだという.
 以下引用.
――――――
 戦争体験を如何に語り継ぐかで戦後,主導権を握ったのは左翼陣営だった.
 左翼陣営は共産主義革命の到来は歴史の必然であり自明であって,
「現政権を打倒し革命を成就するためには全て(殺人,テロを含む)が許される」
というとの強い信念のもと,「戦争体験を政治の手段,政治の道具として利用しつくそう」とする.
 ところが戦争体験の政治利用に反発を覚える人たちもいて,戦争体験は政治的に利用しないと意味が無いと思う左翼の間で,大きな論争が繰り返される.

 左翼は戦争体験の改ざんを公然とすすめた.
 「きけわだつみのこえ」に収録されたのは戦争を呪い,戦争で死ぬことの無意味さを嘆く左翼の政治目的に沿った声ばかりだが,当然ながら,出陣学徒兵たちが残した遺書はこうした趣旨のものばかりではなかった.
「自分のため家族のため国のため民族のために進んで死んでいきます」
という,絵に描いたような忠君愛国の遺書も多数あったわけだが,こうした「左翼の政治目的に不都合な真実」は全部カットされ,掲載されなかった.
 それでも日本の軍国主義を徹底非難することは,当初軍国日本の解体を最優先しようとしていたGHQの占領目的に沿ってもいたから,GHQの庇護の下,左翼は大手を振って歴史の改ざんを推し進めることになる.
 今から思うと,これがそもそもの「戦後日本の不幸」の始まりだったように思える.

 こうした「戦争体験の政治利用」に対しオールドリベラリスト(田中耕太郎,和辻哲郎,竹山道雄など)や安田武,渡辺清ら少なからぬ人々が違和感を覚え,異議を唱えた.
 オールドリベラリストと目された人たちは高い教養と常識を身につけた知の巨人たちであり,知識が浅く視野が狭い当時の若者たちのようには短兵急な共産主義革命の情熱に絡め取られなかった.
 そして革命にはやる若者たちに対し,
「学生の本分は教養を磨くことだ」
と諭したのである.
 ところが,傲慢にも当時の若者たちは,こうした知の巨人たちの讒言をものともせず,むしろ「黙れ,ジジイ」と罵声を浴びせたのである.
 この罵声を煽ったのが共産主義者吉野源三郎率いる岩波書店の雑誌「世界」であり,そこに集った共産主義シンパの丸山真男,都留重人,羽仁五郎,加藤周一ら所謂進歩派知識人たちであった.
 当初,オールドリベラリストも盛んに「世界」に寄稿していたが,やがてアカの吉野によってオールドリベラリストら「古い教養人」は「世界」から追放され,雑誌「心」に流れていく.
 〔略〕
 自分とは意見を異なる考え方をする人々に,ひたすら「保守反動」というレッテルを貼って,その意見を封殺し,人格を全否定し,罵倒しつくし罵詈讒謗を浴びせた連中は,私の目から見ると,まさに竹山道雄・田中耕太郎らが指摘するように戦前の右翼,ファシスト,青年将校と瓜二つである.
 またその20年後に,今度は時代の寵児だった丸山真男がキャンパス内で左翼学生に拉致され罵声を浴びせられるのだから歴史は皮肉である.

 〔略〕

――――――「塩津計」:左翼学生,日本共産党,全学連,全共闘が,いかに戦後の日本を毒したかというお話――『「戦争体験」の戦後史』(福間良明著,中公新書,2009.3)書評
 要するに歴史「修正」ないし改竄をするようなヤツに,右も左もないということ.

 【質問】
 8回出撃し,体当たりをしないで敵艦に攻撃をし,終戦まで生き残った特攻隊員が居たって本当ですか?

 【回答】
 陸軍航空隊の佐々木友次伍長のことでしょうか?

 昭和19年11月12日,万朶隊の1機として出撃するも,不時着,生還。
 困ったことに,すでに特攻戦死の報告が上層部に上がっており,その後,上層部から
「お前はすでに死んだことになっているんだから,次の出撃で死ね」
と言われ続けたが,卓越した技量と,強運によって,何度出撃しても生還し,ついに終戦を迎えたという人です。


 【質問】
 神雷桜花隊の出撃概容を教えられたし.

 【回答】
 「真相・カミカゼ特攻」「ああ神風特攻隊」より

3月21日 第一神雷攻撃隊 出撃時刻1120
 陸攻18機・桜花16機(全滅,桜花1機消息不明?)
4月01日 第二神雷攻撃隊 出撃時刻0229
 陸攻6機・桜花3機(陸攻1機生還,さらに3機生還?)
4月12日 第三神雷攻撃隊 出撃時刻1230
 陸攻5機・桜花8機(陸攻3機生還)
4月14日 第四神雷攻撃隊 出撃時刻1130
 陸攻7機・桜花7機(全滅)
4月16日 第五神雷攻撃隊 出撃時刻0658,0710
 陸攻6機・桜花6機(陸攻1機生還?)
4月28日 第六神雷攻撃隊 出撃時刻1625
 陸攻4機・桜花4機(陸攻1機生還,さらに3機生還?)
5月04日 第七神雷攻撃隊 出撃時刻0522,0630
 陸攻7機・桜花7機(陸攻1機生還,さらに1機生還?)
5月11日 第八神雷攻撃隊 出撃時刻0556,0605,0712
 陸攻4機・桜花4機(陸攻1機生還?)
5月25日 第九神雷攻撃隊 出撃時刻不明
 陸攻12機・桜花12機(陸攻9機生還?)
6月22日 第十神雷攻撃隊 出撃時刻0525
 陸攻6機・桜花6機(陸攻2機生還?)

 「生還?」 としたのは,特攻として功績が記録されておらず,この2冊だけからは詳細不明な機体です.

 後に海軍神雷部隊戦友会編・「海軍神雷部隊」で補完し,第1・第9・第10は編隊攻撃,第6・第7・第8が単機攻撃なのはほぼ確定しました.
 第5も単機の可能性が高そうです.

 このときはトルエン大尉・名無しさんと三人で議論を重ね,当初抱いていた私の「桜花は編隊出撃基本」という認識が誤りであると知ることができ,貴重な体験でありました.

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 飛龍を改造した特攻機の名前は何ですか?

 【回答】
 丸メカニック「飛龍」によれば,以下のような種類がありました.

●「特別攻撃機ト号機」

 昭和19年8月,爆撃装置を全部撤去し,後上方砲座後方に海軍の80番爆弾(800kg)2発を固定し,空母や戦艦に体当たりして一撃で撃沈しようとの目的で試作指示.
 尾部が重くなり,尾部砲と同防弾板を廃止.
 昇降舵には固定タブ追加.

 生産は川崎航空機で行い,要求の全10機が翌9月に完成し,追加された5機も12月には完成.
 一部が事故で失われ,残りはマニラにおいて空襲により破壊されたと伝えられる.

●特別攻撃機桜弾装備機

 炸薬量1600kgの桜弾を無線席後方に搭載,巨大なフェアリングをかぶせた機体.
 他の武装は全て撤去.
 乗員も2名のみ(指揮官機は3名)
 昭和20年2月に試作2機が完成したのみ.

 他にサイパンまで往復して攻撃しようという,「特殊航続延長機」と「キ-67改長距離襲撃機」というものがありました.
 これは特攻機とは主旨が異なりますが,人によっては特攻機扱いするかも.

消印所沢 ◆z3kTlzXTZk in 軍事板

桜弾搭載機


 【質問】
 今は亡き映画俳優の鶴田浩二は「自分は海軍予備学生出身の少尉か中尉で,零戦に乗っており,特攻隊員だった云々」と言っていたが,海軍関係の名簿にも大学の名簿にも名前は無かった.また関係者もそのような人物はいなかったと言っている.実際はどこかの航空基地の兵隊だったとある雑誌に載っていました.
 本当ならヒドイ軍歴詐称であり,戦死された特攻隊員の方々に対する重大な冒涜だと思いますがいかがでしょうか.

 【回答】
 詐称は本当.
 しかし発覚しても弁明することなく,講演活動や多額の私財を投じて戦没者の遺骨収集などに黙々と尽力.
 この活動が政府を動かすことになり,戦友会も心を動かされ,鶴田を温かく受け入れることになったという.

 以下,ウィキペディアより引用.

 上の記述の通り元海軍軍人であり,本人は特攻隊の出身,特攻崩れだとしていたが,実際には元整備兵であり,出撃する特攻機を見送る立場だった.
 当然ながら,顔が売れるにつれ,同じ隊の戦友会にばれ,猛抗議を受けるが,一切弁明はしなかった.
 黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し,日本遺族会にも莫大な寄付金をした.
 この活動が政府を動かし,ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった.
 また,各地で戦争体験・映画スターとしてなどの講演活動も行った.
 生涯を通じて,亡き戦没者への熱い思いを貫き通した.
 これらの行動に,当初鶴田を冷ややかな目で見ていた戦友会も心を動かされ,鶴田を「特攻隊の一員」として温かく受け入れた.

 ソースがWikipedeaでは証拠能力が低いと思うなら,自分で他を調べるなりしてちょ.


 【質問】
 B-29へも体当たり攻撃は行われたのですか?

 【回答】
 B-29への体当たり攻撃は,実は組織的に行われていました.
 昭和19年11月からB-29による偵察行動が行われており,それに対してなんら手を打つことができなかった,東京の防空を担当する陸軍第十飛行師団では,武装や防弾装備を除去した軽量機での体当たり攻撃の実施を決定,各部隊で体当たり隊が組織されました.
 こうして11月末より,明らかに軍事的効果としてはほとんど無意味な空対空特攻が開始されるのです.
 後にこれらの部隊は「震天制空隊」と命名されました.

 また例えば,2008年に話題になった,東京での不発弾撤去作業
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=491199&media_id=2
では,1トン爆弾というめったにない大物の撤去のため,過去にない大規模な避難が行われましたが,非常に珍しいことにこの爆弾を積んでいたB-29の行方がわかっています.

<調布不発弾>墜落B29から落下 中学生が克明スケッチ
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=484598&media_id=2

 記事の内容や手元の資料などから,投下時の状況を大体掴みました.

 昭和20年4月7日に行われたこの空襲は,三鷹市にある中島飛行機武蔵製作所への攻撃で,101機のB-29による高度4500mからの昼間精密爆撃でした.
 軍需工場への爆撃だったために威力のある1トン爆弾が使われたわけです.
 この時迎撃に当たった陸軍飛行第244戦隊「とっぷう隊」の古波津里英(こはつさとひで)少尉操縦の飛燕がB-29に体当り,B-29は墜落して古波津少尉は落下傘降下して生還しました.
 この功により,古波津少尉は武功徽章乙という非常に名誉ある勲章を授与されています.
 地上から目撃されたのは,この古波津少尉の体当たりでした.

 余談ですが,この4月7日の爆撃は初めてP-51戦闘機による護衛が付いた爆撃で,P-51を飛燕と勘違いした日本機が多数撃墜されています.

 古波津少尉の突入は震天制空隊とは関係ない偶発的な突入だったようですが,いずれにせよそこまでしなければならなかった欧米との技術力の差と,軍部の無為無策ぶりが腹立たしく思われます.

 なんにせよ日本が空襲によって多大な被害を受けた,その悲惨さは長く記憶にとどめないといけません.

ナオ in mixi,2008年05月19日14:05
青文字:改修部分


 【質問】
 知覧特攻隊記念館は何で館内撮影禁止なんですか?

 【回答】
 博物館とか美術館が撮影禁止な理由として一番大きいのはカメラのフラッシュが展示品にダメージを負わせるから.
 ただの光じゃん?って思うかもしれないが,この強い光ってのがけっこー物を痛める場合があるのよ,塗料の変色とか.
 後は,展示物が借り物だった場合とかの著作権の問題.
 それに,撮影禁止を条件に借り受けてるって事もある.

 つか,ぶっちゃけ板違いだよな,これ…
 詳しくは美術鑑賞板あたりで聞いてみた方がいいんじゃないか?


◆◆戦後


 【質問】
 終戦時に日本の航空機はほとんど破壊されましたが,米国に持ち去られた機体はどれぐらいあるのですか?

 【回答】
 要求は陸軍機67〜69機,海軍機73〜83機ですが,実際に米国本土に運ばれた機体は,護衛空母1隻に45機,水上機母艦で飛行艇1機,後,護衛空母2隻分ありました.
 詳細は不明です.
 1946年12月31日時点では,情報収集用に戦闘機27機を含む100機の機体を使用したと報告されています.

 ちなみに,1946年8月21日のNAMへの移管の際に報告された機数は,海軍機27機,陸軍機54機ありますがその殆どが破壊されました.

眠い人◆gQikaJHtf2 in 軍事板

 輸送中,嵐にあって海中投棄した機体もあるらしい.

ベタ藤原◆RoMNjfnp0E


 【質問】
 黒島亀人が,宇垣纏の「戦藻録」(原書房,1979)から,自分に都合が悪い部分を抹消したという話を聞きました.
 どういう経緯でそうなったんですか?
 またどんな内容だったんですか?

 【回答】
 黒島亀人はほとんど一人で真珠湾攻撃の計画書を作成したくらいで,当時の連合艦隊司令部で数少ない航空主兵論者だった.
 なので,叩き上げの戦艦派である宇垣纏には激しく嫌われていた.
 そもそも黒島は他人と仲良くする能力が無い人だった(天才にありがち)ので,連合艦隊の参謀には全員から嫌われていた.
 更に,そんな人なのに山本五十六のお気に入りだったので,影でボロクソに言われていた.
 まぁ黒島亀人自身,「奇人」でならしてて自身の天才振りを鼻にかけて憚らない人間だったので,自業自得の面が多分にあるけど.

 そんな経緯があって「戦藻録」には「日本が負けたのは全部黒島のせいだ」的な描写(宇垣纏の個人的主観)があちこちにある.

 あと,宇垣纏と黒島亀人の関係で重要だったのは,黒島は軍令部第二部長として特攻兵器の開発にGOサインを出した,ということ.
 黒島はこの事に対し
「既に海軍の方針として決まっているので,反対などできよう筈も無かった」
と後に主張しているが,黒島を嫌っていて特攻にも反対していた宇垣は
「あいつなら当然のようにやるだろう」
と,更に黒島を嫌う事に.
 さらに,特攻部隊の司令官にさせられた宇垣は,その事と絡めて
「これは自分へのあてつけに違いない!」
というような考察(個人的主観)を「戦藻録」に残す.

 このあたりも出版に関して抗議が入り,大幅にカットされたという経緯がある.
 また,黒島は,宇垣が特攻に出た後に,彼の私物を整理すると称して日記を持ち出し,特に都合の悪い部分を破り取った.
 これは「戦藻録」に限らない.
 軍令部の重要書類を借り出して「紛失」,連合艦隊の電報の作戦命令綴りを借り出してこれまた「紛失」,と都合の悪い記録を消して回っている.
 明らかにわざと.


 【質問】
 戦後,ルメイに日本が叙勲したというのは本当?
 昭和天皇は反対したのに源田実が強行したとか,源田はアメリカから勲章もらってるとか聞きましたが.

 【回答】
 1964年に勲一等旭日大綬章をルメイは受け取っています.理由は航空自衛隊創設の為に尽力した為,と言う事になっています.
 戦略爆撃と日本の防空体制の長所と短所を解っていた人物に,防空一本槍な組織設立に際して協力を仰がない方が不自然,という見方もできます.

 昭和天皇個人としてはやや反感が有ったようですが,反対できるような状況ではなかったのでしょう.
ttp://www.warbirds.jp/ansq/5/E2000184.html
ttp://www.asaho.com/jpn/bkno/1998/1214.html

 先に源田実がアメリカから叙勲されており,バランスを取る為日本政府がルメイに叙勲した,という説もあります.

(HN 斥候隊 in ニュース極東板 & 軍事板)


 【珍説】
 東京大空襲.そのひと事だけで,日本は過去に巻き添えにした民間人の総数を遥かに上回る犠牲者を数えたのである.
 その指揮者はカーチス・ルメイ.この鬼畜は無抵抗の市民をこともなげに大虐殺して,昇進を果たしたのである.

 その巨悪に日本政府は勲一等旭日大綬章を奉呈した.
 アメリカではまさか叙勲はできない.だから日本へ廻されたのである.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.142)

 【事実】
 カーチス・ルメイを鬼畜と称することには些かの抵抗もありませんが,
「アメリカではまさか叙勲はできないから,日本へ廻された」
というのは明白に誤りです.

 日本でのルメイ叙勲経緯は上述のように,
・航空自衛隊創設に尽力した為
・先に源田実がアメリカから叙勲されており,バランスを取る為
と言われています.

 また,ルメイがアメリカ他においても多数の叙勲をしていることは,google検索でルメイの経歴を調べれば,すぐに分かることです.
 以下にルメイの叙勲リストを示します.

Curtis E. LeMay
Awards and Decorations

United States

Argentina

Belgium

Brazil

Chile

Ecuador

France

Great Britain

Japan

Morocco

Sweden

Uraguay

U.S.S.R

"Curtis E. LeMay, Awards and Decorations" from "USAF Museum"


 【質問】
 太平洋戦争中,中島飛行機とかその他色々な飛行機メーカーが日本にもありましたよね? それらは今どうなってしまったのでしょうか?

 【回答】
 こんな感じ。

三菱航空機 → 西日本重工(水島など)   → 三菱造船 → 三菱重工
           中日本重工(名古屋など) → 新三菱重工 → 三菱重工
           東日本重工(東京など)   → 三菱日本重工 → 三菱重工
川崎航空機 → 川崎重工 → 川崎重工
                     川崎航空機 → 川崎重工
川西航空機 → 明和興業 → 明和自動車(オート三輪) → ダイハツ(倒産により吸収)
                     新明和工業(バイク,特殊車両)
中島飛行機 → 富士自動車(太田など栃木の機体部門) → 富士重工
            富士精密(三鷹など東京の発動機部門) → プリンス自動車 → 日産自動車
立川飛行機 → 立川飛行機(本社工場)
           立川飛行機(試作工場) → 東京電気自動車 → たま電気自動車 → たま自動車
           → プリンス自動車 → 富士精密 → プリンス自動車 → 日産自動車
昭和 → 昭和飛行機
愛知 → 愛知起業 → 愛知機械工業(日産子会社)
渡辺鉄工所 → 九州飛行機(子会社) → 渡辺鉄工所

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)


 【質問】
 航空関連の技術者達は戦後,どんな身の振り方をしたのか?

 【回答】
 新幹線が東京〜大阪間に登場した時,初期不良がいくらか起きた訳ですが,最も開発技術陣を悩ませた問題の一つは,トイレの逆流問題でした.
 トイレで用を足していると,突然,足下の穴から汚水が逆流して吹き出してしまう,と言う,信じられない事象であり,車庫で点検しても全然,異常が見つかりません.
 其処で,意を決した開発主任が雨合羽を着て新幹線のトイレに陣取り,現象が起きるのを粘り強く待ちました.

 機密性の高い新幹線車内で,唯一気圧差が生じていたのがトイレであり,トンネル内に入って,内外の気圧差が大きくなった時に,逆流する事が判りました.
 最終的に,穴とタンクとの間に逆流防止の蓋を取り付けて,対策を施しました.

 これも,航空機畑出身の技術者だった為に,現象が判ってしまえば対策は簡単だったりしますが,中々机上の計算では判らないことがいっぱいあるという好例ではありますね.

 空技廠や航空機業界の人々は,敗戦後,自動車とか船舶の技師達と違って,航空機そのものの開発が禁止された為,生きる為に様々な分野に散っていきました.
 空技廠関係では,鉄道技術研究所に拾われたり,鉄道車輌業界に転身したりしましたし,富士重工やトヨタ,日産などで自動車開発を行った人々も居ます.

 中には全然違う分野に行った人もいました.

 後に東陶の社長を務めた杉原周一と言う人は,東陶の中興の祖みたいな扱いを受けている人だそうですが,その出自はと言えば,東京帝国大学工学部機械工学科を卒業後,1931年に三菱重工に入社し,航空エンジンの研究に勤しんでいました.
 彼は三菱製航空エンジンの開発に於て,燃料噴射装置や噴射量自動制御装置と言った部分の開発で頭角を現し,その生産の為の工場拡充を三菱が行った際に,その工場長として生産ラインの立ち上げを行います.
 そして,燃料噴射装置などの生産技術確立に没頭しますが,程なくして敗戦.
 彼は一旦は社内の自動車部門で研究課長職に就きますが,己が技術の結末に心痛し,結局退職.

 その後,郷里大分に帰って,農業を志しました.
 実際に,彼は晴耕雨読の生活を始めますが,流石にそれだけでは現金収入の宛が無いので,大分県工業試験場長となりました.

 とは言え,こんな職で,博士号まで持っている優秀な技術者を埋もれさせるのは勿体ない,と,杉原周一の元上司で,三菱重工の経営陣の一翼を担っていた深尾淳二の手で,1947年末に小倉東陶への入社が決まりました.
 深尾も当時,パージを受けて職を失い,浪人をしていたのですが,彼自身優秀な技術者だった為に,出身校の東京高等工業学校の同窓生で,後に日本碍子の社長となる吉本熊夫の誘いを受けて,森村系の会社の顧問を務めていました.
 因みに,東陶の社長は,前に出てきた江副が務めていました.
 深尾は専攻こそ違いますが,江副の同期生であり,日本特殊窯業でスパークプラグを開発していましたので,深尾もよく知っていましたし,杉原も知っていました.

 こうして熱心にかき口説かれた杉原周一は,小倉に向かいますが,当時は労働運動華やかりし時代で,東陶は日本でも有数の労働運動の拠点となり,まともに就業できる状態ではありませんでした.
 トヨタでもそうでしたが,労組は経営陣の決定に悉く口を出し,こうした状態に腹を立てた杉原は,一旦決めた就職を何かと理由をつけて出社せず,1948年5月,遂には大分に引きこもってしまいます.
 それでも,江副は7ヶ月間黙って給与を支払い続け,1949年に根負けした杉原は再び小倉の工場で仕事を再開することになりました.

 今の世の中なら,こんな事をしたら確実にクビでしょうけど….

 兎にも角にも,まず杉原は工務課長となり,製陶の生産技術改善担当として,最初期の業務は生産に必要なコンベアの設計製作と言う仕事でした.

 ところが半年後,思わぬ形で,別の仕事が舞い込みます.
 それは,衛生陶器の水栓金具の供給を果たすべく,鋳工部門次長兼鋳工課長として,鋳工金具工場の指揮を執る事でした.
 三菱重工業と言う大工場の規格化,先進設備の工場管理から,中程度の町工場からの出発と言う格差.
 しかも,量産体制に秀でた人間が皆無で,徒手空拳状態だったので,杉原の悩みは如何ばかりか.
 とにかく彼の下に,工長としての技量を持つベテランが数名補強され,何とか鋳工金具工場の形が整い始めました.

 当時の鋳工金具工場は,工場と言っても金属加工用機械すら無い状態で,工場の対岸にあった旧陸軍造兵廠から中古機械とその機械を動かす技能工を雇い入れただけの状態でした.
 材料も,古い青銅砲の砲身などを溶かして使用しています.

 その製造工程は,鋳型→鋳造→機械加工→研磨→鍍金→組立→梱包出荷と言う流れでしたが,鋳物生産は常に遅れ,製品には屡々鬆が入りました.
 機械工場では,先発企業の経験者が技術指導をしていましたが,生産設備は貧弱であり,研磨工程では付着した研磨剤の滓を小さなブラシに磨き粉をつけて一々手作業で擦り取っていました.
 鍍金では毎日の様に浮き,剥げが発生し,市場からも「ベロ剥げ」と呼ばれる不良品の返品が相次ぎました.
 鍍金槽は,戦時期に造られた電解槽やら衛生陶器の浴槽が使われていたり,検査工程は制度化されず,検査用機器もなく,鬆漏れの検査は口で吹いて行っていました.
 更に金具自体の製品標準すら有りませんでした.
 こうした状態でも100種類以上の金具を生産していたので大した物です.

 杉原にとって幸いだったのが,こうした水栓金具の類は,彼が従来手がけてきた燃料噴射装置と極めて構造や大きさが似ていたことでした.
 また,従来,彼が行ってきた三菱重工業の知見も役に立ちます.
 彼は,先ず水栓金具の設計に於て,設計の標準化を実施し,共通部品を開発し,且つ部品相互に互換性を持たせて部品点数の集約とコストダウンを図りました.
 生産ラインでは,検査工程にはリミットゲージを採用,検査は厳格にして,不良品については直ちに対策会議を実施して其の原因を探り,クレームや故障は即座に現場にフィードバックする体制を整えます.
 工程についても工程管理が行われ,作業標準を制定すると共に,製造工程の隘路を洗い出す会議が行われました.
 在庫に関しても,製品庫の管理から部品庫による管理が為され,標準在庫量を決めて在庫減少とリードタイム短縮を図りました.
 材料は,砲金から相当部分を黄銅へとシフトし,炉は電気炉から重油炉に変り,モールディングマシンやターレット旋盤も導入され,研磨レースもベルト掛駆動からモータ駆動に変更されるなど細かい点に至るまで重点的に投資を行ったり仕事のやり方を変えたりしています.

 こうして,1950年代初頭に後発企業として水栓金具の世界に進出した東陶は,彼の知見を得たことで,非常に大きなアドバンテージを獲得し,市場からも高い評価を得ることが出来ました.
 これには長い時間が掛かり,資金も相当量費やす事となり,経営陣の中には水栓金具からの撤退を言い出す者もいました.
 しかし,社長の江副はその言葉を抑え付け,投資を続行.
 1950年の操業開始当初,赤字で月産200万円だった金具工場の売上高は,1955年には月産5000万円となり,衛生陶器の半分まで迫りました.
 そして,1958年にはとうとう月産1億円を突破し,国内ダントツの水栓金具メーカーになった訳です.

 経営陣の次代を見据える目,人を見る目が如何に大切か,改めて感じさせられる話です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/06/06 22:54


 【質問】
 戦後直後,糸川英夫はどんな仕事をしていたのか?

 【回答】
 昨日から読んでいた,陳昌鉉氏の聞き書き,『海峡を渡るバイオリン』を読了しました.
 なるほど,ベストセラーになるだけの本ですね.

 一人の朝鮮半島出身者が,バイオリンと出会い,その憧れを胸に秘めたものの,家の事情で日本に一人渡り,やがてバイオリンを作りたくて,様々な職人に教えを請うたものの,何れも朝鮮人と言うことで邪険にされ,一時期は夢も希望も無くなった.
 時代は戦後の混乱期,結局,生きる為に様々な仕事をこなしつつも,矢張りバイオリン製作への夢は絶ちがたく,長野の山の中で独学でバイオリン造りを覚え,そして,佳き理解者に出会い,その実力がやがて認められ,最後には「東洋のストラディバリ」とまで言われる様になった壮絶な生き様が余すところなく書かれていました.

 この本の主人公は,一人の在日韓国人ですが,国と国と言うものを超越した形でものを見る人で,その視座は極めて中立的です.
 海外に住んでいる韓国人だからこそ,自国の事がよく見えるのかもしれません.
 時に其の記述は辛辣だったりするのですが….

 また,実力を発揮し出すと,様々な演奏家と出会えます.
 どんな演奏家でも,バイオリンの職人であるという身分を明かすと気軽に会って,話を聞いて,そして,自分の名器を見せ,そして饒舌に語り出すそうです.

 アイザック・スターン氏は,戦後二度目の来日の際の演奏では,余りにも不出来な演奏で,思わず弓を叩き折っていて極めて不機嫌だったのに,陳氏がバイオリンの製作者だと知ると,急に相好を崩して自分の使っているバイオリンを見せてくれたり,イツァーク・パールマン氏は,演奏が終わって幕が下り,舞台袖に引っ込むと,陳氏に名器を渡すや否や,床に寝転がって,
「ああ,明日は演奏がないぞ,休みだ!」
と叫んでゴロゴロとその辺を転がり,おまけに指笛まで吹いて大騒ぎだったとか.

 ユーディ・メニューヒン氏に会った時も,数多いる面会者の中で,一番最後にいた陳氏を呼び入れて,予定を遙かにオーバーして,氏のバイオリンを見せて貰ったり,ダヴィッド・オイストアフ氏は,来日するとソ連のバイオリン製作者の為に,ニスが欲しいと言って,陳氏から貰うと,以後,ソ連の楽団が来日する度に,彼に連絡があってニスを持っていくと言う関係になってたり.

 謹厳実直を絵に描いた様な演奏家も,一皮剥けば,正にのだめの世界そのものなのが面白かったりします.

 この陳氏がバイオリンの職人になろうとしたきっかけは,大学の講堂で聞いた,一人の学者の講演会で感銘を受けたからだそうです.
 その学者は糸川英夫氏.
 そう,あの航空機設計者で,後に日本の固体ロケットの基礎を築いた人.
 敗戦後,日本の航空機産業が羽をもがれた事で,糸川氏はバイオリンの研究をしていたそうな.

 実は,ストラディバリの様な名器の音色の構造解明は未だ進んでいなかったりするそうで,どういう構造で胴を作り,どの様に弦を張り,どの様な材質のニスを使って,それを何度繰り返して,どれくらい乾燥させ…と言った部分が,どの様に作用して,ストラディバリの音色が出るのか,まだ研究されていない分野だとか.

 まぁ,量産型ストラディバリなんて余り見たくもありませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月26日22:15


 【質問】
 旧軍のパイロットで戦後,一番成功したのはエアラインのパイロットだったのでは?
 初期の試験では,旧軍出身者をコネで合格させる手はずが整っていたので,名前さえ書けば合格させてもらえたという。
 そういう事情を知らない人もいたようで,英語ができないのを気にして採用試験をすっぽかし,民間パイロットになれなかった人もいたそうだが。

 【回答】
 一概にそうとは言えない.

 まず,一般論.
 戦後の日本の航空界では英語は必修。
 素人は,
「パイロットに英語が必要な理由は,管制官との交信が英語だから」
だと考えがちだが,その考え間違いではないのだが,実際のところエアーラインのパイロットとして機上無線機を扱うには「航空級無線通信士」という資格が必要になる。
 この資格を取るには,英字新聞が読めるくらいの英語力が必要(今はすこし簡単になってる).
 また,乗る飛行機は勿論,国産機じゃないわけでマニュアルが英文だったり,入社後の訓練が外国で行われたりする。
 以上の理由から,それなりに英語力が必要.

 また,戦闘機のパイロットは輸送機のパイロットに比べて飛行時間が少なく,航空会社の応募要件自体を満たしていない者も多かった。
 それと,最も重要なのがパイロット資格.
 軍と民間ではその資格が全く別で,軍のパイロットは民間パイロットに必要な資格を持ち合わせていない。

 蛇足ながら,旅客機の運航と戦闘機で戦闘するということは全くの別もので,世間で思われてるほど,戦闘機のパイロットは民間,特にエアーラインでは評価されない。

 で,現在の航空法は昭和27年に制定された。
 それ以前は多少,採用条件も異なっていた。
 ただ,海軍の搭乗員は英語に堪能な者も多く,英語の壁はさほどなかったと言ってもよい。
 昭和27年でも,日航の松尾専務は海軍のべテラン搭乗員は「○特」で無条件合格の指示を出したと聞く。

 陸軍もかは分からない.英語力が壁となって,多くの旧軍パイロットが再び飛ぶことを諦めた,という話もあるから,陸軍ではそういう人が多かったのかもしれない.

 民航に行った零戦搭乗員で有名なのが,空母「蒼龍」のF大尉など。
 多くの陸海軍操縦士は航空・海上・陸上自衛隊に行ったが,大多数のパイロットは苦難に満ちた戦後を生きていく羽目になった。

(軍事板)


 【質問】
 よく「疾風を戦後,米軍が高オクタン・ガソリンを使って計測した結果,速度が大幅に上昇した」と言う発言を見かけますが,本当ですか?
 ガソリンを変えるだけで速度が上がるとは思えないんですが。

 【回答】
 きちんとした整備,高品質なプラグ,上質なオイル,100オクタンのガソリンを用いた上で,運転時間の短いエンジンを載せれば,それなりの結果は出る。
 元来,誉系統は100オクタンのガソリンで一番性能が出るように作られているので.

 まず,当時の日本のガソリンは粗悪だった。
 昔のガソリンはアルキレーション法で精製していなかったので,採掘した石油の質や添加剤で質がまちまち。
 日本の場合,大東亜戦争末期の混乱だけが理由ではなく,精製技術そのものにも問題があり,開戦直前の頃でも,最も良質の航空ガソリンで92オクタン。普通のガソリンはオクタン価が90以下の低質品。
 同時期の米軍航空ガソリンは,すでに100オクタンを超えていた。
 因みにオクタン価100以上のガソリンは鉛以外の添加剤を加えて理論上その数値を実現したもの。鉛だけの場合は100までしかいかない。シェルの旧ハイオクはオクタン価95程度だったらしい。

 そしてオクタン価が低いと,ブースト落として実効圧縮比を下げないとデトネーションする.
 栄21型の場合,
オクタン価92の場合,離昇時ブースト300mmHg 実効圧縮比10.04 出力1130ps
オクタン価87の場合,ブースト上限は75mmHg  実効圧縮比 7.83(推定の出力866ps)

 また,当時の日本はモービル製エンジン・オイルのコピーをしていたが,質は良くなかったようだ.
 オイルの質が悪いと,冷却が悪くなり,筒温が上がったりフリクションが増えたりする.

 ぶっちゃけ,モータリゼーション後進国で,インフラが全然無かったと。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)

▼ 亡くなった伯父が「銀河」に通信士として乗っていました.
 鹿屋から沖縄に偵察にいく場合,100オクタンのガスを予備タンク(?)に入れておき,「そろそろ敵の制空圏内かな?」というところでそのタンクに切り替えていたそうです.
 2〜3度コルセアに追われたそうですが,その100オクタンガス+緩降下+雲隠れで逃げ切ったそうです.
 100オクタンガスで飛ぶと,全く別の飛行機になったように軽快だったと言っていました.

軍事板


 【質問】
 現在,全国各地には,どのような第二次大戦日本軍機が現存していますか?

 【回答】
 有名どころでは,靖国神社の彗星,鹿屋基地の二式大艇,知覧特攻平和会館の零戦・飛燕・疾風など.
 展示品の他にも,パーツ単位で個人所有されていたり,公的機関でひっそり非公開保管されている機体などもあります.
 また海外で保有されている日本軍機もあります.

 展示品限定と言うことであればリストアップが可能かも知れませんが,私にはちょっと荷が重いです.

 余談ながら.某空自基地にはフライアブルな零戦が存在すると某業界の一部で囁かれています.
 いずれ日の目が見られることを信じて,自衛官の皆さんが代々整備してるそうで.
 最近の風潮からは信じられませんが,ホンの数年前までは,その存在すら隠さなければ時代だったんですよね・・・

 近いうちに航空祭で零戦が披露されるのではないかと期待してたりします.

軍事板

 軽くググれば出てくるんだけど…
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/museum.html

 これはちょっと違う気もするけど(日本のは全てゼロからの復元機)

 あと,鹿屋にある零戦は,名古屋で残骸から復元されて,飛行可能にまでこぎつけたらしいんですが,当時のお役所が許可を出さなかったとか…(で,地上滑走のみ…)
 その後,鹿屋で保存っていう話をどっかで聞いた気が…
 三菱とかにその復元時の資料が残っているだろうから,状況さえ許せば…と期待したりします.

ちくお in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

▼ ただし日本では,軍事=悪となっていますので,兵器の展示は難しいねェ….
 靖国神社遊就館にある「彗星」も,成田の航空博物館に打診したとき
「兵器の展示はしない」
と断られた経緯がありますし↓.
http://www.ne.jp/asahi/airplane/museum/ClassicPLN/Suisei.html

軍事板

 更に余談ですが,私の出身大学は旧中島飛行機研究所だったので,敷地内にある洞窟(今は埋められたと思う)のどこかを掘るとゼロ戦が眠ってるという噂がありました.

Fabius(KT) in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 日本に現存している四式戦闘機「疾風」は,飛行可能な状態で譲り受けたはずなのに,なぜ飛べなくなってしまったのか?

 【回答】
 知覧の疾風については,ウィキペディアにこんな記事があります.私の方では真偽は分かりませんが.

嵐山美術館で展示されるうちに部品の盗難が相次ぎ,さらには機体の腐食やエンジンの破損も進み,現在は全く飛行不可能な状態となってしまっている.
 機体を日本へ譲渡したドン・ライキンスはこの状況を聞いて譲渡したことを深く悔いたという.

 こういうのを読むと日本では本当にお寒い状況だと感じます.
 アメリカでは第二次大戦の戦闘機等が展示されてるだけでなく,フライアブルな機体がローカル空港にあって,自家用機操縦免許があれば操縦も出来ます.
 例えば私が訓練していたフロリダの空港では,P-51が1時間40万円くらいだったと思います.
 あと数年前,Aviation Weekのストリーミング放送でMe262が飛んでましたね.

Fabius(KT) in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 それ以前に嵐山へ移送する際の都合で,富士重工の連中が桁材をぶった切ってしまって飛べなくなった,という噂が根強くありますが….

 一応この件に関しては,富士重工関係者から
「飛行機のプロ,しかもウチで造った奴にそんな事する訳ない」
という意見で強く否定された事を追記しておきます.
 直接の担当者から聞いた正式ソースでは当然無いんですが…※

 富士重工工場内とかにもT-2は保存されていたり,同じグループということで,スバル販売の敷地にT-2最終生産機が保存されてたり,現在はかなり保管には気を使ってると思うほうなんすけどね.

 考えられるのは,嵐山側から運送費をケチる為にとにかく小さく切り刻めと強く指示された,とか,二度と飛行出来ないように という条件が上から来てた,とか,そんな事も有りえるかと思ったりしますが(想像ですが).
 知覧の飛燕も終戦時は飛行可能だった可能性が高いのに,その後の引きずりまわしで飛べなくなった可能性大ですからねぇ.

ちくお in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 ※富士重関係者が切断なんかしてないと反論している記事は,「Warbirds」にもある.

 ただ,アメリカならマシか?と言われると,必ずしもそうじゃないんですよね.意外だけど.

 例えば,件の二式大艇の保管状況ですが,当初はノーフォーク基地にモスボール状態で保管され,常に艇内に乾燥空気を送り込み,艇に干渉することは禁じられていました.
 しかし,いつしか管理が甘くなり,最終的に出入りが自由になってしまい,日本に来る直前の状態で,計器類の多くが盗難の為に紛失,子供の遊び場となった艇内にはコーラの空き缶が転がり,一部のガラスは破損,落書きなども見られたとのこと.

極東の名無し三等兵 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


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