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「Togetter」◆(2014-02-22) 『アンネの日記』偽書説への反論

「Togetter」◆(2014-02-22) 都内の図書館で「アンネの日記」破損事件大量発生。ニュースは全世界に飛び火

「Togetter」◆(2014-02-28) 三宅洋平の元ブレーン、高尾洋平、アンネの日記偽書説とユダヤ陰謀論

「Togetter」◆(2014-03-13) アンネの日記事件容疑者

「Togetter」◆(2014-03-14) 屋代聡氏 アンネの日記に関するツイートまとめ

「カラパイア」◆(2009/10/04) 【動画】アンネ・フランクが映っている唯一の動画

「カラパイア」◆(2016/12/27) アンネ・フランク一家は本当に裏切りられたのか?あれから72年、歴史家が新説を発表(オランダ研究)


◆◆◆◆アンネ・フランク関連


 【質問】
 フランク一家は何故オランダに来たのか?

 【回答】
 フランクフルトでもユダヤ人に対する迫害が本格的に始まったため,父親オットー・フランクは,これまでの銀行業を清算したのを機に移住を決めたという.
 以下引用.

 〔1933年〕3月12日に,地方選挙が行われ,フランクフルトにおいてさえ,ナチ党が勝利を収めた.
 その翌日,左翼に支持されていたリベラルなユダヤ系の市長が辞任に追い込まれ,さらにその月の終わりには,市の公務員から全てのユダヤ人が追放された.
 3月1日には,ナチス突撃隊(シュトゥルムアプタイルンゲン,SA)が大挙して出動し,ユダヤ人の経営する商店,企業,法律事務所,医療施設などの入り口を,残らずバリケードで塞いだ.

 オットーにとって,もはや〔彼の経営していた〕銀行の再建が無理であることは明らかだった.
 4月1日の出来事ですら,それまでの事態を一層悪くしたというわけではなかった.
 とはいえ,勝ち誇るナチの行動は,彼に自分の家族,とりわけ子供達の将来を深く憂慮せしめた.
 イースター後,学校ではユダヤ人の学童が,他のアーリア人の℃q供達と区別し易くするため,別の席に座らされていた.いずれ,ユダヤ人の学童,生徒は,全員が彼らだけの特殊な学校に隔離され,教師陣もユダヤ人だけになるだろう.
 これは今や時間の問題であった.
 かねてから,外国へ移住するという考えをもてあそんでいたオットーは,今こそそれを実行するときが来たと判断した.

 まず考えにのぼったのがオランダであった.
 彼はアムステルダムを良く知っているし,少なくとも一人は良き友がいる.
 のみならず,義兄のエーリヒ・エリアスから,オペクタ商会がペクチンの販路を国際市場にまで拡張させたがっていて,そのため,オランダに小売り代理店を開設する計画を持っていることを聞いていた.
 エリアスの尽力もあって,オットーはオランダでオペクタの支店を開設する任務を与えられた.
 その夏,彼は家族をフランクフルトからアーヘンに連れて行き,妻エーディトと2人の娘達とを妻の母に預けた後,自身はそのままアムステルダムに向かった.

 〔略〕

 1933年秋までに,オットーはメルヴェデプレイン37番地の建物の3階に,相応のアパートを見つけていた.
 その年8月16日,アムステルダム市住民登録事務所において,オットーの名が登録された当日に,妻エーディトの名も同時に登録されている.
 ただし彼女自身は,まだそれから4ヵ月ほど先まで,2人の娘と共にアーヘンに留まり,12月5日になって,初めて正式にメルヴェデプレインへの移転が登録されている.
 その2日後,マルゴーとアンネの名が,同じく新住所で住民登録されている.
 登録にあたっては,本人がその場に居合せる必要はなかったから,したがってこれは,エーディトとマルゴーとがアムステルダムへ移ったのは1933年12月だが,アンネは翌1934年の3月になって,初めて家族と合流した,という遺族の記憶と抵触するものではない.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.12-15


 【質問】
 アンネ・フランクにフランクフルト時代の記憶があるのはおかしいのでは?

 【回答】
 フランク一家がフランクフルトからオランダに移住し,住民登録をしたのは1933年.
 アンネ・フランクは1929年生まれ.
 通常,記憶の形成がなされるのは3歳以上とされるので,アンネにオランダ移住以前のフランクフルトの記憶があったとしても不自然ではない.

軍事板


 【質問】
 なぜフランク一家は,オランダからさらに遠くへ逃げなかったのか?

 【回答】
 さらなる新生活への経済的不安感が,オットーにそれをためらわせ,「ナチスも中立を尊重するだろう」という楽観論にしがみつかせる結果となった模様.
 以下引用.

 もとより,ナチの脅威は依然として重くのしかかっていたし,30年代も終わりに近付くにつれ,それはますます重くなっていった.
 多くの国に縁戚を持ち,海外に友人も多数いたのだから,オットー・フランクはその気になりさえすれば,いつでも家族をイギリスなり,アメリカ合衆国なり,スイスなりに連れていけたはずである.
 しかし彼は,他の多くのユダヤ人同様,ナチスはオランダの中立を尊重するものと信じきっていた.

 さらに,これは彼にとっては極めて重要なことだったが,このアムステルダムにおいて,彼は一つの新しい,独立した生活を築き上げていた.
 他のところでは,例えどこへ行っても,自分自身と家族の暮らしを立てていくためには,他人の助力を乞わねばならないだろう.
 というわけで,彼はアムステルダムに留まり続けた.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.25


 【質問】
 オランダで潜伏生活を送ったユダヤ人は何人いたのか?

 【回答】
 約25,000人.
 以下引用.

 1940年から1945年にかけて,強制連行を逃れるために潜行生活を送った在オランダのユダヤ人25,000人の内,だいたい8,000から9,000人がドイツ軍の手に落ちている.
 そうなった原因は様々であるが,総じて4つのグループに分けられよう.
 ドイツ軍およびオランダ側の対独協力者による組織的・集団的な摘発.
 偶然.
 潜行しているユダヤ人自身,もしくはその「支援者」達の不注意.
 そして密告.
 この内3番目と4番目とは,往々にして同時に発生する.
 当時,SDやオランダの警察には,無数の投書や電話による通報があった.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.35


 【質問】
 「アンネの日記」と呼ばれているものは,何種類あるのか?

 【回答】
 アンネ・フランク自身が書いていた日記は2種類.「日記帳1」「2」「3」と呼ばれる,帳面(1はサイン帳,2と3は雑記帳)に書かれたものと,それらをアンネ自身が書き直していた「ばらの用紙」(フォルダに収められた何枚もの複写用紙)とがある.
 他に創作童話が何篇かある.

 これらがオットー・フランクやその他,様々な人々によってタイプ原稿にされ,各国語版が出版された.
 これにも複数のヴァリエーションがある.
 オリジナルの日記から,ファン・ペルス一家を攻撃したくだり.母親への悪口,生理の描写のくだりが削除されれるなど短縮されたもの,短縮されていないもの,ドイツ語出版に際して「配慮」が加えられたもの,等である.
 しかし,いずれも「内容に関わる改竄」といえるようなものではない.

 オリジナルの日記の全文は,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1)で読むことができる.


 【質問】
 『アンネの日記』ってエロいの?

 【回答】
 基本的には,閉じ込められた思春期の女の子が,母親や隣の家に反発したりと,自分なりに考えたことを書いた日記です.
 今日はこんな勉強をした,綴り字の練習をして過ごしている,とか本当に日記がメインです.
 アンネは夢想家な一面も持っていて,ちょっとエロスにロマンを抱きすぎで,そういう部分は刊行に際して父親が削除してます.
 完全版はそういった部分も訳してありますが,決してエロが主体なわけではないです.

軍事板,2009/09/22(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フランク一家らの逮捕は,密告によるものなのか?

 【回答】
 不明.「隠れ家」の支援者達は,密告によるものと確信しているが,戦後に何度か行われた調査では,結論は出ていない.
 密告者と疑われた倉庫係のファン・レーマンについても,そうだとする証拠はどこにもない.
 おそらく,この謎が解明されることはないだろう.
 以下引用.

 「隠れ家」の支援者達は,8月4日の手入れの後,すぐ悟った――この場合,考えられる原因は密告しかありえず,それはおそらく不注意の結果によるものだろう,と.
 クレイマン〔オペクタ商会の経理担当〕も――10月に収容所から帰った後――同様の見解をとった.
 なんといってもSDは,あの日まっすぐ2263番地の家に乗りつけてきたのであり,しかも263番地の家にしか来ていない.してみると,偶然ということはないはずだ.

 少数の支援者サークルを除けば,フランク一家が潜行したことを知っている者は誰もいなかった.
 リンブルク経由でスイスに脱出したという風説が,極めて効果的に流布していたのである.
 同じくファン・ペルス一家やプフェファー氏も,1942年じゅうには完全に足跡をくらますことに成功していた.

 〔略〕

クレイマンだけがファン・レーマンを批判的に見ていたわけではない.隣の会社の従業員達も,さらにはファン・レーマンの自宅周辺の住人も,例外なく彼を不愉快な人間と見なしていた.
 しかし,彼が密告者だったという証拠はどこにもない.

 我々もまた,疑念を解消するには至らなかった.
 〔略〕

 我々が多少なりとも確信をもって言いきれるのは,建物内に匿われているユダヤ人達の存在を,彼は知っていたに違いないという事だけである.
 〔略〕
 全体的な観察,彼の耳にした言葉の端々,「後ろの家」の「発見」(屋根の上からと,裏窓のペンキを剥がしてみたときの),そしてあの書棚の位置.
 しかしながら,ここでもまた,こうした状況からだけでは,彼が裏切り行為を働いたという結論を引き出すことはできない.

 前にも述べた通り,8月4日の手入れについては,他にもその原因として考えられるものは山ほどある.
 あるいはファン・レーマンは,たくさんある連環の,間接的な一つでしかなかったのかもしれない.
 彼は大口叩きであり,自慢屋でもあった.社屋内で起きていることがだんだん分かってくるにつけ,当然自分の知ったことを,あるいは薄々感じていることを,他人に――ハルホトや,隣の会社の倉庫係などに――漏らしたに相違ない.
 ハルホトの妻の軽率な言動もあった.まだ他にも,何かを知っている,あるいは感づいている人々はいたはずだ――通りの数軒先の薬屋,プリンセンフラハト263番地に食糧を届けてくる商人達.これらの人々が,どこまで秘密を胸に秘めておけただろうか.
 プリンセンフラハト263番地の斜め向かい,ヴェステルマルクトに住んでいた,あるNSB党員の話もある.しきりに周辺の住人に探りを入れて,263番地で何が起きているのか聞き出そうとしていたという.
 この男は1943年に死亡しているが,同じ街区で,他にも何人か,知るべきでないことを知り,それを秘密にしておけなかった者がいるのではないだろうか.

 ここに一通の手紙がある.
 当時8歳だったその差し出し人は,ある晩,何かめぼしいものでもないかと,友達と一緒に裏窓から倉庫に忍び込んだことがあるという.
 ところが,頭の上で水洗便所の水が流れる音を聞き,恐ろしくなって逃げ出した.
 1981年に,我々への手紙で,この些細な家宅侵入罪を告白するまで,そのときの出来事については,誰にも一言も漏らさなかった,と彼は告げている.

 いったいどれだけの人々が,はからずもそうして知ってしまったことを秘密にしておけただろうか.
 〔略〕
 いずれにせよ,正確に何があったかを再現することは,今となってはもはや不可能である.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.35 & 51-52


 【質問】
 1944年8月4日の手入れを実行した警官隊のリーダー,SS上級分隊長カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーは何故,戦犯とはならなかったのか?

 【回答】
 オットー・フランクによる供述,
「ジルバーバウアーは上からの命令によって行動していたに過ぎず,手入れに際しても不法な行動はとらなかった」
がその主因となっている.
 とはいえ,それなりの社会的制裁は受けた模様.

 以下引用.

 ジルバーバウアーは1911年にウィーンに生まれた.
 1931年から35年までオーストリア軍に奉職し,その後にウィーンの保安警察(シュッツポリツァイ,正規の私服警察)に加わった.
 1939年に志願してSS勤務になったが,ナチ党の党員ではなかった.
 1941年にはさらに,生地ウィーンの秘密国家警察(シュターツポリツァイ,すなわちゲシュタポ)に加わった.
 1943年,ハーグのSD(ジッヒャーハイツディーンスト,SSの保安組織)本部へ移され,ここでアムステルダム外局のIVB4課にポストを与えられた.
 1944年10月,アムステルダムからハーグへの路上で,大規模な交通事故に巻きこまれ,アムステルダムおよびフローニンゲンの病院で療養生活を送った後,1945年4月にウィーンへ帰った.
 戦争終結後は,後にユールス・ヒュフに語ったところによると,14ヵ月に渡って獄中生活を送ったが,それは「コミュニストどもが1938年に私から虐待を受けたと訴えたため」だった.
 1954年になると,名誉を回復してウィーン警察に復職できるまでになったが,やがて1963年10月4日には,拳銃を当局に返上し,オランダ時代の彼の活動を追及する新たな調査が行われている間,非現役名簿に載ることを甘受せねばならなくなった.
 〔略〕
 ウィーンの警察当局は,アムステルダム警察との緊密な連携の下に調査を進めたが,ジルバーバウアーを告発するに足るだけの証拠を発掘することはできなかった.
 1964年6月3日,オランダの日刊紙各紙は,司法当局による調査が打ち切られたことを報道した.
 しかしながら,ジルバーバウアーに対する懲戒手続き(彼は今なお停職中だった)のほうは続行されていた.
 1ヶ月後,懲戒委員会はこう結論した――戦後にウィーン警察に復職を願い出たとき,ジルバーバウアーが1944年8月4日の手入れのことに触れなかったのは事実だが,しかし,特に戦時中の自分の役割を隠そうとしたわけではない,と.
 この結論に基づき,委員会は彼の停職を解くことを決定したが,警察当局はこの決定を不服として,抗告に踏みきった.
 3ヵ月後に,オーストリア内務省の懲戒委員会は,この訴えを棄却したが,オーストリアの「フォルクスブラット」紙によれば,この決定には,オットー・フランクによる供述――すなわち,ジルバーバウアーは明らかに上からの命令によって行動していたに過ぎず,手入れに際しても,不法な行動はとらなかったとの趣旨の――が,決定的な要因となっていた.
 かくしてジルバーバウアーは旧職に復したのだった.

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.52-53


 【質問】
 逮捕後,アンネはどうなったか?

 【回答】
 初めアウシュビッツ,次いでベルゲン=ベルゼンに収容され,1945年2月末〜3月初めの間にチフスで死亡したとされている.

 以下引用.

 捕まった8人のユダヤ人は,逮捕の翌日にヴェーテリングスハンスの拘置所へ移された.
 8月8日には,ここからヴェステルボルクのユダヤ人通過収容所に送られたが,ここは,ドイツ軍の摘発を逃れきれなかったユダヤ人の殆ど全員が,「東」(ポーランド国内の絶滅収容所)への旅を始める前に,いったん収容されるところだった.
 8人は8月いっぱいをこのヴェステルボルクで過ごしたが,ここで彼らの身にどんなことがあったかは,殆ど知られていない.

 〔略〕

 九月3日,フランク一家とファン・ペルス一家,それにフリードリヒ・プフェファーは,ヴェステルボルクからアウシュビッツ行きの列車に乗せられ,9月5日〜6日の夜,このポーランドの小駅に到着した.
 彼らは,ヴェステルボルクから送られた1019名の囚人の一部だった.
 〔略〕
 一行はそのまま駅のプラットフォームで「選別」を受けた.
 多少なりとも歩行に耐える者は,駅からアウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所までの道を歩かされた.
 258名の男子と,212名の女子とがこうして収容所に向かい,残る549名――その中には,15歳以下の子供が全員含まれていた――は,その日の内,9月6日にガス室へ送られた.この中にファン・ペルスがいた.
 〔略〕

 アンネとマルゴーの姉妹は,アウシュヴィッツには2ヵ月足らずしかいなかった.
 女子収容所では,10月の末から何回にも渡って,他の強制収容所への大量移送が始まっていた.
 この内3回――それぞれ10月28日,11月1日,および2日の便――は,ベルゲン=ベルゼンへと向かった16.移送された者の名簿は保存されていない.
 もしも,「アウシュヴィッツ・ノート」に,11月1日付でアウシュヴィッツからベルゲン=ベルゼンへ移されたと記載されている一囚人(アーティストのリン・ヤルダティ,〔本名カロリーナ・レベッカ・レプリング=ブリレスレイペル〕,ベルゲン=ベルゼンでアンネとマルゴーに会ったとされている17)の証言が,新しい収容所に到着したとき,フランク姉妹と遭遇したという意味なら,姉妹は既に10月28日の便で移送されていたということになる.
 〔略〕
 このことは,11月1日の便でベルゲン=ベルゼンに到着した,リン・ヤルダティの妹によっても確認されている.
 彼女は我々に対し,自分達姉妹が収容所に到着した直後に,アンネとマルゴー(彼女らとは,既にヴェステルボルクやアウシュヴィッツで顔なじみだった)とが駆け寄ってきた,と語っている19

 ベルゲン=ベルゼンの収容所20は,そもそもは第3帝国の中でも「マシな」ほうの強制収容所に数えられていた.
 通過収容所として計画されたこの収容所には,ナチの支配下外の地域で拘束を受けているドイツ人との,交換要員として指定されたユダヤ人,もしくは,その他の意味でドイツにとって役に立つかもしれない囚人,等が収容されていた.
 このことは,この収容所が「交換収容所」とも呼ばれていた理由を説明しているし,また,多くのユダヤ人にとって,ベルゲン=ベルゼンの収容所の名が幸先の良い響きを持っていたことをも説明している.
 特に,ヴェステルボルクに集められたユダヤ人は,アウシュヴィッツ行きを逃れてベルゲン=ベルゼンへ移送されることが決まると,特権でも与えられたかのように安堵した.
 そこならば,いつでもパレスチナへの交換列車に乗り込める可能性がある,そう見られていたからだ.

 全体で延べ125,000名のユダヤ人がここに収容されたが,その内およそ5万名が,多くは「解放」前の数ヶ月と,その直後の2,3週間のうちに死亡した.
 最後にベルゲン=ベルゼンに行き着いたオランダからの囚人3,750名の内,1,700名がここで命を落とした21

 この収容所は,リューネブルク荒野(リューネブルガーハイデ)という,広漠たる不毛の原野に位置していた.
 1944年にヴェステルボルクからベルゲン=ベルゼンへ送られたオランダの法律家アーベル・ヘルツベルフは,この収容所のことを以下のように描写している――
「収容所内には不毛の荒れ地が広がり,冬にはそれが泥海か氷原に,夏には砂礫と土埃と石くれの原となった.
 地中には地虫もミミズも住まず,空中には蝶やトンボの姿も無かった.
 雀が草の種を啄ばみにくることもなく,電柱に止まる鳥もなければ,樹上でさえずる小鳥の姿もなかった22
 だがそれでもベルゲン=ベルゼンは,飢えが急速に収容者を蝕みつつあったとはいえ,どちらかといえばましな収容所だった.
 ここでは,衆人の虐待は比較的少なく,殺される者は皆無だった.
 確かに,建物は粗末な造りで,冷たい風が吹き抜けたし,屋根は雨漏りが酷くて,ベッドが使えなかったり,床に水溜まりができたりすることもしばしばだったが,それでも,毎日が死の危険に晒されているわけではなかった.
 人々は,いつか交換の対象になれる希望に,パレスチナへの移住グループに加われる希望にしがみついていることができた.

 1944年の秋,シュテルンラーガー<ベルゲン=ベルゼンでも最も環境劣悪な地区の一つ,星棟=рフ集会用広場を潰して,もっと多くの収容棟が建てられることになった.
 材木は,アウシュヴィッツから50kmほど離れたクラクフの近くの,さるユダヤ人強制収容所から運ばれたものが使われた.
 この収容棟については,「考えられる限りの最悪の状態にあり,虱がうようよしていた」と描写されている23

 1944年の10月末から11月初め,アウシュヴィッツ=ビルケナウから次々に囚人が移送されてきたとき――その総数は3,659名,「病人だが回復の見込みのある女性」ばかりで,「超満員の家畜用貨車に載せられ,数日がかりで運ばれてきたため,BBに着いたときには衰弱しきって」いたが――この新しい収容棟はまだ完成しておらず,女達はテントで間に合わせるしかなかった.
「晩秋の寒さと冷雨の中,彼女らは――床に薄い藁を敷いただけの――テントで眠らねばならなかった.
 どのテントにも囚人がぎっしり詰め込まれ,その上,明かりもトイレの設備も無かった」
 この様相は,やはりそのときの移送で同地に送られた,さる女性の証言でも裏付けられている――
「仮にテントの前の地面に掘られた露天の便所まで行きたくても,ぎっしり詰まった収容者の間を掻き分けて行くことは,殆ど不可能でした24

 マルゴーとアンネ・フランクの姉妹も,ベルゲン=ベルゼンに到着したときには,こういう状況に遭遇したに違いない.
 10月28日にアウシュヴィッツを出たとすれば,到着はおそらく10月30日だったはずだが,彼女らのテント生活は,1週間とちょっとで劇的な終わりを迎えることになった.
 11月7日,激しい嵐が荒野に吹き荒れ,多数のテントを吹き飛ばしてしまったからである25
「何時間もの間,女達は薄い毛布を肩に纏っただけで,雹と,しのつく雨の中で戸外に立たされていた.
 それから,鞭で追い立てられて炊事用テントに追い込まれ,その晩はそこで過ごさねばならなかった.
 翌朝,一同はとりあえず靴造りの作業場に収容され,シュテルンラーガーの病棟と,老人棟,さらにその他の2ヶ所の営倉が,彼女らのために1時間以内に明け渡されるのを待った26
 その後さらに数週間経ってから,ようやく事態は落ち着き,「アウシュヴィッツの女達」は全員,かつてのシュテルンラーガーに収容された.
 マルゴーとアンネの姉妹も,その中にいた.

 当時のベルゲン=ベルゼンの状況については,我々も多くを知らされている.英軍によって収容所が解放された後,連合軍の従軍カメラマンが撮影した写真が,世界中の新聞や雑誌に掲載され,一目でドイツの強制収容所の恐怖の実態を,幾百万もの人々に知らしめたからである.

 1944年から45年にかけての冬の間に,収容所の過密状態はいよいよ酷くなった.
 至るところに劣悪な居住環境が蔓延り,収容棟の内部も,自然の猛威に晒されるままだった.
 食糧の供給も滞りがちだった.
 混乱が広がり,伝染病の危険も無視できないまでになると,SSはもはや秩序らしきものを維持することすらできず,ただ一つの責務――逃亡を防ぐこと――だけに専念するようになった.
 飢えと寒さ,冷雨と降雪,そして最も基本的な衛生設備さえも欠如していること,これらが一緒になって,衰弱しきった収容者の間に感染性の疾患を蔓延させることになった.
 深刻な医師不足の上に,医薬品は殆ど皆無の状態だったから,たとえどんなに軽症でも,病みついたら最後,手の施しようがなかった.
 冬も終わりに近付くに従い,チフスの流行が何万という収容者の命を奪った.
 衰弱し,消耗しきっていたマルゴーやアンネも,その犠牲となった.

 姉妹がいつ死んだのか,正確なところは不明である.もはや収容所には,いかなる意味での管理も存在しなかったからだ.
 戦後,オランダ赤十字は,オランダ人の全犠牲者の死亡日時を特定しようと,非常な努力を重ねたが,多くのケースでその目的は達成できず,単なる推定と見込みだけに留めざるを得なかった.
 マルゴーとアンネのケースでは,こうして割り出した日付が3月31日となっている28
 しかしながら,幾つかの証拠から,姉妹はそれよりも早く,おそらくは2月の末か,3月の初めには死亡していたものと見られる.
 戦後,多くの収容者――全員が女性だが――の証言したところでは,まずマルゴーが死亡し,2,3日遅れてアンネが後を追ったとされている29
      注
 16 Hefte von Auschwitz, 1964, No.8, pp.82-83
 17 同書,p.83
 18 同書,p.82
 19 M.ブランデス=ブリレスレイペル夫人,1985/11/8
 20 この収容所の歴史については,Eberhard Kolb, Bergen-Belsen, Geschichte des "Aufenthaltslagers" 1943-45 ( Hanover : Verlag für Literatur und Zeitgeschehen, 1962)および,L. de Jong, Het Koninkrijk...の,特に第6巻(1975),第7巻(1976),第8巻(1978)を参照せられたい.
 21 L. de Jong, Het Koninkrijk..., vol.8, pp117, 888.
 22 A. J. Herzberg, Amor Fati. Zeven opstellen over Bergen-Belsen ( Amsterdam: Moussault, 1946 ), p.115
 23 Kolb, Bergen-Belsen, p.115
 24 同書,p.116
 25 同前
 26 同前
 27 同前,ところどころにあり.
 28 オランダ赤十字,文書117267および117266
 29 ブリレスレイペル姉妹他大勢(本書p.59を見よ)

オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.57-64


◆◆◆◆◆真贋論争関連

 【珍説】
 アンネの日記は捏造です.あの時代にボールペンはありません.

 【事実】
 鑑定結果は「疑問の余地無く,日記がアンネ・フランク本人の筆跡」だと結論している.

 1981年,オランダ国立戦時資料館は,アンネ・フランク自筆の日記を,真贋鑑定のために法務省所属のオランダ国立法科学研究所に提出した.
 国立法科学研究所は 使用されている物質−−インク,紙,糊など−−と筆跡を調査して,270ページの報告書を発行した.
 国立法科学研究所の報告は,アンネ・フランクの日記の両バージョンが,共にアンネ自身によって1942年から1944年の間に書かれたということを,異論の余地無く論証した.
 日記が他の誰かによる(戦後もしくは戦前の)作品だという申し立ては,ゆえに最終的に反駁される.
 さらに,校正と省略にもかかわらず,「アンネ・フランクの日記」(すなわち日記の出版されたバージョン)は,事実アンネの著作の「本質」を含有している.
 この本の編集者や出版者の仕事に関して「偽造」という用語が適用される余地はまったく存在しない.

 アンネの日記に対する一番ありふれた難癖は,日記にはボールペンによる記述が含まれており,ボールペンが一般的に使用されるようになったのは,アンネの死後だというものだ.これは,偽瞞ながらも,しつこく持続している神話である.日記中の唯一のボールペン・インクは,アンネ以外の人間によって挿入されたと分かる紙片に記されたものだ.
 言うまでもなく,アンネ自身の記述はボールペンを使ったものではない.

http://www.ss.iij4u.or.jp/~mitaka/nizkor/66qa56.txt


 【珍説】
 エルンスト・ロエマーの申出に対する独逸連邦犯罪調査事務局(BKA)の調査結果を西独逸の週刊誌「シュピゲール」が暴露した事があった.
 それによると,『アンネの日記』の原本恥〔原文ママ〕,長期に亙って全巻が発表されていなかった.
 しかし裁判の結果遂に第4冊目が調査される事になったのである.
 その4冊目はボールペンで書かれていたと云う.
 よく考えれば,ボールペンが世に出て一般に使われている様になったのは1951年以降である.
 アンネはそれよりも遥か以前に死んでいた.
 第4冊目に書かれているボールペンの筆跡は第一冊目,第二冊目,第三冊目に書かれている筆跡と全く同じ物である.

 と云う事は,この日記はアンネ自身の手に依って書かれた物ではないと云う事の動かし難い証拠となったのである.

西 in FAQ 2nd BBS

 【事実】
 BKA(ブンデスクリミナルアムト,連邦犯罪捜査局)が鑑定依頼を受けたのは,エルンスト・レーマーの裁判そのもののためではない.
 その審理中,法廷内でエドガー・ガイスなるジャーナリストが,「日記は捏造」だとする主旨のパンフレットを配布したためだ.
 ガイスはそのために名誉毀損で起訴され,1980年4月,区裁判所で禁固1年の刑を宣告された.

 BKAは,このとき,すなわち1980年春に,専門家による鑑定意見を纏めることを委嘱された.
「紙質および筆記具の検査を通じて,アンネ・フランクが描いたとされる原稿が,1941年から1944年の間に書かれたという事実を確証する」ことができるかどうか,この点を調べるのが目的だった.
 したがって,この調査は,目的を上の短い指定事項のみに限定して行われた.

 結果,BKAは,<日記帳I><II><III>の表紙をも含め,これらに用いられている質の紙,ならびに,3冊の日記帳および<ばらの用紙>に見られる質のインクは,いずれも1950〜51年以前に製造されたものである(したがって,1941年から1944年の間に用いることが可能)と結論した.
 一方,
「その後に<ばらの用紙>に加えられた修正個所の幾つかは,(中略)黒と緑色のインク,ならびに青のボールペンで記されている.
 この種のボールペン・インクは,1951年以降に初めて市場に出たものである」
とした.

 このBKAの報告書は,僅か4ページだった.<ばらの用紙>の,正確にどの部分にそれらの修正個所があるのか,また,その修正の性質や程度などには言及されていないし,そういう修正が全体で何ヶ所あるのかもつまびらかにされていなかった.

 それ自体では,この報告書は決してセンセーショナルなものとは言えないし,「日記」そのものの正当性に抵触するものでもなかった.
 しかし,シュピーゲルはこの鑑定結果を基に,1980/10/6,
「BKAリポートで立証さる――『アンネの日記』はのちに編集されたもの.
 よって,この文章の信憑性にも,さらなる疑惑が投げかけられる」
という記事を書いた.
 何のことはない,トバシ記事だ.

 だが,記事はドイツ国内外で反響を呼んだ.センセーショナリズムに踊らされる人間が,それだけ多かったということだ.
 アンネ・フランク財団は,こう主張した.
「内容を明確化するために,些細な修正を加えただけだ」

 ここに至り,オランダ国立戦時資料研究所は,1985年12月20日,国立法科学研究所に筆跡鑑定等を依頼した.
 鑑定結果はこうだった.

 (1) 「日記帳1」と呼ばれるサイン帳型のアルバムの筆跡は,確信に近い確率をもって,比較基準(アンネ・フランクの知人・友人・遺族から提供された,アンネ直筆の手紙など)の書き手,アンネ・フランクの手になるものと見なしうる.
 (2) 「日記帳2」と呼ばれる黒の堅表紙,黒のクロス装丁を施した雑記帳は,先に検討された「日記1」,およびアンネ・フランクの標準字体の筆跡と,確信に近い確率をもって,同一人物の手になるものと認められる.
 (3) 「日記帳3」と呼ばれる緑色と金色のまだらの堅表紙,黒のクロス装丁を施した雑記帳と,「日記1」,およびアンネ・フランクの標準字体の筆跡は,確信に近い確率をもって,同一人物の手になるものと認められる.
 (4) 「ばらの用紙」と呼ばれる,3つのフォルダーに収められている,ばらばらで罫のない紙に見られる筆跡は,先に説明した「日記2」と「3」に見られる筆跡,および,先に説明した「日記1」と,アンネ・フランクの標準字体の筆跡と共に,確信に近い確率をもって,同一人物の手になるものと認められる.
 (4) ボールペンの文字が発見されたのは,「ばらの用紙」のフォルダーに収められた,2枚のばらの紙片においてだけである.
 「日記」に書かれた実際の内容との関連において見る限り,ボールペン書きの文章はいかなる意味も持たない.
 (5) 修正は,一連の文章上の訂正と,綴りのミスの訂正から成っている.
 比較のために使われた筆跡見本と,修正個所の筆跡とが,別人の手になるものと証明されたのは,ごく少数の例においてだけである.
 これら別人のものと認められた修正は,語数にして1語から3語,また,その数は総計26ヶ所である.
 比較の結果は,これらの修正が,全体としてとらえた場合,オットー・フランクによるものであることを,確信に近い確率で示している.

 「確信に近い確率をもって」というのは,国立法科学研究所が用いる,類似性の最も高い段階を表す表現だ.
 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),第7章および第8章をを参照してくれ.

 以上が,筆跡鑑定に纏わる話のおおよそ全てだ.

 4冊目なんて存在しない.たぶん「ばらの用紙」のことを誤認したのだろうが,これは「日記1」「2」「3」そして,アンネの書いた創作童話(複数)と一緒に,オットー・フランクによって編集され,タイプ原稿化された(同,第5章).
 上の(5)の修正は,その編集作業中のものだ.アンネ・フランク財団が主張したように,「内容を明確化するため」の,「些細な修正」だ.
 今日,「アンネの日記」として流布しているものは,この編集された版が基礎だ.
 そもそも「ばらの用紙」の内容は,アンネ・フランク自身による,最初の何冊かの日記の書き直しだ.

 まして,4冊目はボールペンで書かれていた,なんて話は全部嘘っぱちなのさ.


 【珍説】
 1942/6/12の日記の文字と,1942/10/10の日記の文字は,筆跡鑑定の門外漢から見ても,別人の筆跡.
 しかも,片方は13歳の少女とは思えないほどの達筆.

 【事実】
「ほな,門外漢,素人やない,プロの意見を聞いてみまひょ.
 ハールディーはーん!」

「はーい,理学修士のH. J. J. ハールディーでーす,Hahahaha!」

「で,どうなん?」

「別人の筆跡? Hahahaha!ナイス・ジョークですねえ! 

若年者の書く文字が,最初に字を書くことを覚えたときから,最終的に筆跡が固まるまでの間に,漸進的にあれ,また飛躍的にであれ,数段階の変化を経ることは,ほとんど自然の成り行きでである.

 当該事例において準拠枠となるのは,4冊のアルバムに見られる筆跡である.
 これらのアルバムは,通常,友達のサインを集めたり,あるいは寄せ書きをしてもらうのに使用されるタイプのもので,それぞれアンネ・フランクのかつての同級生達が所有しており,したがって,彼女と年齢および教育程度が同等程度と認められる人々の筆跡見本を多数含んでいる.
 4冊全体で,78人の筆跡が含まれており,そのうち11人は,どれか1冊のアルバムの,複数の日付に跨って記入をしている.
 これら準拠集団と比較した場合,アンネ・フランクの筆跡見本に見られる書字能力は,かなり高度のものではあるが,かといって、飛び抜けて達筆というほどでもない.

 さらに,2種類の書体――つまり,手書き活字体(文字がそれぞれ分離している書き方)と,筆記体(文字がほとんどの部分でつながっている書き方)――の両方を併記していることも,決して珍しい現象ではない.
 アンネ・フランクの筆跡見本に見られるこの特徴は,準拠集団の少なくとも15%にも同じく見出される.

 こうした参考資料はまた,用いられた分析法が若年者の書き文字に全体として当て嵌まるかどうか,この点を決定するのにも役立つ.
 調査されたどの資料においても,筆跡の特徴はいずれも高度の一貫性を保っており,たとえ変化があっても,それは十分に自然の変化の枠内で捉えうる.
 このことはまた,異なる日付の元に記入された筆跡にも当て嵌まる.
 間に長い間隔があり,筆跡に変化が起きている場合でも同様である.
 したがってこの事実は,若年者の筆跡における変遷は,一つの自然現象ととらえるべきである,との鑑定家の予想をも裏付けている.

 ときとして非常に広範囲に及ぶ調査を扱った専門的な文献によれば,子供の筆跡は,いくつかの段階を経て発達するとされている.
 この段階的発達については,異なる筆者がそれぞれ異なる表現で語っているが,にも関わらず,その結論するところは明白である.
 書字能力の発達に伴って,筆跡はいっそう安定し,書き文字中の個性も開花する,というものだ.
 この点について参考とした著作の中には,以下のものがある…….

 J. de Ajuriaguerra, et al., L'Ecriture de l'enfant, I, 3rd ed. ( Paris: Delachaux et Niestlé,1979 ).
 H. von Bracken, "Die Konstanz der Handschrift-Eigenart bei Kindern der ersten vier Schuljahre", 《Nederlands Tijdschrift voor Psychologie》, 1934, 1, 541-54.
 M. Gallmeier, "Über die Entwicklung der Schülerschrift", Dissertation, München, 1934.
 D. Gramm, "Schrift und Geläufigkeitsstufen im Grundschulater", 《Schule und Psychologie》, 1957, 4, 70-76.
 O, Lockowandt, "Die Kinderhandshrift――ihre diagnostischen Möglichkeiten und Grenzen", 《Zeitshrift für Menschenkunde》, 1970, 34,301-26.
 O. Lockowandt, & C. H. Keller, "Beitrag zur Stabilität der Kinderhandschrift", 《Psychologische Beiträge》, 1975, 17, 273-82.

『アンネの日記 研究版』(文芸春秋,1994/12/1),p.111-112
強調:引用者

「……というわけなのよ〜ん.
 まさか,プロの鑑定家より,素人の印象論のほうが信頼できるとか,言わないでショーネ?(笑)」

***

 俺,その『アンネの日記(研究版)』買って読んだんだけど,筆跡鑑定のところとか,一つ一つの文字の特徴を微視的分解して,個々の特徴の出現回数とか,純粋に筆跡鑑定の入門書としても読めるぐらい.
 これでも,もとの200頁を超える報告書の抜粋なんだけど.もし本当にこの鑑定を否定したいなら,この報告全体を精査して,その鑑定の何処に問題があるのかを,手間隙かけて証明するぐらいの気概がほしいですな.

軍事板


 【珍説】
 アンネの日記の真の作者は,1979年までオランダ国立戦時資料研究所所長を務めたルイス・ド・ヨング博士.

 【事実】
 この珍説は,1959年1月,ウィーンの「オイローパ・コレスポンデンツ」紙が掲載したもの.
 ド・ヨングは,1957年10月にアンネ・フランクに関する評論を「リーダーズ・ダイジェスト」に寄せ,後にこれはこの雑誌の諸外国語版にも掲載されたが,ド・ヨングが日記の出版に関わっていたことを示す証拠は一切存在しない.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.98-99を参照されたし.


 【珍説】
 「アンネの日記」の真の作者は,ユダヤ系アメリカ人作家メイヤー・レビン
 彼はアンナの日記が大ヒットになるにつれ,版権の権利が問題になり,本来なら父のオットーに有るのですが,メイヤーが版権を主張.それで両者は対立.
 醜い争いは裁判に発展し,メイヤーは自分が権利を持つことを主張するために自作であることを暴露してしまった.
 というわけで,その判決でメイヤーが書いたことがはっきりした.

 めでたしめでたし.

 よって改訂してもらおう.

西 in FAQ 2nd BBS

 【事実】
 レヴィンが執筆したのは,「アンネの日記」を基にした,ラジオ番組用の台本および戯曲
 裁判で争われることになったのは,これらのうちの戯曲のほう.
 なぜ裁判沙汰になったかと言えば,アンネの父親,オットー・フランクが,レヴィン版戯曲のブロードウェイ上演を断り,他の脚本家,ハケット夫妻に任せようとしたため.
 レヴィンはこれに対し,
「口頭の約束では戯曲化のためにオットーが選んだのは自分であり,その約束をたがえるのは契約違反であり,詐欺」
「ハケット夫妻は私のアイディアを盗んだ.著作権違反だ」
と主張.

 なお,レヴィン脚本が受け入れられなかった最大の理由は,その脚本が正統ユダヤ教臭いためと見られている.
 現実には,アンネ・フランクは正統ユダヤ教については懐疑的だった.
 にも関わらず,レヴィンは,15年近く,この醜い争いを続けた挙げ句,1959年に最終決着がついてからもなお,ことあるごとに蒸し返そうとした.……宗教ヴァカって,やだね.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),第6章を参照されたし.

 そんなわけで,「自作であることを暴露してしまった」なんて事実はどこにもない.
 Q.E.D. めでたしめでたし.

 よって悪口雑言を謝ってもらおう.


 【珍説】
 仮に本当に「隠れ家」があったとして,そこでフランク一家が暮らし続けていくことは不可能.

 【事実】
 この珍説は,1978年,リヨン大学文学部教授ロベール・フォリッソンが公にしたもの.
 しかしフォリッソン,潜行生活の全体的な様相を深く探求していくとか,フランク一家他の8人が最後には発見され,逮捕された事実を踏まえた上でこの点をじっくり掘り下げてみる等は一切していない.
 むしろその反対に,調査を通じて発見したことを,単に持論を実証するためにのみ用いている.……いわゆる確信バイアスやね.

 例えば,隠れ家からの騒音に関し,
「ファン・ダーン夫人が毎日12時半に掃除機をかける」
ことをフォリッソンは指摘しているが,実は日記では,その1行前にて,倉庫の男達が「ようやく昼食を取りに帰宅したのです」という事実が明らかにされていることを,彼は黙殺している.
 また,日記の1942年11月9日の記述,
「乾燥豆の袋が弾けて,死人も生き返るほどの音を立てた」
に言及している部分でも,彼は,その後に続く部分,
「さいわい家の中には,外部の人は誰もいませんでした」
というくだりを引用から省いている.

 さらに,彼はオットー・フランクを訪ね,あれこれ質問をしている.
 この談話についてのフォリッソンの描写からは,オットー・フランクが,ありとあらゆる矛盾に絡め取られ,動きがとれなくなっているという印象を受ける.
 しかし,18ヵ月後,オットー・フランクは,彼が言ったとフォリッソンが書いていることの大半に,異議を申し立てるコメントを発表している.

 なお,フォリッソンはこれのために,名誉毀損,人種差別,人種的憎悪・人主観暴力の教唆などの罪で有罪となり,執行猶予付きの禁固刑3ヵ月,罰金・損害賠償金支払いという刑を受けている.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.102-104を参照されたし.



 【質問】
 フォリッソンの論考は,ノーム・チョムスキーも支持していたのではないか?
 【回答】
 確かにチョムスキーは,フォリッソンの著作に序文を寄せている.
 1980年にパリで出版された「回想と弁護」がそれである.
 フォリッソンは同書において,ガス室の存在を否定すると共に,彼が歴史を偽り伝えているという非難に対し,自己弁護を試みている.

 もちろんチョムスキーの序文は,騒然たる物議を醸した.
 時あたかもチョムスキーがヴェトナム政策への反対者として知られていた頃である.

 チョムスキーはこれに対し,
「自分はいつでも,また,どんなところでも,言論の自由を擁護するものであり,その点で自分の態度を変えるつもりはない」
と言明している.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.103-104を参照されたし.

 今日ではチョムスキーもホロコースト否認論者の一人と見なされている.⇒more

 【質問】
 シェーンボルン裁判では,「アンネの日記」を捏造としたシェーンボルンに対し,無罪判決が出ているが?

 【回答】
 これは,極右団体「戦うドイツ兵連盟」議長,E. シェーンボルンが1978年7月,フランクフルトとニュールンベルクのアンネ・フランク・スクールの前で,パンフレットを配布したために裁判となったもの.

 ただし,裁判長が彼を無罪としたのは,単に「名誉毀損によって刑を宣告するには,名誉を毀損された本人の告発を待たなくてはならない」と判断しただけであり,日記の真贋を審理したからではない.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.104を参照されたし.


 【質問】
 クーント裁判では,「アンネの日記」を捏造としたクーントに対し,無罪判決が出ているが?

 【回答】
 この裁判は,極右月刊誌「ドイッチェ・シュティメ(ドイツの声)」が1979年10月号で,
「アンネの日記は捏造.さるニューヨークの劇作家と,少女の父親との共謀による合作」
とする記事を掲載したため,編集長ヴェルナー・クーントが告発されたもの.

 しかし,この裁判も日記の真贋を審理した上での無罪判決ではない.
「教唆罪については,証拠不充分」
「オットー・フランクからは訴状が出されていない」
という理由での無罪判決に過ぎない.

 詳しくは,オランダ国立戦時資料研究所編「アンネの日記 研究版」(文芸春秋,1994/12/1),p.104-105を参照されたし.


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