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14〜16世紀
戦史FAQ目次


◆14〜16世紀


 【質問】
 正法寺と厚保地頭の紛争について教えられたし.

 【回答】
 さて,霜月騒動によって一時的に没落した金澤家は,結果的に復活し,金澤実政は鎮西探題に栄進して,その被官衆も一陽来復がやってきます.
 その1人,長門掃部左衛門尉長義は,1298年8月11日から2年後に長門探題北条時村が入府するまでの空白期間,長門守護代を務め,後に九州に渡って鎮西探題引付二番,肥後守護代,肥前守護代を歴任します.

 1305年4月3日,長門掃部左衛門尉長義の孫,長門六郎左衛門朝尚は,祖父の弘安の役の功により,長門国厚保庄の地頭に着任します.
 朝尚はその頃僅か10余歳で,最初の地頭館は西厚保の大村に起きます.
 その後,南北朝動乱期には西方1kmの西厚保本久に移動し,1470年代頃に長門小守護代厚安来守が登場して本久に厚城を築城しています.

 それは扨措き,長門朝尚の着任翌年の1306年に領家の松岳山正法寺との間に紛争が発生しました.
 これは,4期に渡って,実に100年に亘って展開されています.
 領家と地頭の紛争は,例えば,地頭がその武力にものを言わせて不当に荘園を侵害した場合もありますが,当時は現在と違って(現在でも境界紛争は拗れる可能性が高いですが)地籍台帳の様なものはなく,それぞれの自己主張ですので,長引く場合がありました.

 特に,幕府が故意か過誤かに関わらず,杜撰な決定を下した場合は結着に至らず泥沼の紛争を引き起こしました.
 「地頭乱妨」と言われるものは殆どがこの分類に入ります.
 この場合,領家は朝廷の決定を盾に取り,地頭は幕府の決定を盾に取ります.
 互いに権力側の面子も掛かっているので,その争論は水掛け論に終始しました.

 この正法寺と厚保地頭の紛争は,4期に分けられます.
 第1期は,1306〜1308年で,これは六波羅南探題金澤貞顕の施行状により一時沈静します.
 第2期は,1323〜1325年で,これは探題金澤時直に綸旨が下って争われました.
 第3期は,1333〜1335年で,これは長門守護である厚東武実が厚尚種,政忠への通告で沈静化.
 第4期は,1391〜1411年で,応永の乱後により厚保地頭が大嶺地頭の由利氏が兼任した為,正法寺と由利氏との間で争われ,大内盛見の手で結着しました.
 この最後の第4期,正法寺は厚狭の箱田氏とも紛争を起こしています.

 この紛争の原因ですが,誠に他愛のないものだったりします.
 厚保の地は松岳山北坂本沓野の一部を,元々松岳山正法寺が領していました.
 1305年に厚保地頭に就任した長門朝尚は,幕府の定めた権限で活動を開始しましたが,沓野の正法寺領であった未開発地の開拓に手を染めました.
 当時,未開発地を開拓すれば11町に1町は自分の給田として認められ,段5升の加徴米も入ってきます.

 ところが,正法寺から異議が出ます.
厚保地頭が開発した土地は自分達の土地であり,免地,即ち税を免ぜられた朝廷から与えられた寺固有の所有地であり,地頭の代行管理の枠外とすべき土地であり,寺が自力耕作するので,寺に返せと言う主張です.
 長門朝尚の着任時,幕府からは細かい点での指示はなく,給領地境は現地に行って決める様に指示されるという極めて大雑把なものでした.
 其所で当該の土地も,地頭が領家に代わって管理して良いものと厚保地頭側では考えていました.

 寝耳に水の訴えでしたが,既に開発は進み,地頭側も相当な資金や労力を投入していました.

 1306年,国司は院宣を奉じ長門朝尚の松岳山免田内,北坂本の沓野開発田及び荒野等の乱妨を止めるように命じました.
 この時期は,連署兼長門探題北条時村が北条宗方の陰謀で,1305年4月23日に暗殺され,北条熙時が短期間後任となり,北条時仲に引き継ぐまでの武家方が不安定な時期の出来事です.
 とは言え,院宣が絡んでいるので,そのまま黙殺出来る性質のものではなく,厚保地頭は直ちに反論を提起しています.
 正法寺は問題の土地に限っては,固有の土地として頑として地頭に管理されることを拒否しています.
 以後,訴訟は水掛け論で終始したと思われ,何の進展もありませんでした.

 1308年9月27日,六波羅南探題金澤定顕から長門探題北条時仲に対し,以後15年間は紛争中止と言う棚上げ案が示され,金澤氏被官である長門朝尚もそれに従うことになり,第1期の争論は終熄しました.

 1321年,1319年に長門探題だった北条時仲が辞任し,1323年に金澤時直が同職に就任する空白期間の丁度中間で,長門探題(と言うか長門守護代と考えられる.)から天皇の綸旨六波羅施行により,松岳山寺領地頭乱妨を止めて寺に返すようにせよとの意向が伝えられました.
 この意向は結局,蒸し返されたものの,本格的な争論には至らなかった形で沈静化したようです.

 1333年に鎌倉幕府が滅亡すると,再び正法寺は蠢動します.
 てな訳で,次回は,建武新政と室町時代の動きを中心に書いてみたり.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/14 21:45
青文字:加筆改修部分

 1332年から鎌倉幕府は凋落の一途を辿ります.
 1332年に楠木正成が千早城に籠もり,護良親王が吉野で挙兵し,後醍醐天皇が隠岐に流されます.

 しかし,1333年2月には後醍醐天皇は隠岐を脱し,名和長年に迎えられて船上山に籠もりました.
 長門探題北条時直は,防長の将兵1,000余騎を率いて東上しますが,備後で村上義弘に遮られ,何故か転じて伊予に攻め込み土居通増の居城に押し寄せますが,北条時直軍の厚東武実が敵に内応していると言う風聞が立ち,豊田種長の献言で兵糧米を遺棄して退却してしまいました.
 3月11日に再び北条時直軍は再び伊予に攻め込み,平井城に攻め寄せて,土居・得能連合軍と合戦しましたが,12日には大敗を喫し,長門勢の田耕氏,山中氏,佐々木氏,馬場氏,厚東氏,岡崎氏,厚氏,箱田氏,豊田氏,岡部氏など,周防勢の深野氏,柳井氏,右田氏,中野氏に戦死が相次いで,北条時直は命からがら長門長府に逃れます.

 3月29日には石見の高津道性が3,000余騎を率いて長門に攻め込み,長門探題軍と美祢郡大嶺で合戦を行いますが,この頃には,厚東氏,厚氏,秋吉氏(岡崎氏),岩永氏(岡崎氏),伊佐氏(佐々木氏),箱田氏(厚狭下津井地頭),河越氏(大嶺奥分地頭),松屋氏(厚狭郡王喜村地頭),由利氏(大嶺地頭)は反北条の軍勢に参陣し,反北条に付かねば即日撃滅される状況に陥っています.

 鎮西では,肥後の菊池武時が鎮西探題に攻め込み,大友少弐の軍勢と戦って敗死しましたが,大友少弐は天下の形勢を見て反北条に寝返り,逆に鎮西探題を攻めて陥落させています.
 京では足利尊氏が挙兵して5月6日に南北の六波羅探題を陥し,関東では新田義貞が上野で5月に挙兵し,鎌倉を陥して,執権北条高時と金澤貞顕を始め一門悉くが戦死か自刃して鎌倉幕府が滅亡しました.

 こうして6月には後醍醐天皇が京に帰り,建武新政が始まる訳ですが,これは教科書でも触れられている通り,倒幕の主力となった武士に冷たく,公家の私心のみで政治を行い,逆に武士の離反を招きます.
 特に,8月に行った諸将の論功行賞は,朝廷は武士に奪われた貴族の所領奪還を考え,一部の武将のみ優遇して,それに劣らない功を上げた武将,例えば赤松氏などには冷や飯を食わせました.
 尤も,北条一門から取上げた土地を恩賞地として分配してもどうしても足りない事態になったのも判りますが,公家の中には,可愛がっている遊女に土地を与えた者もおり,武士達を憤激させています.

 長門守護にはこの結果,輔大納言,即ち万里小路宣房が就任しました.

 ここぞとばかり,松岳山正法寺は,長門国衙と長門守護輔大納言に対し,厚保地頭の乱妨を禁ずるように願い出ます.
 しかも,彼等が提出した文書には,守護地頭の制度を改めようとしていた新政権の動きを示すかのように,厚保地頭とは書かず,「前地頭尚種・政忠」と書いていました.

 1334年5月,万里小路宣房に代り,長門守護として厚東武実が着任します.
 8月26日に,雑訴決断所は長門松岳山領の乱妨を禁じるように厚保地頭尚種に伝えました.
 厚氏は直ちに異議申立てを雑訴決断所に提出し,再び水掛け論が始まりました.
 この判決は,1335年に長門守護厚東武実によって是認され,厚保地頭にその指示を伝えています.

 この1334〜35年は,1334年2月に九州で前肥後守護の規矩高政が挙兵して玉砕し,4月には同じく前豊前守護である糸田貞義が堀口で兵を挙げて玉砕,1335年正月には長門国府佐加利山城に北条後裔の上野四郎,越後左近次郎が挙兵し,少弐頼尚によって討滅され,7月には北条時行が鎌倉を攻めて陥落させて,足利直義が敗走しています.
 こうした中,8月に足利尊氏は北条時行を破って鎌倉に入り,その地で叛旗を翻しました.
 12月には足利尊氏は箱根竹下で新田義貞を破り,敗走する義貞を追って尊氏は西走し,それを追って北畠顕家が西上する展開になります.

 1336年2月,尊氏は摂津で敗れ,大内厚東の兵船で九州に敗走しますが,多々良浜で菊池軍と対決して,大友少弐の援軍と高師直の猪突猛進で奇跡的な勝利を得ました.
 こうした情勢を見て,長門守護厚東武実と大嶺地頭由利基久等は兵船を集めて尊氏に提供し,備後の鞆から陸海に分かれて進軍すると共に,防長の兵は足利直義に従って陸路東上し,湊川で合戦して,新田義貞と楠木正成を破り,京の大宮口で名和長年は長門厚東軍,九州松浦軍に敗れ,首を取られました.
 その結果,朝廷は南北に分かれ,南北朝時代が幕を開けます.

 防長諸国の御家人達は厚東武実,次いで厚東武村に付いて,北畠顕家と戦ったり,楠木正行と戦うなど戦闘を重ね,その奮戦の所為か,高師直軍に組込まれることになりました.
 ところが,1349年に足利直冬が幕府によって長門探題となり,備後備中安芸周防長門出雲因幡伯耆と中国8カ国の経営に当らせることにしましたが,直冬は直義と組んで尊氏と義詮と対立してしまいます.
 しかし,高師直が防長の御家人を抑えていた為,軍事力を得られなかった直冬は備後鞆津から四国を経て肥後の河尻幸隆に迎えられて九州に入り,直義は出家してしまいました.

 この時期は何が何やら,なのですが,1351年に尊氏は直義と和して,今度は高師直,師泰を上杉と畠山の兵に襲わせて加古川で殺してしまいます.
 そうは言いつつ,足利義詮の方は直義となお不和で,直義は折角中央に返り咲いたものの,北陸に逃走してしまいました.
 尊氏と義詮は南朝に下って,直義は南朝から追討を命じられています.

 長門では厚東武村が死に,厚東武直が跡を継ぎますが,豊田種藤の一族である種本が直冬に応じて挙兵し,尊氏派の小野資村に討たれると言う事件が発生します.

 1352年,尊氏は直義を毒殺しますが,これにより直冬は後ろ盾を失ってしまいます.
 直冬は九州で一色・大友の軍勢と戦いますが敗れ,長門の豊田種藤を頼って落ち延び,密かに南朝に通じて,11月には南朝に帰順しました.
 この頃,厚東武直が死に,厚東義武が跡を継ぎます.
 足利直冬は軍勢を挙げて,東上を計り,1354年には桃井直常と連合して京都を陥れ,尊氏は佐々木道誉の守る近江に逃れました.
 九州では,1355年に少弐氏と大友氏が征西将軍に通じ,九州探題一色範氏を攻め,一色氏は九州を退却して長門厚東氏を頼りました.
 一方,その長門でも南軍の大内弘世が周防を平定した後,厚東義武の長門霧降山城を包囲します.
 しかし,2月に直冬と尊氏が京で戦い,3月には尊氏が勝利して直冬は周防に逃れています.

 この様に,南北朝時代は何が何やらさっぱりわからん時代で,昨日の敵は今日の友,今日の友は明日の敵状態となります.
 長門でも例外ではなく,守護に組込まれた地頭たちは何とかして家を保とうと苦心惨憺しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/15 18:45

 さて,鎌倉幕府を倒した武家でしたが,北朝と南朝で骨肉の争いを繰り返します.
 しかも,朝廷でも将軍でも全く理念のない争いを繰り返した為,節操のない戦いのみ繰り広げました.
 それに巻き込まれた人達は,好い迷惑です.

 1358年に足利尊氏は死去しますが,この混乱は続きます.
 1月2日に,北朝の厚東義武の本城霜降山城を,南軍の大内弘世が猛攻撃します.
 その結果,城は落ち,厚東義武は城を捨てて豊前規矩郡へと落ち延びていきます.
 藤原氏系豊田氏は大内弘世に与し,6月23日には大内弘世は宮方から周防に加えて長門守護に補されました.
 九州では,少弐と大友両軍が征西将軍懐良親王に叛いて叛旗を翻しますが,菊池武光と共に筑後川の合戦で勝利し,九州の大半を制し,西日本に掛けてはほぼ宮方が制することとなります.

 この勢いに乗じて1359年12月26日,厚東義武は長門奪還を目指して長門国府四天王寺山に兵を挙げますが,大内弘世は大軍を以て攻め込み,厚東義武は命からがら九州に逃げ帰ります.

 一方で,菊池武光は少弐頼国を筑前から追い払い,山名時氏は足利直冬と合流して,丹波で足利義詮の軍勢と戦います.
 少弐が敗れたことで,九州探題斯波氏経はあろうことか周防の大内氏に支援を求めました.
 大内氏も,船が1艘日本に着くだけで莫大な利益を得ることが可能(幕末期の日宋交易の際は,船1艘着けば大規模寺院が3〜4箇所建立出来たとされる)である博多をその手中に収めるのは魅力的であり,あっさり北朝方に転じて北朝の防長守護となります.
 厚東武実はそれに激怒して南朝に降り,南朝の長門守護に転身し,肥後菊池軍傘下に入りました.

 野望を胸に,1364年,大内弘世は豊前馬岳で南軍の厚東義武,菊池,名和,原田,秋月の連合軍と戦いますが,当然,兵力の差には勝てず,南軍に復帰することと長門を厚東氏に返すことを条件に和睦し,周防に戻ります.
 ところが,舌の根も乾かぬうちに1366年に再び周防で北朝方であることを宣言した為,菊池と名和の両軍が長門に攻め入り,長門国府を占領しました.
 しかし,こちらはホームグラウンド.
 大内弘世は北九州の北軍と連携し,彼等の補給路を脅かした為,両軍は厚東氏に長門を与えて退陣します.

 一方,大内弘世は更に実力を蓄える為,益田兼見を先頭に石見に攻め入り,これを平定すると共に,長門では厚東氏を追い詰める為に国人達を締め付けています.
 支援が得られなかった厚東氏は結局長門を放棄し,九州に去ってしまいました.
 結局,厚東氏は領国を失い,その後菊池軍の配下で戦国を戦うこととなります.
 石見を平定した大内弘世は,更に安芸に進撃して南朝方の諸国人を下しました.

 そして,1367年には足利義詮が卒去し,1371年にはいよいよ九州の南北朝を終焉に追い込むべく,九州探題として今川了俊が下向しました.
 これに随行したのが,大内弘世の息子である大内義弘で,大内義弘の鬼神の如き活躍で2年後には九州の大半を制圧します.
 その補佐役は,杉重運と平井道助で,その後,大内氏は200年に亘って博多を経営し,また豊前にも所領を得て別府に興禅院を創建しました.
 1373年になると,南朝方の菊池武光が没し,1374年にはそれに代わるように大内義弘は豊前の守護にも任ぜられました.
 征西府は4月に伊予の河野通直に命じて周防の大内氏を攻撃させますが失敗に終わり,菊池武朝は失意のうちに領国肥後に引揚げ,厚東氏もそれに従っています.

 1375年には今川了俊が再び動き,少弐冬資を騙し討ちしますが,これに怒ったのが薩摩の島津氏久で,島津が南朝に転じました.
 一方,大内義弘は,松浦と千葉連合軍と戦ったり,今川仲秋と連携して菊池武朝と戦ったりと八面六臂の活躍で,遂に1381年に菊池武朝の肥後城野城を攻略しました.
 こうして,九州の北部は完全に鎮定され,1380年に大内弘世が没して大内義弘が跡を継ぎ,更に1387年には,この乱の大元の一つだった足利直冬が石見で没します.

 これでやっと世の中が落ち着いたと思いきや然に非ず.
 1391年にはその権力の巨大化を憂えた足利義満の計略で山名氏清が叛乱を起こし,二條大宮で大内義弘と戦うことになりました.
 この結果,山名氏は敗北して大内義弘は紀伊と和泉の守護職を与えられる事にもなりました.
 つまり,大内氏の領国は,周防・長門・豊前・石見・和泉・紀伊にまで拡がった訳ですが,八分の一殿と呼ばれた山名氏清が義満の計略で叛乱を起こし,敗北して討たれたのに,余りに大内義弘は脳天気でした.

 足利義満は博多と堺を使った日明貿易にも意欲的でした.
 それには,その両地を抑えている大内氏が邪魔になった訳です.
 こうして,足利義満は大内氏の内部対立を煽っておいて,1399年に大内義弘を堺に迎え撃ち,遂にはこれを殺してしまいました.
 大内氏の領国は防長二カ国に減らされ,幕軍に降った弟の弘茂が後任となって幕府の援軍と共に領国に帰っていきます.
 留守を守っていたのは大内盛見であり,盛見は幕軍の鋭鋒を避けて豊前・豊後に九州に逃れる事になりました.

 暫くなりを潜めていた大内盛見は,1401年に密かに渡海して長門長府の弘茂を奇襲して破り,盛山城で弘茂を討ち取ります.
 弘茂は豪傑肌ではなく,盛見も攻撃の気配を見せなかった為,わざわざ豊前に渡海してまで盛見を攻めなかったのが徒になった訳です.

 こうして戻った盛見は,杉重綱を先頭に弘茂方の国人を粛清する挙に出ました.
 厚狭の箱田弘貞,豊浦郡の橘氏流豊田氏を滅ぼし,青景秀国は下津の長光寺で一族11人と共に合戦の後自害.
 厚保地頭の大村肥後守は熊野権現の神面を顔に付けて奮戦し,最後には厚狭川に人馬諸共飛び込んで自害しました.
 因みに,この神面は杉氏が大村氏に与えたもので,それを付けての奮戦は,杉重綱に対する強力な皮肉だったと思われます.
 厚保地頭は大嶺地頭の由利尚詮に与えられました.

 本来ならば,こうした事をしなくても良かったのかも知れませんが,外部から来た人間がその領土を帰服させるには,その地の実力者を葬るのが一番ですし,彼等を粛清すれば,付いてきてくれた部下に恩賞となる土地を捻出することが出来ます.
 結局,幕府もこれを追認せざるを得なくなり,1403年に大内盛見は周防・長門・豊前守護になりました.
 更に,筑前進出を図って少弐と対立し,今川氏の後継の九州探題である渋川氏を傀儡にする様にしていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/16 21:04

 で,何で昨日まで延々と南北朝の話を書いてをきたかと言うと,地頭と松岳山正法寺との戦いは未だ終わってなかったからだった訳で….
 それを理解しようとすると,鎌倉幕府の崩壊から此処までの歴史に触れざるを得なかったりする訳で….

 1408年,松岳山正法寺は長門守護となっていた大内盛見に宿訴して,厚保地頭の由利氏,厚狭地頭の箱田氏と四度争うこととなりました.
 最初の訴えから既に100余年が過ぎていますが,未だにこの訴訟は尾を引いており,この種の訴訟としては最長記録を打ち立てています.
 大内盛見は,最終的に,この争論に結着を付けました.
 その方法は残念ながら残されていませんが,神仏崇敬思想の強い盛見の事ですから,代替地を提供した可能性が高いと思われます.

 しかし,従来は中央政府での争論で二進も三進も行かなかった出来事が,中央からの指示ではなく,守護大名の一存で処理出来る時代になって初めて解決をみた訳です.

 上代の律令制度下で,土地は公地公民制でした.
 ところが,律令制度下に開拓した土地は私有地として認めた事がそもそもの発端です.
 占有者は,その土地を開拓出来るだけの資本を持った皇族・貴族・大社寺などであり,土地は「荘園」と呼ばれました.
 当初は,自らの力でその開拓地を開発していましたが,次第に地方豪族が自力開発の土地を中央の権門勢家に寄進した形を採り,実質的にその地方豪族が土地を支配する荘園が出て来ました.
 荘園の名義上の土地支配者は本所又は本家と呼び,実質上の土地支配者を領主,三位以上の位階を持つ者を領家と呼びました.

 荘園主は年貢収納が主な役割であり,土地や人民を支配することはありません.
 そのうち,荘園の在地で直接にその荘園の運営に当る地方豪族が武装化して次第に武士として台頭していきます.

 こうして武士が力を得て鎌倉幕府が成立すると,源頼朝は大江広元の献策を採用して守護地頭を地方支配機関として配していきます.
 地頭には1段(1,000m^2強)につき,年に5升を兵糧米の得分と定めました.
 当初は平家に味方した者の土地を取上げ,全国に500余箇所に地頭を起きますが,承久の乱で上皇方が敗れると,その数は一挙に増え,3,000余カ所以上の地頭配置に至ります.
 そのうち,源氏将軍が暗殺され,執権政治に至ると,北条義時は荘園に配置した地頭の得分を11町に付き1町を給田とすると定め,更に1段につき,年5升の加徴米の取得を継承します.
 加徴米は,農民から直接搾取するのではなく,領家への納米から差引く制度でした.
 とは言え,良田でも当時,1段12斗から16斗の収穫であり,その内の5斗と言えば相当額を差引かれる計算になります.
 こうなると,地元を支配している地頭の方が有利で,荘園制は急速に衰退してしまいます.

 中には,地頭が取り立てた年貢を領主に納めないと言う事例も出て来ました.
 荘園領主と地頭は常に対立していますが,やがて,両者の和解の方法として,下地中分と言う考え方が編み出されます.
 即ち,領家と地頭が荘園を2分して,互いに相手の権利を侵さないものとすると言うもので,幕府はこの方法を推奨しました.

 そして,鎌倉幕府が消滅し,建武新政で再び荘園領主に有利になるかに見えましたが,その政治に幻滅した武士がやがて叛乱を起こし,荘園への武士の押領は常ならず発生するようになりました.
 足利幕府は,荘園領主に納入すべき年貢の半分を武士が兵糧米として取得する半済と言う制度を開始しますが,時限的措置のそれは,何時の間にか常態化し,荘園の土地までも半分を奪い取ることになっていきます.

 鎌倉時代にしても室町時代にしても,地頭が荘園に配置されると,地頭と本所・領家との間に紛争が盛んに起こりました.
 両者の権限に分明を欠くところが多かったのが原因で,その殆どは訴訟となり,幕府がその判決の権限を有していました.
 と言うのも,地頭職は幕府の権限に属していたからです.
 幕府の建前は,公正公平でしたが,武家の権限を増大させ,武士の経済力を高め,その生活を守らなければならない立場から,全ての土地を武士の一元支配とすることを目指しており,裁判は概ね武士に有利であり,不利の場合は,判決の引き延ばしとか,実行されないと言ったケースが続発することとなります.

 更に本所・領家に不利だったのは,領家と地頭の権利の錯綜が甚だしく,しかも荘園毎に事情が異なり,その上,しっかりした成文法は無く,慣習法での判断が行われた為,水掛け論に陥ることが多かったりします.
 その上,本所・領家がその判決に逆らうと,政府批判の科で遠島やら下手すれば首が飛びかねない状態でしたので,ひたすら地頭を乱妨として訴訟を展開するほかなく,裁判は当然,不徹底を極めました.

 因みに,日本の土地は,北条義時が執権だった時に,武士の支配下にあったのは10%でしたが,蒙古撃退の祈願により一時的に社寺の所領が増えたのも束の間,鎌倉末期には約半分が侵略され,南北朝期には半済制度,下地中分で,75%を武士が支配するに至り,守護大名が任命されて分国制が確立すると,荘園は粗方消滅してしまいました.

 そう言う意味では,この正法寺と厚保地頭等の訴訟は,荘園消滅時の一つの光芒的なものだったかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/17 22:21

 さて,松岳山正法寺と厚保地頭の戦いがこれだけ長引いたのは,後についていた勢力の為でした.
 正法寺の主張は,北坂本の一部の土地は,朝廷が承認した寺固有の土地であり,地頭が代行管理すべき土地ではないから寺に返せと言うもの.
 厚保地頭側の主張は,この土地は地頭管理が許される土地であり,それを否定する寺側の根拠は甚だ貧弱であり,納得出来ないと言うものです.

 これは単純に見れば,「地頭による寺の土地の押領」ですが,事は単純ではありません.
 正法寺の知行と言うのは,1400年代後期の文書では厚狭郡に平田21町6反70歩有していました.
 この内から災害地を若干差引き,反当りの年貢米を2斗として計40石ほどです.
 この厚狭郡の土地の中でも厚保村は平田6町6反で,その内から災害地2町5反20歩を差引くと残りは4町4反40歩で,反別2斗の年貢として,正法寺が得られる得分,即ち年貢は8石8斗でした.

 そして,問題の免田及び荒野は2〜3反程度,これを地頭が代行管理したとしても,地頭の得分は米2俵か3俵程度であり,経済的魅力は殆ど無いに等しかったりします.
 その上,中世の厚保村には未開発地が広大で,紛争が生じるような土地は地頭にとって正直な所有り難迷惑でしかありません.
 一方で,正法寺にとってみても,小作人を使って直接耕作した場合と,地頭に管理させて年貢を納めさせた場合の比較では大して差がなかったりします.
 それに比して,訴訟の費用は巨額で(何しろ,厚保から出て長府に出る,或いは京まで出向くなどの経費だけで馬鹿になりませんから),土地の価値から見れば,全く採算が取れるものではありません.

 では,この訴訟の意味は何か?
 正法寺は朝廷の系列下にあり,厚保地頭は幕府の系列化の一員です.
 朝廷と幕府がまともにぶつかる場所では,双方面子に拘って,引くに引けない状況に陥っていました.
 鎌倉幕府は守護地頭の制度を設置して,荘園を破壊し,武士勢力の拡大に一向これ努めました.
 これに対し,荘園を守る朝廷側が採った戦術が,全国の荘園管理者に指示して訴訟を盛んに起こした訳です.
 幕府側が地頭に示した規定,指示は極めて杜撰で訴訟の材料はいくらでもありました.
 こうした訴訟を起こすことで,幕府の威信を落とすのが朝廷側の戦術でした.
 かくて,日本列島は荘園と地頭の訴訟が雲のように拡がって,訴訟の無かった土地は皆無とまで言われるまでになります.

 朝廷の訴訟戦術では,荘園主を巧妙に指導しています.
 彼等は,幕府を直接批判すると身に危険が及ぶことになりますから,幕府への批判は一切行わず,地頭を悪者として攻撃し,幕府を間接的に攻めると言う方法を採った訳です.
 正法寺側は,文書上は新院や天皇まで動かしていますが,実態は寺側の工作ではなく,朝廷側からの積極的な支持後援が為されたものと考える事が出来ます.

 厚保地頭の側から見ると,こちらは非常に厳しい立場でした.
 仮に代行管理が不当な土地であっても,一度代行管理の許容される土地として幕府から指示されている場合は,何としてもその土地を守り抜かなければなりません.
 それが如何に杜撰な指示であっても,投げ出すことは地頭の威信ばかりでなく,幕府の威信をも傷つけることになります.
 その上,充分な論拠を持たない相手に対し,直ぐに腰砕けになるようでは,地頭としての職分に対し不適格の烙印を押されかねません.
 幕府が目指すのは,あくまでも,武士による土地の一元管理であり,こちらも陰に日に幕閣の要路から支援を受けていた事は間違い有りません.

 厚保地頭と正法寺の争論は,単に事は小さな土地の奪い合いではなく,全国的に展開された幕府と朝廷の命運をかけた権力争奪の代理戦争の一コマだったのです.
 正法寺のバックに付いて,あれこれ指示を出していたのは朝廷であり,厚保地頭のバックに付いてそれを支援していたのは幕府でした.

 互いに相譲れない相手ですから,争論は常に水掛け論に終始し,中々進展がないのは当たり前です.
 それを解決させたのは,朝廷からも,幕府からも離れた形で,在地を支配していた守護大名です.
 守護大名は,自分の領国の繁栄が第一であり,中央の形勢を気に掛ける必要が余りありません.
 其所で,両者の調停者として名乗りを上げ,矛を収めさせることが出来る様になった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/18 22:07

 さて,大内氏は周防と石見,長門の守護となっていた訳ですが,更に対岸の豊前,そして勘合貿易の利を目指して筑前へも食指を延ばしていました.
 大内盛見は魔将軍足利義教と組んで,筑前の幕領化を目指して蠢動していましたが,筑前深江または荻原にてあっけなく大友・少弐連合軍と戦って討ち死にしてしまいます.
 これを「名将犬死」と世人は呼び,重臣も多数討ち死にを遂げ,大内勢は九州から総引揚げを行いました.
 その跡地には,大友と少弐が入り込んだ訳です.

 盛見の後は,惣領である大内持世が継ぎ,再び九州の地を奪還すべく渡海するのですが,弟である持盛は,持世の継承に不満を持ち,豊前で突如持世を急襲し,再び大内家は2つに分かれました.
 持世は石見に退去し,持盛は長門に入部して,陶盛政を守護代にします.
 将軍家は持世を支援して,山名の軍勢を増援した為,持世は周防に戻り,持盛は豊前に退去します.
 最終的には,幕命により備後,安芸,石見勢も参加した持世方により,豊後篠崎の戦いで持盛が敗死し,その勢いを駆って少弐氏の筑前二嶽城を攻略,更に筑前秋月城を攻略して少弐満貞親子を討ち死にさせ,大友城も落城して大友持直も行方知れずにするなど,北九州での大内家の勢力は大きくなります.

 更に持盛と共に叛乱を起こした満世は,持盛の敗死後密かに京に入って,将軍暗殺を企みますが,持世の雑掌である安富定範と山名の家人山口遠江守等に気づかれ,襲撃を受けて無念の討ち死にを遂げました.
 こうして前途洋々だった様に見えた大内持世でしたが,嘉吉の変により足利義教が暗殺され,同席した持世も重傷を負ってその傷が元で死亡してしまいました.

 こうして,大内教弘が跡を継ぎ,北九州の平定事業も再開します.
 念願だった筑前守護も得,各地に守護代を置いていよいよ本格的に分国統治を開始しました.
 守護代として,筑前には仁保盛安,周防には陶弘房,長門に内藤盛世,豊前に杉重国,石見に問田弘綱を置き,遂に勘合貿易もスタートさせ,大内氏の全盛期を築き上げますが,伊予の河野通春討伐中に病死してしまいました.

 跡を継いだのは大内政弘ですが,この頃から応仁の乱に突入し,大内政弘は西軍(山名宗全方)の主将として東上し,都での大戦に参加します.
 これに対し,東軍の細川勝元は,少弐嘉頼と宗盛直を動かして博多太宰府を攻め,大内の動揺を誘おうとしますが,この策謀は成功せず,大内・大友連合軍の前に両軍はあっけなく敗れ,両方とも敗死してしまいました.
 次いで,細川勝元は将軍足利義政の内書を下して,島津季久,相良為続,島津立久,大友親繁等に大内政弘の領国攻撃を命じ,それに応じた各軍は,豊前に攻め込み,その殆どを平定してしまいました.

 少弐頼忠と宗貞国は,共に九州各地を転戦し,東軍山名是豊は京に来た大内軍と戦い,更に細川勝元は,大内政弘の伯父,大内教幸(大内左京太夫南栄道頓)と筑前守護代であった仁保盛安を唆して,長門赤間で叛乱を起こさせました.
 この叛乱に,両名は大内政弘に付いて,京に赴き,相国寺の戦闘で討ち死にした陶弘房の遺児陶弘護を誘うも,弘護は拒否しました.
 もし,陶弘護が参加していたら,大内は京で根無し草になっていた可能性がありました.

 更に将軍足利義政は,安芸の小早川備後守に内書を送り,教幸支援を要請しています.
 教幸に同心したのは,仁保盛安ばかりでなく,吉見信頼,大友親繁,周布因幡守,小早河備後守,長門の豊田千代徳,飯田家勝,仁保伝国,飯田次郎右衛門,杉原次郎左衛門尉に加え,仁保弘有は,山名政豊と共に畿内の戦線を離脱して仁保盛安の元に奔りました.

 大内政弘としては最大の危機だったのですが,弱冠15歳の陶弘護は周防玖珂郡で周防の兵を率いて教幸軍と戦い,これを破ることに成功しました.
 大内教幸は安芸に逃れ,更に石見を至り,吉見信頼を頼って再び兵を挙げ,長門阿武郡賀年に攻め込みますが再び敗れ,更に陶弘護軍は江良城に教幸軍を攻めて打ち破りました.
 大内政弘も,その反乱を捨て置く訳に行かず,益田兼尭を陶弘護軍救援の為,石見益田から西下させ,吉見信頼軍と長門豊浦郡で合戦に及びました.
 厚氏,一族の大村氏など地の利がある武将達が陶・益田連合軍で活躍し,教幸は此処でも敗れ,豊前に奔りますが,小倉城,高津小城も抜かれて馬岳城に逃れ,最終的に自刃に追い込み,遂に大内家の内訌は終熄しました.

 因みに,陶弘護方は益田兼尭を大内教幸方に奔らすまいと,誓書を度々送り,周防恒富保を益田家に渡すなどして彼等の歓心を買って,遂に味方に付け,勝利しました.
 一方,益田氏の方も陶弘護が大内教幸方に付けばそちらの勝利になるのは間違いないので,彼の去就によって何れに側に付くかを決断したと言います.
 何れにしても,大内政弘は冷汗三斗の勝利だったと言えるでしょう.

 そして,その恩賞として周防守護代に陶弘護が就任し,長門守護代に内藤弘矩,更に長門小守護代には厚安芸守,伴田入道宥盛,永富因幡守嗣久が就任しました.
 小守護代というのは現在の副知事に当る役職です.

 結局,大内政弘はこれ以上領国をかき乱されるのは本望でない事を悟り,東軍に降って,将軍足利義政と日野富子に接近し,幕府は大内政弘と敵対していた,吉見・三隅・周布・福屋・佐波・高橋・厳島・小早川・吉川・天野等の諸豪族に大内との和睦を要請し,大内政弘は,周防,長門,豊前,筑前に加えて,石見仁摩郡,安芸国東西条及び本新当の知行を得て京を離れ,山口に帰ることになりました.
 そして,10年ぶりに九州に渡海し,豊前・筑前を回復して,陶弘護を筑前守護代とし,少弐教頼を討って筑前を平定しました.
 この筑前での戦闘で,旧教幸方に付いた武将達は筑前に於ける知行を失い,反乱軍と戦った武将達に新たに筑前や豊前に知行を与えました.
 因みに,筑前守護代となった陶弘護は周防守護代に専念する為,弟の右田弘詮にその職を譲りました.
 しかし,大内家救済の英雄だった陶弘護は,宴の席次を巡って因縁の相手である吉見信頼と争って刺違えて即死し,吉見信頼も長門守護代の内藤弘矩に斬殺されました.
 尤も,陶家の増長を嫌った大内政弘の差し金であるかも知れませんが.

 こうして,再び大内家に平穏な日々が帰り,山口は政弘の元で小京都と呼ばれるくらいの繁栄を謳歌します.
 とは言え,奈落は直ぐ側まで来ていたりしますが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/19 22:35

 さて,時代は一気に下って1600年.
 将軍足利義稙を迎え,管領代として栄耀栄華を誇った西国一の富有大名の面影は無く,大内は陶の叛乱に滅び,その陶も,毛利元就という希代の英傑によって滅ぼされました.
 主家が滅ぶと,その家臣達の扱いは外様となり,内藤や杉氏も権力から遠ざけられていきます.
 更に,毛利輝元の代になると,毛利両川の一人,小早川隆景はこう吐き捨てています.
「例え主君の名とは言え,理非曲直を弁えぬもほどがある.許し難き佞臣共…」.

 この言葉を発した背景には,輝元による部下の人妻の強奪事件がありました.
 児玉元良の娘を見初めた輝元が,野心を顕にする前にと,元良は娘が12歳になると周防野上の杉元宣と結婚させます.
 諦めきれない輝元は,佐世石見守,椙山土佐,椙山清兵衛親子,脇某と元宣妻の乳母の久芳の局に命じて,元宣妻の強奪を計りました.
 彼等は元宣の任地である筑前に連れて行くと偽って妻を連れ出し,野上(徳山)から無理矢理廿日市まで船で運び,付いてきた元宣の家臣を殺害し,広島まで強引に妻を引っ張っていきました.
 妻は,途中,守り刀で髪を切り,密かに供の者に渡すと,輝元の元に行き,後に二ノ丸殿と呼ばれる側室となりました.

 さぁ,そうなると黙ってられないのは,杉元宣の方.
 1589年,元宣は家来を引き連れ,軍船に乗って東上します.
 行先は大坂の地.
 つまり,豊臣秀吉に輝元の悪業を直訴し,秀吉直臣に取り立てて貰おうとした訳です.

 その伏線として,杉八家の重鎮である杉重良が,秀吉に内応していたのもあり,秀吉は決して彼等に悪感情を抱いてはいませんでした.
 また,そうした隙につけ込むことで,毛利家の領地を削ることも吝かではなかったはずです.

 とは言え,こうした注進をされてしまっては,逆に毛利にとっては一大事.
 其所で,事態を察した小早川隆景は直ちに自軍の船団を動かして杉元宣以下全員を海上で討ち取ってしまいました.

 しかし,元はと言えば,輝元の軽はずみな行動から起こった事件で,あたら有能な家臣を失い,家中に亀裂を入れてしまった訳で,結局,椙山親子は大坂に浪人となって流れ,脇某と久芳の局は切腹を命じられました.
 因みに,輝元と二ノ丸殿との間には後に毛利秀就が生まれています.

 そんなことは扨措き,小早川隆景が憂えていた通り,日本を二分する大戦の際に,毛利家は濡手で粟を目論んで西軍の総大将に就きます.
 更に,輝元は関ヶ原の前線に出て来る訳でもなく,大坂城から一歩も出ずにあたら勝てる戦いを敗北に導いて汚名を残しました.

 毛利家の考えとしては,もし,輝元が豊臣秀頼と共に前線に出て来たら,豊臣恩顧の武将達は敵対を中止するであろうから,西軍が勝利するのは確実,ただ,それには見返りが少なく,その場合は秀頼が将軍又は関白となり,石田三成が実権を握って毛利家は結局大老で終わるに違いない.
 それよりも形勢不利な家康を勝利に導けば,井伊直政が吉川広家に約束したように,今の8カ国120万石から一挙に2倍3倍も夢ではなく,副将軍も夢ではないと算盤をはじいた訳です.

 が,家康は利を追って義を忘れる武将は,信頼しないと言う哲学を持っていました.
 意外にも,家康は関ヶ原の戦いで首謀者となった石田三成を斬首した割には,その親族一同の動静については余り露骨に干渉していません.
 寧ろ,陰に彼等の仕官を援助している節もあったりします.
 もし,毛利元就や小早川隆景が生きていれば,この辺りの読みは全然違っていたでしょうが,三代目の坊ちゃんである輝元や吉川広家には,家康の腹の底を見通すことは出来なかった訳です.

 結果的に200万石,300万石どころか,毛利は防長2カ国に押し込められ,実質25万石に転落しました.
 そして,利を失い,名を失い,天下の笑いものとなった訳です.
 …そう言えば,三代目の坊ちゃんって何処かの国の行政府の長で御座いと言うのもいますわねぇ.

 これまでも見てきたように,佐竹にしても上杉にしても,領地は相当削られたのですが,逆に未開発地を開拓して利用地を広げ,収入を増しています.
 ですから,農民の貢租も4公6民か5公5民,苦しい時で6公4民程度で済んでいました.

 ところが,毛利は違いました.
 まぁ,防長2カ国が山がちと言うのもあるのでしょうが,1625年に行われた寛永検地は過酷なものでした.
 特に,従来は家臣達も自分達の土地を持ち,そこからの収入で生活していたのに対し,殆どの家臣は知行地ではなく,米や銭で支給する事になりました.
 知行地を与えられても,その土地の支配権は実質的に毛利家に握られ,武士と土地が大幅に切り離され,武士のサラリーマン化が進んでいきます.

 これは勿論,毛利家の収入拡大政策です.
 元来の目的としては,1反当りの土地の収穫高は,治安の安定や農業技術の進化で次第に増大する為,年ごとに武士を養う為に必要な土地は狭くて済み,大名家の実収が増えると言う目論見によるのですが,この検地は非常に過酷で,若干の目溢しすら許されませんでした.
 総石高は29万8,480石,物成21万7,890石で,その税率,防長2カ国で平均73%に達しています.
 つまり,7公3民と言う訳です.

 これでは生活出来ませんが,更に言えば,この税率は村々によって異なり,麻生は60%,伊佐・於福・麦河小野・万倉が80%,大嶺上下が85%,厚保村では何故かこの税率が90%,即ち9公1民と言う死の宣告に等しい税率を課せられています.
 何故こんな税率が課せられたかと言えば,安芸・長門・周防・石見・出雲・備後・隠岐・伯耆・備中の9カ国の太守から周防と長門の2カ国に封印された為でもあります.
 これら領国で収納された貢租を,その後に入った領主に返納しなければなりませんし,萩城の築城など資金が幾らあっても足りません.
 そこで,農民に対する苛斂誅求政策で突破しようとしていました.

 これでは,農民達にとってこれでは死ねと言っているようなものです.
 そこで彼等は,抵抗の手段として逃散という手段を執ります.
 その数,厚保で112軒,大嶺で110軒,於福で74軒,万倉で62軒に及び,厚保村では農民総数の実に30%に達しました.
 そして彼等が赴いたのは,其の昔,大内氏が守護を勤め,後に杉軍団に属していた武将達が知行地を持っていた豊前であり,杉氏縁の武将の知行地だった豊前京都郡には周防村,長門村が誕生しました.
 当時,豊前を治めていたのは,何だかんだ言われていますが,それなりに名君でもあった細川忠興でした.
 忠興は難民を排除するより,新田の開発や小倉城築城,城下町整備に猫の手も借りたい忙しさでした.
 当然,毛利からの抗議はあったでしょうが,何処吹く風と馬耳東風を貫いています.
 因みに,その逃散を進めたのは,実は在地領主である厚保地頭の厚氏や大嶺地頭の大村氏などではないか,と言われています.
 彼等の一族が杉軍団に属し,豊前に領地を得ていた為です.

 苛斂誅求の矢面に立った在郷武士達の宥めで,何とか一揆を起こされずに済んで居た毛利家ですが,余り長いことこうした政策を行っていれば,農民一揆が発生し,管理不行き届きと言う事で改易の危険があるので,1646年,毛利家は苛斂誅求策を改め,家臣のリストラを始めました.
 具体的には,苛斂誅求の矢面に立ち,その代わりに給与を支給していた在郷武士を無くし,完全に帰農しない場合は,相伝の土地も管理を許さないとしたもので,こうして昔からの地頭達は,半武士半農民の生活から完全な農民へと移行していきました.
 また,農地の細分化や,どんな狭い山間部の土地でも平地であれば,其所を開拓する様にした結果,1650年頃にはやっと収入が安定してきています.

 やっぱり三代目と言うのは…(以下グチになるので省略.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/08/20 22:56


 【質問】
 ドージャ・ジョルジの反乱とは?

 【回答】
 この事件は,「ドージャ・ジョルジ」あるいは「セーケイ・ジョルジ」の反乱として知られています.
 エステルゴムの大司教(?)バコーツ・タマーシュがローマ教皇の同意の元に,対トルコ十字軍(1346)を宣言,これを受けて農民たちが続々と集結,その指揮はドージャ・ジョルジに委ねられました.
 農民たちの集まり方に恐れを抱いた大貴族達は,大司教バコーツに募兵の中止と,既に集まった農民の解散を命じるように説得,大司教はこれに応じました.
 また,大貴族達は所領の農民の十字軍への参加の妨害,参加者への弾圧も行いました.

 激怒した農民たちは反乱を起こし,ドージャの指揮の元に,ペシュトを出陣,大平原を越えてハンガリー南部へ攻勢をかけ,城砦を次々に陥落させて行きました.
 しかし,要衝テメシュヴァール(今のティミショアラ)を攻囲している最中に,北部ハンガリーからの軍を率いて救援にかけつけたヤノシュ・サポヤイの軍に破れ,ドージャは捕らえられ,頭に焼けた鉄の王冠をかぶせられ,真っ赤に焼けた鉄の玉座に座らせられて,生きながら焼き殺されました.

ギシュクラ・ヤーノシュ ◆4yzbf0MFE in 世界史板


 【質問】
 鄭和の艦隊はどこまで到達したのか?

 【回答】
 アラビアまで到達したという.
 以下引用.

 15世紀の明の永楽帝の時,太監鄭和を正史として〔西方使節団派遣が〕行われました.
 第1回の永楽3年(1405)のときは,62隻,27800余人の大船団ですから,中国史上空前の南海遠征で,このときはセイロン方面まで達します.
 それから永楽22年の第7回まで,南海を西征し,多くの南海の物産をもたらしましたが,中には第5次の分遣隊は遠くアラビアまで行き,アデンからキリン(ジラフ),シマウマなどを中国に運んでいます.
 ジラフが中国にもたらされたのは,これが初めてのようです.
 この鄭和の西征は,シルクロードの南海ルートを行った最大の旅と言うことができます.

森豊〔シルクロード研究家〕 from 「魅惑のシルクロード」
(講談社,1981/10/15),p.124-125


 【質問】
 15,6世紀くらいの技術レベルの世界で,2万程度の常備軍を維持するためには大体,どのくらいの生産量が必要なのでしょうか?
 穀物(石高)あるいは金もしくは銀貨など貨幣など,国力を図るのに一般的に用いられる単位でお願いします.
 あと,人口に占める戦闘員の比率などでもOKです.

 【回答】
 地域によって大きな違いがあることを,まず念頭に置く.
 例えば中国も,北方(乾燥・寒冷な麦作地帯)と南方(湿潤・温暖な米作地帯)では,人口維持力も文化も違う.

 さて,日本は米というカロリーの高い主食作物があり,水利日照もよかったので,単位面積あたり大きな人口を養えた.
 1万石に200人として単純計算すると,100万石(加賀前田藩程度)で2万人の戦闘員を常備することができたことになる.

 これに対してヨーロッパでは,気候が寒冷で冬は日照もほとんどなくいため,麦類と牧畜(秋に刈り取った牧草で冬を越す)に頼らぜるをえなかった.
 戦国時代と同時代のヨーロッパでは,単位面積あたりの人口維持力は,フランスのような農業地帯でも日本の三分の一,北方では十分の一程度だったといわれる.

LedifesacostieradelRegnodiNapolidalXVIalXIXsecolo(16-19世紀のナポリ王国の沿岸防衛)
という本によると,1477年に国王フェルディナントが計画した常備軍の兵力がちょうど2万人(そのうち1万2千が騎兵)で,毎年47万ドゥカート(ヴェネツィアの金貨)が必要と試算されていたそうな.
 当時のナポリの人口は150万人ぐらい.
 ドゥカートが現在の貨幣価値でどれくらいかは勝手に調べてくれ.

 ヨーロッパで十万単位の大規模な軍隊の衝突が起きるのは,日本より2世紀以上遅れて19世紀のナポレオン戦争時代だった.


 【質問】
 戦記風ファンタジーを書いてるんだが,人口と兵力の比率ってどれぐらいが適当なんだろう?
 戦国時代ぐらいの規模を考えているんだけど,だいたい一万石につき二〇〇〜三〇〇程度の動員能力があるらしいんだが,実際の人口がよく分からない.
 一石=一人という乱暴な換算でいいんだろうか?
 中世欧州風な世界観で,国力を石高で表すわけにもいかないし.

 【回答】
 中世(15世紀)以前では,兵力は国の状況と経済規模によるとしか言えない.
 このころの軍隊は,期間契約の傭兵が主体であり,その多くは外国人だった.
 したがって,危急の際には多くの兵士を雇い入れたが,平時は必要最低限のみで,兵力は一定ではない.
 このころは常備軍は無く,中世から脱却し始めた16世紀以降,ようやく,いくつかの豊かな国で常備軍らしきものを整備できたに過ぎない.
(古代ローマのような)常備軍の発想は,ずっと以前からあったが,主に経済的な理由により実現は不可能だった.

 あまり信頼できない数字の上に,すでに近世の時代に入っているが,いくつかの資料では
1660年 イギリス  人口500万以下 6000人(平時編成),人口比0.2%  島国
同時期 プロイセン 人口300万程度 18000人(平時編成)人口比0.6%  ドイツの小国
1690年 フランス 人口1800万以下  18万人(平時編成) 人口比0.9% 当時の大国 周囲は敵 

 ちなみに,戦時には自国兵力に加えて,近隣の同盟国軍が臨時に指揮下に入ることもあり,この場合人口比は,あまり意味を成さない.
 加えて,1645年のイギリス内戦(ネーズビーの戦い)の際,議会派は13000人を,王党派9000人を投入した.
 両陣営会わせれば21000人になり,人口比0.7%となる.
 さらに,他方面に展開していた兵力を含めれば,総兵力はこの二〜三倍になると思う.
 このことから見ても,人口比は国の状況によって異なり,また平時と戦時では兵力に数倍の開きがあるので,これといった人口比は存在しないという結論に落ち着く.

 ファンタジー書くなら,リアリティーより話の面白さを優先したほうが良い.
 設定作るのが楽しいってのはわかる.
 俺も経験がある.
 でも,物語を書いていると,設定って邪魔にしかならないよ.

軍事板


 【質問】
 15世紀にはまだレーションも兵站という概念も存在しなかったとききましたが,遠征をする際には兵隊は霞でも食ってたんでしょうか?

 【回答】
 兵站の概念はないわけではないが極めて貧弱だった.

 そもそも保存できる食料が少なかった.
 瓶詰めがナポレオン戦争時代の発明.缶詰はさらに後.
 当時なら,干し肉とか小麦粉をいくらか持ち込めたら上等な部類じゃね?

 だから,どうしても現地調達に多くを頼らざるを得なかったわけよ.

 ちなみに「現地調達」と書いて「略奪」と読む.
 真っ当に機能している軍隊なら,きちんと代金を払ったり商人を介在させるが,機能してない軍隊が実に多いから・・・

 ドイツの30年戦争では内戦でこれをやったので,国土はことごとく荒廃した.
 しかも正規軍ではなく,傭兵主体の軍隊だったので尚更.
 更に,ちょっとでも戦争が収まると雇用主は傭兵を首にしてしまうので,首にされた傭兵は独自に「現地調達」をやり始める.
 つまり,戦争やっててもやってなくても国土が荒廃するという悲惨な状態になった.
 それが30年も続くんだから・・・.

 また,真っ当に機能している軍隊でも,代金がわりに軍票を貰っても嬉しくないやい,とか,アヘンが通貨代わりになっちゃったとか,偽札を頑張って刷って代金に当てるとか,そういう悲しい話もあるです.

軍事板


 【質問】
 クレシーの戦いって何?

 【回答】
 クレシーの戦い Battle of Crécy は、百年戦争中の1346年8月26日,フランス北部、カレーの南にあるクレシー近郊で行われた戦い.
 エドワード3世率いるイングランド軍約1万2千人が,フィリップ6世率いるフランス軍約3万〜4万人を,練度の高いロングボウ部隊を効果的に使い,打ち破った.
 フランス軍は幾度となく重装騎兵による突撃を繰り返し、正面のイングランド軍歩兵部隊に猛攻をかけたが、その陣形を崩すことができず、両側面から矢を射掛けられて負傷者が続出したという.

 【参考ページ】
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F187C200.HTM
http://www.nicovideo.jp/watch/sm832071
http://www.inforoot.jp/yuyu/index.php?ID=303
http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-150.html
http://www.nagaitosiya.com/c/war_studies.html

【ぐんじさんぎょう】,2009/10/7 23:00
に加筆

 イングランド側の大勝利は,事前の周到な準備が大きく寄与しているとのこと.
 具体的には,落とし穴と馬防柵によって騎兵の進軍経路を制限し,密集したところを長弓の曲射で,遠距離から削っていったとのこと.

 参考文献は『オスプレイ戦記シリーズ イングランドの中世騎士』

VF-22 in mixi,2009年10月06日 23:14

 この戦いで歩兵部隊が用いた格闘術が,「クレシー柔術」である(民明書房)

新所沢の三等兵 in mixi,2009年10月07日 12:16

クレシーの戦い(フロワサールの年代記より)

http://hamilcar.blog64.fc2.com/blog-entry-150.htmlより引用


 【質問】
 イギリスとフランスが戦争していた時の話.
 両軍の弓兵は英軍長弓,仏軍石弓であり,速射性に勝る英軍長弓部隊が,仏軍石弓部隊を圧倒したと,世界史資料集にありました.

 そこで質問なのですが,なぜ仏軍は速射性に劣る石弓を使っていたのでしょうか?
 長弓より石弓の方が,次の矢を番えるのに時間がかかるのは明らかだと思うのです.
 長弓に対して石弓の優位点はあるでしょうか?

 【回答】
 弓を射るために奇形になるまで訓練された集団がいないと,有効な長弓は使えなかったということのようです. 英国の弓兵は小さい頃から訓練され,鍛えられました.

 また,石弓は長弓と比べて速射性で劣るものの,射程・威力の点で勝っているとフランスは考えていました.
 しかもそれを用いる場合,少ない訓練で大丈夫でしたので,多くの人員を確保し戦争に投入できるという利点があり,速射性で劣る欠点を数で克服しようと考えていたふしがあります.

 ●長弓(ロングボウ)の特徴は
高度な使い方をする→山なり弾道で敵に当てるには,非常に高度な訓練が必要.
 射程はクロスボウと比べて優位にあるわけではなく,むしろ劣っていたと考えられます.
 威力については,ロイヤル・アーマーラーの実験によって,1470年イタリア製のプレートを射た結果,胴部分(最高厚4.75mm)を貫通ししまた.
 英国が100年戦争の折に使ったものは,イチイの木によって作られ,長さ150〜180cm,重量0.6〜0.8m,矢は75〜100cm,重量0.5〜0.7kg足らず,矢じりはソケット状で先を尖らせた単純な形状だが,鋼鉄製でした.
 よく訓練された兵士が用いる場合,10秒に1本の矢を打つことができ,敵を狙わずに射撃すれば6秒に1本の矢を射ることができました.

 ロングボウを扱った兵士は,殆どはヨーマンと呼ばれる自由民でした.
 彼らは,エドワード3世の頃には毎週,矢場での訓練を義務付けられ,厳しい訓練を施されていました.彼らの骨格は完全に左右非対称になっており,極端に言えば「シオマネキ」のような状態だそうです.
 当然,他の兵士から一目おかれた存在で,給料も優遇されていました.
 初期の小銃が速射性などで長弓に劣っていたにも関わらず普及したのは,そのような特殊な集団でなくとも使用することができたからだと,よく言われています.

 英国が百年戦争でロングボウを用いた上で,他の国の弓隊の運用とは決定的に違う点があります.
 通常,弓は部隊の集結する前面に立って,気勢をそらしたり,自軍の本隊と敵が激突する間に少なからず敵に損害を負わせる部隊です.
 しかし,”ロングボウの父”とうたわれるエドワード1世は,長弓を積極的に攻撃する部隊として訓練し,戦列の両翼に配しました.
 彼はまず,ウェールズ進攻やスコットランド進攻において長弓部隊を実験的に運用し,これを生かして経験をつみます.
 特に1298年7月22日「フォルカークの戦い」において,スコットランドのパイク(長槍)部隊を完敗させました.

 エドワード3世の治世になり,百年戦争が勃発しロングボウの優位が証明されるようになります.
 1346年8月26日のクレッシー,1356年のポラティエ,1415年10月25日のアザンクール,等の戦いにおいて両翼に配置されたロングボウは,フランスの騎士に多くの出血を強いました.

 しかし,戦場の花形であったロングボウはこの時期を境に下り坂にさしかかります.
 それにはまず,火器の発達が上げられますが,最も大きな要因はバラ戦争という英国の内乱で多くの優秀な兵士を失ったことです.
 また,ロングボウが有利な戦闘を展開するにはそれなりの下準備を必要とします.
 というのも,敵が突入してくる場合,接近戦において応戦する方法を持っていません.
 なので,木の杭を植えたり壕を掘ることでそれに対応してきました.
 しかし,国内の戦争ではお互いの手の内を知るものによって,そうした準備がままならなくなりました.

 ちなみにロングボウというと,西欧においては英国が使用したもののみを指すのが一般的です.

 ●石弓(クロスボウ)の特徴は,ほとんど訓練をしなくても,操作方法を覚えるだけで長弓に比して威力のある矢をより遠くに飛ばすことが出来ることです.
 しかし,次の矢を装填するのに時間がかかるのが致命的な欠点です.
 この欠点は最後まで改良できず,小火器に場を譲ることになります.
 大きさは縦0.6〜1.0m,横幅0.5〜0.7m,重量3〜10kgが相場です.

 ヨーロッパにおいてのクロスボウの起源は正確に判っていませんが,1066年にノルマン人が用いていたことは確かだといわれています.
 戦乱が続くこのころのヨーロッパにおいてクロスボウの威力は絶大でしたが,キリスト教徒には相応しくない残虐な兵器とされ,法王インノケンティウス2世は使用を禁じました.
 ところが逆にドイツのコンラート3世はその治世(1138〜1152)においてクロスボウを正式な武器として採用しました.
 この後,第3回十字軍における英国軍で異教徒を撃つための武器として使用しました.キリスト教徒を射るのではないので良いとされたわけです.

 本格的なクロスボウを装備した軍隊の登場は,さらに1世紀を経たイタリアの都市国家においてでした.
 ここではアルバレストと呼ばれ,いち早くこの武器を大量に取り入れました.
 ヨーロッパではジェノバ人がクロスボウを携えて傭兵として雇われるようになり,1340年のフランスには20000人も雇っていたといわれています.
 実際,クレッシーの戦いでは,フランス軍の前衛としてロングボウよりも有利と考え,ジェノバ人のクロスボウ部隊を配置しました.
 しかし,英国のロングボウ部隊の敵ではなく,多くの被害を出して壊走し,彼らがもたらした混乱はフランスが戦いに敗れる一因となりました.

 それでもなお,フランス王はクロスボウを諦めることなく,その軍隊に取り入れていきましたが,クロスボウを上回る威力を示すことは出来ずに,武器としてはその時代を火器に譲ることとなります.
 16世紀以降,狩猟やスポーツに用いられ,それほど大きくする必要も無く,軽量化されより扱いやすいものになっています.

 ところで,日清戦争における清で,主に防御の時にクロスボウを用いられた記録があります.
 短射程ながら威力があり,連射できるように数発の太く短い矢が装填されていました.

 これらの記述の多くは「truth in fantasy20 武器と防具 西洋編」市川定春著 新紀元社 によります.

(system ◆systemVXQ2 & 極東の名無し三等兵 in FAQ BBS)

 【参照】
 「イギリスの長弓」
http://www5e.biglobe.ne.jp/~t-shibu/subB1.htm


 【質問】
 百年戦争の頃の普通の弓兵って矢を何本くらい持ったの?
 矢って高かったって聞いたんだけど.
 かといって少なくて足りないんじゃ,洒落にならないだろうし.

 【回答】

――――――
http://en.wikipedia.org/wiki/English_longbow

"A typical military longbow archer would be provided with between 60 and 72 arrows at the time of battle,"
(平均的な射手は,一度の会戦で60〜72発の矢を放った)
――――――

とあるので,一人当たりそれだけの矢は持っていたか確保されていたということになる.
 ただしcitation needed(出展不明)となっており,これが間違っていないかどうかはわからない.
 他にも"An experienced military longbowman was expected to shoot twenty aimed shots per minute."などと,やたら景気のいい数字が挙げられてるので,割り引いて読んだほうがいいかも.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ イングランドのロングボウの場合,一人平均60-70本を携帯したそうだ.
 クロスボウの場合,よくわからないが,ボルトは,矢より数倍重かったらしいので,一人あたり携帯する数はロングボウの場合より少なかったと思われる.
 しかし,クロスボウの場合は補助員が付く場合が多いため,クロスボウあたりの数は多かったかもしれない.

 ただし,どちらにしろ騎射とは違い,小荷駄が到着していれば,歩兵の弓兵は戦闘中にも補給はできたため,携帯する数に限られる訳ではない.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ジャンヌ・ダルクが処刑されたのは,「魔女」だと見なされたから?

 【回答】
 ジャンヌ・ダルクは,「異端」審問で裁かれ,「異端」として処刑されたのであって,魔女としてではない.

 ヨーロッパ大陸では火刑が多く,イギリスでは絞首刑が多い.
 自白すると罪が多少軽減され,斬首になる.

 火刑は遺体が残らないので,灰にして川に流すなど分散させてしまうことができ,埋葬することによりシンボルになることを防ぐ,という目的がある.

 また,火刑はキリスト教の刑罰では一番重い.
 体が焼かれてなくなってしまうと,キリストの再臨時に復活できないから.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フス戦争って何?

 【回答】
 フス戦争(Hussite Wars,1419〜1436)は,ヤン・フスの開いたキリスト教プロテスタントであるフス派信者と,それを異端としたカトリックのローマ教皇および神聖ローマ帝国の間で戦われた戦争です.
 ローマ教皇と神聖ローマ皇帝ジギスムントは何度もフス派に対する十字軍を組織しましたが,連戦連敗.
 しかしフス派内部で抗争などが起こり,1436年,ウトラキスト派の主張が承認されて戦争は終結しました(1439年終結説もあり).

 【参考ページ】
http://www.tabiken.com/history/doc/P/P332C100.HTM
http://www.ma-vlast.opal.ne.jp/smetana/tabor.html
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/fu/fusu.html
http://www5b.biglobe.ne.jp/~tasai/honyaku-ka/cz_dejny/03hus.htm

【ぐんじさんぎょう】

▼ フス戦争の頃のハンガリー兵の装備の一例:

http://www.hung-art.hu/frames-e.html?/english/k/kolozsva/muvek/keresztr.html
http://www.hung-art.hu/frames-e.html?/english/k/kolozsva/muvek/k_vitel.html
 1427年の祭壇画.
 もともとはスロバキアの要塞のような大教会ガラムセントベネデク(Garamszentbenedek現在のスロバキア [Hronsky Svaty Benadik]) にあったもの.
 一枚目の画の騎士の従者の持ったバックラーに注目.

http://www.hung-art.hu/frames-e.html?/english/zmisc/oltar/15_sz/1/berzenk2.html
 1450年ハンガリー・ポーランド国境地帯で描かれた祭壇画.
 もともとはBerzenke(現在はBrzenov)にあったもの.

 恐らくは,ヤン・イスクラ率いる傭兵軍団の装備も,こんな感じだったのではないかと思われます.

ギシュクラ in mixi,2009年03月21日23:24

 【関連リンク】
「ザイーガ」:【動画】人骨で作られた教会,セドレッツ・コストニツェ(墓地教会)

フス派の「戦車」

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ビザンツ帝国は門の鍵閉め忘れて滅んだって本当ですか?

 【回答】
 そう言われている.

 1453年5月29日未明,オスマン帝国軍が首都コンスタンティノープルへの総攻撃の際,防衛軍が奇襲作戦に使っていたブラケルナエ地区のケルコポルタ門の,通用口の鍵を掛け忘れを発見.
 そこから敵兵300人程が城壁内に侵入.
 防衛軍はたちまち大混乱に陥って敗走した.
 コンスタンティノス11世は,最後まで前線で指揮を執り続けたが,結局はコンスタンティノープルは陥落,東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は滅亡した.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 フニャディ・ヤーノシュとは,どんな人物か?

 【回答】
 中世ハンガリーの英雄です.

 父の代以前の経歴は全く不詳でして,おそらくワラキアの土豪がトランシルバニアに逃れてきたものと思われ,人種的にも恐らくはルーマニア系ではないかと思われます.
 歴史上に名前が登場するのは,父ヴァイクがヴァイダフニャド(今のルーマニアのフネドワラ)の城を拝領してからで,フニャドのを意味するフニャディなる姓もその時以来と思われます.

 さて,ヤノシュは,若くして当時のハンガリー王にして神聖ローマ皇帝ジギスムントに見出され,イタリアに伴われ一時傭兵隊長として活躍,ハンガリーに戻って後は異例の出世を遂げ,トランシルバニア侯テメシュ県知事等となる.
 ジギスムントの死後はウラースロー一世の下,対トルコ戦の指導者としてバルカンの各地で奮戦したが,バルナで国王が戦死するという大敗を喫する.

 その後ハンガリー王国の摂政となる.
 1456年押し寄せるオスマン軍をナーンドールフェーヘルヴァール(今のベオグラード)にてカピストラノ司教の率いる十字軍とともに迎撃,奇跡的な勝利をおさめるが,戦後,戦場に流行った悪疫に倒れて世を去った.
 因みにハンガリー王マーチャシュ・コルヴィヌスは彼の次男.

 本当かどうか知りませんが,教会が正午に鐘を鳴らすのはベオグラード戦の勝利を記念して,と一般に言われています.

(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w in 世界史板)


 【質問】
 薔薇戦争における,ケイスター荘を巡る紛争とは?

 【回答】
 1469年夏,薔薇戦争は北部のランカスター勢の反乱によって新局面を迎え,翌年10月,ヨーク家エドワード4世の逃亡,ランカスター家ヘンリー4世の短命な復位へと続いた.
 この騒乱の1470年の9月12日,マーガレット・パストンはロンドンの息子ジョンに次のような書状を送っている.
 「母は貴台の弟,朋友たちがケイスターにおいて危難に立ち,兵糧もなく,ドーブニー,バーニーらは既に死し,他の多くの者たちも大きな痛手を蒙ったことをお知らせしなければなりません.
 また矢弾も尽き果て,ケイスターは敵の大筒に酷く荒らされ,もし早急な援軍がなければ,彼らは命もろともその場所も失わんこと計りがたい様子であり,加えて公はますます激しく攻撃を加え,以前にも増して残酷の度を加えております.
 彼はあらゆる地方から彼の農民その他の者を呼び寄せ,来る火曜日にはケイスターに臨まんとする勢いです.
 恐らく当日は多くの人々が其処に相見えることでしょう」
 ノーフォーク公によるパストン家の一荘園ケイスターの包囲の模様を伝える「パストン家書簡集Paston Letters」の一節だが,この土地はもともとはノーフォーク州ヤーマスに近い景勝の地を占めたサー・ジョン・ファストルフの壮大な居城だった.
 1459年のファストルフの死後,ケイスター荘を含む莫大な遺産は一旦,遺言によってマーガレットの父にあたる,生前の「畏友」ジョン・パストンの所有に帰したが,これを不服とした共同遺言執行人が裁判所に訴えたため,ジョンの半生は不毛な法廷闘争に費やされることになった.

 1466年にジョンが死ぬと,この係争は息子のジョン・パストン2世に引き継がれ,その破局としてやって来たのがノーフォーク公の暴力的な訪問だった.
 父ジョンの仇敵であり,ファストルフの共同遺言執行人であるウィリアム・イェルヴァトンとトーマス・ハウズは,ケイスターに関するファストルフの遺言を無効として,ノーフォーク公にケイスター荘売却の交渉を始めており,息子ジョンが首都ロンドンにいたのは,まさにこの係争を有利に運ぶべく,宮廷の知己に支援を仰ぐためだった.
 しかしこの年の戦争の形勢逆転に乗じて,ノーフォーク公は兵3000を率いてケイスター奪取を企てたのだった.

 そんだけ.

軍事板,2003/12/27
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 オスマン帝国など北アフリカ(古代のカルタゴのあたり)を領有していたイスラム国家は,イタリア半島へと侵攻しなかったのですか?
 地理的にも非常に近く感じるのですが…

 【回答】
 してるぞ.失敗してるだけで.
 オスマン朝のメフメト2世の遠征軍は1480年にオトラントを占領しているが,メフメト2世の急死で撤退している.

 ただ,占領地の維持が困難ってのもあるけど,あの時代の大規模軍集団を纏め上げるには,強力な指導者が現場に臨んでないとヤバイ(情報の伝達etc...
 それと,メフメト2世が文字通り急死したせいで,オスマン帝国お家芸の跡継ぎ問題で本国が揉める可能性が出てきた(現にバヤジット2世は弟と跡継ぎ争いしてる)ような,そんな時に海を越え,かなりの防御力を持った都市が多いイタリア半島を攻めるなんてのは自殺行為.
 なので撤退.

世界史板


 【質問】
「世界史は妄想を超えて (世界史FAQ)」
 こちらのサイトのトリビアのコーナーにある,

[quote]
 迷信深い同時代人の中で唯一コロンブスだけが, 「世界は球体であり,西に向かってどこまでも行けばアジアに着くはずだ」
という論理を理解しており,この論理に従って船出した──
といったような,コロンブスに関する通俗伝説がある.
 しかし実のところ,コロンブスと同時代の欧州人は,世界の形についてほぼ正確な知識を持っており,地球の直径とユーラシア大陸の横幅を基本的には正しく推定していた.
 しかしアメリカ大陸の存在は知らなかったので,「大西洋+太平洋」という巨大な海を越えるのは無理と考えていたのである.
[/quote]

というトリビアの確実なソースを教えてください.書籍の名前とかを.

 【回答】
 多分星新一訳の『アシモフの雑学コレクション』(新潮文庫,1986.7)かと.

pp.235-236だ.

> 地球が丸いと主張したのは,コロンブスだけではない.スペインの宮廷での議論は,丸い
>のを前提として.その大きさに関してだった.対立者たちは,コロンブスは小さく考えすぎ
>ていて,欧州から東洋までの航海は無理だと言った.そして,それは正しかった.
> 途中に未知の新大陸がなかったら,あきらめて戻ったか,消息不明になっただろう.

 ハヤカワ文庫から発行されてる『アシモフの科学エッセイ8 次元がいっぱい』(1985.12)には,もうちょっと詳しい話がある.
 第15章「地球の形は」(pp.275-293)ね.
 それによれば,地球が球と証明したのはアリストテレスで,紀元8世紀の聖ビードや14世紀の『神曲』でも球とされていることを挙げて,
「歴史を通じて,アリストテレスの著書に触れたことのある教養人は,全て地球が丸いことを認めている」
と書いてる.
 地球の周の長さについての論争についても触れられてるな.

 マイルで書いてるんでわかりにくいんだが……
・エラトステネスは25000マイルと測定
・BC1世紀頃のアパメーアのポセイドニウスは18000マイルと測定
・マルコポーロの旅行から考えてヨーロッパからアジアまでは13000マイル

 エラトステネスの計算が正確だった,というのは有名な話.

 あと,例えばダンテの『神曲』なんかでも,地球は当然丸いものとして描かれている(つまり地球球体説+天動説).

 少なくとも,コロンブスだけが気付いていたという事はないな.

業界人A「ひょっとして地球って球体なんじゃね?」
業界人B「てことは,一周して戻ってこられる??」
業界人C「インドにも行けるじゃん・・・」

てな雰囲気になってて,

・・・1492年

A「おー,やりやがったか!」
B「くそー,コロンブスって誰だよ?」
C「ほら,あいつ.ポルトガルに援助断られた奴」
A「ポルトガルワロスw」

 コロンブスが影響を受けたトスカネリの球体説は,実際より地球を小さく見積もっていたので, コロンブスはインド行き西回り航路を甘く見ていた.
だけど偶然アメリカがあったのでそこにたどり着いた.
―――というのは有名な話.

 上述の『次元がいっぱい』によれば,トスカネリは
「地球の大きさは18000マイルだから,西回りだと5000マイルでアジアに到達するよ!」
と主張した
という
 で,コロンブスこれを採用.ということらしい.

 ただ
「コロンブスと同時代の欧州人は,世界の形についてほぼ正確な知識を持っており」
ってのは言い過ぎかと.
 地球が球だと知ってたのは上流階級の知識層だけでしょ.

カラジチ ◆mWYugocC.c(青文字)他 in 世界史板


 【質問】
 1495〜1497年のロシア・スウェーデン戦争とは?

 【回答】
 スウェーデンの王権を取り戻そうとしていたスウェーデン(カルマル同盟下ではスウェーデンはデンマーク=ノルウェー二重王国の一部だった)のストゥーレ家が,デンマーク王ハンスと同盟していたロシアのイワン3世と戦火を交えたものです.
 イワン3世は王子2人を派遣して,スウェーデン方の城,ヴィボルグ Vyborg を3ヶ月にわたって包囲.
 城は堅固だったものの,長期戦に耐えることはできなかったので,交渉の結果,スウェーデン独立軍は城を引き渡すことになり,それに火をかけて退去しましたとさ.

 【参考ページ】
「wikipedia」:Russo Swedish War 1495-1497
日本語ページは発見できず.

 【関連リンク】
「Gigazine」:中世ヨーロッパの戦争のような戦いをするロシアの祭り(画像共)

▼>中世ヨーロッパの戦争のような戦いをするロシアの祭り

 本格的なヨロイやカブトを身にまとい大人数がぶつかり合う光景は,本当に中世ヨーロッパの戦争を見ているようで迫力があります.
 この祭りは夏に行われているようで,北国のロシアといえども相当熱いのではないかと思われます.

 戦いは何日にも渡って行われるようで,実際に戦う人たちの体力はすさまじいものです.

http://nikolkaya.livejournal.com/248881.html?page=3#comments
http://nikolkaya.livejournal.com/170006.html?page=2#comments

 ・・・・・・・・物凄く怖いです,何所の殺人鬼だよ(;゚д゚)

CRS@空挺軍 in mixi,2008年10月22日00:18



【ぐんじさんぎょう】,2008/10/30 23:20
に加筆.


 【質問】
 マゼラン艦隊が世界一周したのって何年ですか?

 【回答】
 艦隊の出航は1519年.
 マゼラン死亡は1521年.
世界一周達成は1522年.

 ただしマゼランは,ポルトガル兵員時代の1500年代にインドに行き,アルメイダ提督の艦隊に配属されている.
 アルメイダ艦隊はマラッカへ行っており,マゼランもここまでは同行しているのは確実.
 さらに艦隊は分割され,一部はモルッカ諸島へ到達している.
 モルッカへ行った艦隊にマゼランが居たかどうかは記録に無いが,居た可能性はある.
 その時点での最東到達は1509年あたりだろうか.

 後,インド洋を経てアフリカを周回して帰還した.

 さらに後,モルッカへ西回り航路を開発してアクセスして帰るという往復計画を立案し,スペインへ捻じ込む.
 それでスペイン艦隊を率い,西回りでフィリピン諸島に漂着したのが1521年で,これをもってポルトガル〜スペインとバックボーンを替えての世界一周が成し遂げられた.
 マゼランがモルッカまで行っていたという仮定での話でね.
 だからそれを計算に入れるなら,1509年頃〜1521年にかけてだな.

 勘違いしている人が多いけど,マゼランは世界一周を目的として航海したのではなくて,あくまでも結果として一周してしまったということは忘れてはならない.
 スペイン時代の航海計画でも往復する計画であり,マゼラン死後のトリニダッド号も修理後,当初の計画通りに東へ向かって帰還しようとした.
 結局,不安に駆られてモルッカ諸島へ戻ったところで,ポルトガル艦隊に拿捕されたけどね.

 なお,世界一周したのは「マゼラン艦隊」(といっても帰還できたのは一隻だけだったが)であって,マゼラン自身はフィリピンのマクタン島で原住民の酋長ラプラプに殺された.

 マゼラン亡き後の艦隊を率いてスペインに帰り着き,ヨーロッパ人として最初に地球一周を果たしたのに,今いち影の薄いフアン・セバスチャン・エルカノも,忘れないでやってください.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハイドゥクについて興味があります.
 現代はバルカン半島にもいるようですが,近世のハイドゥクはみんなハンガリー人ですか?

 ハイドゥクの実像についてこのようが記述がありますが,本当ですか?

「ときには義賊といえるケースもあったが,大部分が山奥に住み着いて民家を略奪し,墓を盗掘したり賭博や飲酒をしたりすることに時間を費やした.
 彼らの眼中には政府もなく,祖国もなく,仁義や道徳もない.
 彼らの日常はただ一身の快楽を得られればよく,秤を争って金と銀を分配し,派手な衣装をひっかけて斗酒を飲み,肉の塊を丸ごと飲み込むかと思えば,女を拉致してかわるがわる強姦した後,道端に捨てる肉盗行為以外にはすることがない.」

 【回答】
 16世紀,オスマン帝国征服後のハンガリーに出現した武装勢力としての「ハイドゥク」は,主にハンガリー人やスラヴォニア人から成っていたが,17世紀には退潮した.
 その後,オスマン帝国の衰退とともに,支配下にあったルーマニア,ブルガリア,ギリシャ,セルビアなど各地に野盗の類が出没するようになり,そうした連中も「ハイドゥク」と呼ばれるようになったので,全バルカン的な現象になった.
 そのためハイドゥクや類似の匪賊(ギリシャのクレフト,トルコのケレール等)の民族構成はルーマニア系,スラヴ系,ギリシャ系など多岐にわたったが,出身階層としては農村社会で問題を起こしてアウトローになった者が多かったようだ.
 遊牧民がどうとかいうより,堅気の社会へのアンチとしての太く短く生きる生活様式だろう.

世界史板

 ハンガリーでハイドゥ民というと,ボチカイ・イシュトヴァーンの反乱時ぐらいから記録にあらわれますが,オスマン軍に追われたり、領主の圧迫から集団で逃れた農民が匪賊化したものと言われています.
 彼らはボチカイの援助要請に応えてハプスブルク家と戦い,ボチカイの勝利に貢献したことによって,軍事的な奉仕義務を持つ自由身分の農民とされました.
 武装した家畜輸送業者というの市場町に住むようになって以降の話ですね.

 彼らはその後もハンガリーで対ハプスブルク家反乱が起こるたびに戦闘に参加しているものですから,ハンガリーの抵抗の象徴のようになっているのでしょう.

 余談ですが,クロアチアのクリス城(昔ハンガリー王国の南の防衛線だった)で,今でもハイドゥクの末裔が「羊の丸焼き」を食べさせるお店?をしているそうです.

ギシュクラ・ヤーノシュ◆4yzbf0MFE in 世界史板


 【質問】
 モハーチの戦いって何?

 【回答】
 1526年8月29日にハンガリー・ブダ南方のモハーチ Mohács 平原で起きた,ハンガリー王国軍とオスマン帝国軍との戦闘です.
 迎え撃つハンガリー軍3万(援軍3万が来るはずだったが,その前に行動を始めてしまった)に対し,スレイマン1世は兵力約7万以上,大砲300門.
 オスマン帝国軍は兵力,戦術共に優り,ハンガリー軍は一方的に壊滅して2万人以上が戦死,国王ラヨシュ2世も落馬・溺死しました.
 それでもKIA(Killed in Action)のうちと見なせないこともありませんので,厳密さを特に要求されないときは,かわいそうですから戦死と言ってあげてください.

▼ ちなみにこのときにオスマン軍の手によって,ヨーロッパに初めて唐辛子が持ち込まれたのだとか.
 ちなみに唐辛子はアメリカ大陸原産の植物でして,コロンブスが1493年に最初にヨーロッパに持ち込んでおります.
 その後,インドもしくはアレクサンドリア経由でオスマンに持ち込まれ,ハンガリーなどバルカン諸国にモハーチの戦いの際に持ち込まれました.

 【参考ページ】
http://members.aol.com/nishitatsu1234/zatsudan/Balkan.htm
http://www.hungarytabi.jp/stepbystep/sbsminadu.html
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Ottoman.html
http://www.koparis.com/~hatta/tougarasi/tougarasi3.htm
http://www.hungarian-history.hu/lib/warso/warso19.htm
http://www5d.biglobe.ne.jp/~k-ue/travel/turkey_200604/ottoman/suleyman.htm

 【関連リンク】
http://www.youtube.com/watch?v=W0yK2PLlGBk
http://www.youtube.com/watch?v=bOwyXZhR-jw

【ぐんじさんぎょう】,2008/10/31 22:00
に加筆修正


 この動画の作者,モハーチの地形を全く知らんのだろうなぁ・・.

 ドナウ河畔の丘陵地帯ではあっても,こんな山みたいな場所は一箇所もないのは,グーグルアースでもすぐわかりそうなものなのだが・・.

 今の戦跡公園の写真は
http://hungarystartshere.com/gallery?group=O11372
で,これは発見された戦死者の集団埋葬地である.
 以前,晩秋に訪問したことがあるが,
「この場所には手をつけてはならない」
と言われていた場所であったという話を聞いた.

 発掘した写真を見たことがあるが,遺体が折り重なっていて,まさに死屍累々という言葉がふさわしい.
http://mek.oszk.hu/01900/01918/html/index187.html
 しかし,これでも伝えられる戦死者の数からすれば少なすぎるとのことで,主戦場がどこであったのかは,いまだに不明とのことである.

 ちなみに現在のモハーチはブショーヤラーシュ(ハンガリー風なまはげ??)祭りで有名です.

 私も古戦場を訪れましたが,丘陵といっても非常に緩やかなものでした,現在はセルビアとの国境の向こうまで一面の畑地になっていますが,1526年当時は,平らなな場所といってもドナウが何度も流れを変えた結果,旧河道がくぼ地になっていたり,川岸に近い方は葦原の茂る沼沢になったりした場所が入り組んでいるような場所でした.
 また,恐らくは視界をさえぎる低木も存在したようです.

 あまり,大軍の激突するにふさわしい場所とも思えませんが,ここを戦場に選んだのは数に劣るハンガリー側でした.

 ハンガリー軍の総司令官はカロチャ大司教トモリ・パールでしたが,彼は小競り合いの経験はあったものの,大軍を率いての合戦の経験は乏しかったようです.
 国王ラヨシュ2世とトモリに従うハンガリー軍は2万5千〜8千,本来はこれにトランシルバニア候サポヤイ・ヤノシュ率いる軍8千〜1万3千,クロアチア太守フランコパン・クリシュトフ率いる5千の軍が加わるはずでした.
 しかし,オスマン軍の進軍速度は思ったよりも速く,軍を集結させるよりも,オスマン軍と接触する方が早い見込みになってしまいました.
(サポヤイに関しては,オスマンに内通し,軍を進めさせなかったという説もあります.
 彼は元々,自分には国王の資格があると考えており,先代のハンガリー王ヴワディスワフ2世の時代に中小貴族の支持を得て,国王が嫡子なく死亡した場合はハンガリー人が王に選ばれる旨――もちろん候補者がサポヤイであることは言うまでもありません――の国会の決議を得ていました.
 その野望は,国王に嫡子ラヨシュ2世が誕生したことで先送りになっていたのです.)

 軍の集結が不可能と判明した時点で,ハンガリー軍としては北部へ撤退し,サポヤイ軍と合流するという作戦を取ることも可能でした,
 しかし,その場合はブダを捨て,ポジョニ(ブラチスラヴァ)か,あるいは更に北の現在のスロバキアあたりまで撤退しなければならなかったものと思われます.
 結局,作戦会議はハンガリー軍の勇敢さを頼んで,現兵力で約6万のオスマン軍を迎撃することに決定しました.
 大司教トモリが熱弁を振るった結果のようです.

 で,結局ドナウ河畔でオスマン軍を迎撃することになったのですが,本来なら河を渡るところを叩くべきだったのでしょうが,それもできず,夜襲もかけず,より高い場所のオスマン軍が布陣することを許し,挙句は真夏のさなかに午後に至るまで戦端を開かず,いたずらに体力を消耗し,戦闘開始となったら,敵陣に猛突撃をかけた挙句に包囲され壊滅的な打撃を受けました,
 戦死者は1万6千,国王ラヨシュ2世も撤退途中に,湿地地に足を取られた馬から落馬して陣没(下敷きになって溺死),ハンガリー王国は事実上ここに滅亡しました.

 戦闘の経過などを読んでいるとハンガリー好きとしては,なさけなくて涙が出てきます.

ギシュクラ in 2008年10月27日00:02〜28日 23:45

モハーチ戦前後のハンガリー騎兵


 【質問】
 カハマルカの戦いとは?

 【回答】
 1532年11月16日,ペルー北方の高地カハマルカで起こった,ピサロ将軍率いるスペイン部隊とインカ皇帝アタワルパ率いるインカ帝国軍との戦い.
 スペイン部隊はわずか168人しかいなかったにも関わらず,80000人の兵士を引き連れていたアタワルパを捕虜にし,一方的に勝利した.
 この戦いの結果,ヨーロッパ人による南アメリカ大陸支配が始まった.

 ピサロの仲間達6人の証言によれは,戦闘経過は以下の通り.

 カハマルカの盆地に到着したピサロたちは,4km離れたところにあるアタワルパの陣営を見て恐怖した.
 あまりにテントが多すぎて,美しい街のように見えたのだ.
 スペイン人たちは混乱しつつあったが,インディオたちに弱みを嗅ぎつけられないように態度には出さなかった.
 その夜は恐怖のあまり皆が眠れず,身分の上下を問わず武装して歩哨に立った.

 このときピサロは土地には不案内であり,地域住民のこともまったくわかっていなかった.
 最も近いスペイン人居住地はパナマにあり,1000kmも離れていて援軍を呼ぶこともままならなかった.
 一方アタワルパは何百万人もの臣民がいる帝国の中心にいて,内乱を鎮めたばかりの八万人の兵士に守られていた.

 翌朝,ピサロはアタワルパからの使者に『どんな侮辱も危害も加えないのでこちらに来て欲しい』という返事を送り,到着を待つ間に待ち伏せの準備をした.
 正午になると,2000人の先導役の後に,多数の側近や侍従に囲まれて,輿に乗ったアタワルパがやってきた.
 広場はどこもかしこもインディオたちで一杯になり,隠れて待ち構えているスペイン人の中には恐怖で失禁する者が多くでるほどだった.

 ピサロは神父を遣わして,アタワルパにキリスト教に改宗するよう求めて聖書を渡した.
 しかしインカ帝国には文字が無かったので,アタワルパは本そのものが理解できず,怒りのあまり渡された聖書を地面に投げ捨ててしまった.
 神父は激昂してピサロに戦うよう要請し,ピサロすぐさまは攻撃の合図を出した.
 小銃部隊が発砲すると同時にトランペットが吹き鳴らされ,歩兵と騎兵が飛び出してきた.
 銃声とトランペットの轟き,そして始めて見る騎馬(当時南北アメリカ大陸に馬はいなかった)に脅えてインディオたちは大混乱に陥った.
 アタワルパの取り巻きたちは武装していなかったので,スペイン人たちは慌てふためく彼らに飛び掛って滅多切りにした.
 インディオたちは逃げ惑い,勝手にぶつかりあって転び,下敷きになり,折り重なって多くが窒息した.
 ピサロは自ら剣を抜いて部下と共にアタワルパの輿に突撃し,忠実だが非武装の侍従たちを殺してアタワルパを輿から引き摺り下ろした.
 アタワルパがカハマルカから1マイル離れた場所に残してきていた兵士たちは,戦闘準備ができていたにも関わらず,他の兵士たちが逃げ惑うのを見て逃げ出してしまった.
 日没と共に戦いは終わり,7000人のインディオたちが死体となって転がっていた.
 一方,スペイン人たちに死者は一人もいなかった.

 【参考文献】
『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著,草思社,2000.10)

唯野

 この『銃・病原菌・鉄』によれば,アタワルパは本の開き方が分からなかったという説もありますね.
 また,スペイン側に一方的に攻撃されているのにもかかわらず,アタワルパの輿を守って担ぎ続けようとした支配階級のエリート層(知事等)も全滅したのも,影響は大きいと思います.
 また,アタワルパは神と同格に扱われてたので,この戦いの結果アタワルパが捕らわれて以降,インカ側は政治・外交的にも圧倒的不利になります.
 この戦いがどうしてこういう結果になったのかを分析するのが,この本全体のテーマと重なっています.
 つまり,どうしてインカ側には馬もしくはそれに類する機動力がなかったのか?
 どうしてインカ側に鉄製の武器がなく,スペイン人達にはあったのか?
 どうして重要な情報伝達がなかったのか(既に上の文で回答されてますが)?
 どうしてインカ側は一つの戦いでエリート層が全滅する様な政治機構だったのか?
 一つの戦いという単位で考えると,その後の影響が世界史的に最も大きい戦いの内の一つだと思います.

Fabius (KT)

 ダイアモンド教授の同書はすごくおもしろいですよね.
 私はPBSのテレビシリーズで知りました.
http://www.pbs.org/gunsgermssteel/index.html

 写真は同番組の二回目放送から,ピサロと文字の読めないアタワルパ.

バグってハニー

以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より

 【質問】
 なぜスペイン人たちは500倍の敵を相手に圧勝できたのか?

 【回答】
 ピサロ側が有利だったのは,鉄製の武器と甲冑,銃器,そして馬を持っていたことである.
 一方,アタワルパ側は石・木・青銅の武器しか持っておらず,騎乗して戦場に乗り込んでいける動物もなかった.
 特に重要なのは騎馬で,ピサロ側には60騎の騎兵しかいなかったがこれが大活躍した.
 騎兵はその後,対騎兵戦法を身につけたインカ帝国軍との戦いでも,少数の部隊で大軍を何度も打ち破っている.
 銃については実は大した役割をしておらず,銃声は確かに心理的効果があっただろうが,12丁しかない上に,装填に手間のかかる火縄銃だった.
 それよりも鉄製の武器と防具が重要だった.
 インディオの主力武器である棍棒では,鉄の鎧や兜に身をつつんだスペイン人を効果的に殺傷することはかなわず,逆にインディオたちの刺し子の鎧は鉄製の武器を防げなかった.

 また,より根本的なこととして,アタワルパがピサロの見え透いた罠にはまって,武装した護衛をほとんど伴わずに誘い出されたことも重要である.
 インカ帝国は当時南北アメリカ大陸で最大かつ最も進歩した国家だったが,文字を持っておらず,スペインの軍事力や意図についてまったく情報を持っていなかった.
 スペイン人の侵略は1510年にインカ帝国から1000km離れたパナマではじまっていたが,インカ人がスペイン人の存在を知ったのは1527年,ペルー海岸にピサロが上陸した時である.
 皇帝アタワルパは,中央アメリカ最大最強のアステカ帝国がスペイン人に征服されたことすら知らなかったのである.
 アタワルパは海岸から内陸に向かう途中のピサロに関する報告を受け取っていたが,それはいちばん混乱しているときのスペイン人たちで,
「彼らは戦士とはいえない.
 200人の兵士で全員縛り上げられる」
と告げられ,スペイン側がおそるべき力を持っていることをまったく理解せず,挑発しなければ彼らは攻撃してこないだろうと思い込んでいたのである.

 【参考文献】
『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著,草思社,2000.10)

唯野 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 そしてインカ帝国の秘宝を巡り,ジャック・スパロウが船を奪われたり,孤島に置いてけぼりを食ったり,海賊たちが呪われたりしましたとさ.


 【質問】
 ユグノー戦争とは?

 【回答】
 フランスの宗教戦争(1562〜1598)

ヴァシーで新教徒襲撃
   ↓
オルレアンで報復
   ↓
サンスで報復(1562)
   ↓
戦争 勃発

という経緯.


 主要対立軸は,
・ユグノー(新教徒,代表:コンデ公⇒アンリ=ド=ナヴァール)vs旧教徒(代表:ギーズ公)
・カトリーヌ=ド=メディシス(旧教)vsギーズ公
・国政主導権をめぐる大貴族の闘争
・スペイン(旧教)vsイギリス(新教)
とあって,ドロドロ.

 結局,宗教問題よりも国民的統一を重視するポリティーク(穏健旧教派)が結成され,その路線上で

アンリ4世即位(1589)
   ↓
カトリック改宗(1593)
   ↓
信仰の自由を認めるナントの勅令公布(1598)
   ↓
やっと内乱収拾.

 余談.
「フランス料理に大きな影響を与えたのは,カトリーヌ・ド・メディチとオルレアン公アンリ(後のアンリ2世)との結婚.これにより,イタリア料理がフランス料理に取り込まれ,洗練化された」
という,広く信じられている説があるが,これは現在ではほぼ否定されている.

 この立場を取る著者の邦語で読める文献としては,
・バーバラ・ウィートン:味覚の歴史:大修館書店:pp.75ff.
・ジャン・ラッセル・ルヴェル:美食の文化史:筑摩書房:pp.134ff.
などが代表.
 Davidson,Alan:The Oxford Companion to Food:に至っては,このカトリーヌの話をCulinary Mythology:の項目に入れ,完全にネタ扱いしている.

 彼らの論拠は,以下である.
 (1) イタリア料理の影響は,料理書の翻訳や人の交流を通じ,遙か以前から始まっていた.
 (2) 仏王家と比べて身分が低く,しかも次男坊の14歳の嫁,宮廷には他の有力な女性もおり,嫁いで以来長いこと子供も出来なかったカトリーヌには当初,宮廷での影響力などなかった.
 (3) なにより,1530年代及び40年代のフランス料理に変化が起こったという証拠は皆無.
 (4) フランス料理は17世紀後半からゆっくりと変化しだしたことがはっきりしている.
 (5) それゆえカトリーヌの影響は後年,宮廷での宴会の様式を荘厳にした程度にとどまる.

(Krt in 世界史板他)


 【質問】
 インカやアステカ帝国の軍隊って,数の暴力でコルテスやピサロ軍を撃退できなかったのでしょうか?

 【回答】
 一般論では,

1)ケツァルコトル神伝承があって,戦意が維持できなかった
 インカでは「白い肌の神が海からやってくる」と言う伝承があったので,スペイン軍が来た時もそれらを神もしくは神の使いだと誤解したのが,大きく影響したと言われる.

2)彼らが客人として処遇されてる間に,彼らが持ち込んだ伝染病が蔓延してしまってマトモに戦えなかった

というものだけど,

 結局,独裁政治というか,帝国そのものが制度疲労を起こしていて,ちょっとしたきっかけで瓦解する寸前だったところに,上記1)2)が最後の駄目押しになってしまった,という認識みたい.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼1) そもそも,スペインの侵入当時の中米地域では一般にアステカ帝国のみが注目される傾向があるが,アステカ以外にもタラスコ王国,トラスカラ人の都市国家連合,ミステカ人やサポテカ人の小王国群などが乱立していた.
 特にタラスコ王国やトラスカラ人は,しばしばアステカ軍を撃破するなど強大な国力を蓄えていた.

 また,アステカ帝国の支配は政治的に未熟であり,領域内で一様ではなかった.
 支配下の国々は貢納を要求されているだけである場合も多く,アステカ支配下にあったマヤ系のワステカ人やトトナカ人などは,スペインと独自に同盟を結ぶなどしていた.

 そして南方のマヤ文明圏の大半は歴史上,アステカの支配下に入った事は無かった.

 スペイン人はこれら乱立する王国群を,少しずつ制圧していった.
 そもそも相互に敵対関係にあった先住民の王国は,スペイン人と同盟を結んで他の国を攻撃する道を選ぶものも多くあった.

 特に大きな役割を果たしたのはトラスカラ人である.
 トラスカラ人はティサトラン,オコテルルコ,テペティクパン,キアウィストランの四都市を中心とする都市同盟を結成し,長年にわたりアステカの支配を拒んでいた.
 1519年にコルテス率いるスペイン人と戦って敗北するとその同盟者となった.
 以後スペインのメキシコ地域征服の主力となり,後にはフィリピンの征服にも投入されている.

 1521年にスペイン軍がアステカ帝国の首都テノチティトランを包囲した際には,スペインと同盟を結んだトラスカラ人など数万人(一説には20万人とする)の先住民諸国軍が主力であり,スペイン人は数百人しかいなかったといわれている.

 テノチティトラン制圧後の破壊と略奪はスペイン人だけでなく,先住民諸国軍も参加して行われ,アステカ帝国は滅亡することになる.

 このようにスペインの征服は,「スペイン人vs先住民」という単純な図式では行われていない.
 当時の先住民諸国は,「数の暴力」でスペイン人を撃退するなどという芸当ができるような政治状況にはなかったのである.

2) スペイン人が持ち込んだ伝染病がアステカ人の間に蔓延したため.
 特にアステカの首都テノチティトランは,1519年から1521年までの2年間に,天然痘などの流行により人口が減少し,社会的にも大きな打撃を受けていたとされる.
 また,その他の先住民の間でも伝染病の流行で人口が減少し,アステカ滅亡後にスペインの攻撃を受けた際の防衛力は低下していた.

 なお,アステカ人がスペイン軍をケツァルコアトルの使者と勘違いしたという説明が広く知られているが,実際にはこの伝承はアステカ滅亡後にアステカ人の王侯貴族が,屈辱的敗北を正当化するために創り出した神話であるとされる.

 詳しくは,『古代メソアメリカ文明』(青山和夫著,講談社,2007.8)228p-249pの内容を参照されたし.

天武 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

 また金を精製する技術はあったものの,鉄の存在と精製技術を持たなかった為,武器の質でも大きく劣っていたよう.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 塩野七生氏の「ロードス島攻防記」という小説を読んだのですが,1522年,ロードス島の要塞に立てこもる5000人が20万人のトルコ軍と戦い,トルコ軍は数万の死者を出したとあるのですが,これは史実ですか?
 史実だとしたら,いくら戦争は防御側のほうが有利だとしても,トルコ軍は被害を出しすぎだと思うのですが?
 結局,要塞も攻め落とせずに交渉によって明け渡すことになりましたし,もう少しましな攻め方は無かったのでしょうか?

 【回答】
 ロードス島遠征は1522年に実際に行われました.
 元々この地域は,『オスマンの内海』こと地中海の喉に突き刺さった小骨のようなものだったので,何度も攻略部隊を送っているけど失敗してる.

 それどころか逆に,島を守るセント=ヨハネ騎士団は船を駆って,オスマン帝国の貿易路で海賊まがいの行為をするなど士気旺盛.
 まさに難攻不落な要塞島だった.

 スレイマン1世が攻略する事になるんだけど,この時はヴァチカン法王庁は援助拒否,フランスは対ハプスブルグのため動けず,強力な海軍力を持つヴェネチアは,貿易の関係でオスマンと中立条約を結んでしまった.
 つまり援軍の可能性のない八方塞がり.
 こういうとき,宗教的情熱を持つ軍隊は超強い.
 獅子奮迅の活躍をするもんだ.

 そしてこれも大きいが,どうやら島を攻めたスレイマン1世はあんまりやる気がなかったらしい.
 5ヶ月の戦闘のすえに最終的に講和したけど,周りの重臣達は大反対した.
「もう少しで勝てるのになぜ!?」と.
 講和の内容もかなーり騎士団及び島民にやさしい.
 具体的にみると・・・

1:離島希望者はオスマン海軍が責任を持って移動させる
2:離島を望まないものは残留してもOK.イスラム教にのっとり信教の自由は必ず認めるよ
3:残留した者も戦災を受けて生活は苦しいだろう.5年間税金を免除するよ
4:この島でデブシルメ(オスマン帝国の官吏・軍人候補のため子供を強制徴募する制度)はしませんよ

と,はっきりいって大甘もいい所.
 こりゃ大臣達は猛反対するわな.
 これらから,スレイマン1世は初めっから島の攻略にやる気がなかったと考えられている.

 被害が大きくなったのも,騎士団の獅子奮迅の活躍とこれが関係していると思われる.

世界史板住民 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 また,読んだのなら分かると思うが,ロードス島の要塞は当時有数の要塞建築家がアドバイスした堅固な要塞だ.
 それを攻めるとなれば,そのくらいの死者は出る.

 航空機や高性能な砲や爆薬も無い時代に,極めて堅固に構築された要塞に閉じこもる少数が,数が圧倒的に勝る敵を相手に,長期間,篭城戦を繰り広げる・・・ってのは,歴史上,そんなに稀有な話ではないよ.

 更に言えば,戦闘の結果を交渉に生かすのが戦争の常であって,最終的に交渉でカタがついたから,被害が出た戦闘は無駄だった・・・・ってのは,あまりに短絡的過ぎる考え方だよ.

 さらに,トルコ側の死者は4〜5万というのは史実だが,半分は病死と言われている.

 5000人の騎士や傭兵が立て篭もる,城塞都市でも屈指のロードスを陥落寸前にするのに,2〜3万の戦死者って計算なら,まぁ,そんなにビックリするような話ではないかと.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 アルカセル・キビールの戦い(1578)とは?

 【回答】
 サード朝モロッコとポルトガルとの戦い.

 サード朝では,1576年に第4代ムハンマド・ル・ムタワッキル王(在位1574〜1576)から叔父のアブド・ル・マルク(在位1576〜1578)が王位を奪うという事件が起こる.
 ムタワッキルはポルトガルへと亡命,ポルトガル王ドン・セバスティアン(在位1557〜1578)にモロッコ遠征をもちかけ,1578年6月,ムタワッキルと共にほとんどが傭兵から成る約2万5000の軍勢を率いてモロッコへと発った.

 ポルトガル軍はタンジェ上陸後,8月4日,内陸にあるルコ川沿いのアルカセル・キビールへと進軍し,アブド・ル・マルク率いるモロッコの大軍と交戦.
 数の上では圧倒されていたが,火器の性能で優るポルトガル軍は中盤に戦況を盛り返す.
 が,指揮能力を欠くドン・セバスティアンが,退いたモロッコ軍を深追いしたため,伏兵のモロッコ騎馬隊に側面から奇襲を受け,戦死約8000,捕虜1万5000の大敗を喫した.

 この戦いは,ポルトガルの王ドン・セバスティアン,モロッコの前王ムタワッキル,モロッコの現王アブド・ル・マルクの3人の王が参加し,いずれも戦死したことから「3王の戦い」とも呼ばれている.

 詳しくは
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Morocco.html#Morocc1
を参照.


 【質問】
 16世紀ヨーロッパの砲の発射手順を教えていただきたいんですけど,これで合っていますか?

1発射に適した位置に傾斜路などをもうける
2砲を牽引車から外す
3副車に積んである,発射に必要な道具を降ろす
4所定の位置に設置する
5目標に砲を向けおおよその距離を割り出す
6装薬を装填し続いて砲弾を装填する
7火門から錐を差し込み装薬袋に穴を開け導火線を押し込む
8点火して発射
9反動で下がった砲を元の位置に戻して次の発射に備える

 あと,一門の砲にどれくらいの人員が必要なんでしょうか?

 【回答】
 分かる範囲で.
 なお16世紀(1500年代)ということですが,部分的には15世紀の話も混ざっていることをご了承ください.

 1.発射位置に陣地を設営します.ただ土を盛ったものが主流ですが,後期には「砲欄」と呼ばれる木の枝で編んだカゴに土を詰めたもの(つまり土嚢のようなものですね)を配置したり,攻城戦の場合は煉瓦や石を組んでしっかりした陣地を造ったりしました.
 廃墟となった家屋を利用したものもあったようです.
 絵画資料によくみられます.

 2〜4はそのままでいいと思います.
 1494年にイタリアに侵入したフランス軍は,砲と砲車が一体になった砲を既に持っていました.
 2は省略されるケースもあったでしょう.

 5もOKです.
 16世紀中期に書かれたビリングッチョの技術書には,よく知られた発明として,砲身の角度を測るコンパスのような装置が紹介され,角度と射程距離については既に数式的に割り出す方法が考案されつつありました.
 おそらく15世紀後半には,角度と射程距離になんらかの関係があることは知られていたはずです.

 ここから,前装砲と後装砲で違います.
 なお後装砲といっても現代のような尾栓がついたものではなく,単なる筒である砲身に,装薬と砲弾が入った砲尾部をはめ込むものです.

 前装砲はあなたのおっしゃるとおりで,火薬を入れ,弾を装填しますが,装薬袋はまだ発明されておらず,硫化した火薬(アルコールなどといったん黒色火薬を混ぜ合わせ,乾燥させて砕いたもの)を器で測って装填します.
 射程距離によって装薬量を変えることは基本的にしませんでした.というのは砲の強度がまだ弱いため,装填しすぎると砲が破裂するからです.
 15世紀には砲弾の重さの15パーセントが限界であるということが経験的に知られていました.

 後装砲の場合,装薬と砲弾が入った砲尾があらかじめたくさん用意してあるので,それを砲尾にはめ込み発射します.
 射撃速度は若干速いですが,完全に砲身と砲尾を密閉できないため,どうしても発射ガスがもれ,威力が劣ります.
 ゆえにこのタイプの砲は,17世紀までには廃れてしまいました.(鋳造技術の発達も大きいですが)

 9について.
 フランス式の砲車と砲身が一体になった型の場合,反動で下がった砲を戻す作業が必要ですが,固定式の場合(砲身をそのまま台の上に固定した場合)は当然不要です.

 9の次には,
10 砲身内を濡らした布ないしスポンジを取り付けた棒で拭う
という作業がありました.

 なお中世初期には,火薬と弾を装填してから,砲門を泥でふさぐという作業があったと聞きます.
 これは少しでも発射ガスを効率よく発生させるためらしいのですが,泥が乾くまで待たねばならないので,発射速度は一時間に一発程度に落ちたそうです.

 なお,火薬については硫化したものを大きな塊のままで戦場まで運び,戦場に到着後,火薬の塊を砕き,ふるいにかけて大きさを揃える(小さな粒は大きな大砲に,大きな粒は小さな大砲や,火縄銃用になる)という作業が必要でした.
 塊のままなら湿気に強いですから.
 よって,巨大なウスとすりこ木のような道具や,何段階にもふるいを縦に重ねた装置などが,砲兵隊の装備に加わります.

 一門の人員配置について.
 ながらく大砲は(少なくとも16世紀中は)正規の軍人ではなく,大砲親方と呼ばれる民間人によって操作されました.
 砲手は,その大砲を作った工房の職人がそのままあたることも多かったようです.
 よって一門一門装填具から何からことごとく違い,ミラノ公国のある城には200種類の大砲があったそうです.
 というわけで,一概に何人ということは出来ません.
 絵画には数人の操作員しか描かれていないケースも多いです.

(779)

 自分が以前読んだ同じ本には,

 1.黒色火薬は現代の火薬と違い,固体のままで燃えていく.
 そのため粒の小さい火薬は速く,粒の大きい火薬は遅く燃える.
 2.小さい弾体を飛ばすには短時間で燃える火薬のほうが都合がよく,大きな弾体を飛ばす場合ゆっくりと燃える火薬のほうがよい.
 そのため小さな銃や砲ほど粒の小さい火薬が,大きな銃砲ほど粒の大きな火薬が用いられた.
 3.粉末火薬は燃焼速度が速すぎるため,粒火薬に比べてパワーが出せない.
 そのため火薬と砲弾の間にわざと隙間を設け,無理やり燃焼速度を遅くする工夫がなされた.

といったようなことが書いてあったと思います.

(名無し見学者)

 装薬の燃焼速度の調定は装薬の表面積で行うという事なので,粒が小さい程(単位重量辺りの表面積が大きい)速い速度で燃焼するのが正解,
 追記すると黒色火薬は燃焼,現代火砲の装薬は爆燃,と分類される.
 燃焼速度を理論値に近い値にするには,適度な空隙を確保し,適切に突き固める事が必須で,前装銃の薬室もその点を考慮して形状が考案された,と.

(三等自営業 ◆LiXVy0DO8s)


 【珍説】
 ラス・カサスは50年に渡って,先住民の窮状を訴え続けた.

 しかし,その書は後になって,むしろ反スペイン・プロパガンダのために使われ続けたため,やがてスペインは歴史の表舞台には,登場できなくなるのだ.

(小林よしのり「戦争論」3,2003/7, p.166)

 【事実】
 違います.
 16世紀のスペインが勢力をなくす要因は,いわゆる「帝国のオーバーストレッチ(=手の広げすぎ)」です.

 新大陸からの銀の流入が落ち込み,大西洋貿易が縮小して,財政負担がカスティーリャのみにのしかかり,
カスティーリャの農民がどんどん貧乏になる一方で,

イタリア統治,
オスマンとの対決,
アルジェリアの海賊退治,
オランダ反乱の鎮圧
フランス・ユグノー戦争への介入
(&アルマダの派遣),
そして翌世紀には三十年戦争への参戦,

・・・・と,金の掛かることばかりやっていたからです.

世界史板

 まあ,プロパガンダ書一冊で没落する国など,あるわけないやろし.

 16世紀にスペインはヨーロッパの超大国になり,アメリカ大陸などで巨大な帝国を樹立した.
 しかし,国内の産業は後退し,最終的にスペインは遅れた乏しい国になってしまった.

 スペインの没落の要因として以下の点が挙げられる.
・永年に継続した大規模の戦争による国勢の疲労
・農業や工業を支えたイスラム教徒と,商業・金融業を担ったユダヤ人の国外追放
・アメリカの植民地から輸入された多量の貴金属によるインフレ.スペインは国際決済に使われていた金・銀が豊富で,国内で品物を生産するより,外国から輸入し,国内産業が空洞化してしまった
・メリノの羊毛を原料として輸出し,国内で加工しなかったので,織物産業は形成されなかった
 19世紀初頭,ナポレオンの戦争に大きな打撃を受けたスペインはもはや後進国になってしまった.
 その後,植民地もほとんど失い,「ヨーロッパのアフリカ」と見なされるようになった.

(ヴルピッタ・ロマノ〔京都産業大学講師〕「スペインの経済の生成と発展」)

……というのが,教科書的な見解やろなあ.


 【質問】
 アルマダの海戦(1588)でのイングランドの勝因を教えてください.

 射程の長い大砲を使ったらしいですが,当時の技術で命中したのでしょうか?
 軽くて速い船で逃げながら戦ったのとして,舷側の大砲で逃げながら攻撃できますか?小型船だと揺れるし,命中率落ちますよね.
 ドーバー海峡に誘い込んだり,火計をしたり,内部工作をしたりとかも読んだのですが,劣勢を覆すために色々がんばったのでしょうか?
 イギリス海賊たちの忠誠心も高かったのですか?

(Colorful on FAQ BBS)

 【回答】
 砲戦で相手を倒す作戦を選んだイングランドの作戦勝ち.

 戦いの推移としては,本当はスペイン艦隊は500隻を以て,パルマ公爵の軍隊とフランドルで合流させるつもりでしたが,第一陣の130隻が出航後,嵐に襲われてパルマ軍と合流できませんでした.
 また,逃げ込んだカレーには,エフィンガム卿Charles Howardの指揮する英国艦隊が待ち伏せていて,火船で以て混乱させた.
 最後に,グレーヴラインズ沖で英国艦隊に攻撃され,壊滅した,と.

 英国は水深の深い海が多く,作戦が比較的狭い海域に限定されていた為,余り動かない大型戦艦が主に用いられましたが,イベリア半島諸国は敵を掃討し,遠洋を航走し,交易を行なう多機能の船を必要としました.

 従来の研究では,アルマダの敗因は,
 第一にスペインが拠点から離れ,慣れない海で作戦行動をしていたのに対し,イングランドはいつでも補給や交代が出来,しかも,建造に当たって想定されていた環境で作戦出来た.
 第二に,イングランドの軍艦は前述の通り古かったが,型材が良かった(イングランドの海軍局曰く,「水漏れ穴がどういう意味なのか誰も知らない」と).
 第三に,その戦艦の三分の二は,細長く,帆が沢山あり,乗員が少ないガレオン船に改造されていたので,帆走速度が速く,銃砲が多数搭載出来たことが挙げられています.

 しかし,イスパニア側は事前に用意していた戦艦用の砲弾50発を殆ど消費していないことが挙げられます.
 例えば,砲22門搭載の「トリニダード・デ・エスカーラ」は,8月2日に35発,4日に21発,8日に38発(1門当りではなく総数で)しか撃っていません.
 また,砲20門搭載の「サンタ・バルバラ」は7月31日に22発,8月1日に28発,2日に47発.
 アンダルシアの「サン・フランシスコ」に至っては,戦い全体で21門の砲から242発,主砲のカノン砲2門からは10発と12発しか撃ってません.

 これは,至近距離で砲撃,そして衝角戦術へ移行する場合には極めて有効なもので,最初に1発撃って相手を怯ませようと言うモノでした.

 しかし,英国艦隊は衝角,接舷戦術を行わなかった訳です.
 となると,砲戦での決着しか無く,砲弾の装填をしなければなりません.
 ところが,スペインの大型砲は殆どが二輪砲架で,砲脚が長く引き戻すのに苦労する代物,加えて,砲架だけで甲板と同じ幅があったり.
 したがって,艦内に引き戻すのは無理,であれば,船の外で装填器を熱い砲身に跨がせ,清掃と装填作業を敵の砲火の中で行なわねばなりませんでした.
 即ち,至近距離での連続砲撃は難しい訳です.

 一方の英国艦隊は,同じ状況であっても,砲架は二輪ではなく四輪でした.
 四輪ですから極めて安定し,二輪だと必要な砲脚や大きな車輪は不要で,発射後は速やかに複滑車で砲を艦内に引き戻し,艦内で装填し,再び定位置まで戻すと言う作業が円滑に行え,更に作業スペースを取ることもありません.
 また,四輪の安定性は,作戦中に砲を自在に旋回でき,目標を定めるのにも有利です.

 と言う訳で,イングランド船は優秀な帆走能力でイスパニア船を翻弄し,こちらの有利な射程で砲弾を撃ち込むことが出来た訳です.

 従来の海戦は,前述のように,至近距離での砲戦で相手を威嚇(または足を止める)し,衝角で船体に穴を開けて沈める,或いは接舷戦闘で,艦を捕獲するのが主流でした.
 しかし,イングランドはその方策をとらず,砲戦で相手を倒す作戦を選んだ訳です.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 on FAQ BBS)


 【質問】
 15-16世紀の砲はどのようなものだったか?

 【回答】
 防衛技術研究家,多田智彦によれば以下の通り.

 青銅製の鋳造砲もあったが,主流は,樽を作るように錬鉄の角棒を丸く並べて筒状に組み立て,角棒の間を鉛で充填し,その外側から箍(たが)を巻いて補強し,砲身にするタイプだった.
 このようにして作った砲は,両端がオープンなので片方を砲口とし,他方に火薬(発射薬)を入れた薬室を取りつける.
 砲身は,丈夫な木材の架台に固定され,薬室の後ろには,射撃時の反動を受けて砲尾を固定する木材が入れられた.
 砲弾は薬室側,すなわち砲尾から装填するため,後装式と称された.

 砲身(Barrel)の語源となった樽型を改良したものが,糸巻型と称されるもので,錬鉄性の短い糸巻型の筒を繋ぎ合わせて砲身を構成する方法である.
 糸巻の繋ぎ目には錬鉄性の箍を嵌めて固定するが,この方式でも薬室を砲尾に取り付け,砲弾を砲尾から装填するようになっていた.

 一体構造で砲口から砲弾を装填する前装砲としては,青銅・黄銅製と鉄製があった.
 青銅・黄銅砲は鋳造で製造されたが,鉄は技術が確立していなかったため,鋳造は一般的ではなく,鍛造が主だった.つまり鍛冶職人が鉄板を叩いて筒状に加工するのである.
 したがって,口径の大きな砲は製造できなかった.

(from 「世界の艦船」,海人社,2003/10,p.76)


 【質問】
 サード朝のマンスールは,ソンガイ帝国をどのように征服したか?

 【回答】
 サード朝とソンガイ帝国の間では,タガザの岩塩鉱山の領有をめぐって軋轢が生じていた.
 それに加えて,1471年に黄金海岸に到達したポルトガルやスペインがサハラを経由せずに直接海岸地帯から金を入手し始めており,東からはオスマン帝国がサハラ交易の要地トゥワットに勢力を伸ばし始めていた.

 1590年12月29日,火縄銃装備の歩兵2000,同装備の騎兵500,槍と投げ槍装備の騎兵1500のモロッコ軍は,8000頭のラクダと1000頭の馬を引き連れてマラケシュを出発.
 1591年3月1日,サハラ砂漠を踏破したモロッコ軍は,3月21日,ガオ近郊のトンディビに駐屯していたソンガイ軍を急襲する.
 モロッコ軍はサハラ越えによって1000余人にまで減少していたが,火器をはじめて見たソンガイ帝国の騎馬隊は潰走.
 モロッコ軍は,4月25日にトンブクトゥに入城,逃走していたソンガイ王アスキア・イスハーク2世(在位1588〜1591)も翌年に殺害されてソンガイ帝国は滅亡する.

 ソンガイ帝国の征服によってサハラ以南の国々に対するサード朝の威信は増大し,毎年1トンもの黄金がモロッコに流れ込んだという.

 詳しくは
http://www.h4.dion.ne.jp/~kosak/Morocco.html#Morocc2
を参照.


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