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8世紀まで
<戦史FAQ目次

◆総記
【質問】
世界史上,一勢力によって最大の版図を治めたのはどの国家・勢力ですか?
本国・植民地・実質上の領域,すべてを含めたものでお願いします.
【回答】
過去の巨大帝国の面積や,都市人口の推定
第1位 大英帝国 35,500,000 km2 (1920年)
第2位 モンゴル 24,000,000 km2 (1309年)
第3位 ロシア/ソ連 22,800,000 km2 (1895年)
第4位 清/中国 14,700,000 km2 (1790年)
第5位 スペイン 13,700,000 km2 (1780年)
第6位 フランス 11,500,000 km2 (1946年)
第7位 イスラム 11,000,000 km2 (720年)
第8位 アメリカ 9,670,000 km2 (1899年)
第9位 匈奴 9,000,000 km2 (紀元前176年)
第10位 ポルトガル/ブラジル帝国 8,510,000
km2 (1889年)
第11位 漢 6,500,000 km2 (100年)
明 6,500,000 km2 (1450年)
第13位 突厥 6,000,000 km2 (557年)
第14位 アケメネス朝 5,500,000 km2 (紀元前500年)
第15位 唐 5,400,000 km2 (715年)
第16位 オスマン朝 5,200,000 km2 (1683年)
マケドニア 5,200,000 km2 (紀元前323年)
第18位 ローマ 5,000,000 km2 (117年)
第19位 吐蕃 4,600,000 km2 (800年)
第20位 ティムール 4,400,000 km2 (1405年)
やっぱり大英帝国らしいね.
◆紀元前
【質問】
日本人のルーツは?
【回答】
NHKの「我々はどこからきたのか」での研究結果,日本人のDNAサンプル取りまくって世界中にルーツを求めた末に出た結論.
なんとマンモスを追ってユーラシア大陸を横断してしまった民族が日本人のルーツ.
DNAの5割ほどという痕跡を残してる.寒さに対応するため,目は細く,省エネ型の小さな体になった大きな要因.
そして,日本列島の近畿までその民族が制圧して,南からあがってきたのは,今の中国福健省とかあるあたりの海岸周辺の民族.海を渡って「直接」入ってきた.潮の流れに助けられたらしい.
で,彼らはユーラシアからきた連中より体が大きく,一気に列島を北上し近畿あたりで拮抗した.
彼らのDNAが4割.
その後,稲作の技術などが鍵になって劇的に混血が始まった.
今は南北均等に血が混じり,ユーラシア系と中国南部系だけで90%は構成されている.
残りの10%はインドネシア系等のさまざまなDNA,
今の朝鮮半島のDNAと似たものが5%ほどだそうだ.
【質問】
世界最古の戦争は?
【回答】
不明ではありますが,文明世界の最も初期の頃から戦争の記録,伝説があります.
最初期の戦争は記録の不備からよくわかっていないとはいえ,戦争によって殺害されたと見られる人骨は石器時代から出土していますし,紀元前25世紀頃には,ウンマとラガシュの戦争が比較的詳細に記録されて残っています(現存世界最古の徴兵記録含む.『シュメル』小林登志子著・中公新書等を参照)
また,BC1700頃〜1325には,ヒッタイト Hittit
のアナトリア征服が行われています.
その次に,フルリ人の征服事業がBC1700頃〜1500頃に行われ(セム人を追放した),
ヒクソスのエジプト侵入がBC1674頃〜1325年頃に実施され,
ヒッタイト・フルリ戦争がBC1620頃〜1325年頃に起き,
BC1469年の第一次メギドの戦い,と続きます.
トロイア戦争は,BC1200年頃なので,更に200年下ります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
古代メソポタミア・エジプト・ギリシアなどにて戦闘に使われていた投石(機械ではなく人力の)とはどのようなものでしょうか?
【回答】
ダビデが使ったと言う『石投げ紐』じゃないのかな?
ミケランジェロのダビデ像が肩に担いでいるアレ.
これは,紐の真中に石を包むようにおいて,紐の両端を持ってぐるぐる回し,目標に向かって放るときに紐の片方だけ手から離す.
すると石は目標に飛んでいき,石投げ紐は手元に残り,次弾を装填,という使い方.
ちなみに,人間が普通に石を投げるだけでも結構威力は大きい.
投石兵という兵科が戦国日本あたりまで大真面目に残っていたほど.
鍛えた人間が振りかぶって投げる石というのは,意外と人を怯えさせるし,殺しもする.
ピサロがインカ帝国を攻略したとき,インカ帝国の主兵力も投石部隊だったが,そんな原始的な連中だから負けたのかというとそんなことでもなく
,火縄銃があっても数の差で壊滅させられかねない,危険な相手だった.
余談だが,インカが負けたのはヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘のせい.
そのため,戦争を始める前に既に社会がガタガタになってたのがかなり大きい.
仮にピサロが負けても,じきに次の征服者にやられていただろうと思われ(あんま関係ないけど)
投石


(朝目新聞より引用)
【質問】
密集隊形はファランクスが最初?
【回答】
対騎兵を問わないで密集隊形の名前としては、ファランクスの前身となった「エリン」が最初。
後に「ファランクス」、「サリッサ」といわれる槍を使った。
ファランクスが発展して「マニプル・レギオン」となる。これが紀元4世紀。
次に密集隊形が登場するのは,14世紀のスイス戦闘団。これは対騎兵戦術としても使用される。この戦術の固有名詞はなかったと思う。
13〜14世紀のスコットランドにおける長槍方陣は,シルトロン(Schiltron)と呼ばれていた模様.
これはイングランドの文献では「盾円陣(Shield
Circle)」と記述されていたようだ.
後には,「テルシオ」と呼ばれる槍銃混成の方陣がある。
他にもマウリッツ型、グスタフアドルフ型の槍銃混成の方陣があるけど、これらも発明者の名前を取っただけで固有名詞はなかったと思う。

【質問】
なぜ古代ギリシャは古代ローマ帝国のような,一つの強力な国家とはならなかったのですか?
【回答】
古代ギリシャでは武装は自弁だったので,まず何よりも自分の命が大事だった.
アジアと違い人口が密集せず,強大な王権が成り立たなかった.
ために片っ端から徴兵することが出来なかったし,動員兵力も大違い.
王の命令で何千何万もの大軍を突撃させるって戦争が出来なかった.
あとは伝統でそのまんまローマ時代をすごすことに.
軍事板
【質問】
本場モンの「スパルタ式」は,どんな感じ?
【回答】
超絶軍事国家,スパルタの事実!
・合言葉は「盾を持って帰るか(勝利) 盾に乗って帰るか(負傷
or 戦死)」
・墓石に名が刻まれるのは戦死した男と,出産で死んだ女のみ!
・赤子は一定期間「神聖の丘」に放置して生き残ったもののみ育てる.
・虚弱であると判断された赤子は,山奥の洞穴へポイ!
・男は7歳で共同生活を開始.
・共同生活で厳しい軍事訓練を受ける.
・忍耐力をつける訓練の一環として,鞭打ちがある.
・12歳になると全裸で訓練. 沐浴も禁止.
・18歳前後になると卒業試験として,一人で農奴を襲い,殺す.
・質実剛健なんで,貴金属の宝飾品は禁止.
・戦場で卑怯な態度をとると髭を半分剃られ,家族を含め社会から排除.
・スパルタでは祭祀行事が重要視され,祭祀日には戦争を止めた.
・スパルタが戦争を止めると,他国の軍隊っも喜んで戦争を止めた.
・60歳になると,退役.
云ってしまうと,この時期のギリシャ圏の軍隊の兵士ってば,普段は商売やら職人をやってる人たちだから,こんなガチの職業軍人どもと戦って勝てませんわなぁ〜
そら〜300人で100万のペルシア軍を向え撃ちますわ (w`;
ベタ藤原 in mixi,2007年06月09日07:39
なお,ソースは『ヒストリー・チャンネル』からです.
ベタ藤原 by mail
【質問】
スパルタは何故,軍事偏重の国家を維持できたのか?
【回答】
奴隷制度のおかげ.
スパルタは前9世紀から前8世紀にかけ,周辺諸民族を支配下に置き,その多くを奴隷(ヘロット)にしていた.
スパルタ人は奴隷の反乱を非常に恐れ,敵よりも,奴隷に武器を奪われるほうを警戒していた.
詳しくは『ギリシア軍の歴史』(ピーター・コノリー他著,東京書籍,1989.6.30),p.26
& 53を参照されたし.
だから,どうもスパルタを称える気にはなれないんだよね.
【質問】
スパルタ軍の編制は?
【回答】
36人で1エノモタイア(縦隊)を編成.
2縦隊で「ペンタコスト」(72人)を編成.
2ペンタコストで1ロコスを編成.
4ロコスで1モーラ(師団)を編成.
この師団をポレマルク(軍司令官)が指揮.
スパルタには,この師団が6個あった.
なお,初期にはペンタコストは2つの50人隊から成っていたが,スパルタの人口は減少を続けたので,部隊規模を縮小させざるをえなくなって2エノモタイアになったとか.
そりゃあ,あんな育児制度じゃ人口減るよなあ…….
詳しくは『ギリシア軍の歴史』(ピーター・コノリー他著,東京書籍,1989.6.30),p.27を参照されたし.
【質問】
スパルタ軍の装備は?
【回答】
コリント式兜に布製胴鎧.膝上までの脛当て.青銅製の円形盾.
2〜3mの長槍.
60cmの短剣.
詳しくは『ギリシア軍の歴史』(ピーター・コノリー他著,東京書籍,1989.6.30)を参照されたし.
【質問】
ギリシャ戦争での前480年のテルモピレー
Thermopulae の戦いで,レオニダス Leonidas 率いるスパルタ軍300人がテルモピレーで数日間ペルシャ大軍を足止めしたというのは有名だけど,具体的にどうやって足止めしたんです?
【回答】
戦ったんだ.一生懸命に.
一本の道しかないテルモピレーに陣取ったんだ.
一応ギリシアの陸上兵力1万ほどが集結し,狭隘に砦を築き(以前から砦はあったらしい),ペルシアが攻め寄せてきたら必要な人数だけ討って出て潰し,疲れたら残りの人員と交代したんだ.
また,どうもペルシア軍よりも,ギリシア連合軍(スパルタ軍だけじゃないよ)の槍のほうが少し長かったらしい.
そうすると迂回できないペルシャ軍はどうにも抜けなかったらしい.2日間も.
ちなみに海上では,ギリシア艦隊がペルシャ艦隊を翻弄して,海上による迂回を許さなかった.
結局,ギリシア側に裏切り者が出て,テルモピレーの後方に迂回する山抜けの小道を教えたんだ.
3日目の朝,包囲されかかったことに気付いた,ギリシア軍の司令官 スパルタ王レオニダスは,スパルタ300人,テスピアイ700人,テーバイ400人を残して,残りのギリシア軍を急遽後退させたんだ.
そして,そのしんがりは,伝令に出した一人を除いて全員戦死したんだ.
壮烈
(名無史さん&例の170 ◆vBOFA0jTOg(一部補足) in 世界史板)
【質問】
テルモピュライの戦いにおいて,なぜペルシャ軍は少数の敵に苦戦したのか?
【回答】
スパルタ兵は重装歩兵だったが,ペルシャ軍は広大な領土の各地を機動できるようにするため,軽装だった.
また,狭い道だったので,大軍で攻めても,正面に出せる兵力は限られた.
それにそもそも,当時のあのへんで,職業軍人と言えるのはスパルタ人ぐらいだったので,練度が格段に違っていた.
【質問】
アテネがスパルタに負けたあとすぐに復活したのは何故ですか?
ギリシア世界では戦争で負けたら滅ぼされるイメージがあるのですが.
【回答】
ギリシア世界では総戦闘員のうち一割程度の被害が出れば勝敗は決していた,との試算がある.
加えて,おおよその国境間での領土争いや収穫物略奪がメインだから,後追いも殆どしない.
また,ポリスがポリスを呑み込む場合は,執政官を派遣するなど政治的手段が主にとられた.アテナイのヘレノタミアイやアンフィクテュオネス派遣なんかはいい例.
結果として一度の戦争で壊滅的被害を被ることはないし,都市域に専門職としての戦闘員の数倍も奴隷が居住するようなポリスを無理して完全に叩き潰すことも意味がないから,まずしない.
【質問】
スパルタの不敗神話はいつまで続いたのか?
【回答】
BC390年,アテナイのイフィクラテス将軍が,スパルタ軍の1個師団を壊滅させるまで.
イフィクラテスはこのとき,よく訓練され,統率されたベルタ歩兵と呼ばれる軽装歩兵部隊を率いた.
この部隊は鎧も兜も身につけず,武器は投槍だった.
イフィクラテスの勝利は,ファランクス戦法が唯一絶対の戦術ではないことを知らしめた.
詳しくは『ギリシア軍の歴史』(ピーター・コノリー他著,東京書籍,1989.6.30),p.50を参照されたし.
【質問】
アケメネス朝ペルシアに対するバビロンの反乱について教えてください.
【回答】
古代のアラビアでの話.
あるとき,バビロンがペルシアに対して反乱を起こした.
怒ったペルシアの王ダレイオス(在位BC521〜486)は全軍を率いて鎮圧に向かった.
しかし力で押そうが策略を用いようが,あまりにも強固に篭城に徹するバビロンは陥落する素振りすら見せない.
それもそのはず.反乱を起こしたとき,バビロンの人々は食料の浪費を防ぎ覚悟を固めるため,自分の母親と妻の内一人をのぞく全ての女を「あらかじめ殺していた」のである.
そこでダレイオスの側近ゾピュロスが「自分の耳と鼻を削ぎ落とし,笞で打たせて血みどろになった」上で献策した.
王から与えられた仕打ちに耐えかねた裏切り者を自ら演じようというのである.
ダレイオスはゾピュロスが功績を積みバビロンの内部で重用されるように,自軍の兵士をわざと無謀な状況にして攻め込ませ,「ゾピュロスに7千人の同胞を虐殺させた」.
ゾピュロスの活躍に沸き上がったバビロンは,彼を城壁防衛の責任者に任じてしまう.
こうしてバビロンの反乱は鎮圧させた.
【質問】
古代ギリシアの無産市民は財産がない市民だと思うのですが、共和制ローマのときの無産市民は仕事も何もしてなかったのですか?
その後,傭兵になる者も多かったようですが、ずっと仕事しないでいようとした者はいたのでしょうか?
【回答】
なにか混乱しているように思えるのだが、ギリシャとローマで「無産市民」の定義に大きな違いはないよ。
別に無職の失業者が「無産市民」ではなく、職はあっても財産がなく、生産手段を所有していない市民が無産市民なんだな。
もともと、ローマもギリシャと同様の都市国家で、共に戦士共同体国家を基本理念としていたから、特に共和政ローマとギリシャは似ている。
どちらも軍隊を構成するのは装備を自弁し、従軍する市民達で、その戦士である市民達が主権者として政治的な発言力を有していた。
戦闘に参加できない女性や子供、そして甲冑や武器を自弁できず、土地や奴隷などの生産手段を所有していない「無産市民」は従軍できないことから、政治参加ができなかった。
で、ギリシャでは対ペルシャ戦争で、無産市民達がガレー船の漕ぎ手として参戦して国防上重要な役割を果たしたことから、無産市民の政治参加が実現するようになる。
一方、ローマでは拡張する軍を支えるために、装備を国家が支給し、軍役を勤め上げれば生活保障を与えるという条件で無産市民から志願兵を募るようになる。
無産市民でも、ローマ市民が従軍すれば、それは軍団兵であって傭兵ではない。
また、ローマはギリシャよりも豊かで、ローマ市民は政治的な影響力を持っていたため、市民であることだけで特権的に無償で「パンとサーカス」の供給を受けるようになったことから、働こうとしない無産市民というのも存在はしたようだが、それは軍務とは別の話だな。
【質問】
古代ローマでの軍団って,どのような規模の集団を指すのか教えて!
【回答】
軍団は,複数のコホルスから編成された戦略単位です.
共和国時代は10000+10000人程度,マリウスの改革以降は〜6000人です.
百人隊が2個でマニプレスが構成され,複数のマニプレスでコホルスが組み上げられます.
【質問】
ローマ軍の給与はどんなものだったのですか?
【回答】
共和政期を指しているか,帝政期を指しているかよく分からないので,あえて元首制期限定で話をさせてもらいますが,
退役時のボーナスが物品で支給されたという例は私は知らないですね。
賜金は何かの慶事の折に現金で払われたもので,退役時にはあくまで土地か金+給与天引きの強制貯金の払い戻しだったと。(それとも伸びに伸びた賜金が退役時に払われたとする解釈か?)
なぜ,退役時のボーナスは無いかというと,退役が年限に達した人物に対して行われ,プリム・ピルスの様に年限が延長される例もあるため,大隊以上の規模になるということが無かったためではないかと推測します。
軍団兵のボーナス的食事をどうするかは部隊長の職掌の範囲内の事で,確かサトゥルヌス祭を迎えるにあたってトゥングリ第1の隊長が奴隷に対して,どう見ても宴会用の食事の材料を買い付けてくるように指示を発している手紙が見つかっていますね。
それによると,肉と卵は買い付けて,りんごは場合によっては備蓄品を使う腹積もりのように読めます……
【質問】
サラリーマンのサラリー(salary給料)って,古代ローマで兵士に与えた塩代(あるいは塩そのもの)が語源?
【回答】
どうもそう簡単にはいかないようです.
[quote]
…英語のsalaryの語源はラテン語のsalariumである.
salariumという単語がsal〈塩〉という単語の派生語であることは,形態上,確実である.
しかしだからといって「古代ローマでは兵士に給与として塩が与えられた」といったたぐいの,時に新聞などでお目にかかる訳知り顔の説明は困ったことである.
salariumの意味は,残された古典ラテン語の用例から判断する限り,
「文官・武官をとわず,ある程度の地位を得ている(したがって兵卒ではない)者に対して,定期的に支払われる金銭」
である.
なぜその金銭が「塩」に由来する名称を得たのかは,もはや文献的・歴史的に確定できない.
実際に兵卒に塩が配られた事例を,私は読んだことがない.
もちろんsalariumの語源が「塩」にあることは否定しようがないから,文献が残る以前の昔に,塩の現物支給があったかもしれないが,しかし想像はあくまで想像でしかない.
むしろそうではなくて,「塩代」とでも婉曲にいったのかもしれないのである.
いずれにせよ文献上,「給料」をもらえたのは兵卒なんかではない.
語源は歴史的事実を必ずしも明らかにはしない,と肝に銘じておいたほうがよい.
―――逸見喜一郎著『ラテン語のはなし』(大修館書店,2000.12),pp.73-74
[/quote]
つまり,文献学的に確認できる用例では既に金銭の意味であって,塩との関連は不明の模様.
また,文武を問わない点でも「兵士」の給料が起源とはならない.
兵士という限定を取ってしまえば,誤りと言うほどでは無くなるかな.
【質問】
ケルト人がバルカン半島に侵入したのはいつ頃?
【回答】
ケルト族(ダルタニ族)がバルカン(サヴァ川流域)に初めて侵入したのはBC4C前半
ギリシャ,アナトリアに侵入したのに関しては
BC298年キンバウレスに率いられマケドニア侵入
BC281年ボルギオスに率いられマケドニア侵入
BC281年ケレトレオスに率いられトラキア侵入
BC279年ブレンノスとアキコリオスに率いられギリシャ本土に侵入
BC279年レオノリオスとルタリオス(レオタリオス)に率いられアナトリアに侵入
前四世紀頃に中央ヨーロッパに栄えていたラウジッツ文化の担い手がゲルマンでは無く西スラヴであるという説もある.
「クリミアの最初の住人はケルト族のシメニア人であったが,紀元前7世紀の間に,スキタイ人によって追い払われた.彼らは,山岳部に避難し,のちにタウリ人として知られるようになった」
という説もあるが,これは疑わしい.
BC7Cのケルト族はハルシュタット文化C期の時代で,その所在は従来の学説を基にすると現在の南独,オーストリア,スイス,チェコ,あたりであり,クリミアどころかカルパチア山脈より東に行ったことはこの時代では考えられない.
むしろケルト人は現在のフランス,スペイン,イギリス,アイルランド,北イタリアなど,主に西方へ移動している.
【質問】
第二次ポエニ戦争(BC219〜201)時の,ローマの最大動員可能兵力を教えてください.
【回答】
長谷川氏の書物曰く,第二次ポエニ戦争時の自由人の総人口は275万人.
全イタリアの成人男子は90万人弱.46歳までの武装可能なローマ人は30万強〜40万弱
【質問】
第二次ポエニ戦争では,ローマ軍は騎兵を中心としたパルティア軍との戦闘を苦手としていましたが,なんでローマ軍も騎兵を中心とした部隊で対抗しなかったのですか?
【回答】
ローマ軍は守勢な立つ帝政後期まで,決戦兵科は歩兵で騎兵は補助兵科のままだったから.
局地的には有効な場合があったとしても,紀元前後の弓の威力では重装歩兵を圧倒するのは無理だったし,象兵も騎兵も接近戦だと,訓練された重装歩兵の槍にかなわなかったと思う.
モンゴル騎兵の弓があれば,話は違ってくると思うが.
ローマ騎兵

【質問】
紀元前216年のカンネの戦いで、ローマ軍の三段重歩兵蹴散らした,カルタゴ、ハンニバル戦象軍ってどんな装備してたの?
映画や絵画、本などでは、象の鞍に盾をつくり弓兵が数人いたり,象にも鎧を着せ長槍を持った兵士がいたり、マチマチなんだが.
当時のカルタゴ兵の正確な装備文献も見つからないんだが.
【回答】
英文のHPですが、参考になるでしょうか?
http://www.barca.fsnet.co.uk/elephants.htm
軍事板
ちなみに,カンナエの戦いにおいては,ハンニバルの率いたカルタゴ軍中に,戦象はおりませんでした.
カルタゴの戦象部隊は,第1次,第2次ポエニ戦争の随所で破壊力を発揮してはいますが,象の統制が難しく,暴走して味方部隊を踏みつぶしたり,あるいは突撃をスカされて行き場を失ったところで分断・各個撃破されたりと,いいところのない局面も多々ありました(ザマの会戦などもそうでした).
ハンニバルがイタリア半島を目指した段階では,確かに彼の率いる軍中には確かに幾許かの戦象もいたんですが・・・.
ガリアの森の中,そして極寒のアルプス越えという厳しい行軍の最中に,当初は敵対的だったガリア諸族のゲリラ的な攻撃をハンニバル軍は受けています.
図体のでかい戦象には不向きの森林,山岳の戦いのうちに戦象はどんどん失われ,さらにアルプス越えに耐えられず・・・
イタリア半島にハンニバル軍が現れた時には,一頭も残っておりませんでした.
カンナエ(というか,一連のイタリア半島)におけるハンニバルの勝利は,強力なヌミディア,ガリア騎兵の貢献するところが大であり,何より,騎兵という高機動兵力を使った包囲戦を発想したハンニバルの将才に帰せられるものです.
カンネーの戦い

【質問】
カルタゴのハンニバル将軍はアフリカから連れてきた象で,アルプス山脈を越えてローマに攻め入ったそうですが,象って雪山を踏破できるの?
【回答】
「ローマの歴史家リヴィウスの記述に基づくハンニバルの行程」
http://www.livius.org/ha-hd/hannibal/alps.html
を読めば分かるとおり,アルプス越えの道はあったし,象が通れないところは歩兵が道を開いた.
それでも山岳民族の襲撃や地すべり,降雪などにより,象も含めてハンニバルの軍勢はアルプスを越えるだけで大損害を蒙っている.
特に象は,ハンニバルに不信感を持っていた山岳系ガリア人の襲撃や,狭隘で峻険な山道からの転落などによって,ほとんど全滅してる.
ハンニバルがイタリア半島に入ってからの圧倒的な戦果を支えたのは,ヌミディアや平地ガリアで雇い入れた,熟練度の高い騎兵.
ちなみにユリウス・カエサルの家名「カエサル」は,フェニキア語の「象」の意味という説がある.
先祖がポエニ戦争に参戦して北アフリカに行き,そこで見た象の大きさと強さに感銘を受けて家名にしたといわれているそうだ.
戦象(ハンニバル時代のものではないようだが,参考までに)

【珍説】
ローマ法は「万民法」と呼ばれていた.
それはローマ市民ではなく,初めから多民族の慣習に配慮を払った法律だったのだ!
ローマ帝国は,アメリカのように自国の正義・自国の価値を異民族に押しつけていくような,まずい平定の仕方はしなかったのだ!
(小林よしのり from "SAPIO" 2003/6/11, p.62)
【事実】
自国の正義・自国の価値を異民族に押しつけていくのは,確かにまずいやり方ですが,ローマ法も「初めから」多民族の慣習に配慮された,というものではありません.
この「万民法」とは,従来ローマ人にしか適用されないものだったローマ法を,外国人にも適用されるよう改訂された結果,そう呼ばれたに過ぎません.
当初,ローマの成文法典は,異民族への配慮など全く無関係のものでした.
最初のローマの成文法典は,BC450年頃,貴族と平民との階級闘争の結果として,習慣法を集積して制定された,いわゆる十二表法です.
この法典はローマ人から「公法私法の源泉」と称えられ,長く法の適用解釈の基準となります.
この法律は外国人には適用外でしたが,ローマが第2次ポエニ戦争(BC218-201)で勝利し,世界商業の中心地となると,この従来の市民法では対応できない法現象,特に商取引が続出します.
そこでこの不備を補完し,流動する現実に法を適合させたのが「万民法」なのです.
さらに212年,国内の全住民に原則としてローマ市民権が付与されると,市民法と万民法との対立は意味を失い,ローマ法は一体として諸民族に共通な,世界法的な色彩を持つに至ります.
小林が言うような「多民族の慣習に配慮を払った法律」になるのは,やっとこの時代からです.
これはローマ人の現実主義的気質の結果であり,「誇りのためなら国が滅んでもいい」など主張する小林とは対極にあると言えるでしょう.
なお,ローマ法についての詳細は,原田慶吉著「ローマ法」(有斐閣)を御覧ください.
【質問】
古代ローマ軍の鎧は何で出来てたんですか?
鉄ですか?
【回答】
●共和政時代
貧乏兵士→中央部だけ四角い鉄板で補強
裕福兵士→鉄の鎖帷子
●マリウスの兵制改革以後
全兵士の装備を統一、鉄の鎖帷子
将官は皮製か青銅製の胴鎧
●帝政期
百人隊長→金属製のうろこ状鎧
兵士→金属板を繋いだプレート・メイル
いずれも鉄か青銅
私兵→定まってない
詳しいことについてはこちらを見るのが良いと思われ。
http://www.loricasegmentata.org/
近年は歴史再現家が英国などにいるようで、市販もされているとの由。
http://blog.so-net.ne.jp/meichiku/2005-05-13

【質問】
ローマ皇帝って世襲?
【回答】
明確に世襲がない場合もあるけど,だいたいは世襲.
元々がローマ帝国の皇帝というのは,様々な役職の複合である臨時職という意識が強かったので,明確な帝位継承法がなかった.
極端な話,先帝の長男だったとしても,すんなり帝位につける保証はなかったわけだ.
だから,ローマ市内における唯一の軍事力である親衛隊という後ろ盾を歴代皇帝は必要としたし,皇帝の中には,自分が生きている間に息子を共同皇帝として即位させてしまうことで,実質的な世襲を行おうとした.
なので,一旦国が乱れたり,皇帝が横死したりすれば世襲がしにくい体制ではあったが,それでもなんとか世襲をしようとしてたわけだ.
キリスト教を受容した以降の皇帝はまた別.
ちなみに,全くと言っていいほど世襲がされなかったのは,ローマの皇帝ではなく,それよりはるか以前,ロムルスからタルクィニウスまでの7代のローマ王.
王政ローマの王は,立候補者を民会で選挙することで即位した.
先王の子供が王位を狙うことがあったが,原則7代目の王までは民会のシステムが機能したらしい.
◆アレクサンドロス大王遠征
【質問】
ソグドの武将スピタメンは,アレクサンドロス大王にどう抵抗したのか?
【回答】
最初はマラカンダを奪回するなど勇戦したが,徐々に尻すぼみ.
以下引用.
アレキサンドロス大王の遠征がアム・ダリヤを渡って,ソグド人の住んでいる地帯であるソグディアナに入ったのは紀元前329年のことである.
アレキサンドロス大王はそのとき27歳であった.
ソグディアナというのは,中央アジアのゼラフシャン川流域のオアシス地帯で,今日のサマルカンド,ブハラ一帯の地に当たる.
当時住民のソグド人達がいかなる生活をしていたかは分からないが,豊穣なゼラフシャン川流域のオアシスで,幾集団かに分かれて農業牧畜を営み,それぞれが小さい国を立てて,さらにそれらが集まって一つの連合国家の形をなしていたのではないかと思われる.
ソグド人はイラン系の種族であった.
アレキサンドロスはソグディアナの首都マラカンダを占領して,ここには守備隊を置き,主力はさらに東進してシル・ダリヤの岸に達し,ホージェント(今のレニナバード)の地にアレキサンドリヤ・エスタタという町を築いた.
〔略〕
アレキサンドロスは己が造った町を一巡し終わったとき,マラカンダから使者が派せられてきた.意外な報告であった.マラカンダの守備隊がソグド軍に包囲され,一兵残らず城から追い出されてしまったというのである.
攻撃軍の指揮者はスピタメンというソグドの武将であった.
アレキサンドロスは直ちにマラカンダに,メネデマを長とする救援軍を送り,アレキサンドロス自身はシル・ダリヤを越えて,天山山麓一帯の遊牧民の掃蕩に当たった.
アレキサンドロスは再び使者を得た.これまた意外な報告であった.マラカンダに派した救援軍は,途中でスピタメンの軍隊に襲われ,歩兵2千,騎兵3百が討たれ,殆ど全軍が壊滅してしまったということであった.
アレキサンドロスは,この敗報を外部に漏らした者は死刑にするという布告を出し,時を移さず自ら精鋭を率いてマラカンダに向かった.不敗の遠征軍が不覚にも受けた恥辱を,自らの手で濯ごうと思ったのである.
アレキサンドロスがマラカンダに達した時は,城は空っぽになっていた.
スピタメンは衝突を避けて城を捨て,遠く砂漠の地に退いたのであった.
が,スピタメンはそのままではいなかった.彼はマサゲト人を味方にし,騎馬の大部隊を組織して,再びソグディアナの地に侵入してきた.
アレキサンドロスは部下の一将軍をして迎え撃たせた.
ソグド人12万が殺され,多数の者が捕虜になった.
アレキサンドロスは,捕虜の中から敵ながら勇敢に戦った30人のソグド兵を引き出した.
勇者ではあったが斬らねばならなかった.その勇敢であったことを称えた上で,斬罪に処することを申し渡した.
すると,ソグド人達は些かも表情を変えず,それどころか,どこかに嬉嬉として悦ぶところがあるように見えた.
王は不審に思って,そのわけを問い質した.
ソグド人達は皆同じように答えた.
――アレキサンドロス大王といえば,今や世界に並ぶ者なき英雄である.その英雄の命によって死を与えられたのである.勇者としてこれ以上,満足なことはない.
アレクサンドロスは,これらのソグド人達を斬首することを思い留まり,その内の4人は親衛隊に組み入れ,他はそれぞれの生国に帰らせた.
生国に帰った者が皆,己が生国の住民達を大王に従わせるために全力を尽くしたことは,言うまでもない.
一方,ソグドの武将スピタメンは勇敢に侵略軍に抵抗したが,相手がアレキサンドロスの遠征軍であってみれば,とうてい勝ち味というものはなかった.
いつか部下は一人減り二人減り,後は逃亡の生活の毎日があるだけであった.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.63-64)
【質問】
スピタメンの最期は?
【回答】
妻に裏切られて殺害されたという.
執拗な追跡が,片時の休息も与えなかった.スピタメンも疲れ,兵も疲れ,妻も疲れた.
あるとき,妻は言った.
「どうせ逃れられぬものなら,いっそのこと自首してみたらどうでしょう」
3人の子供達も,父の前にひれ伏して,父に自首してもらうことを懇願した.
スピタメンはそのとき,美貌な妻の面を見入っていた.そして,妻が自分の容色にものを言わせ,アレキサンドロスに通じようと企んでいるに違いないと思った.
そうしたことはしそうなところのある妻であった.大胆でもあり,多情でもあった.
スピタメンはよほど妻を殺そうと思ったが,それに耐えた.そして言った.
「余は余の運命を持っている.運命のままに,汝も余と苦しみを共にせねばならぬ.余はアレキサンドロスに降るくらいなら死を選ぶだろう」
それからも苦しい逃亡の日々が続いた.
スピタメンにとっては,逃亡の苦しみの上にもう一つの苦しみがあった.それは妻を信じられぬことであった.
ある日,スピタメンは昼日中から酒宴を開いて,前後不覚に泥酔し,妻の手で寝台に運ばれた.
妻はいったん部屋を出かけたが,思い直して,再び寝台に近寄っていくと,妻の腰から剣を抜き取った.
妻は至極簡単に妻の息の根を止め,首を切った.
彼女は夫の首を持って大王の陣営に赴いた.
アレクサンドロスは,いつ何をしでかすか判らず,殺してしまわぬと安心できなかったスピタメンが,思いかけず一個の首級となって自分の目の前に現れたことに驚いた.
アレキサンドロスは,美貌の女の功績も認めねばならなかったし,夫殺しとしての彼女の罪にも眼をつぶることはできなかった.
やがてアレキサンドロスは叫んだ.
――殺さないでやる.余の陣営から直ちにどこへなりと立ち去れ!
女はそのようにしないわけにはいかなかった.沙漠の中に入っていって,極めて当然なことであるが,再び戻ってこなかったのである.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.64-65)
【質問】
マラカンダは現在の地名で言うどこにあったのか?
【回答】
アフラシヤブ都城址にあったという.
以下引用.
マラカンダが古代サマルカンドであったことは,今日,学者の間で一致した見解になっている.
それではマラカンダ即ち古代サマルカンドは,今のサマルカンドと同じ場所にあったであろうか.あるいはその付近であったであろうか.
ソ連の考古学者ウェ・シシュキンは,マラカンダが現在のサマルカンドの北方に隣接している有名なアフラシヤブ都城址にあったとしている.
――マラカンダがアフラシヤブの地にあったことを示す直接の文書資料は,残念ながら今のところ発見されていないが,都城址の下層がアレキサンドロスのギリシャ,マケドニア軍来襲以前の時代に属することから考えて,ギリシャ・ローマの著作家のマラカンダなる都城がまさにこの地にあり,現在の都城址の全部,あるいはその大部分を占めていたと考える事ができる.
シシュキンはその論文「古代文化の宝蔵――アフラシヤブ」(加藤九祚氏訳著「ソグドとホレズム」に収載)の中に記している.
シシュキンは晩年の情熱をアフラシヤブの発掘に捧げ,1967年春,サマルカンドにおいて歿している.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.67)
【質問】
アレクサンドロス大王の軍勢は何故インダス川の5つの支流の最後の5本目を渡河しなかったのか?
【回答】
多くの説があるが,一説によれば,当時のインドには戦象が多数用意されていたため,兵士達が恐れを抱いて渡河を拒否したのだという.
以下引用.
菅沼 正確に言うと,アレクサンドロスの侵攻は,チャンドラグプタによるマウリヤ王朝の創始よりも少し前です.
しかし,攻めこんだアレクサンドロスも,インド本国まで入ることができずに,インダス河の5つの支流の内,4本目を渡り終わった段階で,兵士達の反対にあって引き返さざるをえない羽目に陥るのです.
何故兵士達が5本目の川を渡るのを拒んだかについては,古くから多くの説がありますが,この時点でナンダ王朝についての色々な情報が入るようになり,特にインドが当時,象を使った戦車を数多く持っているという情報が入ったために,怖くなってすくんでしまったのだとも言われています.
金岡秀友/菅沼晃/金岡都著「砂漠と幻想の国」(佼成出版社,1977/11/25),p.30
【質問】
ナンダ王朝軍はどれほど強力だったのか?
【回答】
「ナンダ家の富」という言葉があるくらい強力で,騎兵2万,歩兵20万,戦車2千台,象4千頭を持っていたという.
以下引用.
釈尊が出世した当時の北インドは,仏典やジャイナ教文献で16大国などと言われるように,大小幾つもの国々があり,勢力を競い合っていた.
中でも
アヨーディヤー,サーケータ,シュラーヴァスティーの3大都市を持つコーサラ,
ラージャグリハ(王舎城)を都とするマガダ,
カウシャンビーを都とするヴァンサ,
共和制をとっているヴァッジ族の国
が盛んであった.
これらの国々の内で,最後に勝ち残ったのがマガダ王国である.
天然の資源が豊富で,ガンジス河下流の平原を支配するのに適した地理的条件を備えたマガダ国は,仏典の中で名を知られるビンビサーラ王を経て,紀元前5世紀の終わり頃,アジャータシャトル王(阿闍世王)が即位し,コーサラを始めとする諸国を亡ぼして北インドに一大王国を立てた.
史書によれば,その後のマガダの王はいずれも父や兄弟を殺して王位に就いたとされ,市民は第5世のナーガダーサカ王を「父殺しの系統」であるとして廃し,大臣シシュナーガを王位に就けたという.
このマガダ国の第2王朝をシシュナーガ王朝と言い,十数代続いた後,第3王朝であるナンダ王朝がこれに代わった.
この王朝は,「ナンダ家の富」という言葉があるくらい経済的にも軍事的にも強力で,ギリシャの史家ディオドロスによれば,騎兵2万,歩兵20万,戦車2千台,象4千頭を持つ強力な軍隊があったという.
マケドニア出身のギリシャ王アレクサンドロスがインド侵入を企てたのは,ちょうどナンダ王朝のときであり,大王の軍勢が遂にインダス河を渡りきらず,引き返さざるをえなかったのは,ナンダ王朝の隆盛と何らかの関係があるとみられている.
しかし,このナンダ王朝も,西紀前319年に挙兵し,アレクサンドロス侵入で混乱した西北インドを統一したチャンドラグプタによって亡ぼされ,ここにインド最初の統一王朝たるマウリヤ王朝が成立するのである.
金岡秀友/菅沼晃/金岡都著「砂漠と幻想の国」(佼成出版社,1977/11/25),p.77
◆◆大宛遠征
【質問】
「絹馬貿易」がどういうものか分からないのですが,どなたか教授お願いします.
【回答】
絹馬貿易(茶馬貿易);
武帝は,張騫の帰国前の前129年に衛青に1万騎の兵を援けて出撃させた.
衛青は武帝の2番目の皇后衛氏の弟で,才能に恵まれ,武帝の寵愛を受けた.
彼は長城を越えて甘粛省に攻め込み匈奴を破った.
前127年にはオルドス地方,前119年までに7度遠征軍を率いて匈奴と戦い,多くの軍功をあげた.
衛青と並んで匈奴征討に活躍したのが,彼の甥の霍去病である.
霍去病は18歳で武帝に仕え,叔父の衛青の匈奴征討に従って軍功をあげた.
前119年には衛青とともにそれぞれ5万の兵を率いて匈奴の本拠地を襲い,約7万の匈奴兵を斬殺した.
敗れた匈奴は遠く漠北に去り以後20年の間,漢と匈奴の大規模な衝突はなかった.
しかし霍去病は前117年にわずか24歳で病死した.
中央アジアの大宛(フェルガナ)は,汗血馬(血の汗を出すまで走る馬の意味,
当時の中国馬に比べて,背が高く大型馬で早く走った)の産地として知られていた.張騫の報告でこのことを知った武帝は匈奴との戦いに必要なこの良馬を獲得するため,李広利に大宛遠征を行わせた.
李広利は,武帝が寵愛した李夫人の兄で,武帝に重用された.李広利は前104年の遠征には失敗したが,前102年の遠征には成功し,目的の多くの汗血馬を得て帰国し武帝を喜ばせた.
以後,中国の名産の絹や茶と汗血馬を交換する「絹馬貿易」がシルク=ロードを利用して盛んに行われることになる.
絹は古来より戦略交易商品だったのであるが,やがて「絹の道」は「胡椒の道」にとって変わられた.
【質問】
武帝は何故,大宛遠征(104 b.c.)を命じたのか?
【回答】
武帝は汗血馬を譲ってもらう使者を大宛に派遣したが,交渉は不調に終わったばかりか,使者はその帰途を襲われ,全員殺害されたため.
これを知った武帝は,即刻大宛征伐を決意し,これを天下に宣布した.大宛を討つ正当な理由ができた以上,大宛を討つべきであったし,討って汗血馬を手に入れるべきであった.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.24)
【質問】
武帝の大宛遠征軍の総司令官は?
【回答】
李広利という人物.縁故による選出だという.
以下引用.
武帝は大宛遠征の総指揮者に李広利なる人物を選んだ.
大宛国には貮師城という城があり,そこの城下に汗血馬が養われていると聞いたので,武帝は李広利に貮師将軍という称号を与えた.
これによって,李広利の使命ははっきりしたものになった.大宛を討つだけでなく,貮師城の汗血馬を連れて来なければならぬのである.
李広利は,武帝が最も愛していた,今はなき李夫人の兄であった.
武帝は,己が寵愛してやまなかった妃の兄を抜擢して,貮師将軍として,大宛討伐の栄誉を与えようとしたのである.
李広利にとって,この抜擢はあり難かったか,あり難くなかったか,そのへんのところははっきりしない.
妹に似て,李広利もまた美貌な青年であった.音楽こそ好きだったが,戦争となると、とんと経験の持ち合わせはなかった.
馬を譲ってもらってくる交渉ならできないこともないかもしれないが,武力を以って相手を征服し,その上で馬を連れてくるということになると問題である.
しかし武帝の命令である以上,合戦の経験があろうとなかろうと,異族との戦争に出で立たねばならなかった.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.24-25)
【質問】
武帝の第1次大宛遠征は何故,失敗に終わったのか?
【回答】
兵は無頼の徒の寄せ集めで訓練ができておらず,補給支援も遠征先任せだったため.
以下引用.
李広利が都を進発したのは太初元年(西暦前104年)のことである.
志願して集まった無頼の徒数万,それに異族の捕虜や帰順兵数千を加えた大部隊である.
都を進発し,何十日かの後,部隊は何兵団かに分かれ,次々に国境の玉門関をくぐって流沙の中へ入っていった.
もちろん李広利はその先頭に立って,駱駝の背に揺られているが,やがて何ヵ月かの後に起こる合戦に対して,さして成算というものはなかった.
部隊の兵隊の数が多いのが唯一の他のみであるが,元元無頼の徒の寄せ集めで,訓練もできていないし,あまり統制のとれた兵団とは言えない.
支障は玉門関を出た最初の日から起きた.
これまでも異族の住む河西の地を過ぎて,食糧と宿舎に難渋してきてはいたが,玉門関を出ると,今度こそは全くの化外の地であって,集落という集落はどこも,漢の部隊に食糧を提供しなければならぬ義務は持っていない.
行軍はいっこうに捗らなかった.
食糧の供出を交渉したり,懇願したり,果ては武力に訴えたりして,そんなことで1ヶ所に何日も費やすことが多かった.
中には好意を持ってくれる部族もあったが,兵達の略奪行為でせっかくの好意もたちまちにして敵意に変わってしまうという有り様だった.
この漢の西域遠征軍がタクラマカン砂漠の北辺の道を通ったか,南辺の道を通ったか,史書は伝えていない.
とにかく1年を過ぎる頃から,逃亡兵が目立って多くなってきた.日に何十人もごっそりいなくなることもあった.
李広利は毎日のように引き返すことを考えた.今の状態では大宛に行き着くには,これから何年もかかりそうであった.しかも,行き着くだけが目的ではなく,そこで待っているものは合戦なのである.
しかし貮師将軍李広利は決心がつかぬままに,さらに何ヵ月かかけて天山に分け入り,漸(ようや)くのことで郁成という城に辿り着いた.
そこは大宛の勢力範囲内で,大宛の兵達が城を守っていた.
李広利は城を囲んだ.
すぐ攻防戦は展開されたが,場内から討って出てくる大宛兵のために,漢軍は戦う毎に破れた.城兵が少ないので,殲滅的な打撃を受けることはなかったが,城を攻略するというようなことは先ず望めなかった.
郁成という小城砦でさえ抜くことができない状態なのに,まして大宛国の王都,貮師城となると,誰が考えても勝算というものはなかった.
そして何よりいけないことは,日々逃亡者が多くなっていることと,食糧事情も急に悪くなってきたことである.このままここに留まっていると,餓死者さえ出しかねなかった.
「逃亡者は何人になったか?」
李広利は部下に訊いた.
「10人に8人は逃亡いたしました」
「食糧のほうは?」
「大変窮屈になっております.兵団内で掠奪が行われ始めますと,もう最後でございましょう」
「最後というのは?」
「将軍の命も危なくなるという事であります」
貮師将軍は顔色を変えた.こうなったら引き返す以外,仕方がなかった.部隊全部が消えて失くなるより,まだ少しでも残っている内に引き返して,玉門関をくぐるほうがましであった.
漢軍は城の囲みを解き,夜の闇に紛れてそこを離れた.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.25-27)
【質問】
郁成という城砦は,現在の地名で言うどこにあったのか?
【回答】
ウズゲン説が有力だという.
以下引用.
ロシアの歴史学者達の考えでは,キルギス共和国オシュ州にある現在のウズゲンであろうとされている.
当時はユウと呼ばれていたところで,中国の史書はそれに郁成という字を当てたのであろう.
ウズゲンは天山の山中にある集落で,東トルキスタンからフェルガナ盆地に入るには,どうしてもここを通らねばならない.
〔略〕
現在も塔や城壁の一部など残り,サマルカンド的遺跡として知られている.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.27)
【質問】
李陵はなぜ捕虜になったのか?
【回答】
支隊を率いて偵察行動に赴いたところ,本隊が敗北して孤立,脱出を図ったが果たせなかったため.
以下引用.
匈奴征討のため,武帝は天漢2年(前99年),李広利を大将軍に出動させます.
その別働隊として,立った5船の歩兵を率いた李陵は,河西回廊からゴビ沙漠へ討って出ます.
その役目は,匈奴の勢力圏に深く入り,敵情を偵察して東のほうへ帰ってくるというものでした.
ところが,本隊の李広利将軍の何万の大軍が,匈奴の単于〔大王〕に討ち破られて敗走し,その匈奴の大軍が砂漠を移動して,たった5千の歩兵は包囲されてしまいました.
逃げようにも逃げられない.
騎馬の大軍が包囲して,ぐるぐる周りながら遠矢を射かけてくる.
たびたび白兵戦をやりながら,南のほうの漢の砦へ脱出しようと図りました.
1ヵ月くらい死闘を繰り返しながら,たった5千でとにかく持ち堪え,南へ南へと逃れます.
数万の本隊がやられているのに,匈奴の数万の大軍の包囲に遭いながら,僅か5千の兵が持ち堪えて戦うのですから,だんだん死傷兵が多くなってきました.
匈奴の王が,何万の大軍を持って,たった5千の兵を持て余しているとあっては威名に関わる,皆殺しにせよというので,猛攻を加えてきます.
山地にかかったところで,李陵はこれが最後の決戦だと心に決め,生き残った者は南へ逃げて漢の砦に入り,報告せよということにして,大決戦が始まりました.
匈奴の王に接近,白兵戦であわや弓で射殺するチャンスもあったのでしたが,矢は馬の尻に立って残念ながら逃がしたこともありましたが,凄絶な白兵戦で自分も負傷して倒れ,気がついたら匈奴の中に捕虜になっていました.
匈奴の王は,李陵を勇敢な武将として優遇し,王女を妻に与え,王子の師とします.
森豊〔シルクロード研究家〕 from 「魅惑のシルクロード」
(講談社,1981/10/15),p.91-92
【質問】
なぜ李陵の一族は死刑にされたのか?
【回答】
捕虜になった李陵が,匈奴に漢の軍略を教えていると讒訴されたため.
以下引用.
漢の兵は僅か2,3百人が,漢の砦へ逃げ帰り,その報告が長安の都の武帝のもとに届けられます.
武帝も,本隊がやられたのに,僅かな兵がこれだけ良く戦ったと言って大変誉めますが,その後,彼が匈奴の捕虜になっていることが伝わり,群臣がみんな武帝にへつらって,今,漢の軍隊が負けるのは,彼が匈奴にいて漢の軍略を教えているからだというわけです.
それで武帝は激怒して,李陵の母や一族全部を死刑にします.
ところがその中でただ一人,司馬遷は面をおかして李陵の勇武を称え,武帝の怒りに遭って,宮刑という最も男として恥ずかしい刑,睾丸を摘出してしまう刑罰に処せられます.
これは,士,大夫,君子として最も恥ずかしい,生き長らえることができないような恥ずかしい刑です.
〔略〕
その悔しさを,それから10年ですか,20年ですか,籠めながら書いたのが,あの大文学の「史記」です.
〔略〕
李陵は結局帰ることがなく,匈奴の中で死ぬのですけれども,これもシルクロードの開幕の時代の一つの悲劇でございます.
ただ,考えてみますと,昭和18年にこの武田泰淳の「司馬遷の世界」が書かれ,中島敦の小説「李陵」も昭和18年に「中央公論」に載りました.
昭和18年は太平洋戦争の真っ只中です.
そのときに,敵に捕虜になった武人を称える小説を書き,それを弁護することによって刑罰に処せられた司馬遷を褒め称えて書いた評伝が,日本であの戦争中,書かれたのです.
あの昭和18年当時は,捕虜になることは最も恥辱といわれました.
そういう時代に堂々とそういう小説を書いて発表したということは,たいへん勇気のいることで,私は敬服しています.
森豊〔シルクロード研究家〕 from 「魅惑のシルクロード」
(講談社,1981/10/15),p.92-94
【質問】
帰還した李広利はどうなったか?
【回答】
入国を許されなかったという.
以下引用.
李広利が率いる大宛征討軍が,ようやくのことで玉門関へ帰還することのできたのは〔郁成城撤退から〕半年ほど先きのことである.
この遠征には結局2年の月日がかかり,兵隊の数は数千に減っていた.
李広利は使者を都に派して,ことの次第を奏上した.
――道遠くして食に窮すること多く,且つ士卒戦いを憂えずして餓を憂う.人少なくして,以て宛を抜くに足らず.
願わくば,暫く兵を罷めて,益々発して再び往かん.
「史記」によると,こういうことを奏したのである.
すると,それに対して,何十日かして,都から急使が派せられて来た.
急使は,玉門関内に入っていた部隊を全部関外に出させ,それから玉門関を守っている兵で関を固め,その上で言った.
――軍,敢て入る者あらば,すなわちこれを斬らん.
一歩でも入ってみろ,斬っちまうぞ.
貮師将軍李広利は仕方ないので,玉門関の外に留まった.
いつ許しが出るか分からなかったが,それまでは国内に入ることはできないのである.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.28)
【質問】
第2次大宛遠征軍の規模は?
【回答】
戦闘部隊だけで6万.
他に支援部隊として18万以上だったという.
以下引用.
新たに6万の大部隊が都から到着して,李広利の指揮下に置かれたのは〔帰還から〕1年後のことであった.
今度は前の部隊とは異なって,屈強な兵で固められていた.
囚人の中で強弓を引く者は,許されてこの部隊に入れられ,辺境の騎兵もまたこの部隊に組み入れられていた.
兵数6万と号したが,実数はそれ以上あった.自分で食糧を持った従軍者や,私的の従者,部卒は数の中に入っていなかった.
そして兵のほかに,牛10万,馬3万余頭,驢馬,駱駝の類もまた,万を以って算う数であった.
今度は食糧も豊富であり,武器も豊富であった.
何から何までこの前の寄せ集めの征討軍とは大変な違いであった.
しかも,酒泉,張掖(ちょうえき)といった国境に近い地域には,万一に備えて18万の兵が配され,征討軍の食糧補給の為には要塞要塞の兵が当てられていた.
また,征討軍の中には馬について知識を持っている者が,執駆校尉として配せられてあった.言うまでもなく,これは大宛から馬を持ってくる場合の用意であった.
武帝は周到な計画の下に大遠征隊を編成し,再びこれを李広利の指揮下に置いた.
寵妃の兄に,もう一度名誉回復の機会を与えたのである.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.28-29)
前回の反省を活かし,準備を整えていた点は評価に値しよう.
【質問】
第2次大宛遠征が,今度は成功に終わったのは何故か?
【回答】
敵より優勢な兵力で,正攻法で攻略したため.
以下引用.
漢軍は数軍に分かれて南北両道より進んだ.
今度はこの前の遠征とは打って変わって,至るところの小国は進んで食を供し,漢軍の便宜を計った.
それほど遠征軍の陣容は異族を圧するものがあったのである.
最初の戦闘は●頭において行われた.数日にしてこれを屠った.
そしてさらに西行,郁成の攻略は後回しにし,一路,王都貮師城を目指した.貮師城に向かった漢の前軍は3万である.ここに来るまでに3万になってしまったのである.
戦闘は,城より打って出た宛軍を迎えて,城外で開始された.
漢兵は弓■兵を主力として,大いに敵を破り,忽ちにして城を囲んだ.
攻囲40日,攻防戦は毎日のように繰り返された.
その間に漢兵は水源を絶って篭城軍を大いに悩ませたが,城は容易に落ちなかった.
外城を破ったのは40余日目であった.
この攻防戦で,宛の王族で勇将の名の高い煎〔广非〕(ぜんび)を捕虜とすることができた.
場内では王族達が相謀って宛王の母寡を殺して,王族の一人がその頭を持って,和平交渉にやってきた.
――善馬を悉く出すから自由に選びとって宜しい.
その代わり,即時攻撃を中止すること.
若しこれを受け入れないならば,名馬という名馬は全て殺してしまい,援軍康居の到るを待って最後まで漢軍と戦うが,いかん.
そこで李広利は部下と謀った.
康居の援軍が既に到っていることは事実であった.しかも軽視できぬ勢力である.ただ,漢軍の勢いが盛んなため,闘いを仕掛けてこないでいるだけである.
李広利は宛の交渉条件を受け入れた.
今度の大遠征の本来の目的である汗血馬の譲り渡しは,久し振りで兵火の収まった城内の大広場で行われた.
李広利は善馬数十頭,並みの馬3千余頭を取り,以前,漢使を親切に遇した昧蔡を立てて宛王とした.
李広利は兵を中城には入れず,そのまま引き返した.
〔略〕
漢軍が大宛国を討ったことは,西域諸国を震え上がらせた.
漢軍が故国へ凱旋していく途上,過ぐるところの小国は皆その子弟を軍に従わせた.これは皆,人質として漢王に留められる運命を持った.
貮師将軍李広利は大任を果たし,今度は堂々と玉門関を入った.
出発のとき6万あったはずの兵は,6分の1の1万に減っていた.
軍馬は僅か千余匹に過ぎなかった.
しかし,垂涎おく能わなかった夥しい数の天下の名馬を手に入れることができて,武帝は満足だった.
李広利を封じて海西侯となし,この軍に加わった将兵それぞれに気前よく賞を施した.九卿となる者3人,諸侯の相,郡守,2千石の者百余人,1千石以下千余人といった具合であった.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.30-31)
●=「倫」の右側部分
■=竹かんむり+「前」
【質問】
第1次大宛遠征において防衛に成功した郁成城は,第2次遠征ではどうなったのか?
【回答】
漢軍の枝隊を撃退したものの,漢軍本隊の前に敗北したという.
以下引用.
郁成攻略に向かった枝隊1千は,郁成軍の攻撃を受け,その大部分は討たれ,指揮者である校尉,王申生は討ち死にした.
その報を得て,李広利はすぐ兵団を郁成に派した.
郁成王は破れて康居に走ったが,康居人に捕らえられ,漢将に手渡された.
郁成王は李広利の前に引き出される前に首を刎ねられた.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.31)
【質問】
貮師城は現在のどこに当たるのか?
【回答】
現在も判明していない模様.
この問題は世界の学者達によって執拗に論争されてきたが,〔略〕
コーカンド(那珂通世),
ウラ・チュベ(リヒトホーフェン),
ホージェント(グートシュミット,三宅米吉,桑原隲蔵),
カサン(ラクペリー,ヘルマン,白鳥庫吉),
こうしたところが,学者達によって,それぞれの立場から宛都の故地とされている.
白鳥博士は初めはウラ・チュベ説であったが,後にカサン説に切り替えている.
また,この他にマルギランを挙げる学者達もいる.
フェルガナ盆地の地図をエガいて,これらの都邑,集落を記してみると,汗血馬の故地の候補地は広い盆地全般に散らばることになる.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.32-33)
【質問】
李広利はその後どうなったのか?
【回答】
対匈奴戦で戦死したという.
以下引用.
亡き寵妃の兄として,大宛征討で武帝の期待に応えた李広利は,その後,対匈奴戦に将軍として出征する.
〔略〕
征和2年(西暦前91年),彼は2回目の出征の折,陣中で,自分が大疑獄事件に坐して罪を問われているという都の噂を知り,名誉回復を謀って敵軍深く軍を進めたが,今度は大宛遠征の場合のように上手くはいかなかった.
李広利は匈奴に捕らえられ,そして斬られた.大宛遠征より7年ほど経った時のことである.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.36-37)
◆1世紀〜4世紀
【質問】
ヴィンドボナ(Vindobona)とは?
【回答】
トラヤヌス帝 (Trajanus) が紀元後1世紀頃,北方の蛮族に対するドナウ川沿いの守りを強化した際,帝国軍駐屯地カヌントゥム
(Carnuntum;ウィーンから50kmほど東に現在もある町)の側面を援護する目的で作られた,もう一つの駐屯地.
同地は,ドナウ川とウィーンの森に囲まれ,守りやすく攻め込まれにくい地形が軍事的に有利だと判断されたようだ.
『ヴィンドボナ(ヴィンドの財産?)』という名前は,ケルト語の地名に由来しているのではないかと推測されている.
やがて入植も行われるようになり,ヴィンドボナの最盛期には駐屯地とその周辺部合わせておよそ35,000人ほどの人間が居住していたようだが,マルコマンニ人とクアディ人が169年から170年にかけてドナウ地域に侵入したのを皮切りに,異民族がたびたび侵入しては,その都度,北方の駐屯地や都市は大きな被害を被り,最期はゲルマン民族大移動によって破壊し尽くされる.
433年にローマ帝国は,ヴィンドボナを含むパンノニア州をフン族に譲渡することを余儀なくされ,入植者は大部分イタリアに移住したが,残った住民は駐屯地北東部分の,破壊を免れた地域に一つの強固な砦を囲むようにして再び生活を始めたようである.
この砦こそが中世に入ると,ウィーン最初の城様の建物となった.
【参考サイト】
http://members.aon.at/hwien/rekishi/vindobona.html
【質問】
南匈奴は騎馬民族にしては活動が活発じゃないように思えるんですけど.
【回答】
今の中国が一国で広大な地域を支配しているから,南匈奴がショボイと考えがちだけど,侵入前と侵入後では中華世界そのものが何もかも変わったといってよいほど変化してる.
中国の古代の枠組みほとんどつぶしているぞ,アレ.
晋の皇族つまり司馬氏の大半があぼーんしただけでなく,漢の嫡流(献帝の子孫や曹操の子孫,つまり陳留王や劉備の直系)もほどんど死んだり消息不明になってる.
隋の統一まで何百年もかかっているし,漢族自体が言語のアルタイ化が起こってしまって,華北の出の漢族も大半が北方民族の習俗にそまっちゃってる.
隋,唐も匈奴ではないとはいえ,鮮卑系の王朝だし,古代世界からいた士大夫階級も南北朝までに,王朝交代の度に連座してあぼんしたり没落して庶民になったりするわで,華北も江南もかわらんし・・・・
だいたい,江南に逃れた連中も,いってみれば北方民族の圧迫うけて民族大移動状態だしなー.
【質問】
マルコマンニ戦争とは?
【回答】
160年代後半から,北方からのローマ帝国侵入を図ったマルコマンニ人と,ローマ帝国との戦い.
マルコマンニ人はゲルマン人の一派.
ローマ皇帝マルクス・アウレリウスは繰り返しマルコマンニ人と戦わなければならなくなり,180年,その戦いの中,ヴィンドボナ(現在のウィーン)の近くで死去.
彼の息子で後を継いだコンモドゥス帝(在位180-192年)は,しばらく戦いを続けたが,和平を結んでローマへ撤退.
これ以降,ローマ帝国は軍事的に守勢に立つことになった.
なお,紀元175年,マルコマンニ戦争でマルクス・アウレリウスに敗れたサルマート人兵士のうち5000名余は,外人部隊としてブリテン島に派遣され,スコットランド国境のハドリアヌスの長城の配備についた.
そして退役後も故国には帰らず,現在のランカシャーのリブチェスター近辺にあった外人部隊の拠点に定着した.
この地方の発掘調査の結果,サルマート人社会はその後5世紀にもわたって存続したことが明らかになっている.(「アーサー王伝説のサルマート起源説」より)
【質問】
神功皇后が朝鮮半島の南部を支配し,高句麗と争ってますが,高句麗は文化的にはともかく軍事力は強い方だと思います.
その高句麗と争う日本は,当時の国力は世界史的に見て「中」程度の国でしょうか?
【回答】
まず,神功皇后自体の存在と事績が不明確なので,具体的な年代が分からない.
また,そのころの倭国の勢力,地盤,動員可能兵力,そういったものすら分かってない.
さらに言えば,全般的に3〜5世紀ってのは日本史そのものが不明確なので,国力の推定が出来ない.
ついでに言うと,高句麗だって建国から滅亡まで一貫して軍事大国だったわけでもない.
おまけに,同時代に存在した古代国家というもののほとんどは事績がよくわからないので,世界史的に国力を比較と言われても比較しようがない.
まあ,東ローマや南北朝中国よりは弱かっただろうことは,アホでも分かる.
【質問】
韓国海軍に KWANGGAETO-THE GREAT「広開土大王」(在位391-402)という駆逐艦がありますが,高句麗の韓国での歴史的位置づけはどうなっているのでしょうか? 鴨緑江以北に興った高句麗の王はやはり韓国の祖なのでしょうか? 民族的にも同じなのでしょうか?
【回答】
(1) 韓国の歴史認識は,アカデミズムと,ナショナリズムに根ざした在野の歴史家で,かなりの相違があります。
現在の韓国の歴史教科書が檀君を神話と明記せずに5000年の歴史(半万年と言っています)があると記載しているのは、ナショナリズム主導の在野の歴史家が政治的に運動した結果です。
このような事態を背景に、過去の歴史の建て直しと称して、古代の朝鮮が広大な領土や勢力圏を持つ強大国であったという主張もされており、かつての高句麗やその北方も領土としています。
(2) 現在の朝鮮半島は韓国と北朝鮮に分かれており、特に北朝鮮は高句麗を先祖として位置付けています。韓国も上記のような事情で先祖としています。
(3) 韓国朝鮮人はもともと、女真系民族を「オランケ」という蔑称をもって呼び、野蛮人だと見なしていましたが、ナショナリズムの肥大化とともに、現在では扱いをあいまいにして、使い分けている状況です。
【質問】
小学生のときに使っていた歴史の教科書に,日本兵と思しき人物が,広開土王碑に碑に手を加えている写真が載っていたことを覚えています.
あれは改ざん写真だったのでしょうか?(HN "昭和38年生まれ")
【回答】
その写真を見た韓国の学者イ・ジンヒという人が
「日本による朝鮮支配を正当化する為軍部が改竄した」
とする説を発表しましたが,90年代に入って中国で取られた拓本が発見され,その拓本と日本の軍人が取った拓本が一致することから,単に拓本取ってただけで何も手を加えていないことが判明しております.
ただ,韓国では任那日本府と共に否定されます.
なお,厳密に言うと,日本の軍人が現地で取ってきたのは,いわゆる拓本ではなく,「墨水廓填本」とか「双鉤加墨本」などというものです.
これは,先にとられた文字の見づらい拓本の字画をなぞって,別紙に文字の輪郭を写しとり,その輪郭の外を墨で填めて拓本らしく仕立てたものです.
◆フン族
◆5〜8世紀
【質問】
ギリシア火とはどんなものだったのか?
【回答】
ギリシア火は単なる油ではなく、硝石や硫黄、タールのようなものを含んでいたようです。
また、アラムコの社誌に,実際にはギリシアではなく,イスラム圏のカリニコスという兵士の発明である、という記事が載っていたようです。
www.sfusd.k12.ca.us/schwww/sch618/War/FireWeapons.html
(System)
【質問】
倭国が渤海と同盟して,新羅を攻める計画があったという話を聞いたんですが,詳しく教えてください.
【回答】
新羅攻撃計画立案者は藤原仲麻呂.本人が失脚して中止.また,新羅と敵対関係が薄れたのも中止の理由.
渤海は727年,新羅を牽制することのできる勢力である日本に使節を派遣,日本と結ぼうとした.
ここに渤海と日本の国交が開始され,以後919年(延喜19)まで続くが,その間渤海からの使節の来日は34回に及び,一方,日本からの遣渤海使派遣は13回で,その多くは渤海の使節を送る使であった.
こうした両国の通交の歴史は,大きく2時期に区分できる.
第1期(727‐811)は,渤海が新羅を牽制することを日本に期待して使節を派遣する一方,日本は新羅を蕃国に位置づけ続けるために,渤海の協力を得ようとする政治的な目的をもった外交であった.
特に759年(天平宝字3)に藤原仲麻呂政権によって立案された新羅征討計画は,日本と渤海が連携して征討を実現しようとしたものであり,そのために両国の使節の往来も頻繁であった.
しかし,藤原仲麻呂政権の衰退にともなって新羅征討計画が消滅し,また大欽茂が762年に唐から渤海国王に冊立されて唐との緊密な関係が維持され,同時に新羅との緊張も緩和されるにしたがって,日本と渤海との関係も変質し始めた.
【質問】
732年のトゥールポワティエの戦いで,なぜカールマルテルはイスラムに勝てたのですか?
【回答】
勝ったというか、たまたま混戦でイスラム側の指揮官が戦死したので,イスラム側が一時撤退しただけだった筈です。
その後、再侵攻がある前にウマイヤ朝が倒れて計画自体がうやむやになったんだと記憶してますが。
とにかくフランク側の軍制がイスラム側よりも優れていたというわけではありません。
カール=マルテルは配下の掌握に非常に苦労していたようです。
【質問】
ムグ山の戦い(7世紀後半)は何故起こったか?
【回答】
ペンジケントの町を棄てて逃亡しようとしたソグド人を,アラブ人が阻止しようとしたためだという.
以下引用.
この人物〔ディワシュチチ〕は,ムグ山出土の文書から判明したことであるが,ペンジケント侯国の領主であると共に,一時期サマルカンド侯国の王でもあった.そして,幾つかの侯国によって結成されているゼラフシャン同盟の盟主でもあったのである.
しかし,ディワシュチチはもう何年も安らかに眠ったことはなかった.アラブの侵略軍がこの地方に永久駐屯を始め,ソグド人が造っている全ての侯国を己が支配下に置いたからである.
あらゆる要求が三日にあげず,アラブの代官から通達されてくる.
ディワシュチチは,その要求する全てをアラブに与えねばならなかった.農作物も取り上げられ,手工芸品も取り上げられる.人も徴発される.
一番辛いのは,やたら処罰されることである.
そういう不幸なソグド人達の貰い下げに奔走することで,ディワシュチチの毎日は埋められている.
それから回教への改宗の要求である.ソグド人達にとっては,これだけは耐え難いことである.
ある日,一つの考えが,ディワシュチチを襲った.それは市民全部がこの父祖伝来の土地を棄て,アラブの勢力が及ばないパミールの山襞の中に,新生の天地を開くことである.このペンジケントの町を棄て,町ぐるみ奥地へ引っ越すことである.
ディワシュチチのこの考えは誰一人にも反対されなかった.
計画はその日から秘密裏に実行に移された.
大切な品々は,アラブに気付かれぬように,ムグ山の小さい砦へ運ばれ,そこに埋められた.いつかそこに掘り出しに行くような時代も来るかもしれない.埋めておかないより埋めておくほうがいいだろう.
ペンジケントの市民は,恐らくパミール山中への逃亡のために,半年も,1年も,あるいはそれ以上の日子を費やったに違いない.町から次第に,大切なものは姿を消していった.
毎日のように意地の悪いアラブの役人や兵は,ペンジケントの路地路地を見回っていたが,誰もそうしたことには気付かなかった.
そしてある夜,ペンジケントのソグド人達は,永年住み慣れた父祖の地を棄てたのである.2千人から3千人のソグド人達は,女も子供も含めて長い隊列を作り,夜の闇に紛れて,パミールを目指したのである.
おそらく不幸はすぐやってきたのである.町を棄ててから2日目から三日目に,彼らはアラブの騎馬隊が自分達を追っていることを知らねばならなかった.
伝令は,長い隊列の到るところに飛んだ.
進路は変更された.事態がこうなった以上,アラブと闘う以外,残された途はなかった.
ソグド人達は新天地開拓の夢を棄てて,ひとまず勝手知ったムグ山の砦に篭った.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.80-81)
【質問】
ムグ山の戦いの結末は?
【回答】
ソグド人は敗北し,市民のごく少数だけがペンジケントに帰還したと思われる.
以下引用.
ディワシュチチが全市民を戦闘態勢に配置替えし終った時は,既に城はアラブの大軍の囲むところとなっており,その日から攻囲軍と篭城軍との間には烈しい戦闘が開始された.
ディワシュチチも自ら先頭に立って闘った.
攻囲軍はアラブ兵ばかりではなかった.中央アジアの河間地帯の諸民族が皆,駆り出されて攻囲軍に加えられている.
最も激しい戦闘は,城の外で行われた.ソグド人達は勇敢だった.
〔略〕
しかし,勝てる戦闘と勝てぬ戦闘がある.ペンジケントの市民達に約束されているものは,敗戦であり,死であった.
城外の戦闘でソグドの男という男は皆,殪(たお)れた.
この日の統率者ディワシュチチの死闘の姿は,千2百年後の今日,ムグ山上の砦から出土した盾に描かれているソグド騎士像一つからでも,はっきりと思い描くことができる.
ディワシュチチは生き残りの兵を纏めて城に引き上げた.
そして,女と子供と老人と,生き残りの兵を助けるために,攻囲軍との間に交渉を開始した.
激戦のあった翌日,ディワシュチチは単身交渉のために攻囲軍の陣営に赴いた.そして捕らえられ,斬られた.
それから間もなく,統率者を失った篭城軍は,百家族の者の生命の保護を歎願して城門を開いた.
悲劇はさらに新しい形でソグド人達を襲ったに違いないのであるが,それについて語るものは何も遺されていない.果たして百家族の者の生命が保証されたかどうかも分かっていない.
このペンジケントの悲劇に前後して,サマルカンドにおいても同様の悲劇が起こっている.
サマルカンドの市民達は,サマルカンドの町を棄ててフェルガナ盆地を目指したが,盆地の入り口に位置しているホージェントで,アラブ追跡軍の捉えるところとなり,全員殺されるという悲運を持ったのである.
〔略〕
最近のロシアの考古学者達は,ディワシュチチに棄てられてから,古代ペンジケントの町の一部には,たとえ僅かでも生活の煙は立っていたのではないかと見ている.
そして,この町が完全に死滅している時期を770年頃に想定している.
この想定は私達の心を明るくする.たとえ少数の者でも生命を助けられ,一度棄てたペンジケントの町に帰る事ができたと考えられるからである.
そして彼らの死と共に,この町は完全に死んだのである.
そしてそれ以後,この悪夢の立ちこめている故地に,ソグド人達は寄りつかなかったのである.
(井上靖著「西域物語」,朝日新聞社,2003/6/1《オン・デマンド版》,p.81-82)
【質問】
八幡様は、なぜ八幡様というのでしょうか?
幡=旗、八幡=八旗、で清代のように8つの軍団を、応神天皇、神宮皇后が率いていた、というわけではない?
【回答】
対隼人戦の行われていた、辛国城に八つの旗が降って来たからというのが中世の説明でしたが、実際には中国の軍制にある「八幡」に由来するという説があります。
応神天皇霊という説もありますが、これは後付けで、本来は辺境を守護した軍神であったらしい。
『続日本紀』では、早くも仏教式に「大菩薩」と呼ばれています。
【質問】
タシロの乱について誰か頼む.
【回答】
バイエルン大公タシロ3世は763年,カール1世のアクィタニア遠征への従軍を病気を理由に拒否.
タシロに対して警戒心を抱いたカールは,タシロの後ろ盾になっていたランゴバルド王国を滅ぼすと,バイエルンに兵を向けた.
787年タシロは降伏し,バイエルンはカロリング朝に統合された.
794年,フランクフルトの王国会議でタシロとその子孫は永久に大公位から排除された.
タシロはアヴァールと通じていたらしく,795年にはカロリング朝とアヴァールとの戦争が始まっている.
【質問】
征夷大将軍とは?
【回答】
古代日本において、将帥の出征には1軍=兵1万の場合、「将軍」1名、「副将軍」2名、「軍監」2名が定められていた。(『軍防令』)
ところが稀に、国家危急存亡のとき、最低3万−「将軍」3名の上に、さらに「大将軍」1名が置かれることがあった。
この「大将軍」には節刀が帝より親授されることになっており、その儀式は,天皇のもつ大権を臨時に委譲することを意味していた。文字通り、戦時における3万を越える将兵の生殺与奪の権限が与えられたわけだ。
後世の日本史は、この古代の「大将軍」を一括りにして「征夷大将軍」として記憶した。
蝦夷を征伐する「大将軍」である。
【質問】
坂上田村麻呂ってどんな人?
【回答】
平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。
坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主を祖先とし大和国高市郡に蟠踞した倭(東)漢氏の一族で、武術に秀でていた。
田村麻呂も「赤面黄鬚、勇力人に過ぐ、将帥の量あり」といわれた。
785年(延暦4)従五位下、787年近衛少将となり、以後越後守などを兼任していたが、791年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに加わった。
数年にわたる戦闘で功をあげ、795年従四位下、翌年陸奥出羽按察使兼陸奥守、さらに鎮守府将軍を経て、797年征夷大将軍に任じられた。
801年胆沢を平定し、功により従三位勲二等に叙され近衛中将となった。
802年胆沢城を築城し、鎮守府を多賀城から移し、翌年志波城を築城するなど,古代蝦夷経営の成果をあげ、804年再度征夷大将軍に任じられた。
しかしその経営は
「往還の間、従者限りなし。人馬給し難く、累路費え多し」
と田村麻呂の没時の伝にも見えるように、大規模な遠征は多くの問題を残し、805年の徳政の論争によって、平安京造営とともに征夷が中止された。
その後の田村麻呂は、中納言、中衛大将、右近衛大将、兵部縁、大納言などに任じられ、正三位まで昇ったが、811年粟田別業で没した。54歳。
死後,彼は従二位に叙された。
(日本史板)
http://homepage3.nifty.com/so_you/list/073.htm
【質問】
アイヌ民族の人達は,侵略者の日本人に対して,地の利を生かしたゲリラ戦を
展開しなかったのでしょうか?
【回答】
結構抵抗はしている.
「シャクシャインの乱」で検索してみるべし.
ただ,いわゆる「アイヌ人」には,統一された”民族意識”というものが出来上がらなかった.
そもそも”アイヌ”というのも「人間」という意味で,
「アイヌ民族で団結して和人と戦おう!」
というような民族自決意識が定着せず,結局,蜂起の指導者であるシャクシャインが暗殺されたらそれ以前の
「山を越えたら隣の村.隣の村の奴は一応人間だけど自分たちとは違う存在」
という世界に戻ってしまったので,統一勢力として抵抗することができす,そのまま和人によって征服されていった.
この辺はネイティヴ・アメリカン(インディアン)と似たところがある.
あと,坂上田村麻呂の東征では.宣撫工作も使って平定せしめている.
◆◆ヴァイキング(8-10c)関連
【質問】
ヴァイキングって何?
【回答】
ノルマン人=北の民,別称で,「入江の民」という意味をもちます.
北ゲルマンに属し,原住地はスカンディナヴィア半島・ユトランド半島で,8〜12世紀ごろに活発な民族移動を行い,ヨーロッパ世界一帯に多
大な影響を及ぼしました.
ゲルマン人とは,ローマ帝国が衰える4世紀頃にヨーロッパ圏に大移動した民族です.
ローマ帝国時代から傭兵として優れた人種でした.
【質問】
そんでヴァイキングは何かやらかすの?
【回答】
ヴァイキングはヨーロッパだけでなく,中東のイスラム圏まで暴れまくりますが,ヨーロッパの方では部族によるノルウェー・デンマーク,スウェーデンが建国されます.
しかし一番有名なのは,ヴァイキング首長ロロによるノルマンディー公領.フランス北部に領地を西フランクから与えられ当時西フランクの王であるシュルル三世の妹と結婚をします.
彼らはフランスのノルマンディ地方に定住し,フランス人と同化(というよりはフランスの言語や文化,生活様式
を受け入れたといった方がいいだろうか)し,ノルマン人となります.
その後,数百年の月日が流れ,ノルマンディー公ウィリアムによりアングロ・サクソン人が治めるイギリスに攻め込み,ノルマン朝を立て,イギリス王国(現在のイギリス)を創始しま
した.
一方,東スラブでは部族国家が多すぎてまとまりがなく,互いに争いばかりやっていたため,そのとき商売に来ていたヴァイキングであるノルマン人(ルーシ人)の族長リューリクを担いで,王様になってもらい,キエフにルーシ(ロシア)を作りました.
北海と黒海を結ぶ交易路はヴァイキングの通り道だったから,交易中継地にヴァイキングが街を作り,それが周囲の定住民にも支えられて大きくなったんだと思います.
当時も今もロシアは人口密度が極めて低いものでした.
しかも森林地帯とステップ地帯とが分かれており,
それを南北に繋ぐのは交易路でもある河でした.
全く環境が異なるけれども中央アジアの交易オアシス国家と同じような物だと思われます.
実際にイワン雷帝やピョートルが出てくるまでは,ロシアというのは距離の離れた連続しない都市国家の集まりでした.「東スラブ人は都市を作らなかった」というよりも,当時の生活形態では作る動機が無かったんだと思います.
ちなみに,ノルマン人がスラブ諸部族と抗争した事実はありません.
【質問】
バーサーカー(狂戦士)って本当にいたんですか?
【回答】
大麻やキノコでラリって気勢を上げた,という話だが・・・
イギリスのTV番組で,ボランティアにバイキングの武器の扱いを訓練させて,その後で酒とベニテングダケを服用させてから武器を使わせる,という実験をやったらしい.
結果,キノコは戦闘能力を低下させることが確認されたそうな.
【質問】
ヴァイキングの侵略に対抗して,西欧は,ヴァイキングの本拠地である北欧を襲撃したことは無いの?
【回答】
バイキングは国家ではないし,襲撃したところで得られるものは何にもないから,北欧など興味がなかった.
中世には,北ドイツやリューゲン島に住んでいた異教時代のスラブ人部族がデンマーク島嶼部を襲撃して勢力を広げたりしたことはある.
後に,ポーランドとデンマークが姻戚関係になって合同し,これらスラブ人部族を撃退し,イギリスまで遠征している.カヌート大王の時代.
でも,この時代のデーン人はバイキングとはいえないな.
【質問】
ヴァイキングの入植地はどうなったの?
【回答】
アメリカ入植地の最期は悲惨だったそうです・・・
ヨーロッパとの定期船も途絶えた末に孤立,
果てにイヌイトに襲われアボーン・・・
15世紀まで集落は生き残ったようですが,コロンブス以降にヨーロッパ人が訪れたときには,既に無人の村と化していました.
南方のイティルは,「赤毛のエイリックのサガ」によれば,3冬を越しただけですぐに撤退してしまうので,入植地として確立もしていないのではないでしょうか.
撤退の理由は, 土地は豊かであったが,原住民(スクレーリンガル)との武力衝突や襲撃の恐怖を恐れてのことだとされています.
『赤毛のエイリックのサガ』では,
「赤い布を好んで欲しがっていたので動物の皮と交換し,剣や槍も購入したがっていたが,カルルスエヴニとスノッリが交換を禁じている.
やがて交換する赤い布が少なくなると,高値で取引をする.
カルルスエヴニたちが飼っていた雄牛が森から突進してきて,唸り声を上げ,スクレーリンガルたちはギョッとして,逃げていった.
3週間たったのち,襲撃してきたので戦闘となった.
スクレーリンガルの飛び道具により,戦意を喪失するが,妊婦のフレイディースの行動に恐れをなし,スクレーリンガルたちは戦意を失い撤退する.
この戦闘でカルルスエヴニ側は2人が戦死した.スクレーリンガル側は多数の犠牲者が出た.
先住民との衝突の危険性を考え,撤退する.
北上の途中,5人のスクレーリンガルを発見し,陸地から襲ってきた一味の回し者と考え,5人を撃ち殺した」
とのこと.
この内容から,
・物々交換(バーター貿易)から,雄牛の事件をきっかけに関係が悪化し衝突となったこと.
・飛び道具によりすぐに戦意を喪失したり,妊婦のような女性も参加していることから,もともと戦闘を想定して遠征を組織しているわけではないこと.
・カルルスエヴニ側は2人が戦死し,スクレーリンガル側は多数の犠牲者が出た
というので(サガによればですが),撤退理由が戦いの優劣ではないことが推測されます.
スクレーリンガルは,『赤毛のエイリックのサガ』によれば,
・投石器を武器として使用している.
・革の胴衣を着ていて,木製の入れ物を持っている.
・斧を知らない.
・王たちに治められていているといっている.
・岩穴や洞窟に寝泊まりしている.
ということぐらいしか分かりません.
なお,1992年に,イティルの可能性がある古墳群遺跡が,ロシア発掘チームによりカスピ海の小島で発掘された,という話のようです.続報は不明.
10年たって報告が出てないってことはないでしょうから,イティルでなかった可能性が高いのでは?と思われます.
ヴァイキングの東方へ進出についてのサガには『イングヴァールのサガ』があり,マッツ・G・ラーション『悲劇のヴァイキング遠征』(新宿書房,2004年12月31日発行)は,このサガをルーン石碑などとともに読み解いています.
遺跡としては,カナダのニューファンドランド島ランス・オ・メドーズ(ランゾー・メドーズ,L'Anse-aux-Meadows)
北アメリカにヴァイキングの居住跡とされる有力な場所があります.
ノルウェーの調査隊が1961-68年に調査を行ない,発見した炭素殻と炭より,放射性炭素の分析から860-890,1060-70年と推定されています.
ヴァイキングの生活をしていたことを示す85個の遺物を発掘し,カナダ政府環境省公園管理局
(ここが管轄)の1973-77年の調査で45個の遺物を発掘しました.
合計130点であるが,これはランス・オ・メドーズとほぼ同規模のアイスランドのクヴィタルホルトの遺跡から出土した遺物88点に比べて多いものの,出土品のほとんどが鉄と鋲であることは共通しています.
ヴァイキングの居住を示すものは,例えば羊毛を紡ぐための糸巻きの破片が見つかっていることなどがあげられるています.
〜〜イヴ・コア『ヴァイキング』創元社 「ランス・オ・メドーズの遺跡」より
余談.
これが幸村誠「ヴィンランド・サガ」に登場するヴィンランドなのかも知れないし,そうでないのかも知れませんが,関連づけるに足りるものが不足しています.
【質問】
どうしてヴァイキングは略奪止めたの?
【回答】
侵略されていた諸民族が封建国家を完成させた中世には,形勢を完全に逆転されますた.
いったんヨーロッパが堅固たる国家体制をととのえてしまえば,がんらい技術も総生産も総合的な技術もたち遅れていた未開の北欧人やアジア遊牧民は,基礎体力で太刀打ちできません.
で,じぶんたちも慌ててキリスト教に改宗し,封建国家(スウェーデンやデンマーク,ハンガリーやブルガリアなど)建設へと舵を切ったわけです.
もっと言えば,ヴァイキングの北にヴァイキングは居なかったからだと思います.
【珍説】
8世紀から10世紀にかけて,北方のノルマン人はバイキングとなり,ヨーロッパ全域を侵略し,略奪,放火,殺戮の限りを尽くし,人々を捕らえ,奴隷としてイスラム世界などへ売っていた.
より遠くへ遠征し,珍しい品物を入手することが,彼らの権威を高める手段だった.
〔略〕
こうしてバイキングはフランク王国,イングランド王国などを滅ぼし,現代の英仏など,ヨーロッパ諸国の基礎を築いていったのである.
(小林よしのり「戦争論」3,2003/7, p.162-163)
【事実】
まるでマンガを鵜呑みにしちゃったようなヴァイキング観ですな.
彼らが略奪等を行った事は否定しません.
そもそも北欧諸国の王権は,略奪行に由来してるそうです.
「王権の成長自体がヴァイキング活動に関係があったのである」
「〜地域間の争いを平和的に解決し,共通する外敵を撃退し,また結束して遠征するために,連合することを必要とした」
「財政的にみても王権は,「国民」の租税にではなく,対外的な略奪や交易に依存していた
〜少なくとも恒常的な租税はなかった
〜遠征こそが王権の形成根拠であり,存在理由でもあった」
『山川出版社「北欧史」熊野聰他著』
ですが,実際は略奪だけではありません.
バイキングの船出の本来の目的は交易です.いわゆる運送屋.
その上,鉄工を主体として手工業も得意.ピピン一族はアウストラシアの鉄産地の出身です.
以下,ヴァイキングの輸出品目;
ガラス製小像,鹿の角の工芸品,銅の工芸品,青銅の工芸品,水晶玉,ガラス玉,陶器,ガラス細工,琥珀の装身具,農産物,織物,奴隷,干し魚,蜂蜜,毛皮,セイウチの牙の工芸品,セイウチの皮,イッカククジラの牙,手織りの毛織物,ハヤブサ,鉄
取引にはアッバース朝の銀貨を使っていました.
ヴァイキングの「農民」としての側面も,知られているような知られていないような.
ヴァイキングは,その海賊行為だけで生活していたように考えられてきました.
その後,商業部分が評価されるが,今度は交易者としての過大な評価のため,個人的土地所有者,「農民」としての存在が見失なわれています.
交易,ヴァイキング,傭兵などの活動は,定着前の富をなす手段でしかない,という見解を示す熊野聰氏の『北の農民ヴァイキング』(平凡社)などを読んでみると,ヴァイキング=海賊のイメージの人にとっては,目から鱗なのかも知れません.
彼らの探検・征服行も,新たな農地を手に入れるためです.
また,「カラーイラスト 世界の生活史6 ヴァイキング」も,いい感じの本ですが,色彩が派手で,実際はもっと地味だったんだろう思われます.
ヴァイキング=北欧人として,金髪碧眼のイメージが強いが,金髪碧眼が多かったかどうかは怪しいものがあります.
ヴァイキングの襲撃を受けた人びとは,特に目立つ金髪にのみ言及し,また現代の北欧人のイメージとあいまって定着しがちです.
しかしレジス・ボワイエは,『ヴィキングの暮らしと文化』(白水社)において,多くは茶色の髪の毛で,たとえば,「アイスランドのサガ」に登場する人物は,茶色の髪をした黒い瞳の娘などであるとしています.
仮にもプロなんだから,少しは調べてから描こうぜ,小林爺さんよ.
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
アングロサクソンの祖先は海賊であり,イギリスは「海賊立国」である.
だが彼らは,その略奪・殺戮の歴史に罪悪感を持つどころか…祖先が「勇敢なバイキング」だったことを今でも誇りにしている.
(小林よしのり「戦争論」3,2003/7, p.163)
【ツッコミ】
「現代の価値観で,過去の事象を批判するな」
by 小林よしのり
なお,ノルマン・コンクエストは王室が変わっただけで,それ以外の階級が変化したわけではありません.
ヴァイキングがアングロサクソンの祖先という言い方も正確ではありません.
ノルマンが後にアングロサクソンに同化したのが真実です.
ちなみに,勝ったウィリアム1世と,負けたハロルド2世は親戚同士.
イングランドの農業は小作農制で,農奴制はありませんでした.
民族による階級の区分があったわけでもありません.
しいて言えば,
ノルマン&アングロサクソン>ケルト
ですが,そういった民族的階級区分よりも,中世文化においては,
王侯貴族>農民
という身分的職業的階級区分の方が際立っています.
【珍説】
この500年の世界史の真実を見ておこう!
大量破壊兵器の所有と言う濡れ衣を着せてまで,イラク侵略を押し切り,石油利権の強奪を図ったアメリカ・イギリスの白人どもが,先祖返りを起こしている実態を知っておくのだ!
(小林よしのり「戦争論」3,2003/7, p.163)
【事実】
イラク戦争の各項で述べた通りですので,反証を用意してから論壇に出直してきてください.
それにしても,バイキングの歴史一つろくに調べもしないでおきながら,「世界史の真実」とヌケヌケと言える口は,どの口ですか?
【質問】
バイキングが乗っていたあの独特の船は,何か呼び名があるんでしょうか?
調べてみてもたいていは「バイキング船」としか載っていないもんで.
【回答】
大きく分けて
戦闘用はロングシップ
貨物用はクノール
サガでは,直接的な表現をとらず,「海の馬」といった表現で表わされる.
いわゆるヴァイキング船については,ここがくわしい.
http://www.runsten.info/viking/ship/index.htm
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