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(画像掲示板より引用)


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「Togetter」◆(2010/11/21)今,改めて天皇機関説事件をおおざっぱに振り返ってみた

「大阪市立大学大学院」◆(1999) 日本地政学の末路
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/geo/pdf/space04/05murakami.pdf

「大阪大学」◆総合地理研究会と皇戦会―初期地政学グループの活動
http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter5/pdf/n5_s5_2.pdf

「神保町系オタオタ日記」■(2006-01-14) 頭山満と今泉定助 [図書館] あまり深入りするのはちとヤバそうな雰囲気もあり!?

「神保町系オタオタ日記」■(2006/01/20) 頭山満と朝倉文夫 [図書館][古本]『頭山満翁写真伝』(藤本尚則編)から

「神保町系オタオタ日記」■(2006/01/30) [トンデモ][図書館] 竹内文献と皇道図書館

「神保町系オタオタ日記」■(2006/02/04) [トンデモ][図書館] 今泉定助をめぐる人々(その3) 『今泉定助先生全集 一』中「今泉先生を語る−その思想と人間−」(葦津珍彦著)から
 「皇道社」の戦前戦後

「神保町系オタオタ日記」■(2006/02/20) [トンデモ] 藤澤親雄についての補遺
>中公新書『大川周明』(大塚健洋著)から

「神保町系オタオタ日記」■(2006/02/28) [トンデモ] 大川周明とトンデモ本の世界(その1)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/02) [トンデモ][平井金三]大川周明とトンデモ本の世界(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/03) [トンデモ] 大川周明とトンデモ本の世界(その3)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/04) [トンデモ] 大川周明とトンデモ本の世界(その4)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/06) [トンデモ] 大川周明とトンデモ本の世界(その5)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/07) [トンデモ] 大川周明とトンデモ本の世界(その6)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/08) [トンデモ] 大川周明とトンデモ本の世界(その7)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/09) [トンデモ] 大川周明とトンデモ本の世界(その8)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/10) [トンデモ] 大川周明とトンデモ本の世界(その9)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/11) [トンデモ] 大川周明とトンデモ本の世界(その10)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/13) [トンデモ][古本] 大川周明とトンデモ本の世界(その11)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-03-18) [トンデモ] エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その1)
>戦前の竹内文献の信奉者として著名な藤澤親雄

「神保町系オタオタ日記」■(2006-03-28) [トンデモ] エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その2)
>藤澤と北一輝が関係があったとは,ゾクゾクするなあ

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/14) [トンデモ] 『戦前日本人の対ドイツ意識』(岩村正史著.平成17年3月刊)にぶんなぐられる.

「神保町系オタオタ日記」■(2006/03/15) [トンデモ][文藝] 櫻澤如一の解けない謎

「神保町系オタオタ日記」■(2006-03-29) [柳田國男][トンデモ] エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その3)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-02) [トンデモ] 南博『日本人論』でおなじみの人達に出会う

「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-03)  エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その5)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-04) エスペランチスト藤澤親雄とその時代(その6)
 エスペラント報国同盟関連

「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-04) [トンデモ][文藝] 武林無想庵と黒田礼二
 ベルリン反帝グループ関連

「神保町系オタオタ日記」■(2006/04/15) [スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その1)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/04/17) [スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/04/19) [スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その3)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/04/20) [スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その4)

「神保町系オタオタ日記」■(2006/04/21) [スメラ学塾] 情報官鈴木庫三とクラブシュメールの謎(その5)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-25)[スメラ学塾][出版] 未來社創業者西谷能雄の謎(その1)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-26)[スメラ学塾][出版] 未來社創業者西谷能雄の謎(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-28)[トンデモ] 水野梅暁本を狙う
「神保町系オタオタ日記」■(2006-09-29)[トンデモ] 水野梅暁本を狙う(その2)
 戦前の「酷使様」

「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-13)[スメラ学塾] 西田幾多郎教授の総回診

「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-17)[スメラ学塾] 京都学派と弘文堂

「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-18)[スメラ学塾] 後藤象二郎の孫とメディアの支配者

「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-26)[スメラ学塾] スメラ学塾より筑摩書房編集顧問を選んだ唐木順三

「神保町系オタオタ日記」■(2006-10-28)[スメラ学塾] “永遠の処女”原節子は汚れていたか?
「神保町系オタオタ日記」■(2006-12-28)[スメラ学塾] “永遠の処女”原節子は汚れていたか?(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-01)[スメラ学塾] 小林一三日記にスメラ学塾の戦後を見る

「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-04)[スメラ学塾] 戦前の雑誌「戦争文化」って,どこかに落ちていないか

「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-10)[スメラ学塾] ナチス叢書の書誌はありやなしや

「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-27)[宮本常一][亀井貫一郎] 旅する巨人宮本常一が寄り道した聖戦技術協会
「神保町系オタオタ日記」■(2006-11-30)[亀井貫一郎][宮本常一] 旅する巨人宮本常一が寄り道した聖戦技術協会(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2006-12-14)[トンデモ] 戦時下に偽書『上記』を読む西田幾多郎先生

「神保町系オタオタ日記」■(2007-02-16)[トンデモ] 拝啓 『契丹古伝』様
> 「日本資本主義の父」,渋沢栄一は数多くの株式会社を作っていただけではなく,偽史運動とも多少関係があったようだ.

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-11)■[トンデモ] 建国大学講師としての藤澤親雄
> 昭和17年5月1日 藤澤講師,この日から後期一年に対し「皇道政治」論の講義を行い,8日離京.

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-12)[文藝][トンデモ] 東洋精神研究所と諸岡存
 戦前右翼団体関連

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-13) これが芦部信喜だ!
> 1等賞受賞作の一つに「真実の自覚に生きよ」という作品がある.
>「日本人としての自覚.
> 私はこれが国民に徹底してゐるか否かを心から疑ふ者の一人である」

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-26)[トンデモ] 国家主義者赤神良譲と藤澤親雄

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-27)[トンデモ]国家主義者赤神良譲と藤澤親雄(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-29)[トンデモ] 国家主義者赤神良譲と藤澤親雄(その3)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-01)[スメラ学塾] スメラ学塾誕生の秘密

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-04)[トンデモ] 黒田礼二(岡上守道)とカール・ハウスホーファーの接触

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-03)[トンデモ] 国民精神文化研究所の所長以上に恐れられた藤澤親雄

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-09)[スメラ学塾] 大東亜ト学としての市河彦太郎

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-13)[トンデモ] 皇道世界政治研究所と藤澤親雄

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-13)[トンデモ][出版][スメラ学塾] ここにも市河彦太郎の影が・・・

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-12)[トンデモ][展覧会] トンデモ系人物のレファ本

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-02)[トンデモ] 「茗和協会」と「大直会」
 昭和19年

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-02)[トンデモ] 黎明期の大東亜トンデモ学

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-05)[スメラ学塾][谷崎潤一郎] 古川ロッパと麻雀をする市河彦太郎
 昭和18年
「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-03)[スメラ学塾] スメラ学塾再び

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-06)[トンデモ] 玄洋社々員横山雄偉
>横山は,1882年福岡県生れ.
>国粋主義的な政治結社として名高い玄洋社の社員となり,右翼の巨頭頭山満や後に外相,首相となる広田弘毅らの知遇を得,広田とは「親友で二人で腰弁をさげて福岡から上京をした」という(井上博之氏談話).

「神保町系オタオタ日記」■(2012-06-17)五百木瓢亭ではなく,五百木飄亭なのだ
 戦前右翼関連

「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-09)[文藝][トンデモ] 星製薬の謎(その1)
「神保町系オタオタ日記」■(2007-05-10)[文藝][トンデモ] 星製薬の謎(その2)
 星製薬の右翼人脈

「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-23)[出版] 食養会と関根喜太郎(関根康喜)
>『右翼事典』(双葉社)の巻末の「右翼・民族派運動年表」に謎の記述

「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-13)[トンデモ] 大直会とはいったいどんな団体だったのだろうか

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-01)[スメラ学塾] 世界創造社と弘文堂の統合

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-07)[トンデモ][文藝] 高見順と玄洋社々員横山雄偉
>横山は帝国ホテルに個人事務所を構え,旧知の広田などを通じて外務省やドイツ大使館から情報を入手したほか,陸軍の憲兵隊や特務機関とも密接な関係を持っていたので,ブラウンや『ジャパン・アドヴァタイザー』にとって有用な存在であったにちがいない.
>前掲書によれば,横山は昭和21年1月戦犯容疑(A級戦犯)で逮捕,22年12月釈放,37年没.戦後も高見は横山との交流を続けている.

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-10)[文藝] 星新一もぼけていたか!?
 頭山満の死について

「神保町系オタオタ日記」■(2007-07-17) 高松宮が隠したかった秘密研究
>おそらく敗戦後,切り取ったと思われる部分に書かれていた「研究」とは,細菌兵器か,原爆か,何なのだろう?

「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-02)[図書館][民族学] 東亜研究所の金森徳次郎

「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-08)[トンデモ][サンカ] 昭和最大の怪物矢次一夫と清水精一
 矢次一夫(やつぎかずお)は戦前,大蔵公望らと共に国策研究会を創設した人物.

「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-10)[スメラ学塾] スメラ学塾の機関紙「スメラ文庫」

「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-11)[トンデモ][スメラ学塾] 戦時下のトンデモ狩り

「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-14)[トンデモ] 日本における「ムー大陸」受容史

「神保町系オタオタ日記」■(2007-08-16)[スメラ学塾] アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展

「神保町系オタオタ日記」■(2007-09-26)[スメラ学塾] 皇戦会理事長中岡彌高の対ソ連工作

「神保町系オタオタ日記」■(2007-09-27)[スメラ学塾] 国民精神文化研究所とスメラ学塾・皇戦会の関係

「神保町系オタオタ日記」■(2007-10-30)[スメラ学塾][文藝] 市河彦太郎と女流作家

「神保町系オタオタ日記」■(2007-11-02)[スメラ学塾] 福永武彦とスメラ学塾

「神保町系オタオタ日記」■(2007-12-27)[スメラ学塾] 堀一郎と偽史運動(その1)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-12-28)[スメラ学塾] 堀一郎と偽史運動(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2007-12-29)■[スメラ学塾] 堀一郎と偽史運動(その3)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-01-05)■[スメラ学塾] 市河彦太郎の変節

「神保町系オタオタ日記」■(2008-01-06)■[スメラ学塾]スメラ学塾と日の御子文化
>このアメリカが侵略せる太平洋は嘗てマヤ文化やインカ帝国の発展してゐた「陽の御子文化圏」と呼ばれてゐる地域であり,いはば日本の一分身であつた.

「神保町系オタオタ日記」■(2008-01-11)[トンデモ] チャーチワードの女助手フローレンス・ウェルス救出作戦(その1)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-01-12)[トンデモ] チャーチワードの女助手フローレンス・ウェルス救出作戦(その2)

「神保町系オタオタ日記」■(2008-01-31)日本法理研究会にも注目

「神保町系オタオタ日記」■(2008-02-16)[トンデモ] 戦時下早稲田のトンデモ科外講義

「神保町系オタオタ日記」■(2008-02-17)[文藝][柳田國男] 岸田國士大政翼賛会文化部長を激励する会

「神保町系オタオタ日記」■(2008-02-20)[文藝][トンデモ] 宮本百合子と黒田礼二
 昭和2年.黒田は朝日新聞ベルリン特派員

「神保町系オタオタ日記」■(2008-03-11)[文藝] 国策研究会と辰野隆

「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-10)[トンデモ][催眠術] ヒトラー総統との交信に成功

「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-18)[トンデモ] 戦前の神代文字論者

「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-20)[トンデモ] 大川周明と楢崎皐月

「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-27)[文藝] 漢口会の田中軍吉
> 昭和神聖会事件(第二次大本事件のことか)に関与していたらしい.
> 昭和23年 1月 「300人斬り」の戦犯として南京で刑死

「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-29)[スメラ学塾] 由良哲次と小島威彦

「神保町系オタオタ日記」■(2008-05-25)[トンデモ][図書館] 反国語国字改良運動家の戦後
>戦前小島威彦や藤澤親雄と闘ったトンデモバスター島田も,戦後は苦労したようだ

「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-04)[図書館][トンデモ] 日記から読み解く大東亜図書館学

「神保町系オタオタ日記」■(2008-06-12) 日本国語会創立発起人
 昭和17年

「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-12)[トンデモ] 楢崎皐月の経歴
 「カタカムナ文明」の人

「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-14)[柳田國男][トンデモ] 柳田國男と「偽史」関係者織田善雄

「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-24)[民族学] 民族研究所の設立メンバー

「神保町系オタオタ日記」■(2008-07-29)[トンデモ] 藤澤親雄と三浦関造
>藤澤親雄「「すめら世界」興国の理論」(『実業之世界』39巻4号,昭和17年4月)で面白発見.

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-02)[図書館] 戦時下の衛藤利夫の一日
>「大政翼賛会の練成会か何か」に出るため上京した際の歓迎会に衛藤が出席している.

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-08)[スメラ学塾] 藤澤親雄と大日本言論報国会

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-14)[トンデモ] 甘粕正彦と謎の心霊研究協会

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-15)[図書館][トンデモ] もう一つの皇道主義図書館

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-17)[トンデモ][催眠術] 宮崎滔天と太霊道

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-18)[トンデモ] 藤澤親雄と大本教

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-20)[トンデモ] 日本国語会に結集した人達

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-22)[トンデモ][出版] 神政書院の巌本善治と三浦関造

「神保町系オタオタ日記」■(2008-08-25)[トンデモ] 猫猫先生の天敵だった岡田道一博士

「神保町系オタオタ日記」■(2008-09-24)[トンデモ] その後の島津治子

「神保町系オタオタ日記」■(2008-09-30)[トンデモ]神乃日本社に結集したトンデモない人達

「神保町系オタオタ日記」■(2008-10-02)[トンデモ]上海に渡る前の三浦関造の動向

「神保町系オタオタ日記」■(2008-10-09)[トンデモ] 「銀シャツ党」首領ペリーと古賀政男の弟古賀治朗

「神保町系オタオタ日記」■(2008-10-04)思想戦士ガンダム
>大日本同志会については,岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識』に詳しい

「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-12)聖戦技術協会と下山事件

「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-14)[トンデモ]金?学院講師の伊藤武雄

「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-21)[トンデモ]森銑三の身近にいた竹内文献拝観者

「神保町系オタオタ日記」■(2008-11-26)皇國運動聯盟に集う神代文字肯定論者と否定論者

「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-08)加藤周一と辰野隆
>大声一番,「ぼくは大東亜戦争大賛成だ」

「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-16)[文藝]戦時下の里見とん再び
 大日本報国学会

「神保町系オタオタ日記」■(2008-12-29)大アジア主義とアニー・ベサント

「神保町系オタオタ日記」■(2009-01-16)[スメラ学塾](戦前の外交官)市河彦太郎とシカゴ

「神保町系オタオタ日記」■(2009-01-20)[トンデモ]高窪喜八郎と神代文化研究会
>昭和十年七月頃「神代文化研究会」を結成

「神保町系オタオタ日記」■(2009-03-27)太田英茂−本郷教会から食養会経由東方社へ−

「神保町系オタオタ日記」■(2009-05-17)大アジア主義者としての波多野春房

「神保町系オタオタ日記」■(2009-05-19)[出版]松宮春一郎と黒龍会

「神保町系オタオタ日記」■(2009-05-20)イブラヒムと波多野烏峰

「神保町系オタオタ日記」■(2009-06-18)大アジア主義者と神智学徒

「神保町系オタオタ日記」■(2009-06-25)[スメラ学塾]セルパン・皇国地政学・ムー大陸

「神保町系オタオタ日記」■(2009-06-27)ニ十世紀の神話と亜細亜義会

「神保町系オタオタ日記」■(2009-07-08)[図書館]石川県立図書館主席司書牧太喜松
 新興仏教青年同盟関連

「神保町系オタオタ日記」■(2009-07-12)大日本回教協会の評議員

「神保町系オタオタ日記」■(2009-07-28)歴史のカゲに大本教あり
>戦前のトンデモない人達はたいてい,大本教か天津教かのどちらかに,
>いや,しばしば両者につらなっている.

「神保町系オタオタ日記」■(2009-07-30)[トンデモ]廣田弘毅の私設顧問だった増田正雄

「神保町系オタオタ日記」■(2009-08-09)原武史『松本清張の「遺言」』への疑問
 天津教関連

「神保町系オタオタ日記」■(2009-08-10)増田正雄と宮内省怪文書事件

「神保町系オタオタ日記」■(2009-08-15)[トンデモ]『フォーチュン』にも登場していた藤澤親雄『神国日本の使命』

「神保町系オタオタ日記」■(2009-09-24)女皇道主義者川上初枝

「神保町系オタオタ日記」■(2009-09-04)八紘一宇の藤澤親雄

「神保町系オタオタ日記」■(2010-09-11)戦前の河童忌と田端の天然自笑軒

「神保町系オタオタ日記」■(2009-10-27)世界紅卍字会後援会の設立前後

「神保町系オタオタ日記」■(2009-10-29)呉清源と世界紅卍字会後援会

「神保町系オタオタ日記」■(2009-11-20)小田秀人=小田皓通?
 小田秀人は,世界紅卍字会後援会主事

「神保町系オタオタ日記」■(2009-11-29)鈴木芳郎=日高輝忠=日高一輝の戦前・戦後
 戦前の宗教関連

「神保町系オタオタ日記」■(2009-12-03)大日本興亜同盟に加盟していた世界紅卍字会後援会

「神保町系オタオタ日記」■(2010-03-09)[トンデモ]酒井勝軍のエピゴーネン石河光哉

「神保町系オタオタ日記」■(2010-03-20)[トンデモ]酒井勝軍とハルマゲドン

「神保町系オタオタ日記」■(2010-04-24)『団体総覧』に見る戦前のおもしろ特種団体

「神保町系オタオタ日記」■(2010-06-30)[図書館]日本主義者の読書倶楽部

「神保町系オタオタ日記」■(2010-08-26)原武史『松本清張の「遺言」』への疑問(その2)
>皇道日月団

「神保町系オタオタ日記」■(2010-10-09)[図書館]日経文化面に「変わる国会図書館」の記事
>戦前では神武天皇聖跡から肇国遺跡へと国家による歴史の偽造が進展し,
>肇国遺跡では偽書を根拠に,天皇制の歴史を千年も万年も,
>限りなく過去へさかのぼらせようとしたことがわかった.
>この手のトンデモ本が,政府の最高機関や軍人,高官,帝国議会議員にまで深く浸蝕していた

「神保町系オタオタ日記」■(2011-01-26)[展覧会]千代田区立千代田図書館で「戦前の出版検閲を語る資料展」

「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-15)篁白陽のすめら連邦構想

「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-16)虹色の名取洋之助と大川周明

「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-17)長岡良子(璽光尊)の名も『大川周明日記』に登場

「神保町系オタオタ日記」■(2011-02-25)増田正雄と満川亀太郎
>『満川亀太郎日記』には,多くの国家主義者が出てくるが,増田正雄もその一人である.

「神保町系オタオタ日記」■(2011-03-03)[図書館]興亜院時代の志智嘉九郎と呉清源・小田秀人の世界紅卍字会訪問

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「神保町系オタオタ日記」■(2011-10-07)[トンデモ][スメラ学塾]トンデモだった戦争文化研究所と『戦争文化』

「神保町系オタオタ日記」■(2012-02-01)中野與之助年譜
 中野は三五教の開祖

『共同研究 転向3』(思想の科学研究会編,平凡社東洋文庫,2012/8/12)
>1937年以降の日中戦争の拡大に伴う翼賛体制を,なしくずし的「集団転向」と捉える視座を提供

『昭和戦前期初等歴史教育実践史研究』(福田喜彦著,風間書房,2012/12/25)

『スメラ学塾講座 第一期』(世界創造社,昭和15)


 【質問】
大東亜戦争当時の日本国民は 神国日本は負けない.平等で低価格の医療がすぐ手に入る.といった実現不可能な妄想を本気で信じていた.
 大本営発表を鵜呑みにして,都合の悪い現実を理解しなかった」
てのは,どの程度本当ですか?

 【回答】
 人それぞれ.
 玉音放送を聴いて「まさか」と思った人も居れば,その前から「こりゃやばい」と思った人も居る.
 ただし,「日本が負けるかも」なんてことは,人前で大っぴらに言えることではなかった.

 当時,「日本は負けない」って思ってたわけじゃなくて,
「この戦争は何が何でも負けるわけにはいかない」
って決意してた人も多い.
 ソースは徳川夢声やら斉藤茂吉やら,無数にあるといってもいいぐらいな.
 有名人の戦中日記.
 少なくともおれが読んだ80冊(100冊?)以上な中では例外はない.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦時中,どのような精神主義が日本に蔓延していたのか?

 【回答】
 例えば以下のような事例がある.

[quote]

 〔略〕
 96式陸攻から1式陸攻,そして「銀河」に至るまでの一連の機体では,その使用全期間に渡って,機体下面に灰色塗装が施されたことは(あるいは,それが顧慮されたことも)殆どなかったと判断している.
 〔略〕

 以下は余談である.
 機体下面の無塗装化がどんどん進められていく反面,機体上面の暗緑色塗装だけは,最後まで継承された.
 これは,地上駐機時に空中から視認を困難にさせるという見地から,省くわけにはいかなかったのだと思うが,それだけで事足りたと言えるのだろうか?

 太平洋戦争,とりわけ中期以降の戦史を眺めていくと,内地から到着した機体が,整然と並べられたところを,米軍機の不意討ちを受け,一度に百機,二百機という形でごそっと失われた例が,一再ならず起きている.
 これでは,地上での隠蔽を目的として施された塗装でありながら,何の役にも立っていないことになるのではないだろうか?

 確かに,迷彩塗装は軍用機にとっては不可欠であろうが,それだけでは充分とは言えず,やはり,偽装や掩体壕といったものと複合して初めて効果を発揮するものではないだろうか.
 極論すれば,堅固な掩体壕があれば,機体が派手な塗装で塗られていても,機体自体は守ることができる.
 それを,飛行機に並べたところをむざむざ一纏めに失ってしまうのであれば,暗緑色塗装すら廃止してしまっても,大勢に影響がなかったのではとさえ思える.

〔略〕
 本来,迷彩塗装とはいえ,全てに万能ではなく,一局面,すなわち,バックの色相と機体迷彩色の色相とが合致した瞬間にだけ,その効果が生きるに過ぎない.
 各国の迷彩の研究も,なるべく多くの局面で迷彩効果を発揮するようにとの前提に立って,色の選定,塗装パターン,塗装様式が決定されるものだ.
 金科玉条のごとく暗緑色塗装に固執した海軍の塗装に,遂に敗戦に至るまで捨てきれなかった,大艦巨砲主義に代表される形式主義,そして,精神主義の一端を垣間見る思いがしてならない.

[/quote]
―――(黒木一実『再考・日本海軍機の塗装とマーキング』 vol.7 in 『航空ファン』 '00 Mar.)

 このような精神主義は別に軍部に限った話ではなく,民間でも例えば以下のような事例があった.

[quote]

〔略〕
 〔アメリカからの帰国子女の佐藤さんが〕もんぺを作る裂地がなくて,やむなく古いスカートを着て,電車に乗っていると,「この非国民,今の時局をなんと心得るか」と,見知らぬ男に大声で説教されたりした.
 とにかく戦時下は説教ばかりで,車内で学校の英語の教科書を広げていて,「敵性語を勉強するとは何事か,その閑があったら千人針を縫え」と怒られたりした.
〔略〕

[/quote]
―――(深田祐介 「われら海を渡る」,文春文庫)

 他にも,この面では笑えない笑い話が多い.


 【質問】
 大和魂って何ですか?

 【回答】
 時代によって意味が変化している.
 「天皇制国家を支える国体観念の淵源」としての大和魂が登場するのは,明治になってからである.

----------------

 文献のうえで〈やまとだましい〉が登場するのは《源氏物語》乙女の巻.
 光源氏は,12歳になった長男の夕霧に元服の式をあげさせ,周囲の反対を押し切って大学へ入れる.
 その際,
〈才(ざえ)を本(もと)としてこそ,大和魂(やまとだましい)の世に用ひらるゝ方(かた)も,強う侍らめ〉
と述べている.
 ここでは
(1)大和魂は才(漢学の素養,漢才(からざえ))と反対の概念をなしていること,
(2)本(もと)が才であり,したがって,末に位置するものが大和魂であること,
(3)大和魂の属性として〈世に用ひらるゝ方〉すなわち処世的手腕・功利主義的判断能力が考えられていたこと,
 この三つの特性が認められる.
 従来の源氏注釈家たちは,〈大和魂〉について,世才,良識,先天的に備わった気ばたらき,融通のきく常識的政治判断,世渡りの才能,交際上手,如才なさ,実人生に対する理解力,などの解釈を与えている.

 次に登場するのは,《大鏡》巻二の左大臣時平の伝である.
 藤原時平は菅原道真を讒訴(ざんそ)したとして後世悪名が高く,時平が短命であり,その子孫らもすぐに絶えたのは道真の怨霊によるものとされた.
〈あさましき悪事を申しをこなひたまへりし罪により,このおとゞの御末はおはせぬなり.さるは,やまとだましひなどはいみじくおはしましたるものを〉
と述べたあと,三つのエピソードを紹介している.
(1)奢侈(しやし)禁止令がすこしも実行されなかったとき,時平は醍醐帝としめしあわせ,わざと華美な服装をしてお叱りを受け,1ヵ月謹慎し,禁令の徹底を図った.
(2)時平には度外れた笑い癖があり,政務の途中で下僚の放屁を聞いて笑い出し,帰邸してしまった.
(3)道真が北野天神にまつられてのち,清涼殿に猛烈な落雷があったが,時平は太刀を抜いて,
〈あなたは存命中でもわたしの次席だったではないか.たとえ神となっても,この世では遠慮すべきだ〉
と,空を睨んだところ,雷は静まった.
 ――こうしてみると,《大鏡》成立当時,平安後期ころの〈やまとだましい〉の属性には,政治技術としてのトリック,明朗なる笑いの精神,咄嗟(とつさ)のさいの機知,頭の回転の早さ,などが含まれていたと考えてよいだろう.

 第3の例は《今昔物語集》巻第二十九に載る話で,貧乏学者清原善澄の家に強盗が入ったとき,善澄はいったんは板敷(すのこ)の下へ逃げ隠れたが,あまりに口惜しかったので泥棒が門を出て行ったあとを追って行き,
〈耶(や),己等(おのれら),シャ顔共皆見ツ.夜明ケムマヽニ検非違使(けびいし) ノ別当ニ申シテ片端ヨリ捕ヘサセテム〉
と叫んだところ,盗人どもは引き返し,とうとう殺されてしまった,とあり,末尾で
〈善澄才(ざえ)(漢学)ハ微妙(いみじ) カリケレドモ,露(つゆ),和魂(やまとだましい)无(な)カリケル者ニテ,此(かか) ル心幼キ事ヲ云テ死ヌル也トゾ〉
と批評されている.
 ここでは,〈やまとだましい〉の属性として,
(1)周囲状況を判断して臨機応変の思考や行動をとり得る能力,
(2)子どもっぽい幼稚未熟な精神とは正反対の世慣れた考え方,劫役(こうろう) を経た人柄,思慮分別などが挙げられる.
 清原善澄は実在の人物で,《御堂関白記》寛弘4年(1007)5月30日条によると,諸道論義の席上で,狂人の形相を呈してきたために〈追立事了〉(退場させられた)という.
 そのことを併せ考えると,
(3)激しても理性や正気を失わない態度,奇行や非常識な発言を自制する
ことも,〈やまとだましい〉の属性に含めてよいかもしれない.

 第4の例は関白藤原忠実の談話を,中原師元が筆録した《中外抄》の久安1年(1145)8月11日条で,父の師通(もろみち)が幼少年時代の忠実を,いい子だが学問をしたがらないのが残念だ,といったとき,大江匡房が,摂政関白になるには必ずしも漢学の才能がなくてもよろしい,〈やまとだましい〉さえすぐれていれば天下を治めることは可能です,と答えたという記事である.
 藤原忠実が藤原の氏長者(うじのちようじや)として,白河院を中心とする勢力に対抗し,摂関家の威信を高めようとしてその結果,保元の乱が起こったことなどをも考えあわせると,〈やまとだましい〉とは,皇室をも敵に回して対峙する摂関家の政治的能力の属性でもあったともいえよう.

 第5の例は《愚管抄》巻四で,著者慈円は摂関家の家筋でもない藤原公実が,ただ鳥羽帝の外舅であるとの理由だけで摂政になりたがったことを非難し,公実が和漢の才に富み,知足院殿(藤原忠実)よりも人柄や〈やまとだましい〉がまさっていて,見識ある人からも賢者といわれた藤原実資などのように思われることもあったのだろうか,と述べている.
 〈やまとだましい〉が摂関家に固有の精神的属性という面のあったことがうかがわれる.

 第6の例は,時代がずっとくだった南北朝ころかと思われる《詠百寮和歌(えいひやくりようわか)》である.
 この百首和歌は,官職の名を題にして詠まれたもので,その中に〈文章博士〉と題して
〈新しき 文を見るにも くらからじ 読開(よみひら)きぬる 大和と玉しゐ〉
の一首がある.
 作者は不明であるが,すでに実体も制度も空無に帰した中世の宮廷文化を眼前にしたある知識人が,かつての摂関政治文化の盛時に思慕と憧憬の思いをはせての作と解し得るのではなかろうか.

 以上,古代・中世の文献にあらわれた〈やまとだましい〉の用例をみてきたが,こののち,中世末から近世初頭にかけて,三つ四つの語釈書に引かれたことを例外とすれば,表だって〈やまとだましい〉の語が問題に据えられたことはなかった.

 なお,〈やまとだましい〉と同じ意味で,〈やまとごころ〉という語もあり,〈漢意(からごころ)〉に対応するものであった.

 近世も半ばを過ぎ,賀茂真淵および本居宣長によって改めて〈やまとだましい〉(やまとごころ)が取り上げられるようになる.
 それは,人間の自然の心情のままにすなおでやさしく,めめしくもある心映えであり,宣長の
〈敷島の やまとごころを 人問はば 朝日ににほふ 山桜花〉
の歌も,みやびで純一な民族性を詠んだものであった.
 しかしこの歌はやがて,桜花の散るいさぎよさが強調して解釈されるようになる.

 幕末に尊王攘夷論が勢力を得ていく過程において,〈やまとだましい〉は,しだいに武断的な国粋思想に利用されはじめ,誤った〈和魂漢才〉説まで創案されるに至るのである.

 明治から昭和の敗戦に至る間,日本国民は,〈やまとだましい〉といえば,天皇制国家を支える国体観念の淵源であると教えられた.
 戦場に赴けば,果敢にたたかって死ぬことで武士道の極致をきわめよ,と教えられ,〈やまとだましい〉が至上の精神価値と見なされたのである.

日本史板,2005/06/14(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 武士道も,時代によって中身が異なるって本当ですか?
 戦時中に軍部に敷衍していた武士道は,戦国時代の武士の実態とは似ても似つかないものだ,というのは本当ですか?

 【回答】
 wikipediaでは「作られた古典」の典型,と述べている.
 以下引用.

 武士道(ぶしどう)とは,近世日本の武士が従うべきとされた規範をさす.

 通常の概念では,君に忠,親に孝,自らを節すること厳しく,下位の者に仁慈を以てし,敵には憐みをかけ,私欲を忌み,公正を尊び,富貴よりも名誉を以て貴しとなす態度であるとされることが多い.さらにこれに,常在戦場を以て心構えとした武士の意識を重視して,日本特有の「死の美学」を付けくわえることもある.

 ただし,上記のような典型的な武士道観念は,明治以降に近世の武士の倫理観・美意識を再編・再解釈されたものであるか,もしくは本来の武士道と明治期の再解釈があいまいなままに混同されているものを指す場合が多く,「作られた古典」の典型的な例である.

(日本史板)

 私見を書かせて頂ければ,現在云われる武士道とは,新渡戸稲造の【武士道】にその源流を見ることが出来るのではないでしょうか.
 けれども彼が生み出した武士道とは,所謂外国に対する宣伝書としての武士道でした.
 かなり違いますが【地球の歩き方】のようなものです(笑).
 彼は,日本人というものを海外に紹介するにあたって,【武士道】を記しました.
 しかし,彼は日本文化に通暁していたわけではありませんでした.
 というのも,彼は海外での静養中にそれを書き上げたといわれていますが,彼が参考にしたのは,所謂【騎士道】精神の表れた西洋の英雄たち.
 つまり,彼の現した【武士道】は,騎士道を下敷きとして書かれたものなのです.

 それ自体は別段おかしなことではないかも知れません.なぜならば,最初に申し上げた通り,「海外に対する宣伝書」であるのですから(確か,最初に発行されたのは海外であると思います.)
 海の向こうの異文化の人々に受け入れられようとしたならば,当然彼らの受け入れ易い状態――つまりは彼らの文化の素地を含んだものを出しても不思議ではないからです.
(それが意識的か無意識的か,それはわかりませんが.)

 ちなみに彼が日本に疎かった例としては,武士道という言葉は
「彼自身が創作するまで存在しなかったと認識していた」
という点に端的に現れているのではないでしょうか.
 事実としては,明治初期においてはまだ「武士道」という言葉そのものの認知度は低かったものの,武士道を標榜する書物を発行した人物はいました.
 ただ,歴史的視点から見て,それらの書物には間違いが多かったとも指摘されています.

 今の私たちが一般的に共有しうる【武士道】というものが,新渡戸稲造を底流としているかは分かりませんが,もしそうであるとして,海外の人間たちが羨望するというのも,実は自然なものであるのかも知れません.

 そもそも武士道そのものの源流は,東国武士における様式にその源流を見ることが出来る,といわれます.
 不勉強にしてどういうものかは覚えてないのですが,少なくとも今からお話する武士道は,新渡戸稲造のものとは全く別とお考え下さい.
 源平期から戦功の奪い合い――これは「武士道の精神史」という本に記されていますが,戦功の証である首を強奪しようとする行為があったといいます――,戦国期に入りますれば,所謂朝倉宗滴に代表される「犬畜生となりても勝つことが本分なり」,同族朝倉孝景の申した「名刀一振りより,鑓百本が欲しい」などと,まさに「勝利」を目的とした武士たちが大勢表れます.
 その頃の術策権謀やその戦いぶりについては,詳しい方も多いでしょうから省くとして,血なまぐさい「武士道」があったことは想像に難くないと思います.

 やがて戦国期が終わり,江戸期に入りますと,多くの漢学者――荻生徂徠だか山鹿素行だか忘れましたが――が,人の上に立つものの規範としての「士道」を作り上げます.
 これは彼等自身がそう(士道と)名乗っていたと記憶していますが,これは全く「武士」としての生き方であるというよりは,中国の朱子学(儒学)に多大な影響を受けた「人としての徳」を追求したところにありました.
 彼らが作り上げた士道に,漢籍が多大な影響を及ぼしたという事実は,彼等が幼いころから漢籍講読をしていたというところからも想像できます.
 彼らの著書が政策に影響したのか,政策の影響で彼らの著書が生まれたのか,いずれかは浅学にして知りませんが,少なくとも幕府は,朱子学の導入により,「武士」たちを「士」として教育し,秩序の安寧を図りました.
 我々が武士道といって想像することもある江戸期武士について,遜色が無かったとしても,それは先に申し上げた「士道」の存在の通り,
 いずれも朱子学がその根底であるという点において,なんら不思議ではないのです.

 やがて明治期において新たな「武士道」が標榜されるに至り,色々な人物が出現してくるのですが,それは前述の通りであり,歴史的に裏打ちされたというよりは,寧ろ彼らの主張したいことを「武士道」となぞらえた,と言って差し支えないものだったのであります.

 こうして見ると,我々が想う「武士道」とは,その様々な変遷(また概念上存在しないこともあった)があり,伝統的であるか否かという点においては疑問点を持たざるを得ません.
 少なくとも,「日本人」が形成されたのが近代にあるという点においては,伝統である,といっても間違いではないとも思ってしまうのですが…
 まあ,自分の悪い頭ではこれが精一杯ですw

 ちなみに,上記2レスに関しては,色々と武士道系の書物を読んだ記憶を掘り返して,それこそ思い違いやうろ覚えが多々あるとも思われます…
 その点に関しては先に謝っておきます.すみませんorz

(名無し民兵@中村 in 軍事板<武道板から転載されたもの>)

 後もう一つ,やっかいなことがある.
 新渡戸稲造の時代の後に,「武士道とは死ぬことと見つけたり」で有名な山本定朝の「葉隠」が『発掘』(これは比喩です.書が表された当時,世間に何の影響もない駄文でしかなかった)されてしまったことなんだな.
 こいつと新渡戸の主張が融合した結果,昭和初期の観念武士道と言う怪物が誕生したのではないかと思うが,どうか?

 この「葉隠」は,今でも武士道のテキストとして読まれていて,なおかつ,戦時中には軍に於ける副読本として扱われていたという過去がある.

 なお,今日,やたらと武士道精神であるとか歴史感覚といった単語を連発している者の1人に,小林よしのりがあるが,まあ小林の言うものは,まさに主体思想と呼ぶにふさわしい,小林にとって実に都合よいロジックだし,武士道といっても,上述のように戦国時代のリアリズム武士道と江戸時代の儒教武士道と太平洋戦争直前の観念武士道とではけっこう乖離があるんだが,小林は武士道のどういう部分というのを明確にしてないから,いつでも自分勝手なロジックを振り回すことが可能.
 戦国時代のリアリズム武士道なんて,それ以前の社会から続く,身も蓋もない実力主義と,当時の流行語「傾(かぶ)く」に代表される悪目立ちの固まりだから,今の彼とは合いそうにない.
 だいたい,歴史感覚でいったら,武士道が常識ではない時代もたくさんあったわけで.

 であるから小林信者にとっては時として齟齬が出る.なぜって小林の使っている武士道がコロコロ変わりやすい代物だから.
 そんなわけで齟齬が出ないようにするには,小林と信者の精神がまったく同一にシンクロしないと無理.
 エヴァンゲリオンのパイロットやるより難しいぞ,きっと.

 ところで,その小林のブレインの座に現在ある西部邁は,数年前に「「日本人と武士道」(スティーブン・ナッシュ著・角川春樹事務所)なんて本を翻訳してる.
 もっとも,この「スティーブン・ナッシュ」なる日本通のアメリカ人哲学者が,実在の人物かどうかは不明.
 イニシャルは「S・N」で西部邁と同じだし,イザヤ・ベンダサン流の外人詐称の日本文化論かも知れない.
 西部の英語力が怪しいのは池田信夫も指摘している通りだし.
 まあ小林の武士道云々の入れ知恵元も,お里が知れるってことで.

(軍事板)

 俺は,現代に武士道を取り入れるなら,日本人の軍事的・政治的才能が頂点に達していた戦国武士道(後はもう下り坂),その勝者達のエッセンスを選ぶべきだと思います.

 先週末からずっと,あるスポーツの外国人監督の取材に連日行ってまして,そこで興味深い話だったのが,

 1.「チームワークと『和の精神』は全くの別物である.『和の精神』に拘る限り,日本人チームは強くなれない」
 2.「何故日本人は,チームワークとリーダーシップを別個に考えるのか? 両者は車の両輪である」
 3.「強いリーダー無くして強いチーム無し」(ここで言うリーダーとは,選手キャプテンの事である.決して監督ではない)
 4.「過去の良いリーダーは,時として我を押し通す暴君的側面も持っているものであるが,何故か日本人は嫌悪する」
 5.「自分の価値を,自分の実力より所属チームのブランドに頼る奴が多すぎる」
と言う話でした.

 長くなるんで,「1」だけに限って言います.
 その監督が言うには,その本質はともかく,現場で言われる『和の精神』とは「温情の馴れ合い」と「責任の拡散による無責任化」に過ぎないとバッサリ.
 欧米のチームならば試合後のミーティングで,チームメイトのミスを罵倒し合い,鬱憤が晴れたところで,
「じゃあ次は失敗しないようにするにはどうすべきか?」
を真剣に話し合ったりするんだが.日本人はとにかく相手を気遣い,「場の雰囲気」を乱さない事に終始して,
「お前のここが駄目だ.使えない」
とズバリ言わない.

 しかし,ズバリ言われて傷付くような軟弱モンはプロには要らない,だそうで.結局,自分がアレやコレやと言うから「嫌われ者」になる.
 選手同士が何でも「なぁなぁ」で済ましている限り,強くはナレンそうです.

 まぁ,聖徳太子の言った『和の精神』と,21世紀の現場で言う『和の精神』とは,大きく乖離している,と自分は解釈してますが.「セクハラ」の意味が本家アメリカとは全然違うモンになってしまうのが,この国の特性ですから.
 今さら「武士道」と言ったところで,都合の良いように解釈して,過去の諸「武士道」とは本質も内容も全然違う「平成武士道」になってまうんじゃなかろうか.
 それを「保守」と言うのは,ちゃうだろう,と.
 馬鹿タリバンが古典イスラム世界の保守再建と言いつつ,アフガンをキリングフィールドにしたような事になるんじゃなかろうか,と危惧するのです.

(鳥坂 ◆nSC8E.bvp6 in 軍事板)

 【関連文献】

新渡戸稲造著「武士道」

山本常朝著「葉隠」

山鹿素行著「山鹿語類」

井沢蟠龍著「武士訓」

大道寺友山著「武道初心集」

宮本武蔵著「五輪書」

 【余談】
 池波正太郎の小説に「剣客商売」というシリーズがある.
 主人公の名を秋山小兵衛という.
 隠居した剣豪だが,陽気で,くったくがない.
 それでいて,正義感があり,常盤新平が解説の中で述べるようにダンディズムを備えている.
 こうした新しい武士像こそ,窮屈ではなく,それでいて卑屈になることもなく,現代人に合っているのではないかと愚考する.

 秋山小兵衛の剣術の流儀の名を,無外流という.

 21世紀型の武士道として,「無外流武士道」を推したい.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 最近佐藤優さんが解説出してる,大川周明さんの『米英東亜侵略史』は,見る所の無いトンデモなの?
 それとも割りと論理的には見るところはあるものなの?
 ま,見る所はあるといっても,「この一文だけ」とか「一割程度」とか幅はあるだろうけど,或いは当時のインテリの考えとしてという意味でとか?

 【回答】
 「入手困難で高額な希少本」というわけでもないんだから,興味があるなら自分で読んでみれば?

 ヒントだけちょっと書いておくと,佐藤優がよく使う「内在的論理をつかむ」という言葉.
 当時の日本の知識層の「内在的論理」を知る上で,情報源の一つとしては読む価値があると思う.

 そんなの面倒で,ただ大東亜戦争は侵略だったのか解放だったのか,みたいな「白か黒かの結論」だけ知りたい人には不向き.
 自分の頭で判断する代わりに「○○は読む価値ありますか?」とか,結論だけ他人に求める人には,周明よりも隆法でも読んでれば?

軍事板,2010/04/19(月)
青文字:加筆改修部分

 【関連リンク】
『日米開戦の真実 大川周明著「米英東亜侵略史」を読み解く』(佐藤優著,小学館,2006.7)
『大川周明「獄中」日記 米英東亜侵略史の底流』(大川周明著,毎日ワンズ,2009.4)


 【質問】
http://d.hatena.ne.jp/sfx76077/20100617
内の引用文中にて言及されている,桜沢如一著『健康戦線の第一線に立ちて』(1941.6.1)は,どんな本なのか?

 【回答】
1) 本書の概要

 本書の内容を,非常に乱暴にまとめて言えば,以下の通り.

「アメリカもドイツも英国も日本も,国民の健康はどんどん失われていっている.
 俺の『無双原理』に耳を貸すべきだ.
 その中で,不十分ながらも俺の理論を取り入れたドイツは偉い」

2) ヒトラー礼賛論が展開されているのか?

 疑問の余地がある.
 (1)にて述べたように,「俺の理論を取り入れたドイツは偉い」と言っているもので,これを礼賛と呼んでいいかどうかは,ちょっと疑問.

-------------------------------
 前に(=これ以前のページで,の意味.編者注)私は日本民族健康戦線の總崩れの報告を數字をもつて示しましたが,ドーシテこの健康戰線をもり返すかについては多くを申上げませんでした.
 それは『戰爭に勝つ食物』,『病氣の治る食物』,『食物だけで病氣の治る新食養療法』,『自然醫學』などにおいて健康を獲得する方法を明らかにしておいたからであります.
 私は十分の自信と,十分の責任をもつてこの神ながらの道を,最も簡單明確なホントーニ生きる方法として推奬するのであります.
(中略)
 私はこの神ながらの道がナチス・ドイツ農食糧大臣ダレーによつて不完全ながら,ナチス・ドイツに取り入れられ,ヒトラァ總統によつて國策にまで取り上げられてゐるのに,日本ではまだ國策に取り上げられないのを殘念千萬だと思ひます.
(それで私はダレの「血と土」を黒田禮二君に頼んで譯して貰ひ出版したのであります)
 私はヒトラァ總統に他の人々と全く違つた意味の尊敬を拂ふものです.
 すなはちヒトラァ總統は全民族の健康(生命)の指導者たる責任を自覺し,その生命が髮の認識,宇宙の秩序の體得,世界觀の樹立にあること,人類の精神革命にあることを主張してゐるからであります.
-------------------------------p.102-103

 ただしもちろん,当時の日本社会に横溢していた親ドイツ的な傾向は,本書においても否定はできない.
 たとえば,ドイツの「健康戦線」の問題点を指摘している第1部第2章
>悲壯ナチス・ドイツ健康戰線崩る
の冒頭には,こんな一文も.

-------------------------------
しかしこんな本(反ナチであるマーチン・グンペール博士の『餓死萬歳!』.本書は『餓死萬歳』の中の統計を用ひてゐる.編者注)を手引にすることはドイツが今具さになめてゐる辛苦と,ドイツ民族の底力の大きさと,それを存分に發揮させる指導者ヒトラァの超人的な力を示すことにこそなれ,決してドイツをゆがめることにはならないでせう.
-------------------------------p.26

 なお,ナチス政権が本当に桜沢の主張を取り入れたのかどうかは,浅学にして不明.

3) 1941年6月に出版された本書に,「既に負色濃いドイツでは食料の配給に事欠くようになって,」などと,本当に書かれているのか?

 「敗色濃い」とも,もちろん「負色濃い」とも書かれていない.
 上述のように,本書は反ナチであるグンペール博士の執筆した本の統計を利用している.
 本書に紹介されているところによれば,グンペール博士の主張の主旨は,
「ヒトラーが政権をとった後,ドイツ国民の食生活が改善されたかのように喧伝されているが,統計を見れば分かるようにそれはまやかしである」
ということである模様.

 それに対して桜沢は,
「彼(ヒトラァ)は神の恩寵の名醫のごとく,我らに健康への道を示してくれます」(p.106)
と,極めて好意的(独善的?)に当時のドイツの状況を解釈している.
 以下引用.

-----------------------------
 ドイツには食糧が不足してゐます.
 グンペール博士はそれをさも憎憎しげに冷笑をもつて指摘してゐます――
『最近の統計によれば,ドイツでは肉の一人當たり平均消費量が1937年の52.2キログラムから1938年の78.5キログラムに増加してゐるが,これはマツカな僞りである.
 これはある特別な階級の肉の消費量の増加であつて,一般の増加ではない』
と云つてその證據を上げてゐます.
 何と云ふありがたいことでせう.
 これは二重の喜びを私に與へます.
 それはドイツでさへ肉食はウントへらしても,或はヒトラァの樣に全く廢止しても差支へないと云ふ事實を示して,私の云ふ「身土不二の原則」による健康法の廣範圍性について大きな證明を與へてくれ,同時に菜食を主とする食生活によつてナチス・ドイツのネバリ強さ,持續力,耐久力を増進しつつあることを知らせてくれるからです.
(ヒトラァ總統が肉食を取らないことは周知の事實です)

 また,『ドイツ國民は今や僅かに平均2413カロリーと云ふ半飢餓状態で生きてゐると云ふみじめさである』と云ふグンペール博士の言葉も私をいたくよろこばせるのです.
 「少食,少眠,少慾」は貝原益軒の養生訓の眼目であり,「汁一椀以外を食はす」とは農聖二宮尊徳74年間の一生をつらぬいた健全幸福生活法指導原理であつたのです.
 それは今日の日本では抹殺されてゐますのにナチス・ドイツでは實行され,國策として行はれ,それによつてドイツ國民の志氣はふるつてゐるのですもの.

『ドイツは今やヒトラァ時代となつてからその食品に困つてゐる――
 鷄肉,玉子,ラード,マルガリン,バレイショ,ライ麥粉,大豆,エンドウ豆,カリフラワア,キャベージ,トマト,ホーレン草,レタス,梨,梅,桃,そしてあらゆる南國のクダモノ……』
 あゝ! 何と云ふ幸せなことでせう.
 ハイル! ヒトラァ!
 無双原理から見ればこれらは大部分なくともいゝもので,いや,むしろ,ない方がありがたいものばかり(ことにトマト,ホーレン草,梨,桃あらゆるクダモノ)であります.
 バレイショの不足はありがたい.
 それが國民の90%の偏平足,筋骨薄弱を救つてくれます.
 ヒトラァ萬歳!を私は絶叫する!
 ヒトラァ總統と彼を信ずる民族には神樣がついてゐられるのです.
-----------------------------p.106-108
※数字は半角英数に直した.

 なお,ナチス・ドイツ政権下の食糧事情というのは,それ自体は興味深いテーマであるので,機会があればそちらも調べを進めたいところ.

4)
>なみのベジタリアンすら彼の前ではひれ伏すしかない.
>「農作物を食うな,雑草を食え」と,青物市場のゴミ捨て場から
>クズ野菜を拾ってきて食っていた,という先生である.
というのは本当か?

 本書の2つの記述を混同している可能性が高い.

 まず,著者はただ「雑草を食え」と言っているのではない.
 畑に生えている野菜なんてニセモノだ,本物の野菜は「野」に生えているものを言うのだ,というのが主旨.
 以下引用.

-------------------------------
 まあ一度私共の毎日頂いてゐるのを味つて下さい.
 それにはトクベツな技術が入用なワケでもないのです.
 古くから日本人がやつて來たことなのです.
 ふつうの野菜やホントーの野菜,野にある菜,根,つまり野の幸で神樣がお手づからおつくりになつたもの!(今の野菜はみな畑菜! 人が利益のためにつくつたもの)をおいしくいたゞくのです.
 神樣のお手づくりの山のサチ,海のサチ,野のサチ,川のサチを我々の遠つみおやの神々のごとくいたゞくのであります.
 「君がため春の野に出て若菜つむ」生活,「セリなづな,おぎょう,ハコベラ,ほとけのざ,すゞな,すゞしろ」ヨメナ,タンポヽなど,よもやまのやはらかい,やさしい草々をいたゞく生活であります.
-------------------------------p.97

 一方,クズ野菜の話は,パリで著者が留学生活をしていた頃の,貧乏生活ぶりの回想の中に出てくるのであって,「ホントーの野菜」推奨とは時系列が明らかに異なる.

-------------------------------
 私は始め安いヤサイとパンで生きてゐたが,それでも時々食へないやうな日もあつた.
 そこで私はパリにおける最低生活を試みる決心をした.
 日曜毎に私は郊外へ1週間分の雜草を取りに行つた.
 米はワレ米,荷こぼれ米を鳥の餌を賣る店から買つて來た.
 その他には鹽と油を買ふだけだ.

 或る日ソルボンヌ大學のコロイド研究室を出て歸るさ,ある市場の表を通りかけた私は釘付にされてしまつた.
 私は寶の山を目の前にアリアリと發見したのである.
 市場が終つて,掃除人夫が掃き出してゐる棄てられた大根やキャベツの葉の山を見たのである! ビタミンの山!

 私は急いで,コソコソ大根の葉や人參の葉をかきあつめてかばんの中へギユウギユウ押しこんだ.
 十分ほどの間に私は1週間分のビタミンや無機塩類を拾ふことが出來た.
 屋根の下の巣に歸ると私は室に繩を張り廻してそれらの葉をかけて干葉を作ることにした.
 これで郊外へ雜草を取りに行く1週1回の地下鐵賃金が節約できた.
-------------------------------p.120-121

 その後に上手いオチまでついていて,ネタトークとしては出来もいいほうの貧乏譚であって,この部分に限って言えば,トンデモとは無縁.

 また,このクズ野菜拾いを本書執筆当時には推奨などしていないことは,本書p.89に「ビタミン説など化学の拙劣な利用」と断じていることからも分かる.

 そもそもこれは「付録」の章に入っている記述であって,普通の人なら本論と混同などしないと思うのだが.

5) その他

 本書のトンデモとしての真価は,「ヒトラァ万歳」な第2部よりもむしろ,第1部のほうにあるといってよい.
 この第1部で著者は,データを様々出しては,
「アメリカでは年に何万人も疾病で死んでいる!
 アメリカは『健康戦線』において敗北しつつあるのである!」
「ドイツでは数十%もの偏平足の青年が存在する!
 ドイツは『健康戦線』において敗北しつつあるのである!」
「日本では何万人もの乳幼児が栄養不良状態となっている!
 日本は『健康戦線』において敗北しつつあるのである!」
といった論理で,とにかく万の単位で病気その他の問題があれば,「健康戦線」にて敗れたり,と決め付ける.

 唐沢俊一氏は,

>僕をトンデモ本の世界に引き込んでくれた本でもある.

としている割には,その肝心な部分を紹介していない――そして,特にトンデモとは言えない部分をトンデモとして紹介――のだから,不可解と言うしかない.

【ぐんじさんぎょう】,待機稿

>ドイツ國民は今や僅かに平均2413カロリーと云ふ半飢餓状態で生き
>てゐると云ふみじめさである

 結局,終戦直前までこの水準を守れたみたいよ.
 一方日本は……

ベタ藤原 in mixi,2010年07月22日 02:53


 【質問】
 谷川徹三って誰?

 【回答】
 谷川徹三(1895〜1989)は,愛知県常滑市生まれの哲学者・評論家.
 第一高等学校を経て,1922年,京都大学哲学科卒.
 在学中は西田幾太郎に学び,三木清らと親交.
 同志社,龍谷,法政の各大学,および京都市立絵画専門学校などで教鞭をとり,1928年,法政大学教授に就任,のち文学部長となる.
 その間,和辻哲郎・林達夫らと雑誌「思想」の編集にあたり,思想・芸術・文学など広範な評論活動を行う.
 谷川俊太郎によれば,「哲学を,難解な哲学用語を使わず,普通の言葉で書ける人」.

 宮沢賢治の世界を広く紹介した事でも知られる.
 が,戦時中,「雨ニモマケズ」は国策遂行,滅私奉公に利用されていて既に巷間知れ渡っており,谷川もその流れに沿っていたことは否めない.
 終戦間近の昭和20年6月には,国策協力の出版「日本叢書」(生活社)四として,彼の講演内容は「雨ニモマケズ」の書名で,初版2万部も発行されたという.

 戦後,その反動からか,「世界連邦運動」なる平和運動に共鳴,理論の研究・啓蒙に活動.
 これは第二次世界大戦後, アインシュタイン等の世界の有識者により提唱され, 戦争・飢餓・貧困・病苦・環境問題などを無くす事を目的に, 国連を改革して世界連邦政府を目指すというもの.
 世界連邦運動協会(WFM:World Federalist Movement)は, NYに本部を置く世界組織で,国連の協議資格を持っている.
 国連の実情を見るに,私見では非現実的としか思えないが,もしかして,日本の国連信仰のルーツは,このへんにあるのかもしれない.

 戦後はまた,雑誌『心』同人に参加.
 1945年11月〜1946年11月,中央公論社理事.
 1946年11月〜1948年6月,帝室博物館(のち国立博物館)次長.
 1963年2月〜1967年8月,法政大学総長.
 1975年,日本芸術院会員.
 1987年,文化功労者に顕彰さる.
 この間,柳宗悦らとの交際をはじめ,はやくから映画を含む芸術活動全般に深くかかわり,多くの評論,随想を残す.

 1989.9.27,虚血性心不全のため,東京都杉並区の自宅で死去.

 なお,上述中にある谷川俊太郎(詩人)は,谷川徹三の子息である.

 【参考ページ】
https://kotobank.jp/word/谷川徹三
http://blog.goo.ne.jp/suzukikeimori/e/da83d6a22e4b8d7ff9b1db1bcc2447ba
http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10246.html
https://www.1101.com/tanikawa/02.html
http://wfm-yf.org/

谷川徹三肖像
(こちらより引用)


 【質問】
 「スメラ学塾」って何?

 【回答】
 「日本世界史建設戦士の養成」を目的とし,高嶋辰彦(陸軍大佐),小島威彦(国民精神文化研究所),仲小路彰らが中心となって,1940(昭和15,皇紀2600年)年5月に設立した極右団体.
 スメラ学とはシュメール文明研究のことだが,スメラ学塾においては,天皇の尊称の一つ「須明樂美御コ(すめらみこと)」を,スメラのみこと」と解釈し,「日本人はシュメール文明の末裔である」というトンデモ説を唱えていた.
 会員数3000名を数えたが,1944(昭和19)年2月23日解散.

 また,以下は,構成メンバーがそれぞれ入り組み,友誼団体と見ることができる.

1 スメラ学塾(昭和15年5月創立.塾頭末次信正海軍大将)
2 1の女性文化部・音楽文化部(三浦環,原智恵子)
3 財団法人日本世界文化復興会(昭和17年創立.会長宇垣一成,副会長藤山愛一郎)
4 陸海軍の戦史研究者(高嶋辰彦陸軍大佐,富岡定俊海軍大佐)
5 財団法人皇戦会(昭和14年創立.代表者仲小路彰)
6 パリからの避難外国人(ル・コルビュジエ建築事務所ペリアン女史,ハンガリーの写真家ハール
7 ナチスドイツ文化使節(キール大学心理学教授デュルクハイム伯爵)
8 フランス留学者ら(山田吉彦(きだみのる),川添紫郎,井上清一,丸山熊雄)
9 文部省国民精神文化研究所研究員(小島威彦,志田延義,吉田三郎,堀一郎)
10 若手建築家(丹下健三,浜口隆一)
11 新官僚奥村喜和男率いるグループ

 ちなみに,この俗説の横行を嫌った,シュメル学の先達であった中原与茂九郎(京都大学名誉教授)は,混同されないように音引きを入れ,「シュメール」と表記し始め,以後,日本ではアッカド語の原音に近い表記である「シュメル」ではなく,「シュメール」と「長音記号」を入れて表記されるようになったとさ.

 【参考ページ】
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%E1%A5%E9%B3%D8%BD%CE
http://majinnnn.jugem.jp/(信者らしい人のブログ)
http://55096962.at.webry.info/201001/article_15.html
http://sekiyann.diarynote.jp/200708171258390000/

【ぐんじさんぎょう】, 2013/08/14 20:00
を加筆改修


 【質問】
 小島威彦(こじま・たけひこ)って誰?

 【回答】
 ハイデッガー派の哲学者であり,スメラ学塾の中心人物の一人.

 1903年,神戸市生まれ.
 熊本の五高を経て,東京帝大に入学するが,西田幾多郎に魅せられ,大正十四年に京都帝大へ移る.[1]
 1928年,京都帝国大学文学部哲学科卒業.
 1930年,同大学院修了.
 1932年,中華民国に留学,
 1936年,英国,フランス,ドイツに学ぶ.
 1938年,国民精神文化研究所所員となり,以降,右翼思想を喧伝,スメラ学塾を主催し,仲小路彰,藤澤親雄らとユダヤ人排撃を主張する.
 その思想はどんなものであったかというと,たとえば,ご覧の通り.

------------
 斯の如き世界学派としての日本神道は,もとペルシア帝国の崩壊後,古代的民族移動の南北世界史通路の激動に応ぜる原始仏教,原始儒教と並んで,最も優れて諸民族宗教の統一形態として成立したものであつた.
 それは南北通路の融合帰一として,仏教的天地開闢説と易経にみられる如き天地創造神話,或は道教や旧約にみられる如き宇宙論を,最も綜合的にして,最も現実的に構成したものである.
 天皇哲学は此処に世界学派として生誕したのであつた.
(p.199-200)

------------小島威彦『哲学的世界建設』(日本問題研究所,1938.10.10)[1]

 1955年,米国,ヨーロッパ遊学.
 1956年,国際哲学研究会常任理事.
 学者,政界,財界,大学人から成る「国際哲学研究会」は,小島自身が,旧幕臣の三男という出自による人間関係を活かして設立したもので,小島は外国の著名学者の招聘や研究会の組織作りを進めようと,京大哲学科の先輩であり,当時,学習院大学の教授を務めていた三宅剛一に,その「会長」就任を要請したが,断られている.[2]
 1964年,明星大学教授
 1974年,定年退任,名誉教授.

 戦後は哲学書の翻訳を主としたが,最晩年,自伝的著作『百年目にあけた玉手箱』で,戦時中のことを記した.

 【参考ページ】
[1]http://aishoren.exblog.jp/6761030/
[2]http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/1327/1/jinbun_7_137_231.pdf
[others]小島威彦 - Wikipedia

【ぐんじさんぎょう】, 2013/08/17 20:00
を加筆改修


 【質問】
 高嶋辰彦って誰?

 【回答】
 日本陸軍戦史研究課長で,元ドイツ駐在武官.[1]
 「百年戦争史論」で名を知られた孫子研究家であり[7],統制派に属さず,石原莞爾や皇道派に近かった.[2]
 また,戦史研究特別室といったサロンを設け,哲学者・小島威彦らと同伴し,戦争文化研究所,世界創造社,スメラ学塾にも寄り添った.[2]
 1937.11.20 大本営参謀[5]
 1938.7.15 参本部員[5]
 同年11月,小牧実繁に地政学研究を依頼し,これ以後,綜合地理研究会は,高嶋が設置した「国防研究室」(総力戦研究所の前身)の外郭団体と位置づけられ,皇戦会や昭和通商からの資金提供の下,総力戦研究の一翼を担うことになる.[10]
 1939.3.9 参本戦史課長[5]
 1940.5.9 兼陸大教官[5]
 同年,中野学校の伊藤少佐が教え子を使い,神戸英国領事館焼き討ちを企て,未遂逮捕されるという事件があった(神戸事件)が,当時の憲兵司令官だった平林中将は,高嶋辰彦が裏で糸を引いているという噂が,当時あったことを記している.[8]
 1940.12.2 台歩1連隊長[5]
 1941.10.15 参謀本部付.[5] 戦争指導班にいた模様.[6]
 1941.11.5 第16軍高級参謀[5]
 1942.4.24 公主嶺校教官[5]
 1943.3.11 第3軍参謀長[5]
 1944.5.10([5]では12.16) 東日本(関東甲信越および伊豆七島)の防衛任務に当る東部軍の参謀副長に就任.[4]
 1945.2.1,東部軍の後身,第12方面軍の参謀副長に就任.[3]
 1945.3.1,同参謀長に.[3]
 1945.8.15,司令官・田中静萱大将が自決したため,高嶋が司令官代行となる.[9]

 戦後の昭和25年頃,米極東軍司令官(マッカーサー)の隷下に入り,朝鮮半島で戦うという「日本人義勇軍」計画の中心人物の一人に.[2]
 これは朝鮮戦争での米軍勝利を見越して,帝国陸軍を再建しようとするものであった.[2]

 【参考ページ】
[1]http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20110907/1315321275
[2]http://ww1-danro.com/sinojapanesewar/1950coup.html
[3]第12方面軍 (日本軍) - Wikipedia
[4]東部軍 (日本軍) - Wikipedia
[5]http://www.nids.go.jp/military_archives/news/pdf/sensi_news_52.pdf
[6]http://mokuou.blogspot.jp/2009/04/13193816.html
[7]http://wind.ap.teacup.com/dokudanba/292.html
[8]http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/51387683.html
[9]http://www.marino.ne.jp/~rendaico/toshi/nihonkiyosanto_nokenkiyu_toshi_3_2.htm
[10]http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/yamataka/kobo_kekka06.htm

【ぐんじさんぎょう】, 2013/08/16 20:00
を加筆改修


 【質問】
 財団法人「皇戦会」って何?

 【回答】
 日本陸軍きっての「不思議ちゃん」,高嶋辰彦が昭和15年5月に設立した財団法人で,「広範な人々に,国防学研究の必要を訴え,啓蒙の成果を上げるため」というのがその目的.[1]
 会長は,当時の靖国神社宮司・鈴木孝雄大将.[1]
 代表は仲小路彰.
 顧問は平沼騏一郎首相,荒木貞夫文部大臣,柳川平助興亜院総務長官など.[1]

 ただし「国防学研究」といっても,高嶋の思想は「皇戦」思想なるもので,彼の著書『日本百年戦争宣言』に曰く,

------------
 所謂東亜の再建,アジアの復興は即ち同時に混濁を極むる近世を転換して,我が皇道に即する新しき世界の創造を意味するものなることを覚悟しなければならぬ.
 蓋し,近世に覇たる西欧の繁栄は,アジアよりの搾取に依って培はれ,その世界制覇は東洋植民地侵略によって成ったが故である.
 即ち支那事変の解決は,同時に史代的世界転換を結果する物でなければならぬ.
 これがため,万民悉くそのすべてを天皇に提げ帰一し奉る戦こそ,筆者の力説する皇道総力戦即ち皇戦なのである.

[中略]

 速やかに近世自由主義の鉄鎖を断つだけではなく,日本を枢軸とする新世界創造の理念を確立すべきだと主張した.
 帝国主義外交とは異なる,人類の文明転換という崇高な理念を示せと言うのだ.
 つまり,高嶋の信ずる百年戦争の最終目標とは,近世の文明を転換し,新しい世界を創造することであり,そのために,全世界に対する総力戦争の遂行と,内においては皇道真日本の完成に努力すべきだと主張し,この構想実現のための最大の急務は「総合大武力の整備と,新世界を創造すべき皇道文化体系の建設」だと書いた.

-------------『月刊日本』,2011年7月号,p.90

というオカルト寄りの代物.

 活動内容としては,例えば昭和14年9月,京都の丸物百貨店で皇戦展覧会を開催.
 また,京都大学地理学教室関係者の構成する「綜合地理研究会」とも関係を結び,研究会に対して研究費を支給するなどしている.[2]
 日本地政学のリーダー小牧實繁と,陸軍,皇戦会を結びつけたのは,川上健三とされている.[3]

 一方,高嶋辰彦は昭和15年12月,参謀本部から台湾歩兵第一連隊長として海南島に赴任することとなり,結果的に皇戦会の活動から離れてしまうこととなった.[2]
 出世街道を外れてしまった高嶋だが,彼が唱えた「皇道総力戦」は,戦争末期の「総力戦」に関し,陸軍首脳部に少なからず影響を与えた模様.[ただし要クロスチェック]

 なお,高松宮は,日本世界文化復興会の名誉総裁であった関係から,『高松宮日記』には,「皇戦会」メンバーもしばしば登場する.[4]

 【参考ページ】
[1]しいまんづ雑記旧録 今田新太郎も気になる.43 不思議ちゃん・高嶋辰彦その2
[2]http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter8/pdf/n8_all.pdf
[3]http://d.hatena.ne.jp/jyunku/200605
[4]http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20060528/p1

【ぐんじさんぎょう】, 2013/11/07 20:00
を加筆改修


 【質問】
 仲小路彰(なかしょうじ・あきら)って誰?

 【回答】
 明治34年,東京生まれ.
 仲小路廉(第3次桂・寺内両内閣の農商務大臣)の次男.
 大正6年,第五高等学校入学.
 旧制五高の同窓には,池田勇人,佐藤栄作がおり,栄作とは生涯親交を結んだという.
 大正13年,東京帝国大学文学部哲学科卒.
 大正11年,東京帝大在学中に,長編戯曲「砂漠の光」を新光社より刊行.
 卒業後,春陽堂編集者に.
 国際文化研究所,プロレタリア科学研究所所員を経て,科学文化アカデミーを設立.
 昭和12〜16年にかけて,「世界史話大成」全10巻,「日本世界主義大系」全12巻を刊行.
 昭和13〜18年にかけて, 「世界興廃大戦史」 全121巻中43巻を刊行.
 仲小路によれば,戦争と文化が対立概念ではなく,戦争は「歴史社会の矛盾や混乱を超克する最も先鋭的な歴史的行動」で,それが新たな文化の誕生につながる.
 その歴史文化の構造を戦争文化と呼び,そうした戦争文化の構造的概念を展開したのが,「世界興廃大戦史」であった.
 昭和14年,国粋主義団体「スメラ学塾」設立.
 昭和16年,(財)日本世界文化復興会(終戦後,文化建設会と改称)を設立.
 戦後,GHQにより公職追放
 昭和21年,渋沢敬三・川添浩史等と(財)文化建設会の地球文化研究所設立.
 昭和22年,恒久平和確立のために資本主義と共産主義を克服する地球主義(グローバリズム)を提唱.
 昭和25〜26年, 「地球の平和」 刊行.
 昭和31〜34年にかけて, 「ロシア大革命史』 全12巻刊行.
 昭和43年, 「未来学原論』 刊行.
 昭和59年9月1日死去.

 余談だが,wikipediaにおける仲小路彰についての記述(2013.8.4アクセス)は,彼の暗部が一切書かれておらず,些か異様に感じる.

 【参考ページ】
http://www.amazon.co.jp/dp/4336052425
http://www.kokusho.co.jp/catalog/9784336052469.pdf
http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20110810/1312902114

 【関連リンク】
http://ci.nii.ac.jp/naid/40018999154

【ぐんじさんぎょう】, 2013/08/15 20:00
を加筆改修


 【質問】
 財団法人「日本世界文化復興会」って何?

 【回答】
 仲小路彰によって,1941年に設立された財団法人.
 小島威彦の回想によれば,設立の経緯は以下の通り.

------------
 仲小路さんは,この新たな世界像の現実的問題の鋳造所として,各領域のエリート交流のクラブ設立を提案した.
 僕はたまたま,ナチスが蒐集したイギリスの重要クラブの組織研究の資料をもっていたので,久原房之助にはかり,日本商工会議所会頭藤原愛一郎と三井鉱山社長三井高陽に,その設立を相談した.
 ここに三菱,三井,住友がそれぞれ五十万円,個人として藤山愛一郎が三十万円,鈴木由郎が十五万円を醵出し,総額三百万円の財団法人「日本世界文化復興会」が発足することになった.
 会長に宇垣一成,副会長に藤山愛一郎,理事長に荒川昌二,監事に深尾隆太郎,評議員に石坂泰三,郷古潔,向井忠晴,渋沢敬三,船田一雄,三井高陽,西春彦,岸信介,内田祥三らが,顧問に鮎川義介,小倉正恒,久原房之助,末次信正,藤原銀次郎,松本健二郎,米内光政,伍堂卓雄らが名を連ね,その本拠として暫定的に仲小路邸が提供され,常任理事として建築家坂倉準三と僕が務めることになった.
------------

 戦後,財団法人「文化建設会」と改称.
 この「文化建設会」の中に昭和21年,仲小路は渋沢敬三・川添浩史等と共に,地球文化研究所を設立している.
 現在も同法人の活動は存続している模様.
(ちょっとびっくり)

 なお,日本世界文化復興会の名誉総裁は,高松宮であった.
 『高松宮日記』には,「クラブ・シュメール」メンバーがしばしば登場する.

 【参考ページ】
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20060520
http://www.kokusho.co.jp/catalog/九七84336052469.pdf
http://www.kodomo.gr.jp/cb/0110_02.html
http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20060528/p1

【ぐんじさんぎょう】, 2013/11/06 20:00
を加筆改修


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