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◆人物
<戦国時代FAQ

目次
◆◆総記
【質問】 上杉謙信家臣団は,「義」の戦にはちゃんとついてきたのでしょうか?
【質問】 信長の宗教観、宗教政策って、どういうものだったのでしょうか?
【質問】 織田信長はなぜ平氏を名乗ったのか? 征夷大将軍を諦めたということか?
【質問】 「信長公記」執筆者,太田牛一はどのような人物だったのか?
【質問】 山中鹿之助は本当に,主君のために忠誠を尽くして働くという武士道の体現者だったのでしょうか?
【質問】 これまで武田信玄とされてきた長谷川等伯筆の肖像画は,実は信玄のものではないというのは本当か?
【質問】 石川数正にしても,対秀吉政策の対立で居られなくなったってところでは?
【質問】 『家康に過ぎたるものが二つあり.唐の頭に本多平八』の「唐の頭」とは何のことですか?
◆◆豊臣関連
【質問】 秀吉の九州出陣で討ち死した長曾我部信親に嫡男はいたんでしょうか?
【質問】 最近の山川の教科書には,秀吉を「尾張の地侍の出身」と書いてあったが,これはちょっと勇み足じゃないのかな?
【珍説】 「山内一豊は,土佐長宗我部の一領具足たちをだまし討ちして虐殺した悪人だ!」???
【質問】 一豊の妻,千代の出生地ってはっきり分かってたっけ?
【質問】 山内一豊の土佐転封は,実は体のいい左遷じゃないか?
◆◆総記
【link】
『戦国武将からの手紙』(吉本健二著,学研,2008.5)
【質問】
上杉謙信家臣団は,「義」の戦にはちゃんとついてきたのでしょうか?
【回答】
微妙だな,北条高広とか大熊朝秀とか本庄繁長とか.
家臣が義で戦ってたかというとやはりそうでもなく,実利じゃないかな.
なんだかんだ言って,戦に勝てば金とか褒美であげてたし,下級兵士にとっては戦は略奪の場だし.強い大将についていけば「うほほー!」だったんだよね.
義戦とはいっても,領土も増えているし.
また,冬季に兵士を連れて関東に出陣することが,雪で閉ざされた越後の人減らしになっていたという説もある.
▼ そもそも,上杉謙信が義将だとされているのは,どんな根拠からかいなあ?とふと思う.
多分に“野心家で自分のために戦う信玄(や信長)”と対比させるための,小説的虚像ではないかと思ったりします.
(無神論者の信長と同じように)
大抵の場合,彼を義の人とする理由は,
・朝廷の権威や将軍家への忠誠を誓った,
・戦に破れて頼ってきた旧領主を助けてやった
などの理由であるように思います.
ただ,足利義輝と面会したり朝廷に献納したりして自分を権威付けるのは,信長でも信玄でも,目端の利く大名なら当時誰でもやっているわけですし,敵領に侵攻するときに,地元から追っ払われた旧勢力を旗印にするもの常套手段ですよね.
家康も駿河を巡って武田・北条とにらみ合う中で,今川氏真を保護したり,信長は毛利との戦の中で山中鹿介(=尼子)を援助したりしてます.
まあ,上杉謙信はちょこっと欲が薄く,立ち回りの不器用な人だったかもしれませんが,別段普通の戦国大名だったんじゃないかと,最近思うわけです.
小説的虚像としての,無視無欲な戦の天才・上杉謙信は好きですけどねー.
黒木竜 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分
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【質問】
信長の宗教観、宗教政策って、どういうものだったのでしょうか?
イメージだと、信長は神の存在を信じなかったとか、反仏教とか、キリスト教の日本での布教を認めたとか,そんな感じがしますが.
【回答】
無神論者としたのはルイス・フロイスぐらいでしょう。
信長は,起請文に八幡しか書かなかったりと個性も感じられますが、基本的には一人の信者であったようです。
自己の神格化は他の戦国大名も行っており、特別な事ではありません。
そもそも、自分を神として崇めさせたとか、第六天魔王と称したというのも、
宣教師側の記録にしか無かった様ですが。
寺社勢力と戦ってはいますが、それはあくまでも敵対する勢力の一つとしてであり、先祖縁の織田剣神社を保護している他、八幡宮なども修復させています。
無神論者云々は、小説のイメージが強い気がしますね。
「無神論者」を持ち上げて神格化しているのですから、傍から見ると滑稽な気もします。

【質問】
織田信長はなぜ平氏を名乗ったのか? 征夷大将軍になるのを諦めたということか?
【回答】
織田信長が平氏を名乗ったのは、当時「源平交代説」があったので、
それを踏まえての事。
清盛政権(平氏)
↓
鎌倉幕府将軍家(源氏)
↓
鎌倉幕府執権北条氏(平氏)
↓
室町幕府将軍足利氏(源氏)
・・・と政権交代してきたので、それを踏まえての事。
織田信長が征夷大将軍の宣下を受ける可能性は、十分にあった。
【質問】
織田信雄の子孫はどうなったのか?
【回答】
上州甘楽郡小幡は,家康の関東入城に際して,奥平信昌が三万石で封ぜられ,信昌の美濃加納転封後,水野忠清が一万石で入封します.
水野家は大阪の陣後,三河刈谷に転封し,永井直勝が一万七千石で入封し,直ぐに常陸笠間に転封.
代わって,織田信長の次男信雄の所領となり,その四男信良が,信雄の領地のうち,上野甘楽,多胡,碓氷の三郡,二万石を分与されて入封します.
信雄は家康と同じように,尾張清洲から奥州への転封を拒み,除封されてしまいます.
その後,関ヶ原では西軍に加わりますが,西軍の情報を家康に知らせた功を以て,大和と上野などに五万石で国主格を家康から与えられることになった訳.
国主格ならば,官位は四位まで上がることが出来ますし,席次は大広間詰めで島津,細川,浅野並み.
この時,信良は陸奥福島に仮陣屋を置きますが,直ぐに卒去.
その子信昌は1歳で封土を継ぎ,この地に陣屋を移し,叔父高長を後見に藩政の基礎を築きます.
しかし四年後に信雄が没して,その五男高長が信雄のもう一つの領地である大和宇陀郡松山三万石を領すことになって,話はややこしくなります.
長幼の序を守るならば,信雄の本家は四男信良の系統,つまり,上野の方になります.
ところが,既に信良は此の世に亡く,ならば,と言う訳で,五男高長の方が,信雄の本家と言い立てたのです.
何か,本能寺の変での親父の行動そっくりと言うか,血は争えないと言うか….
結局,一年の争いの末,幕府の裁定によって高長の方に凱歌が上がり,織田信雄流本家は大和松山の方になりました.
その後,若くして信昌が死去し,跡目は「本家」高長の四男信久が養子となって,彼によって藩政改革と農業生産方法の改善が進みます.
信久の後は四男信就が継ぎ,彼は館林城番などを行い,上野織田家の最盛期を築き,四男信右が18歳で跡目を継いだのですが,彼の代は病弱だったので,信就の子供が信富として跡を襲います.
しかし,それも束の間,信富は直ぐに死去したため,高家の織田信栄(高長の系統で,高長の次男で大和松山二代長頼から三千石を分与された長政に端を発する)の四男信邦が襲封します.
ところがこの頃,収入の二倍の支出と言う財政難状態で,藩政改革のため,山県大弐門下の吉田玄蕃を登用しますが,この山県大弐が,当時の反政府思想である尊皇攘夷を吹聴したので,吉田玄蕃の立場が家中で危うくなり,玄蕃は山県大弐との高誼を絶ちますが,讒訴する者がいて,信邦は吉田玄蕃に処分を申し渡します.
しかし,この処分が重大事件にも関わらず,幕府への届け出を行っていなかったとして問題となり,遂には信邦に蟄居の沙汰が下り,急遽,信栄の五男信浮が跡を継ぎますが,幕府の怒りは解けず,結局,出羽高畠に転封を命じられ,出羽屋代郷の一部四千六百石,村山郡に一万二千石,陸奥信夫郡内に三千四百石と領地は飛び飛び,しかも,家格も国持大名格から諸大夫格への格下げとなってしまい,実家である高家の織田氏も普通の旗本に格下げされてしまいました.
その跡を継いだのがその子供の信美ですが,彼は飛び飛びになっている領地を交換で一纏めにし,陸奥信夫郡の領地を村山郡内一万五千石とすることに成功します.
また,陣屋も交通至便な出羽村山郡天童に置いて代官支配としますが,後に居所も天童に移すことを願い出て認められ,以後,織田家は天童に陣屋を設けて,明治を迎えます.
此の間,その子信学の代には出羽置賜郡内に有していた領地を上知され,二万石を天童周辺に集約することになりますが,財政難は益々深刻化し,紅花の専売制や将棋の駒の製造などを行ったりしています.
その他に効果があったのが,豪商からの献金ですが,これの引き替えに渡されたのが,狂歌の著名な作者だった家老吉田専左衛門の交際相手で,浮世絵で有名な安藤広重に描いて貰った肉筆画だったそうです.
献金をした相手に対し,安藤広重に依頼して額に応じた肉筆画を渡したと言うものですが,安藤広重と言えば浮世絵版画の大家ですから,その肉筆画と言うことで,当時でも大変珍重され,30年に渡って天童織田家の屋台骨を結構支えてくれたそうな.
明治維新の際には,信学は病気で隠居し,息子信敏の時代ですが,戊申の役では奥州鎮撫使先導となり,官軍方として出羽庄内酒井家を攻めたものの,反撃を受けて敢えなく陥落.
その後,庄内酒井家に与して奥羽列藩同盟に加入して,官軍と戦うも再び敗北し,藩主蟄居と二千石の減封と言う処分が下りました.
結局,先祖の功で子爵にはなりましたけどね.
その後,信敏の跡には相馬事件で有名な奥州相馬家から養子を迎え,斎藤実内閣の時には農林政務次官を勤めたり,NHKの理事にもなったりしています.
てことで,四男の方はこんな感じですが,五男の高長の系統も波乱の生涯を迎えることになります.
やっぱり,血ですかねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月07日22:41
一方,信雄の五男の系譜ですが,四男系統の信昌と争って織田信雄本家となった高長が,継いだのが大和宇陀郡松山三万石.
此処は元々福島正則の弟,高晴が伊勢長島から入封したのが最初でしたが,横暴な振る舞いも多く,度々家臣から訴えが出ていました.
幕府はそれを或程度放置していましたが,1615年に駿府に於てその地の奉行に断り無く,こうした訴人を捕えたことを咎められ,本人は伊勢山田に蟄居,領地没収となりました.
その後に入ったのが,織田信雄です.
彼には大和と上野に五万石が与えられましたが,本人は京都に住んでおり,この領地には重臣の生駒範親が入りました.
その後,上野小幡二万石は四男に与えられることになりますが,分家,本家争いをしたのは上述のとおり.
さて,この高長と言う人.
信雄が所領を没収された後は,加賀前田家に寄宿し,大坂冬の陣では利常の陣で活躍します.
そして,この時期に抱えたのが加賀衆でした.
高長が没すると次男の長頼が跡を継ぎますが,弟長政に三千石を分与したため,所領は二万七千石となりました.
ちなみに長政は幕府旗本となり,高家に列せられますが,明和事件で小幡織田家の迸りを受けて,落っことされたのは既述の通り.
長頼が没すると,その子信武が跡を継ぎます.
ところがこの頃になると,信雄の家臣として代々地位を保ってきた譜代重臣の生駒,田中家と,高長に従ってきた加賀衆との対立が表面化します.
信武はその収拾に苦しんだ挙げ句,遂に1694年,彼は重臣の生駒三左衞門,田中五郎兵衛等,家老2名とその一門を成敗して,自らも自刃すると言う凄惨な死を遂げます.
これが「宇陀崩れ」と呼ばれた事件で,翌年,家督を継いだ息子の信休には,幕閣から沙汰が下り,信休の領地は大和から遠く丹波氷上の柏原に移され,所領も二万石に減封されてしまいました.
柏原は,元々織田信長の弟で四男の信包が伊勢安濃津から秀吉によって三万六千石を拝領し,幕府に安堵された土地でしたが,三代で嫡嗣無く,収公されていた土地でした.
入封の後,信休は直ぐに藩校を設けて文教政策に力を入れ,人の育成に力を注ぎます.
信休が没すると,その子信朝が二代となります.
この頃から柏原織田家は窮乏し始め,藩札を濫発することで,一息入れる様になります.
若くして信朝が卒去すると,今度は信休の三男信旧が兄の養子となって跡を継ぎます.
彼は,吉宗の倹約政策を真似したり,町火消などの整備に力を入れました.
そして,跡を継いだのが,高家の織田家から養子に入った信憑です.
経済は困窮し,しかし,改革は上手く行かず,遂には農民暴動が頻発する様になります.
そんな時,跡を継いだのが信憑の息子,信守です.
先々代の信旧は,信憑を養子にしますが,その後に実子の信応が生まれます.
当然,跡目は信応の方にすべきだったのですが,直前で信応が卒去したので,彼に跡目の座が転がり込んで来た訳です.
彼は,政治に見向きもせず,公費を濫用したり,愛妾を政務に就かせるなと遣りたい放題.
また,信応の子信古がいるにも関わらず,その信古を廃嫡して自分の子を跡目にしようと画策するなど,暗君と言われる典型の様な人で,結果的に家臣が幕閣に訴え,強制的な隠居となりました.
そんなこんなで,跡を継いだ信古ですが,隠居した信守は,隠居で気楽だから江戸で生活したいと言い出します.
しかし,彼を江戸で生活させたりしたら,家の費えが幾らあっても足りない,此処は側室の保野を江戸から呼び寄せるから,それで我慢してくれ,と言う話になって,一端纏まり掛けました.
ところが保野の下女がこれを誤解し,信守と保野が柏原に幽閉されようとしている,と,幕閣に訴え出たからさあ大変.
誤解を解こうと,あちこち走り回り,最終的に誤解は解けた訳ですが,幕閣の裁決は,信守に遠慮,信古は逼塞を命じ,結局,信古も巻き添えを食って隠居となりました.
その跡目は,信守の思惑通り?彼の長男信貞が養子となって跡を継ぎますが,子宝に恵まれず,肥後宇土細川家から養子を迎え,信敬としますが,彼は藩校を作っただけで,若くして卒去し,今度は筑前秋月黒田家から養子を迎えて,信民としますが,彼も教育制度を整えただけで,これまた卒去してしまいます.
最後の藩主は,備中成羽山崎家から次男を養子に迎えた信親で,彼は維新の激動の時代,藩論を勤皇に統一し,官軍に出兵,鳥羽伏見の戦では,官軍方として参戦し,戦死者120名を出しました.
二万石の家としては,結構な損害.
戦後は子爵となり,宮内庁に出仕しています.
ちなみに彼が死んだのは,1927年で78歳まで生きました.
こっちも結構,激動の系譜ですねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月08日21:35
【質問】
「信長公記」執筆者,太田牛一はどのような人物だったのか?
【回答】
ものすごいメモ魔だったそうです.
で,そのメモをカードのように保存して,それを元に『信長公記』を書いたそうなんですね.
この記録の詳しい制作過程は,藤本氏の著書『信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学―』(講談社学術文庫,2003.1)で論じられていますが,そういうわけでして,桶狭間の信憑性が疑われる要素は特にないそうです.
もともと,貴族が日記をまめに書いておりまして,それがその家のかけがえのない財産になったりして,朝廷や幕府に罰せられるときに,所領や官職とともに,日記も没収されている例もございます.
それがこの時代くらいから,武士もまめに日記や記録を残し始めるんですね.
牛一以外では,徳川家康の家臣松平家忠が書いた『家忠日記』というのもあります(最古の将棋の指図が記されている日記).
なお,太田牛一は,特に信長を美化していません.
信長の判断ミスや,伊勢長島一向一揆の鎮圧に際して,一揆製をだまし,裏切って皆殺しにしたこともすべて正直に記しています.
牛一は後に秀吉の家臣となったので,特に信長におもねる必要がなかったからだと思いますが,そういう公平性の意味でも『信長公記』が第1級の史料とされています.
「はむはむの煩悩」,2007年6月22日 (金) 21:48〜21:58
青文字:加筆改修部分
【質問】
秀吉の九州出陣で討ち死した長曾我部信親に嫡男はいたんでしょうか?
【回答】
信親は二十二で戦死したが,娘が一人いただけ.
その娘は信親の弟盛親に嫁ぐ.叔父姪の結婚だ.
五人の男子に恵まれたが,大阪夏の陣後,盛親と共に全員処刑された.
ちなみに,信親の妻は,明智光秀の家臣だった石谷頼辰の娘.
頼辰の義理妹(養父石谷光政の実娘,斉藤利三の義妹でもある)は元親の妻で信親の母だから,義理の従兄弟結婚になる.
日本史板
【質問】
最近の山川の教科書には,秀吉を「尾張の地侍の出身」と書いてあったが,これはちょっと勇み足じゃないのかな?
今までどおり,農民と言ってた方が穏当だと思うが?
【回答】
実父が名字つきで足軽として戦場に出る村長レベルだった,という話はよく聞くが.
確かに下士と農民は差のなかった時代だから,百姓といってもいいのかもしれないが,あれはどちらかといえば平民ウケするための脚色であり,マルクス主義史観の時代,さらに強固にされてしまった認識なだけのように思えてならないよ.
まさに「穏当」な言い方.
いろいろな脚色もあるようだけれど,ティーンのころ信長に仕え,既に清正や正則を部下に従え,注目され,スルスルと清洲城の奉行に出世しているのは事実なのだから,全くハシにも棒にもかからない貧民のわけはない.
いくら実力社会でも,初めの初めは相応の身分でなければ領主信長の近侍にはなれないし,上司の注目を浴びることもできないよ.
実父も継父も,小名主,小庄屋くらいの,一つの荘に発言力のある身分であったろうと考えるのが妥当かと.
何の記録も残らなかったのは,秀吉兄弟以外の後継者はなく,秀吉自身がかなぐり捨てた家門だったからに過ぎないのでは.
【質問】
豊臣秀次って誰?
【回答】
豊臣秀吉の姉・ともの息子で,子供のできなかった秀吉の養子となり,関白職を譲られるなど秀吉の後継者とされていた人物です,秀頼が生まれるまでは.
秀頼誕生後,「自分は邪魔者なのでは?」という猜疑心に駆られ,しばしば奇行をとるようになりました.
そしてとうとう秀次謀反事件(といっても,蒲生氏郷の遺児への会津領相続を勝手に認可しただけ)が起こって,1595年に切腹させられたばかりか,秀次の子女・妻妾39人も京都三条河原で斬首されました.
【関連リンク】
『豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇』
【質問】
豊臣家は滅びたと聞きました.
血筋も絶えたのでしょうか?
また,豊臣姓の人は,いるのでしょうか?
いるなら豊臣秀吉と血縁関係(養子もある?)でしょうか?
【回答】
血筋は秀吉の甥の豊臣秀勝と豊臣秀次の女系で残ってる.
秀吉の女系も一説に残っている.
男系は絶えてる.
生存説や落胤説もあるけど.
秀勝は娘の豊臣完子が公家の九条家に嫁いで,その血は今の皇室にも入ってる(らしい).
秀次は娘2人が秀次事件の粛清を免れたといわれ,ひとりは公家の梅小路家に嫁いだ.
もうひとりは真田幸村の側室になって一男一女がいる.
(ただ,秀次の娘ではないという異説もある).
秀吉の女系は,秀吉の側室の徳子(徳殿)が娘を産んでいたというもの.
徳子の実家川副氏の史料で,その娘は丹羽家の家臣に嫁いだとあるらしい.
日本史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
柳生十兵衛の出身地が奈良って本当?
山田風太郎のイメージで,てっきり兵庫出身だって思ってたけど・・・
【回答】
柳生家の本拠地は,もともと大和国柳生荘だぞ.
爺さんのとき取り上げられていたが,親父の宗矩が関が原の戦いの戦功で再び貰い受けた.
十兵衛はそれから7年後の生まれ.
大和国(奈良県)生まれだといっても,全くおかしくない.
日本史板
兵庫出身と勘違いされたのは,柳生兵庫助と混同されたせいかも.
この柳生兵庫助の兵庫は,兵庫県とは何の関係もないです.
確か漫画の『バガボンド』にも兵庫助が出てたはず.
【質問】
山中鹿之助(幸盛)は尼子家再興のため働き,武士の鏡と言われますが,主君のために忠誠を尽くして働くという武士道は,江戸時代以降のことであり,戦国時代の武士道は,藤堂高虎のように自分の出世や一族郎党の発展のために,主君をたびたび変えたり,生き残るために主君を裏切るのは普通だったと言います.
山中鹿之助は何故,江戸時代以降の武士道のような考えを持つようになったのでしょうか?
【回答】
ではない.
山中鹿助(「鹿之助」は後世の改変)は,尼子をかつて裏切ったこともある.
数度の尼子復興挙兵も.織田勢力を頼んだ領地入手の望みだったと考えるべき.
▼ しかも再興運動当時,毛利に降伏した尼子義久たちは健在で,しかも毛利の監視下にあったので,勝久をかつぎあげたのは忠臣……とはいえないかも.
旧主が危険に晒される恐れが高いのに.
本能寺の変の時.羽柴秀吉はいち早く毛利と和睦をして明智を討ったが,
1578年,山中らの拠城・上月城(城兵3千)が毛利軍3万に包囲される.
秀吉は救援に駆けつけようとしたが,三木城の別所氏が織田に背いたため,そちらに集中しなくてはならなくなり,動きがとれない.
そこで秀吉は信長に助けを求めたが,信長は上杉謙信や石山本願寺の攻勢に備えるため,秀吉に対して
「三木城攻めに専念せよ」
と命令.
この時点で中国地方の反毛利独立勢力は,秀吉に見捨てられた.▲
その為,見捨てられた山中鹿助の最後が,殊更に悲劇的に見えるようになってしまった.
これは山中鹿助自身も意図していなかったことであった.
日本史板
&蒼野青 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分
【関連リンク】
山中鹿之助は忠臣か?(忠臣説の側に立つページ)
◆◆武田信玄関連
【質問】
これまで武田信玄とされてきた長谷川等伯筆の肖像画(下画像)は,実は信玄のものではないというのは本当か?

【回答】
河合敦によれば,賛否あって決着を見ていないという.
例えば藤本正行は,
・この肖像画が信玄を描いたものだという確かな史料はないこと
・太刀の目釘や笄(こうがい)の家紋が「二つ引両(ひきりょう)」であること
・長谷川等伯は戦国時代には能登で活躍していたこと
から,能登畠山一族のものではないかとしている.
しかし,信玄説を唱える人々も少なくないという.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.60-62を参照されたし.
【質問】
武田信虎追放は信玄主導だったのか?
【回答】
河合敦によれば,板垣信方・飯富虎昌ら武田家重臣主導の反乱だったという見方が強くなっているという.
甲斐は国人(重臣)層の自立性が非常に強く,信虎が集権化を推進すると共に,周辺諸国との大きな合戦を繰り返したため,国人層の反発を受けたのだという.
事実,後を継いだ信玄は,投書奨励によって家中の不満を和らげようとすると共に,多数の間諜を領内に放ち,重臣反乱を察知できるようにしていた.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.63-65を参照されたし.
【質問】
高坂昌信とは?
【回答】
武田信玄,武田勝頼の2代に仕えた戦国武将で,武田四名臣の一人に数えられます.
小岩岳城攻略戦では一番乗りの功績を挙げ,第4次川中島の戦いでは,妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ,他にも三方ヶ原の戦いなど武田氏の主だった戦いに参戦していますが,長篠の戦の折には海津城の城代として,越後方面の守備に当たっていました.
ちなみに信玄が昌信に送ったラブレター(というか,浮気の弁明状)が現存していることでも知られています.

【質問】
山本勘助は実在した人物なの?
【回答】
昭和44年に発見された市川文書によって,山本勘助(山本管助)の実在は確認された,と考える人は多い。
・信玄の名代として出向いてるので,それなりの地位にいた武将だったという説、
・後世の甲陽軍鑑によって過大に喧伝されただけで,並みの武将だったという説、
・いや,諜報謀略が主任務だったので,表立っての記録が残されにくい立場だったという説、
・いやいや,当時の武田家は譜代の合議制だったので,余所者の山本勘助には発言権はなかったという説、
・いやいやいや,当時の軍師は吉凶を占う陰陽師的な側面があり,アドバイザー的な立場で影響力があったという説、
いろいろあるようだが。
架空人物説を説く奥野高広を除けば、管見では、「市河文書」の「山本管助」=「山本勘助」にはっきりと疑義をはさんでいるのは、笹本正治だけ。
あとは殆どが,「市河文書」で山本勘助実在!と大して検証もせずに決めつけてしまっている。
たぶん、「市河文書」に出てくる山本管助は軍師山本勘助のモデルだろう。それはいい。
甲斐武田家臣に山本一族がいたこともほぼ確実だ。
だが現在のところ、実在が確認されているのは山本管助であって、山本勘助ではない。※
ここははっきりすべきであろう。
当の山本管助は,弘治年間と推定される「市河文書」の中に登場したきり、その消息は知れない。
実在したと言われる勘助は軍師ではなく,足軽大将だったんだと考えられている.
「勘助=名軍師」という俗説ができたのは江戸期.
家康は,武田遺臣を召抱えたり信玄の真似をしたりと信玄贔屓だったからそういう武田マンセー土壌が出来ていたんだな.
が,明治になったら「甲州流兵法はウソっぱち」となり勘助は否定され,そのあおりで勘助の存在自体も否定視されるようになった.
【参考サイト】
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x105.html
※
ただ,当時は通称は当て字が当たり前だったため,大方の研究者は「管助」「勘助」の文字の違いには問題を感じていません.
現代の日本では発音が同一でも文字が異なれば別人と考えてよいのですが,明治以前にはそうではありませんでした.
ことに字(あざな)=通称の場合発音さえあっていれば,あとはどの字を当ててもオーケーでした.(諱(いみな)の場合はどの文字を使うか重視されますが)
おそらく私が長々と書くより「武士の名前」でgoogle検索してみていただくのが早いと思います)
それを承知した上で市川文書の「山本管助」との記述に疑念を呈しているのが本項目の
「だが現在のところ,実在が確認されているのは山本管助であって,山本勘助ではない」
との記載のあるリンク先であり,それに対して大方の研究者は,それはおかしいことでも何でもないと考えています.
【質問】
武田騎馬軍団は史実では存在しなかったって本当?
【回答】
当時の戦国大名の兵力動員の形態から考えて,なかったか,あったとしても小規模と考えたほうが自然だという.
以下引用.
戦国時代のテレビや映画では,無敵の武田騎馬軍団等と言っているのがあります.
しかし本当は戦国の武田家には,騎馬軍団がいませんでした.
「戦国合戦本当はこうだった」(藤本正行著 洋泉社)では,戦国大名の兵士は家臣がその知行地から,騎馬武者1人,長柄鑓持ち,持ち鑓5人,弓何人,鉄砲1人,旗持ち・手明何人などと各村から農民を集めて兵士にします.
この場合騎馬武者は,多くは指揮者などの上級兵士が多かった.
当然騎馬武者だけを集めて,集団生活や訓練などは出来ません.
訓練などは知行地ごとの,いわば各村ごとにしか出来ないはずです.
当然のことながら,騎馬軍団を造れなかったわけです.
おおよそ騎馬武者一人に付き,7人〜10人の歩兵が一つの基本単位となって,行動しています.
その騎馬武者の割合も,上杉家等他家と比較しても,武田家が特別高い割合でもなかったことを考えると,やはり武田騎馬軍団は存在していなかったことになります.
http://homepage3.nifty.com/k-haruaki/koborehanasi.htm
したがって,あったとしてもそれほどたいした規模ではなかったと考えられる.
騎馬を大量に養うには,非常にコストがかかるし.
特に戦国日本式の騎馬養成は大変.
「武田騎馬軍団」は宣伝戦の威力もありだよ.
んで,騎馬の突撃衝力というのは,多分にイメージに支えられるところが大きい.
「あんな大きな動物が大挙してこっちに突撃してくる!」という威圧力だね.
武田家では,宣伝戦で敵方に培われた「騎馬軍団」のイメージを有効に活かすため,突撃の際には馬から下りる,ということまでやっている.
【質問】
信玄死後,武田が滅亡してしまったのは何故か?
【回答】
河合敦によれば,勝頼の領国経営の失敗だという.
甲斐は国人(重臣)層の自立性が非常に強いにも関わらず,勝頼は集権化を推進して重臣の離反を招いた.
また,勝頼は強引な力攻めを好み,そのために長篠の戦いで大敗を喫した.
さらに,武田家中の情報収集も怠ったため,重臣反乱も察知できなかったのだという.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.67-68を参照されたし.
◆◆徳川家康関連
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 三河編 【1〜3話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 中央編 【4〜5話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 中央編 【4〜5話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 中央編 【6話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 覇王編 【第7話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 覇王編 【第8話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 愛憎編 【第9話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 愛憎編 【第10話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 落日編 【第11話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 夢幻編 【第12話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 日輪編 【第13話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 争奪編 【第14話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 争奪編 【第15話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 対決編 【第16話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 艱難編 【第18話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 統一編 【第19話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 衰退編 【第22話】
「あんそく」>やる夫が徳川家康になるようです 行軍編 【第24話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 関が原編 【第25話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 始末編 【第26話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 開府編 【第27話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 日蝕編 【第28話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 琉球編
【第29話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 老若編 【第30話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第1話〜第5話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第6話〜第10話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第11話〜第15話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第21話〜第23話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第24話〜第26話】
【質問】
なぜ松平家康は「徳川」と名字を改めたのでしょう? 必然性,改めた経緯など教えてください.
【回答】
栄禄7年,松平家康は目出度く三河統一を果たします.
足利幕府によって承認はされましたが,周囲はご存知の通り名門だらけ.そこで彼らに対抗し正統な支配者であることを内外に知らしめる為に,三河守護職に任じて欲しい,と朝廷に申請しました.
しかし,断られました.氏素性がはっきりしなかったためです.
そこで家康は,吉田兼右に献金し奔走してもらいました.
吉田は萬里小路家の古い記録から,
「元は源氏で途中で藤氏を名乗った」
などの論を構築して纏め,近衛前久を経て朝廷に提出,永禄9年,従五位下三河守に任じられました.
このように,
・徳川の名字を名乗るときに,惣領家として松平一門内での差別化(松平全体からすると,実は嫡流ではない),
・源氏として武門の家を正式に自称すること,
・三河一国の正式な支配者であること,
・それを周辺諸国へアピールする
などを同時に行うという,非常に重要な意味があったのです.
【質問】
徳川家臣団は,家康への忠誠心は強かったのか?
【回答】
河合敦によれば,むしろ平然と主君を見限る傾向が強かったという.
・1563年の三河一向一揆では,徳川家の重臣の多くが一揆勢に加担し,家康を窮地に立たせていること
・1572年の三方原での敗戦後,大久保忠世(ただよ)は「殿が糞を漏らして逃げてきたぞ」と家康を嘲笑したこと
・1579年,家康の妻子が武田に内通していると信長から疑われた際,信長に問いただされた酒井忠次はこれを肯定し,家康は妻子を死に追いやらなければならなくなったこと
・1585年には石川数正始め,数名の重臣が,家康を見捨てて秀吉のもとに走っていること
を,彼はその根拠に上げている.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.184-185を参照されたし.
ただしこれについては,ちょっとばっかし因果関係に飛躍がある上,原因についても疑問がありますので,ちょっと思うところを.
>・1563年の三河一向一揆では,徳川家の重臣の
>多くが一揆勢に加担し,家康を窮地に立たせていること
事実一向宗側についた武士が多いのは事実ですが,家康の姿を見た武士たちが恥ずかしがって逃げ出したという美談も伝わっている上,乱の後,かなりの数の家臣団が帰参しています.
“平然と”見捨てたというのはどうかと(家康が危なかったのは事実ですが).
本気で彼らが家康を見限っていれば,後の家康の腹心である本多正信のように,各地に渡って奉公先を探しても良かったわけですし.
>・1572年の三方原での敗戦後,大久保忠世(ただよ)は
>「殿が糞を漏らして逃げてきたぞ」と家康を嘲笑したこと
だから何?ってレベルなんですよね…
戦国時代はまだ江戸時代みたいな窮屈な身分制・儀礼至上主義社会だったわけじゃなし,これをもって忠誠心が低かったといわれても.
このあと大久保忠世が家康の寝首を掻いたとか言うなら,まさに表題のとおりなのですが,むしろ彼は武田方に夜襲を仕掛けて面目を施したというくらいですし.
付け加えれば,このとき数人の武士(そのうち一人は一向一揆で裏切った武士)が家康を逃がすために身代わりになって討ち死にしていますし,三方ケ原はむしろ「精忠家康家臣団ここにあり」という戦です.
>・1579年,家康の妻子が武田に内通していると
>信長から疑われた際,信長に問いただされた
>酒井忠次はこれを肯定し,家康は妻子を死に
>追いやらなければならなくなったこと
信康・築山殿については家康との不仲説や謀反説もあり,信康の死については古今さまざまにいわれています.
積極的に家康が信康を殺したという異説も存在していますし,これをもって忠誠心云々するのは(今の段階では)不適切のように思います.
小説家・池波正太郎なんかは
「あのころの家康は,三方原を見れば分るように,むしろ血気盛んな男だ,
信長がスジの通ってないことを言えば,信長と同盟を破約してでも断っただろう」
といってました.私もそんな気がします.
>・1585年には石川数正始め,数名の重臣が,家康を見捨てて秀吉のもとに走っていること
これのみ当を得ているかとおもいます.
当時の家康は反秀吉勢力を糾合し,北条とも手を組んでがっちり闘う構えだったわけですから.
でも「あっさり」か…? 私としてはむしろ秀吉の調略の手腕を誉めたいところ.
……とこんな具合です.
家康は信長型の絶対的な尊敬と畏怖を持って使えられる君臨者でもありませんでしたし,家康の家臣団は一枚板ではありませんでした.
裏切り者もありました,
家中不和もありました.
武功派と文治派は幾度となく争っています.
ですが,それをもって家康の家臣団は主君をあっさり見捨てるような集団なんだ,と言う結論は針小棒大といわざるをえないのではないでしょうか.
そんなん言ったら信長家臣団のほうがやばいです(笑).
裏切るわ(荒木村重,松永久秀),命令に逆らうわ(秀吉の越前からの勝手な撤兵),跡目はあっさり無視されるわ,家老筋の大将は陰口叩くわ――佐久間信盛が叱責を受けた時に,「そんなこと言ったってわしらがおらねば何ともならないでしょう」,とゆーよーなことを言ってさらに怒りを買ってる――,大体若いころなんて柴田勝家は信長を殺そうとしてますよ!
世に伝わる話の逆接を考えるのは面白いのですが,事実としては戦国時代の家臣団の中では,徳川家はまとまりが良かったほうじゃないんでしょうかねえ.
【質問】
石川数正にしても,対秀吉政策の対立で居られなくなったってところでは?
主戦論が幅を利かせている(引っ込みがつかなくなっているともいう)状況で,融和を唱えるのも苦しくなったのでは.
数正が出奔したおかげで「数正のせいで軍事機密が漏れた,これでは戦えない」と鉾を収める理由付けになったという説もあります.
徳川の天下になって以降も特に報復はされてませんし.
(息子たちが大久保長安事件に連座して改易されているので,それが報復かもしれませんが)
【回答】
>主戦論が幅を利かせている
この時もある種,武功派vs文治派ですね(笑).
そう言う隙間につけ込んで口説き落とすのが,秀吉の人たらしの名手たる所以かなあと.
しかしそう考えると,間接的に秀吉を“勝たせた”本多忠勝・榊原康政なんてのは,とんでもない奸臣ですな(苦笑)
>数正のせいで軍事機密が漏れた
この話では,武田流(甲州流)に慌てて軍制を改めたことが有名ですね.
>徳川の天下になって以降も特に報復はされてませんし
一度よそに行ったからしょうがないんですが,真田信之でも準譜代なのに外様格にされたのは,遠まわしな報復かなあと思ってます.
あの執念深いタヌキジジイがそうそう恨みを忘れるとも思えませんし.
【質問】
『家康に過ぎたるものが二つあり.
唐の頭に本多平八』
の「唐の頭」とは何のことですか?
【回答】
これ
http://www.kozando.co.jp/catarog/sekigahara/heihachi.htm
幕末期に官軍が付けたのでも有名な,ヤクの毛でできた兜飾り.
染めた色別に黒熊(こぐま),赭熊(赤熊,しゃぐま),白熊(はぐま)と言う.
当然舶来品.中国四川省やチベット産.
戦国時代に流行りだし,家康は難破した南蛮船から相当数かっぱらったという話もあり(あとで賠償している). だからこそ「家康に過ぎたるもの」と呼ばれたりした.
で,これは幕府内でストックされていたのだが,明治維新のさい,それを官軍は鹵獲(かっぱらい)して上野戦争以降で使い出した.
上記の色別にそれぞれ薩摩,土佐,長州軍が使い分けしている.
尤も,南蛮船がくる少し前の享禄三(1530)年に龍造寺家兼が大内との合戦でピンチになったとき,突如,鍋島清久親子率いる赤装束の赤熊武者百騎が現れ,大内勢をコテンパンにしたという話あり.
南蛮船渡来以前から流行だしたということかな.
余談だが,家兼いたく感激して孫娘を清久の次男清房に娶らせ,龍造寺と鍋島の姻戚関係成立.
のちに龍造寺の家督をゲットする鍋島直茂は,この夫婦の子.
【質問】
家康の死因について質問です。
・天ぷらで胃もたれを起こして死んだ
・天ぷらを胃もたれを起こしたので、自分で調合した薬を飲んだら死んでしまった
・海老天ぷらの海老の尻尾が喉に刺さって死んだ
と色々聞いた事があるんですが、本当の死因は何ですか?
【回答】
鯛の天麩羅以前に、すでに胃がんだった。
残された記録から見て、胃ガンだったのは確かで,食あたりが死因ではない。
無理して大坂の陣を起こして豊臣家を滅亡に追い込んだのも、自分の死期を予感してたからだろうな。
豊臣家を滅ぼして気が緩んだのか、1616年に死んじゃってるわけだし。
当時は亀腹と呼ばれる胃ガンがかなり多かったようで、伊達政宗も胃ガン。
ちなみに、江戸時代の人間が朝鮮人参を異常に珍重したのは、家康が珍重したせい。
家康の場合、関ヶ原後に3人も子供を成したため、また,当時としては長命だったため、回春剤としての効能も含め,庶民に朝鮮人参幻想が生まれたようだね。
家康が自分で調剤してたのは有名だけど、この時はちゃんと医者が薬を投与している。
それよりも、吉田梵舜が家康倒れるの報を受けてから、家康呪殺の堂籠りをしてることの方が、興味をそそられるね。豊国廟を破壊された怨みなんだろうが、実際には家康にも吉田神道の教えを授けてるわけだから、面従腹背ってやつか。
◆◆山内一豊関連
【質問】
大河ドラマ「功名が辻」で武田鉄矢とかやってる,山内家の最初の家来の二人は,実在した人物?
幕末まで子孫は残ってる?
【回答】
実在の人物だよん.
「山内家史料休夢覚書」によると
・弘治3年7月12日,山内氏の住む黒田城は、敵の夜襲に遭い兄十郎は討死,父盛豊も負傷した
・13歳の一豊は,家臣の祖父江道印の案内で屋敷の隠窓を破って外に出て土居の藪の竹を切って堀に橋を掛け城を脱出して岩倉城の織田信安のもとにのがれた.
とあるよん.
つまり,祖父江道印は実在の人物ってことだね.
また,山内入国後の宿毛領の領主として祖父江志摩次郎兵衛がいるよん.
・柏島1000石を与えられ柏島守護となったこと
・祖父江志摩は,山内一豊が幼少の頃尾州黒田城でその危難を助けた祖父江道印の子であること
・祖父江志摩は柏島で22年間生活し,元和9年に68歳で没したこと
・島民はその徳を慕って,毎年旧盆に祖父江志摩の墓前で「志摩さん踊り」を奉納していること
は「宿毛市史」にも残ってるよん.
木曽川町史では,
・祖父江家は,現在の中島郡祖父江町の出身で,盛豊の妻の縁者で黒田城の井戸番蔵番を勤めた盛豊が左腕と頼む有力家臣
・現在も木曽川町の電話帳には「祖父江」は約50軒程度,掲載されている
でもって,幕末土佐藩の司令官の1人,祖父江鷹衛は祖父江の子孫.他にもう1人,祖父江がいるけど,彼もそうだよん.
五島は,五藤主計が幕末に家老をしているよん.
木曽川町史では,
・一豊の父盛豊が尾張へ来た時のこと,長良川郷戸の渡しの渡船の船中で,五藤三郎左衛門浄基が盛豊の人柄にほれ込み臣従し仕えた
・「功名が辻」のは五藤吉兵衛で浄基の子ども
・五藤家は当時黒田近辺の豪族で,岩倉織田家に仕えた有力者
・「五藤」も電話帳で約200軒程度確認可能
愛知県一宮市(旧・木曽川町)の山内家菩提寺・法蓮寺に行けば,
山内家の墓と並んで五藤家や祖父江家の墓もあるよん.
山内家の譜代中の譜代だぁね.
【質問】
一豊の妻,千代の出生地ってはっきり分かってたっけ?
【回答】
千代の出生地は,郡上市の八幡城城主・遠藤盛数の娘という説のほか,近江
(滋賀県)浅井氏の家臣である若宮友興氏の娘とする説などいろいろある.
いずれも系図や寺の過去帳の記載などを根拠にしており,一定の信頼性はあるといわれているが,出生地を確定するまでには至ってないのが現状.
ちなみに司馬遼太郎の「功名が辻」は,若宮氏説をベースにしている.
【質問】
山内一豊譚は戦国の出世物語扱いされているが,オレなら僻地の土佐24万石より東海道沿いの掛川5万石の方がいいな.
土佐転封は,実は体のいい左遷じゃないか?
【回答】
単に東海道は譜代,外様は遠方の地のルールが適用されただけで,「左遷」ではない.
ただ,一豊入封時の土佐藩は,超ド級の貧乏でありますた.
さらに,慶長十一年に一豊が死去した後,それに追い討ちを掛けるように幕府から度重なる課役負担を強いられ,藩財政は困窮を極めておりますた.
当初,それに必要な資金を大阪の商人から調達しつつ自転車操業しておりますたが,その後間もなく元和七年頃,藩財政は破綻寸前まで逝っちゃいますた.
土佐藩が物産として本格的に自藩領の木材に着目し始めたのは,一豊死後約二〇年.
それによって藩財政が潤うのは,一豊死後三〇年近く経ってからでありまつ.
元和八年,こんな財政状態ではいかん,と大慌てで山から檜を切り出し,大阪民間市場へ廻送し続けた結果,一豊入封以来ここで初めて藩財政の建て直しに成功したのでつ.
しかし,民間需要分の伐採に加え,寛永始めの大阪城と二条城普請時に膨大な数の土佐檜を乱伐し献上し続けたから土佐の檜山は禿山となり,急遽民間に対し木材伐採の規制を設け,藩をあげて造林に励み出すのでありまつ.
【珍説】
山内一豊は土佐長宗我部の一領具足たちをだまし討ちして虐殺した悪人だ!
【事実】
原作の司馬氏は,長宗我部氏や郷士階級の出身である坂本龍馬を題材にした小説も書いていることから,土佐入国後の一豊に関しては批判的です.
ただし,一豊と同様に統治が難しい領地を与えられた結果,その統治に失敗して改易された外様大名がいたことを考えると,やむを得ない部分もある,としています.
また,半農半兵という一領具足の特色が,兵農分離という時代の流れと衝突したことも,こうした悲劇の一因といえます.
当時(1600〜1601年)はまだ混乱しており,そうしたことは日常茶飯事なんですけどね(^^;
どちらの立場に立つかによって,ものの見方は変わってしまいます.
こうした歴史的事実の,一点のみをとらえてどちらかを一方的に非難することは,無益であるばかりでなく,正直言ってうざいです.
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