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◆戦史
戦国時代FAQ・目次


 【link】

『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

 作者は京城帝大理工学部機械工学科卒で,国立海洋大学教授,MITの造船工学科研究員.
 なので,船の構造に関する部分については信頼が置ける分析をしているのかな,と.
 訳者は東大の理学博士で,京大の教授ですから,この部分に関する限り真っ当な訳をしていますし,訳出などについては,阪大の船舶工学科にも協力して貰っています.

―――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月01日 11:12

『李朝船の造船式図』(金在瑾著,日本海事史学会)


 【質問】
 応仁の乱はなぜ11年も続いたのか?

 【回答】
 多数の守護大名が利害関係から細川勝元側,山名持豊側にそれぞれ分かれ,小競り合いを散発的に繰り返したため,それらが全て撤退するまでだらだらと続いた.
 河合敦によれば,大規模な力攻めが行われたのは,応仁の乱勃発の最初の年(1466)だけであり,以後は両軍とも拠点に強固な陣地を構築し,大兵をもってしても簡単には落とすことができなくなったため,局地戦の小競り合いばかりが続いた.
 1472年には持豊が勝元に講和を持ちかけたが,細川一族の反対により講和はならなかった.
 1473年には持豊,勝元が相次いで死に,翌年にはそれぞれの子供である細川政元,山名政豊の間で講和が結ばれたが,有力大名がなおも在陣しており,小競り合いは続いた.
 1477年,最有力の大内政弘が撤退したことで,他の大名も撤退,ようやく乱は完全に終結した.

 山田智彦によれば,大内撤退の道筋をつけ,乱の後始末をしたのは実は日野富子だったという.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.226-231を参照されたし.


 【質問】
 うちの弟が「秀吉の墨俣一夜城の話は嘘」と言い張っているのですが,実際どうなんでしょう?

 【回答】
 一夜城は誇張された,後の講談などの話だから,当時実際に一夜城ができたか?と聞かれればNoという答えになる.
 当時の資料を見ると,どうやら墨俣の敵方の砦を奪取して,それを補修して再利用したというのが,一番有力らしい.
 その指揮にあたったのは秀吉ではなく,信長自身であったという事も分かってきている.

日本史板


 【質問】
 六条合戦ってどんな感じだったんですか?

 【回答】
 「信長公記巻二・永禄十二年,三好勢返す六条合戦の事」によれば,以下の通り.

 永禄12(1569)年正月4日、三好三人衆は畿内を流浪していた斎藤右兵衛太輔龍興・長井道利主従ら南方の諸浪人を糾合し、薬師寺九郎左衛門を先懸けに公方様御座所の六条本圀寺に攻め寄せた。
 門前はまたたく間に焼き払われて寺は重囲のただ中に落ち、敵が寺内へ突入してくるのも間近と思われた。

 このとき寺内にあって公方様を警護していたのは、細川典厩藤賢・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・津田左馬丞・坂井与右衛門・明智十兵衛光秀・森弥五八・山県源内・宇野弥七らであった。
 この内,若狭衆の山県・宇野は隠れなき勇士と名高く、揃って敵将薬師寺の旗本勢へ突入し、並居る敵勢を切り崩して激闘した。
 しかし次々と押し寄せる敵兵の前にやがて力尽き、両名とも槍下にて討死した。
 他の御所勢も奮戦し、敵が突入してくればその都度これを押し返し、なかには敵勢三十騎を一度に射倒して敵が算を乱す場面も見られた。

 三好勢は攻めあぐねた。
 そのような中、三好左京大夫義継・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正・池田清貧・伊丹衆・荒木衆らの援軍がようやく到着し、桂川河畔で三好勢にぶつかった。戦は黒煙うずまく激戦となったが、来援軍は高安権頭ら敵方の大将を次々と討ち取って勝利を得、三好勢の撃退に成功した。

 戦の後、来援軍は岐阜の信長公のもとへ急使を送って変事出来を知らせた。

http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho5.html

 三好勢の攻めあぐねが敗因ではないかと.
 準備を入念にやるべきだったね.


 【質問】
 川中島はなぜ最終的には武田信玄の領土になったのか?

 【回答】
 河合敦によれば,領域経営の差によるものだという.
 上杉謙信は,征服地については降将にそのまま支配を認めることが多く,このため情勢が変わると,その降将が再び叛旗を翻すケースが後を絶たなかった.
 一方,信玄は征服地には必ず代官を派遣して,武田流の政策を展開したため,新地はしばらくすると武田色に染まったという.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.65-66を参照されたし.


 【質問】
 長篠の戦(1575)で,織田信長が武田勝頼相手に,火縄銃部隊を3列にして発射して,発射にかかる時間を短縮していたと学校で習いました.
 ヨーロッパでも,火縄銃を使っていた時代,このような作戦は採られたのですか?

 【回答】
 まず,信長の三千挺三段撃ちですが,行われていなかったと言うのが,ここ15年ぐらいの定説に成りつつあります.
 まず,最も史料価値の高いと言われる太田牛一の「信長公記」には,この戦術に関する記述が全く無い事が有ります.
 この戦術の初出は,小瀬甫庵の「信長記」ですが,この書は長篠の合戦の50年も後に出版されており,多分に江戸幕府の思想的プロパガンダのバイアスがかかっており,資料的価値が低い事.
 当時の織田,徳川軍の鉄砲隊は,各家臣団の諸兵,傭兵等の混成部隊であり,複雑な統制の取れた行動が,訓練期間の足りなさも相まって困難であった事.
 長篠の陣が,山の稜線に沿って複雑に出入りしており,一人(少数)の合図に従って一斉射撃を加えるのが,無線の無い当時は不可能であった事が予測される事が有ります.
 では,何故に小瀬甫庵がその戦術を思い立ったかと言えば,中世の中国では,ボウガンの三段撃ちを行っており,儒学者である小瀬甫庵が「信長記」にそれを盛り込んだのでは,との説が有力です.
 そして,何故この三段撃ちが定説として流布されたかと言えば,旧陸軍参謀本部が,「日本戦史」編さんのおり,ろくに精査もせずに採用した為でした.

 長篠の戦いの真の革新的な所は,野戦築城を日本で始めて大規模に採用した事です.

http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon4.html#11
によれば,これは,恐らく宣教師からの助言が有ったものと思われます.

[quote]
 長篠合戦の72年前の1503年、ヨーロッパで野戦築城された陣地に拠(よ)って鉄砲を使った側が、攻めてきた敵をさんざんに破るという有名な戦いが行われた。イタリアのチェリニョーラというところで、スペイン軍がフランス軍を打ち破ったのである。
「好奇心の強い信長は、ルイス・フロイスらの宣教師から最新の軍事知識を仕入れ、長篠で実践したのでは」
と鈴木さんは推測する.
[/quote]

新所沢の三等兵 ◆Uk

 これが事実とすれば,情報を重視した信長らしいやりかたではないかと.


 【質問】
 長篠の戦では,どうして自分等にとって不利な環境で戦うことを,武田は強いられてしまった訳?
 そういった武田不利の事前の状況は,どんな過程でつくりだされたの?

 【回答】
・織田・徳川の援軍が来る前に長篠城を包囲して落とすつもりが落とせなかった
 そのため十分な迎撃体制が取れなかった。

・側面をカバーしていた砦が徳川氏の酒井勢によって落とされ、退路を遮断される不安要素が出てきた。

・数で勝る織田・徳川の援軍が到着して、ただ退却するだけでは追撃されるおそれが出てきた。

・ある程度の戦果を上げないと、勝頼の権威に影響して、今後の家中の統制が難しくなる。

・以上の理由でやむをえず戦端を開いたが、やっぱり勝てずに退却中に多くの被害を受けてしまった。

……と,こんな感じ.

 戦死した有力武将の多くは,通説にいうように織田・徳川勢に突撃して鉄砲にやられたのでなく、 退却途中に追撃されて討ち取られたと記憶しています。

(日本史板)


 【質問】
 三木城は二年にわたって籠城したそうですが,何千人もが二年も籠城可能だったのですか?

 【回答】
 篭城って言っても,当初より三木城のみ孤立してたわけじゃない.
 神吉城・志方城などの支城や丹波の波多野秀治が持ちこたえていた間は,毛利からの支援が届いていたし,村重の謀反で秀吉のほうが孤立しかけていた.
 反旗を翻して2年間城に篭ってはいたものの,厳重な包囲下に有った期間とイコールではない.
 支援が途絶え完全に孤立するのは,落城前の数ヶ月間.

 支城攻略は,丹羽長秀・滝川一益等が行っているから,別所討伐には秀吉救援の一面があり,秀吉軍の攻撃を2年間持ち堪えたわけでもない.
(秀吉が自力だけで窮地を脱し,別所を滅ぼしたのではない)

 織田軍相手に2年持ったのは事実だが,兵糧攻めにあった期間が2年なのではない.

日本史板


 【質問】
 なぜ鳥取城包囲戦(1580)は起こったのか?

 【回答】
 河合敦によれば,城主・山名豊国は織田方に降ったものの,それを良しとしない重臣らが山名豊国を追放して毛利方へついたため.
 山名豊国は圧迫を受けるとすぐになびく傾向があり,秀吉から「臣属するなら因幡一国を与えるが,逆らえば娘は磔」というアメとムチを提示され,娘を溺愛していた豊国は織田方に降った.
 しかし上述の重臣の反乱が起こり,吉川経家を城将として受け入れた.
 秀吉はそれを知り,入念な準備を整えた上で,翌年9月になって出立することになった.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.175を参照されたし.


 【質問】
 なぜ秀吉は鳥取城を無血開城させることに成功したのか?

 【回答】
 河合敦によれば,兵糧攻めと心理作戦で城兵の士気を挫いたという.

 包囲に先立ち,秀吉は商人を使って因幡の穀物を相場の数倍の値段で買い占めさせた.
 その上で秀吉軍は,城下の農民や婦女子が城へ避難するよう追い立てることで,篭城中の城内の食糧消費に拍車をかけさせた.
 また,城の周囲を空堀で囲い,城付近の河川には乱杭を打って縄を巡らし,夜は無数の松明で照らして完全包囲した.
 さらに,昼夜の別なく鐘や太鼓,鬨(とき)の声,不意の鉄砲銃撃や火矢で不安を煽りたて,これにより精神的におかしくなる城兵が続出した.
 さらにまた,これ見よがしに城外で市を開いて食べ物を売買させたり,歌舞をやらせるなどして厭戦気分を煽った.
 これらは包囲軍の士気を維持する上でも効果があった.
 加えて秀吉は,板塀に白い紙を張ることで,短時間に白壁作りの豪壮な本陣を作ったように見せかけ,敵城兵に本陣の強固さを信じさせた.

 4ヵ月後,飢えた城兵が人肉を食べ出したため,吉川経家は抵抗を断念.
 彼の切腹と引き換えに,篭城軍を全て放免するという条件で,城は落ちた.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.176-178を参照されたし.


 【質問】
 秀吉軍が備中高松城を水攻めしていた時,城の西には毛利軍が既に到達していたと聞きました.
しかし,高松城を間に挟んで両軍がにらみ合っている間に高松城落城.
 毛利軍が高松城が粘っているうちに,秀吉軍に対して大規模な攻撃をしなかったのはなぜでしょうか?

 【回答】
 毛利と秀吉は足守川をはさんで直接対峙する形になっていた.
 高松城は完全に水没していて戦える状態にはなく,城兵の支援は期待できない.
 戦力的に,秀吉とのガチンコ勝負で勝てるかどうかも分からないかった上に,秀吉の求めに応じて信長が直接援軍に来るという情報もあって動くに動けなかった,というところらしい.

 こんなかんじ
http://www2.sanmedia.or.jp/xplus/kensyou/bittyu.htm

日本史板


◆◆本能寺の変以降

 【質問】
 明智光秀が本能寺の変を起こした理由として考えられるものは?

 【回答】
 『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著,中公新書,2007.7).
 信長の天下布武の過程で失脚や粛清されたり,謀反を起こした家臣や外様を通じて,信長の戦略や素顔に迫る一冊.

 読んでて信長に対し,思わず思った事.「あんたはどこのスターリンだよ」(笑).

 興味深かったのが明智光秀についての考察.
 光秀の本能寺の変を起こした要因として,

・信長の四国政策の変更(光秀の取次ぎで長宗我部家とは同盟関係にあったが,それを破棄.遠征軍を送ろうとし,光秀はハブにされていた)

・光秀の重臣斎藤利三の問題(利三は稲葉一鉄の家臣だったが,光秀の下に転仕.信長は光秀,利三側に厳しい裁定を下した)

に加えて,

・光秀は当時67歳の高齢(通説の55歳は怪しい,としている)で嫡男の光慶はこの時13歳.老い先短く,また信長と政策上の衝突もある中で,信長は光慶に丹波はおろか坂本城を継がせてくれるのだろうか.
それならいっその事….ということではないか,と考察しています.

(ただ個人的な疑問として,光秀には娘婿の秀満がいる訳でして.光慶にすぐに継がせるのは無理でも,秀満が後見人になるとか,光慶が成長するまで秀満にリリーフで跡を継がせる,とか光秀は考えなかったのかな,とか.
 まあ,無理だと考えたのかなぁ)

 そして終章では,信長の性格(短気で傲慢,強い猜疑心や執念深さ)が一族や家臣団,征服先の国人領主への粛清や外様の謀反に繋がった,としていますが…
 そういったのは他の戦国大名でもあったし….

 まあ,面白い一冊だと思います.

グンジ in mixi,2008年03月23日13:48


 【質問】
 本能寺って軍事的な意味はあった場所なの?

 【回答】
 本能寺は種子島氏の菩提寺.
 つまり鉄砲の最初の伝来地であり,鉄砲大量生産のライセンスと硝石の輸入大窓口だった種子島氏の,本土首都である京都の販売窓口代理店であった訳.
 硝石は堺で輸入販売されていたが,織田は種子島氏を重用し,硝石貿易の独占を図っていた.

 ちなみに,これに対して武田あたりは自前で鉄砲火薬製造を図っていた.

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 硝石を得にくい位置に本拠地をおいていた信玄や謙信だが,信長の鉄砲隊が強化されていくのを指をくわえて見ていたわけではない
 彼らはまもなく「塩硝」と呼ばれる硝酸カリウムを用いるようになった.
 上杉家の古文書の中には,謙信の時代に塩硝を使った火薬の製法にかかわる永禄二年(1559)の文章が見える.
 後北条氏に関係する天正17年(1589)の文章には,下野国の知内町(栃木市)から四貫八二九文(約50万円分)の塩硝が年貢として納められた事を示す記述がある.
 信長の死後,中国人やポルトガル人は「硝石の輸出をやめれば日本の鉄砲は役にたたない」とあなどっていた.しかし,塩硝が量産されるようになった事により,鉄砲を多用する日本の・・

《 海外貿易から読む戦国時代 》武光 誠
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 その火薬の性能・品質については「???」だけどね.

日本史板


 【質問】
 本能寺の変のとき兵士たちは,自分らが攻撃している相手が信長だと知っていたの?

 【回答】
 光秀の部下の回顧録では,本能寺が何処なのかも誰を討ちに行くのかも,まるで解らないまま進軍してたらしい.
 家康を討ちに行くのだろう,と皆,憶測していたようだ.

 もし本当の事がわかっていたら,俺だったらこっそり軍を抜け出し,重い鎧を脱ぎ捨てて本能寺に向かって全力疾走.
 本能寺についたら信長にご注進,難を逃れた信長から後日たっぷり褒章をもらうだろうからね.

 しかも史実では,明智軍は本能寺へ進撃中に,であった人間を片っ端から切り捨てたらしい.出くわした人間にとっては,全くの災難だが.

 だから,明智が
「敵は本能寺にあり!」
などと叫ぶはずもない.
 これは頼山陽か誰かの創作.

日本史板


 【質問】
 本能寺の変のとき,秀吉以外の信長配下の将は何をしてたの?

 【回答】
 柴田は上杉と対峙していて動けなかった.
 滝川は動いたところを北条に攻撃されて壊滅した.
 丹羽・信孝は兵が逃散してしまい,秀吉軍に合流した.

日本史板


 【質問】
 濃姫,どうなった?

 【回答】
 『信長公記』によると,本能寺の変後,蒲生賢秀が安土城から信長の妻子を避難させたという.
 この妻子のなかに「安土殿」という女性がいて,これが濃姫ではないか,とする説.

 安土殿という名は織田信雄の分限帳に出てくる.
 この女性は信雄が面倒を見て慶長十七年に亡くなったという.さらに,大徳寺総見院から濃姫のものとされる墓も見つかった.法名は養華院殿要津妙玄大姉.

 ま,濃姫については,結婚したが即離婚したという説から,早死に説まであるけど,決定的な史料はまだ見つかっていないようだ.

日本史板


 【質問】
 「美濃返し」って何?

 【回答】
 1583年の賤ケ岳の戦いでは秀吉軍は,敵の来襲を誘うために,いったん大垣の織田信孝軍に向かい,これを制圧した.
 それから大岩山砦などの陣所の落城を知って,越前に取って返した.
 これが「美濃返し」.

 その時の行軍速度が丸一日で50kmといったところ.
 徒歩主体の軍の行軍速度としては,当時としては異常だったそうです.

軍事板
加筆修正部分:青文字


 【質問】
 TV番組「大奥」で、キリスト教徒迫害の理由について、宣教師たちが日本をヨーロッパの植民地にしようとしているから、とかいうような話をしていたけど、本当ですか?

 【回答】
 キリスト教徒追放は,次のような経緯によるものです.

 秀吉は天正15(1587)年に、いわゆる伴天連(バテレン、宣教師)追放令を九州平定後の博多で発布しています。
 この法令は、キリスト教を邪宗とし、宣教師の20日以内の国外退去を命じたものです。
 「日本は神国たる処」、「神社仏閣」を破却し、「日域之仏法を相破」る様な真似をして、「天下よりの御法渡」にも従わない。よって追放する。
 しかし、商売人でなくとも、「仏法のさまたげを成ささる輩」は渡航を許可する、といった主旨のものです。
 「神国」とは仏の垂迹した神々の国の意。
 これは幾分観念的ですが、他にも切支丹への強制的改宗・高位の人物の改宗の制限、海外への日本人の売却の禁止、牛馬の屠殺禁止の盛り込まれたものもあります。

 出された背景の一つとして、大村純忠が天正8(1580)年に長崎を教会に寄進していたことがあります。
 パレード達が信者を扇動して神社・仏閣を破壊し土地を占有していることを秀吉は好まなかったのでしょう。

 しかし、貿易を奨励しているので、この追放令は緩やかなものでした。
 この時、キリスト教の信仰を捨てなかった播磨明石城主高山右近は領地を取り上げられましたが、一般人の信仰は「その者の心次第」として禁じませんでした。

 同時に,秀吉は宣教師に,海外に売られた日本人を直ちに帰国させるよう命じており、まだ日本の港にいる日本人奴隷は買い戻すよう命じています。
(秀吉は、日本人が人身売買に関わっていることも認識しており、そうした仲介人や船主を磔刑としています)

 天文年間、弘治年間頃から主に九州の日本人、特に女性が売買の対象となっていました。
 弘治元年十月(1555年11月)、マカオの宣教師カルネイロは、多くの日本人がポルトガル商人に買われ、マカオに輸出されていると手紙に記していますが、彼ら宣教師は人身売買を、日本への布教を妨げると判断し、それを受けたポルトガル国王は、元亀元年三月六日(1570年3月12日)、ポルトガル人が日本人の売買に関わることを禁止しました。
 合わせて日本人奴隷の解放と、それに反する者の全財産を没収することが決まりました。
 しかし、一部の宣教師が人身売買に反対しても、イエズス会自体が人身売買を許可しており、国王の発布した法であっても拘束力は弱く、その後も日本人の売買は続いています。
 イエズス会が禁令を出したのは、慶長年間になってからです。
 慶長元年、イエズス会は奴隷商人への破門を議決。
 慶長二年四月、インド副王はポルトガル国王名で、日本人奴隷の売買、日本刀の輸出を禁じました。
 このようにイエズス会も日本人売買禁止令を出しますが、従うポルトガル人は少なかったようです

 慶長元年(1596)、サン・フェリペ号が土佐沖で座礁。この船には三百名近い黒人奴隷が乗っていました。
 増田長盛は日本の慣習法により、サン・フェリペ号の積荷を接収しようとしましたが、船員はこれに激怒しスペインの領土が西洋からアメリカ大陸、アジアに及んでいると脅しました。
 これは長盛を恫喝するためでしたが、この時船員はさらに
「布教によって内部に味方を作る戦略が領土拡大につながった」
と告げたのです。
 フィリピン総督もサン・フェリペ号の積荷接収に抗議しましたが、秀吉は
「貴国は布教によって他国を制圧していると聞く。
 日本人が貴国で神道を説こうならば貴国の王は喜びはすまい。これを考えろ。
 サン・フェリペ号の積荷は返そうとしたが、伴天連追放令に違反しているために接収した。
 この判断に誤りはあるまい。
 貴国において貴国の法に従わない日本人がいるならば、それは大いに裁いてもらって結構である」
と言い放ちました。

 徳川政権下で出された伴天連追放文は、秀吉による追放令より厳しいものになっています。
 英・蘭両国人の渡来もあり、侵略的意思がはっきり示された為でしょう。
 なお17世紀にインドを訪れたフランス人医師ベルニエは、ポルトガル人が侵略的行為によって追放された国の中に日本を挙げています。
 他に、東南アジア・インドにもペグー他ポルトガル人を追放した国がありました。

(山野野衾 ◆a/lHDs2vKA 他 in 日本史板)

+

 実際,日本での当時のキリスト教布教には,半強制的な布教,寺社破壊など問題も多く,また,当時のイエズス会副管長コエリョは,長崎をマカオやマニラのような植民地拠点にしようという野望を持っていたそうです.

 以下引用.

[quote]

■2.キリシタン大名・有馬晴信■

 そもそも島原の地の旧主・有馬晴信がキリシタンに改宗したのは,現実的な理由であった.近隣を支配する強大な龍造寺隆信に対抗するために,キリシタン大名の大友純忠と同盟する事を決意し,そのために改宗を願い出た,とルイス・フロイスは『日本史』に記している.

 洗礼の意思はイエズス会から派遣されていた巡察使ヴァリニャーノに伝えられ,晴信は領内の寺社を破壊し,領民を改宗させるという約束の上で,洗礼を受けた.
 ヴァリニャーノは晴信に兵糧と鉛,硝石などの軍事物資を提供して,支援を行った.

 晴信は約束通り,領民たちに宣教師の説教を聞くことを要求し,どうしてもデウスの教えを理解しようとしない者は領国から出て行くように命じた.

 晴信の庇護のもとで,宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊し,仏教徒の目の前で放火したりした.またキリシタンと僧侶の間に争いが起きると,晴信は僧侶を処刑すると脅し,財産を没収した.領民はこれを聞いて震え上がり,たちまち千人を超える人々が改宗したという.

 晴信は宣教師の求めに応じて,領民から少年少女を取り上げ,インド副王に奴隷として送る,ということまでしている.

■3.持ち込まれた悪習■

 こうした仏教・神道迫害は,他のキリシタン大名の領地でも広く行われた.そのために天正15(1587)年,豊臣秀吉は伴天連(バテレン)追放令を出した.
 その理由は,第一に宣教師による信仰の強制,第二にキリシタンによる寺社の破壊と僧侶への迫害,第三に宣教師たちの牛馬の肉食,第四にポルトガル人による奴隷売買であった.

 日本の在来信仰では,領主が権力や武力を用いて,特定の信仰を領民に強制するようなことはなかった.
 最初に来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは,いちはやくこの点に注目し,日本では男女共に「各人が自分の意思に従って」宗派を選ぶのであり,「誰に対してもある宗派から他の宗派に改宗するように強要することはしません」と報告している.
[1,p207]

 同時期のヨーロッパでは,1618年から1648年まで,ドイツを舞台にして周辺諸国を巻きこんでプロテスタントとカソリックが戦った「30年戦争」が起こった.いわゆる宗教戦争の最大のもので,戦場になった地域では敵宗派の住民の虐殺,暴行略奪,住居の破壊などで人口の30パーセントから90パーセントが失われたという.
 こうした悲惨な経験から,ヨーロッパでは,信教の自由と政教分離といった近代的概念が成立していくのだが,ザビエルの観察に見られるように,これらはすでに当時の日本社会では実質的には実現されていたものであった.

 また,有馬晴信,大村純忠,大友宗麟らキリシタン大名が竜蔵寺や島津との戦争で窮地に陥った時,副管区長コエリョは秀吉に遠征を進言し,そうすればキリシタン領主等を全員結束して,秀吉の味方につけることを約束した.
 秀吉はこの発言から,イエズス会がキリシタン大名を糾合して,日本の支配者になろうとしているのかもしれない,という警戒を抱いた.
 実際にコエリョは長崎をマカオやマニラのような植民地拠点にしようという野望を持っていた.[a]
 キリシタン宣教師らは,権力者による信仰の強制,宗教を戦争に利用するというヨーロッパ中世の悪習を日本に持ち込んだのである.

 徳川幕府も慶長18(1614)年,禁教令を出して,「キリシタンの徒党」を追放することを宣言した.
 その理由は,
第一に日本で「邪教」を弘めて日本の国を自分たちの手で領有することを企んでいることであり,
第二に「神国・仏国」日本の信仰,道徳,法に反し,罪人を崇めるような非道の行いをしていることであった.「非道の行い」とは,僧侶・神官への迫害や寺社の破壊を指すのであろう.

 有馬晴信の子・直純はこの2年前の慶長16(1612)年から宣教師に領内からの立ち退きを命じ,教会を破壊した.
 やがて直純は日向に転封され,大半の家臣を引き連れて移住したが,一部に牢人となって残ったキリシタンがいた.

[/quote]

【ロシア政治経済ジャーナル】,7 Mar 2006
参考文献と推定される書籍:神田千里著『島原の乱』,中公新書,H17


 【質問】
 結局,日本でキリスト教が普及しなかったのは,キリシタン弾圧のせい?

 【回答】
 要因の一つではあります.

 まず,日本の場合,公認の宗教として神道と習合した仏教が存在し,土俗の信仰も,仏教+神道の枠組みの中に収まるため,特に新しい宗教が必要とされたわけではないこと.
 江戸初期のキリシタン弾圧と禁教の体験から,忌避感があったこと.
 明治以降のキリスト教が士族やインテリ層を中心に広まったため,土俗的信仰を容認せず,また現世利益を否定する傾向が強かったため,民衆の感情に訴えるところが少なかったこと,などです.

 韓国と比較すると分かり易いかと.
 朝鮮について言えば,李氏朝鮮では儒教が保護され,仏教は弾圧されていたこと.
 儒教が民衆救済の宗教としては機能しないことから,新しい宗教が求められていたこと.
朝鮮でのキリスト教は現世利益も肯定するような土俗的で大衆的な内容であったこと
……などが朝鮮でのキリスト教の普及に繋がったというのもあるでしょう.

 これらのような要素が日本にももしあれば,日本でもキリスト教は大ブレイクしていたことでしょう.
 そうなっていれば,ドイツのようなキリスト教民主連合という政党が日本にもあって,自公連立政権ではなく,自基連立政権なんてものがあったかも.
 あと,靖国神社の代わりに靖国教会とか.
 ローマ法王庁13課の日本支部があったりとか.
 HENTAI漫画家の大粛清とか.

世界史板・改


 【質問】
 秀吉によって転封された徳川家康は,関東運営をどのように着手していったのか?

 【回答】
 まずは交通整備から.

***

 半村良氏の作品に,「江戸打入り」と言う佳作があります.
 足助の鈴木家で最後に残った本家の跡取り息子を死なせたくないばかりに,親戚の鈴木家に作事掛として従軍した若者が,方々で機転を利かせ,ある時は秀吉が通る大井川の橋を建設する大工の棟梁を暗殺から救ったり,家康の愛妾の着物を守っているうちに,本多正信に目を掛けられ,鈴木家が属している松平家を通じて足軽に取り立てられ,小田原合戦でも,北条や秀吉を相手に重要でしかも地道な活躍をすることで,終には江戸で本多正信の内証を仰せつかる様になり,母親や嫂,姉らも,ひょんな切っ掛けで家康の愛妾と縁があって,彼女の着物仕立てを扱うようになり,これから江戸で逞しく生きていこうと言う,足軽出世物語です.
 本当は,此の後の主人公の江戸での活躍が楽しみだったのですが.

 1590年8月1日,家康は秀吉から関東転封を命じられ,江戸を拠点に定めます.
 当時の江戸は大名の城の態を為しておらず,城の近くまで入江が入り込み,平山城を中心として周辺に家臣の屋敷や町人町を配する様な近世城下町を築くには余りにも手狭でした.
 今の皇居外苑,日比谷公園,西新橋,浜松町の当たりには日比谷入江が広がり,東側には江戸前島とか外島と呼ばれる砂洲が拡がっていました.
 神田川は古くは平川と呼ばれ,江戸城と江戸前島の間を流れて日比谷入江に注ぎ込んでいました.

 先ず江戸を整備するに当たり,輸送路を確保することになります.
 具体的には江戸湊の整備,道三堀の開削などが行われ,これにより水上交通を確保し,陸上交通では,奥州道と東海道の整備が行われました.
 これに伴い,真っ先に整備された橋が千住大橋で,1594年に初めて架けられたとされています.
 つまり徳川家の関東経営には,東北との道路交通整備が最優先されたことになります.

 陸上輸送路を確保した徳川家は,続いて海上輸送路の確保,更に宅地造成に取りかかります.
 先ずは日本橋川の途中,一石橋から大手門方向へ先述の道三堀を開削しました.
 この堀を通じて,城普請に必要な物資が陸揚げされ,堀端には木材の浜が開かれ,掘留近くに幕府の蔵地,所謂「和田倉」が設けられました.
 大手門からは道三堀の北側に沿って東行するルートを整備し,平川には常盤橋を架けます.

 橋の東側には町割された町が設けられ,メインストリートの本町が整備されます.

 因みに当初,この常盤橋には名前が無く,単に大橋と呼ばれていただけですが,他に浅草方面に通じていたことから,浅草口橋とも言われていました.
 架けられたのは千住大橋よりも早いとされています.

 当時は戦国の遺風が未だ残っている時代.
 橋の上には刀を売り買いする市が立ち,その見分のために刀を抜く事も多かったため,凄まじく荒んだ雰囲気だったそうです.
 1593年にはその大橋の上で果たし合いまで有り,この試合で大男が負けたことや,この刀市ではまがい物を売りつけられる事も多かったことから,インチキなものと同義の言葉で,「大橋もの」という言葉も生まれました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月13日21:02

 1600年,多摩川に六郷橋が架けられました.
 これは関ヶ原合戦の直前の事.
 良く,江戸幕府は橋を建設するのに消極的であると言う話が為されていますが,家康としては,江戸の防衛よりも,東西間の物資輸送の強化を優先したと言う事が言えます.

 関ヶ原合戦で勝利した家康は,1601年,戦国期の宿駅を中心にして東海道に各駅を設定し,各駅には伝馬朱印と定書を下すと共に,伝馬36疋を常備し,伝馬手形を持つものにはその所有を認めました.
 その代償として,1疋につき居屋敷30坪乃至80坪を与え,其の分の地子が免除されました.
 これは後の東海道五十三次の大半を占め,其の後,中山道にも同じ様な公的輸送制度が整えられていきます.

 さて,日本橋の架橋は定かではありませんが,1604年2月に,日本橋を起点に,東海道,中山道,日光街道,奥州街道,甲州街道と言う所謂五街道のルートが定められ,一里塚が設置されていますので,その前年,1603年に架けられたと言うのが有力な説です.

 1603年3月から,中国筋と四国の大名に対し,千石夫と言われた御手伝普請が行われました.
 これは,石高千石につき10名の人足を動員するもので,この時に,神田山から土を削って日比谷入江など30余町に渡る埋立が行われ,今の洲崎辺りの土地造成が大規模に行われました.
 また,江戸前島の沿岸部には埠頭が櫛比する江戸湊が整備され,江戸城外郭の外堀が造られています.
 これらの施設は,江戸城建設の為の資材輸送施設の整備となるもので,江戸前島と言う新たな造成地を南北に貫く様に東海道が付け替えられ,江戸の南北軸を確定しました.

 1604年6月からは西国外様大名28家を中心とする江戸城の手伝普請が発令され,先ず,伊豆の石切場で石を切り出し,船で江戸湊まで運び込みました.
 この運搬船は全部で3000艘と言われ,これらの運搬船が月二回のペースで往復しました.
 こうして石が貯めこまれ,城は1606年春から本格的に構築が開始されます.
 この時,天守台の石垣,本丸御殿の造営の他,城の東南方面の外曲輪,雉子橋から溜池辺りまでの堀が造られました.

 1607年からは東国大名家を中心とする手伝普請が発令され,天守を建設し,曲輪の石垣が増強されることになり,内堀,外堀の外郭が整えられると共に,大名屋敷地の割当が行われました.
 内堀には本丸を防禦する為,大手土橋を始めとする土橋(表面に土を覆いかけた橋)が造られ,これらの橋は強固な門や桝形で固められていました.
 更に,本丸北側,後の紅葉山下門橋には刎橋が設けられています.
 対して外堀の橋は貧弱で,桝形は整備されておらず,木橋が何カ所かに渡って架けられていました.
但し,東北方面の奥州街道の起点である浅草橋(後の常盤橋)と神田方面の玄関口である神田橋の内側には防御施設が整えられています.

これら手伝普請は1614年に一旦中断(豊臣氏との戦争準備の為)され,其の後も家康の死去などがあって,休止状態だったのですが,1619年から再開されました.

 それに先立つ1616年からは,平川付け替えに着手され,神田台地を掘り割って平川の流路を小石川からお茶の水方向に切り通し,現在の神田川と同じ流路が造られます.
 これで江戸城外郭の範囲が拡張される事になります.
 この工事の目的は,家康の死去に伴い,駿府に居住していた家康の家臣団を,将軍家に組み込む必要があった為,その住居地を造成する事にありました.
 こうして,神田台地の先端部が整えられて駿河台が開かれ,この時発生した土砂を以て,湾岸部の更に広い範囲の埋立が行われました.

 其の後,神田川は1620年と1660年に拡張工事が行われ,従来の平川は掘留となり,江戸の洪水への脅威は薄らぎます.
 ただ,新たに流域となった地区では後々まで鉄砲水に悩まされることになりますが….

 1629年,家光の将軍家就任に伴い,将軍の威光を示す為に,全国の大名家を総動員した大々的な工事が行われることになりました.
 この工事により,従来木橋だった外堀の橋が整備され,雉子橋,一ツ橋,大炊殿橋(神田橋),大橋(常盤橋),後藤橋(呉服橋),かぢ橋(鍛冶橋),無名の橋(後の数寄屋橋)など多くの橋が造られたほか,外堀に沿って高い石垣や城門,桝形が整備され,防衛力が強化されています.

 また,新たに開削された神田川には,浅草橋,いづみ殿橋(和泉橋)の他,後の筋違橋と昌平橋の原型が架けられていますが,浅草橋にある浅草門や筋違橋にある筋違門は未だ設けられていません.
 更に江戸前島の整備が進み,かつて江戸湊の最前線であった楓川や三十間堀は運河となって,連絡の為に多くの橋が架けられる様になります.
 日本橋川からは更に北方向へ伊勢町堀,東掘留川や浜町堀が整備され,周辺地域は商業地,武家地としての利用が進められていきます.
 東海道には,中橋,京橋,新橋と,堀川に架けられた橋を次々渡って南下する形となります.

 楓川に多くの橋が架けられ,陸上交通が頻繁になるにつれて,船の為の桁下空間の確保(つまり,反りを入れる)が難しくなり,結果として,大型船の着岸は江戸湊から,八丁堀や霊岸島と言った岸壁が大型船の荷揚げ場に変わっていきました.

 1636〜1639年はこうした江戸形成工事の最終段階として,外郭工事が行われ,北から西へは,小石川,牛込,市ヶ谷,四ッ谷に桝形と門が設けられ,南方向には虎ノ門と幸橋門が完成しました.
 これらの殆どには水位調節機能を兼ねた土橋が併設されています.
 神田川では,越前松平氏によって1636年に浅草橋の内側に御門が建設され,筋違橋の城側には加賀前田氏によって同じ年に桝形石垣が構築され,1639年に筋違門が普請奉行の手によって建設されました.
 これで,江戸城の防衛線が確立したことになります.

 因みに,重要な橋には格式を示す為の擬宝珠が取付けられていました.
 これらは江戸初期の鋳物師の一族である椎名伊予家によって製作されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月15日21:46

▼ 江戸前島を貫通する外濠ですが,これは鈴木理生氏は,開幕後の天下普請における日比谷入江埋め立て時に作られたものとしています.
しかし,開幕前の図とされる「別本慶長江戸図」には外濠が書き込まれており,平河移設時に開削された可能性があります.

HI in FAQ BBS


 【質問】
 なぜ秀吉は関白職を引退したあと,大坂城を居城にしなかったのでしょう?
 わざわざ伏見城を(二度も)作らなくても,大坂城という立派な城があったのに.

 【回答】
 聚楽第は秀次に与え,
淀城は淀君のに与え,
大坂城は秀頼に与えたので.

 大阪人は,大坂城を「太閤はんの城」と思ってるけど,実際には秀吉の数ある持ち城のひとつにすぎないんだよね.
 関白時代は聚楽第,太閤になってからは伏見城が本拠地だし,大坂にいた時代なんて実際はほんの一時期.
 秀吉死後の秀頼の居城ではあっても,豊臣政権の本拠地とはいえない.

日本史板


◆◆文禄・慶長の役以降


 【質問】
 文禄の役、慶長の役は,最終的に朝鮮を征服、あるいは属国化できなかったんだから,日本の負けだろ?

 【回答】
 間違い。
 文禄の役、慶長の役の戦略目標は、明への攻撃であって、朝鮮の征服、属国化では無い。
 朝鮮はただ通り道にされただけだったのだが、明の属国としては,日本軍を何もせずに通す訳にもいかず攻撃した.
 戦力の過半は明からの援軍であり、実態は戦闘が朝鮮半島で行われた日明戦争だった訳。

軍事板

 【質問】
 それにしては,当時の明海軍の活動は聞かないが?
 海上補給路を絶つなんて,ちょっと気の利いた将軍なら誰でも思いつきそうなもんだが.

 【回答】
 陸続きの半島が戦場だから海軍は出なくてもいいじゃないか.
 戦闘の惨禍にあうのはしょせん植民地で,本国じゃないしさ.
 それに、朝鮮での略奪暴行のほとんどは実は明兵の仕業だったりするから、略奪品を海軍とわけあいたくはなかったろう.

 そしてまた,現地での略奪調達方式しか頭になかった明軍には,日本軍が食糧のほとんどを日本から海路運んでいるなんて信じられなかったのさ(笑).
 って、おれも旧日本陸軍の「朝鮮戦役」で初めて知ったんだけどな

 だいたい,基地が無い罠。
 当時の軍船は手漕ぎか帆走だって忘れていない?
 中国本土から出撃して対馬海峡で戦闘するのは大変で効率が悪い。
 李瞬臣がやったゲリラ戦が出来る訳も無いだろう。

軍事板


 【質問】
 韓国に古い書物や建物がないのは,豊臣秀吉の侵攻のせいなのか?

 【回答】
 井沢元彦によれば,それは「秀吉がいわゆる朝鮮出兵において,多くの建物や文化財を焼き払ったことは事実だが,全て秀吉のせいではない」という.

 疑り深い人のために,直接韓国側の資料を引いておこう.
「いっぽう,朝鮮国王が都落ちした後,漢城府は極度の混乱に陥った.
 再び『李朝実録』に目を向けよう.
 都城の宮省火(焼)く.車駕将(まさ)に都中を出(い)でんとするに,姦民の先ず内帑庫(ないどこ)(内帑は国王の費用)に入り,争いて宝物を取る者有り.已に駕出ず.乱民大いに起こり,先ず掌隷院・刑曹を焚く.二局の公私奴婢の文籍在る所を以ってなり.(「宣祖修正実録」宣祖25年4月晦日)」
(「朝鮮日々記・高麗日記 秀吉の朝鮮侵略とその歴史的告発」北島万次著 そしえて行)

 この本に書かれている通り,朝鮮の宣祖王は国民を見捨てて王宮を放り出して逃亡したのである.
 そこでかねてから王の暴政に悩まされていた朝鮮民衆は,その無責任さに激怒し,王宮に乱入し,略奪した後に放火したのだ.
 「掌隷院・刑曹」というのは文中にもある通り,朝鮮の非人道的な身分差別を管理する戸籍の保管所だ.
 いわば悪政の象徴であり,だからこそ真っ先に狙われたのだ.

( from SAPIO 2003/10/22号,小学館,p.90-91)


 【質問】
 亀甲船とは?

 【回答】
 亀甲船と言うのは,戦国シミュレーション小説にも良く出て来る訳ですが,大抵は,スマートなボート型の船体に,上面は蓋をして,其処に鉄の槍の穂先が多数刺さっているような図が描かれています.
 世界中の博物館に,韓国人や朝鮮人が寄贈したと言われる亀甲船が展示されていますが,それはどれも想像の域を超えない代物です.

 中には,亀甲船は,
「世界最初の装甲船である」
とか,
「世界最初の潜水艦だ」
などと言う与太話の類まであったりします.
 亀甲船潜水艦説は第一次大戦直後に出回った話みたいですが,潜水艦という奇襲兵器が,当時植民地支配下にあった朝鮮人民の願望として,英雄李舜臣と結びついたものと考えられます.

 実際の亀船はどうだったのか,と言えば,韓船の正統発達型とも言うべきものです.

 日本の水軍は接近戦闘を主として用います.
 倭寇の時分は,海上で迎撃した場合でも接舷して,敵船に移乗し,相手の船上で刀を振るって戦った訳です.
 流石に戦国期になると銃撃も行いますが,砲撃はなかなか発達しませんでした.

 一方,迎え撃つ朝鮮は,弓術が主でした.
 つまり,距離を取った間接戦闘を多用した訳です.
 其の後,火器が中国から伝わると,火器を用いた戦闘方法を開発し,更に砲の発達を促す事になります.

 高麗時代に倭寇が朝鮮半島を繰り返し侵攻しますが,この迎撃に高麗が失敗したのは,敵の得意な接近戦闘に乗ってしまったためです.
 即ち,陸上での迎撃を行おうとして,かえって彼らの得意技に誘い込まれ,そして壊滅した訳.
 20年程そうした敗北を繰り返した末,高麗の軍人達は,倭寇との直接戦闘を徹底的に避けて,海戦で水際にて迎撃,即ち,弓術や火器の間接戦闘で敵船を沈める方法で,勝利を収めています.

 この戦いの中から,高麗時代には,「剣船」と言う特殊軍船が造られました.
 これは直接戦闘が行えないように,船の舷側に錐刀を隙間無く植え込み,倭寇が刀を引き抜いて舷側を攀じ上ってこられないようにした武装船です.
 この船は,倭寇の侵攻時に防御用に用いられ,彼らの侵攻を防ぐ為に,浦口に配置して示威行動をさせたり,鴨緑江を渡って襲撃する盗賊撃退の為に,平安監司が剣船を要地に配備すべしと建議した記録も残っています.
 この剣船があった為に,亀船の蓋板に剣先が植え込まれていたと言う話が生まれた可能性があります.

 ところで朝鮮初期の水軍は,大船,中大船,中船,兵船,快船,孟船,中猛船,別船,無軍船,船,倭別船,追倭別船,追倭別猛船と言う区分に大別されました.
 このうち,大船,中大船,中船は,主力軍艦です.

 倭寇は10名程度の小さな船で襲来するのが常で,その迎撃には大きな船は余り必要有りません.
 とは言え,人数で上回らないといけませんから,30名程度が乗る船が水軍の主力船となりました.
 これが中船です.

 大船は,司令官が坐乗して艦隊を指揮する為の船で,乗員は80名程度,大きさも一番大きなものになっていますが,地域によっては余り大きな船は取り回しが悪く,中船よりは大きく,とは言え,大船よりは小さな船が必要でした.
 結果,生まれたのが中大船です.
 中大船は,乗員50〜60名程度です.

 快船は中船より小さく,しかし速力の大きな快速船で,10名位が乗り組んでいます.
 これは主に,首都近辺の防衛用に配備されていました.
 整備単価も安いので,倭寇が落ち着いた時期には,これを中船の代りに主力にする動きもありましたが,小さすぎて,波の荒い場所では機動性が悪い為,転換は行われませんでした.

 無軍船は予備兵力で,一種のモスボール艦船と言えます.
 倭寇がなりを潜めた後は,一気に其の数を増しています.

 別船は,中船と同じくらいの大きさの艦船ですが,中船は火器を搭載しているのに対し,別船は弓を主力とした船で,乗員は25名程度.
 よって,中船に比べると若干戦力が落ちる船です.

 その他の孟船,中猛船,別船,船,倭別船,追倭別船,追倭別猛船などは特殊軍船と言えます.
 船は,民間船を徴用した特設艦船です.
 中猛船は,中大船に櫓を増設し,速力を出せるようにした指揮船で,孟船は,中猛船に準じる軍船を指します.
 倭別船は,鹵獲したか,購入したかした日本船で,見本用か演習用とされています.
 最後の二種類,追倭別船,追倭別猛船は,倭寇追撃用の快速船とされていますが,普通の快速船でないことは確かで,剣船は別にある事から,それでも無い事は確かです.
 では,この二種類の船は何なのか,と言う事ですが,追倭別船は数が少なく,追倭別孟船の方が数が多い事から,前者が亀船の原型ではないか,と考えられています.

 因みに,朝鮮初期と言うのは大体壬辰倭乱より180年程前に当たります.

 これらの複雑な特殊船群は,倭寇が完全に鎮圧された15世紀中頃には整理され,1470年代には大猛船,中猛船,小孟船が記録されるだけになっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月03日22:42

 李氏朝鮮後期,幾ら軍が蔑ろにされたとは言え,未だに日本などの脅威に備え,軍船は全国に776隻存在していました.
 これらは各道に配置されていましたが,戦船,防船,兵船,伺候船の4種類は全体の86%,672隻を占め,全国に満遍なく配置しています.

 戦船は,先日の日記でも触れた板屋船を改名したもので,実質上の戦列艦に当たります.
 これが京畿道に4隻,忠清道に9隻,慶尚道に55隻,全羅道に47隻,黄海道に2隻,平安道に0隻の合計117隻.

 防船は,板屋船の様な2層の上部構造物は作らず,普通の甲板上の両舷端に防牌板を立て,兵士が体を隠せるようにした中型軍船で,干満の差が大きく,水深の浅い西海岸地方で戦船の代りに使われ,戦船と共に巡洋艦的な役割を果たしました.
 これが京畿道に10隻,忠清道に21隻,慶尚道に2隻,全羅道に11隻,黄海道に26隻,平安道に6隻の合計76隻.

 兵船は大型軍船に1隻ずつ付添う従船で,軽武装した軍船であり,駆逐艦とか哨戒艇的存在です.
 平時には哨戒巡察に使われています.
 これが京畿道に10隻,忠清道に20隻,慶尚道に66隻,全羅道に51隻,黄海道に9隻,平安道に5隻の合計161隻.

 伺候船は,戦船,亀船,防船,兵船などに1隻ずつ付属する非武装小型船で,偵察とか連絡などの雑用に使用されました.
 これが京畿道に16隻,忠清道に41隻,慶尚道に143隻,全羅道に101隻,黄海道に5隻,平安道に12隻の合計318隻.

 水軍の体制は,各道には水営が置かれ,更に其の下に各邑鎮が置かれています.
 各邑鎮には,戦船1隻,兵船1隻,伺候船2隻の4隻体制が最も多く,戦船の代りに防船を置く場合や,少し規模の大きい邑鎮では,戦船1隻,防船1隻,兵船2隻,伺候船3〜4隻と言う場合もありました.

 朝鮮水軍と言えば,秀吉の唐入りの時に出現した亀甲船が有名ですが,壬申倭乱の際には,活用された亀船(亀甲船)は3隻だけで,艦隊の先鋒に立って,敵船団の真っ只中に突入し,敵を混乱させ,戦船の攻撃を容易にする戦法が採られています.

 従って,1600年代を通じても,慶尚左道,右道,全羅左道,右道,忠清道に各1隻の4隻しかありませんでした.
 要は艦隊毎に整備された訳です.
 しかし,1740年代になると其の数は増やされ,慶尚左道6隻,右道3隻,全羅左道2隻,右道1隻,忠清道1隻,京畿道1隻の計14隻となります.
 更に1780年代には更に増え,慶尚左道14隻,右道3隻,全羅左道10隻,右道7隻,忠清道5隻,京畿道1隻の計40隻となり,これがピークでした.

 これは当時の海防体制が変化した為です.
 朝鮮後期の海防体制は,三道水軍統制使を頂点に,全羅左水営を前営,慶尚左水営を左営,慶尚右水営を中営,全羅右水営を右営,忠清水営を後営とする五営体制となり,各水営は,前司,左司,中司,右司,後司の五司に,各司は前哨,左哨,中哨,右哨,後哨に組織されていました.
 各営の営将は,各道の水使であり,各司では僉使,或は虞候が把ハとなり,各哨では萬戸,各邑の守令が哨官となっていました.

 従来は各営が使用してするだけだった亀船が,各司でも前哨基地に置いて,これを突入艦として使用する事になった為,最低30隻は必要となり,重点海域では2隻配備となった為,40隻としました.
 但し,戦船と亀船を並行して配備するのではなく,戦船が配備されれば亀船は配備されず,亀船が配備されれば戦船は配備されないと言う関係になっています.
 つまり,亀船は戦船と同じ主力艦と見做された訳です.

 一方,これには政治的な動きもあります.
 亀船を配備させることで,朝鮮水軍の壬申倭乱に於ける栄光の歴史を想起させ,亀船を実際に運用させる事で,水軍の士気の高揚を図ろうとしたのが軍人向けの動き,また,亀船を配備する地区の住民に向けての宣伝と言う面もありました.
 更に,日本人町や日本人が出入りする浦口に亀船を係留しておく事で,彼らに対する無言の圧力を掛けるという面も無視できません.
 特に慶尚道に重点配備したのは,そう言う意味もあったりします.

 しかし,朝鮮通信使の来航などで日朝関係が改善され出すと,朝鮮の日本に対する警戒感は若干薄れてきます.
 こうなってくると,わざわざ各地に亀船を配置して,臨戦態勢を維持する必要はなくなります.
 また,各道の水軍は,毎年1回ずつ春操或は合操と呼ばれる連合艦隊を組んで,統制使指揮の下で大演習を行わないといけませんでしたが,次第に秋操または分操と呼ばれる各道水営の演習が重要視され,春操は余り行われなくなります.
 なお,流石に春操でも,三道各水営の戦船が1カ所に集結して行う,三道船師都分軍と呼ばれるものは数十年に1度あるかないかと言うものでした.

 こうして各道の水軍が,全国防衛から地域防衛に軸足を置くようになると,1800年代初頭には亀船の数は30隻に減り,1810年代後期には自然減に伴う補充が為されず,18隻にまで減ってしまいました.

 まぁ,それでも19世紀になっても亀船はしぶとく生き続けていた訳ですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月28日21:46

 亀船の全長は110尺になります.
 この全長は,底板の長さ64尺8寸を含み,これに,船首材投影長10尺,船尾材投影長15尺2寸を含めると,合計で上粧長は90尺になり,残り20尺が尾部長になります.
 亀船の底板は10枚の厚い板で構成されています.

 船幅は,船体の幅と上粧の幅があります.
 上粧と船体幅の差は片側で3尺,両側で6尺ありますが,最低でも2尺7寸の幅があれば,櫓役するのに十分なスペースを得られるので,船体幅は26尺,それに6尺加えて上粧幅は32尺になります.
 と言っても,自然木の利用ですから,幅には若干の誤差があるでしょうから,船体幅は24〜28尺,上粧幅は30〜34尺くらいはあるかもしれません.
 平底船では復元性能に問題がありますが,そもそも東アジアの船は沿岸航法ですから,少々の復元性能の低下はさほど問題になりません.

 高さは外板を7枚貼り合わせて構成する訳ですが,その高さは固着時7尺5寸,防牌板の高さが4尺3寸になり,櫓を出す上粧と船体の隙間を1尺として,船体の高さを8尺5寸,上粧の高さが11〜13尺になりますから,全体の高さは19尺5寸〜21尺5寸.
 上粧内部に部分甲板を設置したら,更に5〜7尺ほど高くなります.

 因みに1尺と言っても,周尺(曲尺の4分の3で,人間の身長を8尺とした),営造尺,布帛尺(布を国庫に収める場合に用いた尺)と様々にあるのですが,船舶の場合は営造尺になります.
 1営造尺は,30.65cmで,日本などで用いられている曲尺30.3cmよりも若干大きかったりします.
 他にも船税を徴収する為の量船尺としては把があり,1把は営造尺の5尺になります.

 重さの単位は,積載できる穀食の体積で表わし,その単位は石か斛です.
 これは朝鮮で最も使われていた斗よりも大きな単位ですが,斗は7寸×7寸×4寸(196立方寸)で,15斗が1小石または小斛,20となら1大石または大斛としていました.
 漕運船では,大石が重さの単位で,これを石と称していました.

 話が逸れましたが,先ほどの寸法をメートル法換算してみると,底板は19.9m,船体長27.6m,全長33.7m,船体幅は7.4〜8.6m,上粧幅は9.2〜10.4m,船体高さは2.3m,全高6〜6.6mとなり,船体長と船体幅(L/B比)は3.75〜3.22,船体幅と船体高さ(B/D比)は3.2〜3.73となります.
 でもって,総トン数を無理矢理計算すると,船体約105t,上粧部約180tの合計285総トンになります.
 これが板屋船(戦船)の場合では,船体は105t,上粧部122tの合計227総トンになり,亀船の方が若干大きい(と言っても,上粧分の容積が大きいだけですが)訳です.

 この大きさは安宅船よりは小さいですが,関船や小早舟よりは大きく,日本の水軍には十分に脅威だったのではないでしょうか.

 朝鮮時代の各種軍船の定員は,猛船では,大猛船が80名,中猛船で60名,小猛船で30名でしたが,板屋船は大型化して火砲を装備するようになり,定員は急増します.
 一般戦船だと164名,隊指令である各道水使搭乗船は178名,艦隊指揮艦である統営乗船だと30名追加で194名が乗り組んでいました.
 一方,亀船は148名ですが,これも隊司令船と艦隊指揮艦の亀船は定員が増えていました.
 また,偵探船は79名,兵船17名,伺候船が5名でした.

 内訳は,朝鮮後期では,艦長である船将の他,船の運航責任者である船直,帆柱操作要員である舞上,舵を取る舵工,操帆手である繚手,碇を扱う碇手が,戦船と亀船はそれぞれ2名,偵探船は1名.
 兵船と伺候船は,舵工が1名ずつ.
 弓の射手である射夫が,戦船は18名,亀船は14名,偵探船10名,一方,火薬を扱う火砲匠は,戦船は10名,亀船は8名,偵探船にはいません.
 そして,火砲を操作する砲手が戦船と亀船は24名ずつ,偵探船は16名,兵船は2名.
 100名を越える戦船と亀船には,船内治安対策と秩序維持の為に,左右捕盗将が2名ずつ配備されました.

 残りの定員が櫓を漕ぐ櫓軍で,戦船では100名が配備され,左右舷にあった各8本の櫓に配備されます.
 櫓1本には実際に櫓を漕ぐ格軍4名と指揮する長1名が割り当てられ,彼らは2名ずつ2組で普段は交代で漕ぎ,戦闘時は4名全員がその櫓を漕いで全力を出しました.
 勿論,倒れたり,死んだりするのがいるでしょうから,予備戦力として20名を保持して,欠員の出た櫓に配置する事になります.
 亀船の場合は,櫓軍は90名配備されています.
 同じく5名1組の体制ですが,各舷の櫓は9本,合計18本ですから,予備戦力無しで90名がフルに操櫓していた様です.

 なお,戦船でも亀船でも指揮船に当たる船は若干定員が増えています.
 艦隊指揮艦である統営上船は,射夫4名,火砲匠4名,砲手2名,櫓軍20名の30名で,統営上船は,他の戦船と違い,櫓の数が2組増えて機動性を増しています.
 また,戦隊指揮艦である各道水使船は,射夫2名,火砲匠2名,櫓軍10名の14名で,一般の戦船よりも,これも機動性を増す為に,櫓を1組増やしています.
 同様に,亀船も統営亀船と各道亀船は櫓が増えて,機動性を増しています.

 英国の駆逐艦の建造法に,第二次大戦前まで,指揮用の駆逐艦は他の同型駆逐艦よりも若干を大きく作る嚮導駆逐艦と言うものがあったのですが,正に朝鮮の軍船にも同じ様な思想が取入れられ,指揮の為に機動性を増していたのです.

 考えてみると,シャア専用のザク,ズゴック,ゲルググやムサイなども同じ思想だな,うん.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月07日21:49

「復原」された亀甲船
上述の文章によれば,この「復原」もただの空想の産物でしかないようだが

 【質問】
 韓船とは?

 【回答】
 西洋の木造船と違って,東洋の木造船には方形龍骨が無く,船の底は龍骨を底に置いている関係上,西洋の木造船はV字型を為す尖底型なのに対し,底の広い平底船です.
 また西洋の木造船は,船首部が尖った方形船首であるのに対し,船首部は平面的になっている.
 更に西洋の木造船には,肋骨を一定間隔に配置し,底に外板を固着しているのに,それが東洋船にはありません.

 東洋船はこの為,外板は上下の板を互いに固着する必要があります.
 中国のジャンクは,必要以上に隔壁を多くし,日本船では船梁を置いて船が横から押潰されるのを防ぎ,船体の仕切りとして利用しました.
 朝鮮半島の韓船でもこれは同じで,加龍木と言うものを置いています.

 韓船は平底船で,底板は平坦で船首材と船尾材も平坦な平面を形作り,肋骨の代りに加龍木あるいは長サ(ちゃんすぇ)と言う添え木が外板毎に設置された基本構造を持っています.

 船底には,角材を使って組立てた,厚くて平たい底板があります.
 その両側には,板を上に向けて順番に貼り付ける外板があり,外板の上端部には丈夫な頚木(梁)が載せてあり,其の下に両舷の外板材を一つ一つ互いに連結する梁・加龍木(長サ)が設置されています.
 船底の構造は韓船独特のもので,ジャンクの場合,底板の厚さは外板と同じであり,和船の場合は樹木一本から作った単材で分厚くないし,幅もそれほど広くないとか.

 また外板の張付け方も韓船独特のもので,下から上に相互に貼り合わせますが,ジャンクや和船は表面が平らで滑らかになる様に外板を貼り合わせるのが普通でした.

 頚木は,最上層外板である棟頭通し板を深く彫って堅固に羽目合わせ,其の両側の先端部分は船縁の外に飛び出す様にし,柱を建てて欄干を作るか,櫓杭を固定して櫓の支点にしていました.
 また頚木の上には,必要に応じて甲板(階屋)や木足を被せています.

 底板は66尺の角材11条を,38個の長槊(非常に長い四角断面の木釘)で組立て,外板は両舷に各々7個ずつ張付けており,船首部には耳杉(部分出来に貼った外板材)も用いていました.
 外板の厚さは一番下が5寸2分,以降徐々に薄くなり:,5番目の5杉の厚さは3寸4分になりますが,そこから上は再び厚みを増し,一番上の7杉は3寸7分になっています.
 なお,外板は杉とか杉板と呼ばれていますが,木の種類ではなく単なる呼称で,杉材が船材として用いられる様になったのは近代以降の事だそうです.

 船首材は,1個の曲木と6個の比牙の7材で作られていますが,他に柏の木15本で作られた事もあり,結構まちまちでした.
 軍船や政府船では,板を縦に貼って船首材にするのですが,民間船や輸送船では板を横に張付けるのが普通でした.

 船尾材は例外なく後に傾斜した平面で,角形船尾を構成しています.
 但し,その形や傾斜については各船毎に変化しています.
 船尾材は横に広い平面を造り,底板と外板に木釘で固定されています.

 これら底板,外板,船首材,船尾材を横から潰れない様に支える横部材には二種類のものがあり,梁の役を果たす駕木と隔壁の役割を果たす加龍木がその役割を担っています.

 駕木(頚木)は,最上層外板である棟頭通しを貫いて外舷に突き出すのが普通です.
 これは,甲板を船の幅から更に拡げるとか,板屋船や亀船と言った大型軍船の上部構造物をその上に造る為で,一般の船でも舷側に櫓を取付ける為に頚木を長くする事が多かったりします.
 上部構造物がなかったり簡略化された船であれば,頚木の数は非常に少ないです.
 中央付近の駕木については,駕木の下に外板材毎に加龍木を挿入しているものがありますが,外からは見えない様にしてあります.

 上部構造物は,舷欄(下桁),柱木(支柱),牌欄(上桁),牌板,上駕木,上下甲板と女檣,梁柱などで構成されており,これらは一般建築物の二階屋の様な空間を生み出し,板で屋を作っている事から,これらの船は板屋船と呼ばれていました.

 その建築方法は,下体の駕木両端に前後に長く舷欄を配置することから始まりますが,その際舷欄を下の船体より外側に張り出す様にします.
 次に舷欄に適当な間隔を置いて長さ5尺内外の柱木(支柱)を一様に建て,その上端に舷欄と並行に牌欄という長材を載せて固着します.
 舷欄を下桁,牌欄を上桁と為す訳です.
 そして,左右の牌欄に掛けて駕木を渡します.
 要は建築物で言う天井梁です.
 これで骨格を作った後,上下の駕木に甲板を敷き,四面の支柱に牌板を張付けます.
 これまた建築物に例えるなら,上下甲板が天井と床,牌板は壁ですな.

 上下甲板の敷き方には2通り有り,1つは板を横に敷くやりかた,もう1つは韓国式家屋の様に床板を貼るように敷く方法です.

 舷欄と牌欄の間には四面に柏の板壁が張付けてありますが,これは防牌の役割,つまり,装甲板みたいな役割を果たすものです.

 塗装としては,軍船なら龍とか鬼頭が描かれたりしています.

 最後の仕上げとして,上粧甲板を縁取るように女檣と言う欄干を立て,甲板上に司令塔となる高殿即ち将台を作ります.

 これで,韓船は完成です.

 韓船の大きな特徴は,船体全面に船体幅よりも広い上部構造物を持つ事で,これは櫓を漕ぐ人間達を上下甲板の間にある安全な場所に格納する為であり,これにより彼らは,恐怖心に打ち勝ち,櫓を漕ぐのに専念する事が出来た訳です.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月25日22:13

 【質問】
 亀船の戦法は?

 【回答】
 亀船の戦法は,撞破か焚滅の何れかでした.
 前者は体当たり,後者は火箭か火砲で焼き払う事でした.

 体当たりをするには,外板が分厚くなければ,逆に外板に穴を開けられる可能性があります.
 亀船の外板の厚さは4尺(12.26cm)ありました.
 これは大体,現代木船の2倍位の厚さとなります.

 一般に伝統的な韓船は外板の厚さが厚く,中には現代木船の3倍以上になる場合もあります.
 船の長さ方向の曲げに対して支える縦強度は,外板や甲板など船の皮殻を為す部材が受け持ち,船を横から押潰す作用に対して支える横強度は肋骨,隔壁が受け持つ訳ですが,韓船の場合は…と言うか,東洋船は一般的に,横強力部材が不充分で有る為,外板寸法を大きく採らねば成りません.
 また,東洋船は外板の長さ方向での継ぎ目,即ち上下の板が上手く合わず,隙間が出来て水が漏れる事が問題でした.
 外板の寸法を増せば,こうした水漏れを或程度防ぐ事が出来ます.

 更に,木製構造の船では,長く使用する為にそれなりのメンテナンスが必要となります.
 韓船の場合は,改槊と呼ばれる作業を行い,腐った板材や古くなった木釘を新しいものに全面的に交換する大修理を実施します.
 これは一定期間を於いて1隻の船に実施し,その度毎に補充する大木釘を打ち込むので,板材の厚さが厚い程,改槊を実施するのに便利になる訳です.

 ところが,東洋船としては例外的に,亀船や板屋船は上部に巨大な上粧を作る為に,駕木や加龍木が多く,13〜14本を用いています.
 また駕木の下には加龍木があるので,其の間隔は6尺程度です.
 つまり,横強度にしても,この駕木や加龍木で十分に保つ事が出来ていた訳です.
 韓船のこのクラスの船では,西洋船に比しても十分な強度を保っています.

 一方,対戦相手たる日本水軍の軍船の構造は,帆走より櫓で漕ぐ方に重点を置き,櫓で漕ぐ限りは韓船よりも速度を出せ,軽快に造られていました.

 和船の一般的な構造では,底に敷と言われる厚い底板を敷き,根棚(加敷),中棚,上棚の3枚の外板を張付け,上船梁,下船梁を左右舷外板に連結・固着し,船首部に方形船首材を取付け,船尾はトランサム桁で造った戸立造りになっています.
 底板は,少し分厚い広板1枚のみで,数枚の分厚い角材を敷き詰めて構成している韓船よりも狭く,外板は韓船が7枚の板を貼り合わせているのに対し,和船は3枚の幅広の板を組み合わせているだけ,船首材は,韓船が組立式平面か僅かに曲面となっているのに対し,和船は単材の方形船首材で造られています.
 横部材についても,韓船は外板の各層に連結固着した加龍木ですが,和船は左右を連結する数個の船梁だけです.

 でもって,帆走設備も,韓船は充実しているのに対し,和船は四角帆1枚のみで極めて初歩的な設備しかありません.

 よって,日本の船団に,韓船が飛び込んで,撞破するのも強ち愚策とは言えません.
 横方向に韓船の船首を打ち込んでしまえば,関船くらいの船なら簡単に穴が空いて,其処から浸水して撃沈されるか,無力化されてしまう可能性は高かったりします.

 板厚の問題は,材質の問題に起因しています.

 韓船は凡て松材で造られています.
 亀船も主要部分は松材で,偶に船首材に柏が使われた他,防牌板と舵の軸に柏が使われた程度です.
 朝鮮半島は,赤松,陸松が産出されていましたし,当局も木が良く生育している場所は,封山,松田に指定して,各道水使に厳格に管理させました.
 封山は,軍船用以外の伐採を一切禁止した養松林で,松田はそれに準じる場所です.
 朝鮮後期には,こうした封山は忠清道に73カ所,全羅道に142カ所,慶尚道に65カ所,黄海道に2カ所など282カ所に上り,松田は慶尚道に263カ所,咸鏡道に29カ所など292カ所あり,防牌板などに用いる松柏木の養松林である黄腸木封山も,全羅道に3カ所,慶尚道14カ所,江原道に43カ所など60カ所有りました.
 中国船ならば,杉や松,樟が使われ,和船は松の他,杉や檜と言った良質の船材が多数産出しましたが,朝鮮はそれしかなかったと言っても過言ではありません.

 しかし,機械的性質を見てみると,日本杉の比重は0.33〜0.41,屈曲強度300〜750kg/cm,日本檜の比重は0.34〜0.47,屈曲強度510〜850kg/cm,米松の比重は0.47,屈曲強度950kg/cmですが,朝鮮赤松は比重0.55〜0.73,屈曲強度526〜977kg/cmです.
 即ち,日本材や米国材に比べ,朝鮮赤松は硬度が最も高く,最も加工しにくい材料です.
 一方で,強度は米松よりも劣りますが,日本材よりは遙かに強いです.
 更に,節が多くて品質が一定ではないなどの欠点があるので,その欠点を補う為には,角材とか厚板で大まかな寸法を出して分厚く加工するしか有りません.

 日本材では,この点,硬度が低く,強度はありませんが,節なども少なく,材として品質の一定なものが得られる為,薄く製材して,曲げ加工などを施す事が出来た訳で.

 更に,亀船と戦船(板屋船)は,上粧が違うだけで,船体部分は全く同じ構造でした.
 即ち,上部構造物を覆ってしまえば亀船,二層の甲板を設ければ板屋船(戦船)になった訳で,建造の際には,このファミリー化で建造で線図を引き直す手間は省けますし,部材の加工を共通化する事でコストを下げる事も可能,また,艦艇の性能も或程度揃える事が可能です.

 この辺り,もしかしたら元寇で用意した軍船建造のKnow-howが蓄積されているのかも知れませんね.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月08日22:34

 【質問】
 亀船の兵装は?

 【回答】
 朝鮮の船の戦法は,体当たりの他に焼き討ちがありました.
 火薬が齎されるまでは,弓矢が主でしたが,火薬が高麗末期に齎されると,船には火砲が搭載されるようになります.
 その戦法は,倭寇との戦闘で発達していきます.

 政府は火薬の維持管理に神経を注ぎ,使用期限が来たような火薬は,真っ先に消費する様になっていました.
 王宮内では,火戯と言う火薬遊びが行われました.
 これは花火ではなく,所謂爆竹みたいなもので,様々な形の紙袋に火薬を入れて騒々しく爆発させると言うものです.
 これは古くなった火薬を消費すると共に,北方の国境を接する胡人や倭寇で屡々海岸線を犯す倭人に対する威嚇の意味もありました.

 高麗朝が倒れて朝鮮王朝になった際に,こうした火器への関心は一時的に薄れます.
 李氏朝鮮の太祖は易姓革命を成し遂げた人間として,火器を政敵に利用させたくなかったのもありますし,世祖も前の端祖を追い出して自らが王位に就いた事から,火器の使用には制限を加えていました.
 しかし,太宗,世宗,文宗と時代を下るに従って,火器は再び重要視されるようになりますが,倭寇の跳梁が下火になっていった事から,主に北方民族の侵入に備えた陸戦用火器としての開発が為され,これらの火器が,国境各地の城に配備されました.

 ただ,こうした陸戦用火器は,海戦に用いる様な砲ではなく,主に手持ちの小火器であるところが違います.

 ところが,16世紀に入ると再び倭寇が活発化し出します.
 これに対応する為に,再び陸戦用小火器から海戦用の砲が再製作され,韓船に搭載されるようになりました.

 そして鋳造されたのが,亀船にも搭載された天字砲,地字砲,玄字砲,黄字砲,勝字砲の5種類の砲です.

 一番口径の大きいのが天字砲で,口径13cm,外径28cm,全長130cmで重量は300kgもあります.
 次いで,全長88cm,口径10.3cm,外径15cm,重量200kgの地字砲で,柄は天字砲より小さいのですが,弾丸はさほど変わらない大きさのものを発射できました.
 玄字砲は,全長80.5cmと地字砲と同じ位の大きさですが,口径は5.7cm,外径12.6cmで重量59kgしかない軽砲です.
 黄字砲は更に口径が小さくなり,全長52cm,口径4.3cm,重量51kg.
 これらの砲は艦載時には童車と呼ばれる砲車に搭載されています.

 勝字砲は全長こそ56cmと黄字砲より大きいのですが,口径は2.2cmで,重量は10kg程度しかありません.
 要は手持ちで撃てる火砲で,勝字砲には砲弾ではなく,大将軍箭,将軍箭と言った矢を放つ為の銃筒でした.
 陸戦用の火器として,矢を発射する銃筒と言うものがあり,1本,4本,8本の矢を火薬で撃ち出すものでしたが,その転用ではないか,とされています.
 亀船の乗員の中に射夫と言うのがありますが,弓を射るのではなく,勝字砲を発射する射手というのが正しいのかも知れません.

 また,発射するものは,大口径砲である天字砲,地字砲では鉄や石の弾丸を発射し,玄字砲では弾丸と大将軍箭,黄字砲は大将軍箭のみ発射するものでした.
 勝字砲は大将軍箭もしくは将軍箭ですから,弾丸を発射する砲は意外に少なかったりします.
 壬申倭乱当時の亀船には,砲門が左右舷6個で合計12個,船首船尾に4個で合計は16個ですが,全羅左水営亀船には36個,統制営亀船に至っては72個に達しています.
 其の殆どは勝字砲が主だったから,この様な数字になっているだけで,本当にこれだけの数の弾丸を発射できる砲を有していた訳ではありません.

 なお,亀船の船首部には龍頭があります.
 このほかに上に龍頭,下に鬼頭が載せられたものもありますが,この龍頭は時々亀船なので,亀頭と間違われる事があります.
 この龍頭,初期の亀船では砲門として用いられていましたが,後代には砲門としての役割は消滅し,威嚇の為に,硫黄煙硝を燃やして口から火を出しているかのように装う為に用いられるようになりました.
 更に鬼頭は,厄除けの単なるシンボル的なものだったようです.
 昔の西洋船にあった船首像みたいなものではないでしょうか.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月10日21:30


 【質問】
 豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき,制海権を取れなかったそうですけど,信長が作っていた鉄船とかはその発展型とかは,そのころはなかったんですか?

 【回答】
 朝鮮との戦いに九鬼水軍は投入されてないし,村上水軍の本家筋は織田信長との戦いで消耗し,ロクに再建されてなかったので,小さな水軍衆の寄せ集めしか投入されてなかった.

 というか,ありゃ所詮瀬戸内海のような内海用の軍船.
 外洋でまともに使えるものじゃない.
 九鬼水軍や村上水軍には,瀬戸内海や沿岸航行の為の戦舟しかなく,日本丸も既存の安宅船を大きくした物に過ぎない.
 地元で戦う李氏朝鮮に利が有るのは当然なんだ.

軍事板

信長の軍船の復元図
たしかにこれで日本海を渡ろうとすると,荒天で簡単に転覆しそう
(出典はおそらくNHK『そのとき歴史は動いた』)


 【質問】
 壬辰倭乱で李舜臣将軍が何万人の倭人を殺したか教えてほしい.

 【回答】
 七年間の朝鮮役の間,李舜臣指揮を含めた朝鮮水軍と明水軍の攻撃による日本軍の戦闘死傷者総数は数百人から数千人の規模(最大でも五千人前後)と考えられます.
 また,李舜臣の攻撃で日本軍の補給や連絡が恒常的に遮断されたことはなく,極短期間の攻撃時間以外で補給連絡線の制海権を維持できたことはありません.
 二次的な船腹不足に影響が無いとは言えませんが,海象による事故や寿命の自然減耗に比べるほど戦闘消耗は激しくありません.

 さらに,日本軍には廻船補給計画は元々存在せず,例え朝鮮水軍が存在していなくとも,陸上作戦的な海岸支配と技術的な海路開拓の問題により,漢城方面への海路補給が成立することは非常に困難です.

 李舜臣に対する評価は戦争指導指揮を行なっていたのが明であり,朝鮮独自の勝利ソースの少なさと李舜臣の属した派閥の評価から朝鮮内部で珍重されたこと,それの日本での江戸時代の受け売りと豊臣失政というレッテル貼りが罷り通ったこと.そして,明治以降のマハンの海上権力論を奉戴して海軍権益を拡充した帝国海軍の宣伝が原因となっています.
 これが権威となり,詳細研究や先行研究批判が充実しないまま戦中に頂点を迎え,戦後の史観へ退凋します.

 つまり李舜臣への幻想は朝鮮役という戦争全体の研究不足が原因となっています.

軍事板

 【質問】
 亀甲船は日本艦隊に大損害を与えてはいないのか?

 【回答】
 与えたとは考えにくいでしょう.

 朝鮮水軍が海戦で使う基本戦術は,敵船を焚滅あるいは撞破する事でした.
 焚滅は,文字通り火を掛ける事で,一定の距離を保ちながら火箭を射て火を付けて沈没させる事を言います.
 一方の撞破は,体当たりの事で,敵船と正面衝突したり脇腹で接触して沈める方法になります.

 日本の水軍の場合,接近しての船戦には強かった為,板屋船は,撞破よりも焚滅の方に重点が置かれています.
 一方の亀船は,敵船団に突っ込んで引っかき回すのが戦法だった為,撞破を多用しました.

 火力的には同じ様なものですが,構造の違いからこの様な戦法の違いが出て来てた訳です.

 但し,火力は同じと言っても,亀船は接近戦が主なので,敵船に近づいて発砲出来る長所がありました.
 一方で,発射する場所は天井が低く,砲の取り回しは狭苦しく,接近しなければ命中は期待できません.

 板屋船は,敵船に容易に近寄れませんが,上甲板に占めた火器の発射位置は高くて命中率が良く,砲の取り回しも広い場所で行えた訳です.

 この様に接近戦に特化した亀船ですから,敵軍が不用意に攻め懸ってくれば,接近戦に持ち込めるので,大いに活躍する事が出来ます.
 壬申倭乱初期の海戦での活躍は,正にこの奇襲戦法の為に大きな戦果を挙げうる事が出来ました.
 しかし一旦,この戦法が敵に周知されてしまうと,朝鮮水軍が発見されるや,敵軍は迂回戦法を採る様になり,戦果は激減する事になります.

 結局,壬申倭乱を通じて亀船は3隻しか作られなかったと言うのは,この点に有るのかも知れません.

 19世紀に入って亀船が激減したのは,陳腐化したのもさることながら,壬申倭乱当時の亀船の大きさから見ると一回り大型化して,戦船と大して変わらない大きさに成った事が挙げられます.
 壬申倭乱当時の亀船は,船体長さ21.5m,底板長さ15.3m,船体幅7.36m,上粧の幅9.2m,櫓の数14本でしたが,18世紀後期の亀船は,船体長さ27.6m,底板長さ19.9m,船体幅7.4〜8.6m,上粧の幅9.2〜10.4mになっていました.

 しかし,この大きさの船体内部に,櫓を漕ぐ人間と戦闘員とを同一平面上に置くというレイアウトを採っており,内部の居住性は極めて悪く,果たしてこれで上手く戦闘や機動が出来たのかと言う疑問はあります.
 戦船の方は,構造物を2層に分け,上部が戦闘甲板で戦闘員が戦闘する場所であり,砲などはこちらに置かれています.
 下部には櫓を漕ぐ人間が収納されており,彼らは戦闘員に邪魔されることなく,櫓を漕ぐ事だけに専念できました.
 考えてみても,こちらの配置の方が合理的です.

 しかも,この大きさの船に120〜150名程度の乗組員が乗る訳です.
 これで上手く戦闘出来るのでしょうか….
 こう考えると,壬申倭乱の際に,12隻の船が300隻の日本艦隊を撃破するのは至難に思えてくる訳ですが….

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月29日21:50


 【質問】
 文禄・慶長の役において,なぜ日本の水軍は,制海権を確保できなかったのか?

 【回答】
 韓船と言うのは一般的に大型艦船で,小艇中心の編制を組んでいた日本船を圧倒した訳ですが(亀船が圧倒したと言う訳ではなく,あくまでも艦隊全体で圧倒したという意味で),どうして大型艦船を装備したのかと言えば,紆余曲折があったからです.

 元々,李氏朝鮮初期の軍船は高麗から引き継いだ猛船でした.
 これもそこそこ大きかったのですが,猛船そのものの基本構造は,倭寇が下火になった頃に構想されたもので,軍民両用に使用出来る漕運船から発展し,民間用にも使用出来ると言う事は,戦闘に特化した訳ではなく,どちらかと言えば物資輸送をメインに考えていたものでした.
 よって,倉庫を設ける為に,物資輸送に邪魔になる横方向に張る加龍木などの横木はそんなに多くなく,元々が帆走が主体だったものに,風の無い時でも航行出来るように櫓役用設備を取付け,更に戦闘用の足場を追加したものです.
 卑近な例で言えば,ガンダムに出て来たチベ級重巡洋艦みたいなものですわな.

 この猛船が規格化,量産されて朝鮮水軍初期の主力船になっていたのですが,1510年に発生した三浦倭乱では,この民間船に毛が生えた程度の猛船では,全く役に立たない状況でした.
 そして,1540年頃には再び倭寇の侵攻が活発化し,この頃には倭寇は中国の寇徒から齎された火砲や火薬兵器で武装し始めます.
 また,船の構造も堅固になり,銃筒の使い方も巧みで,朝鮮軍は太刀打ち出来ませんでした.

 こうした朝鮮にとっての戦乱の時代になると,平和な時代に建造された輸送兼用の猛船に対する批判が高まり,水軍は仕方なく猛船を諦め,10名程度の軽快船で戦闘をしようと試みました.
 最初はこの計画は上手く行くかに見えましたが,倭寇は1520年代には大猛船と同程度の大きさの船に火砲を乗せ,更に1555年の乙卯倭変では,それよりも大きな船を用いて侵攻し,小型軽快船は全く役に立たなくなってしまいます.

 その乙卯倭変の発生を切っ掛けに,再び大型船への回帰を行い,接戦をせずに敵を見下ろして間接武器で制圧すると言うコンセプトの板屋船が建造された訳です.

 この板屋船は朝鮮水軍に於て初めて戦闘専用に建造された軍船で,それから後の亀船,戦船など各種軍船のタイプシップになったものなのですが,この特徴は,従来の猛船が甲板一つの平船で,精々が甲板上に楼閣を建造していた程度に過ぎなかったのが,上粧を作って甲板を二層にしたことでした.
 二層にする事で,上層甲板は戦闘甲板として戦闘員が出入りし,もう下層甲板は航海甲板として櫓軍を収納する事が出来ます.
 下層甲板に櫓軍を収納すると言う事は,敵に露出することなく櫓役だけに専念出来るのですが,これは平船に比べると,櫓軍が戦闘への恐怖心を余り持つ事が無いと言う事と,戦士が恐怖に駆られた櫓軍に邪魔されずに戦闘に専念出来ると言う利点があります.

 また,上層甲板に戦士を配置する事で,敵を高い位置から見下ろして戦える様になった事と,壁が高くなったので,敵の接近戦戦術を控える事が出来るようになりました.
 これは日本の得意戦術である接舷戦闘を妨げる効果があり,高い場所に作られた砲台からは,命中率の向上が期待出来ました.
 これが,壬申倭乱で朝鮮水軍が数的に劣勢ながらも,日本の水軍に屡々勝ちを得る事が出来た要因でした.

 例えば,壬申倭乱で行われた海戦の内,玉浦海戦では板屋船28隻,挟船17隻,鮑作船46隻に対し,日本水軍は各種68隻でしたが,朝鮮水軍で戦力になるのは板屋船28隻だけです.
 挟船は伺候船の事で,連絡とか偵察をする小型艦艇.
 鮑作船は近隣漁村から徴発した漁船で,戦闘能力はありません.

 一方,唐浦海戦は,板屋船51隻に対し,日本水軍は各種軍船71隻で,日本水軍は関船が主力だとするならば,「圧倒的じゃないか,我が軍は」(by ギレン)な状態です.

 閑山海戦でも板屋船54隻に対し,日本水軍は大船36隻,中船24隻,小船13隻となっており,これまた隻数では勝るものの,実質的な戦力では日本を凌駕しています.

 最後の釜山海戦でも,亀船3隻,板屋船74隻,挟船92隻に対し,日本水軍は400隻に達しています.
 とは言え,この400隻の大部分は多分物資補給用の兵船であり,戦闘用艦艇の多くが小早や関船であろうと推定出来ます.
 兵船そのものは,それこそ,朝鮮水軍初期の猛船みたいなものでしょうから,実際に戦闘をした場合は,朝鮮水軍の方が圧倒的な強さを誇る可能性が否定出来ませんね.

 閑山海戦を戦った脇坂水軍の記紀には,
「朝鮮水軍の艦船は大きく,対する日本船は小さすぎて対抗するのが難しかった」
とありますし,豊後臼杵太田家の家来である大河内秀元の従軍記録である「朝鮮記」では,板屋船に対して,
「出撃した我々が各々板屋船の下に取り付いても戦隊が大きいので,二間柄の槍でも届かず,船に飛び込む事が出来ない.
 小銃を雨霰と撃ちかけて櫓役出来ない様にし,火箭を船内に撃ち込んで混乱を起こさせ,漸く勝利を収めた」
とあります.
 …にしても,昔から日本人のDNAには肉薄攻撃しかなかったのね….

 此処からIFになりますが,日本水軍の根拠地は,船の材料の多い巨済島を抑えていました.
 もし本格的に日本が制海権を握ろうと考えたのならば,この場所で板屋船的な船を多く建造し,砲を装備すれば,兵の士気や戦闘能力は遙かに上を行っていたのでしたから,あるいは朝鮮半島の制圧は容易に行ってしまえたかも知れませんね.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月11日22:06


◆◆関ヶ原以降


 【質問】
 なぜ東西決戦の場が関ヶ原となったのか?

 【回答】
 河合敦によれば,功名に焦る味方大名の勢いを徳川家康が押えられず,押しきられる形で関ヶ原に雪崩れ込んだ結果だという.
 石田三成は第1の防衛線として,尾張・三河の境の矢作川で東軍を迎撃することを考えていた.
 だが,豊臣系大名が三成の挙兵を知り,猛スピードで会津征伐から戻ってきたため,防衛ライン完成前に矢作川を通過され,第2の防衛線だった関ヶ原が戦場となった.

 小早川秀秋が布陣することになった,関ヶ原の松尾山には,大規模な砦が構築されていたことが,近年判明している.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.185-188を参照されたし.


撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 関ヶ原の合戦の戦端を開いたのは福島正則? 井伊直政?

 【回答】
 福島正則.

 福島隊が弓・鉄砲で宇喜多秀家勢に攻撃を開始したのが慶長5年/9/15(西暦1600/10/21),午前8時.
 ただ,これは本格的な戦いとは見なされなかったようで,家康は井伊直政へ伝令を出して,松平忠吉を補佐して戦いを始めるよう命じている.
 忠吉隊は福島隊の前に出る――ここで福島隊の可児才蔵との間に一悶着起こる――と,宇喜多勢へ発砲.
 驚いた正則は全隊攻撃を命じ,本格的な戦いが開始された,という経緯.

 ちなみにこのあと,忠吉隊は向きを変え,島津義弘勢へ攻撃を掛けている.

written by 北政所(うそ)



撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 関ヶ原の戦いにおいて,西軍諸大名を寝返らせたのは誰か?

 【回答】
 河合敦によれば,黒田長政.
 彼は武功派の代表として,石田三成と激しく反目し,家康の養女を娶(めと)るなどして家康派に属していた.
 彼の工作により,小早川秀秋以外にも,吉川広家に「西軍から離反する」旨の誓約書を家康に提出させることに成功している.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.189-190を参照されたし.


 【質問】
 関が原での島津の敵中突破は有名だが,あれははたして本当にそうする必要があったのだろうか?
 いくら戦場で孤立していたとはいえ,各隊同士の間がそれほど密集していたわけではない.
 実際に関が原の各大名の陣屋跡に行ってみれば分かるが,他の大名の陣が見えそうにはないほど離れている.
 敵中突破せずとも, 陣と陣との間をすり抜けて退却すればよかったのではないか?

 【回答】
 ええと,鹿児島にいたことがあって,そのテーマは昔先生と一緒に研究した事があります.

 あの時点では,既に東軍が西軍を追撃・掃討する局面に入っていて,西軍の陣地は東西入り乱れた状況になっていたと考えられます.
 島津の陣からすれば,背後は乱戦,はるか前方は徳川の本陣(家康はもう桃配山から降りていた).敢えていうなら,島津−徳川の間が最も戦闘が少ないところなんです.
(ない訳ではないが)
 かと言って,徳川の陣の間を抜けて行く訳には行かない.
 ご存知のように徳川主力(秀忠率いる)はこのとき関ヶ原にもいないのですが,それでも数は3万近くいて,島津はわずか1600です.
 従って島津の選択した方法は,徳川方面に突撃体形で進み,攻撃もあり得る風を装って,撤退を模索するという事でした.
 松平忠吉・井伊直政の隊とは実際に接触したようです.
 敵中突破ではなく,敵を掠めて奈良方面から堺を目指す進路を取ったのでしょう.
 威力偵察という言葉がありますが,これは威力撤退?
 1600ですから,全軍=殿(しんがり)軍と考えれば良いのではないでしょうか.

日本史板

 【質問】
 島津勢の敵中突破は作り話なの?

 【回答】
 というか,徳川に突っ込む前からもう「敵中」なんだよ.
 ただ,島津は合戦の最中終始どことも戦っていないから,両軍とも何を考えてるんだか分からなくて,東軍としても攻めようがないというか.
 吉川みたいに動かなかった軍勢は他にもいる.
 小早川やその他大勢で,動かなかったけど,途中で裏切ったものいる.
 相手が襲って来ない限り,東軍としては,自分から攻めないという考えだろう.
 福島正則みたいなのは,目前の宇喜多・石田と乱戦で,島津を気にしている余裕はない.

日本史板



撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 関ヶ原の戦い後,石田三成を捕えた田中吉政ってどんな人?

 【回答】
「それでは,ヒーロー・インタビューです.
 今日は,配下の者が石田三成を捕えた田中吉政選手にきていただきました.
 まずは東軍の勝利,おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「今回の戦いでは,先鋒を務めたり,三成を捕らえたりと,大活躍でしたね」
「はい,武士の誇りのため,一所懸命がんばりました」
「(お前の親父,百姓だったじゃん.いきなり経歴詐称かよ)」
「何だって?」
「ところで,名目だけとは言え,豊臣秀頼お墨付きの軍勢に対して,よく戦闘する気になれましたね?」
「……まあ,私の見るところ,これはしょせん豊臣家中の派閥争いに過ぎませんから」
「ということは,秀次事件のようなものですか? あのときは,大勢の家臣が連座したにも関わらず,田中選手は逆に加増されていますよねえ?」
「……何が言いたい?」
「ところで田中選手,佐和山城攻めでも勇猛果敢でしたね!」
「はい,ありがとうございます!」
「城の搦め手からの突入,見事でした!」
「そうですね,あそこが弱点と思ったんで,思いきってやってみたらジャスト・ミートしました」
「関ヶ原で大勢は決しているのに,あそこで力攻めしたことが意外でしたが? 戦死者も余計に出たようですし」
「……まあ,任務第一でしたから」
「そうですよね! あそこには三成の親族がいたわけですからね!」
「そう,その通りですよ!」
「秀次事件のときにも田中選手をかばってくれた,あの三成の親族ですからね!」
「……おい」
「そもそも田中選手が百姓から大出世できたのも,三成から田中選手が目をかけられていたおかげですし,その三成の親族ですからね!」
「おい!」
「やっぱり,忠義とか義理とか人情とかより,戦国武将にとってはなりふり構わない出世が一番ですよね?」
「……」
「あれ,どうしました? 肩なんか小刻みに震わせて?
 では田中選手,最後に一言!」
「てめえ,ブッ殺す!」

撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 徳川幕府開幕までの江戸の歴史について教えられたし.

 【回答】
 「江戸」と言う地名はそんなに古くなく,古今要覧稿や南向茶話では,その語源について「江戸は江所の義なるべし」などと書かれており,中世に日比谷入江が現在の皇居側に入り込んでいたので,地形的に入「江」の入り口(門「戸」)に当たっていたところであると言う解釈がなされています.

 「江戸」の地名初見は,1261年10月に書かれた江戸長重書状では,「豊嶋郡江戸郷之内前嶋村」とあり,少し下って1281年4月の江戸重政譲状に,「江戸郷柴崎村」と書かれていたのが最も古いものだそうです.

 その武蔵江戸氏は,桓武平氏秩父氏一族で,重継が江戸に住んで江戸氏を称し,子の重長が源頼朝に仕えました.
 畠山氏滅亡後は武蔵国を代表する武士となり,荏原郡を中心に一族を分出,鎌倉末期に足利氏に仕えますが,室町初期に没落します.
 庶流は木田見(多摩郡喜多見)に移って木田見氏となり,吉良氏に仕えました.
 このほかの庶流としては,承久の乱以後,重持が出雲国安田荘地頭となって以降定住した出雲江戸氏がいます.

 も一つ,戦国時代に勃興した常陸江戸氏がいますが,こちらは江戸は江戸でも,常陸国那珂郡江戸郷の出身で,藤原北家秀郷流の流れですから,東京の江戸氏とはちと違う.

 それは扨措き,江戸氏が没落した後は,1457年に太田道灌が城を築いて勢を張りますが,1524年に後北条氏の支配地となり,北条氏滅亡後は,徳川家が入ることになります.

 江戸の別称としては,「東都」「江都」「江府」「武江」などがありますが,最も有名なのは「大江戸」と言う言葉.
 この言葉は,古くからあった訳ではなく,18世紀後半に使われ出しているもので,1789年の山東京伝の洒落本『通気粋語伝』にある
「夫諸白の名に流れたる隅田川の景色は,大江戸の隅におかれず」
と言う記述が比較的早いものとされています.
 19世紀に入ると,十返舎一九の『東海道中膝栗毛』やら大田南畝の『江戸買物独案内』やらに頻出し,小林一茶の俳句にも取り上げられていきます.
 丁度この頃は,江戸の人口が増して世界的な大都市となったこと,江戸の経済力が増し,上方の経済力と拮抗し始めたこと,更に江戸の町人文化の発達で,従来の文化中心地域だった上方を凌ぎ出した事が挙げられ,江戸住民のアイデンティティが確立した時期と重なるわけです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/14 23:46


 【質問】
 豊臣政権五奉行の長束正家は関ヶ原の戦いで西軍に加担し後自刃したが,財政を担当していた彼の死で徳川は豊臣の財産力を計れなくなり,結果,豊臣を財政破綻させようとした(寺社の修復などをさせたことです)が ,長年経っても成果が出ず,大阪の陣の武力行使に走らざるを得なくなった,という見方は一般的なのでしょうか?

 【回答】
 私見ですが,あまり一般的とは思えません.

 確かに長束を手中にすれば豊家の蓄財を計れたかもしれませんが,関が原以前の家康の戦略をみるに,豊家の散財に重きを置いていたとは思えないからです.

 当時は石高だけならほぼ互角.
 単独での単純な動員数はこれで推し量れることです.
 もし重きを置いていたのなら,長束はもっと厚遇されていたであろうし,長束とて家康の暗殺に走ることもなく,関が原戦の後,首を晒されることもなかったでしょう.
 家康の立場からしても,あの頃は協力者即ち豊家恩顧の切り崩しのほうが重要だと考えるのが自然かと.

 また,関が原戦後も,幕府を開き将軍(家)として台頭し,豊家の石高を削り千姫を嫁がせ対面を強要する一方で,築城普請を大々的に行ったなどを鑑みますと,
「最後の手段として武力討伐」
を視野に入れていたのは確実で,散財はあくまでプライオリティの低い一対策だったかと.
 それに豊家の石高を削りまくっているのですから,散財させるだけなら長束がいてもいなくても同じ…というよりもむしろ,長束がいないほうがいいだろうと家康は考えたのではないでしょうか.

 どのみち,長束が対豊家戦略のキーパーソンとして扱われることはなかったでしょう.
 長束を取り込んでおけば豊家滅亡が早まったとも思えません.

日本史板
青文字:加筆改修部分


◆◆鎖国令以降

 【質問】
 鎖国は国家戦略上,誤りだったの?

 【回答】
 そうとは言えない.

 欧州は自国の発展を海外領土の拡張と貿易によって成そうとした.
 対して日本は,鎖国と国内開発によってそれを成そうとした.
 戦国の動乱から朝鮮戦役で国内が大分荒れていたから,海外進出より優先するのは理にかなっている.
 江戸初期から100年ほどで人口が倍になっているから,そこまでは正しかったと言える.

 ただし,人口が飽和状態になった後も鎖国を続けていたのはどうかと思うが.

 鎖国ってのは別に日本オリジナルな発想ではないんだけど(朝鮮だって似たようなもの),日本はそれをかなり徹底してしかも実効性が上がったところに特殊性がある(薩摩藩の抜け荷とか穴はあったけど).
 ベトナムなんかは,やろうとして失敗してる.

 鎖国の一番のポイントは貿易制限ではなくて,日本人の海外渡航禁止による安全保障(キリシタン禁制もこの側面から出てくる).日本人が外に出ていろいろ問題を起こし(巻き込まれる場合も含めて),その責任をとるとかとらないとか,こういう国外でのコントロール不可能なリスクを回避するために日本人を外に出さず,海外での揉め事(ex.オランダ・イギリスとスペイン・ポルトガルの紛争,明・台湾鄭氏と清などの諍い)から距離を置こうとした.
 冊封体制に入れば,漢字文化圏内部ではある程度安定を得られるけど,国内対策的にそれは不可能だった.

世界史板


 【質問】
 鎖国に怒ったスペイン,ポルトガルが報復に武力行使とかしなかったの?

 【回答】
 色々理由があるが,全体的に「それだけの余力がなかったから」に尽きる.

 元々,当時のスペインは,艦隊を組めるだけの大兵力を地球の反対側に派遣できる状況にはなかった.
 価格革命と新大陸からの放埓な金銀の流入による物価上昇に加え,頼みの新大陸やアジアは商人や貴族の利権が錯綜し,王の威令など守られもしなかった.
 その上,当時のスペインはカスティリア,アラゴン,ポルトガル,セビージャらの寄り合い所帯であり,それぞれが独自に目的を持ち,しかもその目的がばらばらだった.
 フェリペ2世の時代にポルトガルと同君連合を結んだものの,海外のポルトガル植民地はほとんど従わなかった.

 その上,キリスト教の擁護者,及び地中海の交易ルートを守るためにオスマン帝国と戦い,加えてイギリス,フランス,ネーデルラントの独立勢力などとも戦わなければならなかった.
 結果,再三にわたりスペインが自己破産してしまったのは有名な話.

 要するに,東方の国が自分たちを締め出したからと言って,即座に報復の艦隊を送れるほどの資金も兵力も当時のスペインにはなかった.
 スペインが金を使って戦うべき相手は近場に山ほどいたというだけのこと.

 その上,アジアとヨーロッパの行き来に数年はかかる当時,忠誠心を持たせたまま大兵力を遠国に貼り付けるのはほとんど無理だった.
 艦隊内で内乱が起きかねないし,最悪,反乱を起こされる可能性もあった.

世界史板


 【質問】
 オランダは,マラッカやらカリカットやらをどんどん占領してたのに,なぜ平戸は占領せずに商館置いただけだったの?

 【回答】
 オランダは,苦労して手に入れたマラッカやバタヴィアでの儲けは赤字.
 その一方で,日本商館(平戸,後に長崎出島)の儲けは第二位の台湾,第三位のイランの商館の儲けを足した程度という,圧倒的に収益率の良いものだった.
 アンボイナ事件で負かした英国は日本から撤退したし,幕府に讒言して,スペインやポルトガルを締め出してもらったし,幕府の鎖国政策で朱印船の海外渡航も中止となれば,中国船を除けば競争相手は皆無.
 濡れ手に粟じゃねーか.

世界史板


 【質問】
 日本の鎖国体制を国際安全保障上,担保していたものは何か?

 【回答】
 16世紀前半の日本は,鎖国状態を完成させつつありましたが,これは東アジア地域に於けるオランダの派遣を背景にしたオランダによる日本の海防という背景があって初めて成立し得たものでした.
 それは持ちつ持たれつの関係であって,日本もオランダに対し,新たなライバルとなる国の交易受け入れを拒むという互恵関係にありました.
 よって,例え他国の船が日本に来港したとしても,それが受容れられる素地は余りなかったかも知れません.

 オランダの力が19世紀に入ると衰えてきた為に,諸外国は日本に開国を迫る艦船を派遣した訳で,日本も自主海防をしなければならなかったりすると言うのは穿ちすぎな見方でしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月25日22:02


 【質問】
 大船建造禁止令とは?

 【回答】
 1635年に林羅山が読み上げた武家諸法度の第十七条には,「五百石以上之船停止之事」と書かれていました.
 この条文が,所謂「大船建造禁止令」と呼ばれるものです.

 ところが,この条文を巡って,大名家の人々は頭を悩ます事になります.
 と言うのも,この条文に限らず,武家諸法度の条文は,簡潔な漢文でさらっと書かれているだけであり,解釈が如何様にも取れてしまいます.
 とは言え,勝手な解釈は鳳凰丸一件とか飛龍丸建造の話の様に,一歩間違えば御家の危機に成りかねません.

 そこで,大名各家は幕府年寄に解釈を質す事になりました.
 今まで大船没収を受けてきた西国大名家でも解釈に迷う条文なのに,まして,それを経験していない大名家では,想像も付かなかったに違いありません.

 1638年5月2日,島原の乱鎮圧後に,前田利常,藤堂高次,京極高広など就封の暇を賜った諸大名家当主達に対し,幕府年寄の土井利勝,酒井忠勝,阿部忠秋は,武家諸法度第四条の解釈の変更を説明しました.
 第四条は,制定当初,
「領国内にて起きた争乱は,その地を領する各家にて対処する事」
として,他国からの出兵を厳に諫めていたのですが,これを厳格に運用したが故に,島原の乱の初期消火に失敗し,鎮圧に梃摺ってしまいました.

 そこで,
「私闘の場合は近隣からの出兵は不要で,国内で処理すべし.
 但し,国法に背く事態が出来した場合は,隣国からも速やかに出兵してこれを鎮圧する事を命じる」
と解釈を変更した訳です.
 同時に,第十七条の解釈も,「五百石以上之船」から商売船は除くと申し渡しています.

 こうした解釈変更は,5月15日に登城した大名にも伝えられ,在国の大名には翌日,土井利勝の屋敷に留守居を呼んで,その旨が伝えられました.
 幕府の右筆所日記,所謂『江戸幕府日記』には,五月二日条と十五日条に同じ文言があります.
 それによると,
「五百石以上之船停止と此以前被仰出候,
 今以其通候,然共商売船は御ゆるし被成候,其段心得可申事」
となっていますが,ここで言う「商売船」とは,従来の年寄連署奉書から読み解けば,「内航商船」と解釈出来ます.

 で,何故に第十七条が改訂されたのか,と言えば,これを大名家に申し渡した幕府年寄の説明が御三家を始め,加賀前田家,小浜酒井(忠勝)家,長州毛利家,阿波蜂須賀家,土佐山内家,佐賀鍋島家,肥後細川家に残されています.
 その記録には先ず改訂の切っ掛けとして,この条文では軍船のみならず商船が対象になっており,商人の迷惑が上聞に達した事としています.
 そして,引き続き建造が禁止される船は,「武者船,あたけ其外之大舟」であると述べました.
 この部分の記述は,各大名家の文書で様々に書かれているのですが,
『「武者船」及び「あたけ其外之大舟」』
と言う読み方ではなく,
『「武者船」,即ち「あたけ其外之大舟」』
と解釈するとしっくり行きます.

 すなわち,幕府の海上交通用の大型船の定義とは,軍船と内航商船,そして,航用船の三種類に分け,第十七条では,前二者に網を掛ける事になっていた訳です.
 これは1609年の西国大名家に対する大船没収と同じ解釈であり,今まで領域的な法として存在していたものを,法的不均衡の是正から法制整備されたものと考えられます.

 其の迷惑を被った商人の居た領国とは何処か?と言うと,意外な家が浮かび上がってきたりします.
 正に,策士策に溺れると言うか,灯台もと暗しと言うか,事実は小説よりも奇なりと言うか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月20日22:54

 1636年7月22日,とある大名が以下の様な書を国許の年寄に使わします.

-------------------------
 去年御法度書指遣候処ニ,何とうつけ候や,去八日之次飛脚の状ニ申越候ハ,五百石つミの舟小浜ニも有之間,つるかニもたくさんニ可有之候,其上北国より参り候舟之内二も可有之候由申越候,中々是飛之可申様も無之候,あほう共ニ身たいおはたされ可申候義無念千万成事ニ候
-------------------------

 のっけから,国許の人間を「うつけ」,「あほう」と罵倒し,しかも,「あほう共によって身代が果てる」とまで書いていたのは,誰あろう,家光の側近中の側近であった幕府年寄酒井忠勝その人です.

 彼は1634年に武州川越から日本海の小浜に転封したのですが,転封間もない1635年11月4日に,彼は諸士法度の公布が近い事を国許に知らせ,武家諸法度が公布されると,その写しを作成して国許に持たせましたが,いざ国許に帰る段になって,自分の足元で,武家諸法度第十七条が徹底されていなかった事を知り,愕然としたのです.

 国許の重臣達は,その法度を受け取ったものの,解釈を忠勝に問い質す事もせず,第十七条の適用範囲を軍船だけと思い込んでしまいます.
 本来は,この条文は,内航商船にも適用されますから,廻船問屋にもそこの処を徹底させねば成りません.
 それをやっていなかった訳ですから,忠勝が驚愕するのも無理はない訳です.
 自分が作った法度に自分が抵触する可能性があるとは,正に自分で自分の首を絞める行為….

 そもそも,この大船建造禁止令は,波の穏やかな瀬戸内海方面を航行する船舶に対して行われた規制が出発点でした.
 日本海はそれとは違い,船舶の建造方法も独自の発達を見せ,伊勢船や二形船とは別系統の面木造りの廻船が主力でした.
 日本海の海は瀬戸内海に比べると相当荒く,畿内に商品を運ぶには距離が長いので,運送費が掛かりますから,航洋性を高め,大容量の船艙を持つ大型船の建造は早くから進んで,1592年の段階で既に小浜でも7〜800石積の船を建造していましたし,1602年の越前新保では,1000石積以上の北国船120艘,1000石積以下の羽ヶ瀬船72艘を数えていました.
 また,こうした大船を擁した豪商の数は極めて多かった訳です.

 忠勝の領国である小浜,敦賀,高浜でも,組屋・道川・高島屋・打它と言った豪商が軒を連ねていました.
 大船建造禁止,保有禁止となると,これらの豪商にも大打撃になる他,その実入りから運上金を取っている大名家にも悪影響が出てしまう訳です.

 兎に角,この事態を何とか切り抜けなければならない.
 忠勝は早速,国許の年寄に対し,
「浦改めは大々的にすると目立つから止めろ」,
「敦賀では年寄の一人を検見に出させるが,他国民や領民に極力目立たない様にしろ」,
またこの浦改めで大きさが該当する船については,
「浜に揚げて囲わせ,船を解体して小さく作り替えさせる様に手回ししろ」
と指示しています.
 また,他国船についても,敦賀や小浜への来航を禁じ,もし来たら,船を抑留して幕府に献上すると言って追い返せ…つまり,ひたすら目立たない様に取り計らえとした訳で.

 1636年8月末,忠勝は江戸を発って領国小浜に向かいます.
 彼は,この地に2ヶ月滞在した訳ですが,船を解いて小さく改造する事は,豪商達にも多額の出費を必要とした上,輸送量が少なくなりますから,運賃収入は結構減ってしまいます.
 こうして,日本海側の豪商達が,挙って忠勝を始めとする領主達に窮状を訴え,圧力を掛けた事は想像に難くありません.
 結果として,3年を経ずして解釈の変更が行われたと言う事になる訳です.

 う〜ん,こうした朝令暮改な話は,つい最近も何処かの国で聞いた事があるなぁ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月21日23:12


 【質問】
 海部騒動とは?

 【回答】
 鳳凰丸の一件と黒田騒動は,特に西国の外様大名にとっては,傍観すべきものではなく,家を保つ為にも,こうした大型船建造は慎重に進めるべきであると言う事を,改めて肝に銘じた出来事でした.

 阿波蜂須賀家も例外ではなく,蜂須賀至鎮の代に建造した御座船(関船)が老朽化した為,1631年3月に在府中の蜂須賀忠英の為に御座船を建造する事になります.
 途中,将軍秀忠の病と死によって工事が中断し,完成は1632年11月になりました.

 この関船は80挺櫓立で,他国の船よりも全長が長く造られています.
 これは大坂往還の海上と鳴門の横潮を渡る為,他国並みに櫓間が長いと難風の際に困り,それより拡げる事が習わしでした.
 ところが,完成した船を見て,船頭達が船奉行に,
「最近,湾口に砂が溜まっているので,喫水が深いと操船に支障を来す事が判明しました」
と報告します.
これを修正するとなると,一度建造したこの船を解体して,再度組み直す事になります.

 その船を建造していた場所は,往還脇の目に付く所であり,これを解体していたというのであれば,「大船」建造と黒田家の様にあらぬ噂を立てられかねません.
 場合によっては,幕府から咎め立てされる可能性があります.
 さりとて,此の儘運航させて万一,忠英帰国の際に,湾口で座礁などしたら,船奉行や船頭にどんなお咎めがあるか….

 困り果てた船奉行は,出府した当主に代わって,留守を守っていた当主の祖父で,当時隠居していた蜂須賀蓬庵(蜂須賀家政のこと)に報告します.
 蓬庵はこの報告に驚きましたが,先ずは繋留状態にして,船の指図(絵図)を作らせ,使者に持たせてその年の12月に大坂の小浜光隆の元に届けさせました.
 この指図を見て,小浜光隆は「問題なし」と判断し,使者にそう返答します.

 しかし,江戸にその知らせが届いた時,忠英は更に江戸の幕府船手頭の向井将監に理を入れ,「少も不苦」と言う返答を経た上で,1633年7月に小浜光隆に対し,
「一端この船は解体して建造し直したい,
 ついてはこの解体と建造が,人々が蜂須賀家は安宅船を建造しているのではあるまいかと言う噂を招きかねないので,家来の内誰か1名を検使として,当家に派遣して頂き,建造中に不審な動きをしていないかを,監視しておいて頂きたい」
とまで申し入れています.

 種々検討の結果,8月に小浜光隆は忠英に返書して,
「家来の徳島派遣は,それこそ噂になるであろうから,人目に立たない様にする方が良いし,その辺の事情は当方きちんと理解しているから,安心しなさい」
と諭し,9月から忠英は安心して一端建造した船を解体させ,暮れになってやっと74挺櫓立の御座船飛龍丸が完成しました.

 起工から3年以上掛かったのは,将軍の代替わりがあった他,蓬庵の従兄弟だった江戸仕置家老益田豊後が,知行地である海部郡内の百姓に対する苛政などが発覚した為,忠英は幕府年寄を通じて将軍の内意を質し,その言質を取った上で,1633年9月に豊後を罷免,大栗山に幽閉すると言う政変があった為でした.
 船の建造よりも,そっちの処理の方が大事だった訳ですな.

 さて,月日は流れ1645年6月,阿波の大栗山に幽閉されていた益田豊後は,妻の弟の安彦左馬允を通じて,家老長谷川越前の悪業と自身の身の潔白を訴える書状を京都所司代に提出しました.
 これが蜂須賀家の御家騒動の一つで,世に海部騒動と言われているものです.

 その訴状を受けた幕府は,豊後と越前を江戸に召還して評定所で取り調べます.
 豊後は越前の罪状として,第一に大関船建造,つまり,先述の飛龍丸一件,第二に領内の切支丹である下田一郎左衛門とその舅に対する処置で穿鑿を停止するなどの温情を与えた事,第三に幕府年寄土井利勝に越前自らが誓詞を差出した事が挙げられていました.
 そして,幽閉の原因となった苛政は,越前と郡奉行が結託して捏造し,蓬庵が豊後を憎む余りに一方的に断罪した冤罪であると訴えました.
 もし,この罪状が事実なら,最初の「大船」建造と次の切支丹禁制の扱いだけで,蜂須賀家はお取りつぶしに成りかねません.

 越前は,最初の罪状に関しては,先述の小浜光隆の書状などを証拠として差出し,豊後の告発に悉く反論し,遂に1646年正月に両者が評定所で対決した結果,次々に反証を挙げる越前に豊後は追求の言葉を失い,結局,豊後の措置は,蜂須賀家に任せると言う裁決を下し,事件は終息しました.

 時は将軍家光の時代でしたから,もし,こうした公的文書を残していなければ,蜂須賀家が幕末まで阿波で一国を領する事など無かったかも知れません.

 紆余曲折がありましたが,1635年には5月28日には,鎖国政策の最初の段階である日本人の海外渡航の禁止,そして6月21日,幕府年寄の井伊直孝,松平忠明,酒井忠清,土井利勝,酒井忠勝列席の下,江戸城大広間で諸侯に向けて,林羅山が武家諸法度を読み上げ,更に大船建造禁止に一歩を踏み込んだのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月19日22:37


 【質問】
 大船禁止令以後,大船建造は皆無だったのか?

 【回答】
 大船禁止令ですが,最終的に1663年に漸く今までの武家諸法度は文書化されることになりました.
 以後,大名による大船の建造は無くなったのかと言えば然に非ず.

 1669年には長崎代官末次平蔵が幕命で33人乗組で500石積(とは言え,城米450石,石火矢・大筒,鉄炮400挺,具足100領など優に千石を超える搭載量があった)の唐船を建造していますし,1679年には南部家の領地だった宮古に仙台伊達家が建造した唐船が嵐を避けて入港しています.
 この仙台伊達家の唐船は29人乗組と幕府船より若干小さめでしたが,旧来の伝統船とは造りが違うので,この船が就役する際には,近隣諸家に対し,「この度これこれこんな船が就役したので,万一御家に着到の際は驚かない様に」という書状を送っています.

 この船が何故建造されたかと言えば,多分太平洋を南下して江戸や大坂に藩米を運ぶのに,操船性の高い唐船様式のものが好まれたのかも知れません.
 但し大型化したとは言え,一般的な千石船の場合,乗員は14〜20名程度.
 その1.5倍の乗員を抱えたこうした大型船は,操船性は良かったものの,稼働率が低ければ経済性は低く,例えば末次平蔵の船は,1675年に小笠原諸島を探検するなどの実績を上げますが,建造後僅か11年で,腐朽を理由に解体され,後継船は建造されませんでした.

 17世紀〜18世紀に掛けて,欧米各国が勢力拡大に鎬を削っている中で,日本に外国船はHollandと清帝国の船だけなのかと言えばそうではなく,1673年には英国船が貿易を求めて長崎にやって来ていますし,1685年にはポルトガル船が伊勢の漂流民送還の為に長崎に来ていました.
 以後,西欧船はHolland以外姿を見せなくなりましたが,北方ではRussiaの船が出没しています.

 1739年にはRussiaの探検隊の船が,奥州・安房・伊豆の沖合に出没する所謂「元文の黒船」事件が発生し,1771年にはRussiaと戦闘して捕虜となったマジャール人が流刑地Kamchatkaを脱出して,阿波の日和佐と奄美に漂着し,Russiaの脅威を説いた文書を長崎のHolland商館長宛に送っています.
 そして1778年にはRussiaの船が霧多布に寄港して,蝦夷松前家に通商を求め,1789年の国後・目梨のアイヌ蜂起の影にはRussiaの荷担が噂されました.
 更に1792年にはAdam Kirilovich Laksmanが根室に渡来して,幕府との通商を求める事態になっています.

 当時の田沼意次政権は,蝦夷地直轄・開発政策を推進しますが,後継の松平定信政権は,逆に松前藩委任・非開発政策に転じ,更に1799年には蝦夷地直轄に転ずると,まぁ二転三転する訳で.

 でもって,田沼時代の積極策に打って出るには,船が必要になりました.
 先述の様に,長崎代官末次平蔵の唐船は1681年に長崎で解体され,和洋折衷の巨艦安宅丸は1682年に江戸で解体された訳で,以後,幕府が洋式船を導入する計画は,1718年に吉宗がHollandに船を発注出来るかどうか打診したのを除けば,全く動きがありませんでした.

 田沼意次はこうした沈滞状況に風穴を開け,Russiaに対抗する為にも洋式船の導入を図るべきだと考え,長崎奉行とHolland商館長との間で,造船技師の派遣や技術者の渡航,操船法の伝授,Holland船の端艇の雛形の製作など,種々の方策を練ってきています.
 しかし,この動き自体は,若年寄田沼意知が暗殺され,田沼意次の失脚で頓挫しました.

 しかし,北国筋と長崎を結ぶ1500石積の俵物廻船三国丸と言う船は,その洋式思想を具現化した最初の船として,1783年頃に建造されました.
 当時,北国からの廻船航路は,海象に左右され,時には破船が結構あった為,弁財船に代わるものとして,西洋式の構造を取入れた和船を建造した訳です.
 従って,本格的な洋式船やジャンクではなく,あくまでも和船の延長線上にあった訳.

 元来,日本の外国貿易の輸出品としては銅が主力産品だったのですが,銅の産出量は年々低下し,幕府はそれに代わる新たな貿易産品を探していました.
 其処で目を付けたのが,昆布,鶏冠海苔,鯣,鰹節,干鰯などの諸色海産物,取分け蝦夷地の豊富な海産物である乾鮑,鱶鰭,煎海鼠などを俵に詰めた,所謂俵物です.
 但し,この俵物は遠く蝦夷地を始めとする北国筋から運ばれてきます.

 俵物の長崎廻漕は年に2回行われ,2度目の二番立ではその年に獲れた新昆布が主になります.
 ところが,この新昆布は廻漕中の欠損もありますし,何よりその収穫は旧暦で言う6月土用の頃になり,製品化して出発する時は秋の末から冬の渡海となります.
 今でもそうですが,冬の日本海は兎角荒れ,廻船の往来は殆ど不可能となるので,一攫千金を目指すのでない限り,船主は余りやりたがりません.
 其処で目を付けたのが異国船の構造で,これにより耐候性に優れた構造を採用し,大型化を図って,大量の産品を運ぶ事を考えたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月05日21:14


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