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◆海軍
第1次世界大戦FAQ目次


 【Link】

D.B.E. ミニ型」:第一次大戦で沈没の仏軍艦,地中海で発見 船体ほぼ残ると
>参考:ダントン (戦艦) - Wikipedia

World War One - The Maritime War(英語)

「それにつけても金のほしさよ」◆やる夫が地中海で,ドイツ潜水艦と戦うようです

リッサ海戦
http://www.kaho.biz/huousensou.html
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/Tegetthoff/tegetthoff1.htm

『ドイツ艦隊大自沈』(ダン・ファンデルバット著,原書房,1984/01)

 読了.
 かいつまんでいうと,テルピッツによる大艦隊建造計画の始まりから,スカパフローでの一斉自沈に至るまでの,帝政ドイツ海軍の歴史を解説した本.
・テルピッツとカイザーヴィルヘルムによる大海軍計画の進行と,それがいかにヨーロッパの対立に火を注いだか?
・一次大戦において,彼らはいかに戦い,あるいはいかにして戦わなかったか?
・水兵反乱から始まり,スカパフローで終わる大海艦隊の崩壊まで.
 特に休戦後のドイツ艦隊の内幕,反乱を起こした水兵達が,いかにダメダメな連中だったか?
・政治に翻弄され,情報もろくに入らない中でドイツ艦隊司令官は何を思い決断したか?

 日本では他に数が少ない内容のもので,大変興味深かった.
 ただ,一つ大きく不満なのは,原書では自沈の後に,サルベージ業者による艦隊の引き揚げに関する章があったのが,日本語版ではページ数の関係で削られ,後書きでの内容抜粋という形に縮められていた事.
 カイザーの大艦隊の残骸が,二次大戦後に意外な形で人類の科学の発達に役立っている事を,書かずにどうする.

------------軍事板,2011/02/25(金)
 英独の建艦競争から第1次大戦,ジュットランド海戦,講和そしてスカパブローでの自沈までが,判り易く書かれて読みやすかった.
 特に興味深かったのが,休戦から自沈までの英独間の動き.
 この辺の描写は,他の資料だと大体3〜4行で済まされてるもんで.

 ついでにWW1の英独の主力艦の図説のような洋書があれば教えて貰いたいと思います.
 海人社の近代戦艦史,イギリス戦艦史,ドイツ戦艦史は既に保有していますので…

------------軍事板,2012/02/12(日)

 【質問】
 第1次大戦時の海軍についての本知りたいです.
 わがままですが,図書館に置いてそうなもので,日本語のがいいのですが.

 【回答】
 下記,ハードカバー版を買って積んだまま,文庫版を買ってしまった私が通りますよ…

『死闘の海』(三野正洋 & 古清水政夫著,光人社NF文庫,2004/06)+++

 あと,ソノラマ文庫 青本に,「ジュトランド海戦」があったはず.
(発売当時に買い逃した記憶あり…)

 雑多なエピソードであれば,「撃沈戦記」シリーズにも,WW1関連のエピソードが結構入ってました.

Lans ◆xHvvunznRc : 軍事板,2011/10/06(木)
青文字:加筆改修部分

 『死闘の海』の一番の問題は,三野正洋が書いていること.

 他には,

外山三郎の『近代西欧海戦史』

歴史群像アーカイブVol.21 『第1次世界大戦 下』
ttp://rekigun.net/new/index.html#20111006

『トラップ一家物語』
(笑)

 末期のドイツ海軍であれば,『ドイツ艦隊大自沈』ってのがありますな.

軍事板,2011/10/06(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 この際英語でもいいんで誰か,対費用効果から見たWW1における海上封鎖,とか書いてないもんかなぁ.

 【回答】
 Alexander B. Downes 著(米デューク大政治学者助教授)
読んで参考文献をあたれば吉
Targeting Civilians in War. Ithaca: Cornell Univ. Press, 2008.
http://www.cornellpress.cornell.edu/cup_detail.taf?ti_id=4817
Chap. 3, The Starvation Blockades of World War I: Britain and Germany, pp. 83-114.
Desperate times, desperate measures: the causes of civilian victimization in war.
International Security 30(4) (spring 2006): 152-95.
なかんずく pp. 178-89 ("The British Blockade of Germany in World War I")

 Conference Paperならpdfで読める.
Downes, Alexander. "Targeting Civilians in War: The Starvation Blockades of World War I"
http://www.allacademic.com/meta/p64581_index.html
pdf直リンク
http://www.allacademic.com/one/apsa/apsa03/index.php?cmd=Download+Document&key=unpublished_manuscript&file_index=2&pop_up=true&no_click_key=true&attachment_style=attachment&PHPSESSID=b98f885fb2c6149f15d9f3184cb85eba

 同著者の,政体による市民殺戮の効果の違いについての論文とか
http://www.allacademic.com/meta/p65599_index.html

軍事板,2009/06/13(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 かつて艦船などに施されたタズル迷彩について教えてください.

・どのような理論的背景で
・どんな効果を狙って
あのような奇抜な迷彩が施されたのでしょうか.

 また,現在では見ることはありませんが,やはり有効性は低かったのでしょうか.

 【回答】
 軍艦に搭載された測距儀は,観測者が接眼レンズに投影された,上下に分割された艦影を一致させることで,三角測量の角度を決め,距離を測定させる.
 ダズル迷彩は船の輪郭に似せた斜めの線の不規則なパターンを施すことで,艦影をわかりにくくしこの作業を困難にしたり間違えやすくすることを狙ったもの.
 この他に船の大きさを誤認させたり,艦首波に似せたパターンを施すことで,速度や進行方向を見間違えさせる効果も狙っている.

 このほかに,WW1でイギリスが使った,色使いが原色組み合わせの派手なダズル迷彩がある.
 遠くから見ると,灰色に見えるということを狙ったものらしい.

 実際に効果があったかどうかはわからないが,乗組員の気休めにはなったらしい.

 現代じゃ電子的索敵が主なので,視覚的迷彩を施してもあまり意味がない.
 発見そのものを難しくする狙いなら,今みたいな低視認迷彩のほうが効果がある.
 なので,こっちは今でも使われている.

 後.あんまり迷彩効果が高すぎると事故る可能性が高まる.

 なお艦船の迷彩に関しては,モデルアート別冊の「軍艦の塗装」が手堅い.

ダズル迷彩の典型

http://www.gotouring.com/razzledazzle/images/mahomet-600.jpg

原色系ダズル

http://www.damninteresting.com/wp-content/dazzle.jpg

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本語で読めるジュットランド沖海戦の本って無いっすかね?
 三野正洋の死闘の海や,歴史群像の第一次大戦のアーカイブぐらいでしか,見たことが無いもんで…

 【回答】
 雑誌記事で良ければ
http://www.kojinsha.co.jp/maru/0607.html
http://www.ships-net.co.jp/detl/200605/indexj.html

 あと,戦前の水交社とか海軍が翻訳とか独自で色々出してると思う.
 シェーアの本は,言い訳と見栄っ張りが多くて辟易した.
 まあ,あのゴリゴリのドイツ海軍だし,素直に負けたって言えないのだろうけどさ(笑

 また,ジュットランドだけを扱った本ではないが,以下にジュットランドについてまずまず詳しい記述がある.

外山三郎 「近代西欧海戦史―南北戦争から第二次世界大戦まで」,アマゾンなら古本で3000円から
リデル・ハート,「第一次世界大戦〈下〉」

 ただし,Wikiの日本語版の説明よりやや詳しいという程度.

 ジュットランド,一冊丸ごとじゃなくてもいいなら,V.E.タラント「戦艦ウォースパイト」もある.

 国会図書館の近代デジタルライブラリーに,日高謹爾著「ジュトランド海戦の研究」280ページというのがある.
 ただし,自分では読んでいないので,内容については保証しかねる.

軍事板,2012/01/28(土)〜01/29(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ユトランド海戦で英巡洋戦艦が3隻も轟沈したのは何故か?

 【回答】
 ユトランド海戦では3隻の英巡洋戦艦が,命中弾により弾薬庫が誘爆して轟沈している.

 英巡洋戦艦の轟沈の原因として

1)
 大角度で落下したドイツ巡洋戦艦の主砲弾が甲板直下の装甲を貫通して弾薬庫に到達,そこで爆発して発生した火災が装薬に引火した.
 当時の英巡洋戦艦の欠点だった水平防御(甲板下にはられた装甲)の弱さが露呈した形だ.

2)
 砲塔を貫通した主砲弾により内部に火災が発生,その火が弾薬を揚げる揚弾筒を伝わって弾薬庫に達し,同じく装薬に引火した.
 防火対策にも不備があった.

といわれている.

 いずれも敵と撃ち合いを始めて数分,数発の命中弾で撃沈されている.
 いずれも数分で沈没し,1000名以上の乗員のうち数名しか生き残らなかった.

 これに対し,弾薬庫への注排水装置や揚弾筒内に防火シャッターを設置するなど,ダメージコントロール対策が充実していた,ユトランド海戦のドイツ巡洋戦艦は極めて頑強だった.
 巡洋戦艦ザイドリッツは全砲塔被弾,艦首は海面ぎりぎりまで浸水という状態にも関わらず沈没を免れ,スクリューを逆回転させて後ろ向きに進みながら母港に生還している.

ユトランド海戦でお亡くなりになった巡洋戦艦 Queen Mary


 【質問】
 北米航路船舶への,第1次大戦の影響は?

 【回答】
▼ 1915年のラ・フォレット海員法(アメリカ船籍の船の75%は,英語を話せなければならないと規制し,安価な中国人船員を米国の船会社が雇うことを阻害した)と,大西洋での戦争需要とが原因で,パシフィック・メール社などは一時的に太平洋から撤退し,アメリカの太平洋貿易は日英の海運会社に依存することになった.
 しかし日本の海運業者はアメリカの輸出を抑えるため,東行きの運賃を相当低く抑え,西行きの運賃は高く設定した.
 それは中国人投資家のグループが,米中間で直接貿易を行うための海運業者を設立しようとしたほどだった.

 そして戦後も,太平洋横断の交易ルートは日本の海運会社が支配した.
 上海に拠点を持つ英国が,その有力なライバルで,アメリカのシェアは大恐慌後には15%にまで落ち込んだ.

 しかし一方,アメリカ人は他の輸送手段に目を向け始めていた.
 航空機である.

 詳しくは,『西へ! アメリカ人の太平洋開拓史』(John Curtis Perry 著,PHP研究所,1998.11.4),p.301-309を参照されたし.

消印所沢

 1902年,競争相手のパシフィック・メール汽船会社は,1万1,000トン級の新造船,コレア号,サイベリア号を投入したのに続き,1904年には1万3,000トン級のモンゴリア号,1万4,000トン級のマンチュリア号を相次いで投入し,一気に優位に立ちます.
 こうなると苦しくなるのは東洋汽船.

 其処で,この巨船に対抗すべく,東洋汽船は3隻の1万3,000トン級豪華客船を3隻建造し,世間をあっと言わせました.
 1908年4月22日に天洋丸,11月に地洋丸,1911年8月に春洋丸が竣工し,早速北米航路に投入しました.
 これらの客船は,パーソンズ蒸気タービンを装備し,速力は19kts/h,室内装飾はアールヌーヴォー様式で統一され,内装の木材はウォールナット,マホガニーなどの輸入材をふんだんに使い,家具やカーペットは英国製の輸入品.
 更に,天洋丸は,船舶無線電信局開局第1号で,ドイツのテレフンケン製無線装置を備えていました.
この巨船の竣工で,日本は再び太平洋の女王の地位を取り戻しました.

 また,1909年には大阪商船が新たにシカゴ・ミルウォーキー・アンド・セントポール鉄道会社と連絡契約を行い,6,178総トンの新造船「たこま丸」を建造して,香港〜タコマ線を開設し,郵船のシアトル航路と真っ向から対立することとなりました.
 今までは外国の船会社との競争だったのが,更に日本の船会社との競争となった訳です.
 大阪商船は,志あとる丸,志かご丸,ぱなま丸,めき志こ丸,かなだ丸と言った何れも6,000トン級の優秀船を投入し,年間25航海の運航体制を確立しました.

 これに対抗する為,郵船は1912年に横浜丸,静岡丸を建造し,6,000トン級船隊の充実を図り,商船に対抗しました.

 また,カナダ太平洋鉄道は,1890年以来エムプレス級大型高速船3隻を始めとする各船で北米航路を担ってきたのですが,これら日本船隊,米国船隊の充実により,競争力が落ちてきた為,第一次大戦直前に1913年,17,000トン級のエムプレス・オブ・ロシアを竣工させ,此の船は横浜〜ヴィクトリア間を8日18時間31分で航走するという記録を打ち立てました.
 こちらは大きさよりも,速さで勝負を掛けた訳です.

 こうして,内外数社の競争状態で北米航路は推移し,第一次大戦に突入していくこととなります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/09/10 22:47

 第一次大戦までの北米航路には多数の船会社が,鉄道会社と組んで参入していた訳ですが,米国の西部地区には大陸横断鉄道の建設や鉱山労働者,港湾労働者などとして,中国や日本から多数の移民が渡ってきました.
 この数が増え,白人達の人口が少なくなっていく一方で,中国人移民労働者の様に,現地の住民の習慣とは相容れず,摩擦を起こすケースも多くなります.
 例えば,死んだ後の改葬なんかもその一つです.

 1915年11月,上下両院で米国新海員法が可決され,Thomas Woodrow Wilson大統領はこれに署名します.
 この法律は,米国船では,普通船員の75%が士官の発する命令や船客の話す英語を理解する事を義務づけると言う,新たな資格が船員に必要となりました.

 これで大打撃を受けたのが,パシフィック・メール汽船会社です.

 当時,日米間,米中間での貿易量は米国の出超となっていました.
 輸入品や人の動きは然程ではありません.
 だからこそ,日本でも米国でも英国(カナダ)でも,運航に補助金を支給していた訳です.

 それでも競争による赤字が生じ,それを少なくする為に,船の運航に必要な船員を人件費の安いアジア人,就中,中国人を多く雇って運航していました.
 米国新海員法の制定は,こうした費用削減努力を無にすることであり,パシフィック・メール汽船会社は,人件費の高い米国人船員を雇ってまで運航することを止め,太平洋航路から撤退することにした訳です.
 この他の理由として,1914年に開通したパナマ運河の通航に関する新法で,独占禁止法の主旨に沿って大陸横断鉄道所属船の運河通航を禁止したことも挙げられます.
 パシフィック・メール汽船会社は,ユニオン・パシフィック鉄道の傘下にあり,そのユニオン・パシフィック鉄道は,サザン・パシフィック鉄道の傘下になっていたのも追い打ちでした.

 その後,パシフィック・メール汽船会社は経営不振から,1915年に米東岸〜南米西岸航路を運航していたグレース・ラインに経営権を移し,第一次大戦後,米国船舶院から14,150総トン,17kts/hの535型貨客船5隻を委託され,サンフランシスコ〜マニラ間を一旦経営することになります.
 しかしグレース・ライン傘下となっても,米国船舶院から委託された502型貨客船を以て運航していたサンフランシスコ〜カルカッタ線が不況の為閉鎖,1925年に5隻の535型の払下げ入札で「他の会社」に負け,北太平洋航路の撤退を決め,名門は遂に1925年,廃業の憂き目を見ます.

 その「他の会社」とは,この北米航路に米国代表として新たに加わったのが,1900年にロバート・ダラーが極東向け木材輸送を行う不定期船会社として設立したダラー汽船会社です.
 ダラー汽船会社は,第一次大戦後にサンフランシスコに新たに参入し,東洋汽船と競争する一方,1923年には米国船舶院から1隻当り60万ドルと言う廉価で15,530総トン,14kts/hの502型7隻の払下げを受け,米太平洋岸発着の西航世界一周航路を開設しました.
 翌年,ダラーはグレース・ラインが委託されていた535型5隻の払下げに際し,グレース・ラインは最高値675万ドルで入札したのに対し,二番札の562万5,000ドルでまんまと落札してしまいました.
 勿論,この話には裏があり,米国船舶院のオコーナー長官に,ロバート・ダラーの息子,スタンレー・ダラーが彼とのポーカーで故意に負けた掛け金として現金3万2,000ドルの賄賂を送った見返りだったりします.
 この妨害により,グレース・ラインは太平洋航路から撤退してしまいました.

 一方,シアトル航路の方は,H.F.アレクサンダーが第一次大戦後に創立した新興船会社アドミラル・オリエント・メール・ラインが米国船舶院から運航を委託された535型5隻で,郵船と競争していました.
 ロバート・ダラーは,これも傘下にすべく,此の会社の株を買い占めて同社を乗っ取り,1922年に息子,スタンレー・ダラーを社長に送り込み,社名をアメリカン・メール・ライン(AML)と改称して,政府から郵便補助を受けて運航を継続しました.
 更に,1926年には535型の払下げを受け,ダラー・ラインのサンフランシスコ航路の同型船5隻と配船を統合して,AMLのシアトル航路の東航と,ダラー・ラインのサンフランシスコ航路の西航を,又,シアトル航路の西航とサンフランシスコ航路の東航を接続する形の馬蹄型配船を実施し,米国の太平洋航路は「$」マークで統一されました.

 少し先走りましたが,パシフィック・メール汽船会社が運航していた船を買い取ったのが,当時,船価高騰で乗りに乗っていた,浅野総一郎率いる東洋汽船で,先ずは1881年建造,4,380総トンのペルシャ号を波斯丸と改名してサンフランシスコ航路に投入します.
 此の船は,老朽船ですが,以前は大西洋航路に投入されて,「大西洋の女王」と言う異名を取っていた船で,船客の評判も良かったと言われています.
 東洋汽船は,更に,パシフィック・メール汽船会社からコレア号,サイベリア号の2隻を買い取り,「これや丸」「さいべりあ丸」と命名して運航しました.

 東洋汽船は更に第一次大戦後,日本政府がドイツから賠償として接収した4隻の船の内,1911年と比較的新しい14,458総トン,16.6kts/hを誇る豪華客船,カップ・フィニスター号を大蔵省から運航委託され,これを大洋丸と名付けてサンフランシスコ航路に投入し,以後,天洋丸,春洋丸と共に活躍しました.
 因みに豪華客船3姉妹の内,地洋丸は,1916年3月31日,濃霧により香港で座礁して全損に帰しましたので,その代船と言う意味もあります.

 ところが好事魔多し.

 1920年頃になると,世界的な船腹過剰により,海上運賃が大暴落します.
 更にこの頃,米国船舶院は,米国海運業界を世界の海運界でも優位を得ようと,第一次大戦末期に計画し,その後続々と竣工した軍隊輸送船を民間の貨客船に改造して,民間企業に運航を委託し,予備船隊の維持を図ろうとします.
 この軍隊輸送船が,何度も出て来ます様に,俗に全長のフィート長を取って,「502型」「535型」と呼ばれたものです.
 元々は軍隊輸送船ですから,師団などの装備を丸ごと大量に大西洋を輸送するくらい大きく,短時間で目的地に着く為に,商船にしては不釣り合いな程,高速であり,更に大戦末期から戦後に掛けての竣工ですから,船齢も新しい.
 これらの船を,米国船舶院は特に太平洋航路の船会社に委託したのです.

 郵船のシアトル航路も打撃を受けますが,それ以上に打撃を受けたのが東洋汽船でした.
 船腹過剰による不況に加え,サンフランシスコ線での米国の優秀船就航で,瞬く間に船客は元より,貨物まで奪われ,深刻な経営不振に陥りました.
 更に,1923年の関東大震災と,1924年の排日機運が高まった事に拠る米国新移民法の制定がこれに追い打ちを掛け,1926年5月1日,東洋汽船は南米西岸航路を含む定期船部門を第二東洋汽船として分離し,東洋汽船本体は不定期船部門だけとなり,即座に第二東洋汽船は郵船と合併して,郵船がサンフランシスコ線を継承 することになりました.
 この時,天洋丸,春洋丸,これや丸,さいべりや丸,銀洋丸,墨洋丸,楽洋丸も引き継ぎ,大洋丸は引き続き大蔵省から運航委託を受け,1929年5月4日を以て郵船に払い下げられています.

 一方,商船も内情は苦しく,1929年10月より日本郵船各務社長と大阪商船堀社長が会見したことから開始された両社協調機運の進展により,1931年4月6日,日本郵船,近海郵船,大阪商船三社による,重複航路の整理,競合航路での賃収合算,陸上施設の共用について協定,所謂,郵商協約が締結され,これによって,郵船が南米東岸線を休止する代わりに,商船はタコマ線を休止することになり,4月19日のあらびあ丸を最終船として,タコマ線から撤退することとなりました.
 因みに,此の後,郵商合同についても話し合われたのですが,東京日日新聞記者によってその内容がスクープされてしまい,正式な交渉に入ることなく立ち消えとなりました.

 こうして,米国に次いで,日本でも北米航路の統合がなりました.

 カナダは,相変わらずカナダ太平洋鉄道による北米航路が運航されていましたが,1921年,ロンドンにカナダ太平洋鉄道の子会社として,カナダ太平洋汽船を設立し,航路はこちらに委譲しました.
 1922年,1913年竣工の「エンプレス・オブ・ロシア」に加え,21,517総トンと今までの船の1.5倍,最高速力20kts/h(航海速力18kts/h)の大型優秀船「エンプレス・オブ・カナダ」を投入し,又,英国政府から第一次大戦の賠償としてドイツから接収した21,860総トン,航海速力17kts/hの優秀船「ティルピッツ」を,「エンプレス・オブ・オーストラリア」として就航させました.
 当時,カナダの商船は,高速でホノルルに寄港しており,同地への避寒客を多数乗せたほか,香港,上海からカナダへの中国人移民を一手に輸送していた強みがありました.

 因みに関東大震災で,当日丁度,横浜に停泊中の「エンプレス・オブ・オーストラリア」は,焼け野原となった横浜市に食糧や水を供給し,2,000人余に達する負傷者や罹災者を本船に収容して負傷者には船医の手当を,罹災者には食事を与え,外国人避難民600名を神戸に移送し,神戸で補給した食糧や飲料水を再度横浜に届けるという八面六臂の活躍をしています.
 また,「エンプレス・オブ・カナダ」は9月3日に横浜に入港して救援活動をしたのに加え,2週間後には,「エンプレス・オブ・ロシア」が横浜に入港して,救援物資の他,最初に海外からの義援金25,000ドルを届けた船となっています.

 余談は扨措き,更にカナダ太平洋汽船では,1930年6月に,26,032総トン,23kts/h(航海速力21kts/h)の「エンプレス・オブ・ジャパン」を投入しました.
 これは,太平洋航路での最大,最高速の豪華客船でした.

 これに対抗する為にも,郵船は新造船の投入を検討せざるを得なくなります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/09/11 22:42


 【質問】
 フランス海軍についてボーっと眺めていると,

>巡洋戦艦 ジル案 - 0隻 (構想のみ). ※ディール案 - 0隻 (構想のみ).

と言う内容がありました.
 このジル,ディールそれぞれの案がどういったものであるか,教えていただけますでしょうか??

 【回答】
 ソースがコーエーの「戦艦名鑑」及び「未完成艦名鑑」なので,信憑性についてはかなりあてにならないのだが,ノルマンディー級に続いて計画されたリヨン級戦艦と,同時期の1913年頃に計画された巡洋戦艦の試案らしい.
 ジル案は基準排水量28,100t,速力28ノット,主砲は未成に終わったノルマンディー級と同じ34cm四連装砲を,艦首側に1基,艦尾側に背負い配置で2基装備,舷側装甲が270mmとのこと.
 ディール案は載っていないが,デュラン・ヴィール案があり,こちらはジル案と同じ34cm四連装砲を2基か3基,あるいは37cm四連装砲を2基と,ぶっちゃけ基本的な仕様も固まってなかった様子.
 いずれにせよ,第一次大戦の勃発により,試案から先に進むことなく中止されてしまってる.

軍事板,2009/06/12(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 エドガー・キーネ級装甲巡洋艦について教えてください.

 【回答】
 エドガー・キーネ Edgar Quinet 級は、フランス海軍が建造した最後の装甲巡洋艦.
 戦艦艦隊への付随行動や通商破壊作戦を外洋で行えるよう,艦体は大型化されており,また,缶室分離配置による6本煙突が特徴.
 2番艦ワルデック・ルソー Waldeck-Russeau は極東艦隊の旗艦となり、親善のため日本各地に寄航している.

 【参考ページ】
http://www.worldnavalships.com/edgar_quinet_class.htm
http://www.cityofart.net/bship/french_armor.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Edgar_Quinet_class_cruiser


http://www.cityofart.net/bship/french_armor.htmlより引用)


(画像掲示板より引用)

【ぐんじさんぎょう】,2011/05/16 20:40
を加筆改修


 【質問】
 WW1のギリシャ海軍について教えてください.

 【回答】
 ギリシャ海軍は,トルコに対抗して可成りの戦力を保持していました.

 装甲艦では,1889〜90年竣工のHydra級(フランス製/4,885t)があります.
 これは,砲塔艦として,10.8in34口径砲を2門,10.8in28口径砲を1門装備していましたが,流石に口径の違う砲では取り回しが難しく,1908〜10年に5.9in速射砲5門に換装されました.

 他に装甲艦は1860年代竣工の旧式艦がありましたが,これらは大戦前に退役しています.

 その後,Balkan戦争後の軍備拡張の際,ドイツに超弩級艦Salamis,フランスにProvence級の略同型艦を1隻発注していますが,これらは第一次大戦勃発のため,前者は工事中止となり,後者もキャンセルされています.
 戦艦Salamisは艦体はドイツのA.G.Vulcan,タービンはドイツのAEG,ボイラーは英国のYarrow,主砲と 副砲は米国のBethlehem Steel,主砲塔は英国で製造されるという国際分業の見本みたいな艦で,1915年3月竣工予定でしたが,主砲始め武装は米国製だったので,ドイツ製の砲熕兵器が装備できず――砲塔の口径が合わなかった――,接収は免れました.
 ちなみに,主砲塔のうち2基は,英国海軍のAbercrombie級Monitorに流用されました.
 同艦はその後,未完成のまま放置されましたが,1923年にギリシャ政府はこの艦の引き渡しを拒否します.
 これの支払いを巡って,裁判やら話し合いやらが行われ,結局,ギリシャはA.G.Vulcanに対して,建造前に提示された450,000ポンドのうち,30,000ポンドを支払い,1932年に漸く艦は解体されました.

 代わって入手したのが,米国では旧式化した前弩級艦のMississippiとIdahoで,前者がKilkis,後者がLimnosと命名され,軍籍に入りました.

 巡洋艦としては,Balkan戦争直前にイタリアよりPisa級装甲巡洋艦(1911年竣工,9,958t)を買収し,Georgios Averofと命名します.
 ちなみに,この艦名は,この装甲巡洋艦を購入する資金,300,000ポンドを拠出した大富豪の名前だったりします.
 この艦は,我が国の日進・春日のケースのように,Balkan戦争直前に海軍に編入され,旗艦として活躍しました.
 また,第二次大戦でも艦ごとAlexandriaに脱出し,インド洋で船団護衛に活躍した後凱旋し,現在では記念艦として展示されています.
 我が国の三笠並の扱いを受けているわけですね.

 巡洋艦はもう1隻,米国製のHelle(1913年竣工,2,600t)があります.
 元々は,日清戦争で海軍か壊滅した清朝が発注したものですが,革命で清朝が瓦解し,売りに出されたのをギリシャが1914年に購入したものです.
 この艦は,英国で武装を施す関係上,結構英国に止め置かれ,1916〜17年にかけてはフランス海軍の所属艦として任に就いていました.

 このほかに近代的な軽巡洋艦として,英国にAntinavarhos Kontouriotis,Lambros Katsonisの2隻が発注されましたが,これらは第一次大戦勃発によって,英国海軍に接収され,Birkenhead級として竣工しました.

 駆逐艦としては,
ドイツ製のNiki級(1906〜07年竣工/350t)が4隻,
英国製Thyella級(1906〜07年竣工/352t)が4隻,
アルゼンチンから買収した英国製Aetos級(1911年竣工/980t)4隻
があります.
 これらは,第一次大戦参戦時にフランスの指揮下に置かれ,その旗の下で活動しています.
 うち,1隻のDoxaは,Sicily沖でUB47に撃沈されました.

 駆逐艦には,更に,英国に発注したKriti級が4隻有りましたが,これらは巡洋艦と同じく,英国に接収されてしまいました.

 水雷艇としては,ドイツ製のAigli級6隻(1913年竣工/120t)がありました.

 潜水艇としては,フランス製のDelfin級2隻(1911〜12年竣工/310t)を保有しています.
 DelfinはBalkan戦争において,潜水艇による世界最初の雷撃をトルコの巡洋艦,Medjidiehに対して行っています.外しましたが.

 フランスには,このほか2隻の潜水艦を発注しますが,これらは接収され,Amazone級としてフランス海軍に就役しました.

 更に,ドイツからはU31級潜水艇を4隻購入する話が進んでいましたが,大戦で没になりました.

 他に,機雷敷設艇を2隻,砲艦10数隻を保有していました.

 このほか,Balkan戦争時には,9隻の仮装巡洋艦を使用しており,うち1隻は,トルコの巡洋艦,Hamidiyeによって撃沈されています.

 さて,ギリシャは1916年に連合軍側に参戦します.
 その参戦は可成り特殊で,軍艦は全てフランス海軍旗を掲げ,フランス海軍の指揮下で任務に就いていました.

 で,戦後の軍艦分配に際しては,ドイツ艦と共に,二重帝国海軍の艦も分配されました.
 駆逐艦Huszar級である,Ulanがそれで,先に撃沈されたDoxaの代替として,1931年まで使用されました.
 また,水雷艇Tb82F級のうち,Tb92F/94F/95Fが引き渡され,Prousa,Panormos,Pergamosとして使用され,1938年に座礁して失われたPanormosを除き,いずれも枢軸国のギリシャ侵攻で撃沈されています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板)


 【質問】
 巡洋艦Averofについて詳しく教えてください.

 【回答】
 ギリシャは,1919〜21年のトルコ出兵で国内経済が疲弊し,国王の死(猿に手を噛まれて破傷風だか何だかで)によって国内が混乱した状況で,1924年に王制が廃止され,共和制に移行しました.
 その後も政権は目まぐるしく変わり(内閣平均寿命6ヶ月,最短が1日.),国内が混乱したため,1935年再び王制が復活します.

 この国はトルコと長らく対立していたので,海軍も空軍も,トルコを仮想敵国として編成していました.

 ただ海軍は,第一次大戦前にトルコが英国に発注した弩級艦,超弩級艦に対抗して,ドイツにSalamis級戦艦を発注したのが,第一次大戦で接収され(ドイツは工事を続けたものの,砲塔は米国,砲は英国だったので,ドイツ製の武器が載せられず断念),その後フランスに発注したのも工事中止となり,戦後の混乱で折角戻ってきたSalamis級戦艦も建造契約を破棄してしまい,結果的に当時中立国だった米国から前弩級艦2隻を購入する形でお茶を濁していました.

 さて,ギリシャと言えば,JFK夫人と再婚したOnassisが有名ですが,船舶の保有数が非常に多かったりします.
 なので,船舶関係で財を築いた人も非常に多かったりするわけです.

 そんな一人に,Georgios Averofと言う人がいました.
 彼は,愛国者で,トルコに比して自国の海軍の増強がままならないのを憂えていました.
 1909年,そこで彼は数十万ポンドを海軍に寄付し,この金額で海軍の増強を願ったわけです.

 丁度その頃,イタリアでは建造した巡洋艦をストックして売りに出すと言うことをしていました.
 Giuseppe Garibaldi級がそれで,1894年から建造を開始し,12隻が計画されましたが,当のイタリア海軍は3隻しか装備しておらず,改良を加えた4隻が更に引き渡されただけ.
 他は船台上で売りに出されました.
 ちなみに,4隻がアルゼンチンに売られ,1隻はスペインが購入しています.
 また,アルゼンチンはこの艦形を気に入り,更に2隻を発注していますが,この艦は途中で売却されました.
 ちなみに,購入したのは日本.春日,日進の2隻がそれで,この艦型は世界中に散らばっていた訳で.

 1894年から建造を開始した装甲巡洋艦ですが,リソースの少なさから建造ペースは遅々として進まず,最後に建造された艦が竣工したのは1911年.
 既に,世界では装甲巡洋艦の代わりに巡洋戦艦が有望な時代に入っていたりします.
 1911年のそれは装甲巡洋艦としては,日本の筑波級を除けば,世界最強艦だったりしますが.

 その一つ前に建造されたのが,Pisa級です.
 1905年頃から建造に着手したものの,完成が1910年と生まれながらの旧式艦でした.
 しかし,発展途上国から見れば,安くて武装が強力で,ある程度の旗艦機能もあるその艦は魅力的であり,丁度ストックもあったため,ギリシャ海軍は先ほどの30万ポンドで建造中の艦を買い取りました.
 このほか,ドイツとアルゼンチンから駆逐艦もその資金で購入したり.

 但しギリシャでは,主砲だけはイタリア製が信用置けなかったのか,25cm砲を英国Armstrongの23.4cm砲に換えています.
 こうして1911年に竣工した艦は,出資者の名前を取って,Averofと名付けられ,ギリシャ海軍の旗艦として,第二次バルカン戦争で活躍しました.

 また,第一次大戦ではフランス海軍指揮下で海上護衛に活躍し,戦後はフランス式の火器管制装置に換えたり,機関を交換して,弩級艦の無いギリシャ海軍の主力として活動しています.

 1940年にイタリアが参戦しますが,相手のイタリア海軍が不活発だったために,ギリシャ海軍は精々砲撃程度でお茶を濁していました.
 しかし,1941年4月にドイツが参戦するとドイツ空軍によってギリシャ海軍の軍艦は次々に沈没し,4月25日には遂に,Averofもアレキサンドリアに向けて亡命を余儀なくされました.
 彼の地では,インド洋向けの船団護衛に従事し,ギリシャからドイツが撤退すると,本国に戻って母艦任務に就きました.
 この時には,ご自慢の23.4cm砲を初めとする各種大口径砲は撤去され,3インチ砲8門,3インチ高角砲4門,37mm機関砲6門になっていました.
 完全な船団護衛艦艇になっていますね.

 1946年にこの艦は除籍されます.
 しかし,この数十年間,海軍の主力として活動した訳で,その功績からこの艦は永久保存となり,今でもアテネの南40マイルにあるポロス島に係留されているそうです.

 日本の三笠みたいなものなのでしょうね.

眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年10月29日21:20

『イェロギオフ・アヴェロフ』 RHS Armored Cruiser G Averof (デジタル着彩写真)

br117 in twitter


 【質問】
 マルコ・ポーロって?

 【回答】
 改エトナ級防護巡洋艦を設計変更して建造された,イタリア最初の装甲巡洋艦 Armoured Cruiser,マルコ・ポーロ Marco Polo 級の1番艦で,1894/7/21,カステラマーレ・ディ・スタビア工廠にて竣工しました.
 1917から18年にかけ,ヴェニス工廠で軍隊輸送艦に改造され,ヴェネチアでの兵員輸送任務に従事.
 1918/4/4にコルテラッツォ,1920/10/1にエウロパ,さらに1921/1/16ヴォルタと改名され,1922/1/5除籍後売却解体されました.

 【参考ページ】
http://hush.gooside.com/Text/6m/61Ma/M18fMaru_.html#anchor285947
http://www.kasado.net/OldCruisers/Marco_Polo.html
http://web.ukonline.co.uk/aj.cashmore/italy/italian-armoured.html
http://web.ukonline.co.uk/aj.cashmore/italy/cruisers/marcopolo/marcopolo.html
http://www.battleships-cruisers.co.uk/italian_cruisers.htm

輸送艦時代の「マルコ・ポーロ」


 【質問】
 この艦の詳細を教えてください.

 艦名も分からないので,ぐぐることができないのです.

 【回答】
 イタリアのモニター艦「ファ・ディ・ブルーノ」です.
 1917年就工で排水量2,854トン.
 第一次世界大戦中,地中海方面の要港防衛のために急遽建造されたモニター艦で,未成戦艦クリストファー・コロンボに搭載予定だった,38.1センチ40口径連装砲一基を装備し,艦首と艦尾がない箱型の船体を持ちます.
 その船体ゆえに,速力は約3ktと非常に低速でした.

ttp://www.steelnavy.com/images/RMFaaDiBruno/Bruno420photo.JPG

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板,2010/01/02(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW1開戦前のオスマン海軍の勢力は?

 【回答】
 主力艦は,

・トルゴウト・レイス(1894)&ハイレディン・バルバロッサ(1891);ともにドイツの旧式戦艦,1万トン・17ノット,11インチ砲6門

・メッソウディ(またはメシュディエ);艦齢40年以上,1万トン・14ノット・9.2インチ砲2門
 「世界の艦船増刊第30集イギリス戦艦史」所収の「イギリス製戦艦輸出ノート」中名生正己著によると,1876年テームズ社で完成の中央砲郭艦メシュディエ(幸福をもたらすもの)は,9120トン・13.7ノット・254ミリ砲12門・178ミリ砲3門(要目の違いは改装?)
 なお二番艦メムドゥヒュド(賞賛に値するもの)は,1876年即位の新スルタン,アブドル・ ハミド二世にちなみハミディエと改名したが,露土戦争の開戦のためイギリスが買収,シュパーブとして1906年まで在籍.
 周知のとおりイギリスはこの手を何度も使っています.やはり国産しないと駄目ですね.
 メシュディエは老兵に鞭打ち,ギリシア海軍とダーダネルス海峡で交戦,1914年12月にチャンク沖で英潜B11の雷撃で撃沈されています.

・ハミディ&メジディ;軽巡洋艦(防護巡洋艦?),3800トン・22ノット・6インチ砲2門・4.7インチ砲8門

・他駆逐艦8,水雷艇9他
 大日本絵画「第二次大戦駆逐艦総覧」によると,WW1前のトルコ水雷戦力は,1911年時点で
仏製デュランダル級駆逐艦280トンを4隻(1909年購入),
98〜165トン級水雷艇15隻(伊との戦争で5隻喪失)
同年独より購入の新鋭ムヴァネティ・ミレート級が4隻. 607トン・34.5〜36.2ノット・10.5p砲2門・45.7cm魚雷発射管3.
 1914年英4・仏4・伊6の駆逐艦計14隻を発注するも,WW1開戦により,仏伊艦はキャンセル,英艦は徴発されています.

 開戦後の追加(購入)

・巡洋戦艦ヤブス・スルタン・セリム(独巡洋戦艦ゲーベン) ;22400トン・27ノット・11インチ砲10門・6インチ砲12門
・軽巡洋艦ミディリ(独軽巡洋艦ブレスラウ);4550トン・28ノット・4インチ砲12門

 なお,Ottoman-Turkeyの19世紀海軍に関しては,最近,「オスマン帝国の海運と海軍」という好著が山川から出ています.
 これの縮小版が山川ブックレットになってたか,と.

眠い人 ◆gQikaJHtf2他 in 世界史板

巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」


 【質問】
 ポルトガルの海防戦艦「ヴァスコ・ダ・ガマ」について,どういうスペックだったのかお尋ねします.
 googleっても本国では黒歴史なのか出ません(涙
 どうか詳しいことを教えてください.

 【回答】
 1875年1月12日竣工,Thames Iron Works建造
 排水量:2,384t 全長:60.96m 幅:12.19m(砲郭部14.17m) 喫水:5.79m
 機関:石炭炊きレシプロ機関 3000ihp 石炭搭載量:300t 速力:10.3kts
 装甲:鉄製 装甲帯 9〜4インチ 砲郭 10〜6インチ
 武装:10.2インチ/20口径砲×2 5.9インチ/25口径砲×1 9ポンド砲×4
 乗員:232名

 1903年に改装し,砲郭を撤去し,スポンソンに8インチ砲を装備,機関換装,船体延長を実施.
 排水量:2,972t 全長:70.86m 幅:12.19m 喫水:6.27m
 機関:石炭炊きレシプロ機関 6000ihp 石炭搭載量:300t 速力:15.5kts
 装甲:鉄製 装甲帯 10〜4インチ
 武装:8インチ/40口径砲×2 5.9インチ/45口径砲×1 12ポンド砲×1 9ポンド砲×4 3ポンド砲×6
 乗員:260名

 1935年除籍

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 ロシア海軍は日露戦争の痛手から,なぜ急速に回復できていたのか?

 【回答】
 偉大さへの渇望に基く意志の力だという.
 以下引用.

 ロシアの保守系紙「ノーボエ・ブレーミャ(新時代)」は1914年の新年号で,ロシア人は「依然として恐ろしいほど偉大さへの渇望」4にとりつかれていると記している.
 これは現実には,伝統的に帝国の代償を払ってきた農民大衆の感情というより,むしろロシアのエリートについて述べたものだった.
 たとえ軍の急速な再建が純粋に防衛的な措置だったと見なせたとしても,莫大な費用を必要とするバルト艦隊の戦艦隊を迅速に再建することを,同じように見なすことはできなかった.
 1907年に政府は高等教育に690万ルーブルを拠出したが,当時,戦艦1隻につき3000万ルーブルかかっていた.5
 1914年にはバルト艦隊の全く新しい戦艦隊が完成間近だった他,さらに数隻も建造中だった.
 こうした艦隊が建造されたのは,ロシアが威厳,戦略的な柔軟性,国際的な影響力を得るためであった.コンスタンチノープルを西方から威嚇するため,艦隊を地中海へ派遣する計画が進行していたのである.
 長期的に見れば,公海用に手強い艦隊を保有すれば,英独間の海軍力バランスを崩さず,ロシアが両国に対して潜在的な影響力を持つこともできた.
〔原注〕
 5 K.F.Shatsillo, Russkiy imperializm i razvitiye flota, Moscow, 1968, p.210

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.114-115

 プーチンのスローガン「強いロシアの復活」も,この「偉大さへの渇望」の延長上にあるのかもしれない.
 まあ,軍備にカネがかかるのは,1907年に限った話ではないが.

 それにしても,基本的には大陸国であるロシアが,海軍力の必要性を当時はきちんと認識していたことは注目すべきだろう.


 【質問】
 第1次大戦までの建艦競争に英国が勝てたのは何故か?

 【回答】
 イギリスが,大陸の強国と同じ水準の資源を陸軍に投入する必要はなかったためだという.
 以下引用.

 イギリスは島国としての地理的条件のおかげで,最初はフランス,その後はドイツというヨーロッパの主要なライバルに対して決定的に有利な立場にあった.
 イギリスが抜群の海軍力を保有する限り,大陸の強国と同じ水準の資源を陸軍に投入する必要はなかった.
 フランスもドイツも,海上でイギリスに挑戦しようとしても,他の強国から陸上で攻撃を受け易いことを無視するわけにはいかなかった.
 かつて,フランスを負かしたように,1914年以前の海軍軍拡競争でイギリスがドイツより多額の資金を費やし,多くの艦を建造できたのも,こうした理由があったからだ.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.211

 イギリス海軍とイギリスの商業は共生関係にあった.
 18世紀の海軍はイギリスの貿易を保護し,新たな市場を開拓することによって,政府の歳入を増やし,イギリスの商船や造船業までも後押しした.
 逆に,これら3つの要素は海軍にとっても極めて重要だった.
 戦時に勝ち抜くために海軍は,訓練を積んだ水兵の予備兵力に頼る必要があった.
 海軍力,とりわけ武装艦隊の中でも,軍艦は近代技術の最先端を組み込んでいた. 

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.213


 【質問】
 第一次大戦に航空母艦は投入されてたんでしょうか?

 【回答】
 第一次大戦ではイギリスの水上機母艦フューリアスが実戦に参加してますね.
 1918年に艦尾に着艦甲板を設置して着艦が出来るように改装されたフューリアスは,18年7月17日に7機のソッピース・キャメルでTondernトンデルンにあるドイツ飛行船基地を空襲し,二隻の飛行船を撃墜しています.
 これは空母艦載機による史上初の航空攻撃でした.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE

 このFuriousは,1917年7月に完成しますが,艦の前部のみに飛行甲板を設け,後ろは戦艦そのままの状態でしたので,着艦が難しく,8月2日に2回の着艦に成功した操縦士は,8月7日に失敗して死亡しました.
 以後,後部砲塔を撤去して後部にも着艦用飛行甲板を設け,その改装が完了したのが,1918年2月です.

 同じような改造を商船のCampaniaに対して行っていましたが,これは前部に120ftの飛行甲板を設けるもので,発艦した機体は,陸上に収用されるものになります.
 但し,発艦距離が短すぎ,200ftに延長され,1915年8月6日に初めての発艦に成功します.
 1916年当時の搭載機はSopwith11/2StrutterのN9722,A6919-6922,N5333,5635,5638の各機でした.ちなみに,この艦はJutland海戦にも参加(回敵はしませんでしたが)しています.

 余談ですが,帝政ロシアも数隻の水上機母艦を黒海艦隊で運用していたりします.

眠い人◆gQikaJHtf2

 なお,フューリアスは元18インチ単装砲2基搭載のハッシュハッシュクルーザー.
 前甲板を飛行甲板にした当時は,後甲板の18インチ砲は残っていた.まるでデスラー砲搭載のガミラス戦闘空母の如く(笑).

 で,後甲板をも飛行甲板にした当時は巡洋艦の檣楼がそのままだった.
 つまり前甲板から発艦して後甲板へ着艦,檣楼両舷の回廊を手押しで移動.
 しかも檣楼後部には激突防止のネットまで装備(笑)
 途轍もなく運用が難しそう,つか運用したくもない艦だった.

軍事板


(画像掲示板より引用)



 【質問】
 フューリアスから撤去された18インチ砲は一時期,シンガポールで要塞砲やってたってホント?

 【回答】
 ウソ.

 私の持っている本ではモニター艦〔戦艦並みの主砲を装備した,比較的小型の砲艦.その始祖的存在「モニター」の名に因む〕に搭載されたと書いてありました.
 ジェネラル・ウルフにはフュリアスの前部砲,ロード・クライブには予備砲が搭載された.
 プリンス・ユージンにはフュリアスの後部砲を搭載する予定であったが,砲架の製造がおくれ,十月に搭載工事を開始した直後に(第一次世界大戦が)休戦のため工事を中止し,未搭載におわっている.
 (省略)
 同(一九一八年)九月より,二隻はベルギー海岸地帯の砲撃にくわわり,ジェネラル・ウルフが八一発,ロード・クライブが四発を発射し,これが実戦でもちいられた一八インチ砲のすべてであった.
 これらモニターは,戦後そうそうに除籍されたが,三門の一八インチ砲のその後は,未搭載に終わったフュリアスの後部砲は実験目的で一九四二年まで用いられ,一九四七年にスクラップにされた.
 他の二門は,一九三三年まで保管されたのち,売却スクラップされた.
 よくいわれるシンガポール要塞砲への転用は事実ではない.
(引用元:石橋考夫著「艦艇学入門」(光人社文庫,2000.7))

90式改 in FAQ BBS

 先にmixi支隊において,

>わざわざ主砲なんていうドデカイ代物を〔英国からシンガポールへと〕運んでくるかなあ…という気がしますが.(by K)

と指摘を受けましたが,考えてみればその通りですね.

フューリアス

(画像掲示板より引用)


 【質問】
「英海軍は性欲処理のため軍艦の中でヤギを飼っていたが,日本海軍にプレゼントしたら知らずに食べてしまった」
との逸話は実話ですか?

 【回答】
 その話はけっこう広まっているが,出典が明らかでないし,英海軍で山羊をそういう用途に使っていたという話の確証はない.
 帆船時代に英海軍では軍艦で山羊を飼っていたが,長期航海中に高級士官に新鮮なミルクを供給するためのものだった.
(ここから海軍のスラングで,軍艦のラウンジや下士官の居室を「goat locker」と呼ぶようになった)

 ただし水兵の中には,そういう用途で密かに使ったものがいるかもしれない.

 日本では禽獣の乳を飲む習慣は元々なかったので,前者の話にちなんで親善のために寄贈された山羊を,勘違いして食べてしまった可能性はある.
 その話と後者が結びついてできたジョークかもしれない.

軍事板


 【質問】
 アメリカが第1次大戦の際に大量に作ったという平甲板型駆逐艦について知りたいのですが.

 【回答】
 そんな時のためのwiki
クレムソン級
ウィックス級

 上記の記事の英語版の方にいけば,両クラスで建造された各艦のデータもある.

軍事板

 いわゆる平甲板型駆逐艦(フラッシュ・デッカー)は3タイプ270隻あまりが建造されましたが, 第二次世界大戦前に約100隻が除籍され,50隻が英連邦に貸与されて大西洋の戦いに参加し,残りの120隻弱が米海軍の艦籍にあって活躍しました.
 このうち,さらに70隻あまりが戦前から戦時中にかけて高速輸送艦・敷設艦・掃海艦・水上機母艦などに改装され,終始駆逐艦として活躍したのは40隻あまりでした.

 また,フラッシュ・デッカーのうち,クレムソン級の4隻がいったん解体のために民間に売却されましたが,これを買い取ったスタンダード・フルーツ社が,中南米諸国からフルーツを運ぶ通称“バナナ・ボート”として4隻を一括購入し,改装した後にニューオリンズ〜中米間に投入しています.
 4隻のうち,タバスコ(旧ワーデン)は座礁喪失しましたが,残りの3隻は第二次大戦まで可動.
 昭和17年に陸軍徴用船としてコレヒドール島救出に投入されます.
 残念ながらコレヒドール島は早期陥落したため,その任務は果たせず,その後2隻は事故と爆撃で損失, 最後の一隻となったテアパ(旧パットナム)は戦争を生き延びて再びバナナ・ボートにカムバック.
 昭和30年に廃船となりました.

 ちなみにこの船が,最後まで洋上で稼動していたフラッシュ・デッカーでした.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板


(画像掲示板より引用)


 【質問】
 第1次大戦はアメリカの貿易にどんな影響を与えたのか?

 【回答】
 第1次大戦は,アメリカの大西洋沿岸の貿易業界に大打撃を与えた.
 ドイツが海上貿易からの撤退を余儀なくされたことにより,嵩が大きく単価の低い貨物を運ぶ船がなくなってしまい,ドイツの潜水艦作戦が保険料を暴騰させた.
 アメリカ政府は規制を緩め,また,他のあらゆる海域から船が北大西洋の戦争需要をまかなうために動員され,当座の危機を軽減したという.
 アメリカの輸出自体は戦争需要により急増したが,第1次大戦中の海運業の殆どは,アメリカ人以外にしか利益をもたらさなかった.
 1916年にはウィルソン大統領は海運法を作り,1914年以前の全世界の商船隊の合計の2倍,1700万トン以上の船舶建造に十分な予算を割り当てたが,鋼鉄製貨物船ホッグ・アイランダーの第1船が進水したのは,1918年12月になってのことだった.

 詳しくは,『西へ! アメリカ人の太平洋開拓史』(John Curtis Perry 著,PHP研究所,1998.11.4),p.300-305を参照されたし.


◆◆オーストリア=ハンガリー海軍


◆◆ドイツ海軍


 【質問】
 帝政ドイツの「艦隊法」ってのはどんな内容だったのでしょう? なんか足枷になっていたみたいですが.

 【回答】
 Kaiser Wilhelm IIが発した艦隊法は二次に渡って制定されています.

 最初が,1898年で,19隻の戦艦,8隻の海防戦艦,12隻の大型巡洋艦と30隻の小型巡洋艦を,1903年までに建造するというものでした.

 第二次は,1900年で,その規模は倍増し,38隻の戦艦,14隻の大型巡洋艦,34隻の小型巡洋艦と,96隻の駆逐艦を1920年までに建造するというものになりました.

 1906年には弩級艦の誕生を受けて,第三次というか,第二次の第一次改訂案が作られ,更に6隻の弩級艦で3個戦隊を,また,植民地用に6隻の装甲巡洋艦を追加しています.
 更に,潜水艦,水雷艇の追加も為されました.

 かてて加えて,1908年に第二次改訂が加えられ,旧式海防戦艦8隻と前弩級艦4隻の代わりに,4隻の弩級艦の建造が計画され,1912年から1917年までに各二隻の戦艦が毎年就役するようになっています.

 1912年には第三次改訂が加えられます.
 これは3隻の大型巡洋艦の代わりに,3隻の弩級艦と2隻の軽巡洋艦が加えられました.

 あれやこれやで最終的に,1隻の旗艦,3個戦隊を維持する24隻の弩級艦,8隻の巡洋戦艦,18隻の軽巡洋艦,これが第一線戦力.
 予備役として,2個戦隊16隻の戦艦,2隻の装甲巡洋艦,12隻の軽巡洋艦.
 海外植民地警備用に,8隻の装甲巡洋艦,10隻の軽巡洋艦.
 水雷戦隊用に,3隻の水雷戦隊旗艦,108隻の水雷艇,54隻の潜水艦.
 水雷戦隊予備として,36隻の水雷艇,18隻の潜水艦,1隻の水雷戦隊旗艦.
 これらを建造する予定でした.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 第二帝政時代のドイツ海軍の編制を教えて下さい.

 【回答】
●開戦時の編成.

大海艦隊(Hochseeflotte)
 旗艦:FriedrichderGrosse
  第1戦隊(弩級艦8隻)
   Ostfriesland/Thueringen/Helgoland/Oldenburg/Posen/Rheinland/Nassau/Westfalen)
  第2戦隊(前弩級艦8隻)
   Preussen/Schlesien/Hessen/Lothringen/Hannover/Schleswig-Holstein/Pommern/Deutschland)
  第3戦隊(弩級艦4隻)
   Kaiser/Kaizerin/KoenigAlbert/PrinzregentLuitpold
  第1偵察戦隊(巡洋戦艦3隻+装甲巡洋艦1隻)
   Seydlitz/Moltoke/VonderTan+Bruncher
  第2偵察戦隊(小型巡洋艦7隻)
  第3偵察戦隊(小型巡洋艦5隻)
  第4偵察戦隊(装甲巡洋艦4隻)
   Roon/Yorck/PrinzAdalbelt/PrinzHeinrich
  第5偵察戦隊(大型巡洋艦4隻・但し予備艦の動員)
  第4戦隊(前弩級艦7隻)
   Wittelsbach/Wettin/Mecklenburg/Schwaben/Zaehringen/Braunschweig/Elsass
  第5戦隊(前弩級艦7隻)
   KaiserFriedrichIII/KaiserWilhelmII/KaiserWillhelmderGrosse/KaiserKarlderGrosse/
   KaiserBarbarossa/Brandenburg/Woeth
  第6戦隊(海防戦艦7隻)
   SiegfriedClassが7隻
  第1潜水戦隊(小型巡洋艦1隻+潜水艦)
  第2潜水戦隊(小型巡洋艦1隻+潜水艦)
  機雷戦艦艇(敷設巡洋艦2隻)
東海艦隊
  東海防備部隊(小型巡洋艦7隻+大型巡洋艦1隻)
  砲術学校(大型巡洋艦1隻)
  水雷学校(装甲巡洋艦1隻)
   Friedrich Karl
港湾防備隊
  エムス水域(Embden)(小型巡洋艦1隻)
  ヤーデ(Willhelmshaven)/ヴェーゼル水域(小型巡洋艦3隻)
  エルベ水域(Hamburg)(小型巡洋艦1隻)
東アジア巡洋艦戦隊(装甲巡洋艦2隻+小型巡洋艦3隻)
  Scharnhorst/Gneisenau+3隻
地中海戦隊(巡洋戦艦1隻+小型巡洋艦1隻)
  Goeben+1隻
東アフリカ派遣(小型巡洋艦1隻),米東海岸派遣(小型巡洋艦1隻)

●1916年12月1日現在の大海艦隊編成

 旗艦:Baden
  第1戦隊(弩級艦8隻)
   第1小隊:Ostfriesland/Thueringen/Helgoland/Oldenburg
   第2小隊:Posen/Rheinland/Nassau/Westfalen
  第2戦隊(前弩級艦6隻の予備戦隊後に解消)
   Deutschland/Hessen/Preussen/Hannover/Schlesien/Schleswig-Holstein
  第3戦隊(弩級艦4隻)
   Koenig/GrosserKurfuerst/Markgraf/Kronprinz
  第4戦隊(弩級艦5隻)
   FriedrichderGrosse/Kaiser/Kaizerin/KoenigAlbert/PrinzregentLuitpold
  第1偵察戦隊(巡洋戦艦4隻)
   Hindenburg(1917〜)/Seydlitz/Derflinger/Moltoke/VonderTan
  第2偵察戦隊(軽巡洋艦8隻)
  第4偵察戦隊(軽巡洋艦3隻+敷設巡洋艦2隻)
  水雷艇(7水雷艇隊76隻)
  潜水艦(小型巡洋艦1隻+水雷艇7隻+4潜水艇隊66隻)
  機雷戦艦艇,掃海艇,前哨戒隊,支援艦艇

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 第1次大戦における「海上封鎖」の様相は?

 【回答】
 ところで,海上封鎖とは何か.
 これは,1856年4月16日の「海上法の要義を確定する宣言(パリ宣言)」並びに,1909年2月26日の「海戦に関するロンドン宣言」で国際法上適法と見做された戦時措置です.
 ロンドン宣言では,封鎖の手順は,先ず封鎖の告知を行った上で,国家が敵国の港湾等に対し海上兵力を以て封鎖線を設定し,海上からの敵の交通を遮断する所から始まります.
 「封鎖」を宣言した国は,この封鎖線を越える船舶や貨物は,如何なる国籍のものでも捕獲出来ます.
 貨物は戦時禁制品,条件付禁制品,自由品の3つに分けられ,第24条では条件付禁制品を規定しており,その中には食糧,獣類の飼料用に適する秣及び穀類,軍用に適する衣服,被服用織物及び靴類等々と具体的な品物を挙げています.

 「食糧」は条件付禁制品の第1項に記載されていましたが,1914年8月20日,10月22日の勅令で英国は,ロンドン宣言のリストを否認し,ドイツの輸入品の殆ど総ての物品を戦時禁制品に指定し,食糧も軍隊以外に用いられる場合でも総て,1915年1月に戦時禁制品リストに,自由品となっていた肥料も禁制品に加えられました.
 これにより,英国は1913年当時,ドイツの最大の穀物貿易輸入相手国だった米国やカナダの食糧輸入船を,総て拿捕出来る権限を手にした訳です.
 表向きは,「ドイツによる中立国商船を偽装した機雷敷設に対する復仇措置」でしたが,実際には建艦競争を経ても尚優越する海軍力を有し,海上通商ルートを支配している事により,直接の戦闘を避け,遠隔操作で敵国の弱体化を図るというものでした.

 当時,ドイツの商船は,蒸気船2,090隻,帆船298隻であり,総トン数550万トン程度です.
 しかし7月28日以降,623隻のドイツ商船が中立国の港に逃避し,英国,フランス,ロシアの港で接収された船は全体の36%に当たる200万トンを超えました.
 その上,8月前半だけで更に70万トンの商船が連合国側に拿捕されています.
 ところが,早期決着を夢想していた軍部はこの問題に殆ど関心を払いませんでした.

 1915年2月4日,その英国の措置に対して,ドイツ側が対抗します.
 英国海峡及びその諸島を含む全水域を,ドイツの交戦区域とし,この水域で発見される的船舶は総て攻撃すると宣言し,2月18日に無警告撃沈が開始されます.
 これに対し,英国も3月11日には敵国向け輸出品の没収を宣言し,総てのドイツの港を封鎖しています.
 そんな訳で,幾ら中立国の船舶であっても,危険を冒して海上輸送が出来なくなりました.

 5月7日には,有名なルシタニア号事件が起こります.
 これにより,128名の米国人を含む1,198名が溺死しましたが,ドイツ側はルシタニア号が多くの武器弾薬を搭載していたと非難しました.
 実際にこの船は,420万トンの弾薬と5,000丁の散弾銃が積まれていたと言います.
 しかし,米国の反独世論は一気に拡大し,1917年4月6日の米国対独宣戦布告の引金となりました.

 この無制限潜水艦作戦は,軍部や政治家のパフォーマンスではありません.
 勿論,軍部や政治家は民衆の支持を得ると考え,実際に民衆もこの作戦が食糧不足の突破口を開くと考えたのです.

 そもそも,ドイツ側の楽観的見通しは,彼らに「シュリーフェン作戦」が存在していた為です.
 これは二正面作戦を避けるべく,ロシアは動員に時間が掛るので,まずは西部戦線に集中し,フランスを降伏させた後,ロシアと戦争を行うと言うものでした.
 フランスへの迅速な攻撃の主体は,最右翼に配置した軍団で,これが中立国ベルギーを侵してフランドルを通り,それを通り抜けた後にパリの背後を突くと言う戦術でした.
 勿論,フランス側にもこれに対抗する「第17計画」と言うものがありましたが,これはフランス軍の敵に向かって驀地に突き進むと言う,「生の跳躍」をそのまま置き換えた様なものであり,既に漏れていたシュリーフェン計画は一顧だにされませんでした.

 こうして,8月の間,ドイツ軍はベルギー軍の激しい抵抗にも関わらず快進撃を続け,パリ近郊まで迫り,フランス政府はパリ市民の失望の中で,ボルドーに疎開し,パリは防衛軍指揮官のガリエニにより,市街戦の準備を進めていました.
 ところが,9月6〜10日のマルヌの戦いで,英国軍の援助を得た連合軍が,ドイツ軍を押し返すことに成功します.
 これは,ロシア軍の動員が予想以上に迅速だった為に,2個軍団を東部戦線に回さねばならなくなったことや,右翼の軍団の侵攻が早すぎて補給がついて行けなかったこと,そして何よりもベルギーが屈服せず,背後にある英国までも敵に回さなくならねばならなくなった為であり,フランスは危機的状況を脱したのです.

 結果として,戦争は一時的なもので,平和な生活は一端中断し,その間に決着を付けると言う19世紀的な戦争から,塹壕戦が西部戦線の中心的戦闘形態となり,これには膨大な資源を必要としていきます.
 この為,ドイツは当初の楽観主義を捨て,戦時体制の構築に取り組まねばならなくなったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/06/20 23:29
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第1次大戦におけるUボート作戦は,賢明な選択だったのか?

 【回答】
 非合理的で向こう見ず,加えて非現実的であった,とDominic Lievenは述べる.
 以下引用.

 その決定は非合理的で向こう見ず,加えて非現実的であった.
 さらに,第1次大戦へのアメリカの介入と直結した政治的,外交的,軍事的,経済的,心理的要素のバランスを正しく取ったものでもなかった.
 ドイツ潜水艦戦の勝利の可能性すら現実的に計算されていなかった.

 このようになってしまったのは,ドイツの支配的エリートの利益やその思考様式,意思決定において軍部が突出していたからだが,それ以外にも,政策を調整したり,目的と手段の調和を図ったり,相対立する政治的・軍事的・外交的な優先順位と圧力のバランスをとったりする個人や機関がドイツに欠けていたためである.

Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.142-143


 【質問】
 WW1におけるUボートの建造ペースを教えられたし.

 【回答】
戦前段階でU1〜U45(欠U42)が発注済.

1914年は
 8月 ×12(UA,U46〜U56)
10月 ×11(U57〜U62,U66〜U70)
11月 ×32(UB1〜UB17,UC1〜UC15)

1915年は
 1月 ×4 (U71〜U74)
 3月 ×6 (U75〜U80)
 4月 ×12(UB18〜UB29)
 5月 ×3 (U63〜U65)
 6月 ×12(U81〜U92)
 7月 ×18(UB30〜UB47)
 8月 ×18(UC16〜UC33)
 9月 ×12(U93〜U104)
11月 ×15(UC34〜UC48)

1916年は
 1月 ×31(UC49〜UC79)
 5月 ×56(U105〜U114,U117〜U138,UB48〜UB71,UC49〜UC79)
 8月 ×3 (U139〜U141)
 9月 ×18(U115〜U116,UB72〜UB87)
11月 ×9 (U142〜U150)

1917年は
 2月 ×58(U151〜U163,UB88〜UB132)
 6月 ×113(U164〜U200,UB133〜UB169,UC80〜UC118)
12月 ×102(U201〜U212,UB170〜UB205,UC119〜UC152,UF1〜UF20)

1918年は
 1月 ×220(U213〜U276,UB206〜UB249,UC153〜UC192,UF21〜UF92)

と,順に発注されていきました.
 そして,戦前既に就役していた28隻と合わせて374隻が完成し,203隻が海の藻屑と消えたのでした・・・

 出典は「The U-boat Offencive 1914-1945」

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 WW1のドイツUボートの戦果は?

 【回答】
 以下,独英公式記録比較から.

              独         英
1914年 8月        0         0
       9月        0         0
      10月      866t       866t
      11月     2084t      2084t
      12月        0         0

1915年 1月  1万7577t   1万7126t
       2月  2万2785t   2万2784t
       3月  8万9517t   7万2441t
       4月  4万1488t   3万8614t
       5月 12万6895t  10万6293t
       6月 11万5291t  11万8091t
       7月  9万8005t  10万5145t
       8月 18万2772t  18万1691t
       9月 13万6048t  15万1271t
      10月  8万6064t   8万8145t
      11月 16万7523t  15万3277t
      12月 10万7739t  12万1951t

1916年 1月  4万9610t   6万4451t
       2月  9万5090t  10万7857t
       3月 16万0536t  16万9863t
       4月 18万7307t  19万1872t
       5月 11万9381t  12万2592t
       6月  9万3193t  11万1719t
       7月 11万0728t  11万0084t
       8月 16万3145t  15万8405t
       9月 23万1573t  22万4876t
      10月 34万1363t  35万1764t
      11月 32万6689t  32万6003t
      12月 30万7847t  29万1636t

1917年 1月 32万8391t  33万1466t
       2月 52万0412t  49万7095t
       3月 56万4497t  55万3189t
       4月 86万0334t  86万7834t
       5月 61万6316t  58万9603t
       6月 69万6725t  67万4458t
       7月 55万5514t  54万5021t
       8月 47万2372t  50万9142t
       9月 35万3602t  33万8242t
      10月 46万6542t  44万8923t
      11月 30万2599t  28万9095t
      12月 41万1766t  38万2060t

1918年 1月 29万5630t  30万2088t
       2月 33万5202t  31万8174t
       3月 36万8746t  24万4814t
       4月 30万0069t  27万3355t
       5月 29万6558t  29万4019t
       6月 26万8505t  25万2637t
       7月 28万0820t  25万9901t
       8月 31万0180t  27万8876t
       9月 17万1972t  18万6600t
      10月 11万6237t  11万2427t
      11月  1万0233t   2万6857t

トータルでドイツの記録では1228万4757t,
     イギリスの記録では1196万4185t,

 英独の記録を比較して,誤差の小ささは驚嘆に値しますね.
 ちなみに隻数では,イギリスに5282隻の数字が残ってます.

 出典は「The U-boat Offencive 1914-1945」

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 それぞれのUボートが挙げた戦果を教えられたし.

 【回答】
 1914年については,U17が1隻866t,U21が2隻2084tを葬ったのみ.

         1915           1916           1917           1918
U6   13隻     4654t
U8    5隻  1万5049t
U9   13隻     8636t
U10   7隻     1625t
U12   1隻     3738t
U16  10隻  1万1476t
U17  11隻  1万5769t
U19  25隻     9464t   7隻  2万0959t  14隻  3万4393t
U20  25隻 11万1170t  11隻  3万2510t
U21   4隻     9219t  10隻  1万6253t  20隻  5万1156t
U22   7隻  1万5678t   9隻     8669t   7隻  1万7892t  20隻     4448t
U23   7隻     8822t
U24  25隻  7万4044t   2隻      384t   6隻  3万1304t
U25  21隻  1万4126t
U26   2隻     2849t
U27   9隻  2万9402t
U28  18隻  4万3760t   5隻  1万4299t  16隻  3万5723t
U29   4隻  1万2934t
U30   9隻  2万2005t   2隻     2913t  15隻  2万2465t
U32   1隻     2247t  16隻  4万4268t  18隻  5万3573t   2隻     5652t
U33  40隻 12万1246t   1隻     5350t  26隻  4万6427t  17隻  5万6575t
U34  19隻  5万6530t  54隻 10万2918t  35隻  5万8789t  13隻  4万4649t
U35  35隻  8万9192t 122隻 26万6643t  62隻 17万0672t   5隻  1万3234t
U36  14隻  1万2688t
U37   2隻     2811t
U38  68隻 15万0912t  53隻 11万3974t  13隻  2万4107t   3隻  1万0992t
U39  44隻 10万2476t  64隻 16万9767t  42隻 12万1447t   4隻  1万0788t

         1915           1916           1917           1918
U41  28隻  5万8949t
U43                 13隻  2万8530t  28隻  7万9314t   3隻     8746t
U44                  8隻  2万6683t  13隻  4万2649t
U45                  4隻     6790t  20隻  3万8832t
U46                 17隻  3万3812t  25隻  7万5197t  13隻  4万1390t
U47                  7隻  1万4579t   7隻     9496t
U48                  4隻  1万0622t  30隻  9万2930t
U49                 17隻  3万5288t  21隻  5万1145t
U50                  9隻  2万5308t  17隻  6万7456t
U52                  4隻     5766t  24隻  6万5459t   2隻      650t
U53                  6隻  2万3264t  60隻 15万6161t  24隻  3万6344t
U54                                21隻  6万2182t   8隻  2万8745t
U55                  3隻     9605t  33隻  5万1082t  29隻  8万4326t
U56                  4隻     5374t
U57                 23隻  1万5167t  32隻  7万6513t   3隻  2万3512t
U58                  3隻     1576t  18隻  2万9325t
U59                  2隻      422t  11隻  1万8341t
U60                                38隻  8万0357t  16隻  3万3801t
U61                                29隻  6万8135t   7隻  2万2635t
U62                                39隻  9万5903t   8隻  3万3163t
U63                 18隻  4万7302t  40隻  9万6552t  16隻  6万7011t
U64                  4隻     9635t  35隻  9万4109t   6隻  2万8422t
U65                  1隻     9223t  40隻  5万8851t  11隻  2万6585t
U66                 12隻  2万4862t  12隻  4万4154t
U67                  3隻     8988t  14隻  3万0705t   2隻     9276t
U69                 14隻  3万8288t  16隻  6万6183t
U70                 15隻  3万0280t  37隻 10万4951t   2隻  1万3458t
U71                  8隻     6585t   8隻     4948t   1隻      120t
U72                  8隻  1万9765t  10隻  1万8806t
U73                 10隻  7万6157t   5隻     4534t   1隻     3030t
U74                  1隻     2802t
U75                  5隻     5035t   4隻     8583t
U76                  1隻     1146t
U78                  4隻     8297t  12隻  1万8381t
U79                  5隻     9560t  16隻  2万4171t
U80                  3隻     5563t  16隻  3万9349t   7隻     5036t
U81                  2隻     2578t  29隻  8万6427t
U82                  5隻     1957t  21隻  6万6507t   9隻  4万0166t
U83                  1隻      123t   4隻     6163t
U84                                25隻  7万6989t   2隻  5万5957t
U85                                 5隻  2万3127t
U86                                13隻  4万6535t  20隻  7万9045t
U87                                21隻  5万9170t
U88                                13隻  3万9583t
U89                                 4隻     8496t   2隻     6885t
U90                                10隻  1万0354t  25隻  9万4155t
U91                                 1隻     2274t  39隻  9万3976t
U92                                                8隻  1万9790t
U93                                27隻  7万2756t   3隻     6068t
U94                                15隻  3万9876t   5隻  1万7769t
U95                                12隻  3万0338t   2隻     7592t
U96                                21隻  7万0614t  11隻  3万0918t
U97                                 2隻      421t   2隻     4985t
U98                                                3隻     9120t
U100                                5隻  1万3901t   7隻  4万2307t
U101                                4隻     7886t  24隻  5万2821t
U102                                2隻     7605t   3隻     5640t
U103                                3隻     7001t   5隻  1万5248t
U104                                4隻     8145t   8隻  2万8567t
U105                                8隻  2万9553t  12隻  2万6131t

         1915           1916           1917           1918
U107                                               6隻  2万4576t
U108                                               2隻     8445t
U110                                2隻     5105t   6隻  2万7036t
U111                                               3隻     3011t
U113                                               4隻     6734t
U117                                              24隻  4万6898t
U118                                               2隻  1万0439t
U122                                               1隻      278t
U139                                               6隻     7208t
U140                                               7隻  3万0888t
U151                               12隻  2万9048t  39隻 10万9236t
U152                                              20隻  3万7726t
U153                                               4隻  1万2780t
U154                                               4隻     8158t
U155                               19隻  5万3306t  47隻 13万4795t
U156                                4隻     7353t  52隻  5万6442t
U157                                1隻      302t  13隻  1万0463t

UB2  10隻      706t   1隻      672t
UB4   3隻  1万0883t
UB5   5隻      996t
UB6   7隻     3922t   9隻     3085t
UB7   1隻     6011t
UB8   1隻  1万9380t
UB10 27隻  1万3379t   2隻     2825t   7隻     6379t
UB12  9隻      424t   6隻     5313t   6隻     4405t
UB13  4隻     2170t   6隻     1593t
UB14  3隻  1万3467t                  1隻      155t
UB16 11隻     9504t  11隻     8275t   1隻      107t   2隻      939t
UB17  6隻      545t   6隻     1689t   1隻       40t

          1915           1916           1917           1918
UB18                 88隻  8万9342t  38隻  3万9213t
UB19                 11隻  1万1558t
UB20                  4隻     1531t   9隻     8383t
UB21                  7隻     2491t  18隻  2万3841t   9隻  1万3593t
UB22                  7隻     4570t  20隻  1万2076t
UB23                 41隻  2万1482t  10隻  1万2840t
UB27                 10隻     6438t   2隻  1万0228t
UB29                 29隻  3万9378t
UB30                  6隻      964t   4隻     4269t  12隻  3万1044t
UB31                                22隻  6万6221t   7隻  1万8129t
UB32                                22隻  4万2889t
UB33                                              15隻  1万4152t
UB34                  9隻     5494t  10隻  2万0412t  15隻  2万2822t
UB35                  8隻     5826t  31隻  2万8192t   5隻  1万3198t
UB36                  3隻     1152t   8隻     5100t
UB37                 26隻  1万4744t   4隻     5756t
UB38                 21隻  1万6799t  21隻  2万6973t   7隻  1万0219t
UB39                 60隻  6万6599t  33隻  2万3211t
UB40                 12隻  1万5355t  56隻  8万9654t  35隻  2万8349t
UB41                                 8隻     8387t
UB42                  2隻      881t   7隻  1万0470t   2隻     6206t
UB43                 13隻  6万3239t   9隻  3万5963t
UB44                  1隻     3409t
UB45                  3隻  1万1666t
UB46                  4隻     8099t
UB47                 12隻  4万2949t   8隻  3万2885t
UB48                                16隻  5万1922t  20隻  5万7351t

          1915           1916           1917           1918
UB49                                14隻  4万1546t  30隻  5万6154t
UB50                                19隻  3万6139t  22隻  7万3053t
UB51                                 5隻  2万6661t  15隻  2万6867t
UB52                                               14隻  4万2637t
UB53                                 2隻     3119t  18隻  4万8065t
UB54                                 6隻     6638t  10隻     3244t
UB55                                 7隻     5192t  13隻  1万9986t
UB56                                 4隻     5407t
UB57                                17隻  4万3651t  36隻 10万9499t
UB58                                 6隻     7983t   2隻      208t
UB59                                 1隻     2309t   6隻     8669t
UB61                                 2隻  1万2920t
UB62                                 5隻  1万2187t   3隻  1万0065t
UB63                                 2隻     4481t   4隻  1万3660t
UB64                                 1隻     1712t  29隻  3万8488t
UB65                                 3隻     4275t   6隻  1万8186t
UB66                                                1隻      200t
UB67                                                1隻  1万3936t
UB68                                                7隻  1万6993t
UB70                                                6隻  2万3736t
UB72                                                6隻  1万2578t
UB73                                               10隻  2万2259t
UB74                                               10隻  1万9530t
UB75                                 5隻     9529t
UB77                                                2隻  1万5448t
UB78                                                3隻     1511t

          1915           1916           1917           1918
UB80                                 3隻     9942t  16隻  3万1329t
UB81                                 1隻     3218t
UB82                                                1隻     1920t
UB83                                                2隻     1770t
UB86                                                7隻  1万3351t
UB87                                                7隻  3万4380t
UB88                                               13隻  3万2333t
UB90                                                1隻     1420t
UB91                                                5隻  1万6468t
UB92                                                7隻  1万6459t
UB94                                                2隻     3261t
UB95                                                2隻     5282t
UB103                                              15隻  2万8746t
UB104                                               7隻  1万4442t
UB105                                              25隻  6万9641t
UB107                                              12隻  2万8740t
UB108                                               2隻     2655t
UB109                                               5隻  1万3610t
UB110                                               4隻     7686t
UB111                                               8隻     1571t
UB112                                               9隻     9238t
UB113                                               2隻     1836t
UB115                                               1隻      336t
UB117                                               6隻  1万1586t
UB118                                               5隻  2万3967t
UB119                                               1隻     2100t
UB120                                               2隻     7219t
UB122                                               1隻     3150t

          1915           1916           1917           1918
UB123                                               5隻     4490t
UB125                                               6隻  1万0967t
UB126                                               2隻     3078t
UB128                                               1隻     7418t
UB129                                               1隻     9219t

UC1    11隻  1万0028t  25隻  4万0339t   2隻     8721t
UC3    15隻  1万7669t   4隻  1万0597t
UC4                    9隻  1万1432t  14隻  1万2844t   5隻     2859t
UC5    19隻  2万1915t  10隻  1万4373t
UC6    20隻  1万6197t  32隻  4万5672t   2隻     2175t
UC7    13隻  2万0819t  16隻  2万4451t
UC10    1隻     2229t  14隻  2万7849t
UC11    3隻     3457t  10隻  1万5811t  11隻  1万3677t   5隻     5611t
UC12                  5隻     3039t
UC13    3隻      387t   
UC14    1隻     2952t   7隻     4918t   6隻     1097t
UC15                  1隻     3905t
UC16                 21隻  2万0277t  21隻  2万2799t
UC17                 25隻  1万4128t  58隻 10万5659t  11隻  2万4083t
UC18                 19隻  1万8094t  15隻  1万5522t
UC19                  1隻      275t   2隻     3080t
UC20                  2隻     1353t  16隻     8797t   6隻  1万9964t
UC21                 22隻  2万2599t  73隻 10万6903t
UC22                  6隻  1万8420t   9隻     5966t   9隻  2万8317t
UC23                  2隻  1万4598t  33隻     8167t  31隻  1万7409t
UC24                                 4隻     9816t
UC25                                10隻     2792t   7隻  2万4941t
UC26                 22隻  3万8348t  13隻  1万7884t
UC27                                43隻  3万1078t  10隻  3万6912t

          1915           1916           1917           1918
UC29                                17隻  2万0765t
UC30                  1隻      628t   8隻     5239t
UC31                  1隻      200t  33隻  3万8091t   3隻  1万5336t
UC32                  2隻     2198t   4隻     4649t
UC33                                35隻  2万0557t
UC34                  2隻      460t  11隻  4万0306t   6隻  2万4780t
UC35                                34隻  5万6482t   8隻     9087t
UC36                                18隻  2万8348t
UC37                                31隻  5万6543t  35隻  2万1615t
UC38                                36隻  5万2525t
UC39                                 3隻     5249t
UC40                                18隻  2万1617t  14隻  2万5317t
UC41                                18隻  1万8233t
UC42                                13隻     9635t
UC43                                13隻  2万4727t
UC44                                27隻  2万4271t
UC45                                12隻  1万6809t
UC46                  5隻     4273t   5隻     6387t
UC47                                52隻  6万5884t
UC48                                34隻  6万7776t
UC49                                13隻  3万4859t  10隻  2万8336t
UC50                                26隻  4万2212t   3隻     3610t
UC51                                29隻  3万4394t
UC52                                 5隻      101t  15隻  2万7570t
UC53                                28隻  2万5584t  25隻  3万8438t
UC54                                 3隻     3453t  16隻  6万5906t
UC55                                 9隻  1万2988t
UC56                                                2隻     9824t
UC57                                 1隻       88t
UC58                                14隻     3927t   6隻  1万6808t
UC59                                                8隻     8331t
UC60                                 1隻     1426t

          1915           1916           1917           1918
UC61                                11隻  1万3819t
UC62                                12隻  2万0035t
UC63                                36隻  3万6404t
UC64                                15隻  1万5555t  12隻     9483t
UC65                               103隻 11万2859t
UC66                                33隻  4万7152t
UC67                                29隻  6万0667t  24隻  3万7651t
UC69                                50隻  8万8138t
UC70                                24隻  1万2347t   9隻  1万4576t
UC71                                49隻  8万3272t  20隻  6万0653t
UC72                                37隻  6万4323t
UC73                                 6隻  1万1701t  12隻  1万4719t
UC74                                27隻  7万1807t  10隻  2万5092t
UC75                                39隻  5万0114t  17隻  3万8959t
UC76                                14隻     6006t
UC77                                28隻  3万7574t   4隻  1万1488t
UC78                                                2隻  1万3000t
UC79                                 7隻  1万5880t   3隻     6467t

 出典は「The U-boat Offencive 1914-1945」

ゆうか ◆9a1boPv5wk in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ルシタニア号事件は,アメリカの第1次大戦参戦に,どの程度影響を与えたのか?

 【回答】
 ポール・ジョンソンによれば,アメリカ人の対ドイツ観を壊滅的に悪化させたものの,直接の引き金ではないという.
 ウィルソン大統領は,「このような残虐行為は二度としない」というドイツの保証を得ただけで満足し,1916年の選挙では中立主義を掲げて臨んだという.
 しかし1917年2月から3月にかけ,何隻ものアメリカ船がUボートに沈められたことと,報道機関によるツィンマーマン電報(ドイツとメキシコが同盟を組み,アメリカを攻撃しようと提案する内容)の暴露があったため,ウィルソン大統領は宣戦布告に踏み切ったという.

 詳しくはポール・ジョンソン著『アメリカ人の歴史』第3巻(共同通信社,2002.7),p.35-36を参照されたし.


 【質問】
 先日,朝日ソノラマのエムデンの戦いを入手したんですが,他にもWW1の通商破壊艦に関する書籍で,お勧めとかないですか?
 できれば当事者による回顧録みたいのが嬉しいです.

 【回答】
 回顧録ではないけど公刊戦史かな.

独国海軍軍令部編纂『外国海洋に於ける巡洋艦通商破壊戦史 第二巻
軽巡洋艦通商破壊戦史』(訳)(海軍軍令部 1924年)

編纂者序言 海軍少将 エーリッヒ・レーダー
第一編 軽巡洋艦エムデン
第二編 軽巡洋艦ケーニヒスベルグ
第三編 軽巡洋艦カールスルーエ
第四編 軽巡洋艦ガイエル

軍事板,2009/09/06(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 キール軍港の反乱(1918.10.24)のきっかけとなった,勝ち目のない艦隊出撃命令はなぜ出たの?

 【回答】
 国家そのものよりも海軍の面子を優先したものと言えるかと思います.
 当時,休戦交渉が首相バーデン公の元で進められておりましたが,海軍はこの交渉の成否に関わる出撃に関して,政府の作戦計画介入を恐れて何の了解も取り付けておりません.
 全く無視して進めております.
 当時の政治状況で政府に無断で出撃を行えば,交渉中のバーデン公はどういう立場に置かれるか,ということを鑑み,これを軍部の意に沿わない首相を引きずり下ろす意図もあったと見る歴史家もいるようです.(A・J・P・テイラーの『第一次世界大戦』参照)

 また,出撃命令に先立つ10月6日外洋艦隊参謀長トロータは
「艦隊の名誉ある闘いが,この闘いで死を賭けた闘いになるにしても……そこから新しいドイツの未来艦隊が立ち現れるであろう.
 恥ずべき平和によって枷をかけられた艦隊に未来はない」
と述べておりますし,命令後の10月25日には海戦指導部戦中日誌に
「これ(艦隊出撃)によって,状況の決定的変化を期待出来ないにしても,やはり精神的視点からすれば,最終戦で艦隊が全力を尽くすのは,海軍の死活=名誉問題である」
と書かれているようです.
 散ることによって海軍の面子を保ち,海軍の再生に賭けようという気概は,十分に感じられますが,国家の文字は出てきません.
 こうでもしないと海軍将校連の特権的地位を保持出来ないため,との見方もあります.

「休戦協定を少しでも有利にするため,全戦力を持って英海軍と決戦を」
などといった,
ほんの少しでも合理的な考えは,確かミヒャエリス大佐の日記にあったと思いますが,
(どーせ休戦になれば艦隊渡しちゃうんだから,その前に稼ごうといった感じ)
当時の記録を調べると上のような精神論が主流で,異端だったっぽいです.

 以上,ほとんどは山田義顕氏の論文,軍事史学第22巻2号『第1次大戦後のドイツ海軍将校』からでした.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第一次世界大戦のドイツの戦艦とかは敗戦でどうなったのでしょうか?
 やっぱり戦勝国に戦利品として分捕られたのでしょうか?

 【回答】
 弩級艦,超弩級艦,巡洋戦艦に限って言えば….

Nassau → 1920.4.7日本に引渡し,オランダで解体.

Westfalen → 1920.8.5 英国に引渡し,調査の上,同国で解体.

Rheinland → 座礁のため,賠償艦になったものの他国に引き渡されず,解体.

Posen → 1920.5.13 英国に引渡し,オランダで解体.

Helgoland→ 1920.8.5 英国に引渡し,調査の上,同国で解体.

Ostflrisland → 1920.4.7 米国に引渡し,Mitchellの指揮する爆撃機の実艦的となる.115kg〜1t爆弾13発命中もびくともせず,翌日500kg爆弾3発命中でも前後が沈んだだけ,翌々日に1t爆弾6発の至近弾で沈没.

Thuringen → 1920.4.29 フランスに引渡し,標的艦となった後,同国で解体.

Ordenburg → 1920.5.13 日本に引渡し,オランダで解体.

Kaiser級4隻 → 全艦自沈,1933〜36年解体.

Konig級4隻 → 全艦自沈,1936〜62年頃解体.

Bayern級4隻 → 全艦自沈,1921〜35年解体.但し,Badenは浅かったので浮揚し,英国の実艦的.

VonderTann → 自沈,1934年解体.

Moltke → 自沈,1929年解体.

Goeben → 1914.8.16除籍後,Turkeyに引渡し.

Seydlitz → 自沈,1930年解体.

Derflinger,Hindenburg → 自沈,1932〜36年解体.

眠い人◆gQikaJHtf2

 ちなみに駆逐艦は各国に分配され,中には第2次大戦でドイツ軍と交戦した艦も.
 詳しくは「第2次大戦駆逐艦総覧」(ホイットレー著,大日本絵画,2000.2)を参照されたし.

 イタリアに渡って海防艦となった装甲巡洋艦もある.

消印所沢


 【質問】
 1960年代に西ドイツが,トルコの保有していた巡洋戦艦ヤウズを買い取ろうと持ちかけて断られたり,逆に断ったりしてますが,旧式も良いところの巡洋戦艦を今更手に入れようとした理由,そして結局買い取らなかった理由は何でしょうか?

 【回答】
 最初に申し込みがあった1963年の西ドイツは,アデナウアーが首相の時代で,右派のCDU(キリスト教民主同盟)とCSU(キリスト教社会同盟およびFDP(自由民主党)が保守連立政権を組んでいた.
 おそらくは購入して記念艦として活用しようとしたものと思われる.
 トルコから売却の申し出のあった1966年には,FDPが離脱し,代わって左派のSPD(社会民主党)が連立に加わっていた.
 こうして政権が左派の意向を入れなければならない状態になったために,過去の遺物であるゲーベンの購入計画は立ち消えになったと思われる.

――と,wikiの記事や当時の社会状況からこのような推測ができる.
 正しいかどうか,後は自分で裏をとって調べてくれ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


◆◆日本海軍


 【質問】
 第1次大戦時の日本海軍の実力は?

 【回答】
 WW1の時点では日本海軍は帝政独海軍と比べ3位はおろか,2位独逸とは比べるべくも無い劣勢でした.
 当時,帝政独海軍に対抗できたのは英大艦隊だけです.
 実戦力3位どころか,質量とも圧倒的に帝政独海軍が上です.

 日本海軍は,ハンマーである遊撃戦力としては金剛型があり,コレはかなり有力です.
 が,お伴となるべき駆逐艦隊が皆無に等しく,総合戦力として多くは期待できません.
 因みに英独供かなり有力な水雷襲撃部隊を有していました.

 また金床たるド戦艦群の内,使い物になるド級以上は,大戦中竣工の扶桑型が最初で改正型の伊勢型まで含めても僅か4隻.
 ド級艦に分類されている河内型は.究極の準ド級というべき艦で,多くを期待できる艦ではありません.
 その扶桑型も,成功作と呼べるような艦ではありません.

 因みに英独は,1916年のジュトランドに参加したド級と超ド級戦艦だけでも英28隻(日本艦を上回る15in砲艦6隻含),独16隻に達します.

 基準戦艦(三笠と同等レベル)なら,日本も鹵獲ロシア艦も含めて前ドは腐るほど持っていましたが,その腐ってた基準戦艦〜準ド級戦艦群が日本海軍の場合また曲者.
 66艦隊計画の残存4隻,香取,鹿島,薩摩,安芸,筑波,生駒,伊吹,鞍馬は多少の問題含み(2巨砲混載は運用が難しい,最有力の薩摩・安芸は同型艦なのに運動能力が違う等々)ではありますが,自国の要求仕様で造ってるからまだマシです.
 しかし,日露戦争で鹵獲・再整備した石見,肥前,丹後,相模,周防,壱岐は,相模と周防が同型(つってもドレッドノート・ショックの後では,基準戦艦はおろか装甲巡洋艦の価値しか事実上なくなっている)である以外,型も運動能力も速力も火力も全く別モノです.
 したがって,戦隊,艦隊といった戦術ユニットとしての一体性がまるで作れず,しかもそれらの整備再生にかけた労力予算は莫大でして,当然他に皺寄せが行きました.
 文字通り「腐っていた」と言えるでしょう.

 もちろん英独などは,そういう戦争によるアクシデント的なものがないので,それなりの斉一性を保ってます.

 唯一,日本海軍に後に繋がる利があったとすれば,「戦艦の定数」が増えたので,これらを廃艦にすると代艦を要求する名分が立つようになった位ですな.

 結論として,当時の海軍バランスは物凄く大雑把にあらわすと
英>>独>>>>>米仏日露墺伊(皆,脛に傷あり.どんぐりの背比べ)>>>>>その他.
といった感じ.

(世界史板)

 【質問】
 「第1次大戦時,日本海軍の駆逐艦隊は皆無に等しかった」ってどういうこと?

 【回答】
 まず,日露戦争までに造られた駆逐艦は数こそ多かったものの,基本的に日本海での活動しか想定されていなかったため,太平洋で活動するには凌波性と航続力が不足.まして大西洋まで行けるはずもなし.
 神風型なんて,その25隻の内23隻までもが日露戦争後の竣工(というか,日露戦争に間に合わなかった)だったのに,完成した途端に三等艦.とんだ無駄骨.

 太洋でも活動可能だったのは開戦当時
一等駆逐艦:海風型2隻
二等駆逐艦:櫻型2隻
だけで,たったこれだけでは「駆逐隊の編成すら不可能」(「日本駆逐艦史」(海人社,1992)という始末.

 大戦中に一等駆逐艦はさらに浦風型2隻が竣工するが,この型は蒸気タービンとディーゼルを混載して航続力を伸ばす計画だったのが,大戦勃発により,ドイツ・フルカン社製の減速流体継手の入手が不可能になって,ディーゼル搭載を断念.
 しかも浦風型2番艦の江風(かわかぜ)はイタリア海軍に譲渡.
 同型艦のなくなった浦風は駆逐隊編入が困難になり,専ら揚子江警備に従事した後,1940/4/1,除籍.

 そこで慌てて2等駆逐艦樺型10隻を量産.櫻型の図面を流用し,民間の造船所も総動員して1915年4月までに全艦完成.
 うち8隻が地中海で船団護衛に従事して,第1次大戦中の日本駆逐艦としては最も活躍することになる.

 その後,
一等駆逐艦磯風型4隻(1917/5/5までに全艦竣工)
二等駆逐艦桃型4隻(1917/5/5までに全艦竣工)
同楢型5隻(1918/6/30までに全艦竣工)
と急いで整備され,なんとか少しは格好がつくようになったとさ.

 以上,ソースは「日本駆逐艦史」(海人社,1992)より.

消印所沢 in FAQ BBS


 【質問】
 砲艦外交以外でも,日本がヨーロッパに軍艦を派遣した事例があれば教えてください.
 1920年頃のがあればうれしいです.

 【回答】
 第一次大戦中の1917年,英国の要請で連合国の輸送船等を護衛するため,巡洋艦「明石」を旗艦とする駆逐艦8隻からなる第二特務艦隊を地中海に派遣しています.
(後に巡洋艦「出雲」「日進」その他3個駆逐隊を,交替のため派遣)

 これらの艦の内,駆逐艦「榊」はUボートの魚雷により多数の死傷者を出しています.
 その他多くの犠牲を払ったおかげで,日本海軍の護衛は非常に評価が高かった由.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板,2007/07/22(日)

 名無し軍曹殿に蛇足ですが,1919年12月19日,至難の業と言われ,各国海軍が挫折した旧ドイツ潜水艦U46/U55/U125/UC90/UC99/UB125/UB143を受領し,1920年2月18日に英国を出航し,6月18日に横須賀に回航する快挙を成し遂げています.
 この時に先の第二特務艦隊が付き添っています.

 また,1921年と1926年に巡洋艦「八雲」と「出雲」からなる練習艦隊が,パナマ経由で欧州方面を経て世界一周を行っています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/07/22(日)


 【質問】
 第一次世界大戦のとき,日本はヨーロッパに戦艦などの主力部隊を派遣したのですか?

 【回答】
 なんでも,英国から金剛級の派遣(貸与も?)を求められたそうだが結局,巡洋艦「明石」を旗艦とする第二特務艦隊を派遣するにとどまっている.
 その後の増派等を含め計18隻.
 戦死,病死を含め78名がこの派遣中になくなっている.

 他に
第1特務艦隊(巡洋艦部隊)をシンガポールとケープタウンに派遣,
第3特務艦隊(実質は巡洋艦戦隊)をシドニーに派遣しています.

 海外派遣どころか,WW1そのものに日本は新鋭戦艦を使っていません.
青島攻略は周防・丹後・石見などロシア拿捕艦,
南洋攻略には伊吹・鞍馬など前ド級巡洋戦艦,
シベリア出兵には三笠・敷島・朝日など
旧式戦艦を使ったに過ぎません.

(鷂 ◆Kr61cmWkkQ他)


 【質問】
 C・W・ニコルの『遭敵海域』ってどうですか?
 WW1の日本軍モノが読みたかったのですが,もっといい本があったりしますか?

 【回答】
 あの三部作はむしろアクションを取り入れた外套と短剣ものに,海戦分を添えたものなので,『遭敵海域』でも日本海軍が出てくるシーンは,主に主人公が立ち寄った先で東洋艦隊の捜索に向かう艦を訪れるとか,どこそこでどういう艦が活動していて,周囲の反応はこうだとか,そんな感じ.
 日本海軍の海戦シーンを期待してはいけない.
 それならむしろ『特務艦隊』の方を読んだ方が良いかも.

 この巻のメイン・アクション・シーンは,シンガポールにおける英印兵の反乱で陸.
 停泊艦乗組員で編制された海軍陸戦隊も出てくる.
 日本でこの事件を題材にしたのは,この本くらいじゃないだろうか(笑)

 なお,どうせ読むなら,『盟約』から読んだ方が話が通じるからおすすめ.
 こっちは対馬海戦のシーンとか三笠爆沈の話があったり.
 一作目からとにかくよく調べてあるし,
「あれ?,こんなにかっこいい組織だったっけ?」
と思える程,日本海軍に対しては格好良く書いてある.
(あと,英国やカナダの郷土料理が,とても美味しそうに書かれてもいる)

> WW1の日本軍モノ

 論文やら背景主体だけど平間さんの本か『日英関係史 B 軍事』とか?
 あと,何かで青島戦の史料読んだ憶えがあるんだよなぁ.

軍事板,2009/10/22(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍地中海派遣艦隊の,輸送船護衛以外の任務について教えてください.

 【回答】
 この前,「マルタの碑」という小説を読んで,その辺の事を調べたくなったので,「日本海軍地中海遠征記」とか,その辺の書籍を買い込んで読んでいたのですが,日本海軍の第二特務艦隊に属する駆逐艦が,輸送船護衛からの帰還時,アドリア海の入り口を偵察する様命じられたくだりがあります.
 この時は,潜水艦の待ち伏せがある危険海域に,護衛艦船を入れて,万一失われたら大変だと言うことで,中止されました.

 また,休戦の後,1918年11月24日と26日の両日,第二十二駆逐隊の「桂」「楓」がマルタから出港し,イタリア半島の付け根にあるブリンジンに向かい,其処からアドリア海に入り,セベニコ,ザラを経て12月2日にポーラ軍港に入り,敵艦の監視任務に就いています.
 第二十三駆逐隊の「松」「榊」も同じくポーラ軍港で,敵艦船の監視と武装解除任務に就いていました.
 ポーラには12月8日まで滞在した後,ベニスに移動しています.

 ちなみに,「日進」と「楠」「梅」「桃」「樫」「柏」「栴檀」「橄欖」は,ギリシャからトルコのイスタンブールに入って,休戦監視の任務に就いています.

 その後,「楠」「梅」は,アドリア海に入って,12月下旬に先の「桂」「楓」と同じコースを通って,12月31日にフューメに向かったそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 世界史板


 【質問】
 アメリカの第1次大戦参戦は,日本の造船業にどんな影響をもたらしたのか?

 【回答】
 1917年,米国が第一次大戦に参戦すると,彼の国は巨大な兵器廠と化し,基幹たる鉄が必要となり,各国に輸出する余裕が無くなります.
この為,8月2日になると鉄材の海外輸出を停止する措置を執りました.

 これで大きな被害を被ったのが,鉄材の殆どを輸入に頼っていた日本です.
 元々,日本国内では自給体制に乏しく,第一次大戦前には英国やドイツなど欧州から輸入していたのが,第一次大戦でその輸入が途絶えた為,その調達先を種々探し求め,中立国の米国からの輸入に頼っていました.

 当時の日本は,1915年から1918年までの間に,輸出総額54億円,輸入総額40億円と日本では製品を作り,輸出して稼いでいた上,海上運賃や用船料の暴騰で運賃収入が増大,保険料収入も増加したので,貿易外収支も増大し,受取超過額が13億円と産業界にとっては空前の好景気.
 最終的に正貨が27億円流入した為,日本の立場は債務国から債権国に転じることが出来ました.

 この好景気を引張っていたのが造船業で,米国に発注した鉄の納品を目論見にして,船の発注を受けていましたが,米国の鉄材輸出停止は,その造船業にとってピンチとなります.
 何しろ膨大な受注を抱えながら素材を絶たれてしまい,生産継続が出来ませんから.

 浅野造船所はNew Yorkの浅野合資会社支店に技師を派遣し,絶えず輸入を促進すると共に,船主の東洋汽船に優先輸送と言う便宜を図って貰っていましたが,鉄が輸入出来なくなると,東洋汽船も船荷が無くなり,欠損が生じます.
 1918年になると昨年8月に比し,工事分量は58%,在籍工員数は65%へと激減しました.
 更に残業はなくなり,工員の実収入は減り,退職者が増加しました.

 この米国の措置は,日本にとって看過出来ないものであり,政府と関係民間諸団体は様々のルートを通じて米国の鉄解禁運動を進めました.
 関東側の中心となったのは浅野造船所,関西側では鈴木商店が中心となり,船腹不足の米国に船舶を提供する代わりに,米国から鉄材を供給すると言う現物交換のアイデアを創出して,米国からの鉄材供給を依頼する様に奔走します.

 浅野造船所はこの交渉の参謀本部として,連絡場所を提供するだけでなく,社長以下奔走し,通訳や通信手段の提供,交渉などの事務方まで担当していました.

 1918年3月,駐日大使モリスとの間に仮契約を締結し,第一次船鉄交換契約が4月に米国政府との間で成立します.
 これは,日本側が現有船舶を直ちに米国側の鉄材と交換する条件で,且つ,船舶建造経験として6,000重量トンのものを建造した事があるか,又は建造しつつあること事などが条件で,多数の造船所が交換を希望したものの,浅野,鈴木,三菱を筆頭とする大手造船所にしか鉄材の供給が行われませんでした.

 因みに浅野造船所では,そうして得られた鉄材を6隻に割り振り,1919年1〜5月に順次完工させて,ストックボートとして売ったのですが,丁度船価高の状況だった事もあり,純益が1,400万円に達しました.

 それに溢(あぶ)れた造船所は,5月中旬に行われた第二次船鉄交換契約に期待を繋ぎ,その確保に奔走します.
 第二次船鉄交換契約でも船舶建造経験は同様でしたが,その内容は些か緩和され,船台があれば可,しかも船2重量トンに対し新規鉄材1トンと言う交換比率になりました.

 こうして,この契約で日本は30隻,246,300重量トンの船舶を建造します.
 石川島造船所が2隻10,000トン,三菱造船所が2隻で16,600t,そして,浅野造船所は7隻を竣工させるに足る鉄材を入手し,横浜船渠も1917年下期に増資で資本金を1,000万円にし,これを船台整備に費やし,3隻で18,900トンの船と,余った鉄材で1隻の自前船を建造します.
 横浜船渠では,船舶修理も軌道に乗り,増資したのにも関わらず,1917年下期3割,1918年上期3割5分,下期3割と言う高配当を挙げ,毎期の利益は戦前の10期分と言う未曾有の好景気を生み出しました.

 また内田造船所では,全く建造経験のない小規模企業だったのにも関わらず,6,000重量トン級船台を一挙に3基整備し,第二次船鉄交換契約に食い込んだ上,2隻,17,000重量トンの船を引き受けることに成功しました.
 全く大型船の建造経験のない会社なのに,三菱並みの規模を誇った訳で,如何に好景気に沸いていたかが判ります.

 更にその余剰鉄材で,南満州鉄道向けの満州丸を建造します.
 この満州丸は,元々南満州鉄道が三菱が建造していた船鉄交換船と同型船を購入する予定だったのが,内田造船所のオーナーが横槍を入れて発注を取消させ,内田造船所の満州丸を購入する事になったと言う事で騒ぎとなり,政友会の代議士を通じて原敬首相に贈賄工作をして,不当の価格で南満州鉄道に売り込んだという事で,当時野党だった憲政会が倒閣運動をする騒ぎにまで発展しています.

 この疑惑捜査の過程で出て来たのが内田造船所のオーナーで,内田汽船の経営者である内田信也氏の金持ちっぷりでした.
 良く第一次大戦の日本の成金を皮肉った絵が教科書に掲載されていますが,正にその通りの人だったりする訳で….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/16 20:54


 【質問】
 大正期(WW1前後)に日本で建造された貨物船で,L級とM級と呼ばれているのがあるらしいのですが,正式名称を教えてください.

 【回答】
 郵船の貨物船ですね.

 まず,1907年建造の英国の貨物船デン・オブ・クロムビイを用船し,その性能を調査,研究して, その船を建造した英国ラッセル造船所で建造中の略同型貨物船を彼南丸,蘭貢丸として購入,
 1910年,更に同型船を徳島丸,鳥取丸として購入し,遠洋航路貨物船に使用します.

 1913年,欧州航路臨時船として,改良型の7,500総トン11ノットの貨物船を英国ラッセル造船所に2隻発注し,これを對馬丸,高田丸,更に日本の三菱長崎に豊岡丸,富山丸,川崎造船に豊橋丸,徳山丸を発注し,1915年に竣工させます.
 更に第一次大戦の船腹量増加に伴い,日本〜欧州の定期航路の2週1回を維持するために,三菱長崎と川崎造船所各3隻を発注.
 これらは但馬丸,龍野丸,鳥羽丸,敦賀丸,常磐丸,津山丸と全て頭文字がTで始まる船のため,T型貨物船と呼ばれました.

 1920年,T型貨物船をベースに,更に改良を加えたのが,D型貨物船,L型貨物船,M型貨物船で,それぞれ,
D型はでらごあ丸,だあばん丸,だかあ丸と頭文字がDで始まるもの,
L型はりま丸,りおん丸,りすぼん丸と頭文字がLで始まるもの,
M型は水戸丸,松江丸,松本丸,前橋丸と頭文字Mで始まるもの
で,全て都市名が割り当てられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2007/02/07(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 三井物産造船部宇野仮工場が完成させた商船について教えられたし.

 【回答】
 同工場は,第1次世界大戦を背景とする,当時の逼迫する造修工事に対処するため,同社玉工場に先立つ仮工場として,岡山県鹿島郡宇野町において,1917.11.4から操業開始.
 第1次大戦終結と共に,日本造船業の前途多難が予想されたため,1919.5.12に閉鎖されたが,その間,26隻を建造した.

 その主要建造船舶は,『三井造船35年史』によれば,以下の如し.
(100総トン以上 引渡順)

船名 種類 総トン数  速力      起工     進水     引渡   注文主
海嘉丸 木造貨物船 991 9.67 大正
6.10.4
大正
7.2.11
大正
7.4.5
三井物産
三天丸 鋼製貨物船 1211 9.51 6.11.7 7.3.10 7.5.20
海正丸 木造貨物船 758 9.02 6.8.22 6.12.2 7.5.30
三長丸 鋼製貨物船 1215 10.62 6.12.7 7.4.13 7.7.3
英山丸 1228 11.06 7.2.15 7.6.6 7.8.10 青木榮蔵
烏城丸 2494 11.10 7.4.25 7.8.25 7.10.17 津田資郎
海弘丸 木造貨物船 1095 11.18 7.3.14 7.11.20 7.12.12 三井物産
三嘉丸 鋼製貨物船  2489 11.13 7.5.25 7.12.1 7.12.30
三弘丸  630 9.60   7.7.3 8.1.21 8.2.20

 【質問】
 WW1終結までに,三井物産造船部玉工場が完成させた商船について教えられたし.

 【回答】
 『三井造船35年史』によれば,以下の如し.
(100総トン以上 引渡順)

船名 種類 総トン数  速力      起工     進水     引渡   注文主
三仁丸 鋼製貨物船  2494 11.05 7.10.19 8.5.10 8.6.28 三井物産
木曾丸 4066 14.26 8.11.12 9.5.15 9.6.11 東京海運
イースタン
インポーター 
5846 13.89 8.3.31 8.11.9 9.6.23 米国
イースタン
エキスポーター 
14.23 8.3.31 8.12.27 9.7.16
利根丸 4070 13.75 8.12.28 9.6.19 9.7.30 東京海運
歌神丸 2428 12.82 9.4.1 9.9.1 9.9.28 北海道炭礦汽船
布引丸 鋼製曳船 119 11.06 9.5.9 9.9.5 9.10.20 東神倉庫

 【質問】
 日本が初めて国産で建造した戦艦は「筑波」なんでしょうか?
 それとも「薩摩」なんでしょうか?

 【回答】
 「筑波」は,明治40年1月14日に一等巡洋艦として竣工し,大正元年8月28日に巡洋戦艦に類別変更.
 大正6年1月14日に横須賀軍港在泊中に火薬庫の爆発により沈没し,同年9月1日に除籍.

 「薩摩」は,明治43年3月25日に戦艦として竣工.ワシントン条約により大正12年9月20日に除籍.
 大正13年9月2日に東京湾外で砲撃の標的となって沈没.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「矢矧」のスペイン風邪罹患のケースについて教えられたし.

 【回答】
 旧日本海軍に矢矧という軍艦がありました.
 と言っても,第二次大戦で大和と共に撃沈された方と違って,今日は先代の話.

 先代の矢矧は1912年に竣工した明治最後の二等巡洋艦です.
 もう少しすれば,軽巡洋艦に進化したのですが,敵艦隊の攻勢予想正面に配備され,敵の動静を探る偵察用艦艇としての位置づけでした.
 この為,戦艦に続いて機関に蒸気タービンを採用したのですが,重油専焼方式ではなく,石炭も併用する混焼方式であり,石炭庫を舷側に配置して防御用に充当する防護巡洋艦として最末期の形式でした.
 因みに,1940年に廃艦となり除籍されますが,江田島で練習艦として使用され,太平洋戦争中は潜水学校用として使用された後,敗戦まで生き延びて戦後解体されました.
 初代大和と共に,矢矧も,二代目の海上特攻を見送ったことになります.

 この艦が竣工して間もなく,第一次大戦が勃発します.
 日本はこの機に乗じ,アジアと太平洋のドイツの権益を回収しようと目論んで,連合国側に立って参戦しますが,第2艦隊第4戦隊に所属していた矢矧は,僚艦の筑摩と共にドイツ極東艦隊の通商破壊艦対策として1917年6月にアジア地域,オセアニア地域に展開していた第1特務艦隊に編入され,シンガポールを基地として,マラッカ海峡,インド洋,豪州,ニュージーランド方面の警戒や船団護衛などの任務に就いていました.

 1918年10月頃,矢矧は豪州,ニュージーランド方面を遊弋していました.
 しかし,既に1年以上外地に派遣されていた為,シンガポールに戻って本国から新たに派遣される千歳と交代して呉に帰投せよとの命令を受け,シドニー,木曜島を経由して11月9日にシンガポールに入港しました.
 そして,11月中旬の千歳の来港を待って出港の予定でしたが,千歳の到着が遅れた為,出港は11月30日となりました.
 この間,第一次大戦は同盟国側の降伏で休戦となり,矢矧もその命令を受け,「戦闘動作中止」となります.

 とは言え,千歳は未だ来ずに,延々3週間もの間,赤道直下で気温30度に達するシンガポールに停泊し続けていました.
 この間の状況を写した写真が,『日本巡洋艦史』に掲載されています.

 当時,シンガポールでは10月頃から流行性感冒,所謂インフルエンザが猖獗を極めており,第1特務艦隊に属していた対馬,最上,それに第13駆逐隊の駆逐艦が相次いで感染した為,乗組員に禁足命令を出し,必要時以外,必要な者しか上陸をさせませんでした.
 ところが千歳到着が遅れ,長期の在泊となったため,11月21〜22日,予防薬を服用し,4時間ずつ,行先は下士卒集会所に限る半舷上陸を行います.
 11月になると,10月の流行が終熄しつつあり,在泊中の各艦の上陸者に異常が生じなかった事もあります.

 ところが,24日に発熱患者4名が発生しました.
 軍医はこれを通常の風邪として,隔離しただけでそれ以上のことはしませんでした.
 しかし28日までに,乗組員の診断をすると同じ様な患者が10名発生していることが判明しました.
 ところが,寝冷えだろうと言うことでこれを黙殺し,30日に千歳との任務交替もそこそこに,一路,マニラに向けて出港しました.

 実は最初の4名,次の10名ともインフルエンザ罹患者でした.
 30日の午後6時,総員検診をすると,発熱患者は約25名,翌日には数回検診を行った所,その検診毎に毎回10数名の患者が発見され,午後には士官1名を含む69名に達しました.
 平時の乗組員は414名ですが,当時の矢矧の乗組員は戦時でもあり,第2特務艦隊から帰還途中の便乗者なども居て,469名が乗組んでいました.
 既に,この2日間で15%の乗組員が罹患していた訳です.

 とは言え,いずれも軽い発熱であり,シンガポールよりマニラに行く方を選択しました.
 念の為,近隣の港湾で医薬品補給の有無を旗艦に問い合わせましたが,各地ともインフルエンザの流行時期であるため,入手不可能との返信を貰っただけでした.

 12月2日,新患者は約50名発生し,最早隔離は不可能,看護卒2名も罹患,病床に伏す有様で,士官も2名罹患しました.
 機関部員は3日間で患者数が59名に達し,艦の航行にも影響が出始めます.
 翌3日,残っていた看護卒1名も倒れ,軍医長まで寝込んでしまう有様となり,患者は新たに79名が加わりました.
 機関部は部員が次々に倒れた結果,機械部,罐部,電機補機部に充当する乗組員が足りなくなり,通常は5直であるのに,4直,遂には3直となり,それでも足りないため,水兵部から12名を機関部に補填してやっと機関を動かす状況に陥ります.
 元々,27.5kts/hの快速を誇っていた矢矧でしたが,相次ぐ機関部員の罹病で,6罐中4罐が稼働するのみであり,速力は11kts/hに落ち,更に10kts/hに低下しました.

 隔離も実施されず,治療,看護も出来なくなったことから,罹病者は更に増え,4日には106名が新たに患者の列に加わり,初めて1等機関兵1名が死亡すると言う事態に陥りました.
 4日の航海日誌にはこうあります.

――――――
 四日ニハ僅少ノ士官ト三,四十ノ下士卒ノ外殆ント全員罹病シ,軍医長モ遂ニ就床スルニ至リ診療ニ対シテハ独リ便乗中ノ菅大軍医僅少ナル士官下士卒ト共ニ患者ノ治療看護ニ従事セリ.
 右ノ如キ状態ナルヲ以テ患者ノ診療投薬看護意ニ任セズ艦内至ル所患者転顛シ呻吟苦悩ノ声ヲ聞クモ又如何トモスル能ワズ惨憺タル光景ヲ呈セリ
――――――

 烹炊員も減じたため,食事も作れず,飯と塩と言う状態になりましたが,不幸中の幸いで便乗者,これは第2特務艦隊の旗艦であった巡洋艦明石の乗組員でしたが,彼等は不思議と罹患せず,彼等の応援があって初めて艦が運航出来ました.

 インフルエンザと病気は,一旦感染してしまうと抗体が出来ています.
 シンガポールで流行が下火に見えたのも,住民達が一度は感染して,抗体を持つ事になり,インフルエンザ・ウィルスが宿主を一時的に失った為です.
 そこへ,今までこの病気に罹ったことのない矢矧の乗組員が大挙して猖獗の地を訪れた訳ですから,ウィルスは新たな宿主が出来たと言う訳で,彼等に感染していきました.
 明石の乗組員も,多分,米国から齎されたウィルスに地中海か,アレキサンドリアか,マルタやシンガポールまでの寄港地の何処かで感染したはずです.
 この為,矢矧乗組員の殆どが感染した猖獗状態でも,明石の乗組員達が罹患しなかったと考えられます.

 兎に角,矢矧は機関停止状態,漂泊寸前の状態で,5日正午にマニラに到着しました.
 防波堤の南端に投錨したものの,錨を引いて艦を安定させる揚錨機を扱える者も居なければ,舷梯を降ろす者さえおらず,これらの作業は明石の乗組員達が行いました.

 結局,11月30日〜12月4日の5日間に,士官14名,特務士官・准士官6名,下士卒286名の合計306名が罹患し,これは矢矧乗組員の65%に当りました.

 そして,在マニラ日本領事に連絡し,重症者の准士官以上11名,下士卒35名を当地の病院に入院させました.
 しかし,その後もインフルエンザは蔓延し,5日に患者96名,6日には64名となり,罹患者累計が466名となります.
 ただ,この数字は軍医の診療を受けた者であり,複数回診察された者もその度毎にカウントされたため,実際にはもう少し少ない数になろうかと思われます.
 とは言え,マニラ到着で機関部は愁眉を開きました.
 機関部員の患者数は5日に112名を数え,壊滅状態に至っていたからです.
 患者は7日,8日に4名ずつ,9日に1名を数え,以後発生しなくなりました.

 ところが,7日には兵1名が病院で死亡した後,9日には副長と3名の下士卒が病院で死亡,10日には病院で8名,艦内で5名,病院への搬送中に1名と全部で14名が死亡しました.
 11日に5名,12日には8名,13日4名と死亡者は日を追って増え,重態は約50名に達しています.
 最終的に死亡者48名を数えました.
 死亡率は10.2%にも上ります.

 海軍は,一等砲艦最上をマニラに派遣し,乗組みの軍医を臨時に矢矧乗組みとして治療に当らせ,馬公要港部から巡洋艦秋津洲を派遣し,軍医,看護人,薬剤を送り込みました.
 17日に,最上は明石の乗組員を乗せて出港し,矢矧は1月10日,やっと出港出来る状態になっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/01 23:18


 【質問】
 八八八艦隊とは?

 【回答】
 黒野耐によれば,大正7年(1918年)国防方針の下での日本海軍の軍備構想.
 問題は,八八艦隊すら予算上から整備の目途も立っていないのに,さらに1個艦隊を増加できるのかという点にあったという.
 結局,大正9年度予算が閣議決定される前に,高橋是清蔵相,田中陸相,加藤海相が軍備充実について協議した結果,
・当時の財政状況,国力に沿った軍備整備要領を立てること
・海軍は経過的措置として八六艦隊の建設で我慢すること
・陸海軍間の兵力整備の優先順位を当面は海軍に置き,海軍の計画が完了する大正16(1927)年以降に陸軍の計画を実行すること
で合意が成立したという.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.74-75
を参照されたし.


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