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◆◆社会風俗
<◆総記
アジア・太平洋方面 目次
<第2次世界大戦


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 戦前・戦中の軍国主義の時代には,娯楽は禁止されていたというのは本当ですか?

 【回答】
 まあ,戦前をどこまで遡るかにもよりますが,1930年代からだとしますと,娯楽が禁止されていたわけではないようです.
 そのことを裏付けるものとして,例えば以下の証言があります.

----------------
 この昭和9年,全国のカフェー,バーの数はざっと3万軒.
 東京の女給の数2万2千人.
 町には東海林太郎の「赤城の子守唄」「国境の町」,ディック・ミネの「ダイナ」の流行歌が流れていた.
 山口登はこの年4月,神戸「八千代座」でディック・ミネ,東海林太郎,美ち奴,楠木繁夫たち,当時の蒼々たる人気歌手を集めて興業を打ち,大成功を収めている.
 山口登は相撲,歌謡曲,浪曲界へと着々と手を広げていたのである.
 この間の事情については,日新プロ社長であり,山口登とは兄弟分に当たる永田貞雄氏が詳しい.

――田岡一雄著『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.83
----------------
 国技館の試合というのは,昭和12年1月27日,不二拳・極東拳の共催で行われた.
 当時,〔ピストン〕堀口はじつに47連勝,うちKO,TKOの数33回,5か年に渡って不敗の王座を守っていた.
 これに挑戦してきたのは,フィリピンの荒鷲ジョー・イーグルである.
 〔略〕
 1月27日,国技館は超満員の観衆でふくれあがった.

――田岡一雄著『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.100-101
----------------
 今輔さんが3人の大恩人の最後の一人,長谷川伸先生に会ったのは,昭和22年のことだった.
「長谷川先生の芝居を初めて見たのは,市村座でやった,音羽屋(菊五郎)と喜多村緑郎の『一本刀土俵入り』,
その次に見たのが歌舞伎座でやった勘三郎の『一本刀』.
 それから,『刺青奇偶(いれずみちょうはん)』.
 伯龍さんの『刺青奇偶』を聞いたこともあります.
 でも,芝居を見て,先生のお名前が頭に刻み込まれたわけです.
 先生の芝居は,昭和19年から20年あたりに,盛んにやってました.
 あれは,ほら,戦争中でも差し支えないんです」

――山口正二著『聞書き五代目古今亭今輔』(青蛙房(せいあぼう),2003/7/5),p.206
[quote]

 1941年(昭和16)に昭和書房なる版元から出ている,近藤春雄『藝能文化讀本』の伝えるところによると,

<大正13年の警視庁の調査によると,東京市内の演藝場は107箇所で入場人員は3943801名を算へてゐたが,昭和12年には124箇所,3130000名となり,13年末には96箇所に減じながらも,入場人員は4013000と増加してゐる.>

[/quote]

―――矢野誠一著『志ん生のいる風景』(青蛙房,1983.12),p.118-119

 先述の『山口組三代目』によれば,一般庶民のケツに火がつくようになったのは,昭和19年になってからだとか.

 昭和19年,戦局の不利は国民の間にも喧伝され,国内における物資の欠乏は目にみえて深刻化してきた.
 前年2月のダガルカナル島撤退以降,戦局は悪化の一途を辿り,この年の3月,全国のバー,カフェーは閉鎖,4月には雑炊食堂ができ,飢えた国民はえんえん長蛇の列を作ってその日の糧を求めた.

田岡一雄著『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.145

▼ 若き日の植木等はその当時,軍需工場に慰問に行ったという.
 当時,東洋大学1年生だった植木は,構内で軽音楽同好会を作り(植木はヴォーカル),
>「それで,都内に3ヶ所あった軍需工場に慰問に行くわけ.
> これが,女工さんからもてたのなんのって」
 〔略〕
> 慰問に行けば銀シャリが食べられたし,時には肉も出た.

とのこと.

 詳しくは『植木等伝「わかっちゃいるけど,やめられない!」』(戸井十月著,小学館,2007/12/25),p.49-50を参照されたし.▲

 ただし敵性芸術と見なされたものは禁止されました.
 たとえば以下のようなエピソードが残されています.

 タップダンスの萩野幸久さんも,タップダンスは敵性芸術だから,やっちゃいかんと踊れなくなり,やむなく人形を抱いて腹話術を始めたのです.
 腹話術はそのころアメリカで,エドガー・バーゲンという人がチャーリー・マッカーシーという人形を使って大人気.
 それを真似したのですから,オペラやタップよりももっと敵性なんですよ.
 当時のお役人はそこまで気がつかなかったんですかな.

三遊亭金馬著『金馬のいななき』(朝日新聞社,2006.3.30),p.100

 廓話なども禁止されたそうで,その禁止された話を封印・供養するための「噺塚」なんてエピソードも,同書には出てきます.

 空襲とは別に,お上の監視もありました.
 落語に繰り返し出てくる,飲む,打つ,買う――酔っ払い,博打,女ですが,こんなふざけた内容の噺を広めるのは戦時下に不謹慎ではないかというわけです.
 不謹慎も何も,元来,落語はそうしたものなのですがね.
 こうした干渉は軽演劇や映画にたいしてもあったそうです.
 昭和16年10月には,噺家が自主的に「禁演落語」53席を定めて,当分はこれを上演しません,と浅草寿町の長滝山本法寺境内のはなし塚に葬ってしまいました.
 お上にうるさく干渉される前に,みずから自粛します,という形をとったのですね.
 〔略〕
 廓噺,間男の噺,無線飲食の噺などが多いようです.
 もっとも落語は映画や芝居とは違いますから,やりませんといったところで,やる気になれば座敷でもすぐできますし,実際は軍隊慰問にいって,お女郎買いの噺をやると,兵隊さんは大喜びしたものです.
 いずれにしてもつまらないことをしたものです.
 それを政府は愛国心の表れだと誉めたんですから,狂っていますね.

 また,時流に合わせて,噺家が戦時下をテーマにした新作落語をつくって高座に掛けるという傾向もありました.
 うちの師匠〔先代金馬師匠〕の「防空演習」という噺.
「帝都の空を守るために,長屋の者は皆,力を合わせてこれから訓練をする」
なんていうことを言って,
「空襲,空襲やおはらい」
「くす屋だ,そりゃあ」
なんてサゲになります.
 これはSP盤のレコードにもなって,結構売れていたようです.

 金語楼師匠の兵隊落語だってその一つです.
 もっとも金語楼師匠の話は,よく聞くと,兵隊は嫌だ,軍隊はつらいということを言っているわけで,よくあれが問題にならなかったものですよ.
 桂右女助(のちの三升家小勝)師匠にも兵隊落語がありました.
 これは中国の戦地が舞台になっていて,陸軍兵士が駐屯地で現地の中国人と会話を交わすのですが,とんちんかんなやりとりで,なかなか通じない.
 ハシゴをもってこいというのに,
「(仕草で示して)こういうの,何だって,分かんねえかなあ.ハシゴ.壁に立てかけて,ちゃかちゃかちゃかと,こうやってやるやつだ」
と大騒ぎをした挙げ句,やっとハシゴが届く.
「よかった.これはお前,中国で何て言うんだ」
「テイズ」
「テイズか」
「日本の言葉でハシゴ」
「なんだ知ってんじゃねえか,お前――」
 そんな噺でした.

三遊亭金馬著『金馬のいななき』(朝日新聞社,2006.3.30),p.57-60

 ただし先代・林家正蔵師匠によれば,「はなし塚」も表向きだけの話だったそうで.
 以下引用.

 あれで10回くらい,猥談の研究会をやりましたかねェ.
 ええ,ずっと4代目のうちでね.
 集まったのが,4代目〔小さん〕,先の金馬,志ん生,上原の小せんだの,馬風なんぞも来てましたよ.
 圓生さんは来なかったと思いますが,文楽さんは来たことがありましたね.
 今輔も来たかな,なんでも10人ぐらいの頭数でした.

 戦争中に,そんな猥談の会があったなんてことは,思いもよらないことかもしれませんね.
 けども戦地へ行くと,兵隊の前じゃァいけないが,将校の前ならば会食のときやなんかに演ると,大変喜ばれるんです.

 ですから,片っぽでは,禁演落語なんてって,女郎買いや間男の噺は自粛するってんで,熊谷稲荷に今でもありますが,はなし塚ってものを建てたりしましたけどもね,あんなものはあくまでも表向きのものなんですよね.

林家正蔵著『正蔵一代』(青蛙房,2001/4/25),p.193-194

▼ 雑誌については,以下のような統制が行われたという.

[quote]

 昭和13(1938)年に国家総動員法が公布されてから,各方面に厳しい統制が行われ,児童雑誌に対しても,懸賞,付録の禁止,俗悪な漫画の廃止を命じられた.
 〔略〕
 しかし印刷用紙の不足から,15年には内閣に新聞雑誌統制委員会が出来て,さらに厳しい統制を実行した.
 月刊誌の場合,前月号の発行部数に応じて次の号の用紙を配給することになり,売れ行きの落ちた月があると,翌月から用紙を減らされた.
 ところが『少年倶楽部』は少しも発行部数が減らなかった.
 委員会では,何とか配給の紙を減らそうと躍起になって,
「この非常時に,漫画のようなふざけたものを雑誌にのせて貴重な資源である用紙を費やすことは許さん.
 そんなくだらんものより軍国美談とか銃後美談をのせろ」
と強く命令した〔略〕

[/quote]
―――『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.173

 農村部については,今のところデータ不足ですが,ただ,戦局が悪化してきた頃も,地方慰問という名目で落語家などが地方巡業を行っていたといいます.

 寄席が焼けたり,閉鎖されてしまって,落語ができなくなったかわりに,地方慰問をよくしました.
 「芸能挺身隊」なんていう名前をつけて,軍需工場だとか農村だとかを慰問して廻ります.
 銃後の人たちのお役に立つようになんて,もっともらしいモットーを掲げているのですが,これが実は徴用逃れなのです.
 噺家,それも私たちのように若いものは徴用され,軍需工場に連れて行かれる危険性がありますから,慰問という形でお国のために働く,芸能をもって奉仕しますと,芸能挺身隊ということで届けを出して,いつでもお手伝いに行きますからなんてなことを言っておくと,徴用に行かなくてもいいわけです.
 ですからこれは仕事だとはいっても,お金目当てのことではなく,自分たちの身を守るための「慰問活動」でした.

三遊亭金馬著『金馬のいななき』(朝日新聞社,2006.3.30),p.60-61
強調・編者

 また,古今亭志ん生師匠,6代目三遊亭円生師匠,漫才の坂野比呂志夫婦,講談の紫香らは,陸軍恤兵部の命を受けた松竹の手によって結成された慰問団の一員として,1945/5/6,日本を出発したが,7月に志ん生,円生両師匠は他のメンバーとは別行動となり,大連にいるときに敗戦となったという.
 そして2人は共同生活をしながら,何度か死にかけるような苦労をした後,1947/1/12に志ん生師匠がまず帰国.次いで円生師匠も帰国した.
 日本では,その間,2人は行方不明扱い.
 このときの状況は,それぞれの著書に詳しい.

 詳しくは,矢野誠一著『志ん生のいる風景』(青蛙房,1983.12),p.23-33を参照されたし.

 それに戦前は貧富の差が激しかったことを考えると,戦争の有無に関わらず,娯楽は少なかったのではないかと.

▼ 以下の記述からも,戦前は大都市圏以外は娯楽そのものが少なかったことが推測される.

[quote]

 うんと田舎へ行くてえと,落語なんてものは見たこともきいたこともない人がいる.
 ハナシカをカモシカと間違えて,百姓が鉄砲もってかけ込んで来たなんてえ話もあるくらいであります.

---------『びんぼう自慢』(古今亭志ん生著/小島貞二編,立風書房,1981/2/10),p.55

 名古屋てえところは,昔から芸どころといわれて,大変に芸にはうるさいところでありますから,寄せなんぞもたくさんあり,東京からも大阪からも芸人がゾロゾロと集まってくる.
 そこを根城にして,岐阜だの豊橋だの,伊勢のほうなんぞを回って,また名古屋へ戻ったりして,どうにか食べるぐらいの暮らしはやっている.
 そんな連中の中に,あたしもしばらくいたんです.

[/quote]
---------同,p.72

 ただし,同書巻末の解説や,矢野誠一著『志ん生のいる風景』(文春文庫,1987.12)によれば,同書には記憶違いのある箇所も見られるそうなので,その点は留意されたし.▲

桂歌丸師匠


 【質問】
 日本政府当局は,芸能に対してはどのような規制を行ったのか?

 【回答】
 猪野健治によれば,戦時態勢強化のために,あらゆる業種,職業の一本化を進め,興行者,技芸者,演出者の全てを許可営業制としたという.
 認定は各芸域ごとに組織された協会に全てゆだねられ,その協会が社会主義思想や反戦思想の持ち主を排除するシステムだったという.
 以下引用.

――――――
 内閣情報部と大政翼賛会は,戦時態勢強化のために,あらゆる業種,職業の一本化を進めた.
 地方紙は1県1紙,
通信社は日本電報通信社の通信部門と新聞聯合社を合併して同盟通信社とし,
映画産業は松竹と東宝は残して,日活,大都,新興キネマを合同させ大映とした.
 講談と落語は一緒にさせられて,講談落語協会,
漫才は帝都漫才協会に統一された.

 警視庁は興行取締規則を発令,興行者,技芸者,演出者の全てを許可営業制とした.
 警視庁が公布する許可証なしには,興行を打つことも舞台に立つこともできなかったのである.

 とはいっても,芸能界には素人の刑事に,興行師の実績や芸人のランク付け,あるいは演出家の才能を判定することなどできるわけがない.
 警視庁は,そこでこの面倒な認定の仕事は各芸域ごとに組織された協会に全てゆだねた.
 協会を通して申請された人物に対しては,自動的に営業許可証を公布する方法をとったのである.
 社会主義思想や反戦思想の持ち主は,沈黙を守っていても厳しくチェックされた.
 かりに協会がそういう人を技芸者として申請すれば,責任を問われる仕組みであった.

――――――『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.466-467

 【質問】
 昭和10年前後の東京における映画の状況は?

 【回答】
 複数の証言によれば,無声映画がトーキーに切り替わったのが昭和14年頃.
 日米関係が決定的に悪化する昭和15年頃までは,ハリウッド大作も上映されていたという.
 戦争中もアニメや報道映画などが上映されていたという.

 以下引用.

[quote]

私が独立するまで暮らしていた本郷は,山の手と下町の接点で,洋画映画館としては近くに「本郷座」,神田神保町に「神田日活」,そして神田昌平橋に「シネマパレス」があった.
 場所がいわゆる「文教の町」なので,どの館も大学生で沸き返っていた.
 また赤坂,溜池の「葵館」は慶應の学生と山の手の令嬢たちでにぎわっていた.
 この時代はトーキーに切り替わる前の,いわゆる無声映画(活動写真)で,各館それぞれ弁士(説明者)を抱えていたのだ.
 〔略〕
 御大・徳川無声,石野馬城,山野一郎,丸山章治などが,説明とセリフをうまく絡ませた話芸を競ったものだった.
 〔略〕
 伴奏音楽はスクリーン前方ボックスに腰掛けた楽士が奏でるのだ.
 少ない館で6,7人,多い館では12人もいたのだ.
 それに必ず楽長が一人,特別な大作映画にはアメリカの映画会社から直送された楽譜に従って伴奏されたのであった.

 だが,やがて昭和4年,トーキーとなって弁士は職を失うことに成ったのだ.
 トーキー第1号は,アメリカ映画「進軍」.
 そしてやがて昭和6年,スタンバーグ監督の「モロッコ」が大当たりをとったのだ.
 マレーネ・ディートリッヒの妖しい歌声と,砂漠を行進する外人部隊の太鼓の音に私はしびれた.

 〔略〕
 さて,この頃,日本の読書界で,ベストセラーになったのは,三笠書房より刊行された『風と共に去りぬ』.
 ご存じ,マーガレット・ミッチェルの恋愛大作だ.
 映画はすでに完成され,アメリカで公開上映されていたが,日米間の雲行き険悪のため,わが国には入荷されなかった.

 いっぽう「駅馬車」は,東京では昭和15年6月に公開上映された.
 洋画ファンは日米の険しい状勢で,もうアメリカ映画は観られぬと感じたのであろう,この作品の上映館はどこも長蛇の列であった.
 〔略〕

[/quote]
―――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.71-72 & 36
――――――

 〔略〕
 そうそう,やはり伊勢崎町のいまの花見煎餅の裏のほうに,ニュース専門の映画館がありましてね,あそこへしょっちゅう連れて行かれました.
 普通の映画館は,上映している映画によっては,子供が入れないことがあるんですが,そこはニュース映画と,その合間に漫画映画をやるンで,子供向けなんですね.
 〔略〕
 漫画は,戦争が始まってからも「ポパイ」なんぞやてましたね.
 それでぎりぎりのところになって,日本の漫画だけになった.
 なんでもタヌキに化かされたおばあさんが,そのタヌキを捕まえて仇討ちをするっていうような,タヌキを井戸へぶら下げて,出刃包丁を砥いでると,タヌキの仲間が助けにくるというような,そんな漫画映画を覚えてますよ.
 それから有名な「桃太郎の海の神兵」なんてのもありました.
 〔略〕

――――――桂歌丸著『極上歌丸ばなし』(うなぎ書房,2006.6.8),p.21-22

 【関連動画】

「ザイーガ」:【MOVIE】日本海軍省の指示により作られた国策アニメ映画「桃太郎 海の神兵」(1945年)

「ザイーガ」:【MOVIE】邪悪なミッキーマウスのクローンが侵略しに来たよ(1934年の日本のアニメ)


 【質問】
 「芸能文化連盟」とは?

 【回答】
 「新体制運動」に迎合して,芸能人らで結成された国策組織.
 以下の文章に,その内実が見て取れる.

[quote]

 戦時体制というものが,その時代の芸に対していろいろな枷を加えてくるのは,どこの国でも大差ない.
 日本でのそうした具体的な動きの表れとして,1940年(昭和15)に近衛文麿の提唱した新体制運動を無視することはできない.
 その年の暮には,この運動に呼応するように,
<演劇,映画,芸能及競技其他ノ醇化ヲ図リ日本精神ノ昂揚ト健全ナル国民文化ノ進展ニ寄与シ以テ藝能報国ノ誠ヲ致スヲ目的>
として,
<国策ノ普及徹底ニ必要ナル事業>
を行うために,「藝能文化聯盟」なるものが結成されている.

 〔略〕

 さすが正岡容は,『随筆寄席風俗』のなかで,
<どうも今次の新体制に対する演芸界の連中にはこの種のゆきすぎが,まことに少なくないやうである.>
と,やるかたない憤懣を述べている.

[/quote]

―――矢野誠一著『志ん生のいる風景』(青蛙房,1983.12),p.131-132

 まあ,正確には世論迎合と言ふべきであらうか.
 その点では現在の芸能界も,当時と大差ない.


 【質問】
 浪曲向上会とは?

 【回答】
 1940年,内閣情報局のキモ入りで結成された,「愛国の大衆に与える影響感化力を利用して愛国心を高揚する」運動を主唱する団体.
 それまでは浪曲は大衆芸能の扱いだったが,この会では当時一流の作家がほぼ全員,台本作りに協力.
 また,愛国浪曲だけでなく,戦時対応の新作を軍事保護院,陸海軍省,軍人援護会,海務院などの委託を受けて数多く作り出し,放送や舞台で発表したという.

 詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.473-474を参照されたし.


 【質問】
 当時の日本は英語を禁止されていたのか?

 【回答】
 良く「日本は戦争中,英語を禁止した」と言われていますが,文部省にしろ,内閣情報局にしろ,他に各官庁にしろ,明確な「英語の禁止令」を出したことは
ありません.

 たとえば海軍兵学校などは,最後まで入試に英語を残していました.
 陸軍は英語を使用しない方向で行っていたようですが,ロシア語は重視されていました.
 海軍の英語も同様ですが,敵が用いている言語を聞き取れないようでは戦争になりませんからね.

 陸軍士官学校が入試から英語を取っ払ったので,優秀な生徒をそちらに取られることを危惧した海軍兵学校も,入試から英語を撤廃しようかという話はあったようですが,井上成美が校長権限で却下しました.
 井上校長曰く,
「英語一つマスターする気の無い奴は海軍には必要ない.どこの国に自国の言葉しか話せない海軍士官がいるのか? よって自分が校長である間は絶対に許可しない」.

 また,当時の文部官僚は今と同じようなリベラル系(良くも悪くも)で,英語の教科書もちゃんと存在してます.

昭和19年(1944年)の文部省の中等学校(旧制.現在の高校に相当)英語教科書二年用文章「ADMIRAL YAMAMOTO AND HIS HOUSE」.

 (1)
Isoroku Yamamoto was one of the greatest admirals that the world has ever seen.
Under his command, our navy won great victories in Pearl Harbour, off Malaya, off the Solomons,
and at many other places. He will be remembered for ever.

 (2)
Although he was a man of high position, he lived in rather a small house, for he loved a simple life.
One day one of his friend said to the admiral, "I am afraid your house is too small for you. What do you
say to moving to a lager one?"
The admiralanswered with a smile, "This house is indeed very small, but I have another one,
large enough for me. It is the Pacific Ocean."

 後に英語教育は消えましたが,要するに戦況の悪化や学徒動員などで英語を含む全ての学業が吹っ飛んだというだけの話.

 但し,政府レベルでは
「極東」の使用禁止,
煙草の英語名禁止(大蔵省),
記者会見での英語使用の禁止(外務省),
駅構内の英語表示の禁止(鉄道省),
芸能人の英語風芸名の禁止(内務省),
英米音楽レコードの発売・演奏の禁止(内務省,内閣情報局),
基督教主義女学校の英語名禁止,
英語教科書からの英国国歌掲載禁止,
他教科からの敵色排除,
音階ドレミの禁止(文部省),
陸軍管轄学校の入試科目から英語の削除(陸軍省),
街頭英語看板の禁止(内閣情報局),
英語商標の禁止(特許局),
卓球試合での英語使用の禁止(警視庁保安課),
カフェーや飲食店などの欧風名の禁止(警察署)
などが行われた訳ですが,これは強固で統一的な意思の下で行われた訳ではなく,散発的であり,寧ろ,民間の自主規制(裏で政府の意思が働いた可能性は否定できませんが)が主な訳で.

 こうした措置は,1940年以後から徐々に進み,日本が破竹の勢いで進撃していた(とされていた)1942年にピークを迎えます.
 ところが,日本が守勢に回る1943年以後は少なくなり,1944年以後になると,殆どこうした動きが表に出ることは無くなりました.
 結局,政府もそんな些末な事に捕らわれる暇は無くなったと言うことではないか,と思ってみたり.
 英語教育すら,中等学校を始めとする教育機関では,必修でこそ有りませんが,選択科目と言う形で細々と行われてきました.

 とは言え,民間の論調はそんなこととはつゆ知らず,只々英米憎しとか,英米排撃などの過激な論調を掲げる言論人が,かの武藤貞一(清沢冽に痛烈に批判された評論家)を始めとして,各界から出て来たりして,それを新聞が挙って取上げるものだから,一般世論に英語排撃の機運を醸成させてしまった訳です.


 そのため,例えばこんな話が.

 〔アメリカからの帰国子女の佐藤さんによれば〕とにかく戦時下は説教ばかりで,車内で学校の英語の教科書を広げていて,
「敵性語を勉強するとは何事か,その閑があったら千人針を縫え」
と怒られたりした.

深田祐介著『われら海を渡る』(文春文庫,1984.5)

 つまり,基本的に英語の規制というのは民間での話なのです.
 これは裏返せば,欧米諸国に対する日本人の劣等感の発露とも言えるのはありますまいか.

 こうした論調は勿論英語教育をしている人々から出ることはありませんでした.
 あくまでも外野から出たものです.
 英語教育界からは,彼らの主張に対し,真っ当な反論をしていますが,声の大きさが全く違うので,その反論が取上げられることは全くと言って良いほどありませんでした.
 その反論の要旨は,
第一に,旧英語圏植民地である占領地に対しては,日本語を広めるための手段として英語が必要であること,
第二に,敵国の国情を知るためには,彼らの言葉が必要であること,
第三に,戦後に英米の進歩した科学文明を取り入れる為に,彼らの母語は必要
と言う,極めて当然の主張だったりします.

 今も昔も,民間の過剰な自主規制という日本人の性癖に,さしたる差はなかったわけで.

軍事板・改
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月09日22:23(青文字)


 【質問】
 戦時中,どのような精神主義が日本に蔓延していたのか?

 【回答】
 例えば以下のような事例がある.

[quote]

 〔略〕
 96式陸攻から1式陸攻,そして「銀河」に至るまでの一連の機体では,その使用全期間に渡って,機体下面に灰色塗装が施されたことは(あるいは,それが顧慮されたことも)殆どなかったと判断している.
 〔略〕

 以下は余談である.
 機体下面の無塗装化がどんどん進められていく反面,機体上面の暗緑色塗装だけは,最後まで継承された.
 これは,地上駐機時に空中から視認を困難にさせるという見地から,省くわけにはいかなかったのだと思うが,それだけで事足りたと言えるのだろうか?

 太平洋戦争,とりわけ中期以降の戦史を眺めていくと,内地から到着した機体が,整然と並べられたところを,米軍機の不意討ちを受け,一度に百機,二百機という形でごそっと失われた例が,一再ならず起きている.
 これでは,地上での隠蔽を目的として施された塗装でありながら,何の役にも立っていないことになるのではないだろうか?

 確かに,迷彩塗装は軍用機にとっては不可欠であろうが,それだけでは充分とは言えず,やはり,偽装や掩体壕といったものと複合して初めて効果を発揮するものではないだろうか.
 極論すれば,堅固な掩体壕があれば,機体が派手な塗装で塗られていても,機体自体は守ることができる.
 それを,飛行機に並べたところをむざむざ一纏めに失ってしまうのであれば,暗緑色塗装すら廃止してしまっても,大勢に影響がなかったのではとさえ思える.

〔略〕
 本来,迷彩塗装とはいえ,全てに万能ではなく,一局面,すなわち,バックの色相と機体迷彩色の色相とが合致した瞬間にだけ,その効果が生きるに過ぎない.
 各国の迷彩の研究も,なるべく多くの局面で迷彩効果を発揮するようにとの前提に立って,色の選定,塗装パターン,塗装様式が決定されるものだ.
 金科玉条のごとく暗緑色塗装に固執した海軍の塗装に,遂に敗戦に至るまで捨てきれなかった,大艦巨砲主義に代表される形式主義,そして,精神主義の一端を垣間見る思いがしてならない.

[/quote]
―――(黒木一実『再考・日本海軍機の塗装とマーキング』 vol.7 in 『航空ファン』 '00 Mar.)

 このような精神主義は別に軍部に限った話ではなく,民間でも例えば以下のような事例があった.

[quote]

〔略〕
 〔アメリカからの帰国子女の佐藤さんが〕もんぺを作る裂地がなくて,やむなく古いスカートを着て,電車に乗っていると,「この非国民,今の時局をなんと心得るか」と,見知らぬ男に大声で説教されたりした.
 とにかく戦時下は説教ばかりで,車内で学校の英語の教科書を広げていて,「敵性語を勉強するとは何事か,その閑があったら千人針を縫え」と怒られたりした.
〔略〕

[/quote]
―――(深田祐介 「われら海を渡る」,文春文庫)

 他にも,この面では笑えない笑い話が多い.


 【質問】
 戦時下の日本について質問.
 長谷川町子がキリスト教徒だったことを知ってふと疑問に思ったのですが.仏教徒,キ教徒などは不殺の教えと戦争についてどんな立場を取っていたのでしょう?
 特にキリスト教は敵の宗教として風当たりが強そうな気がするのですが,それらの宗教は社会的にどのような扱いを受けたのでしょう?
 良心的兵役拒否など通るわけないでしょうが,断固拒否した場合公的にはどんなペナルティを課せられたのでしょう?

 【回答】
 最近,仏教徒の宗派にしろ,基督教の宗派にしろ,太平洋戦争に於ける国家への戦争協力を反省する文章が出てた筈です.

 例えば,賀川豊彦門下のキリスト教徒が,国家総動員体制の一翼を積極的に担ったりしています.
 また,太平洋戦争では,宗教団体戦時中央委員会と言うのが結成され,戦時活動実施の要目として,教化活動の強化,宗教施設活用,報国団の整備拡充を申し合わせています.
 仏教徒は,大東亜仏教青年会連盟を結成し,大東亜諸地域に於ける仏教徒の総力を結集するとしていました.
 基督教では,日本基督教団が,各宗派の大同団結の下に結成され,ラテン語の賛美歌を日本語化する活動を行い,新日曜学校賛美歌集と言う日本独自の作詞作曲で作られたものを1943年以降使っています.

 建前上,日本は宗教に関してはどれも同じ扱いとしていましたが,国家神道は別格扱いでした(とは言え,その神道を管轄していた内務省内では三等局扱いだったそうですが).
 民間レベルでは,特にその教義から基督教は敵視され,徴兵に於いても,生きて帰ってきても何度も徴兵を受ける人もいました(うちなんか仏教徒なのに,基督教系の学校で先生やってたから,祖父は三回も徴兵されたし).

眠い人 ◆gQikaJHtf2

>良心的兵役拒否など通るわけないでしょうが,
>断固拒否した場合公的にはどんなペナルティを課せられたのでしょう?

 兵役は国民の義務であり,断固拒否すれば脱税と同様犯罪です.
 公的なペナルティよりも,非国民として扱われる社会的ペナルティのほうが大きいでしょう.
 良心的兵役拒否は認められませんが,神職や僧侶等は非戦闘職種への配置が行われたようです.
 私の祖父,曾祖父は代々神職でしたが,衛生兵として従軍しています.親父の代で神職は途絶え,俺は戦車兵でしたが.


 【質問】
 昔社会の教科書に載ってた戦時中のいろはカルタについて教えてください.

 【回答】
 「はてな」によれば,アサヒグラフ1942年12月30日号,1月6日合併号に載っている「決戦イロハかるた」のことだという.
 ほぼ日刊肥さんニュース&お便り紹介!によれば,その内容は以下の通り.

イ・・・一億火の玉 
ロ・・・論より実行
ハ・・・花嫁のもんぺ 
二・・・二年目も勝ち抜くぞ
ホ・・・豊年ぢゃ満作ぢゃ
ヘ・・・ヘイタイサンアリガタウ
ト・・・とんで火に入る敵機ども
チ・・・地図は変る
リ・・・利己心は敵だっ
ヌ・・・ぬかるな女房
ル・・・ルーズベルトそはそは
ヲ・・・女なりゃこそ千人針
ワ・・・笑って売り買ひ
カ・・・買はう債券
ヨ・・・よろこんで転業
タ・・・足らぬ足らぬと米と英
レ・・・歴史は今,作られてゐる
ソ・・・そっくりやられた真珠湾
ツ・・・つとめて倹約
ネ・・・ねらって必中
ナ・・・なにがなんでも五人産む
ラ・・・ラジオは叫ぶ大戦果
ム・・・胸を張って歩け
ウ・・・産めよ育てよ
ヰ・・・ゐもん袋にコドモの絵
ノ・・・のるなデマ
オ・・・奥様にくわ
ク・・・くらやみで待機
ヤ・・・大和魂世界一
マ・・・毎日決戦
ケ・・・今日も献金
フ・・・風呂屋で学会
コ・・・ここも戦場
エ・・・えんはいなもの慰問文
テ・・・手をあげて助かる
ア・・・あすも奉仕
サ・・・猿も持ってる日章旗
キ・・・気はやさしくて力もち
ユ・・・夢にも増産
メ・・・めざすはニューヨーク
ミ・・・みんな働け
シ・・・社長の陣頭指揮
ヱ・・・絵にも描けない負けっぷり
ヒ・・・日の丸の旗南へ北へ
モ・・・物と頭は使ひやう
セ・・・戦地をしのんで
ス・・・すきあらば来るぞ

 これとは別に,愛国イロハカルタというものも存在したという.
 当時の子供向けに「日本小國民文化協會」が制定し,昭和18年12月,「日本玩具統制協會」が発行.

  ロバタデキク センゾノハナシ
  「ハイ」デハジマル ゴホウコウ
  ニッポンバレノ,テンチョウセツ
  リクワシ ウミワシ ボクラモツヅク 
  トウアヲムスブ,アイウエオ
  チヒサイコトカラ オホキナハツメイ
  ヌグフアセミヅ キンラウホウシ
  ラッパデ シングン ヘイタイゴッコ
  タダシイケイレイ タダシイココロ
  ナカヨシコドモノ トナリグミ
  ヰモンブクロニ テガミヲイレテ
  コトバハタダシク ハッキリト
  エイレイシヅマル ヤスクニジンジャ
  テツ セキタン アルミ ヒカウキ フネ ヒリャウ
  アサヒニ カシハデ
  キミガヨウタフ アサノガッコウ
  シュッセイカゾクヘ オテツダヒ
  エイレイシヅマル ヤスクニジンジャ
  ヒナダンニ ヒトエダ モモノハナ
  センセイニホメラレタ チョキンバコ
  スグレタクニガラ セカイガアフグ

・テツ セキタン アルミ ヒカウキ フネ ヒリャウ
・ヰモンブクロニ テガミ ヲ イレテ
・ヒナダン ニ ヒトエダ モモノハナ
・チヒサイコトカラ オホキナ ハツメイ
・センセイ ニ ホメラレタ チョキンバコ
・ヌグフ アセミヅ キンラウ ホウシ
・タダシイ ケイレイ タダシイ ココロ

・ラッパデ シングン ヘイタイゴッコ
・リクワシ ウミワシ ボクラモツヅク

 他に愛國百人一首というのもあったとか.

 詳しくは「はてな」の該当項目を参照されたし.


 【質問】
 ムッソーリニ・ペンって何?

 【回答】
 イメージ戦略の行き過ぎの産物です.

 戦前,水兵をイメージしたセーラー万年筆が発売され好評を博しました.

 何それに負けてなるものか,と対抗して作られたのが,水兵より何気に強そうな,パイロット万年筆.

 そして,パイロットより偉いぞ! 凄いぞ!! って事でクラウン万年筆が作られたそうな.

 熾烈なイメージ合戦の果て,行き着いた先が伊太利亜統領ムッソリーニ.
 こうして 『ムッソーリニ・ペン』 が開発され発売されたとさ (w`;

 しかし,ちゃんとテナント料,払ったのだろうか? (w`;

ベタ藤原 in mixi

 大阪のメーカーですが,たぶん肖像権の使用料は払って無いでしょうw.

 明治の頃から日本はヨーロッパの政治家を広告に使うことがしがしばあって,ビスマルク宰相の顔出しで有名な梅毒薬「毒滅」なんかも有名ですね.
 後に仁丹で有名になった森下南陽堂の製品です.

 それにしても気になるのは,大正末期〜昭和初期頃まではムッソリーニもイタリアを立て直した偉人の一人として盛んにマスコミに取り上げられ,時々広告にも使用されている点です.
 この後,ヒトラー人気が急上昇して影が薄くなるのですが.
 東京朝日新聞大正15年5月15日号掲載のムッソリーニの顔出しがあるカルピス広告もあります.

よしぞう in mixi


 【質問】
 戦前・戦中の日本にも「軍事オタク」って存在したのでしょうか?

 【回答】
 戦前には「航空朝日」とか「空」という,今の『航空ファン』のような航空機雑誌があって,それを愛読している航空機マニアは結構いました.
 自動車ジャーナリストの小林彰太郎は大戦当時,成蹊学園に通う中学生でしたが,同級生の義弟の福生の陸軍技術審査部の技術将校から陸軍の機体に関する情報を得,それを元にわいわい仲間内で討論していたとか.
 休日には成増の飛行場の二式単戦「鍾馗」(飛行47戦隊?)を自転車で二時間かけて見に行ったり,厚木の海軍航空隊の基地に4発の大型機が並んでいると聞いて見に行けば,それは「深山」だったり….

 あと,昔戦中に艦船マニアだった人が,「世界の艦船」でそのころの思い出を連載していたような.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE

 ひょんなことから,1945年6月1日発行の航空朝日と,5月15日発行の科学朝日を手に入れたことがあるのですが,こんな際まで,未だ雑誌が発行できたのかと言う驚き,よく流通ルートに乗ったなぁと言う驚きが先に立ちます.
 何しろ,もうこの頃には都市は灰燼に帰しつつあり,かつ,上空には敵の戦闘機が乱舞している状態ですから.

 でもって,科学朝日は定価35銭,航空朝日は定価50銭とあり,後者はそのまま回覧が出来るように,裏表紙に押印欄が設けてあったりします.

 科学朝日の頃は,まだ表紙を付ける余裕がありましたが,翌月発行の航空朝日は,完全に藁半紙を綴じたものになっています.
 この頃の回覧用紙も,もう既に底を突いており,度々藁半紙提供の呼びかけが為されていたりしますわな.

 さて,科学朝日ですが,見開きページにV1号発射基地の様子,連合国軍によって占領されたカレー基地の状態が不鮮明な写真で掲載されています.
 本文中にはV1号となっていますが,見出しは「流星弾」となっていました.
 その流星弾対策に英国が用いたのが,阻塞気球で,敵側の写真なのに,何故か掲載されていたり.

 本文になると,国内ニュースとして,木造船の天敵,船食虫退治の新手法として,硫酸銅と苛性ソーダで水酸化銅を作ることで,船食虫を寄せ付けないようにすると言った研究の成果や,パルプ廃液から染料を抽出するとか,水面偽装の方法,空襲時の簡易庁舎となるものを大蔵省が試作したり,鉄のセメントを作ってみたり.
 海外では,航空機用排ガス利用の防氷装置,サンダーボルトに配備された新型ロケット弾,XP-75,XP-54,XP-67,XP-55の紹介,英国のロケット砲,ペニシリン,英国の浮ドック(艦隊列車として紹介),桜花の活躍について連合国が報道したものが紹介されたり,特集記事には時節柄(笑),ブービートラップの作り方が掲載されたり,自給製塩法のやり方なんかも紹介されています.

 一方の航空朝日は,「大型機について」と題して,B-24とB-29の比較なんて記事が最初にあり,次に「気密室と酸素」という記事が掲載されています.
 コラムでは,米英のジェット機が紹介され,Lockheedで鋭意開発中とか(1955年には時速2400km/h以上で地上160kmの航空を飛ぶジェット輸送機が出現しよう,今後10年でジェット推進式ヘリコプターも出来るであろうと述べた),Vampireが量産に入ったとか書かれています.
 で,海外記事(ぉ)からは,英国Aeroplane誌からの転載記事で,Bristolの発動機開発主任技師の「過去及び未来の大馬力発動機」と題して,グリフォン,バルチャー,セイバーなんかが紹介されており,また,L-069Constellationの1944年に行われた記録飛行の様子が紹介されています.

 また,追悼記事として,セ号連絡飛行のキ77に乗り組んで消息を絶った塚越氏ら,朝日新聞航空部員の記事が掲載されたのも目を引きます.

 ニュースでは,PBY-6Aの性能,B-24Mの生産,P-70の紹介,P-63Bの性能,B-26Cの紹介,Northropの航空機生産,P-59Aの発動機性能,Consolidatedの生産状況,Sikorskyの公開実験,F-13A偵察機の性能に,P-40が100ドルで払い下げられている話題,Shortの新型飛行艇Shetlandについての紹介がありました.

 総じて,ドイツ降伏で,連合国余裕だなと言う感じなんですが,海外文献の情報をよく此処まで収集したな,と.
 しかも,ここまで淡々と報道出来るよな,と.
 もう,ここまできたら日本の敗勢は挽回出来ないところまで来ているので,何とか未来に残す何かを記事にしておきたい,と思ったのでしょうか.

 この同じ時期に,徳富蘇峰は一向,国民に,「死ねや,一億玉砕じゃ」と喚いていたわけで,でもって,戦後の日記では,「天皇が総て悪い」と責任転嫁しているのな.

 多分,清沢洌が敗戦以後も生きていたら,思い切り罵倒しているでしょうが,あんなのの生残りが,未だに大きな顔して大新聞の中に残っているのかと思うと,日本の民主主義未だし,と思わずにいられません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi

 昔の古本から,当時の軍オタが書いたと思われる,航空機のスケッチとかいろいろ描いてあるのが見つかったことがあるらしい.
 あと,海軍は軍縮条約期では世界で3番目の規模を誇っていたから,ほかに自慢できることの少ない日本では,そこらへんで好きになる人もいた.

軍事板

 ちなみに下記サイト「兵器生活」
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/
で,昭和20年の航空朝日やらの写真が載ってます.

大型企画 再録「設計家の夢」
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/sekkeitop.htm

新案・珍案兵器戦術博覧会 (一部誇大な表現アリ)
http://www2.ttcn.ne.jp/~heikiseikatsu/shinchin/shichin.htm

「うつす」といふ事
或る「航空朝日」伝で18万おまけ
http://www.warbirds.jp/heiki/180000.htm

ゆきかぜまる in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 戦前は大麻は合法だったんでしょうか?
 もし合法だったのなら,吸いまくって空腹を紛らわしたりしたんでしょうか?

 【回答】
 合法です.ですが戦前の日本人には大麻を喫煙する習慣は無かったとの事.
 それと,北海道辺りに行って自生してる麻を吸ってみれば理解出来るかと思いますが,日本の大麻は幻覚作用を引き起こすTHCの含有量が非常に少なく,吸った所でそんなに楽しい物ではありません.

 なお,幻覚作用が引き起こされる大麻草を吸うと,却ってお腹が空くので空腹は紛れないと思います.


 【質問】
 民間から軍への献金活動について教えてください.

 【回答】
 1931年のこと.
 満州事変が始まると,その中心師団の編成地である仙台を中心に慰問袋の作成運動が始まります.
 高崎では,ちょっと変わった運動が始まりました.
 それは会員が毎月5銭を積み立てて,その積み立てたお金を陸軍省に献納しようというものです.
 で,普通,こうしたお金は国庫に納められ,何に使われるか定かにはなりません.
 当然,議員のmineral water代金に消えるものもあったりする訳です(皮肉.

 そこで,高崎のこの団体は考えた.
「我々の献金は,陸軍の兵隊さんの頭を守る鉄兜の購入代金に充てて下さい」
として,献金2001円を差し出したのです.
 この献金を受けて,陸軍は政府に要望し,此処に指定献金の制度が出来ました.
 ちなみに,2001円は鉄兜89個分になったとか.

 次いで,各地で飛行機献納運動が起こります.
 とは言え,当時の飛行機は7〜8万円もする高価なもの.
 其処で,今度は市民運動ではなく,軍や県と言った官吏が表に出て来て,各市区町村に拠出金を割り当てる方式を採ることになりました.

 県の愛国機献納第一号も群馬県で,1932年3月で第7号が当たります.
 以後,1933年5月の山形県民号まで35県が先行しています.
 意外に,東京府や大阪府,京都府や愛知県の様な大都会が余り含まれていません.

 最後のグループになった山梨県民号なんかでは,丁度貧窮のどん底に喘いでいたのに,勝手に割当しやがって,とそれに反発した青年団が反対の声を挙げたりしています.

 で,六大都市圏でこうした愛国機献納運動が拡がらなかった代わり,生産施設である産業を守れと言う声が高まり,高射砲献金と言うのが発足しています.
 京都府では高射砲献金,豊橋,岡崎,浜松では三遠国防義会の防空献金,大阪府でも防空醵金計画が発足し,神戸,横浜,名古屋などでも防空兵器の献納組織が作られ,東京では浅草区民協議会などにより防空兵器が,名古屋でも個人献金で防空兵器セットが配備されました.
 大阪府の場合も,同様に府知事・大阪市長・商工会議所会頭によって醵金計画が作られ,更に第四師団が加わって四者主催となり,大阪毎日と大阪朝日が後援し,防空計画協議会が設立され,大阪防空のための装備品として,高射砲2門,照空灯1基,聴音機大小1基ずつを1セットとして,計6セット,100万円が献金目標となりました.

 醵金は1932年3月から5月末までの範囲で開始され,先ずは伊藤萬未亡人から16万5千円…これは防空兵器1セット分,住友は30万円を拠出し,南地芸者の会,これは大和屋の阪口祐三郎が率いた一派が1万652円,此処までで半額に達し,その他,三井・三菱が各5万円,大阪商船3万円,鴻池・山口・明治生命・野村徳七・和田忠左衞門が各2万円,武田長兵衛が5000円,松下幸之助も3000円を拠出しています.

 1932年と言えば,上海事変の勃発もあり,大阪からも第14師団が出征します.
 戦時色はいやが上にも高まりますが,民都大阪だけあって,軍の装備にも注文を付け,軍と共同ですが,防空計画の立案にも踏み込んでいます.
 これ,場合によっては統帥権干犯にも繋がる様な事態になっている訳で.

 そんな雰囲気の中,防空塔の名目で,日本一の高層建築の建築申請をしたり,松坂屋も高射機関銃を屋上に据え付けるためと称して,防空塔の建設を申請したりしています.
 これらは平時には展望台とか,広告塔にしようと言う魂胆があって,流石に大坂商人だなぁと思ったりする訳ですが….

 また,ブルーカラーの人々も負けてはいません.
「ブルジョアの手に防空施設を委ねるな」
と言って,プロレタリアートの連帯を掲げて期成同盟を作り,
「君らの一銭を高射砲に!」
と言う運動をして金持ちと張り合ったりしています.


 かくして大阪では異様な盛り上がりを見せていく訳です.
 13年後,それらの装備は何ら役に立たず,焦土と化してしまう訳なのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年03月15日22:13


 【質問】
 先ほど放送された「伊藤家の食卓」で,女学生が「慰問袋」を送った所,受け取った兵隊さんから返事が来て,文通が始まったという話が放送されました.
 このようなことは本当にあったのでしょうか?
 また,家族などでない人,アカの他人が前線の兵隊さんに手紙を送る事は許可されていたのでしょうか??
 前線の兵隊さんが全く見ず知らずの人に手紙を送るようなことは,機密保持の観点から許されていたのでしょうか?

 【回答】
 軍事郵便という制度があり,可能です.
 ただし検閲が入り,戦地の情報を書くことはできません.
 例えば,南の暑い所で大変だ みたいな事を書くのは大丈夫ですが,具体的な地名を書くのは駄目.
 また,戦争反対みたいなことも駄目.

 ただ,80過ぎのうちのバァさんに言わせると,番組の内容には違和感を覚えるそうです.
 慰安袋が盛んだったのは,太平洋戦争が始まる前,日中戦争の頃だそうで,当時ならまだ余裕があり,戦地の兵隊さんと文通するようなこともあったかもしれません.
 でも,太平洋戦争が始まる昭和16年頃からは,そんな余裕もなくなり,慰安袋も廃れたいったような記憶だそうです.
 そんな悠長な事をするより,借り出されて普通に工場で一日働かされていたそうです.

 まぁ,テレビに出演された方が「実話だ」と言われればそれまでですが,同時代を生きたうちのバーサンに言わせると
「なんだか,しっくりこない,まるで別の世界の話のようだ」
という感想になるそうです.

 ちなみに,番組に中でも手紙を書く再現映像はあっても,戦地から送られてきた手紙の映像はありませんでしたね.
 普通この手の話の場合,現物の手紙の映像を流すのが普通ではないか,と考えるのは邪推でしょうか?
 それとも,夫婦共に大事な手紙をすべてなくしてしまったのでしょうか??

 まぁ,貴方が疑問を持たれるのも分かるような気はします.

軍事板


 【質問】
 戦前は色々なプロパガンダ・ソングが日本でもレコード化されていたそうですが,

 【回答】
 書庫から戦前のコロムビアレコードを持ってきました.

A面 『三國防共協定歌』 : 西條八十作詞・山田耕筰作曲
 一 輝く世界の 海原越えて 結ぶも頼もし 三つの腕
   呪いの赤魔を もろとも もろとも砕く
   信義の血潮の 高鳴る 高鳴る腕(かいな)
 二 魔の手ははびこる 東に西に
   コミンテルンの 爪牙は狂ふ
   いざ起ち守らん 世界の 世界の危機を
   使命は燦やく 防共 防共戦線
 三 櫻花のサムライ 薔薇の騎士が
   正義の白刃 抜きつれ起たば
   鎧袖一触 なんする なんするものぞ
   あとなく亡びん 思想の 思想の敵は
 四 ラインの森かげ アドリア海に
   友呼ぶ若者 歓声あがる
   いざいざ應へん 日出づる 日出づる國の
   義勇の熱血 たばしる たばしる我等

 〔略〕
(三番四番なんて良いですね.ちょっと宝塚っぽい?)

B面 『ファシストの歌』
 仁木他喜雄編曲とだけ書いてあるので元歌はイタリア,歌詞はそのまま邦訳でしょうか.

   いざ友よ 皆起て 未来めざし進め
   我等無敵軍勢 火水の中行く
   大胆に 勇敢に 大理想を樹て
   国民の協力に祖国を護れ
   青春よ 青春よ 若人の うるはしき
   見よファシズム救いたり
   われ等の自由を

 B面のもう一曲は,同じく仁木さん編曲とだけしか書いていませんが,これは紛れもなく『Horst Wessel Lied』です.

『ナチス党歌』

  旗高く列固く組め 歩武堂々 我等進む
  反動と赤とを 射てる友等 こころは ともに進む

 原曲の「SA marschiert〜」はさすがに一般の日本人にはなじみがなかったのか,「SA」は「我等」に言い換えられています.

バンケン in mixi,2006年08月02日 00:07

>『ファシストの歌』

 これこそ,イタリア版「Horst Wessel Lied」である有名なファシスト党歌「Giovinezza」(ジョビネッツァ/青春)です.
 対で入っているとはなかなかニクイですね.

 下記サイトの白いMP3マークをポチっとしてください.
 1939年バージョンが試聴できます.
http://ingeb.org/songs/giovinez.html

 右にはドイツ語バージョンの歌詞がありますが,これは完全に替え歌で,イタリア語版とは連動していません.

よしぞう(maro') in mixi,2006年08月02日 00:54

 「私の所有する戦前の軍歌集に載っている,「Giovinezza」の日本語版歌詞およびタイトルはこのようなものです.

「ファシストの歌(ファシスト賛歌)」

起てよ 若人
いざ奮ひ起て いざ
我等が行く手を
さへぎるものなし
今こそ日頃の力を示さむ
黒シャツ 黒シャツ 我等が同志
祖國の自由を 護れよ同志
進めや 黒シャツ 我等が同志

というものです.

 続いて,ナチスの歌(と,書いてあり,副題に ホルスト・ヴィッセルの歌)

声高らかに 隊伍も密に
突撃隊の足並み堅し
赤き敵手に倒れし戦友の
霊と共に進み行く

街路を開けよ 褐色隊に
街路を開けよ 突撃隊に
人みな仰ぐ 鈎十字
自由と生活の日明けそめぬ

集合喇叭高鳴れば
戦はんかな 準備あり
翻さんかな ヒットラー旗を
奴隷たるのも今一時ぞ

声高らかに 隊伍も密に
突撃隊の足並み堅し
赤き敵手に倒れし戦友の
霊と共に進み行く

と,まあいろいろあるんですね.

 そういえば,イタリア語版「リリー・マルレーン」なんてのもありますね.

黒江龍雄 by mail,2008年03月09日 16時54分

 関連項目:
 【質問】 北原白秋が「万歳ヒトラーユーゲント」を作詞したと言うのはマジですか?


◆◆◆漫画


 【質問】
 昭和14年から終戦までの子供向けマンガの様子は?

 【回答】
 杉浦茂によれば,時流に合わせて「日本児童漫画家協会」を結成したり,軍人を招いて講演会を行ってもらうなどしたものの,戦時中には厳しい統制と用紙の不足で出版界は壊滅状態.
 漫画家のある者は応召されて戦場に向かい,ある者は軍属として住民宣撫などに従事.
 残った者も漫画では食えず,一時的な転職を余儀なくされたという.

 以下引用.

[quote]

 世は完全に軍国調になっていった.
 そして時局に合わせて自然発生的に相集い結成されたのが,「日本児童漫画家協会」であった.
 創立発会式は,昭和14年11月,場所は蔵前工業会館.
 このときの出席者は33名.
 会長は『団子串助漫遊記』の宮尾しげを以下,
『のらくろ』のわが田河水泡,
『冒険ダン吉』の島田啓三,
ほか中嶋菊夫,
小野寺秋風,
新関けんのすけ,
長崎抜天,
原やすお,
井元水明,
明石精一,
小川哲男,
大槻さだお,
山川哲,
沢井一三郎,
百合三郎,
佐次たかし,
芳垣青天,
小沢よね吉,
田代秀,
倉金良行,
桂たろ,
芳賀まさお,
安孫子つねじ,
石田栄助,
今村つとむ,
うがいまもる,
木村早起,
そして私杉浦茂などであった.

 また,当日の主な欠席者は
『コグマノコロスケ』の吉本三平,
『タンク・タンクロー』の阪本牙城,
『火星探検』の大城のぼる,
『ロボット三等兵』の前谷惟光,
『フクちゃん』の横山隆一,
ほかに謝花凡太郎,
井上一雄,
原一司,
岡けんじ,
広瀬しん平
などであった.

 〔略〕

 またこの頃,作家(少年物,少女物),挿絵家,童画家,マンガ家など大同団結して「新日本漫画家協会」が結成された.
 月1回,陸軍省,海軍省の報道部から佐官級の軍人を招いて,世界の軍事情勢の解説を聞く会を催したのであった.
 会場は九段の水交社(海軍,軍人のクラブ)などであった.
 海軍の軍人の態度はおおむね紳士的であったが,陸軍のそれはどこかしら横柄で荒っぽく,ある例会のとき,演壇の椅子にどっかと腰を_すや,開口一番
「お前ら,何を聞きたいんだっ?」
と大声で叫んだのにはびっくりした.

[/quote]
―――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.31 & 36
[quote]

 さて,それからほどなく〔昭和15年頃〕,倉金〔良行〕は自ら志願して,軍属として,仏印のサイゴンへ出発したのであった.
 仕事は現地民宣撫のための新聞編集であった.
 軍報道班員としては小野佐世男,横山隆一なども南方ジャワへ派遣されていた.

 昭和16年から17年にかけて,私は東横線の妙蓮寺に住んでいた.
 〔略〕
 石田英助と原一司は早くに応召し,芳賀まさおは郷里,青森へ引き揚げてしまっていた.
 その17年の晩秋,井上〔一雄〕の家に沢井一三郎と私の3人が,何の目的もなく集まったことがある.
 話題は,知己のマンガ家,田代秀の上海戦線における戦死についての話,そして17年に新たに結成された「日本漫画報公会」の入会者の少なさ,厳しい統制と用紙の不足で壊滅状態の出版界の様子などをボソボソと話し合ったのだ.

[/quote]
―――杉浦茂他著『杉浦茂 自伝と回想』(筑摩書房,2002/4/25),p.38, 46-

▼ ただし紙不足は,漫画業界に限ったことではなく,出版界全体に及んでいたという.
 以下引用.

――――――
 その頃〔=戦時中〕,あらゆる物が不足する中で紙も例外ではなかった.
 紙質も悪く雑誌なども薄くなり,廃業する出版社も出てきた.
 文藝春秋誌も半分くらいの厚さになり,その分仕事も少なくなったようで,新入りの私など何もすることがなかった.

――――――『サザエさんの東京物語』(長谷川洋子著,朝日出版社,2008.4.30),p.45-46


 【質問】
 のらくろの昇進が大尉止まりだったのは何故?

 【回答】
 戦後,作者の田河水泡先生がNHKの番組に出て語ったトコロによると,当初は,のらくろを少佐に昇進させるつもりだったのだが,陸軍から文句付けられて
(「あんなのが少佐などとは軍を愚弄するものだ」
云々と激しく言われたそうな)
それでやむなく大尉で除隊させ,「大陸へ冒険」というストーリーに変更したんだそうな.※1
(この番組が放送された時,私は小学6年生で,生で見たものさ)

 「のらくろ」を戦意高揚マンガだと思っている人も居るようだが,作者の意図はともかく,当の帝国陸軍には,そんな気は毛頭無かったわけだ.
 田河先生としては「帝国陸軍応援漫画」のつもりで描かれていたんだろうが,その気持ちは,全くと言って良いほど通じていなかったんだね.
(復刻版「のらくろ」を見た人は分かると思うが,作中で「帝国陸軍に慰問袋を送ろう」という話が有り,実際の送り先まで明記されていたよね)

夏光華(シア・クァンファ) in FAQ BBS

▼※1
 『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11)では以下のように説明されている.
 なお,この部分の記述は高見澤潤子によるもの.

[quote]

 「のらくろ」についても田河は困っていた.
 昭和13(1938)年にはのらくろも大尉になる.
 大尉は会社の課長級だからまだよいが,次に進級して少佐となると偉くなりすぎてしまう.
 漫画の中でへまをさせたりすると,軍当局が侮辱したといって怒りだすかもしれないからである.

 そんなとき,拓務省の嘱託として,満蒙開拓青少年義勇軍の慰問と生活指導のため,満州に派遣されることになった.
 田河はそこでのらくろを大尉でやめさせ,民間人として大陸に渡って活躍させようと思いついた.
「日本は資源の乏しい国だから自分はこれ以上軍部で働くより,大陸で地下資源の開発に従事してお国の役に立ちたい」
とのらくろが連隊長に頼み,「依願免官」という形で,軍隊をやめさせることにしようと考えた.
 そして昭和14(1939)年から,「のらくろ大陸行」の連載が始まったのである.

[/quote]
―――,p.169

のらくろ


 【質問】
 なぜ「のらくろ」は連載中止になったのか?

 【回答】
 表向きは,「紙資源の不足」というコトだったが,ま,陸軍に潰されたといった辺りがホントのところだろうね.

 それにしても,ミッキーマウスやポパイを戦意高揚に利用していたアメリカとはエライ違いだね.
 こんなトコロにも,日本陸軍の硬直さが表れているよね.

夏光華(シア・クァンファ) in FAQ BBS

 以下は田河水泡夫人,高見澤潤子による,そのときの状況の詳細.

[quote]

 昭和13(1938)年に国家総動員法が公布されてから,各方面に厳しい統制が行われ,児童雑誌に対しても,懸賞,付録の禁止,俗悪な漫画の廃止を命じられた.
 しかし「のらくろ」は俗悪ではないと『少年倶楽部』の編集部でも頑張って,昭和14(1939)年には「のらくろ大陸行」を,昭和15(1940)年には「のらくろ探検隊」をずっと連載していた.

 しかし印刷用紙の不足から,15年には内閣に新聞雑誌統制委員会が出来て,さらに厳しい統制を実行した.
 月刊誌の場合,前月号の発行部数に応じて次の号の用紙を配給することになり,売れ行きの落ちた月があると,翌月から用紙を減らされた.
 ところが『少年倶楽部』は少しも発行部数が減らなかった.
 委員会では,何とか配給の神を減らそうと躍起になって,
「この非常時に,漫画のようなふざけたものを雑誌にのせて貴重な資源である用紙を費やすことは許さん.
 そんなくだらんものより軍国美談とか銃後美談をのせろ」
と強く命令したので,編集部もこれに従わざるを得ないと頭を抱えていた頃,田河も軍部の情報局から呼び出された.
「あんたの『のらくろ』の漫画をやめてもらいたいんだ.
 あんたが『のらくろ』を描かなければきっと『少年倶楽部』の売れ行きが落ちる.
 用紙の節約にもなる.
 商業主義なんかに協力しないで,もっと国策に協力するんだな.
 そのためには,『のらくろ』の連載をやめてほしいのだ」
と言われ,田河は,
「『のらくろ』は国策に協力しています」
とちょっと抗議をしてみたが,結局,内閣から「のらくろ」執筆禁止令が出たことになって,権力に抑圧されてしまったのである.
 田河は軍国主義どころか,軍部に弾圧され,軍部にやめさせられてしまったのである.
「戦争は国民を犠牲にするものです.
 戦争中はすべての人々が,様々な多くの犠牲を払いました.
 私ののらくろの執筆も,戦争の犠牲になったのです」
と田河はあとで書いている.

 昭和15(1940)年の新年号から連載していた「のらくろ探検隊」は,昭和16(1941)年,すでに発売ずみの10月号限りで尻切れとんぼのまま,忽然と消えてしまった.

 〔略〕
〔戦後,〕「のらくろ」の続編まで連載するようになったとき,田河はしみじみと言った.
「あのとき,情報部にも呼び出されず,戦争中も『のらくろ』を描きつづけていたら,のらくろは無理に戦争協力をさせられ,軍国主義にならざるを得なかったでしょう.
 そんなことになったら,どんなに人気があっても,戦後復活して,続編なんかとても描けなかったと思います」

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―――『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(講談社,1991/12/11),p.173-175

 ちなみに同書によれば,最初は当時の兵役制度に合わせて2年で満期除隊させ,そこで連載を終わらせる予定だったという.
 しかし人気があったので,連載延長が繰り返されてそんな長期連載になったという.

※ 戦後になって,
「『のらくろ』は軍国主義を子供に吹き込む漫画だ!」
と田河を非難する阿呆がいたんだとさ.(同書,p.167)

 【質問】
 そもそも,「のらくろ」はどんな経緯で誕生したのか?

 【回答】
 田河水泡夫人,高見澤潤子によれば,昭和5年,「少年倶楽部」誌には連載漫画がなく,そのせいか売上が少し落ちてきたので,田川に軍隊経験があることを知っていた加藤謙一編集長は,
「犬に兵隊ごっこをやらせたらどうでしょう」
と田河に持ちかけたという.

[quote]

〔田河は,〕親がいなかった淋しい幼い自分の頃を思い,また雑誌も買ってもらえない貧しい子供たちより,もっと可哀想な野良犬を主人公にしようと考えた.
 身体が真っ黒で手足の先だけ白い犬は「四つ白」と言って昔から縁起が悪いとされ,生まれるとすぐ捨てられる運命を持っていた.
 そんな不幸な犬を主人公にしたのである.
 捨てられた不幸な可哀想な犬でも,陽気に元気に行き来と育っていく筋書きにすれば,世間の不幸な子供たちの励ましになるだろうと思ったのである.

 名前を「野良犬黒吉」,略して「のらくろ」とした.
 こうして昭和6(1931)年の『少年倶楽部』新年号から「のらくろ二等卒」の連載が始まった.

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―――『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.132

 もちろん「のらくろ」の生みの親は田河水泡であるが,加藤編集長は,生みの親の親は佐藤紅緑(こうろく)(当時の作家.『少年倶楽部』に「あヽ玉杯に花うけて」という少年小説を書いて人気があり,詩人サトウイチローの父)だと言っていた.
 ちょうど,「のらくろ」を始める前に加藤編集長は佐藤紅緑から,
「『少年倶楽部』には漫画が少ないようだが,いい漫画をたくさん入れるんだね.
 雑誌全体が明るくなるし,家中の人が楽しめるからね」
と,言われた.
 そこで加藤編集長は漫画ということに気がつき,面白い,よ_漫画を描く人はいないかとあれこれ物色し,田河を認め,「のらくろ」を誕生させたのである.

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―――同,p.139-140

 以下は高見澤潤子の兄,小林秀雄(作家)の証言.
 上述文章の
>親がいなかった淋しい幼い自分の頃を思い,
のソースはこれだと思われる.

[quote]

「彼(著者注・田河のこと)とは,たまにあふと,酒を飲み,馬鹿話をするのが常だが,或る日,彼は私に,真面目な顔をして,かう述懐した.
『のらくろといふのは,実は,兄貴,ありや,みんな俺の事を書いたものだ.』
 私は,一種の感動を受けて,目が覚める想ひがした.
 彼は,自分の生ひ立ちについて,私に,くはしくは語つた事もなし,こちらから聞いた事もなかつたが,家庭にめぐまれぬ,苦労の多い,孤独な少年期を過したことは,知つてゐた.
 言つてみれば,小犬のやうに捨てられて,拾はれて育つた男だ.
 『のらくろ』といふのん気な漫画に,一種の哀愁が流れてゐる事は,私は前から感じてゐたが,彼の言葉を聞く前には,此の感じは形をとる事が出来なかつた.
 まさに,さういふ事であつたであらう.

[/quote]
―――同,p.165

 【質問】
 田河水泡というペンネームの由来は?

 【回答】
 本名のアナグラムによるものだという.
 以下引用.

[quote]

 本名・高見澤はローマ字で「TAKAMIZAWA」だが,「タカミズ・アワ」と分けて,そのあて字を「田河水泡」にして,「タカミズ・アワ」と読ませてペンネームにするつもりであった.
 しかしだれもそうは読んでくれずに,みな「タガワスイホウ」と読んでしまうのであきらめて,自分もそういう読み方にしてしまったのである.

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―――『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.128

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