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◆◆◆◆東アジアの日本軍支配地域
<◆◆◆日本
<◆◆各国の状況
<◆ホロコースト 目次
<WW2 FAQ


◆◆上海


 【質問】
 上海にユダヤ人の武装グループがいたのは何故か?

 【回答】
 上海には上海の外国人商人が組織した「商人部隊」があった.その存在は市当局も認めていた.
 1928年に,英国をモデルとした1400人の上海自衛隊に改組された.
 自衛隊にはいわゆるユダヤ中隊があり,200~250人がこれに属していた.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.107-108を参照されたし.


 【質問】
 河豚計画とは?

 【回答】
 上海に難民が急増した件に鑑み,1939年5月,犬塚,安江と石黒四郎・上海領事が調査会を作り,7月初めに彼らは「上海ニ於ケル猶太関係調査報告書」を回教及猶太問題委員会に提出したが,その中で,3万人(犬塚は30万人の)のユダヤ人の満州またはシナへの定住という考えが示された.
 著者達は,満州とシナの親日的なユダヤ人を糾合しなけれればならないと主張.そして日本が覇権を確立するためには,ユダヤ資本を獲得することが肝要だとする.
 その際,新上海建設のためのユダヤ人の協力や,上海在住のユダヤ人指導部との協力ばかりでなく,世界中のユダヤ人,就中ニューヨーク都心のユダヤ人との協力が必須だとする.

 この報告書の中の,「ユダヤ系資本誘致の具体案」を見ると,著者達がユダヤの富を日本のために利用することについて,いかに単純な幻想的構想を抱いていたかが分かる.
 親日ユダヤ人がニューヨークのユダヤ財閥に影響を与え,それがさらにヨーロッパおよび上海のユダヤ財閥に波及して,彼らが日本との協力に向かうという図式は,著者達の信じ易さ,無知,そして国際金融の実態に詳しくないことを露呈している.

 結論として著者達は,これに日本が成功すれば,軍事的支配と経済的繁栄が成就され,その過程でアメリカと接近すれば,日本は北の敵であるソ連に力を集中し,これに勝利することが可能となろうという幻想に陥る.

 軍部は一致して,この意見に同意したわけではなかった.
 アジアに自治的なユダヤ国家を建設することは,祖国日本の基本的価値をゆるがすものであり,アジアの新秩序建設のための聖戦の信憑性を損なう危険があると批判された.

 なお,この報告書における犬塚の考えに感激したマーヴィン・トケイヤーは,これについて本を書き,それに「河豚計画」という題をつけた.
 その由来は,これに先立つ報告書(回教及猶太問題委員会に提出)の中で犬塚が,ユダヤ人を,しかるべく慎重に処理した上でなければ利用(賞味)できない河豚に例えているところから.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.114-117を参照されたし.


 【質問】
 日本のユダヤ人利用計画は,なぜ失敗したのか?

 【回答】
 本来の勢力拡張構想が軍事的な力技に萎縮してしまい,かつ,日本の対外武力行使が与えた心理的影響を無視し,さらに,ユダヤ人が世界中に根を張っているということが,実際にどんなことなのかを研究もしなかったためだという.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.19を参照されたし.

 犬塚らの計画は挫折したものの,しかし,上海はユダヤ人難民にとって最大の避難地になったことだけは明記されておいてよいだろう.

――――――
 宮澤正典とデヴィッド・グッドマンの共著である「ユダヤ人陰謀説」は,戦前日本のユダヤ人観を批判的に分析しているが,同時に次のことは認めている.
「上海は結果から見れば,ユダヤ人にとって最大の避難地になった.
 上海が受け入れた人数は2万5千を超え,カナだ,オーストラリア,ニュージーランド,南アフリカに逃げたユダヤ人の合計数より多い」
 たぶんグッドマン達の数字は,上海にもともと住んでいたユダヤ人も計算に入れている.それも見識と思うが,ここでは1937年以降の避難ユダヤ人を総計した1万7千人程度とする集計を用いたい.
 しかし,それを割り引いても,上海に避難したユダヤ難民の数は,世界が避難民に対して門戸を閉ざした時代に日本が果たした貢献を示したものだ.
 1939年8月に第2次世界大戦の開幕を前にして,ようやく日本政府は上海共同租界へのユダヤ避難民流入を制限する処置をとった.

――――――「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」(山本尚志著,毎日新聞社,2004.11.20),p.191

 【質問】
 上海での難民の経済状況は?

 【回答】
 1943年に無国籍難民特別地区が設定されるまでは,大半の難民は,自分の努力や手持ちの資金で生活基盤を築くことができた.
 収容所並みの「ハイム」には約2500人が住んでおり,救済機関に完全に依存していた.
 収容所の外で暮らしていた5千~6千人も,収容所で安く物資を調達する事ができた.
 残りの9千~1万人はどうにか自立しており,その豊かさの程度も様々だった.
 小さな企業を持ったりしている少数派もいたが,上海経済に影響を及ぼすほどの者はいなかった.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.128-129を参照されたし.

▼ また,昭和14年2月の上海総領事報告によれば,昭和13年頃より頓(とみ)に増加.
 新来のユダヤ人のために職場を奪われる白系ロシア人が多く発生――雇用者が英米系事業家またはユダヤ富豪たちであったため――したという.

 詳しくは『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(安江弘夫著,八幡書店,1989/8),p.147を参照されたし.▲


 【質問 kérdés】
 上海のユダヤ系避難民に対する支援活動は?

 【回答 válasz】
 国際的な援助団体としては「HICEM」や「Joint」等があり,ヨーロッパから各国へ避難するユダヤ人に対し,資金援助や情報提供を行った.
 上海ユダヤ人に対して貢献度が高かったのは,1914年に創設された「Joint : American Jewish Joint Distribution Committee (アメリカ・ユダヤ人合同分配委員会)で,1938年以降,上海避難ユダヤ人が生活していくための資金を提供.
 だが日本軍の上海占領以降,アメリカからの送金が間接的に日本軍を助けることにもなるため,送金を停止.

 上海ローカルのユダヤ人援助団体として存在したのは,「国際欧州難民救済委員会(IC)」や「上海欧州猶太難民援助委員会(CFA)」.
 これらは裕福なセファルディ系ユダヤ人のサッスーンやカドーリなどの財力によって運営された.
 だが,太平洋戦争が勃発してセファルディ系ユダヤ人が「敵性外国人」と見なされるようになると,これらの団体もユダヤ避難民に十分な援助を提供できなくなった.

 代わって現れたのが「上海アシュケナジ系ユダヤ人救済協力協会 Shanghai Ashkenazi Communal Association : SACRA」という,上海ゲットーへの移住を免れたロシア系ユダヤ人による援助団体.
 上海ゲットー内のユダヤ人を援助対象とした.
 上海ゲットー所長の久保田勤を名誉顧問に迎え,久保田は人事権を掌握.
 援助のみならず,上海ゲットーへのユダヤ人の移動を円滑に促すための活動も行い,日本軍による上海ユダヤ人管理体制の一つとして機能した.

 【参考ページ Referencia Oldal】
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010), p.195-205

mixi, 2019.6.8


 【質問】
 上海のドイツ総領事館が,ユダヤ人に対し,本国に比して穏健だったのは何故か?

 【回答】
 ドイツ居留民にユダヤ人商店での買い物が禁止されたときは,総領事マルティン・フィッシャーは,移民達の生活をこれ以上苦しいものにすることを好まず,この命令を無視することもあった.
 1941年の帝国市民法によって無国籍となったユダヤ人が,旅券返還を求められたときは,総領事館も当初はこれを実行しようとしたが,日本側の介入でこれを中止した.
 ドイツ総領事館は,ドイツ国籍者差別の責任を追及される危険ありとして作業を中止し,ユダヤ難民にも外交的保護を与えることにした.

 なお,ナチ党中国支部と地域グループも上海にあったが,公式にはユダヤ人に敵対的な発言は控えられた.外部に対しては慎重にという党の方針に従っていたのである.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.180-181を参照されたし.

▼ だが一方,在青島・日本総領事館警察署長から総領事に当てた報告によれば,以下のような事例もあったという.

――――――
 最近,当地在留露人間において,在外ドイツ商社に対し,各所轄ドイツ領事より国籍の如何を問はずユダヤ人使用の場合は本年1月限りで解雇すべしとの厳命のあったという説が流されており,調査の結果これは事実で,この命令はドイツ・ナチス党より出ていること判明せり.

――――――『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(安江弘夫著,八幡書店,1989/8),p.148


 【質問】
 帝国議会では,ユダヤ人問題はどのように取り上げられたのか?

 【回答】
 1939(昭和14).2.23,恐ユ論者の赤池濃議員が,帝国議会貴族院予算委員会において,
・上海工部局(=行政府)幹部はユダヤ系で占められており,上海事変依頼,ユダヤ人は彼らの上海租界を2倍に拡張している
・サッスーンと蒋介石政権の関係は密接
・なぜ無国籍のユダヤ人を満州通過させたのか?
・上海に流入したユダヤ避難民は,上海での日本人の職を奪っており,日本人は上海から追い出されるかもしれない
との旨,発言.

 また,同年2.27には,出淵勝次議員が,以下のように質問.

――――――
 昨年末,ドイツでのユダヤ人弾圧の結果,極東特に上海に入り込むユダヤ人の数が増加していると承知している.
 我々日本国民は古来他民族に対し常に寛容なる態度で接してきており,人種的偏見に基く紛争が無い.
 この点からしてユダヤ人問題に対する我が同胞の考えは自(おのず)から明らかと私は思う.
 この機会に政府の方針をお示し願い度い.
――――――

 これに対し,有田外相は以下のように答弁したという.

――――――
 昨年来,ユダヤ人の東洋に来たる者多くなり,その取扱ひ方針につき,とかくの議論が生じたので,昨秋政府はこの点を明らかにするために方針(=五相会議決定)を決定しました.
 それは日本は既に居住しているユダヤ人に対しても公正なる措置をとっており,特にその取扱ひ方を異にすることは無い.
 また,新たに渡来しようとするユダヤ人については外国人入国取締規則の一般的規則の適用により拒否さるべき者は勿論拒否しますが,特にユダヤ人なるが故に入国を別な基準で制限する事はない.
 即ち,外国人の入国取締規則を公正に適用する.

 こふいふ方針を決定し関係官庁に訓令を発し済みであります.
――――――

 詳しくは『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(安江弘夫著,八幡書店,1989/8),p.150-151を参照されたし.


 【質問】
 柴田・ブラーン事件とは?

 【回答】
 不安と恐怖がつのる中,上海のユダヤ人指導部はその対策を協議するため,新しい委員会を設立したが,1942年7月,日本側とコネをつけようとしたところ,憲兵隊に接触したフリッツ・ブラーンを皮切りに,委員会全員が憲兵隊に逮捕された他,柴田副領事までが逮捕された事件.
 間もなく,ボリス・トパス,フリッツ・カウフマン,柴田を除いて釈放されたが,この事件はコミュニティの知るところとなり,日本はゲシュタポに従順だと言われていただけに,ユダヤ人達の不安はいっそう高まった.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.186-187を参照されたし.


 【質問 kérdés】
 「外人保甲自警団 Foreign Pao Chia」とは?

 【回答 válasz】
 1942年10月に結成された,上海ユダヤ人自警団組織.
 これは日本軍占領下の中国人住民相互監視組織である「保甲 Pao Chia」制度を応用した,一種の隣組のようなもの.
 総指揮官も霍山路警察署の安田警部,その下にフェリックス・カーデク Dr. Felix Kardeggとクレマー Krraemerというユダヤ人の指揮官を置いた,日本警察の補助組織だった.
 1943年5月の上海ゲットー設置以降は,彼らが歩哨としてその境界線に立ち,人の出入りをチェックした.
 ここでは連帯責任が強調され,日本軍によるユダヤ人監視にとって好都合な組織となった.

 詳しくは
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010), p.161-194
を参照されたし.

 これらのやり方はいかにも日本の官僚組織がやりそうなことだな,と思う次第.

通行許可証をチェックする外人保甲自警団団員
(図表番号 faq190607pc, こちらより引用)

mixi, 2019.6.7


▼ 【質問 kérdés】
 上海ゲットーとは?
Mi az Sanghaji gettó?

 【回答 válasz】
 1943.2.18に設置を布告,同年5.18,日本占領下の上海・楊樹浦地区に開所した,3㎢の収容隔離施設.
 ユダヤ避難民はここに閉じ込められ,移動と営業の自由も徐々に奪われることにより,その窮状に追い打ちをかけることになった.
 しかし,ナチスによって設立されたヨーロッパのゲットーとは異なり,飢餓に苦しむことは無かった.

 【質問】
 無国籍難民特別地区とは?


 【回答】
 1943/2/18,日本軍が上海に作った「ゲットー」.


 これは正式には「無国籍難民特別地区」と呼ばれた.▲
 日本はこの措置でナチスの圧力を回避すると共に,同盟国としての忠誠を示そうとした.

 布告は8千人近いユダヤ人の状況を悪化させ,それは3年続いた.
 しかし欧州での絶滅収容所への追いこみに比べると穏やかであり,個々のケースでは日本側との「交渉」も可能だった.
 ただし日本人の監督責任者はいずれもユダヤ排斥主義者であり,その対応は次第にユダヤ人にとって厳しいものとなった.

 特別地区は周囲から遮断され,居住者の外出は禁じられ,鉄条網も張られた.
 公道への出入り口には監視所が設けられ,「外国人難民宇望員」という腕章をつけた監視員が常駐していた.
 難民自身が「外国人保甲」という名の秩序保持グループを結成されたが,欧州の収容所の残酷で悪名高き監視チームとは比較にならなかった.

 「上海ゲットー」設置はナチスの影響によって実施されたものだった.
 同地におけるガスによるユダヤ人殺戮を日本が拒否したのは,柴田副領事と軍の司令官たちのおかげだった.

▼ これ〔上海ゲットー設置〕に関する,当時の在天津ドイツ総領事,フリッツ・ワイダマンの戦後(昭和26年1月22日)の証言がある.

------------
 私は1941年から1945年まで天津のドイツ総領事でありました.
 私は中国の日本占領地域での事情をよく知っており,そこでの私の全ての行動はドイツ政府の命令に従ったものである事を宣誓します.
 それゆえ私は,ドイツとオーストリアから中国へ移った中部ヨーロッパの移住者達,それは大部分ユダヤ人であるが,彼らの抑留は,当時権力の座にあったドイツ政府の先導によってなされたものである事を確認します.
 日本人自体は反ユダヤ的ではなく,我々はドイツの人種政策について日本当局に教え,そして適当な方策を取るよう勧告する事を命令されていました.
 ユダヤ人達の上海ゲットーへの抑留もドイツ当局により扇動されたものである事は間違いありません.
 ヒットラーの下で働いた私の経験から政策上の圧力が同盟国にかけられた事を知っています.
 私は法廷でこれらの事を証言する用意があります.

------------安江弘夫著『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店,1989/8),p.229-230

------------
第1回極東ユダヤ人大会を批判した東京回教団長クルバンガリーは昭和10年頃招かれて来日し,在日回教団体の結成に参加した.
 しかし,とかく政治的に動きすぎ,先住の長老イブラヒムと対立,教団内部に混乱を惹きおこし,13年に陸軍省,内務省等関係官庁の協議の結果,国外追放処分になった.

 このとき,大連特務機関長になっていた安江は,世界回教界の大物の一人である彼の追放は,日本と回教徒との関係を悪化させることになると考え,満鉄に嘱託として雇用してもらい,大連に居住させた.
 彼とユダヤ人とは,彼自身が「回教徒とユダヤ人とは昔から氷炭相容れざる関係」と言ったように,敵対関係にあったが,安江には良く信服し,安江の意を体して極東在住回教徒(満州人にも多かった)の日本への協力体制を作ったのである.

------------安江弘夫著『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店,1989/8),p.211-212

------------
 さて,現役を降ろされた安江は,陸軍から要注意人物として警戒され,憲兵中尉の尾行がつけられた.
 この事は,その中尉が終戦直後,安江がソ連軍に連行された後,まもなく留守宅を訪問して告白したことで分かった.
 鹿児島の出身とのことであった.
 彼は,「安江大佐の行くところ,いつも尾行していたが,大佐の言動に感銘する所多く,内心尊敬しておりました」と語った.
 このように軍ならびに政府筋のマークは強く,東京に行くのに日満連絡船に乗ると,出港後すぐ特高刑事が個室を訪れ,「今後はどのような用件で東京に行かれますか?」と聞くのが常であった.
 そのような時,彼は刑事を室内に招じ入れ,持参の菓子を出して茶を入れ,時局について率直な話をすると,刑事は感服した様子で辞去した.

------------安江弘夫著『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店,1989/8),p.212-213

------------
ユダヤ人達にとって唯一の保護者であった安江が,政府の監視下に置かれたので,彼らに対する日本官憲の絞め付けは日を追って厳しくなり,上海の有力者の一人ブロッホも憲兵隊に逮捕されるに至った.
 ブロッホはフリーメーソンの最高位である33階級でもあり,フリーメーソンをユダヤの秘密結社と誤解していた官憲にかねてマークされていたのである.
 ブロッホ逮捕の報は,ユダヤ人の連絡網を通じて直ちに安江に伝えられ,彼は上海に飛び,憲兵隊に対し,
「国のためにならないようなことをするな」
と抗議し釈放させた.

 このような事は第2次大戦突入後,得に戦局の悪化と共に頻発し,ついには親交ある秩父宮(昭和天皇の弟君)の名前を使ってユダヤ人達を助けるまでになった.

 安江が現役を追われた15年の年末,例年どおり第4回極東ユダヤ人大会が,今度は彼の意見で大連において開催すべく準備が進められ,招待状の印刷もできあがった頃,突然中止となった.
 12月1日,安江から上海の犬塚大佐へ来電,
「陸軍中央の反対のため,第4回大会は中止」
 ドイツ側の強い圧力が働いたに違いない.安江とカウフマンの無念さが思いやられる.

------------安江弘夫著『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店,1989/8),p.213-214▲

▼ 枢軸国の中では日本はイタリアに次いでユダヤ人に対して寛大だったことは間違いない.
 しかし,上海ゲットーのような紛れもない汚点を,まるで人道的行為だったかのように言い張ることは,後述するように単なる贔屓の引き倒しでしかない.
 そんな贔屓の引き倒しをやっては,「寛大だった」という話すらかえって広く信じてはもらえなくなるだろう.

 【参考ページ Referencia Oldal】
H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.192-199
ウォルター・ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.407
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010)
上海のユダヤ人ゲットー設置に関する考察 - 九州大学(キャッシュ,2019.5.22アクセス)▲


 【質問 kérdés】
 なぜ上海ゲットーは作られたの?

 【回答 válasz】
 日本はこの措置でナチスの圧力を回避すると共に,同盟国としての忠誠を示そうとした,というのが主流の見方である.
 ウォルター・ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.407
でも明確に,
「ドイツをなだめることを意図するものであった」
と述べられている.

 他方,関根真保は「日本政府のユダヤ人監視政策」説を唱える.
 同時期,連合国の国籍を持つ外国人を監視し,管理するための「敵国人集団生活所」が上海の他,北京,南京,広東など各地に作られていた.
 上海には7つもの収容所が設置された.
 日本政府は,国際政経学会系列の「猶太専門家」の影響を受けて次第に反ユダヤ主義傾向を強めていたため,猶太人を敵国人に準じる警戒・監視すべき対象と見なし,「敵国人集団生活所」に準じるものとして「無国籍難民特別地区」を設置したという見方である.

 ただしこの関根の説は,些か説得力に欠ける.
 というのも,当時わずかに残っていた英国籍のユダヤ人は上海ゲットーではなく,「敵国人集団生活所」のほうに収容されているからである.
 もし反ユダヤ主義がメインの動機だったとすると,彼らも間違いなくゲットーのほうに収容されていたはずである.
 日本政府が反ユダヤ傾向を強めつつあったのは確かだとしても,それが主要な動機であるとは思われない.

 【参考ページ Referencia Oldal】
H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.192-199
ウォルター・ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.407
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010), p.78-106
上海のユダヤ人ゲットー設置に関する考察 - 九州大学(キャッシュ,2019.5.22アクセス

mixi, 2019.6.5


 【質問 kérdés】
 上海ゲットーに収容されたのは,どのような人たちだったのか?
Milyen emberek voltak a Shanghaji Ghettóban?

 【回答 válasz】
 中東欧から来たユダヤ系の避難民.
 すなわち,1937年以降にナチス支配地域のドイツ,オーストリア,ハンガリー,チェコスロヴァキア,ポーランド,バルト三国から上海まで逃げてきた人々であり,その数は「水晶の夜」事件が発生した1938年暮れから翌年にかけて急増.
 上海総領事・矢野征記の重光葵外相宛ての報告書によれば,1941年までにその数は約2万人に達した.
 上海は当時,世界で唯一の無査証都市であり,パスポートと移動費用以外は一切必要としなかったためである.

 なお,上海には戦前,サッスーン財閥などユダヤ系英米人もいたが,開戦後にその殆どが母国へと退去していた.

 日本政府は彼らを「無国籍避難民」,ゲットーを「指定地域」と呼んだが,これらは国際世論に配慮してのゴマカシの言い換えに過ぎない.
 これが実態としてユダヤ人居住地域であることは,青木一男・大東亜大臣宛て,矢野征記.上海総領事電(1942.11.18)「猶太人対策ニ関スル件」に「ユダヤ人居住地区」と明記されていることからも明らか.

 また,外務省の監督下にある反ユダヤ団体「国際政経学会」も当時,その機関誌『猶太研究』昭和17年9月号において,猶太人は闇取引を利用して経済的に著しく成長し,中国人を圧迫しているとして非難(もちろん事実無根).
 ユダヤ人を「現住地域に制限」することによって,「商業に制限を加え」なくてはならないと提言している.
 上海ゲットー所長の久保田勤は,この『猶太研究』の編集長だった可能性が非常に高いと言われている.

 【参考ページ Referencia Oldal】
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010), p.59-87

mixi, 2019.6.1


 【質問 kérdés】
 上海ゲットーへの収容により,ユダヤ系避難民の生活はどうなったか?
Mi történt a zsidó menekültek életével a Sanghaji gettóban összeterelő eredményeként?

 【回答 válasz】
 上海に着いてからゲットー収容の布告がなされるまでの間になんとか獲得していた仕事や住居を,一瞬にして手放すことになった.
 学校や仕事などでゲットーを一時的に離れる者には,軍発行の通行許可証が必要となり,営業と移動の自由を制限されることになった.

 関根真保によれば,上海ゲットー内部では物資が著しく欠乏しており,移動と営業の自由を奪われたユダヤ系避難民は貧困にあえぎ,生計の糧さえなかったという.
 たとえば1943.11.16の楊樹浦警察署長の報告によれば,食費を得るために,冬の時期なのに冬服や,生活必需品である食器類さえ売るような状況だった.

 心理的不安も大きく,「いつドイツのような虐殺が始まるか」と避難民達は戦々恐々の毎日だったという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010), p.62-106

mixi, 2019.6.1


 【質問 kérdés】
 上海ゲットーは出入り自由だったのか?
A Sanghaji gettóba szabadon belépett és az gettótól szabadon távozott?

 【回答 válasz】
 最初の数か月間は出入りは比較的容易だったが,移動制限は次第に厳しくなっていった模様.

 当時,上海ユダヤ人が発行していた新聞「上海ジューイッシュ・クロニクル」によれば,ゲットーの外に仕事を持つ者,ゲットー外の病院に通っている者には,「通行許可証」が有料で発行され,それを所持していれば出入りは可能だった.

 しかし,1944.5.4付の大東亜大臣青木一男宛,上海総領事矢野征記の文書「無国籍避難猶太人処理状況ニ関スル件」に記された,同年3月下旬の統計によれば,設置直後の3000通に比べて定期の通行証は半減して,代わりに臨時通行証が増加.
 また,上述紙による,ゲットー所長久保田勤へのインタビューによれば,将来的にはゲットー内で「自給自足させることが大東亜共栄圏の進むべき道に寄与する」と明言しており,通行証発行状況から見ても,その方針に沿って移動制限強化の方向に動いていた可能性が高い.

 【参考ページ Referencia Oldal】
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010), p.135-160

mixi, 2019.5.25


 【質問 kérdés】
 上海ゲットーの通行許可証について教えてください.
Kérem, mondja meg a Pass kártyákat a Shanghaji gettóban.

 【回答 válasz】
 通行許可証は定期(青)と臨時(赤)の2種類.
 「無国籍避難民処理事務所」から発行される.

 通行許可証(青)は,交付日から3か月有効.
 「正規雇用人,あるいは健全な会社を所有する者」に支給される.

 通行許可証(赤)は,交付日から1か月有効.
 非正規雇用人,あるいは臨時にゲットーを離れる者に支給される.
 「臨時」とは葬儀やゲットー外の病院への通院等.

 ゲットーを離れる者は常に,体のどこか目立つところに記章を着用.
 この記章は,「通」という漢字が一文字記された金属製バッジ.
(図表番号 faq190602sn ,こちらより引用)

 青の発行には5ドル,赤の発行には3ドル支払わねばならず,紛失した場合にはその有効期限内での再発行は無し.
 また,申請には労働契約書あるいは労働証明書が必要であり,解雇された場合にはその旨を直ちに事務所に報告し,許可証を返還しなければならない.
 規則違反者には許可証剥奪や処罰が待っていた.

 発行数自体も,徐々に減少傾向にあり,ゲットー設置10か月後には,発行されるのは許可証(赤)が中心となり,青と赤を合わせても当初の半数以下しか発行されなくなった.
 事務所長・久保田勤の二人の部下の日本人,合屋とOkuraは,ユダヤ人に対して横暴で,避難民の回想録によれば,許可証が発行されるか否かは合屋の気分次第だったという.
 一方,Okuraは暴力的であり,強烈な平手打ちを彼らに食らわせた.
 パスの規則を破った者はOkuraに引き渡され,チフスの蔓延する,華徳路 Ward Road の監獄に拘留されたという.

 【参考ページ Referencia Oldal】
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010), p.127-159
https://www.jmberlin.de/blog-en/2017/06/jewish-life-in-shanghai/ ※図表引用元

mixi, 2019.6.2


 【質問 kérdés】
 久保田勤とは?
Ki az KUBOTA Csutomu?

 【回答 válasz】
 上海ユダヤ人の管理責任を負った「上海無国籍避難民処理事務所」の所長.
 詳細な経歴は不明.

 しかし,「国際政経学会」の刊行していた雑誌『猶太研究』の1941.8.1号において,一度だけ名前を見ることができる.
 これは四王天延孝,赤池濃,長谷川泰造,増田正雄,布川静淵と共に名を連ねている座談会記事.
 四王天らはいずれも反ユダヤ主義の論客であり,同誌の論文掲載常連.
 ところが同誌ではやはり反ユダヤ主義の論客としてしばしば「久保田通敦」の論文が掲載され,1942年からはこの「久保田通敦」が同誌編集長を務めている.

 また,「御上の御用で○○に赴任」するために久保田が編集長から退く旨が,1942年7月号の同誌「編集後記」に記されているが,これは1942年11月には大東亜省が創設され,ユダヤ人問題の責任を同省が負うこととなった時期とほぼ一致する.
 犬塚きよ子は『ユダヤ問題と日本の工作』(日本工業新聞社,1982), p.425-426において,
「大東亜省に吸収された外交関係事務は同省出先機関たる上海総領事館に移され,ユダヤ関係業務も,上海ユダヤの実態に無知でありながら多年反ユダヤ観を抱いていた久保田らの手中に納まることになり,犬塚の日本ユダヤ相互理解による日本のユダヤ処理方針は180度の大転回を見るに至った」
と述べている.

 以上より,「久保田通敦」は久保田勤のペンネームである可能性が非常に高いと,ユダヤ離散史研究家の関根真保は分析している.

 【参考ページ Referencia Oldal】
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010), p.107-133

mixi, 2019.5.26


 【質問 kérdés】
 「猶太人対策ニ関スル件」とは?

 【回答 válasz】
 日本の外交文書の中で初めて「ユダヤ人居住地区」が明記された電文.
 1942.11.18付で,青木一男・大東亜大臣宛てに矢野征記・上海総領事が発信したもの.
 「先般来関係機関係官ヨリ成ル委員会」を組織して具体策を研究したところ9月末に得た一案として,対策は主として大東亜省に任せ,必要に応じて陸海軍の協力を得て,
「楊樹浦地区ニ猶太地区ヲ設ケ市内各所ニ散在スル猶太人ヲ一括居住セシム」
とした.
 「猶太人地区」という提言は同時期,反ユダヤ主義団体「国際政経学会」の機関誌『猶太研究』昭和17年9月号にも登場している.
 この団体が外務省の外部団体であることを考えると,反ユダヤ主義団体「国際政経学会」が日本政府の「関係機関係官ヨリ成ル委員会」に影響を及ぼした可能性は高い.

 【参考ページ Referencia Oldal】
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010), p.83-85

mixi, 2016.6.7


◆◆満州


 【質問】
 満州のユダヤ人コミュニティは,どう形成されたのか?

 【回答】
 ハルビンには20世紀初頭からロシア系アシュケナージ・ユダヤ人を主とする小さなコミュニティがあったが,日露戦争の影響と,1905~06年のポグロムの結果,多数のユダヤ人が流入,1908年には8千人以上に増加した.
 東支鉄道建設で雇用機会が増え,また,ロシアはユダヤ人に大幅な行動の自由を認めたため,彼らは好条件の下で暮らしていた.

 その後,ロシア革命とウクライナでの迫害を逃れた難民がさらに流入,ハルビンのコミュニティは1920年には1万人を数え,満州国建国の頃は1万5千人になっていた.
 様々な問題があったにも関わらず,欧米ユダヤ人コミュニティからの援助も得て,住民は安定した生活を営んでいた.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.59-60を参照されたし.


 【質問】
 満州で反ユダヤ主義の中心を成していたのは,どんな集団か?

 【回答】
 白系ロシア人が主だった.
 悪いことに,彼らは日本に警察や諜報員として採用されており,その職権を濫用してユダヤ人を圧迫したという.
 カスペ事件もその延長上で起きたという.

 以下引用.

日本や満州に住む白系露人には強く反ユダヤ主義を支持する人々がいた.
1931年の満州事変以降,日本の支配下にあったハルピンでは,4万人の白系露人と7000人のユダヤ人が対立していた.
 ソヴィエト連邦と対峙していた日本は,こうした白系露人を警察や諜報員として採用したが,彼らは地位を利用してユダヤ人を圧迫したのだった.
 ハルピンで起こったユダヤ人圧迫を象徴するのがセミヨン・カスペ殺害事件である.
 1933年に,シロタも宿泊したホテル「モデルン」の御曹司でピアニストだったカスペが誘拐,殺害された.
 警察によって殺害犯人として数人の白系露人が逮捕されて,抵抗した者は射殺された.
 一方で,犯人には日本の支配下にある「満州国」警察の警察官だった白系露人も含まれたので,現地の警察では,白系露人の意を受けて犯人に同情的な声明を発表したのだった.
 この処置に極東のユダヤ人は憤激した.
 1935年には,ユダヤ人で上海の富豪エズラや,エズラの協力者小谷部全一郎が,ユダヤ人圧迫を批判して,日本政府に状況の改善を求める運動を開始した.
 小谷部は義経ジンギスカン説の提唱者で,日猶同祖論も主張していた.
 最後には全世界のユダヤ人団体が各地の日本大使館に抗議してくる事態となったが,エズラのようなユダヤ人実業家に海外輸出の仲介を頼っていた日本にとって,これは大問題だった.
 そのころ,ユダヤ人の依頼を受けて,陸軍中野学校の創設者で,日本の情報活動の中心だったハルピン特務機関の秋草俊中佐が仲介に動いていた.
 日本側が白系露人の動きを押さえきれなかったとしても,ユダヤ人圧迫を積極的に推進したとする証拠はない.
 そして,ハルピンのユダヤ人圧迫と諸外国の反応も見た満州駐在の関東軍は,軍の意向で白系露人を抑え込んで日本勢力圏内に在住するユダヤ人を保護することを決意した.

山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.147-148

 ロシア人の反ユダヤ感情は19世紀に遡る,根強いものがある.
 帝政ロシア時代には,世界のユダヤ人の3分の1に当たる500万人がロシア国内にいたが,定住地を西部国境地帯に制限されたり,ポグロムが繰り返されたりしている.
 満州にはロシア革命によって,上述のように4万人ものロシア人が逃亡してきており,それと共に反ユダヤ主義も満州に持ち込まれた.

 また,上述のように,カスペ事件では秋草中佐が動いているが,このようなユダヤ人を巡る日本特務機関の動きも興味深い.


 【質問】
 樋口季一郎とは?

 【回答】
 1937年以後,ハルビン特務機関の長.
 第1回極東ユダヤ民族大会に関東軍代表として出席し,ユダヤ人問題と熱心に取り組んだ.
 1938年春,ポーランド,ソ連を経由したユダヤ難民が,満州里対岸のソ連国境地域において2万人近くも増加したため,人道的信念に基いて彼は満州国外交部と折衝,難民の入国・通過を認めさせた.
 当時の上司の東條英機参謀長は彼に釈明を求めたが,樋口曰く,
「ドイツが自国内でユダヤ人をどう扱おうが,それはドイツの勝手だが,満州国のような独立の主権国家の領域内での決定にドイツが干渉することは許されない」
 東條はその主張に同意し,外務省にその通りに回答.この件に関するドイツの抗議は空振りに終わった.

 その後,樋口はキスカ撤退戦を成功させるなどした後,1945/8/25に軍籍を離れ,1970年,没.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.56-58を参照されたし.


 【質問】
 日本軍侵攻後,1939年までに,ハルビンのユダヤ人口が半減したのは何故か?

 【回答】
 秩序が失われ,暴力が跋扈し,政治が不安定となった上,1936年以降はヨーロッパからのユダヤ難民が急増.
 日本軍部は,外国人に対して商取引規制を行い,ユダヤ商人にも日本人とだけ取引するよう強制.
 ユダヤ人と反ユダヤ人的な白系ロシア・グループの間に紛争が増え,白系ロシア人の煽動誌を中心として報道機関で反ユダヤ感情が煽られ,金持ちの商人は強盗,殺人,誘拐の標的となった.

 そのため,居住者数は5千人に半減,脱出者の多くは天津や青島に向かった.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.61を参照されたし.


 【質問】
 ハルビン警察署長・江口はどんな人物だったか?

 【回答】
 自分の管轄区域を常識外れの惨忍な権力行使の実験場と心得ており,ユダヤ嫌いとして名を馳せていた.
 彼は1933年,外務次間と内閣書記官長に「北満における猶太人について」と題する,中傷と悪意に満ちた報告を送り,その反ユダヤぶりを示していた.
 その報告は,日本人はいずれにせよユダヤ人を利用すべきだと勧告していた.
 白系ロシアの治安グループは,憲兵隊の容認の下で非道に振舞った.
 1933年8月にはカスペ事件が起こり,また,1935年には,日本の治安機関が,ヨム・キプール祭を祝っているハルビンの中央シナゴーグに乱入,武器と禁止文書を捜索するという事件が起きた.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.62-67を参照されたし.


 【質問】
 シモン・カスペ事件とは?

 【回答】
 ハルビンの有名な「ホテル・モデルン」オーナー,ヨゼフ・カスペの息子で,学生だったシモン・カスペが1933年8月,身代金目的で誘拐され,殺害された事件.
 複数の犯人が逮捕されたが,裁判は非公開とされ,シナ人裁判官が収賄で逮捕されて裁判は中断.
 日本の警察がこの事件を扱うことになって裁判は再開されたが,関東庁警務局長に昇進していた江口の介入で,犯人達は,懲役判決を受けた1週間後には釈放された.
 ハルビンと上海のユダヤ人コミュニティはこの間,日本外務省に抗議したが,同省は何の措置も取らなかった.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.62-64を参照されたし.


 【質問】
 東北5省占領後,日本軍部は対ユダヤ人姿勢をなぜ変更したのか? 

 【回答】
 軍部は当初,ユダヤ人についての知識に乏しく,新たな支配地域での反ユダヤ活動を抑え込む自信もないので,域内のユダヤ人とは距離をとった姿勢を保った.
 しかし,経済への介入が大規模に進み,基幹産業を併呑して行く過程で,ユダヤ人の経済力と,それが持つ意味がだんだんと分かってきた.
 そこで軌道を修正,それまでの高圧的な態度から,むしろ協力を重視する姿勢に変わった.
 この新しい政策展開には,安江大佐が大きな役割を演じていた.

 詳しくは,H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.71-74を参照されたし.


 【質問】
 昭和14年のジックマン提案とは?

 【回答】
 ハルピンのユダヤ人実業家ジックマンから提案された,上海のユダヤ避難民救済に関する提案.
「満州国の産業開発のため,在米ユダヤ人より物資を輸入して新企業を設立し,その企業の運営に上海方面のユダヤ避難民200家族を満州に呼び寄せる」
という内容.
 米国ユダヤ人との関係を改善させ,それをもって日米戦争を回避し,「ユダヤ人の極東のパラダイス」を死守することが,彼の狙いだったという.
 これに賛成する安江大佐と,関東軍司令部の幕僚たちの間でもめた模様だが,結局,植田駐満大使(関東軍司令官)をして,
「彼の感情を害さぬよう婉曲に断る」
という結論になったという.

 詳しくは『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(安江弘夫著,八幡書店,1989/8),p.152-153を参照されたし.


 【質問】
 クランツラーの『日本人,ナチスそしてユダヤ人』によれば,日米関係改善と米国ユダヤ資本の満州への導入工作に,陸軍皇道派,特に石原莞爾と鮎川義介・満州重工業総裁の指揮下にある満州派が動き,その画策の過程で石原と板垣を,安江大佐と犬塚大佐が助けたとされているが?

 【回答】
 安江弘夫によれば,それは間違いだという.
 なぜなら
・石原は皇道派ではなく,精神構造的には統制派に近い.
・安江大佐がユダヤ問題を実務として扱うようになった大連特務機関長就任時には,満州の皇道派は東條英機・関東軍参謀長(当時)によって壊滅させられている
・安江が犬塚とコンビを組んで行動したという事実はない
からだという.

 詳しくは『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(安江弘夫著,八幡書店,1989/8),p.171-172を参照されたし.


 【質問】
 アブラハム・カウフマンは戦後どうなったか?

 【回答】
 極東ユダヤ人会会長アブラハム・カウフマンは,ソ連軍に逮捕され,ソ連内の刑務所・労働キャンプ・追放地などを転転としたが,最後はイスラエルへ渡る事ができた.
 以下ソース.

 終戦直後,彼はハルピンでソ連軍に逮捕されソ連に連行,25年の刑を受けた.
 そして16年間に渡り,種種の刑務所・労働キャンプ・追放地などを転転とした.
 彼は突発的に行われる何回もの厳しい取調べにも関わらず,いつも自分を失わず,人間年ての誇りを保ち,シオニスト・リーダーとしての信念で周囲のシオニスト達を励ましただけでなく,ユダヤ人や非ユダヤ人の囚人達を助け,割り当ての少量のパンを分ち与えたり,キャンプ当局の規則に違反してまでも医者として病人を世話した.

 スターリン時代の終焉と共に,裁判の評決の再審査が行われ,彼は労働キャンプを出されてカザックスタンの荒野に追放された.
 彼はここでイスラエルへの出国許可を求めて戦い,5年後にそれを獲得した.時に1961年3月,75歳であった.
 彼は幸運にも,生涯の夢であった再建された祖国の土を踏み,家族や多くの友人,そして彼を尊敬している人々に迎えられた.
 長い抑留生活にも関わらず,彼は不屈の精神力で労働総同盟の付属病院の医師として再起し,10年間働いた.
 そこで彼は,16年間に渡るソ連での刑務所や労働キャンプでの体験を,感動的な表現で書いた自伝「キャンプの医者」を出版し,その後間もなく不帰の客となった.
 「キャンプの医者」の中で,彼は安江〔仙弘.終戦時,予備役大佐.安江機関機関長〕のことを次のように言っている.
「戦前・戦中の満州で,私が妻以外に信頼できた唯一の人物が安江大佐であった」,と.

(安江弘夫『大連特務機関と幻のユダヤ国家』,
八幡書店,1989/8,p.265-266)


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